ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年02月

 
  士師記:エフタ(2)
 
 
この部分についての解釈が割れているようなので、参考のために、もう一度引用し、二通りの解釈を挙げておきたいと思います。
 
 (士師記、口語訳)
11:30-31
エフタは主に誓願を立てて言った、「もしあなたがアンモンの人々をわたしの手にわたされるならば、 わたしがアンモンの人々に勝って帰るときに、わたしの家の戸口から出てきて、わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、その者を燔祭としてささげましょう」。
11:32-33
エフタはアンモンの人々のところに進んで行って、彼らと戦ったが、主は彼らをエフタの手にわたされたので、 アロエルからミンニテの附近まで、二十の町を撃ち敗り、アベル・ケラミムに至るまで、非常に多くの人を殺した。こうしてアンモンの人々はイスラエルの人々の前に攻め伏せられた。
11:34
やがてエフタはミヅパに帰り、自分の家に来ると、彼の娘が鼓をもち、舞い踊って彼を出迎えた。彼女はエフタのひとり子で、ほかに男子も女子もなかった。
11:35
エフタは彼女を見ると、衣を裂いて言った、「ああ、娘よ、あなたは全くわたしを打ちのめした。わたしを悩ますものとなった。わたしが主に誓ったのだから改めることはできないのだ」。
11:36
娘は言った、「父よ、あなたは主に誓われたのですから、主があなたのために、あなたの敵アンモンの人々に報復された今、あなたが言われたとおりにわたしにしてください」。
11:37
娘はまた父に言った、「どうぞ、この事をわたしにさせてください。すなわち二か月の間わたしをゆるし、友だちと一緒に行って、山々をゆきめぐり、わたしの処女であることを嘆かせてください」。
11:38
エフタは「行きなさい」と言って、彼女を二か月の間、出してやった。彼女は友だちと一緒に行って、山の上で自分の処女であることを嘆いたが、
11:39
二か月の後、父のもとに帰ってきたので、父は誓った誓願のとおりに彼女におこなった。彼女はついに男を知らなかった。
11:40
これによって年々イスラエルの娘たちは行って、年に四日ほどギレアデびとエフタの娘のために嘆くことがイスラエルのならわしとなった。
 (士師記11:30-40、旧約聖書)
 
(A)
一つは、
サイト名:聖書の事実
http://www.thebible.jp/%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%BF%E3%81%AF%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AB%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E5%A8%98%E3%82%92%E6%8D%A7%E3%81%92%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%8B.htm
「著名なヘブライ語の文法学者、評論家でしたが、彼ら全員が、この誓いの言葉を1つの目的語で解釈するのではなく2つの部分に分けて解釈する方法を無条件に承認しているのです。
これは、文章が前半と後半に分かれている時に接続語(ヘブライ語でvauもしくは英語ではvで表現されることもある)が離接語として使われ、「または」という意味を持つ、という良く知られているルールによって成立します。実際にA.V.(欽定訳)の士師記第11章31節では、この方法が代替解釈法として載っています。
・・・
詩篇第106篇35節から38節やイザヤ書第57章5節など、聖書全体からも、人間をいけにえとして献げることは神の目から禁じられたものであると結論付けることができます。神がそれを受け入れることも、エフタが人間の血を献げたということも信じがたいことです。この考え自体を支持することはエホバの神、そしてエフタに対する侮辱行為とも言えるでしょう。」
と書いてあり、
そして30-31節を
「エフタは主に誓いを立てて言った。『もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。(または)わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。』」
という文脈と見なし、
「いけにえの死ではなく、この娘の人生を捧げることに関係があったのです。彼女は生涯処女として生きるように捧げられたのでした。」
 
と解釈しています。
つまり、エフタは娘を殺していないという解釈になります。
 
(B)
もう一つは、
「旧約聖書メッセージ:士師記11-12章 「知識なき信仰」
http://www.logos-ministries.org/old_b/jdg11-12.html
エフタは、現代に生きている私たちの価値観では、考えられないことを今、主に誓願として立てています。自分の戸口から出てくる者を全焼にいけにえにする、というのは、人間をいけにえにするということです。当時、イスラエルの神ではない異教の世界では、人間のいけにえはごく普通に行なわれていました。・・・イスラエルの神である主は、このような忌まわしいことは断じてしてはいけない、と命じられています。
・・・
問題は何でしょうか?エフタには聖書の知識が半分しかなかったことです。彼は戦いについて、イスラエルの神が戦ってくださることについての知識がありました。・・・。けれども彼は、異教の環境の中にずっといたため、その習慣を使って神の命令を実行してしまおうとしたのです。
 興味深い逸話(事実かもしれませんが)を聞いたことがあります。ある未開の地に伝道しにいった宣教師がいました。その酋長がイエスさまを信じました。多くの妻がいたので、宣教師は、「多くの妻を持ってはいけない。一人の妻であるべきだ。」ということを話したらしいです。そうしてしばらくして戻ってきたら、酋長には一人の妻しかいませんでした。「他の妻たちはどうしたのですか?」と宣教師が聞いたら、「彼女たちは食べました。」と答えたそうです。
これが、神が言われていることを守り行いたいという情熱があっても、知識がないために犯してしまう間違いです。
・・・
誓願どおりに行なったとありますから、彼女を全焼のいけにえとしてささげたのでしょう。そうではないという解釈もありますが、人間のいけにえをささげたと読むのが一番自然です。」
 
と書いてあります。つまり殺したということです。
 
まるで(B)を支持するかのように?、エフタが不遇であったため、乱暴者だという箇所が同章にあります。
 
 (士師記、口語訳)
11:3
それでエフタはその兄弟たちのもとから逃げ去って、トブの地に住んでいると、やくざ者がエフタのもとに集まってきて、彼と一緒に出かけて略奪を事としていた。
 (士師記11:3、旧約聖書)
 
しかし、そのエフタを、一度は、神は肯定したことになります。
 
 (士師記、口語訳)
11:9
エフタはギレアデの長老たちに言った、「もしあなたがたが、わたしをつれて帰って、アンモンの人々と戦わせるとき、主が彼らをわたしにわたされるならば、わたしはあなたがたのかしらとなりましょう」。
11:10
ギレアデの長老たちはエフタに言った、「主はあなたとわたしたちの間の証人です。わたしたちは必ずあなたの言われるとおりにしましょう」。
11:11
そこでエフタはギレアデの長老たちと一緒に行った。民は彼を立てて自分たちのかしらとし、大将とした。それでエフタはミヅパで、自分の言葉をことごとく主の前に述べた。
 (士師記11:9-11、旧約聖書)
 
実際、32節に「主は彼らをエフタの手にわたされた」とあるように、神はエフタの言うとおりにしたのですから。
 
私の感想としては、神はエフタを一度は肯定したのだから、娘を殺さなくてよいように、止めるなり、教えるなり、もっと軽い罰とか、他にやり方はないのか、という気持ちです。
 
この点は、(B)の、エフタは、殺すなかれ、に背いた乱暴者で娘を殺すに至った、よりも、(A)の、殺さなかったよ、という解釈のほうが安心感はあるでしょう。
 
37~39節については、分かりにくかったのですが、
https://blogs.yahoo.co.jp/xaris/35196010.html
エフタの娘が純潔を守り通したことについてですが、
それはむしろ、恥ずべき事でした。
古代では、女性が妻にもならず、母にもならないということは、非常な罪、恥ずべき事と考えられていました。」
ということで、処女であることを恥じている37~39節の聖句は、当時の考え方と思えば分かるような気もします。
 
ということで、生涯処女であることは恥であり望ましいことではなかったという解釈から、ゆえに(A)ではなく、エフタは娘を生贄として殺したという(B)の主張になります。
 
ただ、(A)の主張から見ると、エフタの娘を望ましくないようにすることが、神がエフタに与えた罰ということになるのでしょうか。
 
私は、知識不足もあり、解釈は苦手なので、どちらが正しいかについては書けません。
 
しかし、こう真っ二つに分かれていては、旧約の神は恐ろしいという私の疑問は、全く解消されません。ゆえに、私は、かたくなに、なお「神を畏れる」ではなく「神を恐れる」である、と言うことになり、私は、聖書のこの個所を、相変わらず、解釈としては、私個人の「分からない保留の箱」に入れることになります。
 
 
(2018年02月28日、同日一部修正)
 
 
 
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  士師記:エフタ(1)
 
 
この記事は、今回(1)と、次回(2)に分けて載せます。ここ(1)では私の感想を中心に、(2)では解釈の引用を中心に書いてみます。
 
前に、アブラハムが、神に命じられて、イサクを生贄に捧げるために殺そうとして、神に止められた話を書いたことがあります。なぜ、アブラハムは、代わりに私を殺してください、と言わなかったのか、という疑問を書きました。
「人間なら」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/17063793.html
「疑問と反応」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18394862.html
 
ここで改めて、もう一つの疑問について書いておきます。
 
 (士師記、口語訳)
11:30-31
エフタは主に誓願を立てて言った、「もしあなたがアンモンの人々をわたしの手にわたされるならば、 わたしがアンモンの人々に勝って帰るときに、わたしの家の戸口から出てきて、わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、その者を燔祭としてささげましょう」。
11:32-33
エフタはアンモンの人々のところに進んで行って、彼らと戦ったが、主は彼らをエフタの手にわたされたので、 アロエルからミンニテの附近まで、二十の町を撃ち敗り、アベル・ケラミムに至るまで、非常に多くの人を殺した。こうしてアンモンの人々はイスラエルの人々の前に攻め伏せられた。
11:34
やがてエフタはミヅパに帰り、自分の家に来ると、彼の娘が鼓をもち、舞い踊って彼を出迎えた。彼女はエフタのひとり子で、ほかに男子も女子もなかった。
11:35
エフタは彼女を見ると、衣を裂いて言った、「ああ、娘よ、あなたは全くわたしを打ちのめした。わたしを悩ますものとなった。わたしが主に誓ったのだから改めることはできないのだ」。 11:36
娘は言った、「父よ、あなたは主に誓われたのですから、主があなたのために、あなたの敵アンモンの人々に報復された今、あなたが言われたとおりにわたしにしてください」。
11:37
娘はまた父に言った、「どうぞ、この事をわたしにさせてください。すなわち二か月の間わたしをゆるし、友だちと一緒に行って、山々をゆきめぐり、わたしの処女であることを嘆かせてください」。
11:38
エフタは「行きなさい」と言って、彼女を二か月の間、出してやった。彼女は友だちと一緒に行って、山の上で自分の処女であることを嘆いたが、
11:39
二か月の後、父のもとに帰ってきたので、父は誓った誓願のとおりに彼女におこなった。彼女はついに男を知らなかった。
11:40
これによって年々イスラエルの娘たちは行って、年に四日ほどギレアデびとエフタの娘のために嘆くことがイスラエルのならわしとなった。
 (士師記11:30-40、旧約聖書)
 
神に対して、取引のような気持で誓願をすると、このような恐ろしいことになる、という解釈でいいのでしょうか。名前も書かれていない死んだ娘に対しては、これでいいのでしょうか。
 
 
次は、この箇所を取り上げているサイト
https://blogs.yahoo.co.jp/xaris/35195708.html
に書いたコメントです。
 
「アブラハムがイサクを殺しかけた話は有名ですが、それ以上にこの話を読んだときには、未遂じゃなくて既遂なので、ショックでした。それで、どう説明できるかと考えても、できない、ここは、私にとって、ずっと「分からない保留の箱」に入ったままです。
ネットで調べてみると、娘が一生純潔を守りとおす意味とか書いてあるところがあったような気がします。その辺の原語の意味と解釈が私には分かりません。
2018/2/25(日) 午後 4:42[ st5402jp ]返信する 」
 
 
私がずっと、神を畏れる、ではなく、神を恐れる、と書くべきだ、と言ってきたのは、このような話や、イスラエルの民に対しても、神が、背けば滅ぼす話が多いからなのでしょう。
 
イスラエルについては、全部は滅ぼさず、再び栄えるように導いたから、という説明に対しては、じゃ、イスラエルの中の滅ぼされ殺された人々は、なんで?・・と思います。エフタの娘の場合と似たようなものではないか、という疑問です。
 
こういうことを考えていて、いちばん思うのは、神の意志と行為の辻褄を合わせて納得することなど人間には出来ない、ということです。
 
神は、人の世界では辻褄の合わないように見えることをなされる御方であるがゆえに、畏敬の「畏れる」ではなく、恐怖の「恐れる」だと書きました。
 
謎として分からないと保留することの大切さを思います。人が勝手に、いい話にしようとして、恐れる→畏れる、になったのではないかと危惧いたします。
 
旧約を読むと、また新約においても終末の有り様などを読んでいると、神をおそれる、ということは、人にとっては、恐怖と区別できないと思います。その恐怖を和らげるのは、人ではなく、神の仕事です。人が勝手に、恐怖を和らげ、優しい神を演出してしまってはいけません。
 
私は、旧約の神の厳しさゆえに、新約のキリスト・イエスの慈愛がいっそう力強く際立つ、という感想を持っています。
 
 
(2018年02月27日)
 
 
 
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  愛について
 
 
愛についてと言えば、
前に書いたアガペー、フィロス、エロス、という三つを並べて、
神キリストの愛、隣人愛、性愛、と分けるのが一般的なのでしょう。
そして、アガペー即ち神の愛こそ至高であると説くのでしょうか。
しかし、それは、理屈です。
人においては実現されたことのない概念の話なのです。
 
信仰者として神の愛にこだわって、
人の愛については罪であるかのように見なして、
神の愛のほうを学ぶべきだと、
人の愛を汚れたもののように見ていたのでは、
神の愛にも、信仰にも、目をつぶっているようなものです。
 
私たちは、人の愛というベースしか持たないのです。
つまり、神の愛など手に負えません・・がベースなのです。
 
人の愛さえ十分に学んでいないのに
どうして神の愛を説けるでしょう。
 
ただ、まれに、
神の愛と言いたくなるような愛を
私たちは見ることがあるかもしれない。
 
しかし、それは、一つの結果であって、
その愛を、学ぶべきだと対象化することは、
美味しそうな果物だけを見て
見たこともない木を語るようなもので、
思慮深い人なら困難だと分かるものが多いようです。
 
そういうことが信仰には多いです。
素晴らしいからと
言葉にして対象化しようとするけれど、
それは人間の現実から乖離しているような話。
 
人間にとって出発点は
神の国にあるのではありません。
神の国は
いつか行くかもしれない天国であって、
今はまだ夢か幻のように
超常に満ちたところを想像しているだけです。
 
人間にとって出発点は
いつも現世(うつしよ)であり
この地上の現実であります。
 
神の愛について考え語ろうと思うならば
そのベースかモデルとして
人の愛について考えるしかない世界に住んでいます。
 
そこにあるのは、
惹かれる思い、好きになる気持ち、ともにいたい願い、
のみならず、
いつもともにいてほしい、好かれたい気持ち、そして欲望、
のみならず、
数々の失敗、失言、分かれ、孤独、崖っぷち、
のみならず、
愛されたい願望から愛され妄想へ、
愛を得たい願望から完全無欠の無罪妄想へ、
そして復讐の鬼へ
 
つまり、人の世を見ることで、
罪と、その成れの果てとを見るとともに、
人が救われる必要がそこにあるのならば、
 
もっと深く
人が救われる理由はどこにあるのかを
人間に分かるあり方で示していこうとするなら、
現実とそこに生きている心にしか材料はないのです。
 
聖書は、美味しい話ばかりではなかったはずです。
 
華々しいものが興っては去ってゆく世にあって、
正しい聖句には悉く値しない自分に気づいた人たちは、
赦しと癒しと救いに至る道に、
悲しい聖句の一つ一つが
道しるべのような細い光を投げかけてくるのを見るかもしれません。
 
 
(2018年02月26日)
 
乖離(かいり)
興る(おこる)
現世(うつしよ、げんせ、げんせい)
悉く(ことごとく)
道しるべ(みちしるべ、道標)
 
 
 
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  我欲
 
 
大方の人を見渡すと
我欲の塊で
それを薄っぺらな道徳が覆っている
 
私というキリスト者は
我欲の塊で
それを薄っぺらな道徳が覆っている
 
いっしょだ
 
社会性が低い分
もっと悪いかもしれない
 
高邁な理想のつもりも
ときに我欲と呼んだほうがいいことがある
 
まことに
我が欲するところは
則に反する
 
私は抑制されるだけの存在なのか
 
我欲は抑制できるのか
 
我欲の行いは抑制が可能だ
しかし我欲の心は抑制できない
 
我欲の心を抑制しようとすれば
陰に深まるだけだ
 
信仰は道徳ではないから
薄っぺらにはならない。
 
信仰は社交ではないから
更新と成長のない信仰?は
厚かましい皮をまとうことになる
 
我欲を隠す皮である
 
我欲の塊が
なぜ信仰を欲するのか
 
我欲を滅するためではない
 
汚い我欲の自分に
絶望しないためである
 
我欲を抱えていても
良心に反応したいからだ
 
道徳で高めるためではない
 
道徳で高められない低さに
悔いて絶望するだけになりたくないからであり
 
時々に改めて
新しく与えられ生かされる心に生きるためである
 
自分の信仰が正しいからではなく
信仰によって成長することを祈り願う動機をもらったからだ
 
 
(2018年02月25日)
 
塊(かたまり)
覆う(おおう)
高邁(こうまい)≒ 志などがたかく、衆にぬきんでていること
則(のり)≒ 道徳
 
 
 
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  啓示
 
 
啓示だから正しいという言い訳は、もう通用させてはいけない。
 
あまりにカルトに悪用されてきたから。
 
人間の良心に反することは啓示ではない。
 
人間の良心は、神が与えた恵みである。
 
人間の良心に反することは、神の御心に適っていない。
 
人間の良心とは、
豊かな感受性であり、自由な思考である。
それらを阻害する話を、どうして神の与えた啓示などと言えるだろう。
 
人間は、神の啓示かどうかを区別できるほど賢くはない。
 
しかし一方、人間は、厳密ではないが、人間の邪悪や胡散臭さを、
分析的にもまた直感的にも、比較的相対的に判断する良心を持っている。
 
私たちは人間の良心において自分で感じ取り考えるべきである。
信仰は良心を前提とし目的としている。
私たちは、神の奇跡の前においても、
決して良心を捨てたり
良心の外で生きたリするように造られてはいない。
 
悔い改めは人間外の奇跡に対する反応ではない。
悔い改めは人間の務めであり発芽であり結実である。
 
無根拠の言い訳に使われる啓示の主張に振り回されていると、
人間の冷静な分析力も直感力も損なわれてしまうだろう。
 
啓示であることの正しさを説明できないなら、
もう啓示を盾にすることは通用させてはいけない。
説明できず議論できない人の短絡に過ぎないからだ。
 
神がもし
人知で分からないことを啓示するなら
分からなくても信ずるに足る導きがあるはずだ。
 
もはや、知恵足らずの思い上がりが、
のぼせ上がって言い張ることなどは、
主イエスの教えとは深みが全然違うのだから、
しばらく見ておれば、啓示ではないと分からなくてはいけない。
 
少なくとも鵜呑みにせず、肯定を保留するべきである。
 
誰でも、神を味方にしたいから、
中には、そう思い込み、
そういう神の盾を言い張る者も出てくるだろう。
 
主イエスの教えは
温もりと潤いをもって人間の心に響く。
 
本当の啓示は人を生かすだろう。
人を縛るのは啓示ではない。
 
思い上がりの言い張りは、決めつけの冷たさと痛さと、
いかなる涙とも関係のない唾を飛ばすだけである。
 
神の啓示など無いと言っているのではない。
いかさまの根拠に
啓示だという嘘が多いので警戒してほしいのである。
 
現実を考えることをしない者が
超常の言葉だけを言って教えようとするのは、
その者が、教えられる人に対して謙譲をもって
神の導きを説明説得できない限り認めるべきではない。
 
人間として納得できないことを啓示?だと言い張って
啓示?が分からないことを責める者がいたら、
その啓示?が分かって人間をやめるよりはマシですと言うべきである。
 
 
(2018年02月24日、同日一部修正)
 
64歳になりました。(嘆息)
 
鵜呑み(うのみ)
盾(たて)
唾(つば)
 
 
 
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