ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年10月

 
  宗教宣伝
 
 
 (批判対象ブログ)
 その名は不思議
 管理人:shalom
 
 (批判対象記事)
 「こんなもんでしょう」から「まさか」の人生
 2017/8/1(火) 午後 6:11
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28195769.html
 
 (シャローム氏の類似過去記事)
 「まさか」の福音
 2016/8/29(月) 午前 8:01
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27661063.html
 「まさか」へ飛躍の道
 2013/8/19(月) 午前 9:50
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/24739561.html
 
 転載元:
 shirasagikaraの日記
 2013-08-19 「こんなもんでしょう」から「まさか」へ
 
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20130819
 
 
私のPCがクラッシュしている間にアップされたシャローム氏の記事を批判しています。転載記事のようですが問題満載の記事です。シベリア抑留体験者本人の承諾は得ているのでしょうか。宗教宣伝に使われた体験者の立場から見れば、相当無礼な記事ではないかと思います。
 
>「こんなもんでしょう」から「まさか」の人生へ(2013.8.19)

>「まあ、こんなもんでしょう」が口癖の人がいた。
>「きょうは猛暑ですね」「まあ、こんなもんでしょう」。
>「寒いね!」「まあ、こんなもんでしょう」。
>これではにべもない。感動がないからつまらない。
>ただ暑さ寒さも喜怒哀楽さえも、
>ありのままに受け入れるガマン強さには感心した。

>この方は1945年夏の日本の敗戦時、旧満州の兵営にいて
>ソ連(ロシア)軍の捕虜になり、数年シベリアへ送られた。
>60万人の日本兵・軍属が連行され、極寒と栄養不良と強制労働で
>5万人が死んだ。巨木を切り出し凍土に鍬を撃ち込む。
>そのときの経験が「こんなもんでしょう」という諦めに
>なったのでないか。逃げられないし、逆らっても、
>どうなるでもないという現状肯定だ。
>だから、その体験に裏打ちされて、何が起こっても動じない。
>あわてない。辛抱強い。
 
まず、「こんなもんでしょう」という口癖が、本当にシベリアの体験からきているのか、という問題がありますが、その口癖を、よくない例として否定して、キリスト信仰は「まさか」なのです、と言って、転載元の言うキリスト信仰?をたたえるネタにしている、という問題がより大きいでしょう。文中の「ありのままに受け入れるガマン強さ」・・これが決して、ほめ言葉にも、いたわりの言葉にも、なっていないということを見逃してはいけません。
 
シャローム氏が、丁寧語を身につけても、表面的に丁寧なだけで、実のある思いやりや気遣いや配慮ではないために、自らの反省や謙遜や謙虚や敬虔に全く結びついていないのと同じでしょう。丁寧に書いても、関わる人間に対して、かえって、がさつで、無礼になる、という慇懃無礼の例になります。
 
シベリア抑留者に対して、大変な経験をなさったから、という思いやりの立場ではなく、あれは信仰上わるい、自分は信仰上よい、という教条的判断だけで、話を作って、始めて、進めているうちに、信仰の名のもとに蔑みが育っていることに気づかない例になります。
 
>奴隷がそうだ。過酷な命令に反抗できないし、しない。
>「まあ、こんなもんでしょう」は、
>一番低い生活を強いられた経験からの発言だ。
 
酷い目に遭ったのでしょう、という、思いやりの共感が欠けていると思います。その上で、シベリア抑留体験を、奴隷の服従に擬しています。奴隷への悲しみの共感も書かれていないようですから、これでは、一番低い生活に慣れてしまうと、こうなってしまう、という軽蔑にも近い書き方になるということです。悲しみの共感抜きで、情感のない教条のみで言葉の類似を考えると、このような不用意な発言になるのでしょう。
 
そういう書き方が全開になっているのが、他者に共感することを否定して超常の奇跡ばかりを信仰として出してきて、自分を悪から除外したところの、シャローム氏のボロクソ節なのです。
 
>しかしキリスト信仰は、「まさか」という驚きから始まる。
>神の子が人間の姿をとった、「まさか」。
>無罪のイエスが有罪になった、「まさか」。
>そのおかげで、有罪の人間が無罪にされる、「まさか」。
>修行を積んででなく、そのまま、イエスを信じるだけで、
>罪ゆるされ、永遠のいのちが約束される、「まさか」。

>「まあ、こんなもんでしょう」には驚きがない。
>「まさか」には新鮮な感動と喜びがある。
 
キリスト信仰?をたたえる驚くべき神の奇跡の「まさか」の機関銃です。シャローム氏のボロクソ節と表裏一体の、ボロほめ節とでも言うべきでしょう。シベリア抑留者が体験で培った忍耐強さを、一挙に貶めています。信仰から、他者の悲しみに共感する情緒や情感が失せてゆく教条主義や夢物語信仰になると、こういうことが起こってくるのです。
 
転載元にとっては、それは「まさか」だとしても、人にそれを納得させる人間の側の説得力がない、と言わざるを得ません。つまり、「まさか」なんです、すごいでしょ、・・と言っているだけだから、奇跡のような驚くべきことを列挙して、あり得ないことが起こっている有り難さだけを強調して、信じるだけで救われる、という宣伝をしているにすぎません。あり得ないことが起こったと驚いても、そのあとの人間としての成長に結び付かない話なのです。奇跡でのみ信仰を語ると、こういう説教になるという例です。
 
人間として、キリスト信仰が真実であるという、人間側の、実感の表現と経験の根拠がないのです。奇跡の、そして信仰の叩き売りのようなものです。シャローム氏と共通するところの、神の領域のみに固執して、人間を疎かにしている態度なのです。
 
キリスト信仰者に、「まさか」という体験の感慨を持つ人は、いるだろうとは思います。しかしながら、そこに展開されたのは、人間離れした「まさか」ではなく、救いの筋書きが「まさか」でもなく、人間としての感動体験であるはずです。
 
人間である自分の内側で起こってくるところの、人間である自らを揺さぶったところの、みずみずしい感慨を語らずに、驚きばかりを表面的に強調しているのは、超常ばかりを求めて驚きたいという人間離れの趣味の傾向なのです。残念ながら、宗教者にはありがちなことなのです。
 
大事なことは、超常は人間の思うようになるものではない神の業(わざ)であるということ、そして、超常のみを大事にする者は、日常を疎かにするということです。その結果として、軽薄な筆致と、体験者を貶めると言われても仕方のない文脈になってしまうのです。つまり、そういう不適切さに気づかなくなるということです。
 
>原始キリスト教会には、ローマ帝国で奴隷にされた人々が、
>多くクリスチャンになった。
>なぜか。奴隷からクリスチャンへの転換は、
>「こんなもんでしょう」から「まさか」への飛躍だ。
>現状は変換クリックできないと諦めていたのに、
 
転載元は、以前から、場違いな比喩か冗談のような、ふざけた書き方が目立ってきました。この軽さで伝道しようとすれば、軽くない信仰の本質から遠ざかるのは当然なのです。しんみりと考えてみよう、という気になれない文体と内容になってしまいます。
 
>現在のあるがままの姿で、それを突破できる道があった。
>それがキリストの福音だ。
>「まさか」と奴隷たちは喜び、教会に馳せ集まった。
>社会の一番低いところに強制連行されていた人々が、
>社会の一番低いところを歩かれたイエスに救い上げられたのだ。
>「まさか」と狂喜しながら。
 
上っ面な調子の良さだけが目立ちます。シャローム氏の、どんでん返しで救われる、に近い大仰さを感じます。だから、上っ面だけ、調子良い気分を生じますが、それはキリスト信仰ではないということです。空約束は、空回りするのです。
 
>「不信心な者を義(無罪)とされる方を信じる人は、
>(修行努力の)働きがなくても、
>その信仰で義(無罪)と認められます。」
>(新約・ローマ人への手紙4章5節)
 
修行や戒律のような縛りのないキリスト信仰ですが、まさか、まさか、と驚きの声を出しているだけで義を得られる信仰ではありません。軽すぎる書き方と内容の乏しさから見ると、転載元も、シャロームと同じように、無条件に自動的に無罪になる信仰なのでしょうか。一切の苦しみを否定してよいと曲解したシャローム氏は、どんな卑劣なことをしでかしても悔い改めないで赦されるから罪を気にしない、かつ、善悪の判断まで放棄すると言っていました。
 
軽い筆致でどんどん良くなるからという行進曲のような書き方です。キリスト信仰は、もっと人間の悲しみの奥深い心にまで触れてくる信仰ですし、それは聖書において、キリストと人間のかかわりにおいて示されているところです。またそれだけの深さを持っていなければ人間の一生を支えることはできないのです。ネタやノリでどうにかなるものではありません。
 
ましてや、シャローム氏のように批判され否定されていることを完全無視して手ごたえもなく同じことを繰り返すことで、何か良くなるものではないのです。教条主義的な信仰者が、奇跡たっぷりの救いの筋書きを歪んだ笑顔を作って押し出してくるときは、訂正不能の異臭に満ちています。
 
 
(2017年10月31日)
 
貶める(おとしめる)
蔑み(さげすみ)
 
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
 にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 

 
  業(ごう)の日
 
 
真善美を知るのは全知であり
真善美を行うのは全能である。
 
不変の真善美を人は知らないから
不変の真善美を人は語れないが、
 
人は真善美を求める心を知っている。
求めていることを
真だ、善だ、美だ、と言っている。
ときにそれは偽善だったりもする。
 
ある時に受けた心の揺さぶりを
人はその時のまま保てないからだ。
 
真善美を神と呼んだものだから
全知全能の神は、神は、神はと
自分の熱心さをひけらかすように
讃美しまくる偽善者が出てくる。
 
神を対象化した時から
人の世界の様々な言葉を使うことを
よこしまだと思うようになり
習い覚えた教理を繰り返すだけになってゆく。
 
神と呼ぶなと言えば
別の言葉をひねり出すだろう。
預言者以上が唱えるところの
例えば、アバ、父よ
 
神と呼ぶから安易に神格化する。
父と呼ぶから安易に人格化する。
 
それは人間の業である。
だから神と呼んでも呼ばなくてもいっしょだ。
 
有能な人格者を呼ぶように
親しく交わっているつもりになり、
そのように自分もなろうと気取り始める。
これも業である。
 
名前が実の見せかけを作るような
人の言葉は業である。
 
ならば神を言葉で表すまいと思う、
その短絡も業である。
 
しかし真善美に憧れる者は
間違いに気づいても
真善美への憧れを捨てることができず、
到達できない相手に祈ることを覚えた。
 
到達できない自分の未熟さに
耐えられないとき祈りが生まれる。
 
神は不変だが、
人は可変であることが必要で
修正可能の我に返り、
我を変え得る状態を救いという。
 
人はその時の正直だけで語れる告白の場を持つようになり、
 
祈りが始まる。
 
 
(2017年10月30日)
 
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
 にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 

 
  命の道と空約束
 
 
 (批判対象ブログ)
 その名は不思議
 管理人:shalom
 
 (批判対象記事)
 いのちの道と死の道の分かれ道
 2017/10/28(土) 午前 11:44
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28312379.html
 
 (シャローム氏の類似過去記事)
 命と死の分かれ道
 2016/3/13(日) 午前 10:05
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27321120.html
 
 
引用文章も、シャロームのコメントも、意味不明です。超常信仰というのは意味不明なことに、もっともらしい言葉をくっつけて、分かってるふうに見せかける特徴があります。一様に、神の前で最も嫌悪すべき、知っている、という気分だけで書くという特徴を持っているようです。
 
>+++++++++
>★今日のみ言葉★
>+++++++++
>「主を尋ね求める人」

>会ったこともなく顔も知らない人で、
>その人の名前は知っているという人がいますか。
>その人のことについてもっと知りたいとおもっているひとは
>多少は知っているわけですね。
 
人のことを言っているようです。
 
>詩篇9:10
>み名を知る者はあなたに寄り頼みます。
>主よ、あなたを尋ね求める者を、
>あなたは捨てられたことがないからです。(口語訳)
 
今度は神のことを言っています。同じ扱いなのでしょうか。
 
>御名を知る人とは主を知っている人です。
>不思議なことですが、
>主を知る人はもっと主を尋ね求める人となります。
 
そうとは限りません。主を決めつけて、どんどん嘘を塗り固めてゆく人もいます。
 
>そのような人は主に知られており、
>決して見捨てられることはありません。
>ハレルヤ
 
そういう空約束を信じないでください。悔い改めによる赦しの機会は常に与えられているということです。何をやっても救われるということではありません。聖書に出てくるパリサイ人はキリストの敵として書かれています。
 
ここを誤解~曲解して、自分は何をしても赦され救われると信じている人がいて、この世で最も醜い有様になっています。この人は、神もキリストも知らないまま、救いの教条をねつ造して、しがみついて、何を言われても、同じことを繰り返して、悔いることも反省することもなくなり、もはや、人間味をすっかりなくして、機械的教条の絡繰りの罠と化して、他者を巻き込もうと企むワームのような存在となっています。
 
>聖書のみ言葉を黙想するのは、神を尋ね求めることにもなります。
>このみ言葉メールは、
>このことで多少ともお役に立てればと願っています。
>主との交わりが深められ、主により頼む信仰が養われ、
 
ここまで、意味不明のように思えます。なぜ、見捨てられない、尋ね求める人となる、などと、このようにも軽々しく、保証を与えるようなことを平気で言えるのでしょう。そうでない典型のような人が、今も教条主義に思い上がったまま、現代のパリサイ人として、悪しき企みの一環として、同じ教条を繰り返して、その有害性は、全く改善されず、極めて迷惑なだけの存在となっています。
 
>さらに自分が変えられ、身近な人間関係が変えられていくことを
>目指しています。
 
しかし、誰か知らないこの引用元でさえ、自分が変えられ、人間関係が変えられていくことを目指す、と書いています。であるのに、シャローム氏は、信仰ではなく教条を訂正不能にしたまま、一寸も変えられることを拒否し、独り安穏境地で、成長しない時間を死に向かって消費し続けているのです。
 
>《shalomのコメント》
 
>今日ほど知りたいことを容易に知ることのできる時代はなかったと思います。
>パソコン、スマホさえあれば、どんな情報でも簡単に手に入ります。
>一方知るべきことを知ることは難しくなっているようです。
 
知るべきことを知ろうとしないシャローム氏が言っても意味などないのです。
 
>あまりに虚実混淆の情報が氾濫し、変化が激しいからです。
>それらの情報に呑まれてしまい知っているつもりになりやすく、
>物事や人が顔と顔を合わせて知り合うことが恐れられ、失われているようです。
 
顔を合わせるどころか、言葉を交わすことさえ、自分に都合が悪いと思えば頑迷に拒んだまま、苦い思いが何よりも嫌で、甘い気分に浸っていようと、同じ教条を呪文のように唱えているのです。その結果、新鮮な真実というものが、その者からは、どんどん見られなくなって、嘘でできた人格の薄笑いだけが、柔和か何かのつもりで、ネットの陰部を漂っているのです。
 
>“人はその妻エバを知った。
>彼女はみごもり、カインを産んで言った。
>「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。”(創世記4章1節)
 
>“人はその妻エバを知った”とは
>アダムはエバと出会い、交わったというのです。
>それは単に身体だけではなく、人格的な出会いであり、
>交わりでした。
>人が知るとは全人格的な出会いと交わりだというのです。
 
一方、シャローム氏のように、知ろうとしないのは人格を喪失してゆく過程です。
 
全人格的な出会いという言葉の説明が不十分で、恐らく、言葉だけ知って、その大仰さを使っているだけなのだと思います。アダムとエバは罪を犯し、それが、人類の原罪として語られている創世記ですが、シャローム氏は、どうも、これもあってはならない罪のように語って、自分にはない、皆も無くさないといけない、というような奇怪な説教をするのでしょうか。原罪は避けられないのですが。
 
>ふたりは知り合い、ひとりの人、カインを得ましたが、
>ふたりの子どもというよりも、ひとりの人であって、
>主によって与えられたと言っています。
 
>2章25節には「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、
>恥ずかしいとは思わなかった。」と、
>ふたりの間には恥と恐れがなかったのです。
>このように聖書は私たちに
>「知ること」の本来の意味を教えているようです。
 
おかしな話をしています。アダムとエバのことを「知ること」の本来の意味と言いながら、
 
>しかし、聖書は人がどのようにして本来の知ることを
>見失ったかを告げています。
>主なる神はエデンの園で生きているふたりに告げられました。
>「善悪を知る木の実」から取って食べてはならない、
>それを食べると死ぬと。
>人が神との関係と交わりを退け、自分の欲望と、思いのままに、
>生き始める時に、
>それを食べると死にますと告げられたように、
>死の力が支配し始め、人は神の恵みと知ることを
>見失ってしまうというのです。
 
アダムとエバが見失ってしまう話をしています。彼の言う「知ること」の意味は不明です。恐らく、彼は、何も分かっていないから、良さそうな言葉を並べて、体裁を整えたつもりで、いつものように自己矛盾に陥っていると思われます。
 
>人は裸であることを恥じ、恐れを覆い隠すために、
>イチジクの葉っぱとして知識と知恵を追い求め、
>枯れてしまうイチジクの葉をもって
>我と互いを隠しながら生きるようになったのです。
>その結果、偽りの「知ること」という知識と物にあふれ、
>人の心と世界は恐れと不安が支配するようになりました。 
 
このように、本来の意味で出会った、と書いた二人が、ここでは、偽りの「知ること」は恥ずかしい、という話のネタにされています。原罪という捉え方ではなく、アダムとエバの愚かさで罪を犯すから、そうならないように、というスタンスで語って、また自己矛盾に陥っているのです。
 
>「彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、
>わたしの勧めに従わず、すべての戒めを軽んじたゆえ、
>自分の行いの実を食らい、自分の計りごとに飽きる。
>思慮のない者の不従順はおのれを殺し、
>愚かな者の安楽はおのれを滅ぼす。
>しかし、わたしに聞き従う者は安らかに住まい、
>災いに会う恐れもなく、安全である。」
>(旧約・箴言1章29~33節)
 
アダムとエバを悪者にしてしまった結果として、アダムとエバのようにならないようにと、箴言を並べることしかできなくなっています。聖書のアダムとエバは、人類の祖という位置づけなのですが、シャローム氏は、先祖をボロクソ節の標的にしてしまうのです。これが、自分を見ない者の末路ということです。
 
知識を憎み、主を恐れることを選ばず、戒めを軽んじ、はかりごとに飽き、思慮のない者の不従順、愚かな者の安楽、これら皆、シャローム氏にピッタリ当てはまることばかりです。
 
アダムとエバは、今の私たちの姿だ、という自覚ができていないから、蛇の与える木の実を、ますます見分けがつかないまま、神が与えるものと勘違いして、美味しい美味しいと好きなだけ食べて、満腹になって、神の平安だと錯覚して、満足げに涎をすすりながら、体も心も壊しているのがシャローム氏なのでしょう。
 
批判されていることを知りながら、弁明も反論もせずに、無視して、それまでと同じ愚かをを繰り返しながら、受けず返さず言い張ることの、人間にとって致命的なアンバランスと矛盾を省みることもなく、成長の可能性を自分で拒んで、神の御心は自分にありという結論だけを念じて念じて、神と思い込んだ自我の教条をやたら讃美して、生涯にわたる神の救いの予定調和をでっちあげているシャローム氏なのです。
 
逃げの姿勢と、無視の姿勢と、言い張りの姿勢と、企みの姿勢とが、毎回、シャローム氏の、卑怯と、不感不応と、不法と、悪意とを、シャローム氏自身の書いた言葉で、証しているのです。
 
戒める神を信じないシャローム氏は、懲らしめる神に出会っても、逃げ回って、証拠を消そうと企むばかりで、安らかに住まうのではなく、刺激を遮断して、反応しない安穏境地の中に埋没して、ここにおいても、なお、それが、災いに会う恐れのない安全だと言い張ろうとしているのです。あまりにも浅はかな、この者の、ちょっと考えれば滅裂だと分かる独善教条に、惑わされることのないように願ってやみません。
 
 
前の記事ですが、
 
 (批判対象記事)
 日本人の死生観と欧米人の死生観のちがい。
 2017/10/28(土) 午前 9:36
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28312218.html
 
 
>《shalomのコメント》

>日本と欧米における寝たきり老人の問題、終末期医療、死の看取り方の違いは
>日本人の死生観と欧米のキリスト教信仰による死生観の違いに理由があると考えています。
 
誰が考えているのですか。シャロームさんですか。だとしたら、それはまたしても、全か無の、全で、死生観を断じているのは、単純すぎると思います。単一の理由で説明できることでしょうか。どちらの国も、単一の死生観ではないし、超合理的で非人間的なところや、キリスト教的先入観のまま頑固なところなど、よくないことがいっぱいあるでしょう。
 
第一、キリスト教信仰だと言い張っているシャロームさんは、死のみならず、世間体の失われるのを、神よりも、恐れて逃げ回り、証拠を消し去って、ますます、目も当てられないありさまとなり、死生観どころではないはずです。何を余裕ありげに、根拠もなく資格もなく信仰もなく、独善を語ろうとするのでしょうか。今までに積まれた数々の証拠が、シャロームさんの信仰と人格の惨劇を物語っているというのに。
 
>日本人の宗教では死を穢れとして忌避し、キリスト教においては生きることも死も
>万物の創造者である生ける神への信仰によって肯定的に受容されます。
 
だから、何をキリスト教の立場で語れるというのでしょう。しかも、全か無の、また全で、画一的に語れるものではないでしょう。シャロームさんは、肯定的に受容できるのでしょうか。自分が分からない信仰や聖書のことでさえ、分からないといえず、おびただしいごまかしを貼り付けて、すなわち、詭弁だけで、分かったかのように振る舞おうとする態度が見え見えです。それは、肯定でも否定でもなく、嘘っぱちの言い逃れなのです。
 
そのように生きていて、神ならぬもののために、逃げ回っているシャロームさんが、どう考えても、死を肯定的に受容できるとは思えません。死の実感がないことをいいことに、見せかけの余裕を示しても、嘘がバレバレなのです。これまでの罪と偽善が、シャロームさんを慕って、生から死へと向かって、追いかけてくることを、いかにごまかしても、いずれ知ることになるのです。
 
死ぬ、という人の有限の前に、また有限の向こうに、心の用意ができる人はいないのだから、シャロームさんが、肯定的に受容されます、と言って、それを真に受けて、偉いと言ってくれる人は、シャロームさんのせいでイエスという言葉面しか言えなくなったお仲間以外には、いないのです。シャロームさんの見せかけは、もうこりごりです。かつても、今日も、ずっと変わらず、白々しい嘘つきにしかなれないのですね。
 
 
(2017年10月29日、同日一部修正)
 
絡繰り(からくり)
罠(わな)
企み(たくらみ)
安穏(あんのん)
涎(よだれ)
 
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
 にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 

 
  NHKの問題
 
 
 NHK受信料の合憲性、最高裁で弁論
 2017/10/27(金) 午前 8:30
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/yblog.html
 
 
記事は、(弁護士ドットコムニュース)
https://www.bengo4.com/c_5/c_1100/n_6862/
からのコピペです。
《shalomのコメント》を批判対象としますが、はたして、シャローム氏が自分で書いた文章なのか、そういう部分と、そうとは思えない部分があるように感じました。しかし、個人の思想というのは、どこかの誰かの主張を受けて考えることから生まれるでしょうから、それだけなら、とやかく言うつもりはありません。
 
>《shalomのコメント》

>「今回の弁論で、NHK側は、「NHKスペシャル『無縁社会〜新たなつながりを求めて〜』」
>(2011年放送)などを例に、質の高い報道番組や災害報道、
>放送技術の発展などの功績を強調し、
>国家や企業から独立した「公共放送」を維持するためには、
>受信料制度による安定した財源が不可欠だと、徴収の正当性を主張した。」
 
>NHKの受信料徴収の正当性の主張によれば、
>「国家や企業から独立した「公共放送」を維持するため」とあります。
 
>もし、NHKが国家や企業からの独立した「公共放送」であるのであれば
>NHKは「公共放送」として日本の主権者である国民がその主権を行使するために、
>必要な「国家や企業から独立した」情報を伝えることを最大の責任であり義務である。
 
>もしNHKが「公共放送」としての責任と義務を果たさなければ、
>受信者である国民に対する受信料徴収の正当性はないことは当然でしょう。
 
>そうであればNHKの「公共放送」であることを審査する
>「国家や企業から独立した審査機関」が必要です。
 
国から独立した放送を維持するために受信料制度が必要なら、国から独立した立場で放送をしているかどうかが、当然問われるということ。
 
要するに、国に左右されない放送、偏らない放送を、そのための審査機関を、ということでしょう。
 
>前NHK会長の「政府が右と言ったことを左というわけにはいかない」という発言は
>NHKが「公共放送」としての責任と義務を放棄した発言でした。
>このような人物をNHKという「公共放送」の会長として任命したこと、
>罷免しなかったことは
>NHKの「健全な公共放送」として問題があることを明らかにしています。
 
大本営?と揶揄される所以だと思います。
 
>「裁判の大きな争点の1つは、テレビなどの受信機設置者に対し、
>「契約をしなくてはならない」とする放送法64条1項の解釈だ。
>NHKはこの規定に基づき、番組視聴の有無などに関係なく、
>受信機の設置を理由に受信料を徴収している。」
 
乱暴だということでしょう。視聴の有無に関係なく、というところは、後述する私の経験と少し関わってきます。
 
>NHKは「公共放送」として受信料の徴収を要求する前に、
>自らの「公共放送」としての責任と義務を果たすべきです。
>そのためにNHKが「公共放送」としての責任と義務を守っていることを
>検証し、審査する「国家や企業から独立した審査機関」が必要不可欠です。
>NHKは先ず公共放送である責任と義務を
>国民に対して果たしているかをたえず検証し、受信料を徴収すべきである。
>またNHKの公共放送としての独立性は
>いかなる国家や企業によって侵害されてはならないのです。
>なぜなら日本は憲法によって立憲民主主義国家として
>国の主権者は国民であり、
>政府も国民全体に対する奉仕者であると定められているからです。
 
定められているから、そのようにせよ、審査機関を作ればそれで解決する、という建前の括り方に、イラッとします。建前を語るのは、理想を語るのは、簡単です。文章を書かなくても、誰でも言うでしょう。理想だけなら、とても難しいことを要求して終わってしまうわけです。それで終わらないことを書くべきでしょう。
 
正義を豪語する立場に立って、問題意識を何も持たずに終わっているのは、シャローム氏らしい、自己絶対の慢心からきていると思います。今までもずっと、ボロクソに言い放って終わり、というシャローム氏なのです。
 
NHKの偏りを審査する審査機関のバランスはどうやって保つのですか、
 
という問題に何も言及していません。ここは、暫定的に作って、スーパーバイズするのは国民の意見とか、さらなる上部機関とか、切りのない話になるでしょうか。だから、とても難しい問題だと書きました。
 
それと、NHK内部で活発な議論ができて、それが自浄作用になるのなら、それでもよいのではないか、ということも考えますが、これも同様に、取り組めば、難しい問題ということになるわけです。NHKの体質はどうなのか、という問題になるからです。
 
NHK批判という一方向に突っ走って、それで終わっているのです。シャローム氏らしい、悪い他者を斬れるだけ斬って、自らを斬らない筆致です。だから、問題意識が、そこで終わって、彼は、ひとかどの自分を出したと満悦して、そこからの広がりがないのです。
 
>最高裁には違憲立法審査権があります。
>最高裁もその独立性を国家権力によって侵害されてはならないのです。
>日本は民主主義の基礎である三権分立ですら、
>国家権力によって、その独立性が侵害されやすいようです。
 
最後に、三権分立の建前を書いています。建前だけで豪語しています。・・前に彼が思い付きで五権分立と書いていたのを思い出しますが、それはさておき・・、このように、正しいと思ったことを、問題の有無を考えるでもなく、思い付きと思い込みで悪を悪と狭い思考で決めつけて、ボロクソ節で批判して、それで終わり・・という文章が、シャローム氏の筆致なのです。
 
 
ここからは、世の中の仕組みを知っているとは到底言えない私の経験に過ぎない話です。今回のテーマとは少々ズレるかもしれません。
 
私は長らく住んでいた熊本の自宅から、2008年に母のいる長崎県諫早(いさやは)の実家に移りました。それまでは、2002年に父が死んで、母が一人になるというので、実家に帰る回数を増やしていましたが、片道200km近いロングの車の運転がきつくなってきたので、もう諫早に住んだほうがいいだろうか、という思いでした。年を感じました。
 
しかし、先がどうなるか分からなかったことで、住民票を移すのは遅れて、2012年でした。2012年、母は、腰を痛めて5か月入院して、治療しても痛みが治らず、あとは生活の中でリハビリということで、介護施設に入所しました。私も、もう、諫早にいるしかないだろうと思って住民登録も諫早に移したというわけです。
 
2008から2012年の間に、熊本の私の口座が空になったようです。住民票を移して、まもなくだったと思いますが、NHKから大きな封書で10万円くらいの請求書が来ました。その間、私は諫早にいたわけですから、熊本のテレビは見ていないし電気も止まっている、という状況で。
 
当然、私は、事情を説明したいのです。そこで問題が生じます。
 
NHKの料金徴収部門に、人間がいない・・。
 
今改善されているのかどうかは知りませんが、NHKのサイトに、問い合わせ用のメアドが書いてない。問い合わせや相談のための書き込み欄がない。請求書に書いてある番号に電話したら、音声ガイダンスでボタンを押して手続きをするだけ。人間がいない・・。
 
請求書は、その後も来ます。それとは別に、受信料を請求しに、正社員とは思えない普段着のオジサン~ジッチャンが訪ねてきました。人間がいた。普段着であることは別にかまいません。話を聞いてもらいました。事情を話したつもりです。初回、確か4千いくらかを払いました。それが何だったのか、未だに分かりませんが、そのときは、相談して、合意に至ったつもりです。
 
しかし、帰りがけにオジサンは、じゃあ、解約しといてください、と私に言いました。むしろ私がオジサンに言いたかったことなのですが、要するに、そのオジサンは、何の権限もないバイト感覚の催促係だったということです。恐らく、そういう役割に正職員は関わりたくなかったからではないかと思っています。
 
そういう、すったもんだが、2~3度あって、私は、とうとう、最後にキレてしまいました。何と言ったかは覚えていないが、オジサンが驚くほどには、怒鳴ったのです。
 
それから、しばらく経ってから、電話がありました。年寄りではなさそうな、コールセンターがあるのでしょうか、女性の声です。事情を説明して、諫早の母が契約していた分は銀行引き落としのまま継続、熊本の私が契約した分は解約、ということで話がまとまりました。以後、今のところ、請求書は来なくなりました。
 
何年かかったか、ようやく、NHKに人間がいた、という話です。
 
受信料未払いの人との電話のやり取り、電話を受ける立場からは、かなり苦痛になるだろうと推測いたします。それぞれ事情があるとは思いますが、受けているうちに、モンスターじゃないかとか思ってしまうことも、ストレスで落ち込むことも想像に難くないです。でも、モンスターを防ぐために、
 
電話口に人間が出ないようなシステムだとしたら、これは人間のやることでしょうか。
 
人間を扱うのは人間にしかできないと思います。生きている限りそれは義務だと思います。今回のようなことは、扱われる立場を経験しないとなかなか分からないことです。こういう傾向が強くなることを、強く危惧します。
 
電話を受ける職員へのサポートとフォローは、NHKが、外部に相談してもいいから、担うべきことではないでしょうか。モンスターにはそれなりの対処が必要だと思いますが、モンスターになっていってしまう人もいるのではないかと、自分の経験から思いました。
 
 
(2017年10月28日、同日一部修正)
 
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
 にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 

 
  亡者にならないのは?
 
 
 (批判対象ブログ)
 その名は不思議
 管理人:shalom
 
 (批判対象記事)
 安眠をもたらす物?者?大きな一字違い!
 2017/10/26(木) 午前 8:02
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28309875.html
 
 (転載元)
 生活の中の聖書
 伝道者の書5章8~17ー金銭は満腹も、安眠ももたらさない!
 2009/11/8(日) 午後 6:03
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/22122060.html
 
 
めちゃくちゃなことを言っていても、シャローム氏は、丁寧語と聖書語で、犠牲となる者を惹きつけて、独善をすり込み、聖霊体験?を共有することで、この地上に魔界の仲間を作ってきたということです。ここに彼の怖さがあります。よく似たお仲間からの転載記事です。
 
>伝道者の書5章8~17ー金銭は満腹も、安眠ももたらさない!
> 

8 ある州で、貧しい者がしいたげられ、権利と正義がかすめられるのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもうひとりの上役がおり、彼らよりももっと高い者たちもいる。
9 何にもまして、国の利益は農地を耕させる王である。
10 金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。

11 財産がふえると、寄食者もふえる。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。

12 働く者は、少し食べても多く食べても、ここちよく眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる。

13 私は日の下に、痛ましいことがあるのを見た。所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。
14 その富は不幸な出来事で失われ、子どもが生まれても、自分の手もとには何もない。

15 母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。
16 これも痛ましいことだ。出て来たときと全く同じようにして去って行く。風のために労苦して何の益があるだろう。

17 しかも、人は一生、やみの中で食事をする。多くの苦痛、病気、そして怒り。


 
前にも言ったように、ここに書かれていることは、人間の現実なのです。これを、悪い奴はこんなだから気を付けましょう、こうならないためには、というスタンスで記事を書いているうちは、信仰を書いたことにはならないのですが、それが分からないシャローム氏なのです。同じ伝道の書を題材に、転載記事に頼って、転載者に言わせているのです。
 

金銭そのものは何一つ問題ではない。私たちには金銭が必要なのである。もし私たちが金銭など無意味だと言うのなら、それは愚かなことである。むしろ、多くの金銭を持つことが出来るのなら、持った方がいい。ただ、それをどのように獲得し、消費するのかが問題なのだ。

 
恐らく持ったことのない大金について、説教しようというのです。獲得と消費の仕方に問題があると物わかりの良さを、まず示してみるのでしょう。
 

ここで戒められていることは、金銭を愛するという心の在り方なのだ。金銭でもって私たちの人生は幸いになることがないからである。かみとかね、一字違い。この違いが大きいのだ。
金銭を増そうとして、預けても金融機関が崩壊してしまえば、それまでの労苦は無になってしまう。これは最近の出来事に現れていることである。これまた、むなしい。

 
かみとかね、神と金、この部分がシャローム氏の記事タイトルになっています。で、結局、お金を愛してはいけないという意見です。持って回った言い方をしています。お金は空しい、というために、ここでは、信仰の話ではなく、金融機関の崩壊を書くというのは、安易な説得の仕方だと思います。やはり私は、お金の空しさを知るのは、お金に裏切られる体験がないと分からないと思うのですが、転載元は、短兵急な説得の急ぎ方をしているようです。
 

よく初代が築き上げ、二代目が食いつぶすと言われることがある。また親戚縁者が、友人がその財産を目当てに寄ってくることもある。財産に群がる者がいる不安に脅えることを覚悟しなければならない。

 
恐らく自分には縁のないことを想像し想定して、お金の空しさを、最悪の場合を挙げて決めつける手法で、こうなったらどうしますか、と言って、お金は空しいでしょう、という説得になるでしょうか。お金が空しいのは、不安に怯えることなるにからでしょうか。ならば、お金がなければ、気楽ですよね、という説得にしかならないでしょう。これは、神の御心でしょうか。こういう語り方をすることのほうが、よほど安っぽく、空しいと思います。
 

いま起きている事件のほとんどが金銭を巡ってのものである。そして子どもに「いま欲しいもの、必要なものは何か?」と聞けば、ほとんどが「お金。」と言う。その理由は「お金があれば誰にも文句を言われず、何でも買える。」と。

 
大きく全体を、全か無かで、決めつけています。シャローム氏にそっくりなのです、お仲間や犠牲者というのは。子供にも通用しないでしょう。他の原因による事件は?、怨恨による犯罪は?、猟奇的な犯罪は?、・・もともと、決めつけることだけはしてはいけない問題です。
 
はっきり言って、何を言われても、意に介さず無視できて、自己の安穏の中にいて、非を認めず、罪悪感を表さず、同じことを繰り返すことができる、というシャローム氏は、ある意味、猟奇的なのです。
 

子どもがおかしいのではない。大人、親がそうした生活を求めていることの反映なのである。金銭は人を生かすためにあるのだが、もはや金銭が人を支配するようになってしまっている。たとえ一国の王となっても金銭の奴隷になってはならないのだ。

 
やはり結局、子供を意識した説教でしたか。それを、ここに転載してくるということは、シャローム氏は、この転載元のこのレベルの記事に、おお、まことに、そのとおり、と感動したのでしょうか。あきれる・・。
 

1テモテ6:7~10私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

 
これは、迫害の時代に結束し、それこそ、この世と対決しているような境遇に置かれているキリスト者に向かって言われたことです。だから、世俗への激しい否定も語っているわけでしょう。それを、解釈を考えもせず、真に受けて、衣食があれば満足するべきなどと、今の時代に言っているのなら、逆に、カルトの誘いと勘違いされて、お金取られる、と思われても仕方ないでしょう。
 

持てない者のひがみと言われても、一日中、金銭の行方を考え、どうやって守ろうとする生活より、貧しいながらもイエスにあって楽しいわが家でありたい。

 
持てない者のひがみと言われても?、取ってつけたような、イエスにあって?、楽しいわが家でありたい?、そういう個人的なことを言いたかったのでしょうか。生活の中の聖書は、個人の、こじんまりとした暮らしについて語っているのでしょうか。聖書の価値というのは転載元にとってその程度のものなのでしょうか。キリストの命を賭した救いの話をするのに?・・シャロームのいい加減さが、ここにも、実を結ばない徒花を咲かせています。
 
このように、言葉面と奇跡だけで人間を見ない教条主義を広める説教の弊害は、一生に及び、命に及びます。こういう自覚を全く持とうとしないシャローム氏は、これからも徒花を咲かせては散らせるために、嘘っぱちの教条を福音と呼んで信徒を欺き続けるつもりでしょうか。自分のしていることに罪悪感を感じず平気でいることが既に猟奇的だと思います。
 
 
お金は欲しいのです、あったほうがよいのです。キリスト者が皆、金欲を禁欲しているなんて思わないでください。私たちキリスト者が、お金を無制限に欲しがる亡者にならないのは、生涯を、心もお金も貧しい者たちと共に過ごしたイエス・キリストを、救い主と、また永遠の友と、また永遠の愛と、信奉し信仰しているからに他なりません。今回の記事には、一番大事なことが書いてありません。
 
キリストとの人格的関係を軽視する向きは、やたら贖罪や復活や奇跡の教条にこだわる反面、このような世俗の欲望に対しては、安い世俗の知恵をもって語るしかなくなるということです。神の奇跡の世界の決めつけにこだわるばかりで、人間について考えるということができていないからです。
 
 
(2017年10月27日、同日一部修正)
 
賭する(とする)
徒花(あだばな、仇花):咲いても実を結ばない花(=無駄花)
信奉(しんぽう)
 
 

 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
 にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 

このページのトップヘ