ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年02月

 
  叫び
 
 
人前での大きな声も
 
一人の小さな声も
 
信仰ならば叫びである
 
神に救いを求め
キリストの同伴を信じ
魂を御手に任せて
 
祈る言葉は
 
讃美であり
叫びである
 
叫ぶのは
いたたまれなくなったから
 
叫ばないではおれないから
 
神の救いが必要で
キリストの同伴が必要で
砕けてゆく先を御手に任せて
 
祈りであり
証しであり
叫びである
 
讃美が叫びになるとき
 
声なき叫び
 
静かな叫び
 
悲しい叫び
 
思い上がりの欠片もなく
 
求め続け
 
かなたで偽善の讃美が
神の名を大声でわめく一方で
 
讃美の形を失って
もはや
安穏のうちに唱えた神聖の名を失って
 
神も仏もあるものか
 
と叫びながら
同伴を信じ続ける信仰もある
 
 
ただ正直に神に向かう一点において
救われるとか救われないとか
この世の信条などすっ飛んで
 
神も仏もあるものか
 
召命された者が行き着く地上の心の崖っぷちである
 
 
背教の叫びは
讃美の告白の裏返しである
 
仲保者なるキリスト・イエスは
そんなとき、愛する者に言われる
 
お前は私を愛するか
 
 
(2018年02月23日、同日一部修正)
 
 
 
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  疑問
 
 
 「神様は守ってくださいます。」
 
殉教も含めてって言えますか。
 
 「聖書は神の言葉です。」
 
じゃ、人には理解できないですね。
 
神の言葉が
全て人の言葉で表されるとは限りません。
だから、様々な誤解や曲解が起こっています。
 
 「真理は不変です」
 
神の真理は不変です。しかし、
人については、ある時と場合に分かったことを、
全ての時と場合で分かる真理と思い込みやすいのです。
 
 「弱いときこそ強い。」
 
どういう弱さと強さを言ってるのでしょう。
 
 「弱さを誇る。」
 
誇るものがないのが弱さでは?
 
 「いつも神様のほうを向いて」
 
神の方向が分かるのですか。
安易な比喩で表現するよりも、
聖書と体験から地道に学ぶべきでしょう。
 
 「違う信仰を聞いてはいけません。」
 
扉を閉め、窓を閉め、耳を塞いで、
どうして信仰の世界を知ることが出来るでしょう。
独り言の世界で神秘が聞けるというなら、
それは人間の心に響かない魔法です。
 
 「啓示だから議論の余地なく正しいのです。」
 
自分には啓示があり、他者には啓示がないと
どうして言えるのでしょう。
 
どうしてそれぞれが啓示だと思っていることが
こんなにも激しく食い違うのでしょう。
 
 「揺るがない信仰を守るのです。」
 
人が信仰を守るのでしょうか。
私たちは、いつからそんなに強力になったのでしょう。
 
 「神様が守ってくださるのです。」
 
最初の疑問に戻っています。
 
今の自分と自分の信仰が
守られるに値するほど正しいというのは
どうして分かるのでしょうか。
 
 「聖霊と啓示という恵みがない人には分かりません。」
 
そう言うのなら、預言者でもないのに、どうして
自分には恵みがあり人にはないと分かるのですか。
 
 「神のことを思わないで人のことを思っているサタンよ退け。」
 
そうして他者を悪魔呼ばわりして
侮辱して退けてきたのですか。
 
 「分かるものは分かるのです。」
 
我を張っているだけですね。
神を思わないでいるのはどちらでしょう。
 
皆がそれぞれ我を張るようになったらどうなるでしょう。
それは望ましい信仰の世界でしょうか。
 
 
本当の信仰は人々の中で生きてきます。
他者からの意見を無視して守れる信仰はありません。
 
人の意見を聞かなくなるのは思考停止へ向かうことであり、
感じることも考えることも拒否することであり、
人間性を否定することであり、
信仰の限りない可能性を自ら拒否し否定することです。
 
 
修正禁忌で守れる信仰はありません。
 
修正禁忌では
人間の瑞々しい心は生きられないからです。
 
 
(2018年02月22日、同日一部修正)
 
瑞々しい(みずみずしい)
 
 
 
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  伝道と伝達
 
 
人間は、伝達の手段として言葉を用いることが多いのですが、一つの言葉が、いつも一つのものを指すとは限らないのが、人の言葉の常態であり、人が絶対ではなく相対的である表れです。
 
きれいな夕焼けと言えば、きれいな夕焼けの情景が伝わるとは限らない、というのと同じようなことです。心の中のことを表すなら、なおさらでしょう。
 
だから、詩人は心を伝えるのに、努めて様々な比喩を使うのです。そこが伝えるということの難しさです。神の言葉だから、あとは神が執り成して・・ということに依存してはいけません。人間として、努めて、考えるべきことはあります。
 
したがって信仰の言葉も、人が使うときには絶対ではない、と申し上げます。
 
人が語る聖句も、信仰の言葉も、いつも同じことを心に伝えるわけではないのです。分からなかったことが、ある日、分かった、という経験は、多くの人にあるでしょう。
 
しかし、分かったときの言葉が、ずっと通用するわけではないのです。だから、何度も言っているように、決めつけて修正不能に固定してはいけないのです。固定できるほど、人間の使う言葉と人間の心の関係は、一対一の対応ではないということです。
 
人間の言葉が支離滅裂で使い物にならないという意味ではありませんが、自分の放つ言葉を、神聖化して不変としてしまうと、思考停止によって、いつも同じことを言うだけでなく、理路を組み立てることすら出来なくなり、支離滅裂に近くなることはあるでしょう。
 
あえて、以上のようなことを言うのは、言葉が、ここでは、簡単な用を足すためではなく、信仰を考え伝えるための言葉だからです。
 
 
いつもキリストのほうを向いて、とか、キリストに帰れ、という言葉がありますが、キリストの心を知らなければ出来ないことです。そして、述べたように、人間の言葉と心の不安定さから、いつもキリストの心を弁えていることは、思っているほど容易ではないのです。
 
私たちが帰るべきキリストの方向そして処とは、キリストのもとに、という意味ですから、それは、キリストのおられるところ、ということになります。
 
私たちの行くところが何処でも、そこにキリストはおられますが、いちばん、キリストを意識するところは、一人の人間として祈りを捧げるところに他なりません。そして、祈る私たちは、不完全で罪深い人間です。
 
つまり、キリストに帰れとは、キリストのもとにある人間の立場に帰れ、ということに他なりません。神がかりとしてではなく、知っている、分かっている、見える、というような立場でもなく、帰るべきところは、不安定で弱い人間の立場であることを再認識する祈りに、いつも私たちは帰るのです。
 
私たち人間は弱く罪深いのに加えて、私たち人間の言葉も不安定で、悪用されやすいのです。だからこそ、折に触れて、謙って祈る機会が与えられているのです。そこで、時々に、新しくしていただく以外にないのです。
 
イエスは、二千年前に行った超常の奇跡以上に、私たちの飼い主として、優れた洞察と共感をもって、祈りを聞いてくださると信じられる御方だからこそ、現代においても、救い主、キリスト、主イエスと呼ばれるのです。
 
祈るときに、祈るところにおいて、私たちは、知っていない、分かっていない、見えていない自分の、言葉と心を捧げてゆく道を、キリストゆえに選んだ者、即ち、信仰者なのです。
 
 
(2018年02月21日)
 
執り成す(とりなす)
弁える(わきまえる)
謙る(へりくだる)
処(ところ、所)
何処(どこ、いずこ)
 
 
 
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  「「近況、逆説的な」コメント欄」コメント
 
 
コメント欄を記事にした「「近況、逆説的な」コメント欄」のコメント欄にコメントが寄せられ、これも大事な気がしてきたので、記事にいたします。
 
 
こんにちは。この記事からシャローム氏のブログを見ましたが、主張の根底にあるものがRにはよく分からないです。何に対して怒ってるのかな。共産主義でも逆に国粋主義でもないようだし、キリスト教的でもないような。何に基づいているのかな?見えないです。
 何か個人的なトラウマがあるのかな。病的ですから気にせず相手にしないほうが良いのでは(笑)。
 
2018/2/18(日) 午前 9:59[R]返信する
 
 
シャローム氏に主張する思想的なものはないと思います。彼は、牧師として尊敬される、といった自尊の安楽のためかもしれません。この記事もそうですが、何々主義が悪いと言っているのではなく、やり口が汚い、卑劣、そういったことに反応しています。それが、政治と宗教という違いがあっても、精神や体質として似ている、と感じたということです。
 
2018/2/18(日) 午前 11:23[ st5402jp ]返信する
 
 
へ~牧師さんなんだ。
シャローム氏って変わってるというか、愛が感じられませんね。
ただ単に何かの自己主張なんですね。
 可哀想な人。
 牧師さんなのに救われていない、という事か。ふ~ん…。
 
2018/2/18(日) 午後 0:16[R]返信する
 
 
シャローム氏のブログを読んで、キリスト教的ではなく、愛も感じられない、というのは、R様は、かなり思慮深いのだろうと思います。
 以前、コメント欄があったころは、賛同する人も結構いましたから。うわべの優しさ丁寧さに惹かれる人がいて、同じようにコメント欄を閉鎖しているブログもあります。私が辛辣な批判をして、更新が止まっているようですが、恐らく、別のブログでも立ち上げているんだろうと思います。
 
2018/2/18(日) 午後 1:36[ st5402jp ]返信する
 
私は、情緒的にも理性においても鈍いので、数年間は騙されて、聖書の先生くらいに思って尊敬していました。そのうち、異教との遣り取りや、問いに対する答えが、どうもおかしい、全然噛み合っていない、というより、人の書いたこと理解しているか、と疑問に思うようになって、突っ込んで問い続けてみたら、とんでもない、はぐらかしや、当てつけや、無根拠の侮辱、などが明らかになってきて、6年間批判を続けて、この2年くらいは、PCが使える間は、毎日名指しで批判してきた、という経過です。
 
2018/2/18(日) 午後 1:48[ st5402jp ]返信する
 
このコメント欄も記事になりそうです。ありがとうございます。拝。
 
これで終わりというわけではありませんので、気になることがあったら、引き続き書いてもらって構いません。
 
2018/2/18(日) 午後 1:50[ st5402jp ]返信する
 
11:23コメントの、
 >この記事もそうですが、何々主義が悪いと言っているのではなく、・・
 
 の主語は私です。失礼しました。
 
シャローム氏が、民主主義ならぬ神主主義、三権分立ならぬ五権分立、心身症ならぬ霊心症、など、ひどい造語を書いてきたのは、批判を始めて、かなり時間が経ってからでした。批判されて緊張を強いられる状況は私がもたらしたものですが、それにしても、これはないと思いました。削除
 
2018/2/18(日) 午後 2:09[ st5402jp ]返信する
 
これは記事とは離れますが、R様はカトリックのようですね。私が思いますに、建物や聖像などもあり保守的で融通が利かないと言われるのはカトリックのほうが多いと思いますが、それに縛られず自由な形というのが仇となって、カルト化しやすいのはプロテスタントのほうだと思っています。例えば聖霊派などを危惧している人は結構いるようです。
 
2018/2/18(日) 午後 2:23[ st5402jp ]返信する
 
 
今のカトリック、特に日本ではかなり自由ですよ。自由過ぎてRは怒ってますが(笑)。カトリックにもカリスマ刷新(聖霊系)があり、ちょっと浮いてます。頭から否定はしませんが…信仰心は強いのですが、自分たちの信仰の形だけが正しいといった独善性を感じます。あとは赤い平和運動に走る人たちがいて、憲法9条を聖書なみに神聖化して扱ってますが、Rからすれば偶像崇拝に見えます。
まあプロテスタントの人からすればマリアさまや聖人さまの御像は偶像崇拝に思えるのでしょうね。
 
あれからシャローム氏のブログをもうちょっと読みましたが…印象は変わりませんね。
 病的ですから関わらない方が良いですよ。おせっかいかも知れませんが、悪に引き込まれないようにご用心!
 変なブログとかばかり見ていると、こちらまで霊的に変になりかねませんよ(笑)。
 
2018/2/18(日) 午後 3:36[R]返信する
 
 
>憲法9条を聖書なみに神聖化
 
戦争放棄を神聖化して、戦争が起こって、隣人や家族が次々に殺されていったら、どう思うのでしょう。何を言われても戦わずに死んでゆくことが殉教だというのでしょうか。この信じ方を言い張られると、とても変です。言い張るだけで、いざとなったら、それどころではないと捨ててしまうような主張だと思います。
 
2018/2/18(日) 午後 4:04 [ st5402jp ] 返信する
 
>自分たちの信仰の形だけが正しいといった独善性
 
独善性こそが信仰の敵だと思っています。決めつけ、固着、修正不能、人間離れ、豪語、言い張り、預言者気取り、他者の軽視~無視、軽蔑、怒り、怨念、神がかり、見える、知っている、分かっている、守っている、等々、あらゆる方向に広がりうる害悪だと思います。
 
>プロテスタントの人からすればマリアさまや聖人さまの御像は偶像崇拝に思えるのでしょうね
 
私は、まあ、超常的な雰囲気がある、というくらいで、批判ではありません。まだそういう見方をするプロテスタントがいるのなら残念です。外の形を整えても、もう、厄介な偶像は心の中にある、ということくらいは共有したいのです。
 
2018/2/18(日) 午後 4:06 [ st5402jp ] 返信する
 
>病的ですから関わらない方が良い
 
はい。だから、批判の理由も、本人を説得することを諦めて、間違って関わる人がいないように、その異常性を敷衍する必要があるだろう、という方向に向かってきたのです。その目的ならば、相手のコメント欄が閉鎖されても、こちらのブログだけで出来るからです。
 
>こちらまで霊的に変になりかねませんよ
 
もう長いので、私は既に相当変なのです。しかも暇だけは今あるのです。失礼いたしました。(苦笑)
 
2018/2/18(日) 午後 4:06 [ st5402jp ] 返信する
 
 
元々Rも独善的でプロテスタント批判をしてきましたが、このところ聖公会やルーテルの人たちとネットではなくリアルで仲良くしています。主の平和は対話から始まる。そこで分かったのが教義など越えられない壁もありますが、意識の有無は別としてキリスト教にはたぶん正統な神学があってそれに基づく、または近い場合は倫理観や考え方なども似ていると感じています。「プロライフ」「正戦論」「反共産主義」とかです。どこも変なグループはいるようですが、最も遠いのは自由主義神学、相対主義的神学、解放とか下からの神学などといったところでしょうか。あとは平和とか聖霊とか何かを強調しすぎているものかな。
 
しょうもないコメントで失礼いたしました(笑)。
それではまた…。
 
2018/2/18(日) 午後 6:06[R]返信する
 
 
ではまた。拝。
 
2018/2/18(日) 午後 8:49[ st5402jp ]返信する
 
 
おはようございます。
 
 「大事なことについて記憶を喪失する責任を問われるべき」
 
 忘れたふりをして誤魔化す人もいれば、
 本当に覚えていない人もいます。
 
それはまるで呼吸をするかのように、
 無意識に、自然にそれをやった場合。
 
 自分でしていることに気づきもせず、ひどいことをする人がいます。
だから覚えてすらいない。
 
 意図的に行って忘れたふりをするよりも、こちらの方がタチが悪い。
 
 逆にいいことをしているけれど、その人にとっては自然なことで記憶にすら残っていないというケースも。
 
いいことの場合、行った本人が忘れても問題ないけれど、
いいことでない場合は問題有です。
 
 難しい宗教や政治の話ではなく、日常思っていることを書いてみました。
 
 長くなりました。
 失礼します。
 
2018/2/18(日) 午後 9:52[ Ellen ]返信する
 
 
>自分でしていることに気づきもせず、ひどいことをする人がいます。
>だから覚えてすらいない。
>意図的に行って忘れたふりをするよりも、こちらの方がタチが悪い。
 
なるほど、そうですね、・・習慣になると当たり前になって意識しなくなるのかもしれない、あるいは、体質だろうか。考えさせられる問題です。ありがとうございます。
 
2018/2/18(日) 午後 9:59[ st5402jp ]返信する
 
 
(2018年02月20日)
 
 
 
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  信仰を支えるもの
 
 
二千年前、キリスト者が、今日か明日には殉教して天国にいるかもしれない、という状況では、教会の結束を固める意味でも、ひたすら讃美するしかなかったでしょう。その状況で、疑問など感じていては今までの苦労が水の泡になる、死が迫っている状況では、そういうものなのでしょう。讃美しかない状況、それは、聖徒には死の迫る時、また、私たちには臨終の時なのです。
 
しかし、現代の私たちにおいては、信じる信じないということの選択も個人の自由であり、そこにおいて、あくまで自分の意志でキリスト者になることを決意しなければなりません。
 
現代の状況では、キリストが、どのような人に会って、どのように人を救おうとしたか、どのような言葉で人を愛したかを考えないで、奇跡だけで、入信を期待するのは、むしろ異常です。
 
例えば、初めて来た人が、キリストの父なる神のイメージさえできていない状況で、何を言っても言わなくても讃美ばかりする人々を見て、これは素晴らしいと入信を決意するような感動を覚えるでしょうか。
 
神の言葉を伝えるのが務めであり、あとは、神が導かれるのだ、と言うのは、体のいい言い訳です。どこまでが人の務めであるか、神はどのように考えておられるか、人は具体的には知らされていません。務めを安易に決めつける向きの口実でしょう。
 
いかなる罪を犯した人でも、神の前に正直に告白し、悔い改めた人には、赦されて生涯を全うする道が用意されています。そこにキリストがおられ、耐え忍ぶ力を併せて与えてくださるでしょう。現世的利益や幸福な成り行きについては、人の運びについては、神に任されていることだから、必ず云々・・とは、人が軽々に言ってよいことではありません。
 
そのような知らされない道を、どうして人は選択するのでしょう。そこにキリストがおられ、その慈愛に惹かれるように、そこにキリストに絆された人がいるからです。愛の神、愛の宗教と言われる所以は、そこにあるのです。
 
 
(信じる対象である)神は(信じる主体である)人を必ず救う、神は決して見捨てずに救ってくださる、という予定調和の保証の常套句には、私は、少々うんざりしています。そうではない場合、つまり、信仰者と言いながら、とんでもない人がいることを知っているからです。
 
私たちに保証され、神が約束されたのは、悔い改めの道です。いかなる罪を犯しても、悔い改めて赦される道が、いつも、どこでも、用意されているということです。
 
悔い改めに生きる道、即ち信仰の道は、拒まない限り用意されています。そこに、悔い改めない者については明確に除外されています。悔い改めない者というのは、キリストの敵となり、キリストを殺した偽善者だからです。
 
 
この地上においても、神は救ってくださる、と言う向きには、現実がそうはなっていないことから、警戒が必要です。悔い改めの救いを、地上天国の、ありがたや節に変えてはいけません。
 
キリストに惹きつけられ、キリストに絆される、という経験のない者たちが、今までのはおかしい、誰でも救われる教えでなくては・・と、キリスト信仰を、おおよそ深みのない無条件万民救済へと、ご利益宗教へと、人々を引き連れて流そうとするのは、人間について、その最も深いところを安物に変質させ、救いに必要な絆の糸を汚す行為です。
 
真理についての尽きることのない思考の勧めを省みず、考えなくても間尺に合うと言い張って、理屈だけを整えたつもりで、真実に必要な情感を欠いたまま設えた救いの教条に、どうか頷かないでほしいと思います。
 
私たちの信仰は、何をやっても救われるという仕組みの保証ではなく、地上のご利益でもなく、私たちのために命を捧げたキリストの愛に支えられています。その絆を疎かにしなければ、安易な救いの辻褄合わせに短絡したりはしないのです。
 
信仰者にとって一番大事なことは、キリストが何よりも大切にしたことです。
それは、救われた人々に表れています。
そして、次に、キリストの愛を受けて、私たちに表れることなのです。
 
 
(2018年02月19日)
 
惹かれる(ひかれる)
所以(ゆえん)
絆す(ほだす)
絆(きずな)
設える(しつらえる)
頷く(うなずく)
 
 
 
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