ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年10月

 
  批判を受け付けない悪口
 
 
 (批判対象ブログ)
 その名は不思議
 管理人:shalom
 
 (批判対象記事)
 後の祭り?空虚な政(マツリゴト)!
 shalomのコメントの部分
 2017/10/24(火) 午前 9:38
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28305184.html
 
 
転載部分ではなく、偽善的教条主義と権威主義の権化のようなシャローム氏のコメントの部分を批判対象とします。小さいフォントで、強調文字。読んでほしいのか、ほしくないのか。見にくい書き方です。
 
悪口と言っていいでしょう。ボヤキにしては読んで不快になるのは、決めつけの強さが目立つからです。シャローム氏の文章の特徴である他者を悪者にしたボロクソ節が全開で、戦後の日本をばろくそに言っているが、ボロクソの中に自分が含まれている、ということを全く考えていない、いつもの姿勢が何とも胡散臭い。
 
謙虚さと冷静さの欠けたシャローム氏の文章は、転載記事の部分とは打って変わって、強硬で厚顔な態度が目立ってきます。キリスト信仰者が意見を述べる態度ではありません。
 
>《shalomのコメント》
 
>政(マツリゴト)は祭り。お祭りの中心はお神輿。
>自然災害のみならず、政による災害も多い日本。
>すべての災害の復旧、
>復興の願いを込めて祭りが行われるのが、この国の習わし。
 
政をお祭りに喩えています。古来、政は、祭事と一体であったと聞いたことがありますが、シャローム氏が書いているのは、おふざけ、そして、揶揄に過ぎないでしょう。しかも、今までにも書いたきたことだから、繰り言と言っていい。繰り言の悪口、聞いて心地よいはずもなく、強く書いているから、ボロクソ節にしかならず、意固地な老人が、ぶつぶつ、畳を毟りながら、他者への恨み言を書いている風情であります。
 
悪を他人事として、共有しないところが、いつも、シャローム氏の致命的な問題点なのです。
 
>担いでいるのはお神輿。苦しみ、悲しみの共有の象徴。神頼み。
>でも担ぎ、担がされているお神輿はいつも空っぽ、空虚。
 
空っぽは、シャローム氏が担ぎ上げているところの、権威主義や教条主義も同じだ、ということを無視しています。この自分の欠点を徹底的に無視する姿勢が、シャローム氏の筆致を悪質な悪筆にしているのは、ずっと変わらない特徴です。
 
>それでもお神輿を担いでいる興奮に現実を忘れることは出来る。
 
だから、これも共感ではなく、他者への、現実を忘れていることへの悪口にしかならず、一方、コメント欄を廃止して刺激のない環境を作って、その中で、自らの偽善と隠蔽という現実を無視し続けているのは、まぎれもなく、シャローム氏自身であります。
 
>国会議事堂もお神輿のようだ。
>戦勝国から贈られた民主主義というお神輿だ。
 
シャロームのボロクソ節の特徴として、スケールだけはデカい、ということです。他者を大いに断罪しても、自ら反省することは全くない、という特徴です。自己中体質の特徴です。
 
>そのお神輿の中も空虚であることは変わらない。
>政(マツリゴト)はいつも後の祭り。
 
だから、政と祭りの言葉遊びにしかならず、テーマも問題も大きいのに、後の祭りと、ふざけた悪口を挟んでくるのでしょう。
 
>戦後72年。
>戦争体験者は少なくなっている。
>私も戦争は知らない。
>ただ空襲を逃れて叔母の家に逃げたことを記憶している。
>両親は子供に戦争の悲惨さを伝えることより生活難と戦っていた。
 
こういうことを書いても、問題を共有する姿勢がないと、自分はこんなにも被害者だった、と言っているだけの告発調の恨み言に堕してしまいます。被害者だったシャローム氏が、大人になって、どれほど加害者になってきたことか。自分が受けた災難を語りながら、自分が与えた災難を隠しているのです。彼が、どう戦ったかは、真っ黒です。
 
>戦後の日本が民主化された意味など知らず、教えることもできなかった。
>戦後の教育も戦争の悲惨さを伝えることなく、
 
教育の失敗を告発していますが、その中で、今、戦争の悲惨さを伝えようとしたり、問題点を指摘する人々も育ってきて、転載記事のような意見も生まれてきているわけです。全か無でしか語れないシャローム氏とは違うのです。自分の正しさを絶対として、被害者の立場しか持てないと、こうなるという典型になっています。
 
シャローム氏は、記事を転載しながら、その転載元の人々を愚弄している構図になってしまっていることに気づかないようです。
 
>ただ敗戦後5年に始まった朝鮮戦争を契機として、
>アメリカの最前戦基地として、日本は戦後の経済回復を始め、
 
歴史の成り行きさえ、一括して、自分を除外した他者の悪事にしたいのでしょうか。では、自由に物が言えるはずの時代と世界で、反対意見を明らかに意図的に全削除したシャローム氏自身は、どう批判されるのでしょう。一面的、一方的、というのは、彼のためにあるような言葉です。彼の振るう刃物が、彼自身を斬ることになります。
 
>またアジアにおける共産化の最前戦国として、
>アメリカの強固な軍事、経済の支配のもとで
>世界の奇蹟と言われる経済復興をし、経済大国といわれた。
 
豪語、豪語、でないと気が済まない、自分をどんどん大きく高くしてゆくところからの決めつけばかり・・。内容の貧困さよりも先に、その姿勢と立場の既に明らかな自己矛盾が鼻を突き、いつまでも鼻に付きます。預言者気取り、評論家気取り。どこまでも、裁く者であろうとする神の代理の御託を授ける威丈高の姿勢と立場です。
 
>日本の戦前の政治、教育の問題を問うこともなく、
>日本の戦後の教育も民主主義の意味を教えることもできず、
>ただ民主主義の制度についての知識を説明するのみだった。
 
善か無の、無を、他者に向けて、言い得たと思う体質のシャローム氏なのです。彼は、自己絶対の権威主義者で、自分を省みることができず、自らへの批判を受けることができず、民主主義の知識さえ弁えないで、どういう根拠で歴史と民主主義を語ろうとするのでしょう。
 
>ただ政治も教育も経済成長のためにのみ奔走していた。
>日本人は世界中からエコノミック・アニマルと言われた時がある。
 
誰でも知っていることを、ことさら、告発にしてしまいます。その中で、恩恵の一部を受けていた自分は、何なのでしょう。
 
>確かに日本は全土を焦土とされ、広島、長崎に原爆投下され、
>戦争の悲惨さを体験したが、その痛みをかみしめることなく、
 
かみしめることは、なかったのでしょうか。誰に向かって言っているのでしょうか。広島と長崎と戦争の痛みを知らないで、悪口ばかり言っているのは誰でしょう。そのような悪口を批判の文章の後に、おまけみたいにぶつぶつ言って書いて、自分も批判しました、ということには決してならないのが分からない人なのです。経験を語る文章とも、考察を語る文章とも、全然違うところで、シャロームの教条思想は破裂して有害な異臭を発煙し喫煙しています。
 
>1985年ごろからのバブル経済景気によって
>21世紀は日本の世紀だと世界の羨望の的とされた。
 
また書いているが、21世紀は日本の世紀だと誰が言ったのでしょう。ネットで検索しても出てこないのですが。・・いや、出てきました。
http://blog.goo.ne.jp/02200224/e/56fa1a0d863cfdd6617807642cca5b9c
シャローム氏が、このサイトを重要視しているとは、すごいですね(皮肉です)。
 
だらだらと書いているのは、分析したつもりなのでしょうね、よほど無関心な人以外、誰でも知っていることを書いています。しかも、大袈裟です。世界の羨望の的、と言ってしまうのは、世界を知らないからでしょう。いや、世界を知らない自分を、知らない人だからでしょう。シャローム氏が何か書けば、いたるところに、彼の思路と思想の欠陥が噴出してきます。
 
>しかし、1991年バブル経済が破綻したとき、
>一気に経済的繁栄のみを追い求めていた
>日本の経済至上主義は行き詰まり、心の閉塞状態に陥り、
 
他者を心の閉塞状態と決めつけるところの、心の閉塞状態は、シャローム氏自身の病質的気質だということが、彼には分からないのです。
 
>心の時代と言われ始めたが、民主主義の基礎である
>確固たる人権意識が培われないままの民主主義は機能不全に陥り、
>健全な人権意識の乏しさと経済的閉塞感によって
>個人も家庭も、社会も学校も企業も政治も混乱し、荒れすさみ、
 
確固たる人権意識の代わりに、人権無視の権威主義から機能不全に陥り、宗教も信仰も伝道も混乱し、それを政治のせいにして他罰的に荒れすさんでいるのがシャローム氏です。
 
>今日も政治、企業、教育、社会から倫理観が失われるなかで、
>戦争責任をとらなかった政治と清算することなしの日本人の心は
>急速に戦前回帰の道、いつか来た道に政治と心の拠り所を求め、
 
自分の道義的責任さえ取れずにいる教条主義者が、戦前回帰を批判したいようだが、彼は、二千年前のパリサイ派の、自分は罪のない特別な存在、という精神へ回帰しています。
 
>戦争による犠牲者320万人、アジア諸国の犠牲者2000万人の
>人命を代価として与えられた平和を危機にさらそうとしているようだ。
>戦後72年。戦争の記憶は遠くなり、戦争の足音は近づいている。
 
戦争の足音については多くの人が危惧しているところです。シャローム氏に指摘される必要はありません。一方で、ここでは何よりも、シャロームの足音は、もはや足跡となって、今もこの記事に伸びてきているということです。その偽善性は、多くの戦争など、人災の時には、必ず、無責任とか責任転嫁とか自己中心とか自己正当化とか言い逃れとか作為的記憶喪失とかいった形で表れてきているのです。足元を見ないシャローム氏の告発調を真に受けてはいけません。
 
自らに向けられた批判に答えようとしないシャローム氏は批判する資格のない人です。
 
>《聖書の言葉》
>“人はパンのみにて生きるにあらず、
>ただ神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのである”
 
その傍証として、何を思ったか最後に、この聖句をポンと挙げていることでも分かるでしょう。神の言葉に生きよという聖句だからと、解説もなく唐突に載せて済ませたつもりの安易さに、この記事の文脈の上で、何の効果が期待できるというのでしょう。これこそ、自己満足の的外れ、すなわち、人を生かす聖句を、場違いに当てて無にしてしまう罪なのです。
 
これが、シャローム氏の常習的偽善です。聖書は、問題の文脈さえ読もうとしない傲慢な怠け者が、どこでも便利に使える万能処方薬ではありません。聖書を読むには、特別の才能は要りませんが、決してあしらって使うためであってはならず、聖書から何かを受け取るつもりなら、何よりも謙虚で真摯な態度が必要です。
 
世の中をボロクソに言って、正義を果たしているつもりのシャローム氏は、日々神の言葉すなわち聖書の言葉を、偽善と隠蔽の継続に変えて、かつ、人に隠しながら、今になっても、人に聖句で教えるつもりなのでしょうか。神の前にも、人の前にも、そのような詭弁が、まだ通じると思っているのでしょうか。
 
誰も、彼を慕い求めて待ち伏せている罪の門口に、ともに立ってはいけません。
 
 
(2017年10月26日、同日一部修正)
 
畳(たたみ)
毟る(むしる)
真摯(しんし)
羨望(せんぼう)
威丈高(いたけだか、居丈高)
 
 
 
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   言葉の逆切れ現象
 
 
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 その名は不思議
 管理人:shalom
 
 (批判対象記事)
 生きる喜びと豊かさは神から与えられる恵み
 2017/8/4(金) 午前 8:11
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28199388.html
 
 (シャローム氏の類似過去記事)
 豊かさと貧困
 2012/2/4(土) 午前 10:03
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/22164184.html
 
 
政治と社会の問題と、信仰の問題を、混同して語る、政治家&預言者に同時になりたいかのような、シャローム氏の筆致ですが、はっきり言って、自分のことさえ、飾らないで語ることはできないでしょう。奇跡話と妄念の泥沼にどっぷりつかって溺れて泥を大量に呑み込んだまま語るシャローム氏です。
 
>今日の聖書の言葉です。

>わたしは日の下に悲しむべき悪のあるのを見た。
>すなわち、富はこれをたくわえるその持ち主に害を及ぼすことである。
>またその富は不幸な出来事によってうせ行くことである。
>それで、その人が子をもうけても、彼の手には何も残らない。
>彼は母の胎から出てきたように、すなわち裸で出てきたように帰って行く。
>彼はその労苦によって得た何物をもその手に携え行くことができない。
>人は全くその来たように、また去って行かなければならない。
> (旧約・伝道の書5章13~16節)
 
伝道の書については、前にも述べたように、人間の限界と不全による、はかなさ、空しさ、かなしみについて、共感できるところなのですが、シャローム氏は、教条でしか捉えず、またしても、極端な、全か無の話を書いています。
 
>かつて日本は外国に一番たくさんの資産を持っている、
>世界一のお金持ちといわれました。
 
経済大国と言われていた時代があったようだが、多く富は偏っていて、さらにバブル崩壊もあったわけで、安定もしていないわけです。世界一のお金持ちとまでは言われてなかったような気がします。
 
シャローム氏が、バベルの塔に喩えたときも、うんざりしましたが、今回、私が宗教性も文学性も高いと思っている伝道の書を、単純な思い上がりによるバチが当たったみたいな話として、悪の代名詞みたいに彼のボロクソ節のネタにされるのは耐えがたいものがあります。はっきり言って、人間共通の無常や空しさとして受け取れない彼の病理を感じるだけです。
 
>21世紀は日本の世紀だといわれ、世界中の国々から羨望の的とされていました。
>しかし、今は既に21世紀となり、日本の現実はいかがでしょうか。
 
いかがでしょうか・・など、疑問文は、シャローム氏の場合、全く他者の意見など求めてはおらず、ただ、自分が高みから豪語したいだけだということが、今までの批判から明らかになっています。
 
21世紀が宗教の世紀というのは聞いたことがあり、良い意味かと思ったら、とんでもない意味で現出したことはテレビで見て聞いていますが、日本の世紀だというのは、どの国で言われていたのでしょう。大袈裟に持ち上げて、どん底に落とす、という、シャロームのボロクソ節がまだ続くのでしょうか。
 
ちなみに、「21世紀は・・の世紀」と検索したら「・・」の部分には、水、人権、環境、心理、魔法、光、中国、アフリカ、などが出てきました。水が一番多い印象でした。
 
>今日の聖書の言葉は傾聴に価する言葉ではないでしょうか。
 
自分で決めつけておきながら、この言いぐさ・・。聖書と聖句に対しては、受け取れるか、分からないか、が読者の態度であって、傾聴に値するかどうか、シャローム氏ごときに評価する権限も能力もない。神についての書物が聖書だけであることを考えると、シャローム氏は、神は傾聴に値する、と同格の立場から言っているようなものです。何よりも彼の立場が、高みに思い上がっており、キリスト者としての敬虔な立場ではないことの証拠でしょう。
 
>いくらこの世の富に豊かになって、サア、安心だ、
>飲み食いして楽しもうと言っても、いつ富が失せ去り、
>またいつ私たちの命が取り去られるかわからないのです。
>今は富んでいる時には想定外だった将来の生活すら脅かされています。
 
そういうことは、今に始まったことではなく、もっとひどいことが、戦争の時代に起こってきたわけです。いつもワンパターンのボロクソ節です。自らを高めるために、人心を脅かしているのは、シャロームさん、あなたです。
 
>だから持っているお金も手放せず、まき散らされるお金も循環せず、
>人の心と社会を活性化することが出来ないのです。
>どんなにたくさんのお金をまき散らしても、希望と安心は手に入らないのです。
>アベノミクスは幻想であり、アベノリスクです。
 
アベノリスクという言葉は何度も書かれているもので、もちろんシャローム氏のオリジナルではなく、パクって書いて、自分の言葉であるかのように断定するのに使って、政治評論家気取りなのです。丁寧語で慇懃無礼なだけで、本当の礼儀は弁えないシャローム氏です。
 
>人は生ける神によって創造された豊かさの中で生きるものとして造られました。
>人が神と人に仕えて生きる時、
>人は生きる喜びと豊かさを楽しむことが出来るのです。
>生きる喜びと豊かさは神から与えられる恵みなのです。
>人は生ける神のすべてはよかったと宣言された神の創造の恵みのなかで
>神を喜び、楽しみ、神への感謝と礼拝をささげて生きる者なのです。
 
そして、唐突に、社会の話に、平気で信仰の話を、前提も語らず、ぶち込んでくるのが、シャローム氏の、変わらぬ、説得力を考えない筆致です。神の啓示だという意識がそうさせるのか、しかし、彼は、神の啓示を受けたとは思えない卑劣さを今まで露呈してきました。
 
>しかし、人が神の言葉を退け、
>自分をまるで神であるかのように生き始めて以来、
 
誰のことでしょう、彼自身のことならわかりますが、また全か無で、他者一般を断罪して、人間に恵まれた知性と感性を見ようともしないシャローム氏です。これで、伝道の書を読めるわけがありません。
 
>神との交わりも、人との交わりも失われ、
>物や知識の豊かさによって使えば尽きてしまうような豊かさを得ようとし始め、
>天に届かせようとバベルの塔を築く権力者ニムロデは私たちの姿です。
 
1行目はシャローム氏に当てはまります。
全か無の、無であります。私たちの姿というなら、あなたも悔い改めなくてはいけませんが、今まで、そういう様子は全くなかったのです。彼は、聖書を悪用して、ふりまわして、人が関われないところの、神の奇跡によって、無条件で、有無を言わさぬ救い、という自説を豪語します。天に届かせようとバベルの塔になっているのは、シャローム氏です。
 
私たちの姿、という私たちに、シャローム氏は、自分を含めていません。含めていたら、罪悪感や悲しみの共感があるはずですが、彼には全く見られないことが根拠です。謙譲を気取って言ってみたが、彼を通すと、傲慢を他者に向けるだけになっています。彼は、この、私たち、という言い方を、自分の責任回避のために、よく使うので、注意が必要です。実際は、自分の非を認めたことのない人です。シャローム氏は、表面的な言葉面と、本音が乖離している、とても白々しい人です。
 
>しかし、その豊かさは表面的な、偽りのものでしかなく、心をモノ化し、
>気づかないうちに、言葉の通じないバビロンという混乱の世界としたのです。
>富と権力によって人の心は腐敗し、白蟻に食い尽くされているのですが、
>表面は何事もないように見えていても内側ではすでに崩壊が始まっていたのです。
 
心を損ない、心も信仰もモノ化して、モノのような教条でしか語れず、腐敗し食い荒らされて崩壊が進んでいるのは、他でもない、シャローム氏自身なのです。シャローム氏が書くと、こういう言葉の逆切れ現象が起こるのです。思い上がって放った言葉は、言った人に返ってくるのです。
 
>人は貧しい時には豊かになりたいと願い、
>豊かになれば、貧しさはなくなり、生活の問題は解決するかのように思いますが、
>ところが、偽りの豊かさの中の深刻な貧困、飢餓を生み出してしまうのです。
 
人間を単純に欲望の虫と見なす短絡ですが、これが、よく当てはまるのは、他でもない、シャローム氏自身なのです。他者も聖書も信仰も無視して、コメント欄を廃止して刺激のない環境で、偽りの豊かさを貪る安穏境地で、捏造した教条に従い、それを広めようとしているのは、他でもない、シャローム氏自身なのです。しかも、それで自己満足して、それを神の平安と呼んだりするのです。
 
>この貧困は人の心のモノ化による貧困ですから、
>人の心は飢え渇き、自分が自分であることを喜ぶことも出来ず、
>他の人との関係も失われてしまい、命は死海のように枯渇してしまうのです。
 
ボロクソ節全開になっています。いつも問われるべきは、自分はどうか、ということですが、彼の心性には、そういう問いはないようです。学習し成長してゆく意欲と意志がまるでないシャローム氏ですから、言葉だけ、自己破壊的に空回りしています。
 
>富、権力は麻薬のように、人の心を麻痺させてしまう力を持っています。
 
お前が言うな、ということです。シャローム氏は、独善の権威主義者です。人の心を麻痺させるような嘘をついて、実際は、自分の心が鈍化し麻痺しているのに気づきません。
 
>麻薬がますます麻薬への欲望を増大させていき、人の心と身体を破壊してしまうように、
>真剣に生きることも、互いに愛し合うこともできなくしてしまうのです。
 
彼の心に起こってきたことです。他者への怨念と、自己保身の欲を増大させてゆき、人格を破壊してしまうように、・・2行目はそのまま彼に当てはまります。
 
>次第に良心の痛みも失われ、自分さえ良ければという生き方が蔓延しています。
>そして、こんなことを見聞することにも慣れてしまっているのです。
>ただ本能のままに生きている獣と同じであれば仕方がないとも思われますが、
>弱肉強食のような動物の世界にも秩序はあるのです。
 
1行目は、そのまま、シャローム氏に当てはまります。まるで、自分のことを書いているようですが、彼は他者のことを言っているつもりなのです。言葉が破壊的に逆切れしています。どこかに蹴飛ばしてやりたいほど、哀れです。
 
彼は、私が出会った人々の中で、最も本能的な人です。しっとりと悲しみに沈むことも、罪悪感によってじっくり反省することもありません。弱肉強食の世界にあるのは、動物の本能として、必要以上は殺さないということでしょう。秩序と呼んで、人間社会と比べるつもりでしょうか、彼は何をわけの分からないことを言っているのでしょう。
 
>しかし、私たちの命も人格も生ける神によって与えられ、
>愛され、生かされている、人間の尊厳性を知ることが出来るなら、
>そのような生き方は神の尊厳をも汚すことを知ることが出来るのです。
 
シャローム氏は、それを知らない典型と言えます。私が知っている限り、彼は自分以外の人間とその尊厳を全く大事にしたことがありません。このように、彼に限っては、多くのことを全否定できる、という根拠が積まれています。彼は、それを見ない、そして知らない、それで、信仰を語ろうというのですから、あきれます。
 
>人の命と人格のルーツである神との関係と交わりを見失い、
>人としての真の喜びも無く、
>生きる意味も目的も見失ってしまっている私たちに、
>イエスさまは生ける神の愛を明らかにし、新しい命を与え、
>生きる力と勇気、喜び、希望を回復してくださいます。
 
この書き方は、私たち、から、自分を除外しているところの詭弁であることを、何度も私は書いてきたのですが、彼の同語反復の前では無意味のようです。ですから、誰も彼に巻き込まれることのないように、間違っても彼の言うことがキリスト教やキリスト信仰だなどと思わないように、私は今書いているのです。これは、シャローム氏の、神への、悪い政治家のスピーチのような、リップサービスであることが明らかになってきたのが、私の批判の6年間でした。彼は、何も回復されていません。
 
>ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。
>神は、その豊かなあわれみにより、
>イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、
>それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、
>あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、
>しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。
>あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、
>信仰により神の御力に守られているのである。
>そのことを思って、今しばらくのあいだは、
>さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、
>あなたがたは大いに喜んでいる。
>こうして、あなたがたの信仰はためされて、
>火で精錬されても朽ちる外はない金よりも
>はるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、
>さんびと栄光とほまれとに変るであろう。
> (新約・ペテロの第1の手紙1章3~7節)
 
大事なところは、解説せず、聖句を引用して、讃美の根拠のつもりなのでしょうか。文章には文脈というものがありますから、これは、聖句を他人事のように振り回す悪用であり、聖句を真実を伴わない空疎なリップサービスに変えて悪用しての責任回避であります。また、彼が、おそらく、毎日、神に捧げているのも、このような、神へのリップサービス?、なのでしょう。神の前に、人間としての身の程を弁えないと信仰は化け物になるという典型です。
 
>神の平安がありますように!
 
彼のいるところ虚偽の平安が有り余っている、不感不応の唯我独尊のシャローム氏でした。口に大袈裟な讃美を持ち、顔に偽りの薄笑いを持ち、頭に処理できない教条を持ち、もてあまし、整えることができずに、突進しては、石板にも新聞にも解答用紙にもコメント欄にも独り言にも、記憶にも予測にも、理路にも論理にも、情緒にも感性にも、耐えられず、すべてを消し去った後の壁に御託をぶつけて、いちいち返されている、廃墟でひとり転がる瓦礫のシャローム氏なのです。
 
最近、シャローム氏は、自分が書いたのか、どこからか引用したのか、ということをだんだん明確にしなくなりそうな傾向があります。表は丁寧、裏は汚い、という彼のやりそうなことですが、こちらは、ボロクソ節などの彼の筆致を見て判断してゆくしかない場合が多くなりそうです。
 
 
(2017年10月25日)
 
捉える(とらえる)
貪る(むさぼる)
捏造(ねつぞう)
瓦礫(がれき)
乖離(かいり)
弁える(わきまえる)
 
 
 
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  神の義
 
 
追い詰められて、できることも尽きたと判断したら、砕かれた魂は人間として、生きること、去ること、死ぬこと、を含めて、神のとりなしを祈ります。それが神を頼みとすることです。自分にはできないが、神にはできることの義を信じて祈ります。その中には、自分が裁かれることをも含まれます。それが全知全能の神を恐れるということです。
 
それらを合わせて、生きることも死ぬことも神に任せる時と所があり、その成就を祈ることが敬虔であります。何故なら、そのとき、個人は、神の前に、砕かれた魂の民だからです。
 
自分は救われると信じてよいのですが、敬虔なる立場からは、救いの中に、自分が召されること、すなわち、死ぬことをも含まれるのです。いつも、自分に都合のよいようにしてくれる神を信じるのは、神を恐れぬ自分信仰です。
 
永遠の命とは、永遠に楽しく生きることだとは思わないほうが良いと思います。永遠に生きることを人間は想像できないからです。むしろ、例えば、一瞬の永遠、ということのほうが人間にはインパクトになりうるでしょう。
 
神が知っている真実と、人が知るべき真実とは違います。神についての真実は、人についての真実とは違います。単なる大小比較ではなく、立場の違いで、絶対と相対の違いに基づく違い、つまり、埋めようのない違いです。克服するべき違いではなく、弁えるべき違いです。
 
私たちの知ることも知るべきことも、神の全知に比べれば、塵のようなものです。その塵を大事にするのであって、神の真理や真実を知りうると思い、知ったと思い込むことは、信仰に反することです。
 
このように、私たちは被造物であり、被造物は創造主に対して弁えるべき節操があります。創造主は、被造物を壊すのに、いちいち被造物が納得するような説明をするわけではないのです。塵のごとき身の程を弁える信仰者は、同時に、感性と理性を与えられています。温もりと潤いを与えられています。息と涙を与えられています。それらがあるあいだ、正直な告白に応えて、わたしたちの信仰は、神の力によって人間という命となり生かされるのでしょう。
 
私たちが、信仰者の端くれであっても、この地上に仕えるのではなく、神に仕えるのだから、たとえ、欲に縛られ、俗に縛られていても、私たちは、日々祈り、神に、自らの思いの有様を正直に告白することになります。そして、罪を認めるなら赦しを乞うことになり、また苦しく悲しいなら癒しを乞い願うことになります。
 
私たちは、そのようにして、人間のスケールでは決して計り知れない全知全能の神と付き合うことになるのです。信仰は、神との付き合いであり、団体の親分との付き合いとは違います。人は他の人の総ての息と涙を知り得ません。その不全において、私たちは救いを必要とし、神は救いを与えようとするゆえの双方向が信仰です。導きを受け、感じて考えて、判断をし、それを神に捧げるのが、信仰者の人生です。それ以上でもそれ以下でもありません。
 
死後のことや、永遠のこと、絶対のこと、完全なる真実と善と美は、人間には手に負えません。人間の真善美は、人間の解放において与えられる自由ですが、そこには、被造物の一生懸命な生き方があり、学習と成長があります。完全や絶対とは違う判断の世界で、人間は、その最大値をもって神に仕えるのであります。
 
神の義とは、人が守るべき律法ではなく、人が受けるべき節操であり、人が人間らしく生きるための神の慈愛によって与えられるものであり、キリストの生き方において示されたところの慈愛が人をほだす導きを通して、罪深き人が時々の神の試みに答えるところの生き方の神に対する誠実なのです。
 
人は神を証しできなくて、罪を犯していても、神は人を既に証ししており、既に見ており、既に聞いており、既に知っており、既に導いている。人は人間であり、知己が多いか少ないかに関わらず、この地上では人間同士の関係において、信仰の種は芽吹くことになるからです。祈りは、多く告白から、罪人の自覚から始まることになります。告白より讃美が勝っているのは、自覚が乏しい証拠です。
 
主よ、わが罪をお赦しください。私は自分を養えません。私は自分を導けません。私は自分を赦すことさえできません。わが生を養いたまえ。わが時を導きたまえ。わが魂に息吹を与え、わが魂を潤したまえ、されば、わが命をして懸命に努めさせてください。偽りを遠ざけ、わが命に相応しい真実を与えたまえ。われを戒めたまえ。懲らしめに渡されることのないように悪から守りたまえ。わが齢の限りあるを憐れみ顧みたまえ。わが罪を赦したまえ。主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン。
 
 
(2017年10月24日、同日一部修正)
下書きの時点では、ある程度、書けたつもりだったけど、今見ると、あんまりぱっとしないので、また稿を改めて書くことがあるかもしれません。
 
顧みる(かえりみる)
 
 
 
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  毒を食らわば
 
 
 (批判対象ブログ)
 その名は不思議
 管理人:shalom
 
 (批判対象記事)
 人の思いを超えた神からの喜び
 2017/10/22(日) 午後 0:17
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28302862.html
 
 (シャロームの類似過去記事)
 不思議な喜びに生かされる
 2016/6/26(日) 午後 1:15
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27543764.html
 二種類の喜び
 2012/5/13(日) 午後 4:28
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/22757807.html
 
 
シャローム氏は、毒を食らわば皿まで、とばかり、成り立たない正当化のために、またコピペで記事を重ねています。彼の醜い言い逃れを見ていきます。
 
>【今日の聖書のみ言葉】

>あなたを尋ね求める人があなたによって喜び祝い、楽しみ、御救いを愛する人が
>神をあがめよといつも歌いますように。
>神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。
>あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。
> (詩篇70:5-6)
 
偽善者は、追及され、答えず応えず、逃げに逃げながら、それでも喜びがあるという自己正当化のために、聖句を悪用して記事を載せる、という偽善の重箱になっています。開けてはいけません、味わってはいけません・・。
 
> =========
> 【黙 想】

> 外側から来る喜びや楽しみもあります。
> 外側には関係なく、人の心の内側から来る喜びや楽しみもあります。
 
自分以外の意見や批判を無視するシャローム氏が、内側で捏造する自己満足、こういう恐怖もあるということです。
 
> 外側のいろいろなことがあっても、心の内側に喜び、楽しみを経験する人です。
>それはどんな人でしょうか。
> 今日のみ言葉によれば、主を尋ね求める人です。
 
いつも無反省に自己正当化し、御言葉を悪用し、神も人も欺こうとするシャローム氏は、心の内に、叩かれても叩かれても意に介しない無視の異常な力を持っています。どういう経験を経たら、ここまで人間の双方向性を失ってしまうのでしょう。
 
>その喜び、楽しみが主によって与えられるのです。
>ところで、あなたはどこに主を尋ね求めますか。
>聖書の中に、礼拝の時に、などいろいろあるかもしれません。
>ここで一つ提案があります。
>信じる者の内におられる主を尋ね求めることです。
>どうするのでしょうか。
>自分の弱さ、足らなさはそうであっても、
>それだけを意識するのではなく、内住の主を意識するのです。
>その主が語られることに耳を傾けるのです。
>その内におられる主があなたやわたしの助け、逃げ場、希望だからです。
 
内住の主ですか、戒めを心得ない者は、心のうちに、いつも自分をほめてくれる偶像を作るようです。それを勧める者もいるようです。それが、彼の、へらへら笑いの素(もと)なのでしょう。へらへら笑いとは、彼が何を言われても、見かけ余裕の、人を食ったような態度を向けてくることの形容です。正常なら、真摯に受け止めれば受け止めるほど、驚きと悲しみを示すはずですが、彼には、そういう感情がないのです。
 
> 《shalomのコメント》
 
>この世は外側から来る喜びでいっぱいですね。
>それは呑んでも呑んでものどが渇く水のようです。
>外側から来る喜びはいつも一時的な喜びでしかありません。
>心の渇きには何の役にも立たないのです。
>絶叫マシンのようにどんどん刺激が強くならないと満足できないのです。
 
本当に心の底まで腐ってしまうと、平気で、罪にも悪にも偽善にも、聖に見せかけた言葉をペタペタ貼りつけて、曲げに曲げて、神も人も騙そうとしますが、その結果、シャロームは絶叫を繰り返すしかなくなっている、ということだけが明らかになるのです。
 
>では私達の内側から生まれる喜びはあるのでしょうか。
>イエスはご自分の死ぬべき時が迫っている時、
>弟子たちは不安でいっぱいでしたが、
>不思議なことを弟子たちに話されました。
>「このように、あなたがたにも今は不安がある。
 
>しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。
>そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。
>その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。」
>(新約聖書ヨハネによる福音書16章22節)
 
シャローム氏は、キリストに出会った時、いったいどんな言い訳が成り立つと思っているんでしょう。自らに染みついた偽善を認めることも告白することも悔い改めることもしないで。
 
>そう言い残されたイエスは数日後十字架につけられ死なれたのです。
>イエスを神からつかされた救い主と信じ期待していた人たちも、失望落胆し、
>弟子たちは絶望して、戸を閉ざして隠れ潜んでいたのです。
>もし、弟子たちがそのままでしたら、
>イエスを信じることは虚しいことに終わったのです・・・
 
虚しい言い逃れのほうを、終わらせることは考えないシャローム氏です。
 
>しかし、その後の弟子たちはイエスを信じるために殉教したのです。
>死の恐れでさえも奪うことのできない喜びだったのです。
>その同じ喜びのために日本においても多くの殉教した人がいます。
 
殉教で死ぬことなど全然考えてもみないから、喜びだったのですと、平気で実感のない讃美をすることができるわけです。最も遠いところに立って見ているスタンスだけのシャローム氏、これはボロクソ節と表裏一体だと思います。
 
>日本には九州から東北に至るまで
>キリシタン殉教の地がたくさんあることに驚きます。
>私は行く先々で殉教の地や切支丹墓地を訪ねました。
>山形の米沢にも私の知人である方の一族も
>甘粕右衛門一族とともに55名の方が殉教されました。
>私はそのことを知らずに処刑の地北山原(ホクサンバラ)をたびたび訪ねました。
 
殉教の地を訪ねても、観光に過ぎないことで箔をつけたがるシャローム氏です。死の実感は誰も持ちませんが、死の前に言葉を慎むことさえできずに、行く先々で殉教の地や切支丹墓地を訪ねましたと、殉教という言葉だけへらへらと利用して、喜びだと気安く言ってしまうシャローム氏なのです。
 
>殉教・・・それはイエスから与えられた喜びのためでした。
>その喜びはイエスの死とよみがえりによって与えられたのです。
>人の思いの及ばない神からの喜びだったのです。
 
このように殉教ということを、喜びのため、よみがえり、人の思いの及ばない神からの喜び、と言ってしまいます。殉教の死ということを、人間として感じることなく、教条的にしか考えていないようです。都合が悪くなり説明ができなくなると人知の及ばない神の奇跡を持ち出す、という、言い逃れのシャローム氏です。ここに表れているのは、殉教者への、人間への、共感を捨てた者の一つの末路なのです。
 
>イエスは迫りくるご自分の苦難と十字架の死を前にして、
>怖れ戸惑う弟子たちに人には語りえない不思議な約束をされたのです。
>自分の死を前にして、
>だれがこのような約束と慰めを与えることができるでしょうか。
 
人に責められることが何よりも嫌で、決して自らの非を認めず、いつも安楽な境地にいたいシャローム氏には、とても耐えられないであろう殉教の死が、現に起こることを、キリストは知っていたわけですし、誰よりもキリストご自身が語り、励ます必要を感じていたからでしょう。預言とも予想とも取れますが、シャローム氏は、不思議に思うのでしょうか。それとも、不思議=神の奇跡ということにしないと気が済まないのでしょうか。いつも神を決めつけて大仰にシンバルを鳴らしたがるシャローム氏です。
 
>「よくよくあなたがたに言っておく。
>あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。
>あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。
>女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。
>しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。
>ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。
>このように、あなたがたにも今は不安がある。
>しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。
>そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。
>その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。」
>(新約・ヨハネによる福音書16章20~22節)
 
このような復活の預言によって祝福されるのは、主が認めた者、ただ主の前に、功はなくとも、いかなる魂胆も持たず、正直であり得た人々です。
 
>神の平安がありますように!
 
この結び、もはや嫌がらせのようなものです。シャローム氏にとって、他者をあざ笑うことは、サディスティックな快感になっているのでしょうか。ならば、これからも続くのでしょう。シャローム氏にあるのは、刺激のない安穏だけです。したがって、シャローム氏と、神の平安を共にできる人はいません。
 
自分が真実だと思ったことを声高に大袈裟に叫んで空回りする者が多いようですが、
真実を追求するには、真実とは何かと思い詰めることよりも、真実でないものを見たときに、その偽りを全身全霊で、できる限り正確に指摘するように努めることのほうが、人間としては大事なことのように思われます。何故なら、人間は、真実というものに一度で完全に出会って理解までゆくことは非常に困難である一方、真実でないものに出会うことのほうは、直観的にも、直感的にも、理性的にも、実に頻回であるからです。
 
 
(2017年10月23日)
 
捏造(ねつぞう)
真摯(しんし)
 
 
 
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  なぜ、どこにもいないのですか
 
 
 (批判対象ブログ)
 その名は不思議
 管理人:shalom
 
 (批判対象記事)
 あなたはどこにいるのですか?
 2017/10/21(土) 午前 10:46
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28301380.html
 
 (シャロームの類似過去記事)
 あなたはどこにいるのか
 2016/11/19(土) 午前 10:20
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27806808.html
 あなたはどこにいるのですか?
 2016/8/1(月) 午前 11:47
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27613712.html
 愛のパートナーを求めて
 2015/8/13(木) 午前 7:58
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26849710.html
 愛のパートナーを探し求めて
 2011/7/20(水) 午後 3:55
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/20597682.html
 
 
シャローム氏は、いったい、何のために、この世に生まれたのだろう。私は、いったい、何のために、この世に生まれたのだろう。なぜ私は、こんなに嫌なものを見なければならないのだろう。なぜ私は、憤慨に耐えないような嫌なものなのに、見てしまうんだろう。
 
この記事、全部かどうか知らないが、どうもシャローム氏の筆致と違うような気がする。会話体で書いているからか。会話体で書くことをシャローム氏はあまりしなかったような気がする。彼が書いたのでなければ、シャロームのコメントと書いていないシャローム氏は、また偽ったことになる。勘違いかもしれないが、彼にお気軽な信仰を教えた者がいるような気がする。そのお気軽な信仰に、シャローム氏の自己中心的な性格がマッチしたのだろう。
 
>今日の聖書の言葉です。
 
>「彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。
> そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
> 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
> (旧約・創世記3章8~9節)
 
> 神が天地万物を、また人を造られたのに・・・なぜ?
> 人は不完全な欠けばかりのできそこないなのかな?
>だからこの世界は痛みと苦しみと問題だらけ!
 
>できそこないの人を造って、神のかたちに造ったなんて、
>きっと自分もできそこないの神だからではないの?
>・・・・・
 
でき損ないの神だなんて、よく言います。というのは、シャローム氏が神を信じているからではなく、彼が、自分を神としているようなものだからです。彼が、自分を、でき損ないだと言えたなら、こうなってはいないのです。
 
>神は全知全能だよ!
> 果てしない広大な宇宙をみてごらん!
> 木の葉一枚をよくみてごらん!
 
白々しいフィクションです。全知全能が、宇宙を見ればわかるのでしょうか。木の葉一枚をよく見ればわかるのでしょうか。シャローム氏は、何を見ても、分かるのでしょう、何故なら、木の葉一枚までも彼自身だからです。彼は、この世の誰よりも勝っているという自覚だからです。だから、ボロクソ節を使えるのです。神を信じ仰ぐキリスト者ならば、決して、でき損ないの神、という言い方はできないのです。
 
>だけど、神にもできないことがあるんだね。
>それは自分で自分のパートナーにはなれないってことだよ。
>だからきっとその愛を注ぐ愛のパートナーがほしかったのではないかな?
 
パートナーは自分とは違う存在ですが、シャローム氏が、神がパートナーを欲しかったと書くのは、とうとう神に憐れみをかける存在に成り上がってしまうのでしょうか。
 
> 愛のパートナーである以上完全を求めるわけにはいかったのだよ。
> 愛が完全を求めてしまうと、それはもはや愛ではなくなるからね。
>でも人ができそこないだと・・・
> でも神にとってはすべてが善で、すべてを益にできるんだから!
>だって神は全知全能な方。聖であり、義であり、愛である方だから!
 
というように、辻褄を合わせながら、救うために人を不全の生き物として造ったと。ところが、彼シャローム氏は、自らが不全だとは認めたことがないのです。一度言ったことは訂正しないことに表れています。彼は、神の奇跡信仰のストーリーを自分で作っています。
 
> 人がどんなに不完全なできそこないでも、
>そんな神の愛のパートナーである限り生きることができるんだよ。
>でも神というパートナー見失ってしまうと・・・
> それが罪人という的外れの神なきさすらい人、
>カインの末裔という罪人になってしまうんだよね。
 
神の愛のパートナー、何という気色の悪い言葉でしょう。何という神への恐れを知らぬ者の言葉でしょう。シャローム氏はそれで気持ちよく生きることができるのでしょうか。神というパートナーを見失っても見失わなくても、私たちは、罪人です。人間の思慮の外に住んでいる者は、何と気楽に悪夢に現を抜かしてしまうことでしょう。神を愛のパートナーと呼ぶくらいなら、神が表れる前に滅してしまったほうが楽だと思います。
 
>でも神は愛を見失ったさすらい人、愛のパートナーを探し求めて、
>イエスをおつかわしになられたんだよ。
>すべての人がイエスによって愛のパートナーである神を再び見出し、
> 神の愛のパートナーとされて生きることができるように!
 
彼は、誰の教えを受けたか知らないが、お気楽な神の恋人か浮気相手になって、陰湿な愛をはぐくむがいいでしょう。私たちキリスト者は、恐れをもって、神の前にひれ伏すでしょう。この慮外者をどうかお赦しください、あるいは、彼は、自分が何を言っているのか、分からずにいるのですと。火の粉のように散って跡形もなく消え失せたいのでしょうか、神の秘儀をなめているシャロームなどは。
 
>人が神のかたちに造られたというのは
> きっと神の愛のパートナーっていうことなんだね。
>そう、それは神のかたちであられるイエスと神の交わりでわかるよね。.
 
愛のパートナー、イエスと神の交わり?、さっきから、八つ裂きにされても仕方ないようなことをシャロームは言っている。神とキリストをお伽噺に落とした報いを受けたいのか。神を恐れぬ者は、身の程を知らぬ者、へらへら笑って酔いしれることの報いは、かねてより明らかだったこと・・。
 
イエスと神の交わりと、人と神の交わりは、全然違う。
 
>イエスは愛のパートナーを見失ってさ迷っている人に言われました。.
>『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、.
>わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と。
> (新約・ヨハネによる福音書20章17節).
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:17
イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
20:18
マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。
 (ヨハネ書20:17-18、新約聖書)
 
聖句は、マグダラのマリヤが復活したイエスに会った話です。シャロームのように気安くデレデレしていません。シャロームのように勝手に、愛のパートナーなどと、名付けたりしません。イエス・キリストは、永遠の同伴者でありますが、シャロームに、また、誰にも、馴れ馴れしく愛のパートナーなどと、安い名で呼ばれる御方ではありません。
 
シャロームはシャロームらしくキリスト?を呼んで、気慰めにするらしい。キリストはキリストらしく、少なくとも、慮外者の慰めになるような御方ではない。今まで、いろいろな冒涜と背教の処遇をもってキリストを散々悪用してきたシャローム、厳かなる神の秩序に従って、シャロームの生涯にわたる不法は裁かれるということです。
 
シャローム、最後に本物の恐るべき力を見るまで、あなたは、ヨブより、はるかに悪意の者であったゆえ、ヨブのようには、気づきがなかった。私は、悔い改めを勧め、訴え、警告したのに、あなたは気づかなかった。
 
ついにあなたは、神を恐れることがなかったが、狭い地上の命を終えるにあたって、もはや、あなたの終わりに神の裁きがあなたの顔に向かうとき、時の余裕はなく、神を恐れず神の怒りを思わぬ者の末路を見るよりは、神を恐れぬ者たちの戒めとなるように、私は、神の目を、この目で見るよりは、私など焼き尽くされ、消滅して跡形もないほうが、まだマシなのだ。
 
卑怯な、卑怯な、妄言教祖、シャローム、そして、不滅の神と、永遠の主の御名の前に、一本の白髪のようなシャローム、神の教えが戒めであり裁きであるために、また、あなたは背いたゆえ、愛もあなたに背くのである。
 
>神の平安がありますように!
 
・・強毒性の偽善のセリフです。
今日の私は、どうかしてます。感情を禁じ得ません。
シャロームの、この結びに答えるなら、なぜ、どこにもいないのですか。
 
 
(2017年10月22日、同日一部修正)
 
現を抜かす(うつつをぬかす)
 
 
 
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