ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年01月

 
  カルト
 
 
ここでは、単に新興宗教という意味ではなく、邪悪なカルトという意味で書いています。伝統宗教の中からも生まれてきます。
 
カルトは、奇想天外な妄想的な主張をもって、いつも目立って豪語している者たち、ということではなく、しっかり伝統宗教と呼ばれる者の中に住んでいて、内心では自分に従えと豪語したい欲求を持っている者たちも含みます。
 
邪悪なカルト、あるいはその芽は、人間らしい感情を、ひたすら、捨て去ることを志向し目的としているということです。
 
例えば、悲しみへの共感、慈愛に満ちた温かい心、そういったものを持たないか無視して、それどころではない、もっと大事な真理を知れ、と言いたくてたまらない欲求を持っているのです。そして、おおよそ、人間という存在を、情感をもって考えることの出来ないような教条の理屈をもって人を誘う用意をしているでしょう。
 
伝統宗教は、カルトとは無縁だというのは、とんでもないことです。まさに、その伝統宗教の衣をまとって宗教の前線に出たがっているのが、邪悪なカルトなのです。
 
カルトと、良心的な宗教を区別する方法は、カルトの人間離れ、そして人としての身の程を知らぬ神がかりを、見つけること以外にはありません。
 
キリストは、人間の、人間らしい心に反応し、また、働きかけてくださいます。そのことは聖書において明らかです。
 
しかし、邪悪なカルトは、そこを区別がつきにくいように曲げてくるのです。その際に使われるのが、讃美の連打と、うわべだけ丁寧な言葉面なのです。
 
キリストを熱心に信じている者の中で、キリストを熱心に決めつけている者がいて、最も見分けの付きにくいカルトの根っこになっていることがあります。
 
区別する方法は、一言でいえば、信仰の熱心さではなく、信条の正しさでもなく、ただ修正可能であるかどうかの一点になるでしょう。それは、そのまま、悔い改める心があるかどうかに、つながってくるからです。
 
神のもとにあっても信仰者は不完全な人間ですから、間違いを犯す可能性を認めて、成長したいのであれば、修正可能を重んじるはずです。それを不必要と思っていることは、カルトの可能性が強いのです。
 
丁寧で優しい、この態度に安心しないでください。邪悪なカルトも処世術として似たような態度を、うわべだけ身につけています。
 
さらに邪悪なカルトが、こう言っとけば間違いないと思っている処世は、前にも述べましたが、ひたすら神を讃美することです。
 
神を誉めまくることの不自然さを知ってほしいです。利害において関係ないと思うから、負担がないから、邪悪なカルトは誉めちぎることが出来るのです。邪悪なカルトは、どうせ神は、この世とは関係ないと思っている気安さだから大仰に讃美します。そして、そこが、信仰としては、致命的な欠点でもあります。
 
邪悪なカルトの特徴:
1.人間離れ、神がかり、現実離れ、夢物語、超常志向、などを好む。
2.修正不能、訂正不能。ゆえに、不感不応、そして不変という主張。
3.気安い真理への道、誰でも信じれば分かると言う。
4.人間の温もりとは関係のない辻褄合わせ。啓示や聖霊、など超常を持ち出してくる。
5.信じることの忍耐を、あらゆることについて無条件に無根拠に説く。
6.最後には、ただ信じよ、信じないと滅びる、と脅迫する。
7.死もやむなし、というような、破滅的な末路を預言または暗示する。
 
 
なお、最近話題になることの多いスピリチュアルと呼ばれるものについて、伝統宗教は何を言えるだろうと考えてみると、人間の中で霊感の強いとされる人がいることを宗教は否定する根拠を持たないということが一つと、キリスト信仰の立場から言えば、人間性というものについて、どれだけ大切にしているかという点だけが関心事となるだろう。
 
超常のことについてどれだけ語られても、それがキリスト教内部で話題となっても、人間にとっては、超常を支配できないのだから、根源的には生き方を左右することではない。そういう超常に左右されるような救いは、人の手に負えないことであって、どれだけ有益そうな超常であっても、人間性に密着していなければ、それは言葉で飾ることと変わりはないのである。
 
何故なら、人間の存在と尊厳と、その情感や思想といった内実だけが、人間にとって、考えるべき、また、考えられる、そして、考えるに値する問題だからである。
 
 
知らないことについて見栄を張って、知ったかぶりをして保身に走るのではなく、知らないことについては何を言われても、おふざけではなく、阿呆になれる人間は、信頼できると思います。自分のプライド、つまり自尊心のために、出てきている人ではないからです。阿呆になれる、という性質は、誰とでも共感関係を作る可能性を持っている、という点で、広い器なのです。
 
 
(2018年01月31日)
 
誉める(ほめる、褒める)
阿保(あほ、あほう)
 
 
 
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  疑問と危機
 
 
信仰者でも、信仰について、疑問と危機があります。
 
1. 神はいないのではないか。
 
まず、信仰者が立つべきところは、
今頃そんなことを言ってどうする、ということではありません。
 
この地上に見えなくても、この地上の背後でも、今は隠れていても、
結局、どこにも神がいない世界に生きられるか、と自らに問うことになります。
 
信仰によって癒され生かされた体験を持っている人は、
神のいない世界で生きられない自分を再確認することで立ち直れるでしょう。
 
※ (訂正箇所説明)
「神がいない世界に生きられるか、ということです。」と書いていました。これは問いであり、私としては、信仰者だから当たり前のこととしての否定を省略してしまいましたが、読み直してみると、神のいない世界で生きるのが信仰だ、と受け取られかねないと思って上のように訂正します。
この地上が「神のいない世界」に見えてしまうことも、ときにはあるというのが、この記事を書いたモチーフですが、信仰者は、その世界から、見えない神を信じているのです。
※ (訂正箇所説明:終わり)

 
神がいて、いると言われて、いろんな神のうち、
キリスト教の神を信じた、ということではありません。
 
信仰の始まりは、人が神を必要としたのです。地上を生きるために神を必要としたのです。
 
神が召命した、という言い方をしますが、まず最初に、このままでは、うんざりしてしまう世界を感じてしまったところの、うんざりしてしまった自分がいるのです。
 
つまり、現象としては、あくまで、救いを求めないではおれなかった自分が先にいるのです。永遠の昔から未来まで神はおられる、というのは、人にとって、後付けで考えることです。
 
2. 神は自分を救わないのではないか。
 
こちらのほうが深刻でしょう。
 
神は、ちゃんと守って、救ってくださいますよ、ではないのです。
 
神を信じると告白しても、救われない人もいると思います。その告白の言葉よりも、その心が真摯であったかどうかによるでしょう。最初から、自己中心の勘違いで信仰を考えている人というのはいるだろうと思います。
 
隠し事など無く、無条件に、真摯に、本気で、信仰告白をして、祈ってきた人は、救われると信じる以外にない、というより、神以外に、頼る相手のいない人です。そういう人は、人生の中で、今さら、神を離れて・・という選択肢はないのです。
 
選択肢のある人、または、あると思っている人は、しばらく、放蕩しても、彷徨っても、いいかもしれない、と思っています。その期間を通して修正可能の心を持っておれば、戻ってくることも出来るのが信仰です。
 
仕方なく習慣のように、教会に通い礼拝を続けて、何かの時に目覚めることもあるでしょうけれど、青少年期のいずれかで、逆らう時期を経て、戻ってきた信仰は、他になかったという思いの強さの分、強いと思います。
 
あとは、1.と同じように、他にあるかないかが、生き方を決めてゆくのでしょう。洗礼を受けたから、導きがあって、聖霊の働きがあって、何も心配ない、というのは、教条信仰です。
 
 
1.2.を通して、必要としているかどうか、他に寄る辺があるかどうか、ということが、人間の側において、疑問や危機があってもなくても、学んで判断してゆくべきことのように思います。
 
つまり、キリスト信仰の場合、結局、キリストのもとを離れて生きていけるかどうかによるでしょうし、私たちは、いつも、それを問われ続けているのだ、ということです。
 
信仰は、本気で信仰を望む人にとってのみ、生きてくるのです。
 
本当に心から、キリストを必要としているのなら、祈るときに、嘘を吐くことをしない、飾ることもしない、つまり、正直な祈りしか捧げるものがない、ということです。
 
 
(2018年01月30日、同日一部修正、さらに修正箇所あり)
 
 
 
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  無常の価値
 
 
人間が死にたくなるのは、
周りに人間がいなくなるか、
周りにいる人が人間と思えなくなるとき。
 
人間が生きるのは、
周りに人間らしい人や話があって、
いつも人間味を味わっていられるから。
 
人間味の中に
尊い愛があり心があり、
それゆえにこそ泣いたり笑ったりが
生まれるというのに、
 
処女懐妊に、奇跡に、肉体の復活にと、
超常の不明を、明として信じ込めば、
いろいろな不明を次から次に信じ込んで、
心は超常に迷い込んで、
明も不明も分からなくなり、
人間の最も大事なることを
無常の無価値として
捨て去ってゆくことになるだろう。
 
人間にとって大事なことは
無常の世界にたくさんあるではないか。
 
無常こそ大事であり、
無常であるからこそ大切にするのであり、
いずれ過ぎ去ってゆく身としては、
常世に至る前に、この地上で
大切にするべきことがあるだろう。
 
神は恒常であり永遠不変である。
神だから常世に住めるのだろう。
 
神は
人が恒常不変になったから憐れむのではない。
憐れんだら恒常不変になるから憐れむのでもない。
人は恒常不変にはなれない。
神は
人がご自身と違って
無常で儚く弱いからこそ憐れんでくださるのである。
そこに神によって期待されている価値があるのだろう。
 
何ゆえに神を真似て
恒常不変に住むことを目指すのか。
目指すとしても何ゆえに
それを地上で真似ようとするのか。
 
何ゆえ無常を疎かにして
恒常が手に負えると思うのか。
 
何ゆえ人の愛を疎かにして
神の愛を説こうとするのか。
 
 
(2018年01月29日、同日一部修正)
 
懐妊(かいにん)
常世(とこよ)
恒常(こうじょう)
儚い(はかない)
真似る(まねる)
疎か(おろそか)
 
 
 
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  判断
 
 
私たちは、皆、いつの間にか、
信仰を自意識の中に取り込んでしまっている
と思っておいたほうがよいだろう。
 
自分は神に救われると決めている心からは、
自分と違う信仰は
神の御心と違う信仰になり、
受け入れられなくなって呆れる対象・・。
 
例として、ある牧師と、
ある日、一緒に道を歩いていると、
酔っ払いが機嫌よく笑って近づいてきた。
適当にあしらうこともできただろうし、
それが普通だと思うのだが、
 
牧師は大声で一喝した。
酔っ払いは信用できないというのは分かるが、
怒鳴って退ける理由にはならない。
その瞬間、牧師は神の立場に立って裁いている。
 
酔っ払いは、
あまりに驚いて、
わなわな震えながら怒りながら、
酒瓶を落とした。割れた。
 
別の日、
洗礼式で発作を起こした人の話をすると、
その牧師は、にわかに顔が曇って、
濁った目つきで横を向いて
小さく舌打ちをした。
 
まだそんなことを言っているのか
と責めているような・・
 
その教会を去ってよかった
と思っても不思議はあるまい。
 
でもその牧師は、
いわゆるカルト的な悪い牧師ではなく、
「分からないことは分からないと言います」
と言える人だった。
 
特に悪い人ということではなく
誰でも、神のしもべが、
人であるのに、
神の立場に立ってしまうと
分不相応の行為に至ることがあるということ。
 
善悪の判断が
神のごとく出来るかのように思ってしまうのだろうか。
 
自分の言動の結果と影響を
どこまで確認できるというのか。
いつまで確認できるというのか。
 
生きる時空を制限された人間が、
どうして確かな判断などできるだろう。
どうして神の判断などできるだろう。
 
多くの場合、
特に咄嗟の判断と反応において
初歩的な善悪の判断で決めたことを
愛の行為か
悪の行為か、決めて、
神の判断であるかのように錯覚している。
 
困ったときに
弱るのではなく、
意地を張ってか、
信仰の強さを見せようとする。
 
聖職者というのは、
恐らく、様々な場面で緊張を強いられ、
語らいと説教と儀式を担当している。
大変だが、
人間として忍耐強くなければならない時に
強さを勘違いしてはならない。
 
聖職者は
聖書の知識のある信仰者であるが、
御使いでもなければ預言者でもない。
 
困ったときには弱り、
弱いときには悲しみ、
主に捧げて祈る姿勢を信仰の立場という。
 
 
(2018年01月28日、同日一部修正)
 
一喝(いっかつ)
曇る(くもる)
咄嗟(とっさ)
濁る(にごる)
 
 
 
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  言葉と心
 
 
私たちは、信仰者として、
言葉を覚えるように促されるかもしれない。
最も典型的なのは信条だ。
 
信条の言葉を覚えたからといって
信仰が不変の確かさを持つわけではない。
 
私たちの学びは、
言葉ではなく心なのだが、
神の言葉
という言葉に執着するためか、
言葉を過剰に重視して
心から信仰の情感が欠けてゆく。
 
聖書は神の言葉であっても、
その神の言葉は人の言葉で書かれている。
だから人にも読めるというのに、
 
神の言葉の神秘性にこだわって
訂正不能に覚えようとするのは殆ど呪文のようだ。
 
主の祈りのように
私たちの願いに結びつく言葉は大切だが、
 
讃美に相当する言葉は、
大方、現実感から離れている。
 
信仰の言葉として述べられるのが
讃美だけではないのは、
ヨブ記や伝道の書において明らかである。
空しさや悲しさの共感であったり、
神を恐れる発言であることもあるだろう。
 
私の好きなそれら二つの書には、
人間の罪と不全の悲しみへの共感が
忌憚なく語られ、裸のまま表れている。
 
背教の念が湧いたときに、
言葉だけ讃美にする愚は避けたい。
それは神に対する偽りであるゆえに
神を恐れない罪である。
 
神の言葉を恐れて
神を恐れなくなってはいけない。
 
為すべきは、正直な告白と、
なおキリストに望みを託す祈りと忍耐である。
 
口に出すのに、または、
文章にするまでに時間がかかっても、
それしかないのが信仰者である。
 
大切な子を失ったときに
神の御心だからしょうがない
とテレビで言っていた外国の人の
冷たい無表情は忘れられない。
 
大切な人を失ったときに神に気を使う必要はない。
何故なら、そんなとき、どんなに言葉を繕っても
神に気を使ったことにはならないからだ。
神は人には分からないことをなさることがある。
 
言葉にこだわって心を失ってはいけない。
 
私たちは血も涙もある人間だ。
 
神は血も涙も捨てて来いなどとは言っていない。
 
神は、それゆえにキリストを遣わした。
 
キリストの悲しみと憐れみの血が私たちの魂を巡っている。
 
私たちは血も涙もある信仰者でなければいけない。
 
 
(2018年01月27日)
 
忌憚(きたん)
遣わす(つかわす)
繕う(つくろう)
 
 
 
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