ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年06月

 
  偽善の転載
     …同じことだ
 
 「その名は不思議」ブログ by shalom
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html
   ここを、彼を、ずっと前から批判しています。
 
 
政治の記事を、まるで取り憑かれたように、いくら次々と転載しても、自分自身が、批判に反論も出来ないで、批判を削除して、つまり批判を許容しないところの、権威主義であることの弁明にも言い訳にもならないことは言うまでもありません。
 
つまり、民主主義の記事をいくら転載しても、自分がやってきた反民主主義の悪について反省もせず改めることもなければ醜いだけであり、前と同じことであり、無駄であり、白々しい偽善であり、結局、嘘をついているのであり、そうして、あたかも民主主義であるように見せかけて、読む人を騙しているのと同じです。
 
その証拠が、自分で記事を書くと、宗教も政治も区別がつかず、ただ、自分を悪の圏外つまり安全地帯に固定した視点だけから、対象をぼろくそに言う結論だけの、批判とは到底言えないお粗末な、私が言うところの、ボロクソ節にしかならないし、盛りのついた犬のように、一方的に自己正当化をまくしたてる、という結果にしかならないのです。
 
自己絶対化と自己正当化に神を利用する、という、実直な信仰をけがす行為で、自分を救う宗教妄想で、民主主義を唱える人々の世界に、自分も民主主義だから同感です、みたいなインテリ思想家の真似をして、よく思われようと、仲間だと思われようとして、自己顕示欲で、人を惑わしてはいけないと思います。
 
 
(2017年06月26日)
 
 
 
  同じだ
 
 
神を信じる者は
人について人に向かって
何を語ろう
 
ひたすら神を語り
いつも笑みを浮かべて
超然として人を見下ろすのか
 
違う
 
神学も宗教も信仰も
日々の祈りも
哲学と文学と心理学など人文科学と
日々の思いと
同じだ
 
違うのは
信仰者はその経過を
神に捧げるということだ
神に捧げて最終的真実と結果の裁きを
神に任せるということだ
 
限られた力を精一杯使って
日々刺激を感じて受けて考えて反応する
 
人間ならば同じだ
 
人の知恵を軽んじてはいけない
 
同じ人間として
傷だらけの人間として
限りある知性と感性を
思慮と情感を
その結実を
判断と共感を
息と涙を味わいながら
 
祈りのうちに
神に告白し
神に運びを委ねるところだけが
行為の現象として違うのである
 
 
(2017年06月26日、同日一部修正)
 

ここ3日間ほど頻繁にPCフリーズして投稿も閲覧もなかなか難儀遅鈍。設定も結局デフォルトに戻して、動くあいだだけ使っています。1分で済んだことが10分かかり、10分で済んだことが1時間に、1時間で済んだことが半日~一日作業になってます。(詫、悲) 
 
 
 
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  妄想化
 
 
偽信仰は妄想を育てる
 
妄想はルサンチマンから生じて
自己正当化のために妄想となってゆく
 
他者は富と力に頼み
自分は神に頼むと言う
 
神は富や力よりもはるかに偉大だ
自分には絶対の神が味方についていると言い
 
自分を攻撃する者は神の敵だ!と
 
富める者や力ある者たちは
滅びの道を歩む者たち
 
自分は違う
神に愛されているから
 
というふうに被愛妄想を絡めて
自らを高めてゆく
 
それが人間として神に対して
信仰に反するとも知らないで
 
誇大妄想は神話から
特に奇跡から生じる
 
奇跡の連なりが信仰だと思い込み
出来事に奇跡を当てはめて確信する
 
超常に心を奪われ
日常をおろそかにする
 
超常でなければ気がすまなくなって
ああなってそうなって
 
こうなることが神の御心であった
などと超常奇跡のドラマを作る
 
いつも主人公は自分だ
人には教える立場でありたがるが
 
神のことばかりを思い
人のことをおろそかにする
 
それを指摘されると
闇の眼で迫害者とみなし
 
復讐を神に願う
 
一途に熱心に信仰の
愛を憎しみに変えて
 
祈りを呪いに変えて
内なる心に育ててゆく
 
信仰を妄想に変えてゆく
 
神に愛される信仰の
一番大事な弱さと低さを忘れて
 
弱さを誇るという使徒の言葉を
そのまま豪語したりする
 
誇るものを持たないのが弱さなのに
 
本当の弱さの意味を知らないゆえに
本当の強さの意味を知らないままだ
 
弱さは神の前に認め
強さは神ならぬものに抗うためなのに
 
このようにして強くなってしまった信仰は
神について多くを語り
 
人について語る言葉を失う
 
妄想という心の中の
偶像に仕えるゆえに
 
妄想は悪化することはあっても
人を成長させることはない
 
神を見ようとして人を見なくなる
神を語って人を語れなくなる
 
ルサンチマンが宗教的に増大すると
信仰を妄想に変える
 
そして悪貨は良貨を駆逐するのだ
 
 
(2017年06月25日)
 
ルサンチマン:
 おもに妬みから、弱者に募る怨念
 
 
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  信仰の悩み
 
 
神は、今、何をなさっておられるのか、これから、何をなさるつもりなのか、自分はどうなるのか、こういうことを考えるのは、ある意味、苦痛でもあります。自分は救われる民の一人として造られたのか、ひょっとして自分は反逆して滅ぼされるためだけに造られたのではないか。神という存在を考えると、そういう思いも生じてきて、かえって不安になることもあるのです。つまるところ、神を信じるがゆえに生じてくる不安のためにも、信仰はある、と言ってもよいのではないかと思います。
 
前にも、たびたび書いてきたことですが、神が人を守るために、こうしてくださる、と信じることは、神の意志を人が決めつけることで、不遜~背きにあたります。しかし、どうしても御心を考えてしまうのがキリスト者ですから、結論を決して決めつけず、考え判断しているのは自分に過ぎない、という自覚を持つことが必要です。
 
神、キリスト、聖霊を信じて疑わないのが、信仰ではないか、という人がいると思いますが、これは、単純な勘違い~詭弁で、その人が信じて疑わない聖三位の御心は、その人の聖三位への解釈に他なりません。人は、人が思う以上に考えることは出来ません。それ以上を求めるのは、神秘と奇跡を分かるようになりたがる超人間願望に過ぎません。
 
神を絶対者として、キリスト者は信じています。しかし、信じ込んでしまうと、いつも自分は神に従うという習慣づけになり、絶対者の神と同様に、自分の考える絶対を信じることになりやすいのです。そのほうが物事は、はっきりして、分かりやすいと思うかもしれませんが、神の御心は神秘であり、人知を超えているのであり、人に、はっきりと分かりやすいものではないのです。そこを勘違いしている人が多いようです。
 
御心をはっきり理解して、聖霊に完全にしたがって、云々、などと言う者は、まず、自分の器を知りません。自分が、神に比べて、いかに劣っているか、いかに弱いか、いかに惨めであるか、いかに、いい加減であるかを知らないのです。人間は、信仰を持ったからと言って、神に近づくほど賢くなるわけではありません。
 
このことは、ネットの信仰ブログを見ているとき、また自分が信仰の記事を書いているとき、信仰に関わる言葉の理解、御言葉の理解、言葉の使い方、など何をとっても、痛切に身に沁みる不全感であるはずです。
 
この痛切な感慨を持ち得ない者は、この世を達観して上から見下ろすために信じたに過ぎないか、または、そうなっている自分の邪悪な姿勢に気づかずにいるかでしょう。そういう者は、決して珍しくありません。決して珍しくない人が、悟った者に成り上がる身の程知らずの道を歩んでいる、それが現状です。
 
私は、言葉にするなら、神の不可知を主張していますが、昔の不可知論のように別の何かでそれを説明するドグマを勧めているのではありません。神の不可知は、あくまで、人間が人間であるために、神の民に相応しくあるために、どうしても必要な認識です。
 
そのことを、どこかで覚えたのでしょう、不可知論に陥っている、などといって、話を終わらせようとした者もいましたが、神の可知論があるなら言ってみよ、という、こちらの問いに、彼は一言も返せませんでした。
 
人知を超えた御方を、神は云々・・と決めつける、人知の不遜~背きに陥らないために、不可知を学んでほしいと思いますが、不可知という熟語に抵抗があるなら、自分は神を知り得るか、と問い続けてください。信仰に必要な、信仰に通じる人間の良心の欠片でも持っている人なら、いや、知り得ない、という人間らしい答えにたどりつくのに、そう時間はかからないはずです。
 
やたら、聖霊の導きとか、神からの啓示とかを持ち出す人を警戒してください。不思議なことに大方、それは、相手を説得するだけの説教や説諭の中身を持たない者が使い始める言い逃れなのです。伝道者は、分かっていなければならない、という先入観と強迫観念によるものです。
 
神秘の導きは、人に気づかれることなく、成就してゆきます。神秘や奥義を理解しているかのように振る舞う人は、それだけで、侵してはならない神の領域に対して犯意をいだいているということです。広く宣べ伝えられるべきは、それだけでは存在の義に相応しくない分かり方をしてしまう人間の不全と、その共感と共有の自覚であります。分かっている人が分からない人に告げる真理ではないのです。そこを勘違いしている人が多いようです。
 
神秘は分からない、神の秘密だから、ということで十分なのです。なぜ、神秘や不思議を分かるために人間を離れ、魔法使いになろうとするのでしょう。得々として神秘を語っているつもりの人には、しばしば、人間一人の心さえ理解できていない稚拙さを、まれならず、感じることがあります。神秘を理解するよりも、人間に大事なのは、人間を理解することです。神のものは神に、人間のものは人間に、ということで十分なのです。
 
つまり、私たちは、神を考えるよりも先に、人間について感じ学び考えなくてはいけません。言い換えると、神を信じるキリスト信仰は、とりもなおさず、人間が人間らしくあるために、人間について考えることに帰結するのです。いつまでも、奇跡だ、聖霊だ、御心だ、キリストの恵みだと、神の領域を、自分と一体であるかのように吹聴する者は、大方、自分を、神に特別に選ばれて特別の使命を与えられている特別の信徒あるいは使徒だと勘違い~妄想しているに過ぎないのです。
 
神が、人を選ばれる理由を、私たちは知りません。神は、人により、その導きは違うでしょうし、人と神の関係は、個別的です。しかし、神の前に平等というように、誰か一人が特別に愛されることではないことくらいは分かるでしょう。信仰者として、私たちは、人間を疎かにしてはいけません。むしろ、人間に対する関係こそが、地上で考えるべきことであり、終末における御国よりも、地上で他の人間との間に深くも浅くも築いてゆく関係の動態こそが、人間世界で御国を思うしるしではないか、と思います。
 
人間を救う神は、救いを必要とするほど心細く低くあるしかない人間をご自身の民として求めておられると思います。神は、魔法使いを必要とはされません。魔法使いを養うこともなさらない御方です。驚くべき奇跡は、すでに神の側に満ちているからです。関連聖句で今回は結びます。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20―21、新約聖書)
 
 
(2017年06月24日、同日一部修正)
 
 
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  素晴らしさの形骸
 
 その名は不思議
 ローマ11:33~36ー神の素晴らしさを賛美する!
 2017/6/23(金) 午前 10:16
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28141060.html
 
 生活の中の聖書
 ローマ11:33~36ー神の素晴らしさを賛美する!
 2010/11/22(月) 午後 5:19
 
 
彼シャローム氏が自分で書けば破綻だらけ、それで人の書いたものに頼るわけですが、それも、自分とそう違わないものを持ってくる、つまり似たようなものになる、ということが、転載記事の選択において成り立ってしまうわけです。
 

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

 
パウロのローマ人への手紙の聖句です。神の不可知を語っていると思われることを、自分のほうに当てはめるために持ってきたようです。神をほめたたえるべき根拠は、人は何もしなくていい、ということではなく、人がどんなに成し遂げようとしても出来ないことがあり、それを神はなさるのであって、神のみがなさることがあるということです。しかし、その不可知のわざまで、自分の信仰として分かったことにしてしまう者たちがいます。
 

この世は天地のものや人間はすべて偶然の産物だとしていて、自然界の姿を見て感嘆することがあり、私たちのすることに感嘆する。

 
自然や人間のわざを見て、感嘆してはいけないのでしょうか。こういう者に限って、自分は神のみわざのみに感嘆することを自慢するつもりで、的外れのことを言いやすい傾向があります。的外れというのは、異教を侮辱したり、神の立場で物を言ったり、など、どう考えても信仰にふさわしくない言動です。
 

けれども「ああ」とパウロは感嘆する。ここにあるすべてが神への賛美だ。神はすべての者の創造者であり、救済者であり、支配者である。本当に祝福された人生は神の御業をたたえて生きることなのだ。すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るのである。

 
神への讃美ばかりで、このように神を讃美します。と同時に、人を軽視してゆくのでしょう。神は、人のために、信仰を与えたのだから、人は、人を軽んじてはならないことは言うまでもありません。そこを勘違いして、人から離れ、人を憎むことの根拠を、信仰に求める者がいます。人間離れしやすい人というのは、人嫌いなのでしょうか。
 
>創世記1:1初めに、神が天と地を創造した。
 

神は六日に渡る創造のわざを終えられた。最後に神は人をご自身のかたちとして創造し、男と女とに創造されたのである。そしてこのように言われたのである。

 

創世記1:28~30神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」神は仰せられた。「見よ。わたしは、全治の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」

 
この今さらのような創世神話は、信仰の話にどう関係しているのでしょう。ここを読んで讃美しないものは信仰者ではないと言いたいのか。よほど、この聖句の創世記に、しがみついているのでしょう。信仰者の視点は、自分の信仰のために、疎かにできないこと、つまり、罪と赦しの問題に行くはずなのです。神話は神話として受け取り、人の罪の話へとつながる重要なものです。しかし、ここを、ことさら賛美して、それで満悦してはいけない問題が、地上を生きる人間には、たくさんあるということを忘れてはいけません。
 

私たちの信じる神は、目があっても見えない、口があってもことばを発せない、耳があっても聞けないようなでくの坊ではない。言い送った事を成功させる神なのだ。そこに信頼できるかが勝負なのだ。

 
神が、でくの坊、だと誰か言ったのでしょうか。唐突な表現です。さらに、問題として、言い送ったことを成功させる神という断言は、この人に言ってもらう必要はありません。不全なる人には、成就したかどうか、わからないこともあります。ゆえに、前に、恵みと試練は同値で区別できないと書きました。そこをばっさり端折って、信頼できるか、というのは、勝負なのだ、というのは、いったいどこに全能の神への信仰があるのか、ということになるのです。つまり、自分は分かる、ということが前提になって慎重さがなくなっているから、こういう言い方になるのです。
 

イザヤ55:8~9、11わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。??主の御告げ。??天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。・・・そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。

 
神のことを言っている聖句です。
 

神は私たちの心をずべてお見通しであるが、私たちは神の心を見通すことはとても出来ない。私たちの道と異なり、私たちの思いよりも高いからです。私たちは「わたしの望む事を成し遂げる。約束は必ず果たす。」と言っているここに信頼するのだ。

 
神は神の望むことを成し遂げる、これは、すなわち、人のために成すことも、神の意志と計画に基づいて成される、ということです。いちいち、神ご自身が造った人の、都合や納得を得ながらするわけではない、ということなのです。
 

神のご計画は私たちの思いを越えている。けれども、それを聖書を通し、自然界を通して私たちに語られている。私たちの誰が神が人となって私たちの中に住むこと、十字架にかけられいのちを捨てること、死人の内からよみがえることなどを考えたであろうか。まさに神のその知恵と知識は私たちの理解を遥かに越えたものである。     

 
神は人のためにすべてを語っているとは限りません。自然界を通して語られ、とありますが、これは、その結果のことでしょう。また、さらに、神が人のために語ったことを、人がすべて正しく受け取れるわけでもありません。せめて、人知を超えた神を、人知で大仰に語る愚は避けるべきです。
 

ヨブ42:1~2ヨブは主に答えて言った。あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。

 
ヨブ記のテーマから言えば、この引用は全く片落ちです。ここは、ヨブが神に抗って、自己正当化と不幸の不当性を主張するために多くの弁を費やした後、神が顕れて、ヨブを叱責し、ヨブがひれ伏すときのヨブの言葉なのです。続きを引用しておきます。ヨブの言葉ですが、一行目などは、主なる神の言葉を引用しています。
 
 (ヨブ記、口語訳)
42:3
『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。
それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、
みずから知らない、測り難い事を述べました。
42:4
『聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。
42:5
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、
今はわたしの目であなたを拝見いたします。
42:6
それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。
 (ヨブ記42:3-6、旧約聖書)
 

この測り知ることがないほどの素晴らしさに、パウロは神を信頼したのである。私たちもすべての神のわざを賛美し「どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」と神の栄光、イエス・キリストの御名をたたえて歩む者でありたい。

 
ここにきて、最初のローマ人への手紙のことを書いています。好きなように結び付けていますが、ヨブ記は、ヨブ記の特殊性があり、ローマ人への手紙には、これも特殊といってよいところの、異邦人への救いの伝道という問題があります。あまりごちゃごちゃさせないほうがよろしい。
 
かなり荒っぽい聖句の選択による類似や共通性をもって、その箇所のテーマや時代の特殊性を無視して引用し、勝手気ままに教理的な話を作っているようだが、いつもいつも神のことしか語らないのは、聖書を読むときも、神のことを神の立場で読もうとしていたのではないかと思います。神と人を読むべきところには、神よりも人のことが、人にはわかりやすいはずですし、神を語るのが信仰、という、大きな勘違いがベースにあるような気がします。
 
同じように、神の奇跡の軌跡ばかりを誇大に語って、人として大切なものの大方を失ってしまった彼シャローム氏も、聖書を引用して語るときに、彼の自作の、無罪妄想や無思考妄想に、聖句や誰かの言った言葉の、言葉のうわべ、つまり、言葉面だけ一致するかのように一見見えるだけの言葉を引用しまくります。
 
ありのままでいいんです、十字架によって罪は贖われた、善悪の木の実を食べて判断するから失楽園、これが、罪のままで悔い改めなくていい、今は無罪、罪を気にしなくていい、善悪の判断を放棄するべき、と結びつける詭弁となった、等々。言葉面というものがどれだけ厄介なものか、聖書語と丁寧語という言葉面だけをを振り回すことで、信徒に熱心だと思わせ、牧師として世渡りをしてきた彼シャローム氏の悪行ぶりが知れるというものです。
 
 
(2017年06月23日、同日一部修正)
 
 
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  寛容と共感
 
 
寛容が成り立つのは、
共感の成り立つところである。
 
信仰の場合その共感は
罪びと、低い人、
傷を持つ自分のいるところ、
完全でないところ、
誤解しやすい自分を
人を傷つけやすい自分を
思い上がりやすい自分を知っているところ、
など様々、自分を低くするところだ。
 
自分を上だと思っている者に対して
寛容になることは不義である。
何故なら、ごますりと同じだからだ。
 
信仰で言うところの寛容は、
社交の丁寧語とは全く違う次元の話であり、
信仰の正邪についての考え方についてだから、
社交の軽さでは表せない。
 
したがって
自分を批判する奴は寛容ではないから
信仰に反する
などと言うのは見当違いである。
 
そういうことを言うのは
大方、自己中心の人で、
自分が寛容でなかった事実を無視して、
人に寛容を要求する厚顔を持っている。
 
自己中心の自分信仰は、
自分の完成に慢心しているので、
人に共感する気がなく、
そのくせ、都合が悪くなると、
教理の寛容などの理屈を持ち出す。
 
共感の中で
最も人間らしいのは
悲しみへの共感だと思う。
 
楽しみや喜びばかりを探して、
いつも笑っていたい人々は、
訪れて来るであろう悲しみや
訪れてきた悲しみを認めないで、
無理にでも笑いを自分と人に求める。
それは無理解が招く飢餓であり、
信仰が与える喜びではない。
 
悲しみは、
共感することが最も大切で、
そこで既に人の孤独の一部は和らげられるだろう。
 
信仰においては、
死へ向かうキリストの孤独と悲しみを知ることで、
そのキリストに祈る心と言葉によって
絶対孤独の非人間性は癒されるだろう。
 
祈りを覚えることと、待ち望むことを覚えることと、
救いがたい自分の低さこそが信仰を与えられた理由であり、
結実の始めであることを知り、
全能の神を恐れることを知り、
信仰者は行く手にあるものに対して、
神ではないものに対して勇気を持てるのかもしれない。
 
 

 
 
注意してください。
全く共感が成り立たず、
共感する必要もないと言っていた者が、
聖書の失楽園を利用して
アダムが善悪を知る木の実を食べたのが罪の始まりだから、
善悪の判断をすることは罪だ、と決めつけ、
善悪の判断をしないように勧めています。
おかしな話なのです。
 
善悪の判断をしなくなって
人はどうやって進む方向や是非を決めるのでしょう。
それに、あらゆる罪も犯罪も止めようがなくなります。
 
あるいは神が直接操ってくださると言うのでしょうか。
それは、今、そうなっていない個人の、
そして世界の人々の現実から否定されます。
 
そのような無判断を勧める者は、
自分の犯した罪を弁明できなくなって、
そのことで責められたくないから、
善悪の判断をするな、と言っているだけなのです。
 
彼のような偽善者の言論の特徴の一つとして、
自分がはっきり分からないことを無理に書くときに、
やたら信仰の美辞麗句で飾って誇大的に書いて、
その見かけと勢いで
自分の無理解をごまかそうとすることがあげられます。
 
真実の表現は端的であることを目指します。
真実は飾りを必要としないからです。
真実には飾りは邪魔だからです。
 
彼の思考は自分信仰によって破壊されているので、
簡単な道理も分からずに、
保身のために、聖書の文言から、
都合の良さそうな聖句の言葉を見つけては、
飾って、気負って、出しゃばって、遠慮なく、
深い考察もしないで、わめいているだけなのです。
そういう目も当てられないような悲惨なことになるのです。
自分を見なくなった者は。
 
 

 
 
神は守って下さるのですということをそのまま教えて、
神は神の基準に従って人を守るということを教えなければ、
その空約束は信じる対象となり、
空契約による空天国を約束し、
空救済を約束された者は、夢想の空楽園に遊び、
自らの信仰の思いを空にして魔法のような救いに陶酔し、
他者を考え思いやる心を削り捨てて自らの空平安を求め、
空安心することを信仰として、
空っぽの感謝と讃美を自らに捧げるようになるだろう。
自分が思い描いた空っぽの神と一体になろうとするだろう。
それを妄想信仰と呼ぶ。 
 
 
(2017年06月22日)
 
空約束(からやくそく)
 
 
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