ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年09月

 
  調子外れの無恥
 
 その名は不思議(批判対象ブログ)
 管理人:shalom
 信頼できるナビゲーター (批判対象記事)
 2017/9/11(月) 午前 9:11
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28248297.html
 
 類似過去記事:
 確かなナビゲーター
 2016/11/25(金) 午後 0:38
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27817606.html
 確かなナビゲーター
 2012/8/19(日) 午後 0:28
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/23275206.html
 
 
コピペ、コピペで、飽きもせずに、ほとんど繰り返しているシャローム氏です。しかも、また、ナビに喩えるという似たような記事です。しかも、政治の記事をコピペして転載して隠れ蓑にしているかのようです。
 
>【今日の聖書のみ言葉】
>心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。
>そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
>(箴言3:5-6)
 
今に至るまで、シャローム氏が、まっすぐだとは、とうてい思えません。シャローム氏は、神にまっすぐにしてもらうと言いながら、自分が曲がっていることに気づきません。曲がっている自覚がなく、曲がっていると指摘する意見を削除して、どうして、まっすぐになることを語れるのでしょう。
 
自覚がなく弁明できない彼には詭弁しか残っていないから、神の名を唱えて、何もしなくても自分は自然とまっすぐになる、とでも思っているのでしょうか。その結果、曲がった自分を、そのまま押し出して、自分を他者に見習わせようとする説教をしては、いかに彼自身が曲がっているかを露呈する結果になり、気づかないまま、彼は裸の王様になっています。
 
>【黙 想】
>曲がりくねった道は先の見通しも悪く、走りにくいでしょう。
>真っ直ぐな道は車でも走りやすいですね。
> 
>人生の目的がはっきりした、まっすぐな道を、確信を持って歩いている人は幸せです。
>どうすれば、そのようになるのでしょうか。
>今日のみ言葉に一つのヒントがあります。
>あなたやわたしの人生の歩む道をまっすぐにしてくださる方がおられます。
>あなたやわたしはどうすればよいのでしょうか。
>今日のみ言葉の前半にそのことが書かれています。
 
>問題は何でしょうか。
>誰に、何に頼るか、ということですね。
 
>自分の分別、経験や知識に頼るのか、それ以上に主に信頼するのか。
>それはあなたやわたしの意思による選択にかかっています。
 
>安易に主に信頼するのと、「心を尽くして」主に信頼するのとは、どう違うでしょうか。
 
言葉上も相当な違いだと思うのですが、その違いは述べられているでしょうか。ただ主に信頼せよ、と言うだけだと、聖書の解釈から信徒自身が分かって確信しなくてはいけないとばかり、主の御心を自分で決めつける背きを助長してしまう可能性を考えないのでしょうか。
 
聖書を読み、解釈をしたり、解釈を聞いたりして、折に触れて判断するのは避けられないことですが、決めつける必要は、どこにもないのです。安易に自分が主に信頼して生きているという自覚から確信になってしまうことを傲慢として批判しています。人には正しいという根拠の成り立ちようのない全能の神の御心について、人が背教に陥らない道は、決めつけないことしかないのです。決めつけることと信じることとを混同してはいけません。
 
>《shalomのコメント》

>私たちの生活にもどうしてよいかわからないときがあります。
>そんな時、今日の聖書のみ言葉は心強いですね。

>「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。
>そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」
>(旧約・箴言3章5~6節)

>道筋がすぐにまっすぐになり、平らになることもないのですが、
>どの道が良いかではなく、確かな導き手に全面的な信頼をするのです。
>たとえ、その道に困難があっても、いままで一度も通ったことのない道であっても、
>主なる神が導き手として共におられることに信頼するのです。
 
シャローム氏が、コメント削除したのは、主に信頼した結果なのでしょうか。主の導きなのでしょうか。彼は、不祥事を神のせいにするつもりなのでしょうか。また、自分のことを棚に上げて、好き勝手に神を語っています。言い訳がましく書けば書くほど、いかがわしさが積み重ねられるシャローム氏です。
 
「道に困難があっても」「神が導き手として共におられることに信頼する」ということを、言葉のうわべだけ、すり込もうとするのは、自分が招いた困難に対して、「神を信頼する」という言葉で、神が導くのだから自分は何もしなくていいと、改めようとせずに、責任逃れをするためです。彼の白々しい詭弁を覚えてください。
 
>良かれと思った道がかえって歩くことを難しくしてしまうことがあります。
>限られた自分や人の分別に頼ろうとすることです。
>今まで当たり前と思っていた自分の知識や経験、賢さに頼ろうとすることです。
 
シャローム氏は、知識や経験に頼らず、当たり前でない信仰によって反対意見を削除したと言うのでしょうか。自分の罪と偽善から責任逃れをするために、彼は自分の知識に頼ってはいけないと、良心も罪悪感も持たないのでしょうか、反省や修復の努力をまるでしないことを選んでいます。神は、彼の尻拭いをする役目なのでしょうか。これは、カインがアベルを殺した時より、神を利用しようとしている分、凶悪な妄想なのです。
 
>私たちの歩む道はただゴールに着くためだけではなく、
>その途上にもいつも最善をなさるすばらしい神の計画があるのです。
 
こういう言い方は、本当の素晴らしさを実感できない者が言葉面だけで讃美するときの、空約束の無責任な言い方です。
 
シャローム氏は自分が何をしてもしなくても、まるで無関係のように独立して自動的に神の救いが訪れると言っているのと同じなのです。このような信仰のあり方を喜んで信じるのは彼のような信仰の体裁だけを気にする者たちだけでしょう。心の中を見ない者の特徴です。常識と良識があれば、そういう中身のない信仰は馬鹿げているし、そんな考え方を通そうとすると勝手放題の悪になるだけだとと直観的に分かることなのです。
 
>時には道を見失い、途方にくれ、祈るほかないような状況にたたされることも必要なのです。
 
そこから、いつも助けられる、というなら、とても都合のよい話になります。信仰は、そのような約束ではありません。これこそ、安易に信じることであり、安易に約束することでしょう。シャローム氏が言っているのは、自分は何もしなくていいという妄想の正当化に結び付けたくて、こういう状況になっても、何も考えず何もしなくても救いが来るという妄想に人を導こうとする詭弁に過ぎません。騙されないように注意してください。
 
>かつて日本が石油危機に直面した時、資源のない日本には原子力発電が良いと考え、
>全国に54の原子力発電所が作られたのです。
>その結果、想定を超えた地震災害が起こり、安全神話は打ち砕かれ、
>福島の原発メルトダウンによって多くの人が平和な生活を破壊され、
>美しい故郷を失ってしまいました。
>今は北朝鮮のミサイルの標的にすらなる恐れさえあるのです。
>今日国連で日米韓による北朝鮮に対する厳しい制裁案が協議されます。
>北朝鮮はさらなる挑発を警告しています。
>私たちの計算や想定を超える問題となってしまいました。
 
ここで、テーマの質も大きさも異なるのに、政治と信仰を混同した、とてつもない飛躍をしてきます。大仰なるを好むシャローム氏らしいことで、今に始まったことではありません。ここでは、自分の信仰の問題を、原発や核ミサイルの脅威の問題にすり替えて、自分の責任を日本の歴史にすり替える、という、まともな頭と心ではできないような暴論の飛躍です。
 
シャローム氏のような人は、こういう場合でも、預言のように卓越した見解を述べているつもりなのでしょう。空約束の次は空回り、ひっくり返るほどの空振りになっています。ここでの彼の低劣な短絡的魂胆は、大きな話題を持ち出して、小さいと思っている自分の罪をまぎれさせたいのだろうと思います。
 
シャローム氏のように人のせいにして告発するだけという安易な考え方ではなく、この国に住むものとしては、原発建設の失敗を通して、原発建設を許してしまった私たち、という視点をも持ちたいものです。
 
>「急いで得た富は災いをもたらす」という聖書の言葉もあります。
>私たちはあまりにも自分の目先の都合や利益だけで道を選ぼうとしますが、
>主なる神は私たちには思いもよらない最善の計画によって導かれるのです。
>私たちの信頼できるナビゲーターは生ける神であり、み言葉なのです。
 
ここでシャローム氏は、生ける神を持ち出して、政治的な問題を、ざっくりと神を信じないからだという結論に短絡します。彼は、ずっとそんな感じの書き方です。政治について考察ができないだけでなく、考察しないまま立派なことを言ったつもりになる、という、彼の生き方のようです。ナビゲーターは神だと、政治に向かって、まるで実感も実質もない讃美をぶち込むことが信仰だと思っているのでしょう。カエサルのものはカエサルに、神のものは神に、信仰を裏切りっぱなしのシャロームの罪と偽善はシャロームに返されるでしょう。
 
>弟子たちもイエスさまに自分の夢の実現を期待しました。
>イエスさまが十字架のつけられて死なれた時、道を見失い途方にくれました。
>弟子たちも民衆もまったく絶望してしまったのです。
 
人の意見を聞かず訂正不能で学習機能ゼロだとこうなるという見本のようです。苦しみと悲しみと共感と人間への愛、というキリストが残した思いを考えることのできないシャローム氏です。シャローム氏の好きな解釈は、キリストが肉体をもって復活したという奇跡だけにすべての福音を集中させることです。彼には人間性が理解できないからです。弟子たちも民衆も絶望しただけではなかったのです。
 
>しかし、その後、自分の知識、経験を超えたよみがえられたイエスに再会し、
>自分の知識や体験ではなく、助け主として与えられた
>聖霊と神のみことば従う人と変えられたのです。
 
人知を超えて復活したキリストによって変えられる、という結果だけの美味しい話で、いったい何を伝えたいのでしょう。福祉の充実、フクシノジュージツ、と繰り返すだけの悪い政治家のリップサービスに似ています。このように、シャローム氏は、救いが人間離れの神の業でないと気が済まないのです。人間離れの理屈は、温もりも潤いもなくて、人間には理解できないのに、人間離れこそ信仰だと執拗に妄言を繰り返すのです。
 
ペテロは裏切りを悔いて激しく泣き、パウロは迫害を悔い改めて使徒となりました。この人シャローム氏は、リップサービスの拡声器になって、悔い改めません。
 
>聖書には
>「人は心に多くの計画を持つが、
>その道を導かれるのは神である」という言葉があります。
 
シャローム氏は、教理の言葉を詭弁に変えてしまいます。すべて神の導きだ、と言い放って、自分が犯した罪についても責任をまぬかれようとしています。神を強調するよりも人間として大事な罪の自覚を語るということが大事なのに、いかなる罪と偽善についても反省へ向かおうとしない人の文章です。
 
>世界は日ごとに混乱し、闇を深くしています。
>かつて72年前警戒警報を恐れ、防空頭巾をかぶり、逃げ回ったことが再来しています。
 
ここでは脅しです。脅し以上のことを書いていません。脅しだけでは救いにも福音にもなりません。
 
>このような時にも、生ける神の最善の導きの手が差し伸べられています。
>神を恐れず、自分を神のようなものとしている心のおごりを砕くために。
 
脅した後に、こうすれば救われるとつないでくる単純な詐欺的言い回しです。彼の説教は、大方、このような筋にしかならないものです。人間についての理解の深まりがないからです。シャローム氏こそ、自分を神のようなものとして心がおごっている典型です。
 
神によって最善の手を差し伸べられる、ということに相当する実質が、まるで書かれていない文章です。神に対して恐れを知らず自分を神の代弁者として、反省する必要を感じないシャローム氏の心のおごりは、いつ砕かれるのでしょうか。彼は、他者に教えを語っている場合ではなく、自分の先行きの心配をするべきなのですが。
 
>「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。
>そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」のです。
 
> 神の平安がありますように!
 
脅しと綺麗ごとで信仰は伝わりません。このような安穏で無責任な信仰の考え方が一掃され、一日も早く目覚めて、政治と信仰を分けて、具体的なことを考察できる人間になりたいものです。自分の作為による無刺激の安穏から、このような、よくなる、神がよくする、まっすぐにしてくださる、とだけ言い続けて伝道が成ると思っているシャローム氏のような人を誰も見向きもしない日が早く来てほしいものです。
 
 

 
「過去に学ぶもの、学ばないものの違い」という記事に
シャローム氏が書いたこと:
 
>ドイツも日本も先の大戦の悲惨な敗戦国。
>過去に学ばないものは過去を繰り返すと言われる。
>ドイツは過去に学び、戦争責任を負った。
>自らの過ちによって踏みにじった欧州諸国と和解し、
>経済復興を成し遂げ、中東イスラム諸国からの多くの難民を受け入れ、
>EU諸国の良きリーダシップをとっている。
>日本は過去を正当化し、戦争責任を負うことなく、
> 踏みにじった中国、韓国と和解できず、癒されぬ傷を引きずり、
>学ぶことのない過去の道へと引き返そうとしている。
>戦勝者アメリカの鎖につながれ、経済復興はしたものの、
>今は自分の過去の痛みを他国に負わせるアベノリスクの道をさまよっている。
 
シャローム氏が政治の記事に自分のコメントを書いているようだが、過去に学んだドイツはよいが、日本は過去に学んでいない、というボロクソ節になっています。このボロクソ節に対しては、それを、シャローム氏に向けて当てはめてみるだけで十分でしょう。シャローム氏の今までの横暴なコメント削除とコメント欄廃止による反対意見の隠蔽、今になっても終わることなく、過去に学ばず学ぶ姿勢もなく、自己中心に、見ないし聞かないが言うだけは言う、という態度からは、自分を見て、自分を斬らない限り、誰に対しても批判などする資格はないのです。
 
シャローム氏は、過去にも現在にも学んでいない。いくら告発調に豪語しても、かっこつけても、自己中の偽善者は謙虚の欠片も示してこなかった。シャロームの視野ROMに返されるのは、調子外れの遠吠えに過ぎないという判断以上にはならないのです。無反省を反省しない、偽善を反省しない、あらゆる反省をしないくせに、人のことばかり言っているという典型を示して恥を知らないのか、場違いなピエロになって醜態をさらしている自分を知れ、他者を人々を国を批判したいなら、自分を斬ってから来い、ということです。
 
 
面と向かって、とは言えないが、直接のコメントのやり取りでは、シャローム氏は、反論も弁明もできませんでした。シャローム氏のコメントの例としては、彼がすべてのコメントを削除してしまったので、ほんの一部ですが、私の記事「いのちのパン?」 下記URLを参照してください。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18423721.html
直接反論ができないシャローム氏は自己矛盾をごまかすために、その後に書く記事に、必然であるかのように、伝統的な標準的な聖句や教理さえも自分の欲求に沿うようにねじ曲げて、自己正当化を暗示するような書き方をしてきました。これは、故意であると思いますが、故意でないとしても必然と言えるでしょう。何故なら、既に、本人も気づかないほど、彼自身がねじ曲がっているからです。
 
信仰は、何よりも、人間を、控えめではなく、罪びとの一人としての弁えを持つ謙虚な人にする福音です。一人だけとんがって舞い上がり、平地を見下ろす気分で丘に立ちたがり、詭弁を説教し妄想を豪語する者の言は、その決して小さくない弊害の分だけ否定してゆくしかないでしょう。
 
 
(2017年09月30日、同日一部修正)
 
喩える(たとえる、譬える)
隠れ蓑(かくれみの)
 
 
 
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  空しい転載記事
 
 その名は不思議(批判対象ブログ)
 あらゆる境遇に対処する秘訣 (批判対象記事)
 2017/9/28(木) 午前 7:21
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28270590.html
 
 転載元:生活の中の聖書
 伝道者の書2:18~26ー神から離れてだれが楽しむことができようか!
 2009/10/27(火) 午後 0:45
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/21898742.html
 
 
シャローム氏によく似たお仲間サイトからの転載記事です。前にも書いたことですが、転載元は、以前はコメント欄があり私は書き込んでもいましたが、シャローム氏に転載され私が批判するようになってから、シャローム氏と同じように、コメント欄とゲストブックつまり書き込める場所を閉鎖しています。転載元は、批判されても目の前にコメントがなければ、思い込みで、批判を無かったことにできる人なのでしょう。転載元も、シャローム氏と同様に、誰とも意見交換をせずに独り言を発表して、人の言うことは聞かず、自分の言いたいことだけを言って、独りで満足するのでしょう。
 
>伝道者の書2:18~26ー神から離れてだれが楽しむことができようか!
>18 私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。
>後継者のために残さなければならないからである。
>19 後継者が知恵ある者か愚か者か、だれにわかろう。
>しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使ってしたすべての労苦を、
>その者が支配するようになるのだ。これもまた、むなしい。
>20 私は日の下で骨折ったいっさいの労苦を思い返して絶望した。
>21 どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、
>何の労苦もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。
>これもまた、むなしく、非常に悪いことだ。
>22 実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。
>23 その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、
>その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。

>24 人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、
>何も良いことがない。
>これもまた、神の御手によることがわかった。
>25 実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。
>26 なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、
>罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、
>たくわえる仕事を与えられる。
>これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。
 
多く持つ者は、また、多くの空しさを抱えるという聖句のようです。そこから、神から離れては楽しむことができないとも言っているところに、空しさを正直に語りながらも、共感を求めているような気がします。25節と26節は空しさを受け入れることの苦悩を思わせます。
 

ここでは地上の生活における満足に目を向ける者たちへの注意であり、それは持ち物だけではない。「あたなの宝のある所に、あなたの心もあるからである。」と言われているからである。

 
地上の生活に目を向けるな、といいたいのでしょうか。だとすれば、これほど空しいことはないでしょう。こういうことを平気で言ってくる、いったい誰が、神や天国のことだけを思いながら生きられるというのか。
 
こういうことを書く人は、この世が嫌いで嫌いでたまらない人で、その復讐心か敵意を神が晴らしてくれると信じているのだろうと思います。このように恨みに基づく信仰の行為は、今、全世界を荒らしまわっているのです。
 

神との関わりから外れている者は、この世の喜びを積み上げ、満たす生き方しか出来ない。
その労苦は、神の御前にはただの労苦であって、その人生はむなしい。

 
他者の空しさばかり、シャローム氏と同じようにボロクソ節で全否定して、自分は、神のみ前に恥ずかしくないとでも思っているのでしょうか。何ということでしょう。実に、自分を除外して他者のみを叱りつけているような書き方で、引用された伝道の書とは大きく異なることに注意していただきたい。
 

私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出てることが出来ない、
結局はそれを残して去って行かなければならないのだ。
この財産のために、骨肉相争いが起こることを私たちは聞き、見ていることである。
このことを考えることは悩みであり、悲しみであり、一日中、心が安息することがない。
これはいつの時代においても、私たちの思い煩いのもととなっているのである。

 
多く持つ者は、死ぬときには、それをすべて手放すのだから、相続争いが起きて悩むのでしょう。私たちの思い煩いのもと、と書いてありますが、相続などないか少ない人もいるし、そういう人のほうが多いのではないでしょうか。したがって、思い煩いのもとは、相続争いではなく、自分が空しくなってゆく人の宿命にあると思います。
 

自分の子孫がきちんと管理し、有効に用いてくれるのならそれはそれでいいのだが、
その保証はない。相続した財産を食いつぶされるかも分からないと思い煩っている姿がある。

 
相続争いだけが思い煩いのもとみたいに考えてしまうと、こういう結論になるのでしょう。私たちは、みな、死んだあと残した財産を食いつぶされるかもしれないと思い煩うでしょうか。深い存在の悲しみを思わないものは、安易な結論を出してきます。
 

ここでこの人物は、神から離れては何一つ喜びがない、
神の元に立ち返るようにと勧めるのである。
そこにこそ人は喜びを、人生の意味を、神とともに歩むことを見出すのだと。

 
空しさにも悲しみにも人間らしい共感を持ち得ない者が書いているようです。そして、信仰の美辞麗句を書いて、すべてが解決するかのように、断言するのです。
 

神との関わりを堅く保つ者には、本当の喜びが与えられ、
日々の労苦も神の御前には決してムダになることがないと。

 
このように、神を信じればすべてOKという空約束を、神の代理のようにするけれども、なぜ、どのように、OKなのか書かずに、言い得たと満足してしまうのです。
 

 箴言13:22
善良な人は子孫にゆずりの地を残す。罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。

 
>たとえこの人物のように財産を築き上げていたとしても、
>それは自分自身から出たものではなく、
>神からのものであると感謝し、それをしっかり管理し、
>キリストにあって楽しむ者でありたい。
>そして神によって与えられたものに執着せず、有効に用いていくことなのだ。
 
こういう文章を読んでいると、逆に、なんでもかんでも神を讃美すればよいというものではない、ということを切実に感じます。転載元は、こうやって一生、誰の心にも人間として響くことのない月並みな讃美言葉を教え続けるのでしょうか。
 

私たちキリスト者は、パウロが言うようにあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ているのだ。
この信仰で歩むのだ。そうでなければ、私たちも、神との関わりから外れている者と同じく、
私たちの歩みはむなしいものとなってしまうからである。

 
使徒であるパウロが言ったからといって、誰もが、と短絡してしまうところに、この転載元の計り知れない空しさを感じます。これだから、シャローム氏のような、世辞の丁寧語と嘘っぱちの聖書語を使う人に会うと、ころっと騙されてしまうのでしょう。うわべの優しさにだけ反応して、自らの深い悲しみと罪に向き合うことができないのだろうと思います。
 
私たちは、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得てなどいません。このような豪語は、身の毛がよだつ代物です。ときには転んで傷だらけになることもあるわけで、そういうときに生まれるどうしようもない悲しみから、伝道の書の「神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか」という道を見出してゆくのです。
 
私たちは、一生、未成熟の弱さと悲しみを神にささげて、赦しと救いと癒しと導きを祈り願う者です。これは、道であり途上なのです。「秘訣を心得ている」などと言って、完成した境地を自慢するときから、道は獣道に荒れ地に砂漠に向かってゆくでしょう。
 
パウロでもないのに「あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ている」と言うことは、分かっている、見えている、知っている、守っている、ということと同じように、まともな信仰者であるならしないことです。絶対の存在である神が、自分が飼っている自分のものではなく、自分外にいて、自分とは違う御方で、その御方に祈る姿勢を持っているなら、完成や完全無欠や無敵を誇るような強気で物を言ったりしないのがキリスト信仰者です。
 
 
(2017年09月29日)
 
 

 
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  大事とは?
 
 批判対象:「その名は不思議」ブログ
 管理人:shalom
 批判対象記事:
 強さと弱さ どっちが大事?
 2017/9/8(金) 午後 3:26
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28244584.html
 
 類似の過去記事:
 弱さ、強さ、どっちが大事? 
 2016/6/7(火) 午前 7:31
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27504492.html
 強さと弱さ、どっちが大事?
 2015/9/17(木) 午前 8:46
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26931174.html
 
 
シャローム氏は、もう殆どコピペすることで、書いたことにしているようです。今日も、まるでキリストのように丘に立って見下ろしたがる者を、そこに立つ御方はただ一人である、さっさと下りてこい!と、私は言うことになります。
 
>+++++++++
>★今日のみ言葉★(2014.6.13)
>+++++++++
>「どちらを選ぶか」
 
>人生には大きな選択から小さな日々の選択までいろいろあります。
>どちらを選ぶかで、その先の進む道が大きく違ってくることがあります。
 
彼は、善悪の判断を放棄するとか言っていて、そのことをまだ訂正していないのですが、何もなかったかのように、この記事を書き、小さな日々の選択があると書いています。日々の選択には善悪の判断は入らないのでしょうか。
 
>詩篇119:29、30
>偽りの道をわたしから遠ざけ
>憐れんで、あなたの律法をお与えください。
>信仰の道をわたしは選び取りました。
>あなたの裁きにかなうものとなりますように(新共同訳)。
 
>今日のみ言葉には「偽りの道」と「信仰の道」とふたつの道が出てきます。
>「真実の道」「真理の道」と訳されている聖書もあります。
 
彼には、自分の罪に向き合う心がないので、平気で「偽りの道」と「信仰の道」などと書いてきて、
 
>偽りと真実とは大きく違います。
>ところが、現実には、偽りが本物のように思えることがあり、
>また、真理や本物が偽りのように思えることがあります。
 
そう見せてきたのは、まさに、彼自身です。そうでないなら弁明か反論ができるはずですが、彼はコメントを削除して最初から無かったかのように見せかけているのです。
 
>どちらも外からは分かりにくい心の内面から始まる道です。
>ですから、どちらを選び取るかの決断は心の中でなされ、
>それが外に、行動に現されます。
>あなたやわたしには、その決断のための判断、基準となるものがあります。
> 
>何でしょうか。

>世間の常識、自分の経験や知識を基準とすることもありますが、
>他方は主の「律法」、つまりみ言葉ですね。そして主の「裁き」、主の判断です。

>ですから、信仰の道、真理の道を選び取るとは
>自分の中の不真実や偽り、偏見によって道を選び取るのではなく、
>私が道であり、真理であり、命であると言われた主イエスを選び取ることです。

>どう思いますか。
 
こういう真理や命といった讃美の文言を、シャローム氏は、こよなく愛しているようです。これによって、自分は主イエスの判断によっていると主張したいからです。主を選んで従う者が、どうして他者の意見を削除して、双方向を遮断する必要があるのでしょうか。彼は、人の言うことが分からなくても分からないと言えず、自分が何を言っているのかも殆ど把握できていない文脈なのに、できているという体裁を装っています。表面だけ膨張した言葉を使い、大仰に讃美することをことさら強調するしかなくなっているのです。主イエスを選ぶことがどういうことなのか、全く分かっていないのに、考えもせず、主を選ぶと言い続けている拡声器に過ぎません。
 
>《shalomのコメント》

>平和と安全を求めながら、戦争の火の粉が絶えたことのない人類の歴史。
>だからと言って、人間がみんな悪人というわけではありません。
>いや、むしろ、善人のつもりでいるのではないでしょうか。
 
自分はどうなんだ、ということが、シャローム氏には、付きまとうでしょう。自分についての無自覚が、信仰を、正義を、根底から台無しにしてしまっています。信仰を、種無しに変えてしまいます。
 
>ひとりひとりの人と会ってみるとよい人なのに、
>群れの中のひとりになったり、権力を持つと別人に変わることがあります。。
>日頃は常識も良識があるようでも、人はそれほど強くはありません。
 
そうでしょうか。シャローム氏に、少なくとも、この6年間、常識や良識を認めることは一度もありませんでした。むしろ、暴力的な権威主義を感じるばかりです。
 
>いや、むしろ、ひそかに弱さを恐れているのではないでしょうか。
>弱い犬ほどよく吠えるといわれます。的を得た言葉のようです。
>ですから、誰でも心ひそかに力を求めています。
 
このように、白々しい丁寧語で、「弱い犬ほどよく吠える」と当てつけて、他者の弱さをあざ笑うのが、シャローム氏のやり方です。丁寧語が侮辱になる例として覚えてほしいところです。彼が、心の底では、いつも他者を自分より劣った下の者とみなしていることが、よく表れています。しかし、その根拠を示したことは、一度もないのです。彼は、他者が意見を書き込めないようにして、逃げまくっているだけなのです。
 
>体力、能力、集団の力、精神力、経済力、軍事力、政治権力など・・・。
>力はもつとやはり誇示したくなるし、支配したくなります。
 
持たないのに力と立場を誇示したいシャローム氏のような人は、強制力に頼ることになり、いつか、無秩序な暴力行使に至る可能性があるだろうと危惧しています。
 
>親の養護なしには生きていけない幼児にも万能感があります。
>泣いたり、笑ったり、駄々をこねたりして、
>なんとか自分の思い通りにしようとする。
>いつまでもできることではありませんが、親が甘やかしすぎると、
>いつまでも幼児的な万能感を手放せなくなります。
 
そして、今でも、全く理路の成り立たない幼児的な詭弁や、神の名だけを悪用した万能感に浸っているのがシャローム氏なのです。幼児的な万能感は今でもシャローム氏の持ち物です。既に、一度も弁明できていないことが証拠になっているのです。
 
>誰しもいくらかそんな幼児的な万能感を残しているにちがいありませんが、
>人は生きてる限り弱さから卒業できないのではないでしょうか。
>人は決して自存的な存在ではないからです。
 
にもかかわらず、自分で、コメント削除やコメント欄とゲストブック廃止という小細工によって、なりふり構わず、自存を守ろうと、自力しか使えないのがシャローム氏です。
 
>弱さには恐れ、不安がつきまといます。
>むしろ人の成長、成熟には必要ですが、やはり辛いものがあります。
>いつまでも甘えたり、吠えたりしないで、
>そんな自分に向き合うかどうかが分かれ道のようです。
 
自分に向き合えないシャローム氏は、甘えそのままに、浅きを深く見せようとして、自分のことを他者のことのように見せようとして、泡を吹きながら、針小棒大に書き連ねるのです。それが、少なくとも6年間、変わらぬ彼のやり方でした。
 
「自分に向き合う」という言い方を、かつて、根拠もなく批判者である私に向けてきました。しかし彼は根拠を全く示せないのです。この言い方は、こう言えば済むと思っているのでしょうか、困った時の彼の常套句か口癖のようです。
 
むしろ、前から言っているように、自分に向き合い、自分を見るべきなのは、彼のほうだと思っています。何故なら、大方の彼の言い分には、自分はどうなんだ、と聞き返したくなるからです。つまり、ここもそうなんです。
 
>そんな弱い自分を支え導き、守ってくれる存在が必要ですが、
>他の人や見えるものを当てにしていると、きっと傷ついたり、躓いてしまい、
>依存と支配の罠にはまってしまい、ますます不安に囚われてしまいます。
>本当に信頼できる助け、確かな導き手が必要になります。
 
彼が、トラブルを人のせいにするときに出してきた、不安、依存、というキーワードです。まるで心理学者か精神病理学者のように、実際は、言いがかりの小石を投げるしかないようになっています。妄想教理の捏造で成長拒否に固まって未成熟のまま、また自分の非を人のせいにしています。
 
>「偽りが本物のように思えることがあり、
>また、真理や本物が偽りのように思えることがあります。」
 
自分はどうなんだ、ということを考えないと、すべての問題を他者のせいにして、他者が偽物だという決めつけだけから、このように丁寧語で諭すような薄っぺらな文章を書いて自分の醜さに下手にペンキを塗って、いっそう悪くするしかないのでしょうか。訂正不能の学習拒否の末路を見ている思いです。生まれてこの方、シャローム氏は、作戦の練り直しはしても、本当の反省をしたことがないのではないかと思います。
 
ブログの普通のやり取りをしているうちに、思想や考察を旨としている人にとっては、必ずといっていいほど迷惑になる人なのです。かといって、そのまま受け入れてしまうと、彼に逆らわないこと、つまり、従属をすり込まれて奴隷のような根性で生きてゆくことを、彼に対して肯定してしまうことになるでしょう。
 
しばらく連続して批判の突っ込みを続けると分かります。彼は、真実を追求する議論のできない人です。その身の程を弁えれば、日記的信仰ブログを書くこともできるでしょうけれど、彼は、信仰の先生という立場にしがみついています。そして、すべては、見せかけだけとなったのです。
 
> しかし、弱さは人と人とをつなぐ絆かもしれません。
>強さと弱さ、どちらを大事にして生きているでしょうか。
>むずかしい選択ですね。
 
何をもって難しいと言っているのか、といった大事なところだけは書かないシャローム氏です。本当に自分の弱さを認めて信仰を考えたことがないからでしょう。聖書はキリストを表していますが、シャローム氏は、弱さという言葉面、キリストという言葉面を使って、人前に自分を認めさせようとしてきただけだと思います。
 
>イエスは生ける神を信じ、信頼して生きる弱さを選択されました。
>その道は“ローマ人でなければ人ではない”といわれた政治的権力、
>イスラエル社会の宗教的、社会的権力者によって十字架につけられる道でした。
>十字架の道がいのちの道であることを証しされたのです。
 
彼の文章に、キリストを見たことは一度もありません。つまり、説得力がないのです。自分勝手なシャローム氏にとって、キリストは切り捨てられています。彼がキリスト・イエスのことを書くとき、そこにあるのは、彼の舞台で踊る貧相な大根役者でしかありません。もう、すべて証拠は出ているのです。彼の文章は悪あがきだけになっています。その分、ふてぶてしさが強くなっているだけです。
 
>かつてはユダヤ人でありながら、生まれながらのローマ市民権を持ち、
>イスラエル社会の権力者としてのエリートの道を歩み、
>イエス・キリストを信じる人々を神を汚すものとして憎み、激しく迫害していた
>使徒パウロは次のように書いています。
>「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。
>人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、
>身分の高い者も多くはいない。 それだのに神は、知者をはずかしめるために、
>この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
>有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、
>すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
 
迫害者であったパウロは、悔い改めて使徒になりました。そのパウロが言っているのです。弱さを誇るともパウロは言っていますが、この意味をシャローム氏は、短絡的にしか取れないので、そのまま「弱さを誇る」の深みを知らず、なんとなくよさそうだからと、そのまま言うタイプの人です。
 
彼は、一度も弱さを見せたことがありません。非を認めたことがありません。罪を認めたことがありません。悔い改めたことがありません。彼は、弱くなるためではなく、弱いからでもなく、何をしてもしなくても、強くて誰にも負けない自分をほしがっているだけなのです。それは、最悪の自己中絶対化として、表れてきたのです。
 
>それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
>あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。
>キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、
>義と聖とあがないとになられたのである。
>それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。
> (新約・コリント人への第一の手紙1章26~31節)

>神の平安がありますように!
 
このような聖句を挙げても、シャローム氏は、納得のゆく説明をしたことがありません。美辞麗句が美辞麗句のまま終わって、それで言い得たと満足しているのです。讃美に利用するだけなのです。それによって、分かっているふうを装い自分を高めるだけで、かえって、いっそう泥だらけになって、無駄なあがきを続けているだけなのです。彼は、神のみ前、ということを分かっていないから、偽善と讃美が同時に表れるという矛盾を気にせずにいられるのでしょう。
 
不全で弱い人間として、罪びとであることを認めて、祈りのうちに、悔いることと、この世ではなく神への従属の姿勢を新たにすること、赦しと癒しを乞い、導きを願う、という信仰には、孤独の悲しみのうちに砕かれた魂がいつも最後にたどり着くところの、絶対孤独ではない時と所があります。そこで信仰者は自分という人間を見つめるのです。
 
そこからは、決して上から教える立場は生まれ得ないのです。
 
 
(2017年09月28日、同日一部修正)
 
 
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  空の空論
 
 批判対象:
 「その名は不思議」ブログ
 管理人:shalom
 批判対象記事:
 伝道者の書1章1~3ー空の空。すべては空!
  2017/9/26(火) 午前 9:17 
 https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28268044.html 

 
 転載元:

 生活の中の聖書
 転載元記事:
 伝道者の書1章1~3ー空の空。すべては空!
  2009/10/19(月) 午後 1:03 

 https://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/21751642.html 
 
転載記事です。一方的な断定が多くて、シャローム氏によく似ています。
 
>1 エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。
>2 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
>3 日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。
 

この書はいきなりすべては空(くう)の空であると言うのである。問題はこんなことばを言う人物は誰かということである。

 
引用は旧約聖書の伝道の書の冒頭です。ダビデの子と書いてあるから著者はソロモン王とみる向きもあるようですが、
 
近代における研究では、『コヘレトの言葉』はソロモンから数百年も後代の紀元前4世紀から同3世紀にかけての第二神殿時代に書かれたと推定されている。同書の著者あるいは編纂者は、当初よりこれを知恵文学を代表する著者名であるソロモンに(律法全体をモーセと呼ぶように)仮託したものと見られている。
(ウィキペディアより)
 

私たちは何かに失敗し、如何にも悟ったようにこのように言うことがある。「何をしてもうまく行かない。むなしい。」と。ここで言われることはそのようなものではないのだ。
イスラエルの王で、あらゆる名声と権力と冨と知恵に富んだ人として最高の地位を得た人物が、その人生を通して、見出した中で得た結論なのだ。それが「空の空。すべては空。」であると言うのである。

 
空の空、というのは、「あらゆる名声と権力と冨と知恵に富んだ人として最高の地位を得た人物」が言うから意味があり一般の人が言っても意味はないような言い方をしています。この転載元は、何でも好きなようにできるはずの地位の高い人が言うから、意味が分かるというのでしょうか。そういう人の「空」だから分かるというのでしょうか。自分を同じ位置においている証拠ではないでしょうか。何様のつもりでしょうか、否、自分を高いところにおいているから、そこからこういう蔑みを平気でする人のようです。
 
それとも、地上の栄光を得た王さえこう言うのだから、書いてあることは正しく、すべての人に通じるという根拠にしたいのでしょうか。もし小さく弱い人が「空」とか「空しい」とか言ったら、この転載元は「そんなものじゃない」とでも言って一蹴するつもりでしょうか。あるいは、ここに書いたようなことを語るつもりでしょうか。自分は大きい人のつもりなのでしょうか。いったいどんな人間関係を学んできたのでしょう。
 
この「空(くう)」は、それを言う特別の地位の人物だけの「空」ではありません。この地上に存在することの悲しい「空」なのだと思います。無常も悲しいし、何かを失うことからの空しさも悲しいのです。得たものが多ければそれだけ多く空しさを感じる、という以外の違いはないでしょう。転載元は、いかなる身の程で、なにを特別になりたがっているのでしょう。「如何にも悟ったように」言っているのは誰でしょうか。
 

私たちは日々に於いて何らかの労苦をする。ブッタは私たちの人生には四苦八苦というものがあると言う。
四苦それは生病老死と言い、私たち人間というのは、この世に誕生した時から始まり、その間には病があり、老いていくこともあり、この世から切り離される死まで苦しみを負う存在だと言うのだ。
そしてそれに加えて4つの苦しみがあると。愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰情苦である。愛する者と別れる・一緒にいたくない者にも会わなければいけない・求めても得られない・肉体的、精神的な生きるための苦しみのこと。


 
労苦について、キリスト信仰から述べるのに、ここで転載元は、なぜか、仏教の結構難しい熟語について述べています。転載元は、以前、小説「蜘蛛の糸」を引用し、キリスト教の神はこんな救い方はしないと、小説の批判をもって仏教を批判したことがあります。ここも同じ意図なのでしょうか。ならば、恥ずかしいことなのですが。
 
私はと言えば、例えば、色即是空の色は現象のことで空は実体がないことを意味する、というのをテレビで聞いたことがありますが、よくは知りません。知りもしないことは、仏教徒ではないのだから、書かないほうがよいと思います。それこそ無知発信からの空しいだけの話になってしまいます。
 

その根源的な原因を聖書は神に愛されていることを知らず、創造主なる神を無視して生きている罪の人生にあるのだと言うのである。

 
そして直後のここは、どう考えても、キリスト教の教理なのです。書きたいように気まぐれに書いていて、文脈の節操と分別が乏しいという印象を受けます。
 

この書は何一つ不可能ではなかった人物が、私たちに代わっていろいろと試みた記録集であり、教訓でもある。その一つの結論が1:2~3「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」である。

 
「何一つ不可能ではなかった」は、これだけでは甚だ不十分です。得れば得るほど空しさを感じるのは、どうしても手に入らないものがあるからでしょう。それは、王でも手に入らないもの、例えば、神聖なる永遠の命ではないのでしょうか。地上の富を得るだけでは、人は、いつか結局、満たされなくなるのです。ここは書き方が荒いと申し上げます。
 

このことは老若男女すべてのおいて語られることなのだ。これらの問題の答えは政治の力でも解決出来ない。それはこれまでもそうであったように、これからもそうであろう。「空の空。すべては空」からの解決は人間の創造のもとに帰ることが必要なのである。

 
人間の創造のもとに帰ることが必要と、まず一発目の、空想の空論的言葉を述べています。ここが空虚であるのは、言葉通りなら戻れないし、今、神のもとにということなら、そんなに気安く言い得る言葉ではないからです。
 

そうなのだ。私たちが自分のためを優先し、自分を生かすことにのみ心を注いでいるゆえの苦しみなのだ。私たちの人生は、自分の幸福と欲望を充たすことにあると考えている。

 
自己肯定しています。それで、幸福を求めてはいけない、また、欲望は悪だ、というような単純で極端な道徳がキリスト教だと言っているのでしょうか。どこかで誰かが既に言っているようなことを言って、どこが福音つまり良き訪れになるのでしょう。原始人に説教しているのではないのです。
 
ここにも、シャローム氏の自己中の正義に凝り固まった神がかる立場からのボロクソ節に近いような気がします。
 

パスカルは「人間の心の奥深いところには、神のかたちをした空洞があり、この空洞は神以外の何物を入れても、決して満たされない空洞がある。」神との親しき交わりが失われているから、何かで埋め合わせようとするのだと言う。

 
神との親しき交わり、という言葉も、神という絶対を恐れる人にとっては迂闊に口にできない言葉なのですが、人間の立場を離れ、神がかりの立場に立つ者は、こういうことをしばしば語りたがる傾向があります。二発目の空想です。
 

偶然の要素である満足感は環境に左右されるものである。しかし神から来る幸いは真の満足なのだ。もう一つの結論はこうである。

 
「神からくる幸いは真の満足」という言葉には転載元の気張りがあるようです。そう習ったか、そうでなければならない、という気持ちが、気張らせていて、実感と共感を誰にも与えることのできない三発目の夢想言葉です。
 

12:1「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』という年月が近づく前に。」なのだ。

 
バカボンのパパみたいに思えてきました。この聖句は私の好きな聖句なので若干腹が立ちます。
 

イエスは私たちのさまざまな苦しみをその十字架で負ってくれたのだ。だからこそ、私たちはイエスの足跡を覚え、イエス・キリストとともに行く道は「すべては空の空。ではなくすべては益の益。」となっていくことを信じ、歩み続けていきたいのである。

 
「すべては益の益」と信じて、歩み続けていけるでしょうか。転載元は、念じているだけで、少しも切実に伝わってくるものがありません。空を益に替えただけの四番目の空想です。こういう文章こそ、シャローム氏のような自己中の偽善者には、美味しい餌づくりの仲間になるのです。そういうシャローム氏の影響の証拠であるかのように、転載元も、いつのまにかコメント欄とゲストブックを廃止して、単方向の言いたい放題ブログにしています。
 
>転載元: 生活の中の聖書
 
シャローム氏が、好んでしばしば転載するキリスト教のブログです。
 
シャローム氏の記事にも、この転載記事にも、共通して見えてくる考え方の欠陥は、人間らしい悲しみの共感の立場がまるでないということです。悲しみをいくら否定しても悲しみは追いかけてくるのに、まるで悲しみこそが罪悪であるかのように忌み嫌っている。そういう考え方が、結局たどり着くのは、言葉だけマイナスの感情を否定する方向、そして、実感のない空虚な讃美の言葉の羅列、それこそ思い込みから空想に至る自分信仰、空し過ぎる空論なのです。
 
ここでの私のキーワードは、
空しさ、実体のなさ、
そして、しつこいようだが、
存在することの
悲しみの共感、です。
 
キリスト教の指導者たちは、キリスト教系の不適切な思想やカルトに対して批判をしてこなかったと思います。それが「悪い言葉を用いてはならない」という聖句などから、悪口と批判を混同して、批判禁忌の不文律を助長してきたのだろうと思います。それゆえ、どんどん境地自慢の空想信仰者が増えてきたのでしょう。
 
 
ちょっと気取っていますが、昔私が書いた宗教詩みたいなものを載せておきます。
 
   友
 
あなたが多くの人に出会ったとして
どれほどの人に愛されたであろうか
どれほどの人に傷つけられたであろうか
と考えるよりも先に
どれほどの人を愛したであろうか
どれほどの人を傷つけたであろうか
どれほどの人に悪意をいだいたであろうか
人は到底それらすべてを知り得ない
傷つけられたことは覚えているのに
傷つけたことは容易に忘れてしまうか気づいてさえいないものである
忘れることをすべて幸いといえるだろうか
すべてを忘れることの不幸を少しでも思うならば
父なる神、主を恐れることは知恵の始めである
 
あなたに多くの友がいるとして
どれだけが欲の友であろうか
どれだけが虚礼の友であろうか
どれだけが理屈の友であろうか
どれだけが誠の友であろうか
たとえ誠の友・真の友・愛する友がいたとしても
人の心はうつろいやすく命には限りがあるのだから
友が先に死んだならば取り残され
あなたが先に死んだならば友が取り残されるのである
別れと孤独を少しでも思うならば
永遠の友、主を覚えることは愛の始めである
  
  
  ヨブ・伝道者・キリスト
 
真昼の空にある星たち
真冬の海に降る雪たち
 
かけがえのない
孤独の夜に散る命
孤独の昼に叫ぶ命
 
どこかで過ぎる
この世の時
どこでどのように送られ
過ごすのでしょう
あの世の時
 
ヨブほどに栄えることもなく
ヨブほどに悲惨なこともなく
試されているとき
キリストほどに孤独でもなく
キリストほどに語られることもなく
主よ
空の空
伝道者よ
楽しめる取り分は
目の前に
明日に
昨日に?
見ようとしても
見えないものたち
どこにありますか
 
 
  うつしよ
 
音信は彼方よりも来るとはいえ
スクロール スクロール ・・・
しだいに揮発するかのように
見えなくなる現世(うつしよ)を
空の空とも 無常とも
有為(うゐ)とも 奥山とも
思し召せ 音信は彼方より
胸に迫り 胸に落ち
胸に刺して傷む個を
個は否みようもなく
ともに 束の間 祈り
仰ぎ見るほかに何が出来よう
 
互いに朽ち果てる肉体を抱えて
御国にて再会 しばし疑い
いずれ 互い も 途絶えて
隠世(かくりよ)に消え去るというに
その時までの ひとときを
弱々しい音信を頼りに
心を揺らしているしかない
 
だから恩信の友よ
音信の友よ
信仰の友よ
孤独の友よ
友よ あなたは
友よ わたしは
友なのか
 
 
(2017年09月27日、同日一部修正)
 
迂闊(うかつ)
羅列(られつ)
 
隠世(かくりよ)
かくりよ:
 常世(とこよ)、かくりよ(隠世、幽世)とは、永久に変わらない神域。死後の世界でもあり、黄泉もそこにあるとされる。「永久」を意味し、古くは「常夜」とも表記した。日本神話や古神道や神道の重要な二律する世界観の一方であり、対峙して「現世(うつしよ)」がある。
(ウィキペディア)
 
隠世は、神道の言葉でしたか、知りませんでした。仏教かと思っていました。失礼。
 
 

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  壊れたナビ
 
 批判対象:
 「その名は不思議」ブログ
 管理人ハンドルネーム:shalom
 
 批判対象記事:
 確かなナビ情報が必要
 2017/9/14(木) 午前 8:41
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28252491.html
 
 類似過去記事:
 ナビ情報は大丈夫?
 2015/10/8(木) 午前 6:39
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26980409.html
 
 
>+++++++++
>★今日のみ言葉★
>+++++++++
>「人生の夜道でも」
 
>車を運転している人は経験しておられるでしょう。
>夜の道を車で走る時、ヘッドライトの光が前方を照らしてくれますから、
>暗い夜道でも安心して走れます。
 
気を付けてください。ずいぶん前から、ナビと偽って、訪れる人を魔界の奇跡信仰や妄想信仰へ導く者がいます。
 
>詩篇119:105
>あなたの御言葉は、わたしの道の光
>わたしの歩みを照らす灯。(新共同訳)
 
>思うようにならない人間関係、経済的な不安、老後の心配などなど、
>人生の夜道を進んでいかなければならないことがあります。
>あなたやわたしの歩む道の前の方を照らしてくれるものがあります。
 
夜道から、さらなる闇へ連れていかれてはたまりません。
 
>今日のみ言葉によれば、何でしょうか。
>主のみ言葉です。
>目に見える現実はいろいろあっても、
>少し前が、そして時には遠い先までも見える時、
>心の深いところに平安と安心感があります。
>日々のみ言葉があなたやわたしの人生の歩みの光となって、
>心に前向きの希望をもって生きられることはすばらしいですね。
>特権ですね。

>どう思いますか。
 
その者の言い分は、主のみ言葉ではなく、約6年間ほど見ていますが、現時点でも、ペテン師の誘い文句に等しいと言わざるを得ません。丁寧語で温和だと思わせ、聖書語で熱心だと思わせ、安心させながら、特権?として、罪を気にしなくていい、善悪の判断などしなくていい、などという妄想を刷り込み、結局、ペテン師をあがめるようになってしまうような、戻ることのできなくなる獣道へ連れてゆくのです。
 
それが、約6年間の批判で指摘されているのに、今も、やめようとしないのです。既に犠牲者がいるようで、私のブログのコメント欄に恨み言を書かれたことがあります。また、荒らしを働いた者もいます。
 
彼の「どう思いますか」は、コメント欄もゲストブックも廃止した彼のブログでは、意味などありません。彼は、人を人とも思っていないことが明らかになってきました。
 
>《shalomのコメント》
 
>ちょうどひと月前になりますが、車で出かけました。
 
上にあげた2年前の類似記事のほうにも同じ「ちょうどひと月前」と書いてあります。ほぼコピペに近い記事ですが、2年前と同じなのは、あまり記事を書くことに真剣ではないようです。
 
>ふと思い付きで出かけるのが私の旅スタイルです。
>あまり高速道路は走りません。
>早くて楽ですが、走っていても楽しくありません。
>余計なお金もかかります。
 
シャローム氏は、70代半ばで、ドライブは控えたほうがいいかもしれませんが、伝道のほうも、楽しみを人に与えることはなく、関わる人を乗せて、悲惨な結末へ、ひた走るようです。シャローム氏の旅スタイルに従うと、彼と同じように、ふと思いつきで書いて、信仰について書いたつもりになってしまうでしょう。
 
>ゆっくり思いつくまま走るのが好きなのです。
>今まで走ったことのない道をあちこち走り、
>連れ合いは道の駅をのぞくのが好きですし、
>だいじなマーキングをするために立ち寄るのです。
 
この記事のように、丁寧に世辞で交わりながら、聖書の言葉の中の、彼によって都合のよい欠片だけを見せながら意味を変えて、じわじわと刷り込んでゆくようです。彼の説教の理路は、冷静に考えると、思いつきだけの単純な短絡と詭弁で、キョロキョロとあちこち覗いては落ち着きなく都合のよい言葉を、理解もせずに勝手な解釈で上機嫌に振り回し、小便のように臭い讃美のマーキングをすりつけてゆくのです。
 
>ですから、必ずナビだけはつけて出かけます。
>ナビは本当に便利ですが、そのナビの案内に従って走ると、
>まあ困ることもあります。この道はどこに出るのだろうという道もあり、
>お!新しい広い道が走り、ふとナビの案内を見ると、
>車が道なき道、空中を走りはじめます。
 
まさに、彼の福音伝道と称する説教こそが、そのように、道を知らず、それでも達しえたとか、キリストが背中を押してくれるなどと言って、空っぽの指針で空中を、黄泉に通じる広き門に向かって走ります。こういう彼の正体を見抜くまで、私は、出会った最初の数年+批判してきた6年を要しました。
 
>まあそれもいいかと走り、楽しめるうちにいいのですが、
>不安になることもあります。
>こんなところに出るのかとびっくりさせられたりします。
>なにしろ、私のナビは10数年前のものなのです。
 
ナビに信仰を喩えているようだが、信仰においては、ちっとも、よくはありませんね、どこへ出るつもりなのでしょう。本人さえも分からないで、人を誘っているのです。推測ですが、おそらく何十年も前からでしょう。また、信仰について、シャローム氏は、びっくりしたかどうかは知らないが、少なくとも道を改めたことはありません。
 
>ナビが新しい道路情報になっていないために起こることです。
>そんなミニ旅行でも、そうなのですから、
>人生の長旅には確かな道案内情報が必要だと思いますね。
 
そうです。彼のナビは全くアップデートされません。勧めても無駄でした。訂正不能に固着したままなので、刻々変わるこの世の人生の道案内など、できはしないのです。
 
>ナビの情報の確かさが何より大事なのですが
>この国のナビゲーターの美辞麗句のキャッチフレーズに
>うっかりついて行くと、何処に連れられて行くかわかりません。
 
シャローム氏のナビゲーターの美辞麗句のキャッチフレーズにうっかりついて行くと、どこに連れられて行くかわかりません。まさに悪い政治家と同じなのです。
 
>「世界の中心で輝く日本」「積極的平和主義」「平和と安全」
>「一億総活躍社会」、働き方改革、「人づくり革命」とか、
>なかなか華々しい、ちょっと心をくすぐるような
>キャッチフレーズが踊りますが、
>ハーメルンの笛吹男とネズミの行列のようになっていないかな。
>さてゴールはどこだ?
 
政治について私は、「美味しい日本」「拙速平和主義」「専断的自衛権」「一億総括約」と書いたことがあります。シャローム氏は、丁寧であるかのように見せかけた讃美、反対意見の削除による偽装、都合の悪いことすべて隠蔽、言い逃れ、など、悪い政治家に性根がよく似ています。「世界の中心で輝く」のではなく、自己中心の脂にテカるシャローム氏です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10152447800
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10158646215
つまりハーメルンの笛吹き男はネズミを退治したのち、報酬をもらえず、町の子供たちを戻れない洞穴へと導きました。シャローム氏は、ネズミにも笛吹き男にもよく似ているということです。彼が他者を批判するとき、いつも、自分はどうなんだと問われていることに、彼は気づきません。
 
>世界は欲望をくすぐる甘~いドラッグのような情報にあふれています。
>あっちでもこっちでも大混乱が起こっています。
>私の旅もナビに助けられたり、ちょっと惑わされたりしました。
 
シャローム氏の丁寧語と聖書語による説教は、思慮による検証の苦手な人にとっては甘いドラッグのような誘惑になりえます。その先は大混乱で、助けられることはなく、ただただ惑わされるだけです。
 
また、シャローム氏は人の気持ちがわからないので、適切なアドバイスなどできないと思います。彼は、信仰のナビについても、ただ讃美するのですね、ただ感謝だけですね!、などというアドバイスをするのが落ちでしょう。かなり前ですけど、実際にありました。
 
>初めて行った所、思い出深い処を訪ね、懐かしい人に出会う
>人生の確かなゴールへのナビが必要だと思わされた旅でもありました。
 
よい思い出も残せず、懐かしくもなく、未だに、飾り文句と勘違いした聖句を書いて、妄想を繰り返し広めようとするシャローム氏なので、決して人生の確かなナビへのナビにさえなりえないと思います。
 
シャローム氏は、罪悪感を感じることができず、人に指摘されると不快だけを覚えるのだろうと思います。また、彼は、批判に対して全く反論も弁明もできない自分という現実感がなく、解決するための現実検討能力が欠けているのだろうと思います。彼は、ただ不快なの感情だけで、ときに衝動的に、ときに策略的に、行動化しているように思われます。
 
>「あなたの御言葉は、わたしの道の光
> わたしの歩みを照らす灯。」
 
また、都合のよい讃美の聖句と讃美です。このように歩みを照らされたつもりのシャローム氏は、はぐらかし、言いがかり、言い逃れ、侮辱、拒否、削除などを、同時にできてしまう人なのです。彼自身は、何に照らされているというのでしょう、いったいどこを照らせるというのでしょう。彼は自分の足元の闇にさえ気づきません。
 
>聖書は古いけれども確かナビゲーターです。
 
彼のナビゲーターの導く先は、捏造の安穏境地であって、進んだり歩んだり成長したりできる性質を持ちません。
 
ところがシャローム氏は、そのような疑問を考えようともせず、自分の妄想的解釈にとどまり不動不変となってしまっています。不動不変を決めているのに、どうしてナビの道案内を求めるなどと言えるでしょう。彼がナビだと言っているのは、悲惨なことに、思考停止なのです。だから、心にもないのに気安く、確かなナビゲーターなどと言えるのです。実際には、信仰というナビゲーターを、彼は、とうに捨ててしまったのです。
 
聖書は決して古くはありません。なぜなら、まだ解釈の余地が、たくさん残っているからです。そういうスタンスを持つべきなのです。信仰は、出来上がって完璧になって安穏としていられるような性質のものではありません。主の導きは、生きて喜怒哀楽とともに努める人間に働き、生きる人間とともにあるのです。
 
 
(2017年09月26日)
(2017年09月28日、一部修正)
 
欠片(かけら)
喩える(たとえる、譬える)
捏造(ねつぞう)
 
 
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