天国について
神の国、天国とは、どのようなところだろう、と思い描くことはあっても、そのイメージが明確になることはないようです。
今苦しんでいる人にとって、このような苦しみを味わわないで済む世界、ということなら、救いのイメージとして受け入れられるかもしれません。
しかし、具体的にどんなところで、どんな暮らし方をするのか、ということについて語れる人はいないと思います。
永遠の命、という言い方が聖書にありますが、時間的永遠ならば、それは地獄だと私は書いたことがあります。
やりたいことを、すべてやった後に、まだ永遠の時間があるのです。いつまで?・・と首をかしげたくなり、そこで生きられるとも居心地がよいとも思えないからです。
キリストは、私たちのただ中にある、とも言っておられます。
私たちのただ中、これは、人間関係の中に、人間同士の交わりの中に、天国はあると受け取るなら、天国は地上にあるのでしょうか。
私の経験から言えば、私たちは、信仰者になる経緯の中で、天国を、一度は垣間見ていると思ってもいます。昔書いた私のHPからですが、
天国とは (HPより+α)
天国といえば一般に考えられているのは死んでから行くところだろう。雲の上のような世界で恐らく着物は白い衣でエンジェルがひらひらと舞い、戦争も争いもない永遠に平和な世界、といったところか。
この世の人生が終わって、目が覚めたら、上述のような世界に、いるかどうか、知りません。
聖書によれば主の言葉に「御使いのようなもので」「嫁ぐことも娶ることもない」とある。これと前のイメージを合わせてみると、何とまあ退屈なところでしょう、遊ぶことも働くこともないのかしら、ということになってしまう。
さらに主の言葉に「天国はあなたがたのただ中にあるのだ」。これでますますわからなくなる。死んでから行くところではないのだろうか。しかし自分たちのただ中にあるといわれても頭は混乱するばかりで、これはまいった。天国は神の国、聖なる領域であるから人の知恵で理解できるような性質のものではないのだ。結論として、わからないとしか言いようがない。
しかし後者の言葉を考えているうちに、ふと思うのである。洗礼を受けているいないにかかわらず、聖書とキリストに関わり、今も関わり続けている人は、少なくとも一度以上、天国を垣間見ているのではないだろうか。
もちろん目で見たのではない。宗教的にいえば霊的体験である。一般的な言い方をすれば「癒された」「慰められた」「励まされた」あるいは去り難い縁のようなものを感じた、といった精神生活上の出来事としての体験である。
超常の話に反応するのは興味である。それを信仰として一生の頼みとするなら、興味よりも命にとって大切な必要必須不可欠の、なくてはならぬものが失われるだろう。
垣間見る天国は、幻覚や超常現象のような人間離れしたものではなく、あくまで人間的な暖かい感性に響くものとして体験されている。だからそれを体験した人は今も聖書を読みイエス・キリストの教えを知りたいと願い続けているのではないだろうか。
天国がどこにあろうと、どんなに理解し難いものであろうと、一度は垣間見ている。今はそんな気持ちで神の国を待ち望んでいるのである。
私は、今まで、信仰について、あくまで人間として考えることを主張してきました。そこから外れると、この地上に生きながらお伽噺か妄想の世界を演じることになります。現実にいる間は、信仰こそが、祈りこそが、天国または御国の支配だと思うべきでしょう。
キリストによる赦しは、
キリストによる癒しは、
深い共感に出会うことは、
絶対孤独からの解放として
地上で与えられる天国の一場面であり、
キリストに出会うことは天国を垣間見ることである。
これらを魂の奇跡という。
(2018年01月16日、同日一部修正)
垣間見る(かいまみる)
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