ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年11月

 
  孤独死
 
 
自分が死ぬときに、
見守り悲しむ家族も友人もいない。
後始末という迷惑をかけるだけ。
よいものを残した手ごたえがまるでない。
みんな自分を見限って去って行った。
 
わが神、わが神、何ゆえ我を見捨てたまいしか。
 
このような孤独死を前に
今生きている幸いを感じないのが
最も大きな人間の不幸
 
だとしたら
 
生にも死にも
何の救いもないと感じるだろう。
 
そのようにだけはならないように
生きているといっても過言ではない。
 
でもそれが愛する理由なのか。
それが生きる理由なのか。
 
愛はそれだけではない。
愛は見返りを求めないはず。
愛するべきだから愛するのだ。
 
冒頭の心を人間として感じながら、
最大の不幸を背負ったのがイエス・キリストである。
 
その使命と
死の空しさとの抗争が、
上の聖句とともに聖書には記されている。
 
イエスという名のキリストが
人間として苦しみながら、
負けなかったのは、
人間世界から
神へ捧げる最大の
唯一のいけにえとしてであり、
最大の不幸を背負い
絶対孤独を克服する啓示であり、
ゆえにイエスという名のキリストを伝えることは
福音と呼ばれる。
 
 
ここで
キリストはそんな御方ではないと、
使命を完成したのだと、
だから復活したのだと、
神を讃美して身構えるなら、
 
キリストの純粋神格の教条のみを強調して
キリストの人間性を否定し、
人間的共感を否定するなら、
 
なぜキリストが
人間として生まれて生きる必要があったのかを
考えていない証拠だろう。
 
神格だけなら、
キリストは神として降りてくればよかっただろう。
あるいは
天から神の声を発しておればよかったはずだろう。
あるいは
聖霊だけ降りてくればよかったはずだろう。
 
キリストが人間性ではなく
人格を超えた神格としてのみ振る舞うのならば、
人間として生まれてくる必要はなかったはずだ。
 
 
キリストの神格は神のもの。
私たち人間は、
与えられた思慮と共感性をもって
キリストの人格に学ぶことが不可欠である。
 
 
(2017年11月30日、同日一部修正)
 
 
 
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  キリストの復活
 
 
キリストの復活については、前にも何度か書いてきたと思います。霊的復活を信じている人と、肉体の復活も信じている人がいるようです。肉体の復活だけを重視して、それで完成したかのように悦に入っている心無い人もいるようです。
 
霊的復活は、精神的復活と言ってもよいし、キリストの心は死んでいないと言ってもよいでしょう。これは、現代において、自分というキリスト者が誕生したのは、聖書のキリストの言葉によるところが大きいので、否定できないことです。
 
肉体の復活についてですが、二千年前のことです。例えば、仮に、肉体の復活を支持するような歴史的証拠が見つかって、ほら、やっぱり、と言われるようなことになり、肉体も復活したのだろう、ということになって、もちろん、大昔のことについては、証拠と言っても、可能性が高まると言うだけであって、歴史的事実が確定するということ自体がないのではないかと思いますが、肉体復活説が有力ということにはなったら、という場合を考えてみます。
 
しかし、その場合を考えると、二千年前に、聖書に書いてある通り、肉体が復活したことが、今の私たちに、どういう助けになるだろう、ということを考えてしまいます。今、キリストは、目に見える御方としてはおられないのですから、二千年前の事実が、今を変える要素は、ほとんどないのではないかと思われます。だから、何も変わらないと思います。奇跡は、神のものなのです。
 
むしろ、肉体の復活にこだわる者たちが、もてはやされるようになることは、キリストの悲しみと愛の心を考えるキリスト信仰においては、決して、よいこととは思えません。というのは、稀ながら肉体の復活を強く言って、これがないと信仰ではないかのように主張する向きもあり、そういう人は、往々にして、霊的復活にも、キリストの心にさえも、無頓着になっているさまを見てきたからです。
 
前にも書いたように、奇跡は、否定はしないが、めったに起こらないから奇跡なのです。その奇跡が起こることを信じるのが信仰だと信じている者は、奇跡ばかりを求めて、聖書を読むときにも、心を大切にしない傾向があるようです。そのために人間の豊かな感性や思慮が疎かになる恐れがあると申し上げておきます。奇跡信仰者は、肉体の復活を信じて、どういう幸いを期待しているのでしょう。まさかとは思いますが、自分もこの地上で死んでも復活すると思うのでしょうか。それこそ、ホラー以外の何物でもないのです。
 
キリストの肉体の復活は、興味本位の人々によって話題になっても、決して、キリスト信仰において、重要なことではありません。大昔は大昔です。奇跡信仰者は、肉体の復活を声高に主張して、人は信じなくても自分は信じていると言うことで、自分はこんなに信仰が厚い、と言いたいだけのように思われます。むしろ、不浄に思えてなりません。
 
実際には、聖書に書いてあるようにキリストが肉体をもって復活したかどうかは、この地上では、終末まで分からないでしょう。分かりもせぬのに、あった、なかった、と結論や決めつけを欲しがる傾向は、慎むべきことだと思います。肉体の復活にこだわることは、血も涙も息もないのです。温もりと潤いと命の問題ではないということです。それよりも、もっと、私たちは、信仰において、無くてはならぬものを求めるべきです。
 
信仰は、教養ではありません。自分の格を高める知識でもありません。信仰は、これがなければ生きてゆけない、と言うほどの必要として、感受と思考という人間性を通して、情性と知性の全人格的な成長を期しています。それを誰かに自慢するのでは決してなく、ただ神に捧げて、その愛に生きられるようになってゆくことを祈ることなのです。言葉に表せば、愛、ということになりますが、言葉だけでは表せないものを、求めるようになるでしょう。その、もどかしさゆえに、祈りが必要になるのです。
 
私たちの信仰は、今を生きるためにあります。キリストの心も、私たちが今を生きるために、たとい霊的であっても、今も生きておられます。それで十分なのです。聖書には、復活後、昇天したと書いてあるキリストです。だから、目に見えないキリストの、御心を聖書から学んで、しばしば、その御姿を想像しながら、キリストと呼んで、主イエスと呼んで、その御名によって、祈っているのです。
 
 
(2017年11月29日、同日一部修正)
 
稀(まれ)
疎か(おろそか)
 
 
 
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これも前に書いたとは思いますが・・
 
 
  試練と恵み
 
 
前に、試練と恵みは同値だ、と書きました。
本質的には区別できないものを
人間が分けて受け取っているだけ
という意味で言っています。
 
試練は耐え忍ぶもので、苦しいこともある。
試みに会わせず・・という主の祈りもある。
 
恵みは賜物であり祝福である。
 
しかし人間の能力の限界を考えると、
 
恵みと思って楽しんでいたら、
思い上がって罪を犯すこともあるでしょう。
また
別の人には災いしている
ということもあるでしょう。
 
また試練と思って苦しんでいたら、
実は、より大きな災いを避けることにつながったり、
耐え忍ぶ力と動機が強くなるなら、
それは恵みです。
 
人間のほうが勝手に
大方は快楽原則で
恵みだ試練だと区別しているのです。
 
御心は測りがたく、
また、試練と恵みは複雑に絡み合い、
限りある人間には判断できないことがあるので、
決定的な違いを人は即時には知りえないことを、
どちらも神から与えられるものとして、
人間にとっては同値だと言っています。
 
ですから、私たちは、
神によって、導きを通して
いつも、恵まれ、試されている
と言ってもよいでしょう。
 
でも、私たちは、表面的に感じることで、
これは恵みだ、とか、試練ですね、とか言ってしまいます。
言ってはいけないと言われても言ってしまうことはあります。
そういうことが多い人間にとって大切なことは、
 
時が満ちるときのために
反省し修正ができるようにしておくことです。
 
言い換えると、信仰については何事も
決めつけて修正不要にしてはいけないし、
人は修正不要を持つに値しない。
自分が持ったものに隷属してしまうからです。
 
揺るがない修正不要は神のみの持ち物です。
神の持ち物と同じものを人が持つことはできません。
 
人が修正不要を持ってしまうと、
神が人を揺さぶるときも気づかなくなるでしょう。
 
私たちは、試練と恵みの違いを、神のようには知りえない
ということを申し上げます。
 
さらに、試練だ、恵みだ、
今度は何だろう、とか言っていることで、
神の意志と行為を決めつけるならば、
不遜の罪なのです。
 
決めつけは、心の中の偶像です。
偶像によって訂正不能になってはいけません。
そして、何よりも大事なことは、
偶像かそうでないかを
私たちは決定的に区別する術を持ちません。
 
神が導かれるから大丈夫です、
と言ってしまえば、それは、
人に対しては根拠のない空約束であると同時に、
神に対しては成り行きが神の導きであるかどうかが
自分には分かるという不遜を重ねることになります。
 
人にとっては、すべての成り行きが神の導きだ
というのは、ある意味、真実かもしれないが、
だから、いつもそのままでよい
と思うべきではありません。
悪魔の誘惑もあるのですから。
 
信仰は難しくはありませんが、
神より低い存在の敬虔の態度
という簡単なことをも弁えない人にとっては、
つまり神と人との決定的な差さえも弁えないならば、
たくさんの罠や落とし穴が待っているということです。
 
その罠に自ら嵌って
不感不応の迷惑宣伝症候群とでも言うべきものになった人がいます。
 
信仰にとって最も大事なことは、
私たちが、神の下にあり、神よりも劣っており、
神の支配さえも決定的には感知しえない、
ということであります。
 
私たちに必要なことは、
時々に、
受けたものや訪れたことに対して
賢明でありたいと懸命に取り組む姿を
神に見ていただくことに他なりません。
 
神の前に、
いつの日も
自らを振り返って
これが精いっぱいです
と赦しを乞うことができますように。拝。
 
 
(2017年11月28日、同日一部修正)
 
術(すべ)
罠(わな)
 
 
 
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  悪霊と人間
 
 
私は聖書を読んでも悪魔と悪霊の区別を明確には付けることができません。今回は、悪霊について少し長めに聖書を引用してみます。
 
地上にいるもので、人間よりも神に従順で神を分かっている者は誰でしょうか。私は、それは悪魔または悪霊ではないかと思います。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
8:28
それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。
8:29
すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」。
8:30
さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。
8:31
悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。
8:32
そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。
 (マタイ8:28-32、新約聖書)
 
この聖句からは、悪霊は、目の前にいるのがキリストであることを知っており、キリストを恐れていることが分かります。悪霊は、敵わぬと知って、自滅の道を選びます。悪霊は、キリストを殺せません。また、福音書から、悪魔の誘惑に、キリストは負けませんでした。悪魔は、キリストを殺せません。そのキリストを殺したのは誰でしょう。他でもない、人間です。
 
私たちは、キリストを殺した人々と比べて、特に優秀でも、特に善人でもありません。変わらぬ信仰といっても、私たちは、どこが変わったか、変わっていないか、心の中を、隅々まで、分かっているわけではありません。キリストを殺した人々になく、私たちにあるのは、小さくて弱いが主の前に正直でありたいと願っている信仰だけなのです。その私たちがどうして、確定して揺るがない結論なんて述べることができるでしょう。
 
悪霊は、分かっているから、隙を突こうとしますが、
悪霊は、聖霊に敵わないことも分かっているのです。
 
人間は、分かっていないから、ときに、とんでもない大罪を犯してきた歴史があります。
 
それは、ある意味、必然であり、人間が、反逆の民と言われるゆえんです。だから、信仰によって、しっかり分かるようになろう、というのは無理であり、そのように造られてはいない、としか思えず、ゆえに、神を分かることが信仰ではないということです。
 
預言者たちと同じように、キリストも、人間によって殺されました。私たちが十字架の話をするときに、十字架から、あまり間を置かずに、復活の話に持っていって、心配ないという結論にするのは、死を避けようとする短絡であり、絆創膏を傷に貼り付けて傷を見えなくするようなものです。復活したから、いいじゃないか、ではありません。復活したから、ありがたいと、讃美と感謝だけ、ではいけません。
 
キリストの死は、復活以上に、重要な意味を持ちます。二千年前のキリストの肉体の復活が史実だと言ってきかない執着は、キリストの心を見ることができず、神の業なる奇跡によってしか、信仰を理解できない者たちの教条です。そこから、私たちに、今、最も必要なのは、キリストの奇跡ではなく、キリストの心だということです。
 
なぜキリストは人間に殺されたのでしょう。罪の贖いのため、という合理化だけではいけません。キリストには、パリサイ人や祭司などの、偽善者集団が、敵対し、キリストを殺したのです。彼らは、人間でした。この人間たちから、現代を生きるキリスト者は自分を除外してはいけません。私たちは、他でもない、反逆の民として生きているということです。
 
具体的に神に反逆しているかどうかは神の裁きに委ねられており、今の私たちには分かりません。私たちは悔い改めて神の民となった人間ですが、死ぬまで罪は赦されている、などと思ってはいけません。それは予定調和の思い込みです。その予定調和を避けるためには、キリストは自分のために死んでくださった、ありがたや、感謝、讃美、ではないのです。これは予定調和の強化になってしまいます。
 
十字架に込められたキリストの悲しみゆえの憐れみこそが愛なのですから、予定調和を避けるためには、キリストの十字架に感謝するだけではなく、ましてや讃美するだけではなく、私たちは、キリストの愛を言葉だけで強調するのではなく、キリストの悲しみに、折に触れて、共感することが必要であります。それが、私たちの犠牲となったキリストの愛を知る術でありましょう。最も大きい愛は、悲しみから生まれる愛だと思います。
 
ありがたがるだけの愛は、人の世の常として、いずれ乾いて潤いを失い、温もりも失い、心の響きを失った教条となってしまいます。
 
キリストの贖いと復活を讃美しても、キリストの十字架の苦しみと死を悲しまないのはキリスト者として恥ずかしいことです。何故なら、悲しみと喜びの両方が起こっているのに、嬉しいという片方だけを信じるのは、人間としての正常な感受性を持たないで神を信じる、と言っているに等しいからです。人間として受け取れることは、努めて、受け取るべきなのです。
 
私たちの信仰のあり方については、福音書から、キリストに救われた人々を知ることで、ある程度、分かることもあるでしょう。また、キリストが厳しく批判し、それゆえにキリストを殺したパリサイ人などの抵抗勢力の有り様を見ることによって、つまり、非を見ることによって是を知る、という読み方があります。
 
パリサイ人には、教条はあったが、愛はなかった。その有り様が、彼らの信仰?だったから、キリストは登場し、彼らを批判したのです。パリサイ人は、戒律の表面的なところに執着し、すなわち教条に執着し、肝心の憐れみを持たず、愛の実践をする気がなかったのです。いつまでも続く愛が、彼らには途絶えていました。
 
したがって、彼らパリサイ人がどんなに旧約聖書に詳しくても、彼らの信仰には、血と涙、温もりと潤い、情感と悲哀に共感する心がない、すなわち、愛がないために、希望を見出すことができず、言い張りだけが残ってしまったのでしょう。さらに悪いことには、それを自覚もせず、ゆえに反省もせず、そこに安住してしまったから、キリストが邪魔になるだけで、キリストの言葉に込められた大切なものを見出せなかったのでしょう。
 
いつも悲しんでいなさい、ということではありません。潤いも温もりも喜びをも生みます。しかし、潤いと温もりから生まれた喜びは、言い張りではなく、装いでもなく、お祭り騒ぎでもなく、しっとりと心を濡らして、息と命を生み出すものだろうと思います。
 
ですから、折に触れて、悼む心、悲しみに共感する心がないと、信仰は人間離れしてゆきます。人間離れが進むと、元に戻れなくなるでしょう。そういう人は、実際にいます。
 
悲しみに共感する心からしか温もりは生まれないような気がします。そして、温もりがなければ、愛ではありません。つまり、私は、
 
最も深い、本当の愛は、
いつも、もとをたどれば、
悲しみから生まれている
 
本当の愛は、
悲しみをくぐり抜けるほどに深くなるだろう
 
と言ってしまいます。悲しみを求める必要は全くありませんが、聖書を読むとき、自分を振り返るとき、今、性欲や善の高慢ではなく、本当の愛があるなら、そこには、くぐり抜けてきた悲しみの経緯があるだろうと思います。
 
この悲しみについては、今、あるいは、いつも、実感を持てということではなく、それを心に置いておくことが大切だと思います。そうすれば、思い起こす時もあるでしょう。そうしなければ、お祭り騒ぎの信仰?が続くだけでしょう。鐃鉢や銅鑼やシンバルのように。
 
信仰もまた悲しみを経て生まれることがあり、そこから育ってゆくのでしょう。大方は静かで、時に情熱的です。時に乱れることもありますが、艱難を克服して成長し、新たになるでしょう。信仰は、目に入るものを無視せず、打たれながら、受けながら、忍耐力と回復力を養ってくれるでしょう。決めつける必要は、どこにもないのです。
 
 
私は今、正しいと思って書いていますが、私は、痩せても枯れても、また、太っても多弁でも、人間ですから、私の記事は、正しさの絶対性を持ちません。考えたことを書いてきました。それ以上のことを書いた文章を読んで感動すれば、また、別の視点で書くことがあるでしょう。
 
信仰と希望と愛を求めるうえで、いちばん大事なことは、いろんなことがあっても結局は修正可能であることです。そのことが、悔い改めの告白につながり、成長を可能にし、道を踏み外したとき、あるべき姿に戻ることにもつながります。信仰は、ころころ変わってはいけないけれど、変わる余地がなくなったら、教条に縛られた人生になります。
 
 
(2017年11月27日、同日一部修正)
 
敵う(かなう)
神の業(かみのわざ)
術(すべ)
経緯(いきさつ、けいい)
艱難(かんなん)
鐃鉢(にょうはち)
銅鑼(どら)
縛る(しばる)
 
 
 
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  聖霊と信仰
 
 
改めて聖霊について考えてみます。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
14:25
これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。
14:26
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
14:27
わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
 (ヨハネ書14:25-27、新約聖書)
 
聖句にあるように、キリストの昇天後は、キリストの名によって、目に見えるキリストの代わりに、聖霊は遣わされ、人が怖気づかないように、必要なことを言えるように導く。したがって、ことさら、聖霊体験があったことをひけらかす必要はない。聖霊が、超常の御方のように働くか、人知を助けるように働くか、人には分からないからだ。
 
聖霊が、もし超常の御方としてくるのであれば、聖霊を受けた者は、それに相応しい言動を示すだろう。すなわち、神に等しい言動によって人の目を覚ますことができるだろう。それ以外の者は、聖霊について多くを語るべきではない。この場合、聖霊は神であり、超常であって、人の知恵の及ぶところではないからだ。
 
聖霊が、もし人知で分かる働き方であるならば、聖霊は、来たことを知らせたりはしない。人にとって、人の世界で分かるようなあり方しか取らないだろう。その時々の、ひらめきのように、ひそやかにその人の目を覚まし、あることを為し、あることを言うように働くだろう。人は、それを聖霊とは受け取らず、思い浮かんだこととして、使命を果たすだろう。
 
それは、ひそやかであるので、実際、ひらめきが聖霊であるかどうかは人には分からないだろう。聖なる御方の意志と行為を決めつけてはいけないとは、このことである。
 
聖霊が人が気付かないように働くならば、それは超常としての認識ではなく、愛であるから、希望であり、つまるところ、信仰そのものである。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
4:1
さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、
4:2
荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。
 (ルカ4:1-2、新約聖書)
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
10:21
そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。
 (ルカ10:21、新約聖書)
 
聖霊は、まず、福音書の中で、キリストの誕生と登場を告げ、キリストに下り、キリストは聖霊によって語った。聖霊体験者の筆頭は、キリストに他ならない。聖霊によって、神について多くを語る資格を持つ者は、キリストと同じ位階を持つほどの御方か預言者である。そういう者は、奇跡と同様に、めったに現れるものではない。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
12:10
また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない。
12:11
あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられて行った場合には、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しないがよい。
12:12
言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである」。
 (ルカ12:10-12、新約聖書)
 
迫害と殉教を意識したキリストの言葉であり、キリストが通った道である。ここでも、聖霊が導くことを伝えている。聖霊は、キリストそのものという位格を持ち、信仰そのものという働きを持つことを伝えている。
 
神を恐れる信仰の節操を持たず、聖霊体験を豪語する者は、傲慢のために信仰を損なっているゆえに、信仰そのものである聖霊によって語ってはいない。神は、私たちに、分かることか分からないことかが区別できるように、聖霊も、人も、働かせているのに、全か無で、聖なる気分を聖霊と呼んでいる者が、節操もなく、聖霊体験を振り回すならば、それは、直接、聖霊もキリストも神も冒涜する行為である。
 
私たちは、聖なるものになるために、また、聖なるものを知るために、信仰を持つのではない。キリストの愛は、正しい者に注がれたのではなく、正しくないことを知っている者と、正しくないと決めつけられて何も隠せなくなっている者に注がれた。これらの人々は、神の前に、飾らず、飾れず、嘘をつかず、嘘をつけず、という、目いっぱいの正直を認められたのである。
 
したがって福音書から明らかなように、神によって、私たちは、正しかろうが正しくなかろうが、温かい血と、悲しみの涙を持ち、よく感じ、よく考える人間であることが求められている。神のほうを向く、とは、そのような人間になろうとする意志と希望と祈りを持つことである。
 
それ以上を求める者は、神とつながって人間を超えるものになりたいという欲を持つ者たちであり、人間以上の超人か聖人になろうとして聖なる領域をけがし、まずダイレクトな報いとして、人間以下になる外道を歩む者たちである。
 
 
(2017年11月26日)
 
遣わす(つかわす)
怖気づく(おじけづく)
相応しい(ふさわしい)
冒涜(ぼうとく)
 
 
 
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