ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年03月

 
  理路以上
 
 
聖書の散文的な理路を整えて
信仰を語ったつもりならば間違いがあります。
それは早く正したほうがよいと思います。
 
信仰の始めにおいて
聖書、説教、讃美歌、などから、
何か感動したことがあるはずです。
でなければ
信仰の世界に生きる決意など出来はしない。
 
しかしいつも感動するということは
今の時代に
いつも喜んでいるのと同じくらい変です。
 
神が人に与えた善い心、
佳い心、好い心、良い心
つまり良心を育てるのが信仰です。
 
良心とは生き生きとした人間の心であり
温かくて悲しみに共感できる心であります。
 
試練として与えられた悪い心を克服し
時々に良心を生かしてゆくのが信仰です。
どこからかの魔法を唱えることではない。
 
信仰の福音は
人間に良心を与えるのでなければ
何の意味もありません。
 
だから信仰は理屈ではなく、
与えられて
正しい心にというわけでもなく、
人間としての情感のあるところに生まれます。
 
与えられた良心によって罪を悔い
良心によって信仰の態度を改め
良心によって赦され
良心によって癒され
良心によって救いの恵みに与るのです。
 
悪しき心はこれらの一つとして成し得ません。
悪しき心は既にこれらを拒んでいるからです。
 
救いの仕組みだけを語って
「だから云々」はあり得ません。
信仰の望ましい理路はそこにはない。
 
教条の理路を何度繰り返し唱えても
それは宗教の干物です。
塩が利いているとは言えないのです。
 
それを神の御心とばかり豪語して
逆らう者を脅迫するような信仰者になってはいけない。
信仰の楽しみと自分で悦に入るのとは違います。
 
私たちは、かつて聖書から、無条件に
それまでにない心の震えと動きを感じたことがある。
それが信仰の原初であります。
 
いくら理路の辻褄を確認したつもりでも
心情(信条ではない)に感じさせるところを疎かにしたら信仰ではありません。
それで待っておれば救われるような信仰?には
言葉面だけの思い込みという強迫観念が付きまとうでしょう。
 
感情的になるのではなく
情感溢れる人間になってください。
多くの良き生産と結実と反省につなげるために。
 
個人が否定できない情の働くところに
信仰につながる個人の悲しみがあり
存在の悲哀があります。
 
本当に必要な理路はそこでしか育ちません。
神と人、人と人、という間で
感じることと考えることの双方向が信仰を育む関係です。
 
人間同士においては自由意志のつながりです。
そこで互いを尊重する心を養うのに
社交のお世辞のような丁寧さは必要ないと言うより妨げになるでしょう。
 
祈りを学んでいる人は
神の前に
丁寧な見かけ、社交、世辞、ご機嫌取り、
これらが不要かつ邪魔であることを福音書から学ぶはずです。
(近くは、私の記事「偽善」参照
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19664074.html
 
理路を軽んじるわけではありません。
理路が人間らしい温もりと潤いを持つために
人間の良心から発する情感が必要なのです。
そうでなければ人間の愛の実感につながらないからです。
 
良心と情感は
信仰によって不全の自覚を回復させ
道を外した人間を罪から立ち直らせるものです。
 
いかなる社交のスキルにも耐えられなかった私が言っているわけですが、
・・面目ない・・
それでも信仰は成り立つ、というか、
私が救われるとしたら不可欠なのです。
 
 
(2018年03月31日)
 
よ・い【良い/善い/▽好い/▽吉い/▽佳い】
(goo辞書より
 
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/226039/meaning/m0u/
 
溢れる(あふれる)
疎か(おろそか)
 
 
 
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  聖書
 
 
聖書を読み始めたときから
心に残る聖句を思い出しては
知りたいから学ぶことで
キリストとの縁を感じてゆくのでしょう。
 
だから現象としては、
聖書から信仰を学び取って
信仰の道を歩む決心をした過去があります。
 
だから現象としては、死ぬまで、
または、神がこの世を裁く終末の時まで
これからも聖書から学び取ることになりますが、
最初と違うのは
人間としての経験が積み重なってくることです。
 
心に残る聖句があるということは
そのとき心が動き
今も心が動いているということだ
ということを前に申し上げました。
 
心に残り
癒やしを与える聖句があることは幸いですが、
一方で
疑問として残っている聖句もあるというのが正常です
 
旧約を読めば
天地創造という超常の話から始まり、
大昔の人が罪を犯した話があり、
イスラエル中心の歴史があり、
神はイスラエル寄りだなぁ
・・でも厳しいなぁ・・と感じます。
 
新約を読めば
いきなりアブラハムからイエスまでの系図が語られ
日本人に言われてもと、
読む意欲を殺がれていました。
 
心に残る聖句にたどり着く行数までに
うんざりするような出来になっているのか。
 
そこに必要なのが福音伝道です。
既に聖書から幸いを受けている人の話が必要です。
牧師であったり、信徒であったりします。
余計な話をつけない心の話なら
聖句とともに心に残るでしょう。
 
そしてその心は
別の人に聖書の話をするときの源泉になるのです。
 
それにしても
どうして神聖の話ばかりしようとするのでしょう。
あたかも神聖を知っているかのように。
 
神聖なる領域からやってきて
地上に人間として生きた神聖はキリストだけです。
キリストは人間に共感し慰めと癒しと赦しを与えました。
そのキリストには多くの人が出会っている
というのが聖書の福音書です。
 
キリストの人間に対する愛と共感に
人間もまた共感そして感動できるのですが
 
キリストの超常の奇跡に驚いたとしても
それは不思議の力であって共感ではなく興味に過ぎず
今の私たちが期待できる奇跡ではなく
私たちが生きるのに必要な感動でもないのです。
 
キリストは人間に出会い
生きた人間に直に共感し
その琴線に触れた御方であります。
 
聖書から何を受け取ればいいでしょう。
教理、歴史、救済など、様々ありますが、
知識ではなく、
 
キリストだけが人間に共感しうる神の顕れであります。
 
キリスト教の教祖そしてキリスト信仰の信仰対象は
言うまでもなく、イエス・キリストであります。
 
どうして聖書から
およそ共感からは程遠い神聖の話ばかりしようとするのでしょう。
どうして話を超常の言葉で麗しく整えようとするのでしょう。
 
皆が皆、聖書を厳密に研究して解釈して、一字一句にこだわって、
信仰の糧を提供する学者の務めを負うわけではないでしょう。
私たち一人一人は人間としてキリストを必要としています。
 
だから私は神を知らない、知りたくもない、怖いから。
 
しかし私は
たとえ詳しく知らなくても
イエス・キリストを一生忘れられないと思うから、
その御方を、キリストと呼び、主イエスと呼ぶのです。
 
 
(2018年03月30日)
 
縁(えん、えにし)
殺ぐ(そぐ、削ぐ)
麗しい(うるわしい)
 
 
 
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  愛と信仰
 
 
愛とは、広辞苑によれば
大切にすること・・等々書いてあります。
ここに人の愛憎が絡むので他にもいろいろ書いてあります。
 
私たちが信仰を学ぶのは何のためでしょう。
キリスト教は愛の宗教だと言われます。
 
他の宗教においても
また個人の道徳においても
愛、慈愛、仁愛を施すことが勧められるでしょう。
 
しかし
愛という言葉を口にするのが
何か恥ずかしいのは何故でしょう。
 
男女の愛を連想するから恥ずかしい
ということもあるでしょう。
しかし
その根底にあるのは
十分に愛することが出来ない
という体験に圧倒されるからではないでしょうか。
 
言い換えれば
人間は身勝手のために
アガペーという無私の完全な神の愛を施せないからでしょう。
 
したがって
愛についての説教は
愛し合いましょう
という愛の促進で収まるはずはないのです。
 
愛するという当為には
必ず
愛せていないという事実がついてくるのです。
 
こういうところなのです。
うわべの聖書語と
聖書から生きる言葉を読み取るということの違いです。
 
言葉は使っているうちに平板化してきます。
言い換えれば心を失ってゆきます。
特に聖書の言葉のうち特に超常の神聖を表す言葉は
その初めから概念の具象を持たないので
呪文に近くなることさえあります。それを聖書語と呼んでいます。
 
聖書のキリストの説教を聞いてまた読んで
気持ちよくなって喜んでいるだけでは
信仰の切っ掛けにはなるとしても
(私もそうでした)
それが信仰だとは言えないのです。
 
そこでとどまらず
愛せていないという現実に対して
人間の本質から救いを与えるのが信仰だからです。
 
人間はときに、
どこか?どこか?間違えて
愛するつもりで傷つけています。
愛にこだわって裏切りのレッテルを貼ります。
そして妬み怒り憎みます。
愛するべきだと悪を見逃します。
一方を愛するべきだと他方を裁きます。
そして、ある日、驚きます。
これは、いったいどうしたことか・・。
驚く人はまだマシなのです。
 
これら、すべて、人間の業(ごう)からの保身であります。
 (仏教由来のような言葉を私が用いましたから当然不正確です。
  業は個人に個別に性格及び経験から備わる認知と反応のゆがみの傾向
  ・・みたいな意味で使っています。失礼。)
 
キリスト信仰は愛を説く信仰ですが、そこで
愛せない人間の罪を知り尽くしたキリストの洞察と共感に基づいて
祈りによって罪の赦しを乞う道を説いています。
そして、その道が生きるために不可欠であることを説いています。
 
それは、愛しているつもりで傷つけるという偽善の落とし穴からの救いであります。
傷ついた人間の癒しと傷つけた人間の悔い改めの道であります。
 
いつもいつも悔いているわけではありません。
しかし悔いる必要がなくなる道ではありません。
私たちは伝道の言葉を忘れてはいけません。
 
(伝道の書7:14)
順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
 
ここに、罪深く不完全な人間の信仰者としての日々の成り行きの過ごし方が端的に表されています。当たり前といえば当たり前ですが、いつも正しくあることが人間には無理だという前提を感じます。
 
順境を楽しむことは誰でもできます。逆境において考えることが信仰の務めなのです。上のほうに書いた、これはいったいどうしたことか、という時が来るのは必然であり、それを知情意合わせて考えるために信仰は生きているのでしょう。
 
私は福音という訪れを聞き、
神への音信という祈りをお返し申し上げて生きています。
 
 
(2018年03月29日)
 
当為(とうい)≒意味において「べき」のつくこと。事実と対比。
 
 
 
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  教えと救い
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:27
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:27-28、新約聖書)
 
前にも書きましたが、キリストのこの厳しいと思われる教えを私が受け入れられるのは、守れという意味ではなく、罪なき者は一人もいない、という意味だと思うからです。
 
心に情欲を抱いたら姦淫ならば、悪意を抱いたら殺人か傷害であり、人の物を欲しがったら盗人でしょう。この厳しさをまた考えてみます。
 
キリストは、救われるために守るべき教えが厳しいのではなく、罪の定義についての教えが厳しいのです。罪の罠となる網から誰も逃れる者はいないということでしょう。そうでも言わないと、自分は大丈夫つまり罪はないと言い出す人が多いからです。それは、キリスト信仰においては、罪の自覚がないと赦しようがなく、即ち、救いようがないからです。
 
罪の定義を、人は、一般的な道徳から考えやすいということだと思います。それによって、一般的な道徳によって罪はないと思いやすく、気安く思い込み誓ったりもするのでしょう。誓いを果たしたつもりでも、神から見れば人は気づかない罪だらけなのです。
 
今もそう言う人は多いのです。あるいは、十字架の贖いによって赦されたから今は罪はないし、罪を犯すこともない、犯さないように聖霊に導かれているから、と言う人もいるのです。
 
そういう典型のような者が私にメールで言ってきたことがあります・・決して(他者に)謝るな、と・・。のちに、恐ろしいほどの自己正当化に聖句を利用していることが明らかになりました。
 
その者は、結局、めちゃくちゃな信条?を持っていましたが、一見敬虔を装っていたので見分けがつきにくく、おかしい分かるまで数年を要しました。そういう人がいるのです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:33
また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:34
しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。
5:35
また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。
5:36
また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。
5:37
あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。
 (マタイ5:33-37、新約聖書)
 
このように人の判断と神の判断は違います。
 
私は、偽キリスト者と思う人を数年にわたり批判してきて、更新が止まって、一応の一安心と思っていたのですが、祈りを新たにしています。
 
37節は批判を禁止していないけれど、私はしばしば、宗教や政治の記事とコメントにおいて、是非の判断を超えた辛辣な表現をしている、つまり罪を犯しているからです。理路だけを書くのは苦手なので先が思いやられるのですが・・(苦笑・嘆)。
 
人は、神のように全知によって判断することが出来ないので、神に対して誓うということをする資格も能力もないということでしょう。既に、キリストは、誓っても守れない罪、あるいは、守った、守っていると言い張る偽善を、うんざりするほど?知っておられたのでしょう。
 
 
神は人知を超えていると言いながら、その神の超常の救いの仕組みを人知を超えて見たかのように得々と語る者がいて、明らかに矛盾しているのですが、何を言っても聞き入れず、弁明も反論も反省もしないまま、言うだけは同じように言ってくるのです。それが揺るがない信仰だと思っているようです。
 
このように「揺るがない」という言葉一つとっても、悪用されることがあります。前に書いた「幼子のように」「弱さを誇る」「いつも喜んでいなさい」などもそうです。
 
そういうことを考えているうちに、再び、人の言葉がいかに頼りないかを実感します。私たちは人の言葉で信仰を語るしかなく、しかしそれゆえに、他者のみならず、自らをも、辻褄を合わせて分かったと思い込むような詭弁の罠にかけてしまいやすいのです。
 
気づくたびに、自らを省みること、即ち、反省が、いかに大切かを痛感します。そのために祈りの機会が不可欠のものとして与えられているのでしょう。
 
神への音信である祈りを、キリスト者らしさを誤解して讃美ばかりに費やすよりも、今はそれどころではなく、反省と告白を第一とし、つまり悔い改め、そして新たに、赦しと癒しと救いを乞い願いたいと思います。
 
 
(2018年03月28日、同日一部修正)
 
こい-ねが・う【希う、冀う、乞い願う、請い願う、庶幾う】
(ウィクショナリーより
 
https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%84%E3%81%AD%E3%81%8C%E3%81%86
 
 
 
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  偽善
 
 
福音書が教えていることは複雑なことではない。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
2:5
イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
 (マルコ2:5、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
7:21
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22
その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23
そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
 (マタイ7:21-23、新約聖書)
 
神のみ旨を行うということは、人間一般の善行を積むことではないだろう。神と人の関係と、罪の自覚と悔い改めのことを言っていると思う。だからキリストによる罪の赦しは、病の癒しという行為になっている。
 
言い換えると、一般的な善行を積むということは信仰の中心でも目的でもない。神の御旨であるところの罪の自覚と悔い改める心があれば、人を疎かにはしないから、道徳的な善行は自然とついてくるものとなるだろう。
 
行為一つ一つが総ての時空の影響を考えて厳密に善であるか悪であるかを知り得ない私たちにとって、神のみ旨を行うとは、つきつめれば、祈りしかない。
 
「あなたの罪はゆるされた」
罪は赦される
 
「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」
偽善は赦されない
 
これだけなのである。複雑な超常の理屈をこねる必要はないのである。まだ十字架にキリストがつく前に救われた人々がいる。そこで、戒律を守ることなど問われてはいない。また罪の贖いについても、救われた人々は、よく知っていたわけではない。
 
罪の自覚があり、正直な悔い改めの告白をして、赦しを乞うだけで、犯罪人でさえ赦されている。神の前に精一杯の正直を捧げたからだ。
 
それが出来ず、あるいは、する気がなく、不完全で罪を犯していながら、その自覚がなく、神が見ておられるのに、救われるものと思い込んで慢心している者は、悪であるのに善を装う者、即ち、偽善者である。善を装うということは、罪を認めないということ、即ち、既に善の自覚であるから、赦される必要を感じていない、即ち、救いを拒んでいるのである。
 
シンプルに救われた人々を読んでいると、救われるために必要な人間の側の要素のようなものが、私にも不十分ながら見えてくる。彼らは、不完全であることの悲しみを知っていた。
 
救われた人々は、
キリストの前に正直であった。また自分に対しても正直であり、願いが強い分、言いたいことはキリストの前でも言った、食い下がるように。どこまでも低い自分として遜っていた、あるいは、低さを自覚せずにはおれない立場にいた。自分の力に頼らなかった、あるいは、頼れるような力を持たなかった。キリストの前で、見える、知っている、守っている、分かっている、とは言わなかった、あるいは、言えない自分の立場を痛感していた。
 
ここに、神と人の立場の違いも、罪の赦しの必要性も、含まれている。教理は既に、ここに尽くされているのだ。
 
贖罪の十字架で救いの仕組みを語るよりも、人間として蔑まれて死んでゆくキリストの悲しみに共感し、キリストの痛みと悲しみを思うべきだ。
 
どうあるべきかが書かれているのに、なぜ無条件に死ぬまで罪が赦されているなどと予定調和の保証にしてしまうのか。どうあるべきかで十分なのに、なぜ、いつも讃美や喜びを・・という強引なプラス方向に持っていこうとするのか。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
 (マタイ5:4、新約聖書)
 
人間の感情のうち、
最も深い悲しみこそが、最も大きな喜びに通じている
ということを聖書は伝えている。
 
 
(2018年03月27日)
 
遜る(へりくだる、謙る)
蔑む(さげすむ)
 
 
 
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