ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年09月

 
  問わず語り、聞かず語り
 
 批判対象:「その名は不思議」ブログ
 管理人:shalom
 批判対象記事:自民案「緊急事態条項」の正体
 2017/9/25(月) 午前 10:00
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28266302.html
 
 
記事の転載部分ではなく、
>《shalomのコメント》
以降を批判対象としますが、
この部分は、既に9月22日、私の記事「もう怖いとしか・・」で既に批判しています。
 
「もはや怖いとしか・・」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19385595.html
 
  批判対象:「その名は不思議」 管理人:shalom
 批判対象記事タイトル:人の評価と神の評価
    2017/9/22(金) 午前 10:37
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28263062.html
 
  シャロームの類似過去記事:
  人の評価と神の評価
   2016/12/10(土) 午前 8:29
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27841855.html
 だれの評価に支配されるか 
  2013/8/5(月) 午後 11:29
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/24695173.html
  
シャローム氏は、反対意見を読まない、反対意見を受けて反応して書くということをしない、弁明や反論ができない、双方向を認めない、自分が言い放って終わり、教える立場だけで聞く立場を持たない、という人格破綻をきたしている卑怯者です。自分の都合で転載し、自分の妄想的解釈からなる宗教と信仰に結び付け、反省機能もなく言論者たる資格もないのに、単方向で言うだけを繰り返すので、自分の意見を絶対として、批判されても返すこともなく、何事もなかったかのように、また同じことを出してくるのです。どうか、真に受けないでください。
 
シャローム氏のような、言論の異常者に関わるのは、私一人でたくさんです。彼は、実に、私の批判記事のタイトルの「もう怖いとしか・・」言いようのない人です。どうか批判以外の意味で彼に関わらないでください。間違っても柔和な聖書の先生などとは思わないでください。彼は、そのように見せかけるペテンのプロです。
 
シャローム氏は、聖書の取税人のような砕かれた魂を持っていません。卑しさと悪意で満ちているだけです。そこを歯の浮くような丁寧語で覆って、薄っぺらで嘘っぱちの皮相な聖書語で立派に見せかけているだけです。逆らう者に対して言論で反論も弁明もできないので、ひたすら、不快になるように、病気、虐待者、依存などのレッテルを張り付けて決めつけて、去らせようとしてきたのが、これまでの経過なのです。
 
シャローム氏に人間らしい情感を認めたことは一度もありません。彼から本気の謝罪や反省も一度もありません。彼は、人間の共感を否定しました。そして、それを反省して訂正したことはありません。彼の語るキリスト信仰は、教理ではなく、信仰告白でもなく、罪びとの意識も弁えもなく、うわべの社交だけで、偽りの讃美を空虚に繰り返すだけです。
 
さて、記事の中では、ドイツを褒め日本をボロクソに言ったりなど、極端な単純化による、悪者やっつける的なベースがあります。自分はどうなのか、という視野が全然ありません。まるで、正義の味方の自分には正しさがはっきり分かっていて、しかも、自分だけが正しいことを言う預言者かカリスマのような立場にいるようです。このように白黒がはっきり分かるという前提で歴史と政治と宗教と政治の話をします。読者を小学生レベルにおいて、自分を誇示することで、結果として、転載元をはじめ、言論者全体を、幼稚な道徳で貶めているのです。その根拠は、政治の話を、個人の救いである信仰の話と同一化して的外れな説教をしていることなど・・です。
 
シャローム氏は、批判禁忌の不文律の先入観をいいことにキリスト教の世界に何十年も巣食って、信徒を惑わしてきたと思われます。既に約6年間で化けの皮がはがれたのに、不感不応と不義不実のまま、思慮深いと思われたいだけのために記事を出してきます。彼は、洗礼を受けてもクリスチャンではありません、反政権の記事を書いても民主主義者ではありません。彼は、神を恐れず、人を人とも思わないところの、訂正不能の権威主義者です。彼の偽善の暴走には、批判を当てて、せめて、読者に向けて、誰も彼になびくことのないように努力するしかありません。
 
 
(2017年09月25日、同日一部修正)
 
貶める(おとしめる)
 
 
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  感性の整合性=情感の共感性
 
 
聖書を読む場合に、聖霊の導きによって受け取るべきだという人々がいるようだ。しかし、人は今自分に聖霊が降りているかどうか、何かが働くとき、それが聖霊であるかどうか、分かるというのは、神が秘された業すなわち神秘に対する冒涜である。
 
聖書を読む場合に、文字通り受け取ろうとする人々がいる。聖書は絶対の書だから、解釈をしてはならないという立場がある。しかし、文字通り受け取るのも、一つの解釈に過ぎず、それゆえに神の言葉と言ってしまうのは思い込みである。人は言葉を、意識しようとするまいと、解釈を通さずに受け取ることはできない。
 
一方、聖書を読む場合に、解釈として理路の整合性を読み取ろうとする人々がいる。読み方としては上の2つより妥当である。しかし、理路で語れることが真理とは限らない。理路以外にも大事なことがある。
 
それは、感性の整合性、言い換えると、人間の情感に沿っているかどうか、つまり、人間に相応しい直感として、そして人間の望ましい情感に相応しいかどうかを見ることである。これは、とても大事なことで、この情感が、ぬくもりと潤いを人に与えるのである。人間に相応しい感性と情感を、神が知らないはずはない。実際には、多くのことが、この情感によって篩にかけられるだろう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:27
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:27-28、新約聖書)
 
この個所の受け取り方は、28節が守るべき教えならば、到底守れない。ならば祈り、告白するべきである。主よ、この教えは守れません、自分は地獄に落ちるのでしょうか、主よ、どうか、おゆるしください・・と。
 
さらに、キリストは何ゆえ守れない無理な教えを言われたのかを考えてみる。キリストは、罪びとを救うために来たのだから、守れない教えを、教えとして語るはずはないだろう。それに守れば救われるというのは、パリサイ人の戒律ではないか。この教えは、そのまま守るべき教えとして語られたのではない。キリストは、罪びとと知って、罪びとを救いに来られた。キリストの言葉が罪びとの救いであるならば、キリストが教えている真実は、
 
罪なき者は一人もいない、
 
という教えではないか。ならば、この時代、また、今の時代も、罪を犯さず、または、贖いによって罪がなくなったから、救われる、などと思う人が多いのは嘆くべきことである。さらに、他の教えにも、こういう視点は必要なのではないか。
このように考えるには、自分の人間としての能力の限界を知って、相手が神でも、いや、神であるからこそ、どうしても正直に言わずにはおれないだけの正直さが必要である。この正直さを支えているのは、人間として、どうしようもない限界ゆえに罪深いという悲しみを知っていることである。人の止むに止まれぬ悲しみの情感を共感として感受し、それが、あらゆる思考と分別と節操のベースにあることがキリストによる赦しと救いには不可欠なのではないか。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:16
すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
19:17
イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
19:18
彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
19:19
父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
19:20
この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
19:21
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
19:22
この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
 (マタイ19:16-22、新約聖書)
 
この資産家の青年は、この時代においては良心的な青年と思われる。親と社会に教えられたことを守って期待通りに生きてきたのだろうから、善人としての自信があったのかもしれない。だから16節「永遠の生命を得るためには」とキリストに聞いたのであろう。それで19節「みな守ってきました」とキリストに言った。
罪なき者は一人もいないというのは真実である。ゆえに「守ってきました」と言う青年に、キリストは、青年が守れない教えを、ここでも言うことになる。21節、キリストは、自分は完全だと思っている青年に、守れないことを承知の上で言っている。「完全になりたいならば」ともキリストは言っている。つまり、ここでの真実は、
 
完全なのは、神のみであって、人は決して完全ではない。
 
 
人が生きることの悲しみの共感は、
人が生きるための、忘れてはいけない温もりと潤いです。
 
 
(2017年09月25日、同日一部修正)
 
篩(ふるい)
 
 
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  さまよう繰り言
 
 批判対象:「その名は不思議」ブログ
 管理人ハンドルネーム:shalom
 (ここではシャローム氏と呼びます)
 批判記事:人生は旅か徘徊か?
 2017/9/12(火) 午後 3:40
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28249993.html
 
 
>今日の聖書の言葉です。

>イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。
>だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
>もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。
>しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである。」
> (新約・ヨハネによる福音書14章6~7節)
 
>この世の中にあるものはどんなものもうつろいゆきます。
>草花も色褪せ枯れます。すべての形あるものは朽ち果てます。
>若い人も年老いていきます。
>人の言葉も心も変わりやすいものです。
 
このような月並みな一般的な話から、シャローム氏は、変わらないものを求めましょうと、自分
の幼稚な短絡教理を進めてくるのです。そして、非を認めない自分信仰に誘ってきます。
 
>どこを見ても、どこを探しても確かなもの、永遠に変わらないものはありません。
>激しく移り変わり行く世の中、生活の中で、
>人の心は確かな拠り所を求めてさまよっています。
 
不感不応不変の無罪妄想にしがみついて、他者からの意見を遮断することが平安?であり、意見
を削除して隠蔽することが揺るがない信仰?であり、それを肯定し勧めるのが神?という拠り所?だと言い続けているのがシャローム氏なのです。
 
>このような世の中と人の心の有様を仏教では諸行無常というのかもしれません。
>諸行無常の世の中に確かなものを求める欲望に囚われていることを無明といい、
>無知で悟りのない迷っている人の姿を言いあらわしているようです。
>本来の仏教は修行をして、確かなものを求める心の欲望を捨て去り、
>解脱してはじめて人は生きて行けると説いているようです。
 
なぜ、ここで、仏教を語る必要があるのでしょう。
 
>仏教のことはあまり知りませんが、
>これはこの世の中の実相についての最も深い認識と、
>人の心の真の姿に目覚めた人間の生き方なのでしょう。
 
つまり、知らないのなら語らないほうがよいです。信じてもいないくせに異教に対して、分かっ
ているかのように、評価する資格があるかのように褒めるのは、下に置きながら上から世辞で褒める偽りになり、かえって失礼になります。尊重するということを取り違えた偽善と言っていいでしょう。
 
>しかし、現実には人はどんなに修行をしても、そんな悟りをひらくことも、
>あきらめることもできずに、迷い続けているのではないでしょうか。
 
ここに、彼独特の軽蔑の本音があるように思います。つまり、上の持ち上げは作為だと分かりま
す。私から見れば、彼シャローム氏には、いかなる宗教も、キリスト教でさえ、目先の自分の益の
ために利用する対象でしかないようです。
 
>そこで、自力による修行中心の仏教から彼岸の世界に救いを求め、
>他力による救いを求め、信仰による救いを求めたのではないかと思います。
>自力本願の仏教から他力本願の仏教へ、
>小乗仏教から大乗仏教への道が開かれたと思います。
>この世に生きる確かな救いを渇き求める人の心が生み出した道でしょうか。
>またすべての災いもとである罪、穢れをお祓いによって浄めようとしたり、
>沐浴したり、水で手を洗うことによって身を清めたりして、
>仏事、神事をして災いを招く恐れからの救いを求めているようです。
 
仏教の方には申し訳ありません。異教についても、キリスト教についても、詭弁と短絡と単純化
以外の理路を組み立てることができず、感性によって受け取ることもできないシャローム氏なのです。私は、シャローム氏の訂正不能の傲慢によるキリスト信仰への弊害を書いている者です。理解していないのに、気安く単純に書いて、かえって自分のキリスト信仰をけがしてきたシャローム
氏を批判しています。
 
>このような宗教的な習わしはこの世という移ろいの世界から
>確かな世界へ救いを求める人の心を表しているようです。
>今日では知識や物の豊かさに救いを求めているとは言えないでしょうか。
>しかし、経済的な豊かさも確かなものではないことが分かるにつれ、
>今はどこにも心の拠り所がなく、今さえ良ければとさまよっているようです。
 
仏教に世辞を言った後にこれです。このように、一見、丁寧に語りながら、お前たちは拠り所な
くさまよっている哀れな者たちだと一括して、反対者や異教や政治など、他者への、シャローム
氏特有の、ボロクソ節につながっているのです。
 
>私たちの確かな拠り所はどこ?
>私たちはどこから来て、どこへ向かって生きているのでしょうか?
 
疑問文ですが、彼は何の意見も求めてはいません。コメント欄もゲストブックも廃止したうえで
の言い放って終わりの無責任をごまかしているだけです。
 
>イエスはこのように言われましたのです。
>イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。
>だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
>もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。
>しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである。」
 
神を知っているというのは、神の考えを知ったのではなく、聖書から、人間として歩むべき道の
始めを知ったということです。神を見たというのは、目で見たのではなく、新たな道の始まりを感じたということです。暴走するシャローム氏の言説に対しては、こういうことも書いておかな
ければなりません。
 
>イエスのこの言葉を聞いたピリポはこう言っています。
>「主よ、わたしたちに父を示して下さい。
>そうして下されば、わたしたちは満足します。」
> (ヨハネによる福音書14章8節)
 
したがって、シャローム氏の言ってきたような達成感や満足感に満たされ続ける信仰の境地はあ
り得ないのです。
 
折に触れて導きによる喜びと悲しみがあり、時々に、一部でも理解できたなら感動による満足が
あり、理解できなくても絶望の絶対孤独に陥らなくてよい、という意味です。
 
>このピリポの言葉はすべての人の心の願いではないでしょうか。
 
この実のない「でしょうか」によって、白々しく何を言っているのでしょう。すべての人の心の
願いなどと。一般の他者をボロクソに言った後で。
 
>ですから、古今東西、人種を問わず、すべての人は宗教心をもっています。
>宗教はすべての人の心の拠り所であり、自分がだれであるか、
>また自分はどこから来てどこへ行くかの拠り所なのです。
 
シャローム氏の言う拠り所によって、彼は今まで、人の意見に対して、はぐらかしや、言いがか
りが通用しないと分かると、根拠もなく、悪意を持って、病人だとか、依存だとか言って、侮辱して怒らせて、反対者を去らせようとしました。そして反対コメントを消して、反対意見などな
いかのようにブログを偽装しました。
 
>だから自分の宗教によって人は安心を得ようと、
>またそれを脅かす他の宗教に対して寛容であることができないのでしょう。
 
削除と隠蔽と偽装に見られるようにシャローム氏ほど不寛容な人はいません。丁寧語や聖書語と
は裏腹に、彼は、人間とは思えないほどの敵意を闇に抱えていることが、既に明らかになってき
ているのです。
 
>天地万物の創造者である生けるまことの神に対する信仰は
>一個人、一家族、一民族、一国家を超えるものでなければならないのでしょう。
>そうでないとかつて日本人も陥った偏狭さから逃れる事ができないからです。
 
ここでシャローム氏は、自分がしでかしてきた非道を正当化したくて、神は偏狭ではないから、
すべてを超えて、すべての人を救う、というようなことを、言いたいようです。しかし、この6年間を見ただけでも、今までの彼の言動は、いかなる道徳にも、倫理にも、人道にも、良識にも
、良心にも、宗教にも、信仰にも、民主主義にも反するものです。
 
そして、今も続いています。すべての反省力のある人は、彼の薄っぺらな丁寧語と嘘っぱちの聖
書語によって、反省力が傷つけられないために、どうか彼に関わらないでください。これを伝え
ることが、私の晩年の使命のような気がしています。
 
>イエスはユダヤ人として生まれ、ユダヤ人によって十字架につけられました。
>ユダヤ人は神の民ですが、かえって誤ったプライドに囚われ、
>民族主義的偏狭さからの救いのためです。
>実際に処刑したのは異邦人を代表するローマ総督・・・
>ローマ皇帝は神を見失い自分を神とする人を表わしているのです。
>ユダヤ人はローマによって国を滅ばされ、世界のさすらい人となりました。
 
キリストの時代、ローマ皇帝は、もともとキリストの父なる神を信じていませんでした。
 
一見、まともなことを書いているように見えますが、これがシャローム氏によく見られる筆致で
す。仕返しされない悪者を決めつけて、自分を悪から完全除外して、安心して他者に罪をかぶせて、好きなようにぼろくそに言ってきました。善か無かで他者を訂正不能に決めつける神経しか
持ち合わせていないのでしょうか。また以前、彼は人間の共感をはっきり否定しました。
 
キリスト信仰の基本から、善悪については、悪から自分を除外しないことが一番大事だと言って
いいのです。それを聖書は、様々な罪びとの話によって、知らせているのです。
 
>イエスはユダヤ人とローマによって十字架につけられましたが、
>それはイエスさまがすべての人の救いを成就するために、
>全人類の罪によって十字架につけられ、その罪の代価を支払い、
>その罪の救いのために贖いのわざを成就されたのです。
 
こういうことを言う人に共通してみられるのは、キリストの十字架の贖罪と復活を声高に主張し
て喜ぶが、キリストを十字架につけた人間の罪に無頓着で、人間の体を持ったキリストの磔刑の悲劇に人間としての悲しみの共感を抱かず、罪から己を除外し、喜んで讃美することを信仰として盛んに主張することです。自分の罪、という考えが甘いために、被害的他罰的になりやすく、
最悪の場合、シャローム氏のように自分信仰に落ちてゆく傾向です。
 
>それは神によって約束されたすべての人の救いの計画だったのです。
>イエスさまをキリスト教という宗教として閉じ込めてはならないのです。
 
キリスト教についてもキリスト信仰についても、シャローム氏自身が書いた文章に次から次に矛
盾があらわになり彼が何も分かっていないことが明らかになってきても、まだ彼は、他者に教え
る立場からこういうことを平気で言うだけの超の付きそうな無視の力を持っています。
 
自分が救われるのはキリスト教ではなくキリストご自身の業だと言い、キリスト信仰を主張しな
がら、罪を理解できないために罪ある自分を考えることができず、上に述べたような非道を重ね
て、都合が悪くなると反対意見を消して、同時に、また同じことを平気で言うのです。
 
>その過ちを犯すと、神の民とされたユダヤ人がその偏狭さによって
>異邦人を裁きながら、自らも裁きを招いたのです。 
 
シャローム氏が、いくら言っても、彼が罪を認めなければ、罪は彼とともに他者を裁き続け、つ
いには彼に報いることになるでしょう。それが今、と言ってもいいくらいですが、彼は、善悪の判断を放棄するなどとも言っているので、ますます善悪の見境がつかなくなってゆくような気も
します。
 
>「福音について言えば、
>彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、
>選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。
>神の賜物と召しとは、変えられることがない。
>あなたがたが、かつては神に不従順であったが、
>今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、
>彼らも今は不従順になっているが、それは、
>あなたがたの受けたあわれみによって、
>彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。
>すなわち、神はすべての人をあわれむために、
>すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。
>ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。
>そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。
> (新約・ローマ人への手紙11章28~36節)

>「彼ら」とはユダヤ人であり、「あなたがた」とは異邦人です。
>この十字架につけられ、よみがえられたたイエスに
>「すべての人」の救いと偏狭さからの解放の道があるのです。
 
彼は、神に不従順になったユダヤ人も救われることを、偽善と隠蔽の罪を犯した自分も救われる
のだ、という根拠にしたいようです。しかし、それは、今この地上において救われるのとは違う話にしかなりません。なぜなら、この地上では、悔い改めて信仰の道を歩む者だけが救われると
いうことを、悔い改めない偽善を最も嫌ったキリストによって、聖書は教えています。
 
>イエスの誕生、生涯、十字架の死、復活、聖霊の注ぎという事実は
>人の教えや作り話でも、神話でもありません。
>神はイエスによってすべての人に確かな拠り所と心の平安を与え、
>生きる喜び、力、永遠の命という希望を与えておられるのです。
 
こういう讃美に怖さを感じることになろうとは、私も若いころは思っていませんでしたが、この
ような讃美をシャローム氏は書くことで、人を惹きつけて、人に柔和な聖書の先生と思わせて、この地上の世をしのいできたわけです。反論も弁明もできない罪と偽善の果てに、なおも今、同
じことしか言わないということが、彼の、無反省と反信仰を表しているのです。
 
>神の平安がありますように!
 
このような讃美の言葉が呪いのように響いて吐き気を催すことになろうとは、私も若いころは思
っていませんでした。しかし、社交の丁寧語と、このような讃美のセリフこそが、偽善者が人を欺いて、善人であるかのように振る舞うのに有効な言葉なのです。教会での付き合いで批判禁忌の不文律がまかり通っているから、丁寧=柔和、讃美=熱心、ということが成り立つ悪習を偽善
者は知って処世として学んでいるのです。
 
丁寧は慇懃無礼に結びつくことがあり、讃美は悪質な罪と偽善を隠すことがあることを知ってく
ださい。深い感慨もなく悲しみの共感も成り立たず、丁寧と讃美が日常的に過剰である発言と考
え方を警戒してください。どちらも間違えば、本気の信仰告白を阻害します。
 
 
(2017年09月24日、同日一部修正)
 
 

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  神の前に人は
 
 
偉い人の前に出るのに、自分をよく見せようとすることは、あるのだろう。
 
偉い人の前に出るのに、恥ずかしい姿は見せられない、ということもあるのだろう。
 
しかし、神の前に出るのに、同じように恥ずかしい姿は見せられない、というのは、根本的に、間違っている。
 
神の前では、いかなる人も恥ずかしい存在だからだ。
 
いったい、いかなる功績を持って、いかなる見栄えを持って、神の前に、正しさや美しさを伝えられるというのか。
 
神の正しさの前に、人の正しさが比べられるというのか、否である。
 
神の美しさの前に、人の美しさが比べられるというのか、否である。
 
神の前に、自分を飾ろうとするのは、神を恐れていない証拠である。
 
神の前に、人は塵に等しい。人は塵だから、いずれ等しく、塵に帰る。
 
絶対に対する相対の存在は、たとえとしてだが、1光年に対する、1ミクロンのようなもの、と言っても、まだ足りない。
 
人に、到底、神の気持ちが分かることはない、というくらいに思っておくしかないのが人の存在である。
 
それが、神に対して、人が、分かる、見える、教えを守る、知っている、などと言えない根拠である。
 
その神が、塵に等しい人と、双方向で働いて、共感さえも抱き、人を民として認めてくださるなら、人は、黙って受けるしかなく、そして正直に思いを述べるしかないのである。
 
神の前には、その時の最大の正直以外あってはならない。
 
そのような絶対に対して、人が惹かれるのは、人の体をもって人の世界を生きたキリスト・イエスを好きになるから以外の理由はない。
 
人は、何か整った形式で、神と交われると思ってはならない。人が自分で整えようとするものは、神の前に砕けるからだ。
 
不変の整った形式は、神のものである。
 
魂の砕けるところに信仰が生まれるのは、このためである。
 
魂の砕かれた者は、神を恐れる。魂の砕かれた者は、運びにおいて、神が人に気付かせることを、恐れのために拒んではならない。
 
神からの
魂の砕かれた者への共感と支えは、
キリスト・イエスの生涯において示されているからだ。
 
神の前には、その時の最大の正直以外あってはならない。
 
 
(2017年09月23日)
 
 
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  もはや怖いとしか・・
 
 
 批判対象:「その名は不思議」 管理人:shalom
 批判対象記事タイトル:人の評価と神の評価
   2017/9/22(金) 午前 10:37
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28263062.html
 
 類似過去記事:
 人の評価と神の評価
  2016/12/10(土) 午前 8:29
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27841855.html
 だれの評価に支配されるか 
  2013/8/5(月) 午後 11:29
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/24695173.html
 
 
この期に及んでも、シャローム氏は、自ら捏造した、善悪の判断をしないのが正しい、という詭弁の教理を主張しています。前にも繰り返され、既に否定されて、反論もできなかった妄想をまた持ち出してきて、さらに詭弁を重ねるのです。善悪の判断は、だれでも、不可避的にしていることです。まさにここで「善悪の判断をしないのが正しい」という判断をシャローム氏はしているのです。
 
もはや怖いとしか言いようがないけれど、これが、いかに、キリスト教にもキリスト信仰にも反しているかを書かなければなりません。
 
>+++++++++
>★今日のみ言葉★
>+++++++++
>「神の義を求める」
 
>「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」とひと言
>ただこの短い祈りをするためにわざわざ神の宮にやってきた取税人でした。
>世の中一般では、自分で自分のことに責任を持てない人は無責任と言われます。
>では、神に憐れみを求める人のことはどう思われるでしょうか。
 
詭弁で、責任を回避しようとしています。信仰は、判断の間違いが明らかになった時には、告白し祈り、赦しを乞うことです。決して責任を持たなくてよいということではありません。決して善悪の判断をせず何でもやってよいということではありません。シャローム氏は、この記事で、罪を気にせず、何でも好きなようにおこなって、責任はとらなくていい、というような暴虐を勧めているのです。
 
>《今日の聖書のみことば》
>だから、神の国と神の義とをまず第1に求めなさい。
>そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
>(マタイ6:33)
 
>神の義を求めるとはどうすることでしょうか。
>神に義とされた取税人の場合、神がその人の善し悪しを判断されたということです。
>神の義を求める人とは、あることについて神の判断を求める人のことです。
 
シャローム氏は、神の判断を求めるのだから、人は判断をしなくていい、してはならない、と言いたいようです。それは、そのまま、彼の、非を認めない、という非道の態度を表しています。そのためのこの記事なのです。今に至っても、なお、このような低劣な詭弁で逃れようとする、しかも、神の平安がありますように、などと、白々しく言える、もはや怖いとしか言いようがないというのは、こういうことです。こういう人です。
 
>パリサイ人の問題は何だったでしょうか。
>彼は自分のことを自分で判断し、自分を義としました。
>彼はそのような雰囲気に包まれたがっちりした宗教的な体制の中に生きていた人でした。
>そこでは神が判断される座に人がついていたようです。
 
シャローム氏のことを私が、現代のパリサイ人と前から言っているように、まさに、彼こそが、自分のことを自分で判断し、自分を義としているところの、自分信仰者です。彼は、神が下す善悪の判断と裁きを、少しも恐れていません。だから、自分の責任になることについて、それを、自分は判断してない、判断してない、神の判断だ、と言い逃れの詭弁を弄し、神を恐れぬ自己正当化に走っているのです。自分信仰者が嵌っている体制は、自分信仰者自身なのです。
 
人は、しばしば間違えて判断するので悔い改めを神にささげる祈りが必要だ、ということを、シャローム氏は全く理解できないのです。
 
>イスラエルの2代目の王ソロモンは神の義を求めた人とも言えます。
>主はそのことを喜ばれました。
>「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、
>この僕に聞き分ける心をお与えください。
>そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」
>(1列王記3:9)
 
ソロモンは判断をしなかったと言いたいのでしょうか。王として多くの判断をして、ときに間違えて罪を犯しました。次のような意見があります。
 
カトリック教会の浦川和三郎司教は、「聖書は、ソロモンの堕落を述べて、その痛悔を語っていません。彼が、はたして父ダヴィドのように改心して神さまのおん赦しをいただいたか、随分疑わしいものだ、という人が多い」としている。
(ウィキペディアより)
 
>靴下を履くとき、右足から履くか、左足から履くかの判断は
>主に聞く必要はありません。
>先に顔を洗って歯を磨くか、反対に先に歯を磨いて顔を洗うかの判断も
>主に聞く必要はありません。
>しかし、右にするか左にするかの判断が難しい場合があります。
>主に従って生きようとする者は主に聞かなければならないことが少なくありません。
 
信仰を、靴下を履くような、また、洗面の順序のような、無意識の日常的行為と同様に見なしているようです。つまり自動人間になっていると彼は言いたいのでしょう。ここには、シャローム氏の、魔法の境地が信仰という妄想が現れているようです。実に薄気味悪い譬えなのです。騙されないでください。主に従って生きるのだから、自分は善悪の判断をしなくてよい、という方向に持ってゆくのが、シャローム氏の狙いなのです。以前に比べても、ますます彼の魂胆が見えやすくなっています。
 
>小さなことであっても日々の生活の中で、神の判断、神の義を求めていますか。
>最近は、人の評価と神の評価のどちらに影響されることが多いでしょうか。
 
そして、神の義を求める、ということを、判断しないことに結び付けるだけでなく、人の評価など気にしない、自分は神に評価されている、という、神の意志の決めつけに至って不動不変の無反省の底なし沼に陥っているのです。
 
>《shalomのコメント》

>人の評価と神の評価のどちらに影響される?
>神の評価について神の律法に精通し、だれよりも知っていて、
>従っていると思っていたパリサイ人が神の評価について
>無知であったというのは恐るべき罪の本質です。
 
これは、まさに、シャローム氏の言説が自分信仰のために聖書についての無知に至り、それによって恐るべき罪の本質に至ってしまったのに、それにまったく気づかないという偽善の罪の本質であります。
 
まさに、シャローム氏が、神の評価について無知であるということを嘆く、というのは恐るべき罪の本質であり、神の評価は不可知なので、人は神が評価していることを恐れるべきなのです。それを弁えず、彼は、それを自分によいように決めつけ、ゆえに、神を気にせず罪を犯し、同時に、神を讃美する、という、人間離れ技ができるのでしょう。少しばかりの信仰の良心があれば出来ないことなのです。
 
>反対にいつも神の前に自らの罪深さを知って、胸を打って嘆き、
>パリサイ人に汚れた罪人と裁かれるみじめな姿のままに
>神の前に自分を投げ出した取税人が神の評価によって義と認められたというのです。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
18:10
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 18:12
わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 (ルカ18:10-14、新約聖書)
 
理由もなく、心にもないのに、まるでお世辞のように、やたら神に感謝と讃美をささげ、人にも勧めるシャローム氏ですが、この聖句によくあてはまるのは、彼が、いつも人の上に立って、教える立場しか持たないことです。その立場から教えて、双方向を拒否している間、彼は説教者でも伝道者でもないのです。ここにシャローム氏=現代のパリサイ人、と私が言う根拠があり、ここでも、また、今までも、彼の書くものが、それをあらわにしてきました。
 
>これもまた人の善悪の判断を超えた不思議な神の評価です。
 
とんでもない。この聖句こそ、キリストの言葉を通して、人間がいかにあるべきかを教えているところであり、私たちが感じ、考えて納得し、共有するべきことなのです。シャローム氏のように、人の善悪を超えた不思議な神の評価と言って済ませてはいけません。彼は、分かるべきことを分からず、かつ、分からないと言えないから、このようなことを遠慮なく書いてくるから、看過できないのです。
 
>私たちは見えない神と見えない人の心の暗闇の世界に
>心開かれるかどうかによって、その人の人格と生き方が
>人の評価と神の評価のどちらに影響されるかの分かれ道のようです。
 
こういうことを臆面もなく書いてくきて、シャローム氏は、自分は人の評価ではなく神の評価を受けていると妄想を語り、それこそが自分信仰の訂正不能な自己中心として表れてきました。
 
>「主を恐れることによって人は安心を得、その子らはのがれ場を得る。
> 主を恐れることは命の泉である、人を死のわなからのがれさせる。」
> (旧約・箴言14勝26,27節)
 
>「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」
>(旧約・箴言29章25節)
 
自己絶対正当化の自分信仰が凝り固まるのに都合のよい聖句を引用しているつもりなのです。しかし、まるっきり悪用です。主を恐れるゆえに主による逃れ場を得る信仰者は、自分の罪から逃げようとはせず、神に正直に罪を告白して赦しを乞います。主に信頼する信仰者は、決して、他者の意見を無視し削除してコメント欄までも廃止して、自分で安穏を作ったりはしません。
 
>神の平安がありますように!
 
もはや怖いとしか言いようがない。決して関わらないでください。
 
 
(2017年09月22日、同日一部修正)
(2017年09月25日、若干修正)
 
怖い (こわい)
この期に及んでも (このごにおよんでも)
捏造 (ねつぞう)
嵌る (はまる)
譬え (たとえ、喩え)
 
 
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