ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年06月

 
  癌的献身
 
 からだと心のがん検診
 「その名は不思議」ブログ by shalom ←ずっと批判します
 2017/6/29(木) 午後 3:18
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28149937.html
 
 
この記事は、おそらく、転載か引用記事だと思いますが、どこから、彼シャロームの記事なのか、分からなくしてあるようです。何故かというと、バレないように、ということでしょうが、彼の企みはバレバレです。
 
>というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、
>どんな両刃の剣よりも鋭く、
>精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、
>心の思いや考えを見分けることができるからです。
>更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、
>すべてのものが神の目には裸であり、
>さらけ出されているのです。
>この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
>(新約・ヘブル人への手紙4章12~14節)
 
これを無視してきたのが、彼シャローム氏です。彼は、悔い改めることを知りません。神の前に正直な者が、人の前に白々しく嘘を吐き続けることは出来ないはずですから。彼が、告白と悔い改めの記事を載せても、彼は、白々しい嘘と隠し事に生きているので、その祈りそのものが嘘です。こういうふうに、人に対する態度は、ある程度、神に対する態度を反映します。
 
>ある時、私が信仰生活に疲れましたと書いたのですが、
>ある方が長い間牧師をしていた者が、
>しかもブログでは信仰深い言葉を書き連ねながら、
>信仰生活に疲れるわけを訝られるようなコメントと励ましの言葉をいただきました。
 
疲れを知らず、信仰深いかのような言葉を書き連ね、その実、嘘ばかりの彼シャローム氏です。
 
>福音はその言葉が意味しているように、“喜びのおとずれ”に他なりませんが、
>それは人には不治の病である罪というがん細胞を切除する両刃のメスのように
>鋭く私たちの心を切り裂くもののようです。
 
いつも信仰については、美味しいことしか言わないのに、打って変わって、ひどく厳しいことを書いています。ここから癌の話がしばらく続くのですが、誰の癌か、彼は、バレないように、言いません。しかしそれは、読む側にとって、全く問題ではありません。すでに、深いところで、彼の裏切りと背教と偽善は進行してきたのです。
 
神が人を見るに、メスよりも鋭い、ということは、キリストの言行に表れています。見ることの全能は、裁くことの全能であり、いかなる嘘も偽善も、神は見逃しません。しかし、正直に対しては、罪をも赦される神だと、私は受け取っています。
 
(便が黒くなったので癌の精密検査を受けたら癌ではなかったという話、引用省略。)
 
>長い間牧師をしたり、何事もなさそうにブログを書いていても、
>元気そうにしていても、病気に侵されていることに気づかずに
>生活し、生きているのが私たちです。
 
指摘されても、分からないのが、彼シャローム氏です。
 
>あるお医者さんが他の人の病気を治す仕事をしながら、
>自分のからだが深刻な病気に侵されていることに気づくことができないように
>牧師も自分の心が病気に侵されていることに気づかない場合があります。
 
彼シャローム氏の場合は、彼の生業は偽善で人を騙すことだったのに、そのことに、信仰の病理と妄想によって、気づかないでいることです。自分を見つめる内省という機能が彼にはありません。そういう記事を書いたことがありません。いつも他者へのボロクソと、神へのお世辞だけなのです。
 
>お医者さんにも、牧師にも病気のサインは度々あるのですが、
>聖書の話をしたり、悩みごとの相談にのったり、祈ったりしながら、
>人の病気を診断したり、薬を処方したり、メスをふるうことに馴れてしまい、
>つい自分の病気に向き合うこと、気づくことを避けてしまうこともあるのです。
 
彼シャローム氏の場合は、証拠を見せても無視するので、癌より重病かもしれません。しかも、人を巻き添えにします。彼のブログを読む人は気をつけてください。
 
>私の場合は自分の心の中にあるのは人に対する恐れ、不信です。
 
その反発として生まれた、訂正不能の、上から目線です。
 
>それは私の過去の歩みによって、私自身が自分を守る為に築いた
>心の要塞、着込んだ鎧のようなもののようです。
>心の要塞・鎧を良いもののようにカムフラージュする為に、
>さまざまな防衛機制を身につけ、自分を心の不安や恐れ、不信を隠し、
>他の人との関係を取り繕うために、牧師を演じている自分もあるのです。
 
だから、癌よりも重病なのです。肉体の命よりも大事なものを奪うからです。彼の演技は、ダイレクトに偽善となって、他者を蝕んで致命的な方向へ誘うものです。悔い改めもないのですから、受け入れられることなど、永遠にないでしょう。
 
この文章を悔い改めと受け取らないでください。悔い改めも書いた、と彼に言わせないでください。ここに書かれた、告解の切実さのない、他人事のような空々しさは、そのあとの正当化を見れば明らかなのです。
 
彼シャローム氏の、実に卑猥な筆致であるところの、人の筆を借りたり、一般論にしたりして、自分の責任を逃れようとする意図、知ってください。もうどこにも逃げようのないことだということを、彼は、まだ知らないようです。
 
>しかし、そういう私のことを知りぬいておられ、愛しておられる
>生ける神の深い憐れみによって、私のあるがままを赦し、受け容れられ、
>私の生き方、今日があるのですが、
>今も、私の生活の中で、いつも私の心の深みに手をふれて下さり、
>新たな生ける神との出会いと交わりへと導き入れ、
>私を生きるようにしてくださっているのです。
 
ここで、また、このように、自分のハッピーエンドを描いて見せます。彼の罪と偽善のすべてを隠蔽したうえでの発言だということを覚えてください。あるがまま、ということを、前にも書いていましたが、罪を悔い改めないまま、という好都合にすり替えようとする彼の詭弁です。
 
怖いです。神は自分の悪行を知り抜いたうえで自分を愛している、と書いています。ここに、自分が何をしても、神は罪を問わず、自分を愛して愛してやまないのだ、という極めて気色の悪い被愛妄想と身勝手な無罪妄想が書かれていること、人であっても見逃さないでください。神はご自身の前に偽る者を決して見逃さず裁くことは、聖書を見れば明らかなのです。彼は言われているのです、門口に待っている罪を支配するつもりかと、そして、そのあと、カインはアベルを殺しました。
 
こういう白々しいことを平気でする彼の幸福は、他者の不幸の上に立っています。カルト教祖と同じです。彼は、他者の金ではなく、彼の丁寧語と聖書語の偽善によって、自分の満悦のために、他者の大切な心の健康と命を奪ってきたのです。加害者としての自分を考えることが一切できない、うなじの硬い偽善者の宿命なのでしょうか。
 
>「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを
>生きるようにして下さった。
>それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
>わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、
>わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。
>ここに愛がある。」
>(新約・ヨハネの第一の手紙4章9~10節)
 
こういう聖句は、彼シャローム氏の手にかかると、だから自分は神を愛さなくていい、好きなように偽善を働き罪を犯しても、罪は悔い改めなくても赦されているから、安心だ、という妄想解釈によって、酔って、酔い痴れる彼の、癌よりも恐ろしい悪性の病巣を見せることになります。
 
>神の平安がありますように!
 
世界で一番聞きたくないのは、偽善者が偽善によって吐き出す讃美の言葉と、祈りでも願いでもない既遂の慢心から読者に向ける廃油の垂れ流しです。
 
 
(2017年06月30日、同日一部修正)
 
酔い痴れる(よいしれる)
 
 
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  弱さを装う者
 
 その名は不思議 管理人:shalom ←ずっと批判します。
 タイトル:強い時こそ弱く、弱い時にこそ強い!
 2017/6/28(水) 午前 10:35
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28148419.html
 
 
彼シャローム氏という人は、批判者の神経を逆なですることに快感を覚えるのでしょうか。彼は、記事タイトルに、真っ向から反する人です。彼は、弱さを装う人です。強い時には高みから教え、弱みを一度も見せたことがありません。弱みを見せることを何よりも嫌う人です。だから、非を認めたことがありません。罪を認めたことがありません。偽善を認めたことがありません。
 
そして、思い付きで、無罪妄想や、善悪判断放棄妄想を、信仰として語ります。弱さがない傲慢から、思い付きで語るのです。しかも、その傲慢を、丁寧語の慇懃無礼で隠します。聖書語の言葉面を並べてキリスト者らしい熱心さをアピールします。全部、弱さがないから、慎重さも敬虔もなく、ゆえに、ことごとく詭弁の矛盾に帰結してゆくのです。その厚かましく、いつも人を上から見下ろすような正体を隠した、サディスティックな精神から、いったい何を神に祈っているのか、空恐ろしい限りです。
 
>今日は人間関係が難しい時代です。
>学歴があってもなくても、お金があってもなくても、
>多くの人が身近な人との関係で傷つき、辛い思いをしています。
>ですから、親しみやすい人、話しやすい人が求められている時代です。
>そのせいか、そのような多くの落語家や芸能人がテレビで活躍しています。
>わたしたちはその真似をする必要はありませんが、
>愛、喜び、平安などの神のいのちの表れである御霊の実をもっている人は、
>誰もが関係をもちやすい、近づきやすい人と言えます。
>そういう人とお付き合いをし、友だちになりたいと思いませんか。
>人との信頼関係がもちやすい人ですし、人との深い関係をもてる人です。
 
まるで、思考も議論も停止して、真実などどうでもいいから、気持ちよくなるために、社交のお付き合いを勧めているような文章です。信仰を落語に落とすつもりかとさえ思います。
 
信仰の真実について、重要なことがあります。政治の世界は正しさを求めて、論争もするのでしょう。しかしながら、信仰は、正しさは究極的に神に帰することであるという合意の下で、正しさを求めて論争すること自体が、神については空しい議論ということになります。
 
では、何を私は書いているのでしょう。私は、意見の異なるキリスト者を相手にして、自分のほうが正しいと主張しているのではありません。その言動から、どう考えてもキリスト者とは思えない彼シャローム氏を批判し、彼の考えは改まらないようなので、辛らつに批判し、最近では、むしろ、他の読者であるキリスト者と求道者に向けて、彼シャローム氏の矛盾と詭弁と罪と偽善と悪を指摘することで、キリスト信仰とは思えない彼の妄想に巻き込まれないでくださいと警鐘を鳴らしているのです。
 
>さて、パウロという人は、この神のいのちを意識していた人でした。
>ですから、彼の書いた手紙の中にはあちこちにその様子を垣間見ることが出来ます。
>少し前にも紹介しましたパウロのコリント人への第2の手紙の中から
>もう少し見ていきます。
>パウロは、どうやらコリントの教会のあるクリスチャンたちに、
>「あの人は面と向かっては弱腰だけど、離れていると強気の態度に出る人だ」と
>思われていたようです。しかし、そのことを知ったうえでも、
>パウロは自分のうちにおられるキリストの柔和と寛容という
>いのちの実を意識していました。
>自分のことをそのように批判的に見ているコリントのクリスチャンたちに対して、
>このように言っています。
 
この場合、パウロを批判するというのは、批判というよりも、うるさがっている状況ではなかったかと推察します。このように、キリスト教における批判禁忌という不文律には、悪口と批判を混同しているところがあるので、また、シャローム氏は、私を荒らしだと決めつけたこともあるので、根拠のない悪口と、根拠を示している批判を分け、決して批判を禁忌とはしないことを明言します。
 
シャローム氏が、私を荒らしとして扱うのは、彼は、彼の妄想について、それは信仰であるという根拠を何も示してこなかったから、経過として、彼は妄想家であって、キリスト者ではない、という暫定的結論を向けていることを逆恨みしているからです。それに彼は、何の反論も弁明もできないのに、今も、全く変わらず、おかしな記事を、信仰についても、最近は政治についても、載せ続けているのです。
 
彼は、ほっといてくれ、と言いたそうですが、人の命の有無にかかわる信仰について、そういう態度をとること自体が、既に、キリスト者たる資格を放棄していることになります。弱さを意地の悪さに代え、強制力でコメント削除しておいて、その証拠を隠すという隠ぺいに代えて、ひたすら、読者を騙して、保身に走っています。
 
>2コリント10:1
>私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。(新改訳)
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
10:1
さて、「あなたがたの間にいて面と向かってはおとなしいが、離れていると、気が強くなる」このパウロが、キリストの優しさ、寛大さをもって、あなたがたに勧める。
10:2
わたしたちを肉に従って歩いているかのように思っている人々に対しては、わたしは勇敢に行動するつもりであるが、あなたがたの所では、どうか、そのような思いきったことをしないですむようでありたい。
10:3
わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。
10:4
わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、
10:5
神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、
10:6
そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。
 (2コリント10:1-8、新約聖書)
 
彼シャローム氏は、穏やかに言えば、穏やかに、はぐらかし、ときに、理由のない、呆れるほどバカ丁寧な誉め言葉を向けてきました。それでは、中身がなく、話が通じなければ、経過にも結論にもならず、話が進まないので、突っ込み続けていたのです。
 
そうして、彼は、弁明の代わりに、結局、コメント削除、コメント欄廃止、という強制力の中に閉じこもって、自分を守ろうとし、にもかかわらず、遠慮もなく、言いたいことだけは、大仰に言い張り続けているのです。引用のパウロとは全然違う卑怯さも傲慢も底意地の悪さも批判の理由です。誰も好意的に関わって巻き込まれることがあってはならないと思うので、批判を続けます。
 
>《shalomのコメント》
 
>日本人にとって宗教は人と人とをつなぐ絆のようです。
>絆といえばよい方に思われますが、鎖とも言うことができます。
>民主主義は育ちにくい土壌でしょうか。
 
このように信仰を政治と同じように語れると思っていることが明らかになっています。なお、何度も書いてきましたが、彼は民主主義者ではありません。批判を許容せず、反論できなくなると、強制力に訴えて批判を排除するような、利己的な権威主義者です。信仰の基本的なことを全く理解していないから、批判し続けています。彼がいくらキリスト信仰を主張しても、彼はキリスト者ではありません。牧師ではありません。
 
今まで、侮辱や隠蔽や偽善や偽装など、人間とも思えない白々しい悪行をを平気で働いてきました。仏教系や哲学系の人や求道者や信仰者に対する余罪が過去に多数あっただろうという推測もしています。彼シャローム氏のような考えでは、普通に交流を持ち、伝道を続けることは、丁寧語で騙して権威的に裁かない限り、どう考えても出来ないと思われるからです。
 
>「神のいのちの表れである御霊の実をもっている人は、
>誰もが関係をもちやすい、近づきやすい人」と本文には書かれていますが、
>教会は暖かく、居心地の良さを感じる人が多いようですが・・・
 
居心地がよいのは、彼シャローム氏にとってだけでしょう。彼は自分の気持ち良さしか考えていない、と思われる自己中心が、文章に長く長く表れてきました。彼は、不感不応不変の妄想信念によって訂正不能で、人の気持ちが分からないから、人の意見を受けて考えて反応して書くということが出来ないので、人への思いやりも出来ないと思っています。あるのは、嫌らしい丁寧さだけです。一見、慣れない人には、普通に穏やかに思えるような、この記事のように。
 
こういう人が、教会にいると、しかも牧師であると、批判せず、逆らわず、丁寧語に相槌を打つのが、信徒の習慣にもなるだろうと推測されます。ここネットの言論では通用しません。馬脚も化けの皮も現れてきました。
 
>イエスさまのところにもいつもたくさんの人が群がり集まってきました。
>そして、この方こそ、神が約束された救い主に違いないと信じたのです。
>ところが、イエスさまは人々の期待、願いを裏切られました。
>するとイエスさまについてきた人はある人は失望し、離れ去り、
>ある人たちは十字架につけよと叫び始めました。
 
また、いつもの、信仰の美辞麗句です。キリストの受難も、彼は、美辞麗句として、実感のない言葉面の羅列であらすじを何度も書いてきます。悪い政治家のリップサービスによく似ています。
 
>イエスさまの神のいのちの表れは必ずしも人と人を結ぶ絆ではないようです。
>しかし、イエスさまに出会った人は生ける神との確かな絆を見出すことができるのです。
>イエスさまは私たちが見失っている生ける神との絆を回復してくださる方です。
 
美辞麗句と言うのは、このように、救いの結論が既知のものとしてあるからです。しかしながら、私たちの信仰は、洗礼を受けたら、あとは保険か年金のように安心でしょうか。キリストの弟子であったユダを見れば明らかなように、信仰は道であります。レールではありません。
 
道を与えられたからといって、そこを外れないような節操を弁えないと、彼のように、信仰でさえなくなるのです。信仰には、人が悪用しやすい要素があるからです。聖句の解釈もそうだし、境地のような安らぎの誘惑もあるのです。宗教には、すぐそばに、思い込みと妄想という落とし穴があることを知るべきです。
 
彼は、一生安心という前提で書いてきたから、悔い改めの祈りもしたことがないのではないかと思いますし、それゆえに、自作の無罪妄想や善悪判断放棄妄想が直観的にも思路としても否定できずに、思いついたら書いて、いい気になっているのです。そして、批判記事を彼は見ないで、思考停止したまま、批判されているらしいことについて、不快を表すことしかできないのでしょう。
 
>イエスさまの誕生、生涯、十字架の死とよみがえりと聖霊の助け、導きによって
>私たちは生ける神との絆を回復されると、生ける神を仲人として結ばれ、
>人の弱さでさえも神のいのちに生きる力に変えられるのです。
 
何の深みもないこと、前にも何度も言ったことを、呪文のように繰り返し、思考の欠けた思い込みは、いかなる警鐘にも反応せず、よだれを垂らすようにベタベタに同じことを繰り返すしかない成り行きのようです。
 
>パウロは「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、
>むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。・・・
>なぜなら、私が弱い時にこそ、わたしはつよいからである。」と書いています。
>(新約・コリント人への第2の手紙12章9~10節)
 
前から言ってきた、弱さを誇る、という逆説の聖句の誤解と曲解に基づく、そのまま豪語して自己矛盾のパターンを、彼シャローム氏は実践しています。弱さは誇るべきものを持ちません。弱さを誇る、というのは、弱さが誇り高く見えることがある、という福音であり、そのまま言ったら、ただの分かってない人、に過ぎません。それに私たちはパウロではありません。
 
批判は読まずに、不快ばかりを募らせ、いつか神が敵である批判者を滅ぼすのを待っているだけで、このような聖句を引用して、言葉面に落ちて満悦するだけの彼シャロームのような者に、餌を与えてはいけません。
 
>その名は不思議である方の不思議なみわざです。
 
何も言えないから、タイトルの聖句から、不思議不思議と言うしかない彼シャローム氏に巻き込まれることのないように祈っています。彼が信仰の節操を知ることはないのでしょうか。肯定する兆しがまるで見られず、否定的な兆候だけが表れていることを報告いたします。
 
 
(2017年06月29日)
 
 
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  道と境地
 
 
おのれの欲するところに従えども則を超えず、とは論語だったか。
仏教では、悟りとか解脱という境地があるらしいと聞いたが、
私は、ぶっきらぼうに「ない」と答えてしまった。(失礼、汗)
 
類するものはないかと考えてみるのだが、
キリスト教の名を語る自分信仰者には
自分で出来なくても電動自転車のようにキリストが押してくれる
などと豪語して自慢する向きもあるが、
やはり境地というのがあるとは思えないので
不届き者め、と思っているくらいだ。
 
固定される境地というものはないが、
ある心境、言ってしまえば天国にいるほどの
感動や安らぎに至る道を与えられるのが信仰だと思っている。
つまり、過程を与えられるのであって、
不動の結果を得るのでないということだが、
言い換えれば、その道にいることは一つの境地なのだろうか。
 
前に、信仰生活のうちに、今まで知らないような
安らぎを覚えるという体験があり、それは
天国を一度は味わったという経験となり、
その経験が忘れられなくて今も信仰者でいる
ということはあると書いたことがある。
それは境地と呼べるほど特殊ではないが、
一人の信仰者にとっては忘れがたいことになる。
 
そういう経験に共通しているのは、
一つは孤独感からの解放であり、
一つは他者からの自由であり、
総じてそれまで自分を縛ってきたところの
様々な当為(「べき」のつくこと)からの自由であり、
この世の強迫からの解放ということになるだろう。
 
とらわれないこと、というのは、
とらわれそうなことが多すぎるこの地上にあっては
多くの人が望むことかもしれない。
 
人生にキリストという御方を知る機会があり、
その御方への信仰によって、
それ以外の囚われからの解放になるのかもしれない。
ただ、この信仰は、
聖書というキリスト者共通の聖典があるけれど、
ひとりひとりにとっては
多分に個人的な関係から成っている。
 
神の領域の御方との個人的関係と言えば、
何か神秘的な神聖な不思議な出来事と思われそうだが、
キリストは人間の情緒や情感や思いに共感できる御方なので、
むしろ神秘ではない人間が歩み寄りやすいというところがある。
人格としての思考と情感が重要視される理由でもある。
 
境地に立てば救われるのではなくて、
道を歩めば開かれることもあるだろうという信仰である。
道を外れることも考えるべきで
その可能性を忘れると
個人の恣意的観念の世界に陥ることになる危険はあるが、
神という絶対者に告白し願う手段として祈りがあり、
それは信仰者にとって反省の時と場所でもある。
 
何よりも自己の成長が何歳になっても必要であり、
日々を修正可能に生きることが大切だと思っている。
 
 (伝道の書、口語訳)
12:1
あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。
悪しき日がきたり、年が寄って、
「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、
 (伝道12:1、旧約聖書)
 
私は、すっかり年が寄って、何の楽しみもないような日々を送っているが、
リアルな充足の殆どない明け暮れの中でも、
せめて、PCの前に座り、ブログを書きながら、他のブログを読みながら、
ときに、心にパチンと小さく当たったり、
軽く触れてきたりする言葉や画像を楽しみとする日々になっている。
 
 
(2017年06月29日)
 
 
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  信仰の節操メモ
 
 
キリスト信仰は、自分を含むところの人間は罪を犯す、という罪悪感と罪の気づきそして意識そして自覚から始まってゆき、悔い改めの祈りの信仰へと成長してゆくことで、艱難と罪による苦しみや悲しみから解放される道を求めてゆくことにあります。
 
しかし、その信仰の始まりである罪を認めず、キリストとともに十字架に自分も自分の罪も死んだのだから、もはや、罪責感に苦しむこともなく悔い改めなくても赦されており、罪を気にしなくていい、という無罪信仰を唱える者がいるようです。極めて単純なことですが、信仰の始まりがなければ、信仰はないのです。
 
人の肉体を持ち、かつ、罪のない御方は、キリストだけです。無罪信仰が、いかに邪悪な妄想であるか、推して知るべきでありましょう。
 
さらに、アダムとエバが善悪を知る木の実を食べて罪が生まれたのだからと、善悪の判断を放棄するのが信仰だ、とも言うのですが、これこそ、言葉の上っ面、つまり言葉面だけを整えて、言葉の中身を考えなくなっている状態です。何故なら、善悪の判断をせずに生きられるという判断を既にしている、という矛盾が明らかなのです。
 
信仰に大切なのは、及びもつかない神ではなく、人が知るべき世界の人間性なのです。なのに、それが分からずに、しかも分からないと言わずに、人知の及ばない神の秘密つまり神秘を人知で得々と語るつもりの自己矛盾の者が少なからずいるということです。
 
私たちが神について信じるべきことは、神は、この世を創造し支配するほどの全知全能の神である、ということでよいでしょう。この言葉には実体と呼べるほどのものはないということです。神はこの世を創造したということも、聖書では神話として書かれているだけであります。つまり、天地創造をつぶさに、読めば詳細に、人が分かるような記事ではないということです。
 
なぜ、そのようなことになるのか、それは、神は神のやり方で天地を創造した、しかし、それを記録するのに、人の使う言葉は不全であるため、人の言葉で詳細を具体的に記すことは出来ないし、神のやり方を表す神の言葉があったとしても、その神の言葉を人は理解できないし知らない、という、人の不全性からそうなっているのだろうということです。
 
大きな先入観なのですが、神が中心だから、神を理解することが信仰だと思っている人が少なからずいるようです。しかしながら、神に信仰は必要ないのですから、信仰は、人のために神が与えるもので、神を理解するなどという出来ないことを思うのではなく、むしろ、人は神を理解できない、ということを知って弁えることが信仰であります。そこに、神に対して人間が人間であるための節操と分別と思慮と情感があり、それらを聖書を通して、また自分の体験を通して、学んでゆくのが、キリスト信仰であります。すなわち、人間を理解しようとしないで信仰を理解することは永遠に出来ない、ということです。
 
 
(2017年06月28日)
 
艱難(かんなん)
 
 
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  偽善の遠吠え
 
 「その名は不思議」ブログ by shalom ←ずっと批判しています。
 今と将来に共同責任
 週のはじめに考える 政治家と官僚と国民と
 2017年6月25日
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28144882.html
 
 
彼シャローム氏は、キリスト者のつもりでブログを書いてきましたが、私は、彼はキリスト者ではないと判断しています。キリスト教は、彼にとって、権威をひけらかすために利用しているだけのようです。前に、善悪の木の実を食べると堕落するから善悪の判断を放棄する、という突拍子もないことを言っていました。それを訂正する記事を書いていません。だから、この記事で、悪を決めつけ、ボロクソに批判しているつもりなのは、明らかに彼自身の前言に違反しています。そういうことを平気でやってくる人です。
 
彼シャローム氏は、また、十字架の贖罪によって罪を気にしなくていい、という、無罪妄想を持っています。主張したのち、これも訂正記事を書いていません。ここには根深い病理が潜んでいると思います。無罪だから、何をしても訂正も謝罪もしなくていいという妄想だから、今も平気で、語気強く政治のことを言って、信仰の務めを果たしたつもりになって自己満悦できるのです。
 
彼の文章を読んでみると、似たような言葉の繰り返し、借り物の思想、評論の権威でもあるかのような大仰な断定が見て取れるでしょう。彼には、反省という心の働きがありません。だから訂正不能に豪語して、それだけで、いい気持ちになれるのです。
 
彼は、このような民主主義の記事を書く資格はないと判断しています。彼は、批判を許容しない権威主義者です。しかし、権威に見合うような言論は、今まで一度も出来たことがないのです。なぜ書けるのか、それは、彼の妄想信仰、すなわち、無判断、無罪、無根拠の権威の慢心からは、何でも出来て、何も反省しない、ということが成り立っているからです。読むなら、それを前提に読んだほうがいいと思います。
 
これが、大体において、私が約6年間見て批判してきた彼シャローム氏の人となりです。現代のパリサイ人、いや、パリサイ人よりも悪い反信仰者で偽善者です。パリサイ人は、シャローム氏のように世辞や丁寧語で柔和に見せかけることはしない分、不法が分かりやすかったからです。
 
(引用本文はかなり省略。最後の部分だけ:始め)
 
いま私たちが立ち返ってみるべきは、国民主権を謳(うた)う憲法上、政治家は「全国民の代表」であり、官僚は「全体の奉仕者」ということです。行政に携わる政治家と官僚には、今と将来の国民に負うべき共同の責任があるはずです。両者が敵対する関係では、到底その責任は果たしえないでしょう。
 
歩み寄りなどとは対極の加計問題で、現政権が見せた一方的な官僚支配は、官僚たちの士気を高めるはずもなく、官僚を志す次代の若者たちをも遠ざけかねない。それは現代のみならず、未来の国民に対しても、国の行政基盤を築く政治の責任放棄として、禍根を残すのかもしれません。
 
 (引用終わり)
 
>《shalomのコメント》
 

「行政に携わる政治家と官僚には、今と将来の国民に負うべき共同の責任があるはずです。両者が敵対する関係では、到底その責任は果たしえないでしょう。」

 
上の本文の引用です。
 
>上記の言葉は傾聴すべき提言だと思う。

しかし、その実現に必要不可欠なことは、①個人の尊厳 ②国民主権であることを加計学園問題の渦中にある文科省前事務次官前川喜平さんによって提起されていると思われます。

 
尊厳と国民主権の2つでまとめるのは、いかがなものでしょうか。個人の尊厳と国民主権が大事なことは当たり前ですが、むしろ、彼シャローム氏の中で、問題を抽象化してしまっていると思います。元官僚が発言によって、メディアのみならず、政府からも、嫌らしい個人攻撃を受けた上で、さらに真相を明らかにする発言をしている、という、このプロセスは特異的ですし、進行中です。具体的であるから真に迫っているとも言えるでしょう。引用の本文全体を読むと、そういう政府と官僚組織の具体的な流れをおろそかにしていないのが分かります。単純に一般化し抽象化するのは安易と言うべきでしょう。
 
これを尊厳と国民主権とまとめて、あっさりと教科書的な熟語に抽象化してよいものでしょうか。彼シャローム氏は、書けば、何かを端折り、自分だけ納得すればよいという勝手な言葉に変えてしまいます。そこが、彼がキリスト信仰を変質させ、人間を変質させてきた一つの要因でしょう。
 

政治家であれ、官僚であれ、①個人の尊厳 ②国民主権が忘れられると、特に政治家が2代、3代と続くと、特権意識に染まり、ひとりの人間としての個人の尊厳意識、国民主権意識・・・ひとりの個人、ひとりの国民であるという視点が見失われてしまい、必ず「権力は腐敗する」という結果を招くからです。

 
世襲の弊害は、たびたび語られているところですが、①個人の尊厳 ②国民主権が忘れられる、ということが原因でしょうか、結果でしょうか、どちらが言いたくて2つを上げたのでしょう。書いているのは、まるで堕落の法則を明らかにしました、とでも言いたげな断定ぶりです。彼シャローム氏は因果関係を整理して言うことが、恐らく、出来ないのだと思います。思いつくままに文をつないで論理に見せかけている印象です。
 

人間はどのような立場に立とうとも、だれひとりの例外なく弱いことを自覚し、国民である一人一人が常に①個人の尊厳 ②国民主権に目覚めていなければならないことは健全な民主主義の土台であることは言うまでもない。

 
本当に彼シャローム氏が言うまでもないことです。小中学校の教科書にも載っているでしょう。彼の無罪妄想が正義の味方?の彼に書かせたのではないか。
 

この土台が軟弱であれば、民主主義は容易に衆愚政治、強権政治を招いてしまう危機感がなければならない。

 
衆愚政治、強権政治、いずれも、ニュースやネットで言われている言葉です。彼シャローム氏は、大仰に言いたいがために、聞いた言葉を並べていると思います。今までの文章で、独自の視点を見出すことはできません。
 

日本の民主主義は自らの内なる変革と戦いによって勝ち取ったものではないために、戦前の日本の在り方に対する清算がされないまま、敗戦の焦土のなかから、アメリカの軍事的、政治的、経済的援助と支配による経済復興をしたために、民主主義の根幹である①個人の尊厳 ②国民主権意識が軟弱、未成熟であることは否定できない。民主主義は国民ひとりひとりの①個人の尊厳 ②国民主権意識に基づく健全な選挙権の行使によって成立する。

 
これが、自分を棚に上げて、他者をボロクソに言う、彼シャロームのボロクソ節なのですが、変革と戦いによって勝ち取ったものではない、清算がされないまま、軟弱、未成熟であることは否定できない、などは、今の民主主義の思想家を愚弄している印象さえあります。彼は、預言者のように正義の味方として豪語するのです。最後の文は、誰でも知っていることでしょう。キリスト者として私は、キリスト者のつもりでいる彼のこのような豪語を見ると、いつも恥ずかしいです。
 

そのためには①個人の尊厳 ②国民主権に基づく教育、健全なマスコミによる情報伝達が不可欠であるが、①個人の尊厳 ②国民主権意識が未成熟であるために、政治家、官僚、国民、教育、マスコミも戦前の国家主義的な体質によって汚染されやすい。

 
2つの同じことを何回も繰り返しているわけです。そして、未成熟、と断じます。自分が、どれほど成熟しているつもりなのでしょう。大きな特徴として、彼には超然としてスーパーバイズしているつもりの視点しかありません。彼は、ここでは未成熟、今まで多くの悪の中に、決して自分を含めません。「私たち」という言葉を使うことはありますが、そういうときでさえ、彼は「私たち」に自分を含めていないと、多くの記事において明らかになってきました。
 
彼は、反省をしないので学習と成長をなくしてしまった偽信仰の病人だと思っています。薬では治らない病気です。反省して改めるしかないが、彼は、いい気持ちになって何も変わろうとしません。彼の、いい気持ちは、言論において災いです、彼が書いた沢山の記事によって、病気の差別語とは別の、これこそ、既に知られてしまった害です。
 

また民主主義の健全な運用のために不可欠な司法、立法、行政という三権分立の境界線もあいまいなものとされやすい。教育権、マスコミ・情報権も加えて五権分立にすべきだと思う。

 
彼の心と頭のほうが、よほど、あいまいです。しかも、それは、彼が信仰と呼ぶところの、妄想からきているのです。そして彼の特異な思いついただけの造語なのです、五権分立。前には、民主主義より神主主義がよい、とかも言っていました。ここに限っては、もう、笑えるでしょう。笑えないか・・。修正不能の信仰は妄想になり人格を破壊します。
 

また忘れてはならないことは公正な選挙によって行政権をゆだねられた政治家、また試験によって登用された官僚による行政によって公正、公平性、透明性の侵害が行われた場合、国策である戦争をはじめ、エネルギー政策である原発稼働、薬害によって国民の①個人の尊厳 ②国民主権③生命、④財産が著しく侵害された場合厳しく弾劾、背任罪によって厳しく責任を問う道、選挙権、被選挙権の停止などが備えられていなければならない。

 
彼シャローム氏は、一生懸命?整理したつもりなのでしょうね。公正、公平性、透明性、さらに、弾劾、背任罪、選挙権の停止、など、恐れもなく、好きなように言っています。皆、美辞麗句とシャロームのボロクソ節です。言うだけでは何の効き目もない、と誰もが知っている言葉を並べているだけですから、気にしないでいただきたい。
 

国政の混乱をもたらしている森友学園問題、加計学園問題は日本の民主主義の未成熟さをあらわにしている。問題解決のために、①個人の尊厳 ②国民主権を侵害する危険性がある国家主義的な道へと向かっているような今日の危機感に目覚め、ただ表面的な働き方改革ではなく、健全な①個人の尊厳 ②国民主権意識の成熟に根ざした新たな生き方改革へと向かうべきではないだろうか。

 
未成熟だと言っていますが、成熟した民主主義がどこかにあるでしょうか。このろくでもない世界で実現方法が明らかになっているでしょうか。実験途上だと私は思っているのですが、彼シャローム氏は、既知のものとして語っているようです。彼にとっては、民主主義も、正義も、善も、キリストも、神も、すべて既知のようです。
 
どうか、この偽宗教妄想家の書いた、思い付きの、滅裂で稚拙な、政治について書きたかったらしい記事を、気にしないでください。彼は、偽信仰のために、能力、謙虚さ、その他、あらゆる点で、本道とは逆に、身の程をわきまえなくなっているからです。さらに、罪悪感を感じることもなく、批判された時の彼の反応は、後悔でも反省でもなく、敵視だけなのです。それが彼の妄想的権威主義的偽信仰なのです。
 
どうか、彼について、年寄りが一生懸命書いたのだから、ひどいことを言わなくても、などと思わないでください。彼の病理ともいえる妄想信仰は、他者のことなど屁とも思わぬ傲慢であり、しかもそれを隠して、柔和な老人を装う狡さを持っています。彼は、既遂の害、既知の害なのです。その前科とも言える数々の罪について、決して悔い改めないのが、彼の無罪妄想という偽信仰の、本気で、怖いところなのです。
 
ここでは、前からでもありますが、妄想という言葉を使っています。もちろん厳密な精神医学的意味からではありませんが、最近は、妄想という言葉が、空想や夢想や白昼夢趣味の意味で使われているようなので、似た方向で、病気に近づけた表現にしています。医学的な妄想の条件は、非合理、異常な確信、訂正不能で、言えてるように思えるということもあります。つまり間違った信仰が訂正不能ならそれは病気に限りなく近くなる、ということを私はずっと見てきたつもりです。
 
彼は、安心して断言しまくっています。コメント欄を全部閉鎖したから、私からの批判を見なくて済むこと、それと、どんなに政治の記事を書いても、ネトウヨから攻撃されることもないからです。こういう狡いことは考えるようだから、愛せない人なのです。
 
 
(2017年06月27日、同日一部修正)
 
 
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