ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年01月

 
  天国について
 
 
神の国、天国とは、どのようなところだろう、と思い描くことはあっても、そのイメージが明確になることはないようです。
 
今苦しんでいる人にとって、このような苦しみを味わわないで済む世界、ということなら、救いのイメージとして受け入れられるかもしれません。
 
しかし、具体的にどんなところで、どんな暮らし方をするのか、ということについて語れる人はいないと思います。
 
永遠の命、という言い方が聖書にありますが、時間的永遠ならば、それは地獄だと私は書いたことがあります。
 
やりたいことを、すべてやった後に、まだ永遠の時間があるのです。いつまで?・・と首をかしげたくなり、そこで生きられるとも居心地がよいとも思えないからです。
 
キリストは、私たちのただ中にある、とも言っておられます。
 
私たちのただ中、これは、人間関係の中に、人間同士の交わりの中に、天国はあると受け取るなら、天国は地上にあるのでしょうか。
 
 
私の経験から言えば、私たちは、信仰者になる経緯の中で、天国を、一度は垣間見ていると思ってもいます。昔書いた私のHPからですが、
 
  天国とは  (HPより+α)
 
天国といえば一般に考えられているのは死んでから行くところだろう。雲の上のような世界で恐らく着物は白い衣でエンジェルがひらひらと舞い、戦争も争いもない永遠に平和な世界、といったところか。
 
この世の人生が終わって、目が覚めたら、上述のような世界に、いるかどうか、知りません。
 
聖書によれば主の言葉に「御使いのようなもので」「嫁ぐことも娶ることもない」とある。これと前のイメージを合わせてみると、何とまあ退屈なところでしょう、遊ぶことも働くこともないのかしら、ということになってしまう。
 
さらに主の言葉に「天国はあなたがたのただ中にあるのだ」。これでますますわからなくなる。死んでから行くところではないのだろうか。しかし自分たちのただ中にあるといわれても頭は混乱するばかりで、これはまいった。天国は神の国、聖なる領域であるから人の知恵で理解できるような性質のものではないのだ。結論として、わからないとしか言いようがない。
 
しかし後者の言葉を考えているうちに、ふと思うのである。洗礼を受けているいないにかかわらず、聖書とキリストに関わり、今も関わり続けている人は、少なくとも一度以上、天国を垣間見ているのではないだろうか。
 
もちろん目で見たのではない。宗教的にいえば霊的体験である。一般的な言い方をすれば「癒された」「慰められた」「励まされた」あるいは去り難い縁のようなものを感じた、といった精神生活上の出来事としての体験である。
 
超常の話に反応するのは興味である。それを信仰として一生の頼みとするなら、興味よりも命にとって大切な必要必須不可欠の、なくてはならぬものが失われるだろう。
 
垣間見る天国は、幻覚や超常現象のような人間離れしたものではなく、あくまで人間的な暖かい感性に響くものとして体験されている。だからそれを体験した人は今も聖書を読みイエス・キリストの教えを知りたいと願い続けているのではないだろうか。
 
天国がどこにあろうと、どんなに理解し難いものであろうと、一度は垣間見ている。今はそんな気持ちで神の国を待ち望んでいるのである。
 
私は、今まで、信仰について、あくまで人間として考えることを主張してきました。そこから外れると、この地上に生きながらお伽噺か妄想の世界を演じることになります。現実にいる間は、信仰こそが、祈りこそが、天国または御国の支配だと思うべきでしょう。
 
キリストによる赦しは、
キリストによる癒しは、
深い共感に出会うことは、
絶対孤独からの解放として
地上で与えられる天国の一場面であり、
 
キリストに出会うことは天国を垣間見ることである。
 
これらを魂の奇跡という。
 
 
(2018年01月16日、同日一部修正)
 
垣間見る(かいまみる)
 
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 

 
  陰性の感情
 
 
よくないことが起こって
傷つけられたと思うときに、
悲しみよりも先に
憎しみが先行して、
悲しみを上回って、
人格を支配してしまうなら、
それは人格と信仰の危機です。
 
ネガティブでも
悲しみは尊い感情です。
信仰においては
赦しと癒しと慰めに結び付きます。
さらに友や家族からの助けや
支えを受けることもあるでしょう。
 
悲しみは尊い感情です。
 
キリストに救われた人々は
皆、それぞれの悲しみを経ています。
 
怒りは
一時的であれば自然です。
不当なことに怒るのは当然のことです。
義憤という言葉もあります。
 
怒りが、恨みや憎しみや敵意や
復讐心に固定してゆくと人格の危機です。
それらは持続して
良心の働きを阻害し続け
短絡的な決めつけや行動化に結び付きやすいからです。
 
陰性の感情でも
憎しみと恨みは、悪い感情です。
悪意に結び付くからです。
そこから、復讐心に結び付くからです。
 
パリサイ人は、
恨みと憎しみから敵意を抱き、
復讐心を抱き続けて、
それは殺意となり、
キリストを殺したのです。
パリサイ人にとって
解決は相手の死でしかありませんでした。
 
信仰者は
敵意ではなく
問題点を考えられるように、
信仰においては、
憎む自分を悲しみ、
恨む自分を悲しむことで、
祈りの言葉にしてゆけるでしょう。
 
それをキリストに正直に告白して、
自分で感情を冷却するのではなく、
祈りによって
自分と一緒に主に捧げましょう。
 
このようにして
悲しみになった陰性の感情は、
主によって癒され導かれ整えられてゆくのです。
 
そして冷静な人間として
怒りを敵意ではなく、
相手がいれば対立軸として認識して
問題を見つめ直すことも出来るでしょう。
 
何故なら、
主に捧げる祈りにおいては、
慕いまつる最善なる主イエスの前で、
罪あれば、それを見逃さない主の前で、
信仰者は
自分が正しいという立場にはおれないからです。
 
善なる祈りのお手本は、またしても、キリストご自身であります。
 
弟子を叱ることはあったし、
対立軸もありましたが、
キリストは、
ご自身の悲しみのように泣くことはあっても、
憎しみによる興奮の怒号や暴力とは無縁でした。
 
キリストにとって解決は
誰に対しても変わらず、
人の死ではなく、
人の悔い改めだからです。
 
キリストは、いつも、人を憐れんでおられるからです。
 
 
(2018年01月15日)
 
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 

 
  勘違い
   (問答形式)
 
 
 罪は贖われて信仰によって生まれ変わったのだから、今は、罪はない。
 
そうではない。
生まれ変わって、一生の間、罪に対して
悔い改めの祈りにより赦される機会を与えられるということだ。
 
現実と歴史を見れば罪がなくなっていないのは明らかだ。
 
 
 信仰によって、一生の平安が約束されている。
 
そうではない。
信仰によって、平安を得るための祈りの道が与えられている。
 
 
 聖霊が導いて間違いのない道を歩ませてくださる。
 
そうではない。
このような考え方は、
自分のしたこと言ったことを反省する力を喪失させるだろう。
 
 
 聖霊が導いて間違いのない道を歩ませてくださる。
 
そうではない。
聖霊が導くのは、悔い改める生き方だ。
 
間違いを犯しても、悔い改めて
赦される機会が与えられているということだ。
悔い改めを忘れた者には、自分信仰の沼が待っている。
 
 
 キリスト者は、どんな時でも讃美しましょう。
 
そうではない。
どんな時でも讃美することは、
悲しみへの感受性を麻痺させることであり、
不自然に笑っている異常神経を生み出す。
 
そして敵意や悪意を
神の前にも、人の前にも、隠し持つようになるだろう。
 
私たちは不完全なのだから、
これからも試練はあるのだから、
 
悲しいときには悲しいと祈るべきだ。
そして、自分の低さが身に染みたときに、
ひょっとしたら讃美したくなるかもしれない。
 
 
 罪は、一生、死ぬまで赦されている。
 
そうではない。
一生、祈りと悔い改めに生きるのが信仰だ。
感謝も讃美もそこに時々にあるだろう。
 
 
 今もこれからも罪を犯すのなら信じた意味がない。
 
そうではない。
キリストが与えた悔い改めの祈りの道は、
魂の奇跡である。
 
 
 不可知論者の誘惑に負けてはいけない。
 
そうではない。
知りうるという者を警戒するべきだ。
神を可知だと思えば、真理を知ったとばかり思い上がり、
自分に単純に味方するような
都合のいい幼稚な神?を捏造するようになるだろう。
 
 
 達しえたところに従って進むのだから改める必要はない。
 
そうではない。
達しえたという思い込みもあるのだから、
不完全が、完全と思い込むことのないように
私たちは修正可能かつ成長可能でなければならない。
 
伝道の経過において達しえたところがあったとしても、
個人の信仰においては、
達しえたと言えるのは御国に至った時だけである。
それを垣間見ることはあっても、
この地上で完全になることはない。
 
 
 総てを神に任せるのが一番だ。
 
そうではない。
神に任せるのは
人が総てを受けて負うことが出来ないからである。
信仰は、負えないことを神に任せることであって、
無責任になることではない。
 
神に任せると言って、
都合の悪いことについて、反省もせず、悔い改めもせず、
責任を放棄するのは怠慢という罪だ。
 
 
 自分を傷つけた者には神が復讐してくれる。
 
そうではない。
自分の罪による場合もあるのだから、
反省もせずに、復讐を願うようになってはいけない。
神が迫害だと判断したときに裁きが下るだろう。
神に任せるということは判断も神に任せるということだ。
 
 
 罪に死んだのだから蹴っても叩いても
 びくともしない。
 
そうではない。
罪に死ぬとは死体になることではない。
だから、誰が何と言おうと反応しない無視の状態を
屍の比喩をもって正当化してはいけない。
 
むしろ、活発に生きることであって、
豊かな感性によって、よく感じ、
よく考えることを信仰は勧めている。
 
でなければ、
びくともしないのなら、
キリストによる赦しと癒しと慰めの意味がない。
 
人間としての修養による悟りや境地と勘違いしてはいけない。
 
無反応の自我の境地による停滞を
神から与えられたと思い込むことは神に背く大罪だ。
 
 
 弱さを誇るべきだ。
 
そうではない。
弱さは誇るべきものがないということだから、
この逆説的表現は、弱さに生きることが
気高く見えることもあるということだ。
 
使徒の言葉を勘違いして、そのまま鵜呑みにして
豪語して誇ることがあってはならない。
 
 
以上、今まで書いてきたことから、
自分信仰者が言い張り、すり込みそうなことについて書いてみました。
 
 
(2018年01月14日)
 
麻痺(まひ)
捏造(ねつぞう)
放棄(ほうき)
垣間見る(かいまみる)
復讐(ふくしゅう)
蹴る(ける)
屍(しかばね)
気高い(けだかい)
鵜呑み(うのみ)
 
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 

 
  救いの仕組み?
 
 
信仰の救いは、多く、キリストが私たちの罪を背負って十字架につくことによる贖罪と教えられる。このことは、聖書からの教理であるが、間違っているという証拠はない。
 
しかしながら、このことのためだけに、信じます、と言うのは、なんだか、取引をしているような気がする。救いの契約だから、そうなのだ、と言う人もいるかもしれない。
 
ならば、私たちは、契約をありがたがって、信仰に入るのだろうか。そうではない。聖書を読んで、キリストを好きになり、キリストとともに生きたい、という理由のはずだ。
 
この大事な部分が、どうしても、救いの信条の条文の性質上、抜けやすい。この抜け穴こそが、教条主義を招きやすいことを警戒するべきだろう。
 
新約という言葉は、契約、または約束を示しているようだ。しかし、信仰が、取引でも商売でもないことは、悲しみも痛みも知る無実のキリストが十字架についたことで明らかである。
 
すなわち、神の愛を、つまり、キリストの愛を、何かと引き換えに受けたのではない。愛されたがゆえに、人はキリストのそばにいたいと思い、信仰に至るのである。
 
教理の言葉だけを教えられても、感動できないことが多いのは、紙に書かれた条文というのは、その性質上、温もりも潤いも持っていないままコピーされ使われることが多いからだ。
 
私たちが、自らの悲しみや孤独を通して体験するしかない部分があり、そこに、一番大事なことが、つまり、言葉でコピーできないことが含まれている。
 
神は永遠不滅であり、神は身近ではない。キリストは、生まれ育ち、生きて、死ぬ、という、人間と同じ経過をたどられたゆえに、人間にとって、共感が可能なほど、身近な存在となりうるのである。それによって、神への信仰が、潤いと温もりに満ちたものとなっている。
 
信仰は愛であるが、気合いではない。
 
信仰に情熱はあるが、煽動はない。
 
信仰に有無はあるが、優劣はない。
 
信仰に復活はあるが、ゾンビはない。
 
信仰に潤いはあるが、それは洗礼の儀式ではない。
 
信仰に温もりはあるが、それは上気ではない。
 
信仰に言葉はあるが、教条はない。
 
信仰は、人間にとって、言葉だけでは表せない。
 
信仰に説教はあるが、人に対する隷属はあってはならない。
 
信仰に教育はあるが、すり込みはあってはならない。
 
信仰に戒めはあるが、脅しはあってはならない。
 
信仰は、無形であり、霊であり、心であり、精神であり、
これらのいずれであるかを人は区別できないのに、言い分けて聖霊と呼んでいる。即ち、区別できないことを、言葉だけで区別、または、聖別した気になっている。
 
温もりと潤いを持たないのは、信仰の仕組みの言葉だけを受け取っている教条主義である。
 
神事は、大方、不明であるが、信仰は、不明を、明と信じ込むことではない。
信仰は、不明であるかどうかにかかわらず、そこから生きる命を受け取ることである。
 
信仰は信じ込むことではない。信じ込んでいる自分を疑うことである。
信仰は疑わないことではない。疑っている自分を考えることである。
信仰は、救いの仕組みを受け取ることではない。
信仰は、自分の気持ちをキリストと父なる神に向けさせた何ものかである。
そのことを人は思い、憧れ、ときに悩むかもしれないが、神は既にご存知である。
 
信仰に信条はない。
教派によって、無限の言い張り合いになりそうなくらい、信条の違うことが、その証拠である。
信条は、信仰を思う切っ掛けか動機となる要点として明文化されている。
 
誰にとっても、どこへ行っても、それを言えば信仰として通用するような言葉などはない。通用するという意識は、伝道者の被害者意識や他罰傾向を高めるだけだ。
 
信仰は文章ではないから、明文化され得ない。私たちが神以外を恐れなくてよいのは、信条をしっかり持っているからではなく、神だけは既に全てをご存知であるからだ。
 
 
(2018年01月13日)
 
上気(じょうき)
 
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 

 
  神と人の話
 
 
聖書から、推測される神と人の関係というものがある。教理となっていることが、それに当たるだろう。しかしこの関係を表す言葉には、人間の理解を既に超えた超常の意志についてが中心であり、それだけで受け取った人を生かすほどの力をもって理解されることはないだろう。
 
私たち信仰者が、神を信じるのは、主イエスによって愛された人々の話があるからで、そこから私たちは、人間の心に響く悲しみの共感と、愛と憐れみを受け取るからだろう。
 
神と人の話を分ける必要性を感じる。神についての話は理解できないが、人についての話は理解できることが多いからだ。
 
救いの主体である神の話や、物や肉体に起こる奇跡の話、これは、実感を持つことは困難であり、神がいて、奇跡が起こる、と言われても、実際、そんなには起こっていない、というのが人間の事実からの実感だろう。
 
それに比べて、人間に向けて語られたキリストの教えと、キリストと罪人の出会いのエピソードは、人間の心に十分響くだけの深さと説得力がある。人間が人間についての話を聞いて深く心を動かされる、これを魂の奇跡と呼んでいる。これはダイレクトに信仰の動機となりうる。
 
言うまでもなく、キリストが人間性に共感し、人がキリストに共感するとき、悲しみを乗り越えて、信仰は誕生するのである。
 
神だから信じる、ということではない、ということを、多くのキリスト者は受け入れがたい。神でなかったら信じない、神だから信じたのだと。
 
神だから信じたというなら、何ゆえ、キリストを神と信じたのか、誰かに、誰かを、神だから信じなさいと言われても、それがキリストである場合以外は、反応しない理由を知ってほしい。
 
キリストは働きかけ、私たちは反応した、ということが、信仰の誕生には関わっていることに気づいてほしい。そこにおいて、キリストのみが、自分にとって、神になったことを。
 
神だから、という言葉は、神が自明であることを前提としてしまう危惧を感じる。そういう見方は、神という言葉を発するとき、いつも自分の味方をする神を、固定する危険がある。
 
神は在って在る御方であり、人に固定されるような御方ではない。神を既知の神棚に上げてはいけない。神について、見えると思い込み、言い張ってはいけない。
 
キリストが神という認識は、信仰以前の前提にはない。その認識を育てたのは、神だから、などという神秘に根拠を求めても、人がそれで分かったと言うなら、魔法の世界だ。
 
神秘の根拠を表すのは難しい。むしろ、キリストを忘れられなくなるほどに、好きになってしまうことがあったからだ、と言うしかない。キリストが人間に向ける共感性が重要である。
 
人間同士の関係において、しばしば共感がなく、陥りやすい地上の孤独から、キリストは、神への祈りの通り道となって、解放したくれたとは言えるだろう。
 
孤独から解放は、信仰に至る恵みである。
 
人の器に入れてよいのは、人、または、それ以下のものである。神は人の器に納まらない。人にとって、神と神の領域は、未知であり、不可知である。信仰の道は、人間になる道であって、良心を求める道であって、神相当になる道ではない。
 
人は、批判禁忌の不文律から、人の立場に対して沈黙しやすいのに、神の立場と領域に対しては、沈黙どころか、なにか、神の沈黙を代償するかのように、多弁となりやすい。
 
信仰者は、慣れてしまって、または、焦ってしまって、神について多弁になりやすい。
神の名をみだりに唱えてはならない。聖書において、もっとも偉大な不文律は、神である。
神は、一度も分かりやすい正体を見せたことがない。これが神を恐れる理由である。
 
私たち人間は、キリストにおいてのみ、人間として神を信じ仰ぐことが出来るのであって、そう出来るようにしたのは、またしても、キリストご自身である。
 
キリストが人間に共感し、人間がキリストに共感するとき、
悲しみと孤独を乗り越えて、言葉と名称さえ超えて、信仰は誕生する。
 
 
(2018年01月12日、同日一部修正)
 
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 

このページのトップヘ