ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年03月

 
  讃美と魔性
 
 
日本語の文章において、終止形や命令形で書かれているところは、著者の言いたい度合いが、必ず、なのか、できれば、なのか、分かりにくいところがあります。聖書については、原語に詳しくない私としては、せいぜい日本語の文脈と人間の現実と理想を考えてゆくしかありません。
 
 (へブル人への手紙、口語訳)
13:14
この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。
13:15
だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。
 (へブル13:14-15、新約聖書)
 
著者はパウロとか、他の人かとも、言われているそうですが、ここは分かりやすいほうだと思います。讃えようではないかと、勧めている聖句です。讃えたいときには讃えるのでしょう。しかし、ゆえなくやたら讃美していいということではないはずです。
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
13:11最後に、兄弟たちよ。いつも喜びなさい。全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう。
 (2コリント13:11、新約聖書)
 
これは手紙の末尾のあいさつのようですから、激励と受け取るべきでしょう。私たちは、この地上で全き者にはなれないからです。
 
 (ピリピ人への手紙、口語訳)
4:4
あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
4:5
あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。
4:6
何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
4:7
そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。
 (ピリピ4:4-7、新約聖書)
 
この世に生きていて、いつも喜んでいる人は異常だと前に書きました。6節との関連で、次の聖句を引用します。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
6:27あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
 (マタイ6:27、新約聖書)
 
キリストの教えですが、思い煩うことを禁じているのではないことは明らかでしょう。禁じても人間は思い煩ってしまうものです。思い煩う必要はないと、その慰めと癒しを語っているキリストの教えから言って、ピリピ引用の6節も激励でしょうから、現実を考えれば、ピリピ4節も、悲しみを禁じたのではなく、悲しむ人々への激励と解釈します。
 
言葉のみを受け入れて、情感を無視する者たちは、教えを、やはり戒律のように、こうあれ、また、こうあってはならない、という教え方をするかもしれません。そういうことではないのです。キリストは、人間の悲しみを思いやっていることを忘れてはいけません。情感のない説教を鵜呑みにしてはいけません。
 
 (コロサイ人への手紙、口語訳)
3:15キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。
 (コロサイ3:15、新約聖書)
 
これは、明らかに理想を語っています。理想は理想でいいのです。ただ、現実は違うということです。しなさいと言っても、出来ないことを承知の上で語るところの、やはり激励なのです。
 
 (テサロニケ人への手紙、口語訳)
5:16
いつも喜んでいなさい。
5:17
絶えず祈りなさい。
5:18
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。
 (テサロニケ5:16-17、新約聖書)
 
書いてある通り、神が求めておられることです。迫害の時代にあって、迷うことのないように、キリストのもとで信徒の結束を呼びかけているように思われます。
 
つまり、救いのノルマではありません。いつも欠点を認めず救われることを確信して喜んで讃美していたのはパリサイ人です。
 
悩み苦しみ悲しみを抱えてキリストを求めた人々は癒される前に喜ぶ余裕はありませんでした。キリストはそれをご存知でした。
 
今も似たようなものです。主はそれをご存知です。
 
求められたとおりに出来ていないから、キリストは遣わされた、ということを覚えてください。
 
情感も共感も無視した解釈をもって教えと戒めを、救いの条件のように、掟か命令のように語る者たちは、結局、パリサイ人に酷似してゆくでしょう。ひょっとしたら、その者たち自身が、悲しみの感情を抑えつけて、無理に笑顔と悟り顔を作ってきたのかもしれません。それを他者に教えようとするのは無思慮と共感の欠如を勧めてしまう行為でしょう。
 
 
(2018年03月26日、同日一部修正)
 
讃える(たたえる、称える)
 
 
 
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  人間と魔性
 
 
魔性は人間の心のうちにあり
意地や強がりや優劣などで人を惑わせて
ことごとく神に与えられた良心と対立します。
 
人間は人間の心で
すなわち人間の知情意で共鳴することしか受け取れないはずです。
 
奇跡を聞いて分かったつもりになり
受け取ったつもりでも
その内実は皆無であります。
奇跡は人間の知情意で理解することなど出来ないからです。
 
理解できなくても受け入れるのが信仰だと言う者たちが
中身のないものを受け入れれば
それは人間の罪なる邪悪な心で変質し腐ってゆき
無謬の魔性を固定するだけなのです。
 
人間はそれほど勝手に心を作り変える習性を持っています。
何故なら楽なほうに楽なほうにと心が働くからです。
自分の安い知情意で
つながらない筋道を結び付けて言葉にするでしょう。
 
良心の弁えのない者たちは
節操のない短絡の思路を好むので
言葉にしやすい気安さだけで神の業を語る思考停止です。
 
彼らは分かることと分からないことの区別がつかないので
総てを分かったことにしてしまう報いとして
人間なら分かるはずの話が通じなくなるでしょう。
 
分かるのが信仰者だと思う者たちは
分からないと言えずに
分からない理路を分かったかのように言葉だけ語ります。
そしてやたら福音だ聖霊だとありがたがるのです。
 
独り悦に入ったり
人前で妄想の滅裂のまま豪語したり
あるいは慇懃な社交に忍ばせたりします。
 
彼らが聖句として
「幼子のように」「弱さを誇る」「いつも喜んでいなさい」
などを好むこと自体が
この聖句が誤解のもとになりやすいことを示しています。
 
大人は幼子にはなれません。
聖句は無批判で従うことを教えてはいません。
弱さは誇るものを持たないことです。
弱さに生きることが気高いこともあるのです。
高い低い、強い弱い、賢さと愚か、
このような言葉は偽善者に悪用されるので要注意です。
 
いつも喜んでいる人は人間ではありません。
常時薄笑いのホラーです。
 
現在の人間の原罪の話に至る前に
非を認めることの大切さを話したら
いきなりだらだらと神の話を始める人を警戒してください。
 
祈りは
現象としては悔いであり反省であり願いであります。
それを
悔いもせず反省もせず
願う代わりに悟り顔で讃美する者を警戒してください。
 
敬虔は
口数少ないとは限りません。
消極的であるとは限りません。
優しそうな見た目とは限りません。
頷いて逆らわないこととも違います。
神を恐れるゆえに人を疎かにしないことです。
 
神は私たちの弱さをご存知です。だから祈りが成立します。
 
讃美だけを繰り返すのは神のご機嫌を取ることです。
神は機嫌を人に左右されるような御方ではありません。
そのような呪文のような讃美を喜ぶ御方でもありません。
聖書に書かれた神の性質から明らかなのです。
 
讃美の量と回数にこだわる者たちは
まだ本当の全知全能の神を認めていないのです。
褒めると機嫌がよくなるような
やさしいおじいさんが好きと言っているだけなのです。
 
だから彼らは
戒める神も懲らしめる神も試みる神も知らないで
愛されていると一方的に思い込みます。
 
神を恐れる人たちは
悪魔を恐れる以上に神を恐れるように
目を覚ましておくべきです。
 
神を恐れない者たちは
讃美しておけばよいと思っている者たちは
不完全な人には神と悪魔を見分けにくいことを知らずに
自らの安易な思い込みで神だ悪魔だと決めつけて
いずれ逆らう人を悪魔呼ばわりするでしょう。
 
逆らう者については
理路と情感を備えている批判者であるか
その根拠にまたしても超常の聖書語を使う魔性か
ということが見分けるヒントになるでしょう。
魔性は神と自分の区別さえつかない冒涜者です。
 
理路はあくまで人間の理路です。
情感はあくまで人間の情感です。
神は超常ですが
私たちが必要とし理解可能なのは人間の理路と情感だけだということを
全知全能の神は既にご存知であり
キリストは知っておられたゆえに人々に共感し
ゆえに聖霊もまた同様のあり方でありましょう。
 
 
(2018年03月25日)
 
弁え(わきまえ)
神の業(かみのわざ)
慇懃(いんぎん)
 
 
 
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  何のために
 
 
勘違いしている向きがあるようだが
神に従って生きるのが信仰ではない
 
神に従える者などいない
それゆえに救いが必要なのである
 
神に従えないでいる自覚
それこそが信仰であり救いの条件である
 
神に従うことを教えるのは
福音も信仰も伝えたことにはならない
 
信仰の喜びだけを伝えていたら
神に背いている圧倒的な事実の前に
立ち尽くすことになるだろう
 
人の良心は脆弱だが
人が目一杯のその良心に従って行い
それを神に捧げるのが信仰だ
 
信仰は
人を正当化するためにあるのではない
 
言うまでもなく信仰は
罪を犯した人間が赦されるために与えられる
 
信仰は
人に罪に気づかせ
祈ることを気づかせるために
人が決して神に向かって自己正当化をせぬために
 
人間に与えられた良心が働くための恵みとして
造り主である神との厳しい関係と
救い主であるキリストの愛を伝えている
 
キリストという犠牲の死と悲劇に込められた愛を
それを無視する者たちと
それを悲しみそして慰められた人間とともに伝えている
 
たとい道半ばに泣くことがあっても
嘆き悲しむことがあっても
私たちには告白する相手がいる
 
途方に暮れる反逆の民である私たちの目に
涙が満ちて溢れることがあっても
深い深い溜め息をついても
私たちは次の一歩をそれぞれ歩むことになるだろう
 
それがキリストの愛の眼差し
という信仰者を捕らえて離さないキリストの負いやすいくびきであり
キリストの愛に絆された人生である
 
 
(2018年03月24日)
 
脆弱(ぜいじゃく)
絆す(ほだす)
 
 
 
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  感情
 
 
感情という言葉は、感情的という言葉や、感情に流されるという言葉があるように、心を乱し判断を鈍らせるものという印象があるので、私は、心情、情感、情緒、感性といった言葉を好む。
 
情感といえば、情感あふれるという言い方があるように、好ましい意味で使われることが多い。
 
ここでは感情という言葉は、心情または情感の意味を言っていることになるのだろう。紛らわしいようだが、意味と用法を考えれば分かると思う。
 
感情は、人の心を乱して鈍らせるだけではない。
 
人が自分を動かす時には、感情も動いている。むしろ感情がエネルギーになっている。
 
私は、キリストに絆される、という書き方をすることが多いが、この「絆す」は、つなぎとめる、束縛される、という意味である。情に絆される、という言い方があり、私は、キリストの愛について、この書き方を用いることが多い。
 
感情は、エネルギーまたはその源泉として、人間を支えるものであり、神から与えられたものであり、決して、無視してよいものではなく、悪い場合だけを考えるものでもない。
 
知性の産物である思想や信条は、使っているうちに、実感を失ってゆく。
 
信仰を支えているもの、信仰者を支えているものは、人間の世界に限ると、むしろ、感情のエネルギーであり、情熱であり、情感であり、ときに静かな忍耐力にもなるものである。
 
したがって信仰の正しさに、多くの知識は要らないのである。
 
知識を得ることは、信仰の糧が増えることである。大切なことではあるが、それは、信仰そのものではない。信仰そのものの正体は人間世界では厳密には不明と言わざるを得ないが、信仰には情感が不可欠である。情感によって私たちは、キリストに共感し、キリストを忘れられなくなるからだ。
 
キリストを忘れられなくなることを、私は、キリストに絆される、キリストとの絆、キリストにつながる、キリストに縁付く、などと書いている。情感または心情というものが信仰に果たす役割は小さくない。愛が、知識ではなく、力のみでもなく、心情に近く情感を伴うことによる。
 
これが感情に流されることと違うのは、私たちが、信仰を条文のように固定しなければ、新しく受けることが出来るし、キリストは新しいものを惜しみなく、祈り、求めれば、いつでも与えてくださる御方、という、かけがえのない信仰の活性を信じているからだ。
 
信仰を表すことも、豪語だけだったり丁寧だけだったりの情感の欠けた文章にならないようにしたい。そのためには、解釈は人が受け取るべき骨格であるが、それだけではなく、どうしても、聖書の解釈の整合性以上の、つまり、聖書から、キリストの思いと、人々の思いを受け取ることが必要で、この思いは、思想内容よりも、情感であり、愛であり、命であり、恐らく、それが、心からの理解の、常に新しい始まりである。
 
人間を活発にする知識は心の解放感という情感を伴う。
解放感のない知識をいくら足しても、やはり同じような知識に過ぎない。
いくら骨格だけを補っても、やはり骨格のままである。
 
情感のない結びつきは活性がないので生きる活動の力になりにくい。それをさらに補おうとすれば、やはり知識に過ぎないから、最悪の場合、盛り過ぎて妄想的な思想になってしまうだろう。
 
大切なのは、厳密には言葉で表せないし保存もできない時々の人間が共感できるような情感である。つまり、聖書と経験から私たちが最も学ぶべきは、聖書の中のキリストと人間の情感であり、誰よりも読む人の情感である。
 
キリスト(の愛)に絆される、絆されたい、これが信仰の本質である。
 
 
(2018年03月23日)
 
絆す(ほだす)、絆(きずな)
 
 
 
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  自ら救おうとする者たち
 
 
前にすでに引用した聖句を、また、テーマといたします。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:27
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:27-28、新約聖書)
 
このような極端とも思える教えを、なぜキリストは説いたのか。
既に書きましたが、さらに、なぜ、どうすれば天国へ行けるかなどと救いの律法を考え問うてくるのか、何かを守って、あるいは、何かをやめて、それで天国へ行ける者など一人もいない、つまり、罪なき者は一人もいない、という主旨だと申し上げました。
 
罪を犯さないことではなく、自ら罪人であることを認めて告白することが信仰です。
何故なら、人はせいぜいその立場近辺しか目が届かず、
とうてい神の教えまで守ることなど出来ないからです。
キリスト信仰は、赦されることをもって、義と見なされる信仰です。
そのことが、キリストと人の遣り取りとして、福音書に書かれています。
 
しかし、自分を救う神を自分で決めつけて、救われると信じる信仰者?がパリサイ人でした。そのように教えられ、律法を型通り守って尊敬される境遇で、保身しか考えないようになっていったのでしょう。彼らの型どおりの信仰には、形式的な救いの仕組みはあっても、信仰の実質としての愛が欠けていたのです。神の言葉にこだわるけれども、言葉に込められたものに無頓着でした。それゆえ、愛の必要な人々への思いやりについて無頓着でした。
 
罪悪感というものを感じないサイコパスが集まりやすいのは政治と宗教です。
ちょっと乱暴ですが・・。
 
  (ルカによる福音書、口語訳)
18:9
自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11-12
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 (ルカ18:11-14、新約聖書)
 
このキリストの話には、何人も、自ら正しくなり、それをもって、天国に行く、などということは、ありえない、という明確なメッセージが込められていると思います。
 
キリスト信仰は、
正しくなるための信仰ではなく、
救われるための信仰です。
神の教えを守るための信仰ではなく、
神に憐れまれるための信仰です。
 
ここで、キリストの時代は、新約聖書以前の、イスラエルの古代の話です。そこに、イエスという名のキリストが現れ表され、多くの、これまでとは違った、むしろ逆説的だとも思える教えを伝道した時代です。
 
そのキリストに対して、律法を守っておれば救われる、それでいいじゃないか、何を今さら言っている、というパリサイ人らの抵抗勢力が対立し、ついにはキリストを殺した時代であります。
 
彼らは、一番大事なことを知りませんでした。にもかかわらず、知らないということを最後まで認めない者たちでした。彼らは、戒律を守ることから始めて、守るかどうかで測られるために、形だけ守っている自分を、救いに相応しい自分として、作って押し出してしまっていたのです。
 
 
人間は罪人だから、罪をなくさないといけない、罪を犯さないように、という短絡は、キリスト教内部においても珍しくなく、そして、さらに悪いことには、聖霊によって導かれ、既に十字架によって罪に死んだのだから、死体を蹴ってもびくともしないのだからと、罪を悔いることは必要ないなどと言っている人もいるのです。
 
私たちも、分かっている自分を作ってしまうことがあります。異教を聞いたときや、自分と反する教えを聞いたとき、分かっている自分を出そうとすることがあります。そのとき、少しばかり、お前、何を言ってるんだ、・・が入ります。ここで、既に挫折しているのです。
 
私たち人間は、言葉の内実を保つことさえできません。あるとき、ピンと来てないのに語っていることがあります。そのような人間という生き物に、さらに言葉に表された教えを守ることなど、出来ようもない、ということを基本としないと、出来る自分を作ってしまう危険があります。
 
しかし、何も分かっていないにもかかわらず、私たちは、伝道のために語ることが勧められています。ならば、語るべきことは、他者の罪ではなく、自分の幸いのみならず、むしろそれより前に、自分の中に潜むもの、思い込み、勘違い、聖書の言葉を宛がって終わらせること、聖なる御方に任せると言って逃げていること、出来るのにしないこと、言えるのに言わないこと、分かっているつもり、等々、それらを自ら暴く姿勢を基本として始めるしかないでしょう。
 
これらは、悔い改めに直結しており、祈りに直結しており、自分を見つめることであり、神への、信仰の切々たる思いに満ちた心貧しき捧げものであり、神と人間との双方向の関係において、神の導きを待ち望むという信仰の基本的な姿勢であります。
 
 
(2018年03月22日、同日一部修正)
 
暴く(あばく)
 
 
 
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