調子外れの無恥
その名は不思議(批判対象ブログ)
管理人:shalom
信頼できるナビゲーター (批判対象記事)
2017/9/11(月) 午前 9:11
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28248297.html
類似過去記事:
確かなナビゲーター
2016/11/25(金) 午後 0:38
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27817606.html
確かなナビゲーター
2012/8/19(日) 午後 0:28
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/23275206.html
コピペ、コピペで、飽きもせずに、ほとんど繰り返しているシャローム氏です。しかも、また、ナビに喩えるという似たような記事です。しかも、政治の記事をコピペして転載して隠れ蓑にしているかのようです。
>【今日の聖書のみ言葉】
>心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。
>そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
>(箴言3:5-6)
今に至るまで、シャローム氏が、まっすぐだとは、とうてい思えません。シャローム氏は、神にまっすぐにしてもらうと言いながら、自分が曲がっていることに気づきません。曲がっている自覚がなく、曲がっていると指摘する意見を削除して、どうして、まっすぐになることを語れるのでしょう。
自覚がなく弁明できない彼には詭弁しか残っていないから、神の名を唱えて、何もしなくても自分は自然とまっすぐになる、とでも思っているのでしょうか。その結果、曲がった自分を、そのまま押し出して、自分を他者に見習わせようとする説教をしては、いかに彼自身が曲がっているかを露呈する結果になり、気づかないまま、彼は裸の王様になっています。
>【黙 想】
>曲がりくねった道は先の見通しも悪く、走りにくいでしょう。
>真っ直ぐな道は車でも走りやすいですね。
>
>人生の目的がはっきりした、まっすぐな道を、確信を持って歩いている人は幸せです。
>どうすれば、そのようになるのでしょうか。
>今日のみ言葉に一つのヒントがあります。
>あなたやわたしの人生の歩む道をまっすぐにしてくださる方がおられます。
>あなたやわたしはどうすればよいのでしょうか。
>今日のみ言葉の前半にそのことが書かれています。
>問題は何でしょうか。
>誰に、何に頼るか、ということですね。
>自分の分別、経験や知識に頼るのか、それ以上に主に信頼するのか。
>それはあなたやわたしの意思による選択にかかっています。
>安易に主に信頼するのと、「心を尽くして」主に信頼するのとは、どう違うでしょうか。
言葉上も相当な違いだと思うのですが、その違いは述べられているでしょうか。ただ主に信頼せよ、と言うだけだと、聖書の解釈から信徒自身が分かって確信しなくてはいけないとばかり、主の御心を自分で決めつける背きを助長してしまう可能性を考えないのでしょうか。
聖書を読み、解釈をしたり、解釈を聞いたりして、折に触れて判断するのは避けられないことですが、決めつける必要は、どこにもないのです。安易に自分が主に信頼して生きているという自覚から確信になってしまうことを傲慢として批判しています。人には正しいという根拠の成り立ちようのない全能の神の御心について、人が背教に陥らない道は、決めつけないことしかないのです。決めつけることと信じることとを混同してはいけません。
>《shalomのコメント》
>
>私たちの生活にもどうしてよいかわからないときがあります。
>そんな時、今日の聖書のみ言葉は心強いですね。
>
>「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。
>そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」
>(旧約・箴言3章5~6節)
>
>道筋がすぐにまっすぐになり、平らになることもないのですが、
>どの道が良いかではなく、確かな導き手に全面的な信頼をするのです。
>たとえ、その道に困難があっても、いままで一度も通ったことのない道であっても、
>主なる神が導き手として共におられることに信頼するのです。
シャローム氏が、コメント削除したのは、主に信頼した結果なのでしょうか。主の導きなのでしょうか。彼は、不祥事を神のせいにするつもりなのでしょうか。また、自分のことを棚に上げて、好き勝手に神を語っています。言い訳がましく書けば書くほど、いかがわしさが積み重ねられるシャローム氏です。
「道に困難があっても」「神が導き手として共におられることに信頼する」ということを、言葉のうわべだけ、すり込もうとするのは、自分が招いた困難に対して、「神を信頼する」という言葉で、神が導くのだから自分は何もしなくていいと、改めようとせずに、責任逃れをするためです。彼の白々しい詭弁を覚えてください。
>良かれと思った道がかえって歩くことを難しくしてしまうことがあります。
>限られた自分や人の分別に頼ろうとすることです。
>今まで当たり前と思っていた自分の知識や経験、賢さに頼ろうとすることです。
シャローム氏は、知識や経験に頼らず、当たり前でない信仰によって反対意見を削除したと言うのでしょうか。自分の罪と偽善から責任逃れをするために、彼は自分の知識に頼ってはいけないと、良心も罪悪感も持たないのでしょうか、反省や修復の努力をまるでしないことを選んでいます。神は、彼の尻拭いをする役目なのでしょうか。これは、カインがアベルを殺した時より、神を利用しようとしている分、凶悪な妄想なのです。
>私たちの歩む道はただゴールに着くためだけではなく、
>その途上にもいつも最善をなさるすばらしい神の計画があるのです。
こういう言い方は、本当の素晴らしさを実感できない者が言葉面だけで讃美するときの、空約束の無責任な言い方です。
シャローム氏は自分が何をしてもしなくても、まるで無関係のように独立して自動的に神の救いが訪れると言っているのと同じなのです。このような信仰のあり方を喜んで信じるのは彼のような信仰の体裁だけを気にする者たちだけでしょう。心の中を見ない者の特徴です。常識と良識があれば、そういう中身のない信仰は馬鹿げているし、そんな考え方を通そうとすると勝手放題の悪になるだけだとと直観的に分かることなのです。
>時には道を見失い、途方にくれ、祈るほかないような状況にたたされることも必要なのです。
そこから、いつも助けられる、というなら、とても都合のよい話になります。信仰は、そのような約束ではありません。これこそ、安易に信じることであり、安易に約束することでしょう。シャローム氏が言っているのは、自分は何もしなくていいという妄想の正当化に結び付けたくて、こういう状況になっても、何も考えず何もしなくても救いが来るという妄想に人を導こうとする詭弁に過ぎません。騙されないように注意してください。
>かつて日本が石油危機に直面した時、資源のない日本には原子力発電が良いと考え、
>全国に54の原子力発電所が作られたのです。
>その結果、想定を超えた地震災害が起こり、安全神話は打ち砕かれ、
>福島の原発メルトダウンによって多くの人が平和な生活を破壊され、
>美しい故郷を失ってしまいました。
>今は北朝鮮のミサイルの標的にすらなる恐れさえあるのです。
>今日国連で日米韓による北朝鮮に対する厳しい制裁案が協議されます。
>北朝鮮はさらなる挑発を警告しています。
>私たちの計算や想定を超える問題となってしまいました。
ここで、テーマの質も大きさも異なるのに、政治と信仰を混同した、とてつもない飛躍をしてきます。大仰なるを好むシャローム氏らしいことで、今に始まったことではありません。ここでは、自分の信仰の問題を、原発や核ミサイルの脅威の問題にすり替えて、自分の責任を日本の歴史にすり替える、という、まともな頭と心ではできないような暴論の飛躍です。
シャローム氏のような人は、こういう場合でも、預言のように卓越した見解を述べているつもりなのでしょう。空約束の次は空回り、ひっくり返るほどの空振りになっています。ここでの彼の低劣な短絡的魂胆は、大きな話題を持ち出して、小さいと思っている自分の罪をまぎれさせたいのだろうと思います。
シャローム氏のように人のせいにして告発するだけという安易な考え方ではなく、この国に住むものとしては、原発建設の失敗を通して、原発建設を許してしまった私たち、という視点をも持ちたいものです。
>「急いで得た富は災いをもたらす」という聖書の言葉もあります。
>私たちはあまりにも自分の目先の都合や利益だけで道を選ぼうとしますが、
>主なる神は私たちには思いもよらない最善の計画によって導かれるのです。
>私たちの信頼できるナビゲーターは生ける神であり、み言葉なのです。
ここでシャローム氏は、生ける神を持ち出して、政治的な問題を、ざっくりと神を信じないからだという結論に短絡します。彼は、ずっとそんな感じの書き方です。政治について考察ができないだけでなく、考察しないまま立派なことを言ったつもりになる、という、彼の生き方のようです。ナビゲーターは神だと、政治に向かって、まるで実感も実質もない讃美をぶち込むことが信仰だと思っているのでしょう。カエサルのものはカエサルに、神のものは神に、信仰を裏切りっぱなしのシャロームの罪と偽善はシャロームに返されるでしょう。
>弟子たちもイエスさまに自分の夢の実現を期待しました。
>イエスさまが十字架のつけられて死なれた時、道を見失い途方にくれました。
>弟子たちも民衆もまったく絶望してしまったのです。
人の意見を聞かず訂正不能で学習機能ゼロだとこうなるという見本のようです。苦しみと悲しみと共感と人間への愛、というキリストが残した思いを考えることのできないシャローム氏です。シャローム氏の好きな解釈は、キリストが肉体をもって復活したという奇跡だけにすべての福音を集中させることです。彼には人間性が理解できないからです。弟子たちも民衆も絶望しただけではなかったのです。
>しかし、その後、自分の知識、経験を超えたよみがえられたイエスに再会し、
>自分の知識や体験ではなく、助け主として与えられた
>聖霊と神のみことば従う人と変えられたのです。
人知を超えて復活したキリストによって変えられる、という結果だけの美味しい話で、いったい何を伝えたいのでしょう。福祉の充実、フクシノジュージツ、と繰り返すだけの悪い政治家のリップサービスに似ています。このように、シャローム氏は、救いが人間離れの神の業でないと気が済まないのです。人間離れの理屈は、温もりも潤いもなくて、人間には理解できないのに、人間離れこそ信仰だと執拗に妄言を繰り返すのです。
ペテロは裏切りを悔いて激しく泣き、パウロは迫害を悔い改めて使徒となりました。この人シャローム氏は、リップサービスの拡声器になって、悔い改めません。
>聖書には
>「人は心に多くの計画を持つが、
>その道を導かれるのは神である」という言葉があります。
シャローム氏は、教理の言葉を詭弁に変えてしまいます。すべて神の導きだ、と言い放って、自分が犯した罪についても責任をまぬかれようとしています。神を強調するよりも人間として大事な罪の自覚を語るということが大事なのに、いかなる罪と偽善についても反省へ向かおうとしない人の文章です。
>世界は日ごとに混乱し、闇を深くしています。
>かつて72年前警戒警報を恐れ、防空頭巾をかぶり、逃げ回ったことが再来しています。
ここでは脅しです。脅し以上のことを書いていません。脅しだけでは救いにも福音にもなりません。
>このような時にも、生ける神の最善の導きの手が差し伸べられています。
>神を恐れず、自分を神のようなものとしている心のおごりを砕くために。
脅した後に、こうすれば救われるとつないでくる単純な詐欺的言い回しです。彼の説教は、大方、このような筋にしかならないものです。人間についての理解の深まりがないからです。シャローム氏こそ、自分を神のようなものとして心がおごっている典型です。
神によって最善の手を差し伸べられる、ということに相当する実質が、まるで書かれていない文章です。神に対して恐れを知らず自分を神の代弁者として、反省する必要を感じないシャローム氏の心のおごりは、いつ砕かれるのでしょうか。彼は、他者に教えを語っている場合ではなく、自分の先行きの心配をするべきなのですが。
>「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。
>そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」のです。
> 神の平安がありますように!
脅しと綺麗ごとで信仰は伝わりません。このような安穏で無責任な信仰の考え方が一掃され、一日も早く目覚めて、政治と信仰を分けて、具体的なことを考察できる人間になりたいものです。自分の作為による無刺激の安穏から、このような、よくなる、神がよくする、まっすぐにしてくださる、とだけ言い続けて伝道が成ると思っているシャローム氏のような人を誰も見向きもしない日が早く来てほしいものです。
※
「過去に学ぶもの、学ばないものの違い」という記事に
シャローム氏が書いたこと:
>ドイツも日本も先の大戦の悲惨な敗戦国。
>過去に学ばないものは過去を繰り返すと言われる。
>ドイツは過去に学び、戦争責任を負った。
>自らの過ちによって踏みにじった欧州諸国と和解し、
>経済復興を成し遂げ、中東イスラム諸国からの多くの難民を受け入れ、
>EU諸国の良きリーダシップをとっている。
>日本は過去を正当化し、戦争責任を負うことなく、
> 踏みにじった中国、韓国と和解できず、癒されぬ傷を引きずり、
>学ぶことのない過去の道へと引き返そうとしている。
>戦勝者アメリカの鎖につながれ、経済復興はしたものの、
>今は自分の過去の痛みを他国に負わせるアベノリスクの道をさまよっている。
シャローム氏が政治の記事に自分のコメントを書いているようだが、過去に学んだドイツはよいが、日本は過去に学んでいない、というボロクソ節になっています。このボロクソ節に対しては、それを、シャローム氏に向けて当てはめてみるだけで十分でしょう。シャローム氏の今までの横暴なコメント削除とコメント欄廃止による反対意見の隠蔽、今になっても終わることなく、過去に学ばず学ぶ姿勢もなく、自己中心に、見ないし聞かないが言うだけは言う、という態度からは、自分を見て、自分を斬らない限り、誰に対しても批判などする資格はないのです。
シャローム氏は、過去にも現在にも学んでいない。いくら告発調に豪語しても、かっこつけても、自己中の偽善者は謙虚の欠片も示してこなかった。シャロームの視野ROMに返されるのは、調子外れの遠吠えに過ぎないという判断以上にはならないのです。無反省を反省しない、偽善を反省しない、あらゆる反省をしないくせに、人のことばかり言っているという典型を示して恥を知らないのか、場違いなピエロになって醜態をさらしている自分を知れ、他者を人々を国を批判したいなら、自分を斬ってから来い、ということです。
面と向かって、とは言えないが、直接のコメントのやり取りでは、シャローム氏は、反論も弁明もできませんでした。シャローム氏のコメントの例としては、彼がすべてのコメントを削除してしまったので、ほんの一部ですが、私の記事「いのちのパン?」 下記URLを参照してください。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18423721.html
直接反論ができないシャローム氏は自己矛盾をごまかすために、その後に書く記事に、必然であるかのように、伝統的な標準的な聖句や教理さえも自分の欲求に沿うようにねじ曲げて、自己正当化を暗示するような書き方をしてきました。これは、故意であると思いますが、故意でないとしても必然と言えるでしょう。何故なら、既に、本人も気づかないほど、彼自身がねじ曲がっているからです。
信仰は、何よりも、人間を、控えめではなく、罪びとの一人としての弁えを持つ謙虚な人にする福音です。一人だけとんがって舞い上がり、平地を見下ろす気分で丘に立ちたがり、詭弁を説教し妄想を豪語する者の言は、その決して小さくない弊害の分だけ否定してゆくしかないでしょう。
(2017年09月30日、同日一部修正)
喩える(たとえる、譬える)
隠れ蓑(かくれみの)
[https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html