理路以上
聖書の散文的な理路を整えて
信仰を語ったつもりならば間違いがあります。
それは早く正したほうがよいと思います。
信仰の始めにおいて
聖書、説教、讃美歌、などから、
何か感動したことがあるはずです。
でなければ
信仰の世界に生きる決意など出来はしない。
しかしいつも感動するということは
今の時代に
いつも喜んでいるのと同じくらい変です。
神が人に与えた善い心、
佳い心、好い心、良い心
つまり良心を育てるのが信仰です。
良心とは生き生きとした人間の心であり
温かくて悲しみに共感できる心であります。
試練として与えられた悪い心を克服し
時々に良心を生かしてゆくのが信仰です。
どこからかの魔法を唱えることではない。
信仰の福音は
人間に良心を与えるのでなければ
何の意味もありません。
だから信仰は理屈ではなく、
与えられて
正しい心にというわけでもなく、
人間としての情感のあるところに生まれます。
与えられた良心によって罪を悔い
良心によって信仰の態度を改め
良心によって赦され
良心によって癒され
良心によって救いの恵みに与るのです。
悪しき心はこれらの一つとして成し得ません。
悪しき心は既にこれらを拒んでいるからです。
救いの仕組みだけを語って
「だから云々」はあり得ません。
信仰の望ましい理路はそこにはない。
教条の理路を何度繰り返し唱えても
それは宗教の干物です。
塩が利いているとは言えないのです。
それを神の御心とばかり豪語して
逆らう者を脅迫するような信仰者になってはいけない。
信仰の楽しみと自分で悦に入るのとは違います。
私たちは、かつて聖書から、無条件に
それまでにない心の震えと動きを感じたことがある。
それが信仰の原初であります。
いくら理路の辻褄を確認したつもりでも
心情(信条ではない)に感じさせるところを疎かにしたら信仰ではありません。
それで待っておれば救われるような信仰?には
言葉面だけの思い込みという強迫観念が付きまとうでしょう。
感情的になるのではなく
情感溢れる人間になってください。
多くの良き生産と結実と反省につなげるために。
個人が否定できない情の働くところに
信仰につながる個人の悲しみがあり
存在の悲哀があります。
本当に必要な理路はそこでしか育ちません。
神と人、人と人、という間で
感じることと考えることの双方向が信仰を育む関係です。
人間同士においては自由意志のつながりです。
そこで互いを尊重する心を養うのに
社交のお世辞のような丁寧さは必要ないと言うより妨げになるでしょう。
祈りを学んでいる人は
神の前に
丁寧な見かけ、社交、世辞、ご機嫌取り、
これらが不要かつ邪魔であることを福音書から学ぶはずです。
(近くは、私の記事「偽善」参照
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19664074.html)
理路を軽んじるわけではありません。
理路が人間らしい温もりと潤いを持つために
人間の良心から発する情感が必要なのです。
そうでなければ人間の愛の実感につながらないからです。
良心と情感は
信仰によって不全の自覚を回復させ
道を外した人間を罪から立ち直らせるものです。
いかなる社交のスキルにも耐えられなかった私が言っているわけですが、
・・面目ない・・
それでも信仰は成り立つ、というか、
私が救われるとしたら不可欠なのです。
(2018年03月31日)
よ・い【良い/善い/▽好い/▽吉い/▽佳い】
(goo辞書より
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/226039/meaning/m0u/)
溢れる(あふれる)
疎か(おろそか)
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