ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年01月

 
  正しさと反省
 
 
人間は、たいてい、正しいことを目指し、
今自分は正しいと思っているから何かを表すのです。
 
正しくなければ反省しますが
その時、反省する自分は正しいと思っているのです。
 
つまり、人間は、いつも
今自分は正しいと思って言動しています。
 
それが身勝手な妄想にならないのは、
他でもない、反省機能があるからです。
反省によって正しさを更新するからです。
 
反省しなくなった人は、
妄想や空想が溜まりに溜まって、
人間とは思えないような様相を呈してくるでしょう。
 
信仰においても
反省は最も大事なことですが、
 
信仰においては、
それは自分の内部で終わるのではなく、
神に対する悔い改めの祈り
という不可欠な務めになります。
 
本当の正しさは、神のもの
という信仰においては、
 
自らの正しさを
惜しむことなく捨て去ることもあり、
自分の正しさに怖気づくことなく、
そこに、しがみつくこともありません。
 
本当の正しさを
神に任せているのだから、
神は不変の真理であり、
人は可変の提言者となるのです。
 
そうして、正しいつもりで、
間違えて恥をかき、
あるいは、転んで、ひっくり返って、
頭をぶつけたような惨めな気持ちになり
 
なんて駄目なんだろうと思いながら
祈ることになります。
 
悔いと罪悪感に沈むことがあっても
その気持ちを捧げる時と所があるのが信仰者です。
 
転んで立ち直るときに
自力が無理なときに
自分の気持ちが整理できないときに
捧げる相手がいるのが信仰です。
 
誰も分かっていないかもしれないときに
自分という人間を分かったうえで
その告白を待っておられるのがキリストです。
 
神様にそんなこと申し上げられない
という考えをしなくていいのがキリスト信仰です。
 
そのために人間として、
祈りは目いっぱい正直でなければならず、
ただ正直であることだけが条件となるのが、
神によって信仰の義を得る信仰なのです。
 
揺るがない信仰とは、不変の信仰の意味ではない。
 
信仰が不変でなければならない、などと言うのは、人間が分かっていない証拠です。
あるいは、誰かに植え付けられた強迫観念かもしれない。
 
そういう人は
自分の信仰がずっと正しいと思っているのでしょうか。
この汚れた地上に罪深い人間として生まれて生きて、
自分の信仰が正しいとか、どこにそんな証拠があるのでしょう、
どうして罪人が、そんな気持ちになれるのでしょう。
 
揺るがない信仰とは、信仰の中身が揺るがないのではなく、甚だ不十分ながら、
これからも成長可能な信仰者として生きるという決意が揺るがないことであります。
 
 
(2018年01月21日、同日一部修正)
 
溜まる(たまる)
甚だ(はなはだ)
 
 
 
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かなり乱暴ですが・・
 
 
  十字架
 
 
キリストの十字架の贖いによって罪が赦されました
・・これだけを信仰の説教としてしまうと、
何だか、信じますといったら贖罪カードもらえます
というお店のサービスみたいだ。
 
何が言いたいかというと、
これでは、キリストに出会った人々の
悲しみも赦された喜びも感じることが出来ないということ。
 
贖罪カードをあげるから信じなさい、
放っておくと大変なことになりますよ、
と言われているようだ。
 
人間の罪についての考察と経験上の実感より前に
罪に赦しを与えるから信じよ、というのは無理だろう。
 
紙に書かれた条文のような文章を
聞かせられて心が通じることはないだろう。
 
説教者の思い上がりとして、
自分が不十分でも
聖書のことを話せば主が執り成してくださる、
という思い込みがあります。これは、
だからこのままでいいと思い込む口実にもなります。
 
下手な説教を、主が執り成すことはあるだろう、
しかし、そこに、
説教者の怠慢や甘えや安易さがあったなら、どうだろう。
実際、執り成しがあってよかった場合だけではないはずだ。
 
そういうとき、聞いた側のせいにしてはいないだろうか。
主の恵みがないとね・・とか・・?
 
その前に、自分の至らなさを考えるべきだろう。
このことは、伝道というより、説教者の信仰の弁えである。
 
キリストは人間の肉体をもってこの世に生まれ、
殺される肉体の苦しみを経て
絶対孤独の悲しみを経て
私たちに問いかけてくるというのに、
 
どこかで見たか聞いたかの讃美の言葉だが、
 
イエス様、死んでくださってありがとう!
 
主イエスの苦しみも悲しみも気にせずに
贖いの教理のみから単純に理屈で短絡して言っている。
 
・・キリストに向かって言うつもりか?
 
それで目一杯讃美すればよいと思って
考えもなしに感謝の言葉を繰り返すのなら、
人間離れとはこのことだ。
 
讃美だけの救いの教条信仰で、
人間味も人間性も失って
自分に言葉の包帯をぐるぐる巻いても、
予防にも防衛にもならないだろう。
 
こういうことを言っている人は、
生きている人間には
到底わからない苦しみと悲しみを味わった御方を、
嬉しそうに笑ってみている立場になりはしないか。
 
救いのサービスをありがたがっているだけで信仰だなんて・・。
一度、十字架についてみたら?と言いたくなる。
 
言葉を控えるはずなのだ、
十字架についたことのない人間は。
 
キリストが悲しみを込めて人間に共感しているのに、
人がキリストの悲哀に共感しないなんて。
 
十字架の贖いという言葉にしがみついて、
涙も、息も、悲しみも、苦しみも、感じていないなら、
 
キリストに、殉教したキリスト者たちに、
天国で会ったとき、どう言うつもりだ。
死に向かう悲劇も苦しみも悲しみも省みずに、
 
殉教して、おめでとう!・・とでも言うつもりか。
 
ここで、
殉教して天国に行けたのだから
おめでとう!は言えてると言うなら、
救いの言葉を受けて慢心しただけで、
その時点で
深い悲しみへの共感を失っている。
 
頭で感謝しているだけで、
本当の人間らしい心を持たず、
悲しみや苦しみに共感する心を失ってはいけない。
そこは一番大事なところなのだ。
 
本来の心のこもった感謝ではなく、
結果だけ受け取った気分でありがたがるような
信仰?の愚かさを早く脱してほしい。
 
いかなる学者や賢者の言葉も
キリストほどの悲しみの共感と愛と憐れみを表し得ない。
 
それを、キリストが死んで、罪が贖われ、などと
救いの積み木のようなゲームのような貧弱な理路にしてはいけない。
積み木崩しは、あっけないのだから。
 
それでもキリストの苦しみが分かるというなら、
いつもいつも繰り返し讃美するのだろうか。
 
今、迫害されて、
命の危機が迫っているわけでもないのに、
神への讃美を繰り返すのは、
立派な信徒でなければ・・という強迫観念か、
立派な信徒ぶりを見せようとする自己顕示欲か、
この世ならぬ陶酔気分に酔いしれているかだろう。
 
感謝するのは、いつもではなく、本当に感謝したいとき。
 
そして、讃美するのは、本当に讃美したいとき、
あるいは、自分の低さが身に染みて、どうしようもないとき、
または、危機を脱したときと、そして、
できるかどうか分からないが、死ぬときだろうと思っている。
 
キリストは
すべてに見捨てられたかのような
絶対孤独に死ぬという試練を受けて、
使命を果たした。
 
キリストこそが、キリスト者の守るべき従順の理想と言えるだろう。
 
最も偉大な殉教者は、またしても、キリストご自身である。
 
そういうキリストを好きになり寄る辺としている者をキリスト信仰者という。
 
 
(2018年01月20日、リンク追加、同日一部修正)
 
贖う(あがなう)
贖罪(しょくざい)
執り成し(とりなし)
弁え(わきまえ)
 
 
 
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  悲しむ人
 
 
間違いを厳しく指摘されて
泣く人はいずれ自分を省みて学習する。
怒る人は相手への復讐の念を燃やす。
 
前者になりたい。
前者がキリスト者らしい。
そして人間らしい。
 
後者の極端なのはサイコパスだろう。
 
でも怒ったのち反省し
怒りを治めて
改めて反省する人もいるから
決めつけてはいけないのだろう。
 
 
キリストは
泣く人や泣ける人や
泣きそうな人に近づいた。
 
キリストは
復讐の念に駆られた人
つまり怒る人によって殺された。
 
 
感情の中で
いちばん大切なものが悲しみであり、
悲しみは反省に通じ
成長につながる。
 
悲しみに押しつぶされることのないように
キリストは近づいて来られるのだろう。
 
聖書の金持ちの青年は
キリストに見捨てられたわけではない。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:16
すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
19:17
イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
19:18
彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
19:19
父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
19:20
この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
19:21
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
19:22
この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
 (マタイ19:16-22、新約聖書)
 
「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。」
というキリストの言葉が、すでに、
人に、神のごとく、よいことが出来る、などと思ってはいけない
という戒めのような気がする。私は、原語を知らないので、推測だが。
 
青年は、標準的な戒律を守っていたから、祝福を期待していたのかもしれない。
しかしキリストが求めているのは、戒律の型通りの順守ではなかった。
キリストが求めているのは、掟に従うことではなく、愛だった。
愛は、気安く守っているなどとは言えないこと・・。
 
愛について、守っていると言える人は、またしても、キリストだけだ。
 
神の前に、戒めを守っている、と言える人はいない。
その思い上がりに対して
キリストは、恐らく、守れないことを承知の上で、
財産を売り払って貧しい人々に施すようにと言った。
 
キリストは、
祝福を与えられると慢心している者には厳しく、
崖っぷちで泣いている人には優しい。
 
青年は悲しみながら去ったと書いてある。
怒りながらとか、呪いの言葉を吐きながら、
復讐を誓いながら、とは書いてない。
 
青年が、そののち、どうなったのか、
キリスト者となったのか、支援者になったのか、
聖書には書かれていないようだが、
青年は、キリストを殺したパリサイ人とは違うと思われる。
私は、少しばかり希望的観測をもって、この聖句の感想としている。
 
 
(2018年01月19日、同日一部修正)
 
順守(じゅんしゅ、遵守)
 
 
 
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  泣く
 
 
人の悲しみに際して、
キリストは、泣く必要はない、とか、
心配しなくていい、思い煩わなくていい、
ということは言うかもしれない。
 
しかし、悲しみに寄り添うキリストは、
信仰があるなら泣くな、とは言わないだろう。
 
 
泣くことは、一種の感情の発散であり捌け口であり、
涙によって流すものもあるのだから、
 
泣いている人を、心おきなく泣かせることは、
より重い鬱にならないために必要だろう。
 
泣けることは救いなのだ。
 
重い鬱は泣かない・・。
 
泣いているなら、泣けるあいだ、
治癒に向かおうとしているのかもしれないし、
すでに治癒が進行している途中かもしれない。
 
泣いている人を見つけたら、
非常時とばかり驚いて理由を聞くのではなく、
叱咤激励や、泣くな、の一喝は以ての外で、
泣くのを止めさせるのではなく、
 
包み込むような共感を持つようにしたい。
 
泣けることは救いなのだ。
 
理由はそのあとでいい。
何故なら理由を話したい気持ちは既にあるが、
話す前に激情を涙で流していることもあるからだ。
 
命令は禁忌。
 
あくまで支えたい気持ちを、
できれば具体的に表す。
できないときは無理をせず専門家に任せる。
 
キリストは人間の気持ちが分かるから
悲しみに寄り添ってくださることが癒しになる。
キリストは、冷たく乾燥した実のない言葉の害悪を
よくよくご存じなのだろう。
 
悲しむ人に出会って、
同じ人間として
受け入れて共感する以外に何が出来よう。
 
そういうところに入り口があることは、
信仰も人道も同じなのだ。
 
 
信仰の万能を思い込んで
人道を無視したり、二の次にした説教者が、
人道に注げないような超常の話を説教すれば、
人道から嫌われるのは至極当然のことで、
 
にもかかわらず
嫌われたほうが嫌ったほうを神の敵と思い込み、
嫌ったほうは嫌った対象を
キリスト教はこんなことを言うんですよ
と誤解したのでは、
迷惑なだけの笑えない伝道?になるだろう。
 
人間が神の恵みを伝える説教は
上手であるはずはないのであって、
主の執り成しを望むなら、
 
間違っても悲しむ人を見たとき、
いい機会とか思って、
下手な教理の言葉で説教など始めたりせぬために
 
必要なのは人間の心を学ぶことだろう。
 
 
人に対して、打ち明け話をするのは、相手が驚いたり不審に思ったり、また依存的だと思われはせぬかなど、恥ずかしくて気が引けることですが、その気持ちを察するならば、聞き手が包み込むような心になることも不可能ではないかもしれません。
 
神に対しては、秘密の祈りでもあり、どんな姿を見せても、総てをご存知の神は、正直な祈りならば、恥ずかしささえも一緒に受け入れてくださるでしょう。
 
聞き手は、悩める人の話を聞く前後に祈るべきでしょう。神は、悩める人であっても、聞き手であっても、謙って砕けた魂の本音の叫びを軽しめられません。
 
飾らない本音の祈りのお手本は、またしても、キリストであります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:39
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
 (マタイ26:39、新約聖書)
 
キリストは、人間と同じ痛みを感じる御方であります。
 
人間にとって、恥を知ることは福音です。恥を知らなくなることが、一番恥ずかしいことです。
 
主の前に、恥ずかしい自分をさらすことによって、恥をさらしてよい相手に対して、恥をさらしつくしたときに、安堵の温もりとして、人間一人、涙に濡れることもあるでしょう。その涙は、悲しむ人に与えられる福音なのです。
 
 
(2018年01月18日)
 
捌け口(はけぐち、はけくち)
鬱(うつ)
治癒(ちゆ)
狼狽(ろうばい)
叱咤激励(しったげきれい)
一喝(いっかつ)
以ての外(もってのほか)
安堵(あんど)
謙る(へりくだる、遜る)
 
 
 
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  伝道の書6章
 
 
伝道の書は、私の好きな書のひとつです。かなり過激なことを書いているようです。誤解しているもしれないが私の感想と解釈を書いてみます。
 
 
 (伝道の書、口語訳)
6:1
わたしは日の下に一つの悪のあるのを見た。これは人々の上に重い。
6:2
すなわち神は富と、財産と、誉とを人に与えて、その心に慕うものを、一つも欠けることのないようにされる。しかし神は、その人にこれを持つことを許されないで、他人がこれを持つようになる。これは空である。悪しき病である。
6:3
たとい人は百人の子をもうけ、また命長く、そのよわいの日が多くても、その心が幸福に満足せず、また葬られることがなければ、わたしは言う、流産の子はその人にまさると。
6:4
これはむなしく来て、暗やみの中に去って行き、その名は暗やみにおおわれる。
6:5
またこれは日を見ず、物を知らない。けれどもこれは彼よりも安らかである。
6:6
たとい彼は千年に倍するほど生きても幸福を見ない。みな一つ所に行くのではないか。
 ・・・
6:11
言葉が多ければむなしい事も多い。人になんの益があるか。
6:12
人はその短く、むなしい命の日を影のように送るのに、何が人のために善であるかを知ることができよう。だれがその身の後に、日の下に何があるであろうかを人に告げることができるか。
 (伝道6:1-6,11-12、旧約聖書)
 
 
1節:これは、憎むべき悪でしょうか、それよりも、あとのほうを見れば、避けようのない人の定めのような不幸あるいは不全のあり方を語っているような気もするのですが。
 
そう取らないと、神が悪を為している文脈になり、伝道者は、それを憎んでいることになります。しかしそうすると、この書の名前から言って、伝道ではなくなり、神への憎まれ口を言っていることになってしまいます。書かれた目的を考えれば、伝道者は、口において少し悪びれて、つまり偽悪者として、書いているように思います。私、偽悪者、好きなんです。
 
2節:神は人を富ませるが、いずれそれは他人が持つようになる。富は移ろう、ゆえに、富むことは、空しい。
 
3節:多くの子に恵まれ、長い寿命を得ても、その者が、幸福でないと感じて満足がいかないならば、流産したほうがましだ。「葬られることがなければ」は、よく分かりません。ずっと生きることはないのだし、葬られることのない悲惨な死に方?・・分かりません。
 
4-5節:流産の子のことでしょうか。暗闇に行き、太陽または月日?を見ず、物を知らないまま、しかし、長生きして満足しない者より安らかだ。
 
6節:まとめるように、どんなに長生きしても死に定められている。この地上の生は過ぎ去るもので、とどまれる者はいない。
 
11節:人の言葉を弄することの空しさでしょうか。しかし、伝道者は、その空しさと苦しさをもって、書いているのです。
 
12節:人が判断する善の、神の判断に比べるところの、あまりの無知、・・死後を語れない、地上の果てを語れない、いずれも、人の空しさです。神と比べたところの、著者という人間の空しさなのです。栄華を極めた男でさえ、こう言っていることを考えるべきだと思います。
 
独特の無常観です。いくら富と栄えに恵まれても、地上の生は過ぎ去ってゆく・・と言っているのは、まさに、富と栄えに恵まれたソロモン王だろう言われている伝道者なのです。
 
栄えた王の自虐的な言葉は、地上の栄えの空しさを語ります。
 
伝道者は、何を言いたいのでしょう。
 
富と栄えが永遠である御方は誰でしょう。暗闇でなく光なのは誰でしょう。日を造り物を造り、人までも造ったのは誰でしょう。
 
神以外にはおられません。
 
だとすれば、これは、とても逆説的だが、自分の低さを痛いほど自覚した者の、地上を生きることの空しさと悲しさの実感からの、神への讃美と受け取りました。
 
果てしない欲望が叶わないことを書いていますが、その不満だけを言っているのではありません。もしそうなら、不満だけを述べているのなら、伝道でもないし、書かないでしょうし、聖書にならないでしょう。
 
こんなに人として恵まれても空しい、永遠が欲しい、という欲求不満の意味でしょうか。私は、そうは受け取らず、王でさえ伝道者でさえ空しさを覚えるのだから、誰の地上の生き方も、それだけで充実することはなく、ただ儚げに見える命は、神のもとでのみ、生かされてゆくだろう、というような意味に受け取って、人に対しては共感を求めているような気がします。
 
次は、伝道の書を読んだときに特に印象的だった聖句です。
 
 (伝道の書、口語訳)
7:14
順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
 (伝道7:14、旧約聖書)
 
人は、人として、楽しむことがあり、考えることがある。それを超えることは、神の仕事である。人が幸福が何かを判断しようとしても、儚い地上においては、取り分を楽しむに過ぎない。人が、神の基準の幸福でなければならないと、それを求めても、完全な善なる幸福の基準を、地上で決めつけたり、さらに他者と比較したりしてはいけない。
 
神の国や神の善に比べれば、地上は、見えるところ、皆、空しいのである。だから、思い煩わずに、分からないところを神に任せれば、楽しむこともできる。逆境の時には、試みられているかもしれないから、そのとき考えればいい、という意味でしょうか。
 
つまり、著者は、伝道のために書いているのであって、不満だけを書いて空しいとボヤいているのではないのです。
 
ダビデ王の息子として生まれたソロモン王であったなら、どこかの国のようにわがままな暴君になる可能性もあったでしょうが、この伝道者はそういう人ではなかったように思えます。
 
ただこの伝道者は、誰もが頷いてくれるような、美しい言葉を並べて、最初から、大事なのは富ではありません・・云々、という書き方を好まなかったようです。
 
今まで書いてきたことですが、私は、讃美の言葉というものを、常套句のようで、あまり好きではありません。しかし、この伝道の書の、本音を通した逆説な書き方を好みます。著者は、文学的なのか、偽悪者なのか、分からないけど、考えるべき糧を大いに与えてくれます。
 
 
(2018年01月17日、同日一部修正)
 
儚い(はかない)
 
 
 
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