ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2017年11月

前に似たようなことを書いたと思います・・。
 
 
  幸不幸
 
 
不幸を、
もっとひどい不幸の実例をあげて
比べればマシだろうというような
判断と説得は正当ではないと言われている。
 
もっとひどい不幸は、大方、
それが既に改善を要しており、
正当に存在してはいないからだ。
 
しかし人は絶対基準を持たないので、
しばしば比較してしまう。
 
他者と自分、
過去の自分の記憶と今の自分、
今の自分と未来の自分の予想、
これも主観なのだが、
人間は主観に住んでいるということだ。
 
幸不幸は気持ち次第という言い分は、
幸不幸は主観という前提に立ち、
ある程度は言えているが、
 
この言い分で括っても説教臭くて、
唖然として絶句して希死を思うほどの、
幸福な未来の目標を思えないほどの、
不幸に対する癒しの成分がない。
 
過去は変わらないか、
否である。
 
過去は主観だからこそ、
過去は変わる
今によって。
 
どんなに苦しい過去も、
今が幸福なら懐かしい思い出に変わる。
 
どんなに幸福な過去も
今が不幸なら転落の落差に過ぎなくなる。
 
過去の傷をいやすには、
今からを幸福にするしかない。
 
今から何が幸福かを考えるしかない。
 
今、できることに努めて、
祈りを捧げてゆくしかない。
 
 
(2017年11月25日)
 
否(いな、いや)
唖然(あぜん)
括る(くくる)
 
 
 
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  マリアとマルタの愛
 
 
前に、香油をキリストにかける話がマルコ書とヨハネ書に出てきましたが、それと同じ場面ではないだろうかと思われる箇所がルカ書にあります。さらに、ルカ書には、香油をキリストに塗ったのは、別の、罪の女として書かれています。後者ルカ7:36以降は、端折って引用します。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
10:38
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
10:39
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。
10:40
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
10:41
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
10:42
しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 (ルカ10:38-42、新約聖書)
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
7:38泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。
 (ルカ7:38、新約聖書)
 
愛は
最終的に
存在への愛に向かう
 
いてくれて ありがとう
 
マリアには
今ここに
救い主がいることがすべてだった
それだけで胸がいっぱいで、
マリアは、かたときも
キリストのそばを離れたくなかった
 
マリアの
この一途さはエロスの愛に似ている
 
そして
キリストは
それを喜んだ
 
マルタが
ひどく信仰に反していたとは思えないが
接待することで心を煩わせて
マリアを叱ってくれるよう言ったことに
キリストは答えたのだろう
 
それぞれ役割と情熱があるけれど
マリアのキリストに対する役割と情熱を
とがめる権利はマルタにはない
 
マリアは
そのときの偽りのない心で
キリストに聞き入っており
 
マルタが気づいていないのは、
マリアが叱られるべきならば
キリストが叱っているはずだということ
 
 
目に見えるキリストは
いつまでもいるわけではなかった
 
いてくれる
 
ということが
不可能に近いくらいの
驚きと喜びのひとときであったのだろう
 
いてくれる
 
これが
他のすべてを忘れるほどの
目いっぱいの感謝に値する
 
ときがある
 
 

 
ここで大切なのは
キリストの存在だけではないのかもしれない
 
愛は
最終的に
存在への愛に向かう
 
いてくれて ありがとう
 
人もまた
いつまでもいるわけではないのだ
 
 
(2017年11月24日、同日一部修正)
 
 
 
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  宗教的確信
 
 
確信を持つということがある。
こうとしか考えられない
とか
何を言っているんだ!
という言葉がついてきたりする。
 
確信同士がぶつかり合うと大変だが、
多くは
少しは反省する。
 
確信が宗教で
神についての訂正不能の確信となると
悲劇が起こる。
 
実は自分の確信だと気づかずに
実は自分の解釈だと気づかずに
 
神への信仰を
神への、人の信仰だと気づかずに
 
神を信じているんだと、
疑ってはならないと、
揺らぐものかと確信したまま
 
相手のせいにする。
 
ときには神の敵とみなして
迫害を受けたかのように顔色を変えて
口をつぐんで去る
 
なら、まだいいほうで、
 
ときには相手の滅びを念じて
神の復讐を祈り願う聖句を出してくる。
 
というふうに増悪し、さらに、
 
悟らない下等動物を上から見るような
憐れみの眼差しを向けるのは
 
もはや偽善だ。
 
そして憐みの言葉を吐いて、
自分を見つめなさい。
 
これは、言われるたびに
そのまま返される言葉
 
はっきり言って
根拠のない憐れみの忠告は
 
いやがらせの捨て台詞だ。
 
神の前で
人間の確信などは糞尿のようなものだ。
 
日々入力と出力に生きている人間であるのに、
学習も成長も考えないで
訂正不能の人の言葉で事足りる神の真実がどこにあるというのか。
 
人の真実は不完全であり
折に触れて
信仰の成長による修正が不可欠である。
 
 

修正可能な成長可能な信仰の相対性に生きることに気づかず、
修正不能に固まっている者がいます。
 
 
(2017年11月23日)
 
 
 
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以前、書いたことがありますが、また考えて、信仰の立場を加えてみて・・
 
 
  生存権
 
 
私たち人間の命は、一人一人、皆、この地上のどこかに、できちゃったものです。また、私たちは、一人一人、荒野に山頂に海の上に産み落とされるのではなく、大方、人間の集まりのコミュニティまたは人間社会の中に産み落とされます。
 
人々の中に生まれた私たちは、当然、人々から役に立つ人材として期待されます。生まれた子が望む前に、生まれたところの周りが役に立ってほしいと望むのならば、人々、すなわち、取り巻く社会は、生まれた一人一人を生存させる義務を負い、生まれた人は生存する権利を有する、と考えるべきでしょう。それが、生存権だと考えてみます。つまり、たとえ誰かのうっかりで、自分の意志ではなく生まれてきた私たちであったとしても、もれなく、生きる権利があるということです。
 
生存権を有するということは、人間の世界で生存して何らかの役割を期待されていることだから、それが具体的に何であるのか分からないあいだから、生きる権利とともに、生きて役に立とうとするための、また、役に立つために成長するための努力は義務でもあるでしょう。それは、法律で定められる以前から、自覚する必要としてあるのだろうと思います。
 
生存権というと、かわいそうな人がいるからお恵みを施して極貧の人たちも生きながらえるようにしてあげましょう、という、憐れみを施す慈善事業、そして国の中心ではない周辺事業と同じように結び付ける考え方のような傾向を感じます。はたして、生存ということは、もれなく一人一人全部なのに、まるでその気のある人がやればいい、という特別の憐れみのように、こぼれ落ちそうな周辺に置かれていてよいのでしょうか。中心ではないのでしょうか。
 
私たちは、生まれたくて生まれたわけではありません。まったく、他者の、すなわち、親の望みのみに従って、確率的に生まれてきたのです。このように、人間の命の始まりは、自分のためではなく、親のためにあるのです。それを尊いものとして、自分のために、人間世界のために、育てるのが生存権を守ることであります。したがって、そこには、生きる価値も、また、生きるには必要な糧も、含まれて、生存権なのです。
 
ですから、すべての政(まつりごと)の基本を、生存権に置くべきだと主張したいのです。すべての政策というものを考えてみると、外交も、経済も、防衛も、あらゆる法律も、そのために考えるのは、交渉するのは、何のためかということを考えると、結局、国民の生存権、さらに広げて、この国に今住んでいる人々の生存権に、結局、深く関わっていて、それ以上ではない、ということを申し上げたいのです。
 
すべての政策というものが、統計や数や理屈ではなく、生存権、即ち、私たちを含む全ての人が、健康で文化的な最低限度またはそれ以上の生活を営むためには、という視点でとらえない限り、成立しているとは言えない。つまり、結論を、金額ではなく、統計の数でもなく、法制度でもなく、論理的整合性のみでもなく、これで、人間が人間らしい生き方ができるか、という観点から改めて見てみる、ということを言いたいのです。
 
むしろ、法制度およびあらゆる政策は、そこを踏んでいないと、自己正当化の言い逃れや詭弁や、人間離れしたもの、さらにはもっと怖い勘定に変わってゆくでしょう。そこから生えてくるのは、人間感情の特に罪悪感の鈍麻、命の軽視、猟奇的犯罪、反社会的無差別の宗教じみた犯罪、そして戦争、などになってゆくでしょう。
 
思想の理屈倒れや、論理や統計の辻褄合わせや数合わせや、大事な人間的条件の見逃しや、人間無視の短絡や、ときに発せられるところの人間とは思えない暴言などを、予防して、かつ、政治の言葉を実のあるものにするために必要なのが、人間に本源的に与えられたところの、生存権であろうと思っています。生まれてきたからには、生きましょう、生きられる社会を作りましょう、その時その時の事柄について、どうでしょう、人間が、生きてゆくことが、無視されていないでしょうか、という問いを前提にするべきだと思います。
 
前に書いたこと:
生存権は、
1.生物学的生存権:最低限の衣食住、など。
2.存在権:尊厳をもって存在し生きられる権利。尊いと見なされる扱いを受ける権利。
3.生活権;生き甲斐、あるいは、目的、などを持って意味のある生き方のできる権利。
と書いたことがあります。
 
国家は国民の生存権を守るために存在し、
そのためのみに存在する。
理念・断片 「生存権」
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/3510248.html
そこにも書いたと思いますが、尊厳、生き甲斐、目的、といったようなことは、政治が法制度と財源をもって与えられるものではありません。政治の目的は、そのような理念を可能にする法的経済的基盤を提供することにあります。実際には、生存を与えることのできる力は、心ある人間関係における人間力しかない思います。大人になっても継続して勉強が必要になります。あらゆる人間の活動は法制度を超えたところまで、人間まで、視野を持っておく必要があります。
 
 
キリスト信仰と伝道の立場から補足:
 
私たち人間は、どう役に立つのか、ある程度は明確になる場合もあるけど、道具や生産物のようには明確にならない場合が多いと思います。つまり、生きることが先で、役に立つことは、継続する一生の問題になり、目標への道ということになります。自分は役に立たない、と自分で思うことも、私も含めて、稀ではありません。しかし、稀にあるかもしれないという希望を持つことと、稀にしかないという失望に変えてしまうことと、キリストが、社会が絶望の烙印を押してしまった人々を訪ねて救ったことを考えれば、前者が、神の御心に適うことは、言うまでもありません。
 
かといって、やはり、はっきり自分の役割が見つからないときや、一生続くかもしれないマイナス面を持っていると思うときには、さらに、心無い人にマイナスの評価をぶつけられたときは、失望や絶望が親しく近寄ってくるかもしれません。そのとき、どうするべきでしょう。思い煩いが長引いて、来る日も来る日も思い煩いにに明け暮れたりなどはしたくないけれど、一切無視したつもりで、無理に笑えば、いずれ、笑えないときに笑った無理が返ってくるでしょう。
 
私見ですが、自分はダメな人間です、という位置から、ときには、自分は塵や埃やウンコみたいなものです、という位置から、できることを考える生き方を、慈しみの眼差しで見ておられ、目いっぱい、という、それだけで善しとしてくださる御方がおられます。
 
劣等感や妬みで生きることのないように、いじけることのないように、また、敵意や恨みで生きることのないように、生きる日常が他者へのボロクソ節にならないように、一人一人をすべて見て、功績や才能ではなく、その正直さだけを評価される御方がおられます。言い換えれば、正直さ以外は、通用しない御方です。
 
罪は地獄への片道切符ではありません。
罪を隠し善を装う偽善が地獄への片道切符になるのです。
 
罪を告白する正直さは、
祈りによって宝となります。
 
 
(2017年11月22日、同日一部修正)
 
糧(かて)
塵(ちり)
埃(ほこり)
 
 
 
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  信仰と思い込み
 
 
信仰とは、信じることではない、と前に書いたことがあります。正確には、信仰は、分からないことを分かったかのように教えられたとおりに思い込み信じ込むことではない、ということです。
 
神を信じるとは、神を分かって信じることではない。神は誰にとっても分からないままです。終末まで、分からないままでしょう。
 
すべてが平和で幸福な地上でないことは、生きている誰もが知っています。いやというほど知っています。不老不死でないことも、誰もが知っています。
 
全知全能を、どうやって信じるのでしょう。
絶対を、どうやって信じるのでしょう。
永遠を、いつどこに信じるのでしょう。
不変を、不変でない人がどうして信じるのでしょう。
私たちは、これら絶対の言葉について、何も知らない。
 
信じる対象が、最初から、人には手の届かない性質ばかりなのです。
 
前に書きましたが、神を信じるということは、神が存在するのでなければ生きてゆく理由も生き甲斐も無いくらい、強く情熱をもって、神の存在と支配を待ち望むことです。信じる、としか言いようがないくらい、ということです。
 
そしてキリスト信仰においては、神を信じることは、聖書に書かれたイエスを、好きになり、終生の同伴者として、否定できなくなることです。それゆえに、イエスを、キリストと、救い主と、飼い主と、そして永遠の友と思い慕うようになることです。ここの、永遠という言葉は、比喩表現です。永遠は、こういう、いつまでも、という願いを込めたいときに辛うじて生きてくるような気がします。
 
いつまでも、変わらずに、わが救い主、イエス・キリストとして、信じ仰ぐことを信仰と言います。それは、いつもそうしているわけではないので、その時と所は、いつも帰るところとして認識されるでしょうし、その場所は、大方、祈りの場であります。祈りの場は、特定の場所ではなく、祈る気になった、その場所です。だから、いたるところに遍在しています。
 
不完全な人間が、完全な神を信じるのだから、正確に信じることなどできはしません。神はそれを既にご存知のはずです。そうでなければ信仰は人には手に負えないからです。
 
したがって、間違いを犯しても、告白と悔い改めの祈りによって、赦される道が用意されたのだろうと思います。私たちは、私たちの不全を考えると、神に対して、分かることではなく、分からないということを弁えるために造られたような気がします。
 
信仰は思い込みではありません。思い込みは心が無理をして是としたことを固定してしまうことで、人格は根拠のない固定を土台としてしまうので、修正することも成長することもなくなって、心はねじ曲がって人間とは違ったものに向かいます。
 
信仰は心が導かれるのです。信仰は、心が是とするのではなく、心が否定できなくなることです。神はいないと言われても、他に頼るものがないからです。それゆえ、忍耐強く、弱くても強い、という信仰の逆説が成り立つわけです。信じても、弱いから、なお、信じて、人間でありたいという願いに生きるのです。
 
信仰は、想定ではなく、仮定でもなく、前提でもなく、否めない縁のように帰るところを示します。それは、神への祈りの場です。ゆえに、キリスト信仰は、祈りの信仰です。
 
世にあっては、不可避的に、装ってきて、見かけを気にしてきて、調子を合わせてきて、本音を隠してきて、芝居さえしてきた人間にとって、それらが、一切、必要なくなる唯一の場が、祈りの場なのです。そこは救い主がおられ造り主がおられる祈りの場なのだから、信仰者は、見た目を気にして飾ったり作為的に偽りの善人ぶりを見せたりなど、決してできないのです。祈る意味がなくなるからです。
 
 
思い込みは教条に結び付きます。つまり言葉の形式的なつながりによって物を言うことになります。そして表面的に言葉だけをいじくって辻褄を合わせやすくなり、辻褄が合えば満足してしまいます。辻褄だけで表すことはできないのが信仰と希望と愛なので、思い込みは、結局、できないことをできたことにして満足してしまう、という無理を通そうとする偽善になるのです。
 
信仰のもっとも純粋な動機はキリストを好きになることです。言い換えると、キリストが示したところの、悲しみを超える愛に応えようとする共感と情熱という、とても人間的な温かい動機から生まれるのが信仰であります。祈りの言葉は、たとい、うまく言えなくても、その信仰のゆえに生まれ、その希望のゆえに発せられ、何よりも、その愛のゆえにあります。神は祈りを顧みられ、人は祈りのうちに自らを省みるのです。
 
 
(2017年11月21日、同日一部修正)
 
遍在(へんざい)
=遍く(あまねく、普く)存在すること。
縁(えにし、えん)
顧みる(かえりみる)=振り返って見る≒過ぎ去らず再び心に留める
省みる(かえりみる)=反省する、自分を振り返って考え直す
 
 
 
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