ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年01月

 
  あなたの信仰が
 
 
前にも書いたと思いますし、キリスト者なら分かっているとは思いますが、キリストに、あなたの信仰があなたを救った、また、見上げたもの、とまで評価された人が登場する聖句を改めて考えてみます。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:20
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。
9:21
み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。
9:22
イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。
 (マタイ9:20-22、新約聖書)
 
21節の行為がキリストの心に響いたのだと思います。それは言葉に表されてはいませんが、キリストが見抜くには十分だったのでしょう。
 
「さわりさえすれば」、つまり、癒しの言葉でもなく、呪文でもなく、この御方なら触るだけで治ると信じる一途さは、この女性の今までの不幸と、その癒しへの必死の願いを感じさせます。また同時に、一度会ってみてこうだったら、あるいは、信じるように言われたら信じよう、というような条件を一切つけないこと、つまり無条件に、(奇跡を)見ずに信じる、という信仰の情熱を感じることが出来ます。
 
そして、触るだけでも、という態度は、何よりも、キリストの前に、自分を、これ以上空しくできないほど小さくした、へりくだった態度だったのでしょう。キリストに対して、これほど、無のような存在の自覚だから、キリストが触るだけでも治ると信じられるのでしょう。
 
そして、機会を逃さず、なかなか近寄れないキリストに救いを求める行為を、触る、ということだけによって表しました。いきなり無断で触ったら無礼だとか、怒られるとか、考えない。もう散々足蹴にされてきたから。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:22
すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。
15:23
しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。
15:24
するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
15:25
しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。
15:26
イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
15:27
すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:22-28、新約聖書)
 
やりとりから、キリストが心を打たれたのは、26節のキリストの言葉を受けた女性の27節の発言でしょう。
 
この女性は、キリストと言葉のやり取りをしています。賢い女性のような気がします。とっさに、このようなこと、言える自信、私にはありません。子を持つ女性だからか、強く賢く、キリストの前で、退きません。
 
キリストが、イスラエルを救う目的であることを言ったのに対して、女性は、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます、という比喩によって、取るに足らない異邦人の自分でも、神にとってパンくずのような、つまらない小さいものは、自分には救いになるから、いただきます、と、へりくだって、言いました。
 
神は主人、自分は小犬、そして主人の落としたパンくずでも救いになるから小犬の自分は食べる、という、へりくだった表現ですが、この比喩、よく思いつくものだ、と私は思います。私は思いつかないだろうな・・。
 
このように、謙遜であるだけでなく、求めている必要なことを、本気の気持ちなら、むしろ遠慮せずに、キリストに申し上げる姿勢が、キリストに出会った人々には見られるようです。
 
 
二人の女性の、悪霊、そして、長血、というのは、汚れと見なされ、救いから遠ざけられていたのでしょう。キリスト以外に救いはなく、機会を逃さない必死さが伝わります。
 
この二人、キリスト憐れみ試験合格しました、うまくやった、ということではありません。これは社会技能 social skill ではありません。崖っぷちの悲願なのです。
 
この2つのエピソードこそは、キリスト信仰の本質を語っています。信仰の芯と言ってよいと思います。どこまでも、神の前に、小さく、弱く、取るに足らず、役に立たないが、救いを求めるに、飾ってよく見せてはいけないのは言うまでもなく、また、遠慮してはいけない、言うべきことは本気で言う、という、信仰者の弱さと信仰の強さを表しています。
 
 
驕りを表す悪い例としては、
 
神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。(ルカ18:11)
 
主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか (マタイ7:22)
 
神の前に、反省どころか、罪どころか、守った、出来た、という、地位の高さの思い込みで、したり顔にしゃべって、自己の正当性を訴える、・・ひどいものです。
 
神と人の関係は、民主主義ではなく、絶対王政といってよいでしょう。それは、つまり、絶対王制を布いてよいのは、絶対の神だけだということです。
 
 
繰り返しになりますが、
神の前で、神のことを、分かる、分かっている、見える、見えている、守っている、知っている、成し遂げている、と完了形で言えることは何もない。そして、
 
神の前で、また、神のことを、分からない自分、見えない自分、守れない自分、知り得ない自分、成し遂げられない自分こそが、救いの対象となっていることを忘れてはいけないと思います。
 
私は、少なくとも、実際に聞いたところの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、アダムの罪を犯さないように善悪の判断を放棄する、などという、とんでもないことを、得々と平気で言い続けるような者にはなりたくないと思っています。
 
間違えることもあるでしょう。間違えたら、その都度、祈って、悔い改めてゆきたいと思います。
信仰の道は、未知でありますが、明日は明日が思い煩う、ということでしょうから。
 
 
(2018年01月26日、同日一部修正)
 
退く(ひく、しりぞく)
謙遜(けんそん)、へりくだる(謙る、遜る)
足蹴にする(あしげにする)
驕り(おごり)
布く(しく)
 
 
 
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  十字架と復活
 
 
多くのキリスト者は
社会適応し、そこそこの地位にいて、
上品に、あくまで社会においても正当に、
信仰を語り継ぐことで、
自らの地位の保全と信仰の両立を図ろうとしている。
 
キリストの時代
キリストの生涯において
人間の社会はそれを成り立たせなかった。
これは今も変わらない人間の罪である。
 
ホントのことを言ったら、オリコウになれない
(「フランシーヌの場合」
https://www.uta-net.com/movie/4010/
 
キリストは、愛に溢れた正しい神の御言葉を伝えながら、
どこまでも弱い人間として最期を迎える使命だった。
 
キリストは、ならず者のように、
捕まり、鞭打たれ、十字架につけられて死んだ。
 
それらの悲しみと苦しみは、
復活によって全て払拭されただろうか。
 
忘れてはいけない。
キリストは社会不適応者として殺されたこと。
その惨めさは酷いもので
キリストご自身はそれに耐えたのであって、
 
私たちがキリストの復活の
栄光の晴れ舞台を讃美で飾る資格は本来ないのだ。
 
私たちが出来なかったことのゆえに
キリストは十字架についたのである。
 
二千年前の肉体の復活だけを信仰の中心だと思うなら、
そう思って、思い込んで、信じ込んで、
この地上を過ごすのだろうか。
その分、今、大切にするべき人間の弁えと
情感を損なってゆくだろう。
そしてまた誰かを十字架にかけることになるのだろうか。
 
私たちは神の栄光を思うよりも
私たちの罪を思うべきである。
キリスト信仰はそこに成り立っているからだ。
 
神は超常に近くなることを、
人に求めるだろうか。
 
それは否である、という答えの根拠は
キリストが救った人々を考えれば明らかである。
 
例えば、
あなたの信仰があなたを救った、
とまで言われた人は、
遜る姿を善しと認められたが、
超常に近づくことを求めはしなかったし、
求められもしなかった。
 
キリストは、
罪と低さを思わずにはいられなかった人々を救った。
 
パリサイ人は、戒律を振りかざし、
神の救いばかりを語った。
 
キリスト者が人間であるなら、
神について語れることが
あまりにも少ないことを知っている。
 
しかし私たちが
キリストの墓参りをしないのは、
キリストが今も生きておられるからだ。
聖霊はキリストの命と言えるかもしれない。
 
私たちは、
超常を語る上では、
「かもしれない」精神を持つべきである。
 
私たちは、
超常よりも人情を語るべきだ。
 
この二千年の間、不滅のキリストは
数えきれないキリスト者を生み出し
育てて、今に至っている。
したがって
キリストの復活は明らかであるのに、
 
二千年前の肉体の復活にこだわるのは、
死体が動き出すような超常を
共にしたい者たちだけだろう。
 
私たちは超常ではなく生きた人間として、
キリストと
命と心と涙と温もりを共にしたいのである。
 
 
(2018年01月25日、同日一部修正)
 
鞭(むち)
払拭(ふっしょく)
惨め(みじめ)
酷い(むごい、ひどい)
遜る(へりくだる、謙る)
溢れる(あふれる)
 
 
 
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  教え
 
 
マタイによる福音書からキリストの教えを引用してみます。キリストの言葉は、特に罪については厳しく、無理難題と思われるようなことがあるのは何故でしょう。解釈を試みてみます。重複するところもあります。繰り返しにもなりますが、
 
引用)
19:16
すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
19:17
イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
19:18
彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
19:19
父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
19:20
この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
19:21
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
19:22
この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
引用終わり)
 
永遠の命を得る、つまり完全になる、ということを、人は目指せるとも、また、目指して、達成したとも、守っているとも、言える人は、一人もいない。守っている、ということが言えるのは、キリストご自身だけである。
 
引用)
5:27
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
引用終わり)
 
この教えを読んで、戸惑う人は多いだろう。中には、結婚して子供を作る目的においてのみ、罪ではない、と言う者もいる。しかし、キリストの教えを、自分で手加減してはいけない。この教えを守れるのは、恐らく、またしても、キリストだけだろう。
 
罪なき者は一人もいない、ということだろうと思う。なぜ、神のようになりたいと思うのか。なぜ、神のように、完全になろうとするのか、また、そのように、思わせようとするのか。神になるのではなく、人間らしい人となりなさい。そのために罪の赦しがあるのだ。
 
このあとも、神の要求するところの厳しさを伝える言葉が続く。
 
引用)
5:38
『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 5:39
しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
5:40
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
5:41
もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
5:42
求める者には与え、借りようとする者を断るな。
引用終わり)
 
出来ると思うなら、やってみるがいい、と言いたくなるほど、キリストは無理を承知で言っていると受け取るべきである。自らの不全と醜さを神の前に隠してはいけない。自ら罪を避けられず、罪を認めるしかないことで、神に赦しを乞う者となりなさい。
 
引用)
5:43
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:44
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
引用終わり)
 
敵を愛します、と言って、愛しましたから、これで御心に適った、と言うなら、その者は、大方、偽善者である。敵を愛したのは、またしても、キリストだけである。
 
引用)
7:21
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
引用終わり)
 
天国に入れるものは、本来、一人もいない、ということから始まっていることを弁えておくべきである。この教えを純粋に行えるのは、またしても、キリストだけである。
 
その上で、キリストが救った人々を考えてほしい。彼らは、御旨を行っていたか、否であり、彼らは、ただ、キリストの前で、正直であった、という、それだけで、御国に至る義を与えられたのである。人間には出来ないことを、人は人に言うべきではない。
 
また、私には・・出来ません・・という嘆きを、キリストは既にご存知である。御旨を行う、という、キリストの教えの根底には、常に、このことがあると考えるべきだろう。その上で、まれに信仰者は、ときに、驚くべき気高い行いをする、ということがあるのだ。
 
引用)
7:26
また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
7:27
雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
引用終わり)
 
だから、キリストの言葉と行いの両面から、キリストの真意を理解するべきであろう。倒れ方の酷いのは、前の聖句のように、御旨を理解できないのに出来るつもりの者、さらに、御旨に沿わず、行っていないのに、行ったつもりでいる者、悪を善と見せかける者たちである。
 
この説教を聞いていた者の中に、のちにキリストを殺した者たちが多くいたであろうことを推測する。彼らこそ、砂の上に自分の家を建てた愚かな人たちである。彼らは、教えを貫いているのが、愛、という大いなるものであることを理解しなかった。
 
この文章だけの文法や一字一句にこだわるだけでなく、キリストの言動の全体を見て、キリストが最も対立した者たちは、文字通り行えなかった者ではなく、御旨を理解せずに、行ったつもりで善を気取っていた偽善者だったことを考えるべきだろう。
 
引用)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10
義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。
引用終わり)
 
パウロの愛の賛歌もそうですが、この聖句を初めて読んだとき、私は、とても慰めにもなったし、気持ちがよかったのです。何か、よいことに目覚めさせてもらったような感じでした。しかし、その後、うっとりばかりはしていられない現実があることを考え始めました。
 
虚心になり受け止められる機会を逃さぬように、という、そのままの意味に加えて、私たちは、しばしば、心がおごっている。
そのままの意味に加えて、純粋に悲しんでいる人は、それほど多くない。多くの人は、やり場のない自他への恨みを片手に握っているものだ。
そのままの意味に加えて、柔和さを、丁寧な言葉面に変えて、人を惑わす者を警戒しなさい。私たちが成りやすいのは、そういう者だということを弁えて警戒するべきである。
そのままの意味に加えて、義に飢え乾いている者は、そうはいない。多くは欲望に飢え乾いている。しかも、それで、義に乾いていると言い張る者が多いのだ。
そのままの意味に加えて、憐れみは、乞食にくれてやる残飯ではなく、命を捧げることだ。それが出来るのは、またしても、キリストご自身だけである。
そのままの意味に加えて、心の清いことも、平和を作り出すことも、できたと思ってはいけない。自分で神の子だと思ってはならない。それを決めるのは、ただ御一方、神だけである。
そのままの意味に加えて、自分に不都合なことを、迫害だと決めつけてはいけない。それを決めるのは神であって、人は、自らの罪と不全を思い、祈りとして神に捧げるべきである。
 
以上の教えについての、負の現実の意味には、キリストはそれを既に知っておられる、キリストは人が罪深いことを既に知っておれる、ということがついてくるでしょう。神の全知、すなわち、既に知っておられる、という救いがあるということでもあります。
 
できないことのために悲しむ人を、神は憐れんで、キリストを遣わしたのだから、間違っても、できると勘違いして、そのままの意味だけを伝えて、これらの教えを守りなさいと、人に、そればかりを伝えるようであってはいけない。
 
信仰者は、できないことについて、できたらいいなと、夢を見るように、うっとりしているよりは、祈りの正直さ、ただそれだけに努めるべきである。聖書を読む限り、救われた人々を考える限り、そこが、神の憐れみを受けるための唯一の条件である。
 
 
(2018年01月24日、同日一部修正)
 
酷い(ひどい、むごい)
弁える(わきまえる)
 
 
 
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  父が言ったこと
 
 
私の父は、2002年に死にました。戦争の時代を経験している、昔、徴兵された日本の二等兵でした。生前、父が言ったことを書いておきます。父と話し合いが出来ていたら、私が父に言っただろうと思うことを、要するに理屈に自信を持っていた父への文句なのですが、こういうことは整理して克服しておかないといけないので、身勝手を承知の上で、すでに亡くなって反論できない父のことを書くのであります。
 
父は、キリスト者ではありません。父は、私が洗礼を受けたのち、何を心配したのか、私が舞い上がって、有頂天のファンタジーか妄想か嘘を思い込んでるとでも思ったのか、私に言ったことがあります。
 
「マリアは姦通したのだ」
 
マリアの処女懐妊が信じられないことは分かります。私も信じられません。ただ処女懐妊と姦通の間に、普通に愛し合って妊娠したという説があってもよさそうなものだが・・と私は思いました。ただ父は、それを言って、そのあとすぐ、私の返事を待つでもなく、どこかへささっと行ってしまいました。一言、言いたかっただけ・・?、嫌味にしかならないのに?
 
また別の日には、
「お前に、視野の狭~い人間には、なってほしくない」
 
自分の視野をさておいて、父は、これも言った後、話し合う気はなく、すうっと離れて行きました。何を返そうかと思いながら、何を返す時間もなく、過ぎたひととき・・?
 
父は、見てきたのでしょう。実際よりも、話に聞いたか、テレビや映画で、クリスチャンや牧師か神父様の、うっとり上気して神のことばかり語る世間知らずの姿。それは、私の場合、実際に見たり、文章の印象だったりで、経験しているところです。
 
父にとって、一つの宗教を信じることは、その宗教観によって、思想を狭小化することだ、という先入観があったのでしょう。それは偏見だと今の私は思うけれども、何というか、心配だから、イヤミになることも考えず、父は言わずにはおれなかったのでしょう。
 
もしキリスト教が、特定の思想や観念を、不明を明として信じよと、強要するだけの宗教であったなら、二千年を経て、世界的に、宗教界のみならず、哲学その他にも、よかれあしかれ、影響を与えながら、キリスト教が続いてきただろうか、とも思います。
 
つまり、キリストの言葉は、キリスト教という一宗教の教祖の発言では済まされないほどの、重みをもっていた、ということでしょう。だから今も、私も他の信仰者も、その重みを理解しようと努めているのです。
 
洗礼を受けたばかりの若者が、キリスト者になって、神の世界に、一時的に、のぼせ上がるということはあります。前に「基督の歌」という詩のようなものを書きました。しかし、どこか閉鎖的な環境に籠るとかいうことでない限り、その上気は、多くの場合、現実に叩かれて、卒業することになります。
 
ここで、言うべきこととしては、一般社会では、私の父が言ったような偏見とイメージは根強いということでしょう。父は、一般社会の人間としての偏見から物を言ったのでしょう。ひとこと言って当てつけて去る、ってのは・・今も疑問ですが・・。
 
その偏見に対して、そうならないために考えるべきことは何でしょうか。私の考えとしては、神を信じることについて、信仰として明らかになるのは、神はこうだ、と言うことではなく、それは分からないままで、むしろ、神に比べて人間はこうだ、と言うことだと思っています。つまり、そういう意味で、信仰は、人間を語ることであり、また、信仰は、人間のためだけにあるのです。そこにおいてのみ、信仰は、現実的な真実の意味を持ってくるということです。
 
 

 
うちは代々、熱心とはとても言えない、慣習上の、日蓮宗です。年を取ってから、亡父も、今、母も、仏壇に向かって、じっと座って何やら話したり瞑想したりする様子をしばしば見ました。
 
父と母は、中国のチンタオ(青島)というところで巡り合い、別々ですが戦後、引き上げ者として船で日本に戻ってきて、結婚して、私が生まれたわけです。私の人生に比べれば、父と母は激動の時代を生きたのだと今でも思っています。
 
父は、自分の人生観と道理に自信を持っていたようです。つまり、理屈が好きなようで説教好きでした。よく、誰かに説教したことを「こんこんと言って聞かせた」と言うのです。
 
説教好きな人というのは、父に限らず、結構いると思いますが、申し上げたい。私に言わせれば、そういう場合、相手は、懇々と教えられて聞きました、ではなく、一刻も早く、地獄のような今の時間が過ぎ去るのを待っていただけかもしれません。後年、父が、母と、熟年離婚になりそうなくらい夫婦喧嘩になったときに「それはお前の事実誤認さ」と法律用語を持ち出したときに、私は、そう思いました。余談です。
 
 
妄想陶酔フィクサー、思い込み道祖神、世間体大明神、体裁大権現、蛆(うじ)神、恨みの虫、自己中虫、等々、私たちは、この世の様々の化け物にもなりうる生き物で、多くの人が、私も、その一部を持っています。それを、まっとうな人間に育てて生かして用いてくださるのはキリストの御心、と信じた人をキリスト信仰者と言います。
 
神のことばかりを話し、神由来の言葉ばかり語る、というような伝道と説教のあり方は、現実逃避になることはあっても、決して、敬虔でも熱心でもありません。弱さを自覚しているなら、弱い人間を語るべきなのであり、主によって顧みられた自分や様々な人間の経緯を、静かな情熱で、語るべきなのです。
 
キリストとの出会いの経緯こそは、今の人間にとっても、福音であったはずですから、新約聖書とまではいかないが、それを語ることは、人が語る福音書的な話として、信仰の大切な糧となるはずで、当然、そこに、聖書の中の登場人物の話も出てくるでしょう。語るべきは、神についてではなく、理解可能な、キリストの人間性と、出会った人々の人生なのです。
 
 
(2018年01月23日、同日一部修正)
 
籠る(こもる)
瞑想(めいそう)
経緯(いきさつ、けいい)
 
こんこん(懇々)
( トタル ) [文] 形動タリ 
真心のこもっているさま。丁寧に詳しく説くさま。 「 -と言って聞かせる」 「道理を-と説きさとす」
(weblio辞書
https://www.weblio.jp/content/%E6%87%87%E3%80%85 より)
 
 
 
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  関係
 
 
私たちには、教えられた神の領域の言葉そして名前があります。
一方、人間は関係の中で生きています。人間同士の関係があります。そして、自分と神、私たちと神の関係の中で生きるのが信仰です。
 
その私たちが、神の領域の御方を、神、キリスト、聖霊、という名前ばかり繰り返せば、神の名をみだりに唱えることになるでしょう。十戒はそれを戒めています。
 
何が言いたいかと言えば、神の領域の御方を、神と人の関係で語らなければ、意味がないだろうということです。教理の言葉を受けるだけでは、言葉と名前をなぞっているだけになるでしょう。
 
例えば、聖書には、キリストは、地上で多くの人に会っていることが書かれています。その関係を考えることが、生きた信仰を語ることにつながるでしょう。
 
神の領域の言葉として、奇跡があげられますが、前にも言ったように、物や肉体に起こる奇跡をいくら大事だと言っても、実際、そういう奇跡はめったに起こっていない、という事実によって、それこそ、口だけの讃美と伝道になってしまうのです。
 
ですから、物や肉体の奇跡については、神にお任せするしかないことです。私は、いつでも起こりうる奇跡、つまり、魂の奇跡のほうを重視しています。
 
魂の奇跡は、聖書においても、キリストとの温かい交流として、出会った人々に起こっており、また、私たちにも、日常において、苦難において、起こりうることですし、起こらないならば、信じた意味がない、というほどの大事なことなのです。
 
この記事のテーマは関係ですが、物や肉体の奇跡は神のみが行えることであり、私たちは、神の奇跡については、起こったとしても、受けるだけの関係です。
 
魂の奇跡は、キリストと人との関係が聖書に書かれてあり、今は、キリストと私たち一人ひとりの祈りを通した交流の関係があります。私たちから見れば、いつでも、祈る相手がおられることが、生きる上で大きな福音でしょう。
 
しみじみと祈り告白すること、そこにおいて、単方向のように思われるかもしれませんが、何度も書いてきたことだけど、祈るときに、心が潤いと温もりに満たされることは、多くの信仰者が経験していると思います。
 
私たちは、しみじみと語ることで、すでに、恵みを受けている双方向なのです。この恵みは、とても大切な宝物なのです。そして同時に、自らを省みる時でもあります。
 
聖書で、神と人との交流と関係が書かれているのは、やはり、福音書が一番でしょう。キリストが見込んだ人々の、見過ごしそうでありながら、生き生きとした命が描かれています。
 
感動もなく当たり前のこととして、こうでなければならないと教理を振り回すような人には、なりたくないのです。私たちは、今も、この世の礫を受けながら、生きてゆくのですから。
 
自分ではどうしようもないことを、生き方を、キリストの思いと、キリストに訴えた二千年前の人々の願いが込められた福音書を、見直して欲しいと思います。その情熱と涙を、ぜひ味わってほしいと思います。疑問があれば、私に聞いてくださいというより、私も分からないことがいっぱいあるから、一緒に考えましょう。
 
 
(2018年01月22日、同日一部修正)
 
礫(つぶて)
 
 
 
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