ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年04月

 
  すべて?絶えず?
 
 
 (テサロニケ人への第一の手紙、口語訳)
5:17
絶えず祈りなさい。
5:18
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。
5:19
御霊を消してはいけない。
5:20
預言を軽んじてはならない。
5:21
すべてのものを識別して、良いものを守り、
5:22
あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。
 (1テサロニケ1:17-22、新約聖書)
 
絶えず祈りなさい
 
 24時間続けて祈ることではない
 ということは、不可能だから、明らかである。
 それならというんで、
 しゅっちゅう出来るだけ頻繁に祈ることだろうか。
 否である。
 祈りが必要だと思うから祈るのだから、
 頻繁に祈ればいいというものではないだろう。
 
 原語は知らないが、言い換えると、
 祈りが絶えてしまうようになってはいけない。
 例えば
 以前は悲しいとき苦しいとき折に触れて祈っていたのに
 そういう時に今は祈らなくなった
 ということがあってはいけませんということだろうと思う。
 
 神の沈黙への忍耐を教えている。
 待ち望む心を失ってはいけないということだろう。
 
 迫害の時代には特に忍耐と継続が必要だったからだ。
 
この聖句は、事実ではなく、当為である。
現実ではなく、理想である。達成ではなく、目標である。
また、戒律ではなく、教えである。束縛ではなく、解放である。
教えが、重荷ではなく、救いとなるためである。
 
聖句にあるように
教えは神が求めておられることである。
しかし神が罰を与える基準ではない。
 
感謝できないことがあることを
御言葉を忘れていることがあることを
正邪を識別できないことがあることを
良いものを守れないことがあることを
悪から遠ざかれないことがあることを
神は既にご存知である。
 
私たちは良いことがあり悪いことがあることを
私たちは教えを守ることがあり守らないことがあることを
私たちは教えを守れる時があり守れない時があることを
神は既にご存知である。
 
神はご存知であるから
罪人を憐れんで
それでも義を与えるために
キリストを遣わし
信仰を与えるのである。
 
そうでなければ
救われる者は一人もいないからである。
 
神に相応しい人が救われるためではなく、
神に憐れまれる人が救われるために
救い主が必要である。
 
 
(2018年04月25日)
 
当為(とうい)≒「べき」という意味の付くこと。
相応しい(ふさわしい)
 
 
 
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  「目標と達成」コメント(4)
        [ st5402jp ] が私です
 
 
これはあまり口にしたくなかったのですが、
 仏法とキリスト教の神仏の成り立ちが
 あまりにも違っているのです。
 仏法では、私達の迷える魂は
元々存在していて、その哀れさに
救うべく菩薩の身から修行の末、く
阿弥陀如来となり私達を救う法を
作られたのが仏であり、
 私達の存在には一切の関係にはないのです。
だから、因果、自業自得をいうのです。
しかし、キリスト教では私達の成り立ちが違い
 また、与えられた試練などと、
まるで神様の箱庭遊びの人形のように
私達が扱われていて、どうかしたら
 そんな気まぐれな存在を信用できるのか?と、
 思ってしまいます。
 完全なる神なら人を作ったとされるなら
 なぜ、こんな罪深いふかんぜんなものを作り
 また、禁断の実を理由とするなら
 なぜ神ともあろう方が、そうなりえることを
予測しなかったのか?まま、納得しかねますが、
 
2018/4/15(日) 午前 9:14[ こうさん ]返信する
 
私は思うのです。
 神仏に違いはないのだと。
 所々に適した姿の伝え手を出現させたに違いないと。
ただ、人の手に教えが渡り、いつしか曲がり
伝えられたのが今の其々の解釈の違いになって
 いるのだと。
 仏様?そんなの気持ちの持ちようじゃないの?
と、思っていた彼女がその身に仏様を宿し、
そんな疑いの心が一瞬で消えたと
話してくれたように、その力は人知を超えたもの
 なんですよ
 
2018/4/15(日) 午前 9:17[ こうさん ]返信する
 
 
神の箱庭遊びと
こうさん様が言われるところの神のあり方を
私たちは、神の計画と愛という言葉で信仰しているわけです。
超常の全能の神がなさることですから
そう簡単に人間に分かるはずはないという恐れを
信仰者はいだく必然がそこにあります。
つまり、人間一人に、この全宇宙と世界の仕組みは
簡単に分かるはずはないということをもって
神秘という言い方がされ、
それが人間一人一人の謙譲に結び付いてくるのです。
実際、全宇宙を思うとき、
恐れを抱くのは必然であります。
それを分かりやすく、と要求するほうが傲慢でしょう。
 
そしてその超常からの地上の作り方とあり方を
気まぐれで理解しがたいと思うことを承知の上で
神はこの世に、人と、謎と、悪魔と、
そしてキリストを遣わしたのでしょう。
 
総てを、人の因果、人の自業自得に負わせることを酷い
と見なす神の愛とみる見方もあるでしょう。
 
2018/4/15(日) 午前 10:16 [ st5402jp ] 返信する
 
> 完全なる神なら人を作ったとされるなら
> なぜ、こんな罪深いふかんぜんなものを作り
> また、禁断の実を理由とするなら
> なぜ神ともあろう方が、そうなりえることを
>予測しなかったのか?まま、納得しかねますが、
 
完全なる神は、ねたむ神とも言われています。
ご自身より高い存在、さらには
ご自身と同等の存在があることをねたむ御方であります。
このことは、唯一神というあり方でもあります。
 
したがって、人はすべて不完全に造られていて、
神は、ご自身のような存在としては、
キリストと、聖霊しか作ってはおられないのだろうと思います。
 
2018/4/15(日) 午前 10:17 [ st5402jp ] 返信する
 
神がキリストと聖霊を造った、しかし、その御二方は、神と同じ意思を持つ、ゆえに、造ったというより、表れ方の違いという三位一体という考え方になります。
 
アダムとエバの失楽園の話も
全能の神は、予測というより、ご承知の上で
そのように造られたとしか思えません。
 
人間に対して成長することを期待されたのかもしれません。
今生きている私たちに対すると同様に。
それで、人間の有り様と成り行きつまり歴史は、
神の計画の成就という目的を持っているのでしょう。
 
最初から完全に造り、間違いを犯さず、
神の忠実なコピーとして人間が地上を支配したとして
それに何か意味があるでしょうか。
 
2018/4/15(日) 午前 10:19 [ st5402jp ] 返信する
 
実際には、多くの苦難とともに、神は
人間には納得できないような最小限の力を発揮しながら
一方で、
私たち人間に多くの期待が寄せておられると
私たちは考えざるを得ないのであります。
 
神はすべてを承知の上で
人間を逆境に置いたり試みたりしながら見ている
という成り行きについて、人間の側から見て
神の神による最終的救済までの計画以上のことを
人に知らせないということは創造主として当然とも思えるのです。
 
神は全能であるがゆえに不可知、
なのに、神を知ったことにしない時が済まなかったり、
すぐ救わないと神ではないと短絡したがったりする人間を
我慢強く見ておられると思うしかないでしょう。
 
2018/4/15(日) 午前 10:19 [ st5402jp ] 返信する
 
そのような神に対して
私たちが信仰という愛を持ちうるのは
ひとえにキリストという人間として生まれた御方が
多くの人々の、特に悲しみに共感されたからにほかなりません。
 
2018/4/15(日) 午前 10:22 [ st5402jp ] 返信する
 
 
妬む神ですか?
 私なら妬む人に全幅の信頼は置けません。
それは神としても同じです。
それを信じようと信仰しているなら
 もうこれ以上は言いません。
ありがとうございました。
 
2018/4/15(日) 午後 4:06[ こうさん ]返信する
 
 
神は、神以外の偶像を人が崇拝することを嫌う、ということを、聖書では、ねたむ神と表現している、ということです。
 
2018/4/15(日) 午後 6:02[ st5402jp ]返信する
 
 
(2018年04月24日、同日一部修正)
 
 
 
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  大事なもの
 
 
大昔から聖書に書かれている神の起こした奇跡。
それら奇跡に私たちは共感できるでしょうか。
 
処女懐妊から復活に至るまで
キリストにまつわり
またキリストが起こした奇跡。
それら奇跡に私たちは共感できるでしょうか。
 
それらに驚いた時代は二千年前ですが、
それら奇跡は今当てにできるでしょうか。
 
今は滅多に起こらないであろう奇跡を
私たちの信仰の縁(よすが)にできるでしょうか。
 
滅多に起こらないものを当てには出来ません。
当てにしたら的外れと知るべきです。
共感できないのだから縁にできません。
徒に感情を高ぶらせるのは三文芝居です。
 
私たちが共感できて
信仰の縁にできて
そのために泣くことが出来るのは
キリストが人間として人々と交わり
人間としての悲哀に共感されたからです。
 
その共感すなわち愛ゆえに
キリストは十字架につきました。
 
驚くべき救いの奇跡のためにも
驚くべき再臨と終末のためにも
私たちは神の民として人間であるべきです。
天国を待ち望む民であるために
考えるべきことがあります。
 
もう今は当てにできない奇跡の仕組みを
学校の勉強のように頭で整えたり
牛のように口で反芻したり
録音のように繰り返したりするのはやめるべきです。
 
キリストはいかなる人々と交わったか、
人々は何を抱えてキリストに出会ったか、
キリストはその人々に何を見出したから共感されたのか、
人々は何ゆえにキリストからの愛を知ったのか、
それこそが
今を生きる人間として
信仰者として縁にするべきことなのです。
 
神の僕(しもべ)ぶった高慢ではなく
へりくだり
裸の心をもって正直であり、
飾らず偽らず自らを神の前に捧げて、
正直であるがゆえに
ときに嘆いても
祈る自分の涙袋から溢れて
主の眼差しに注がれてゆくように
祈り乞い願い
成就を待ち望む人間の姿を見ていただきましょう。
 
神を讃えなければという義務ではなく、
今は嘆きがあっても
感謝と讃美が生まれる時を待ち望みましょう。
それが祈りだと思います。
 
 
(2018年04月23日、同日一部修正)
 
縁(よすが)
徒に(いたずらに)
反芻(はんすう)
讃える(たたえる)
 
 
 
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  「目標と達成」コメント(3)
 
 
私や仲間が至らされたのは
自分でそうなったのではありません。
 人は自分では気付けないのです。
 本当の自分の姿、心に気付けない。
それを気づかせてもらうのです。
 私が仏様の気付きの力、智慧の光明へと
導けるのもその理にかなった教えを
説いているからです。
まず、自分が救われた身にならなければ
叶わぬことです。
だから私は知らされた こうであったのだと
説くのです。
 
2018/4/15(日) 午前 4:18 [ こうさん ] 返信する
 
 
>私や仲間が至らされたのは
>自分でそうなったのではありません。
> 人は自分では気付けないのです。
> 本当の自分の姿、心に気付けない。
>それを気づかせてもらうのです。
 
気づかせてもらったら、自分も今は気づいているのではないかと思います。
自分で気づくのと、それはどう違うのかとも思います。
しかしそれよりも気になるのは
 
> 私が仏様の気付きの力、智慧の光明へと
>導けるのもその理にかなった教えを
>説いているからです。
 
自分が理に適った教えを説いている
という自覚に確信を持っておいてよいものかどうか・・
理に適ったというのは自分が元々持っていた考えと合致した
という場合もあるのではないかとも思います。
 
2018/4/15(日) 午前 4:56 [ st5402jp ] 返信する
 
>まず、自分が救われた身にならなければ
>叶わぬことです。
>だから私は知らされた こうであったのだと
>説くのです。
 
キリスト教系のカルトも
自分は救われた、だからあなた方も救われる
という言い方はするでしょう。
 
このように超常に救われたという体験が確信になると
一歩間違えるとカルトに結び付きやすいので、
私としては、自戒するとともに、
いつも弁えていたいことは
自力はもちろん、他力であっても、
救いを受けた自分を絶対化しないことなのです。
それを今まで記事に書いてきたような気がします。
それを神学者の人から聞いた言葉ですが
信仰の相対性と言うそうです。
人間は絶対ではないことからの相対性
=非絶対性と受け取っています。
 
2018/4/15(日) 午前 4:57 [ st5402jp ] 返信する
 
永続的に何かを持っているわけではない無常の世界では、
私の信仰の義も、
固定ではなく確信でもなく
ただ、今はそれが理に適って正しいと思っていて
ただ、今はそれが善いものだと思うから
伝えているに過ぎません。
 
間違っていると誰かに指摘されることがあって
それに納得して節を修正または変える日が来るかもしれない
という可能性を除外しないでおく必要があると思います。
少なくとも私はそうです。
 
2018/4/15(日) 午前 4:58 [ st5402jp ] 返信する
 
節(誤)→説(正)
 
私にも、これが間違っているはずはない、と思うことはあります。
それこそ、これが間違っているなら、自分は信仰か命を捨てるしかない
とさえ言えるほどのものです。
しかしながら、今の段階で、よりよい説があるかどうか、
私には分からないはずです。
もし、よりよい説があるなら、
その説によって私も慰められるのだろうと信じる以外にないでしょう。
 
2018/4/15(日) 午前 5:06 [ st5402jp ] 返信する
 
 
自らが信じようとする信仰は
 おっしゃる通り絶対の安寧は得られません。
しかし、神仏が誓われた法で救われた身には
疑いもなければ、信じることさえも
 ないのです。
いついかなる時も私と共に神仏がいることを
分からせ、見せてくれているからです。
それが絶対の安寧なんですよ。
 私のブログに紹介した記事にある
広島の僧侶、ブログにいらした
 カーさんのパパさん、
そして、ママ友の千波ちゃん
古くからの友人の最近信心叶った彼女、
 皆、こうして紹介しても差し支えない
 のはその身に仏様を宿し、
 揺るぎない安寧を私と共にしているからです。
 信じる自力の信仰は時に幸福感に包まれても
 いつしかまた信じる努力を必要として、
なかなか辛いものですが、
 親鸞聖人の説く絶対他力をこの身に受けたなら
決して消えることのない安寧を味わえます。
それは先に語ったように、1人の信じるという
信仰ではなくなるからです。
こんな私との交流が、1つでも
僅かでも貴方の信仰の肥やしになれば
幸いです。
 
2018/4/15(日) 午前 6:44 [ こうさん ] 返信する
 
 
>自らが信じようとする信仰は
> おっしゃる通り絶対の安寧は得られません。
>しかし、神仏が誓われた法で救われた身には
>疑いもなければ、信じることさえも
> ないのです。
>いついかなる時も私と共に神仏がいることを
>分からせ、見せてくれているからです。
>それが絶対の安寧なんですよ。
 
「神仏が誓われた法で救われた身」である人間が
なぜ「いついかなる時も私と共に神仏がいる」
であると言えるのでしょうか。
自分を救うのが自分ではなく神であるならば
なぜ神の都合によることを
自分に引き寄せてしまうのでしょうか。
 
なぜ一人の人間の経験に過ぎないのに
いつも「分からせ、見せてくれている」と
神の行動のあり方を決められるのでしょうか。
どうして絶対ではなく無常の存在が
自分の安寧を「絶対の安寧」と言ってしまうのでしょう
というようなことを
キリスト者としては考えるのですが、
・・分からないです・・
 
2018/4/15(日) 午前 7:45 [ st5402jp ] 返信する
 
キリスト信仰の場合、この一点、つまり
神は絶対から信仰は絶対から自分の信仰は絶対へと走って、
人間の不完全性の分別を外したばかりに
自分信仰の誘惑に堕ちてゆきそうな人がいますから、
私は、ただ人間であり続けるように書き続けています。
 
こうさん様の安らぎが邪悪だと言っているわけではないのです。
 
救われている身で、いつも、見せてくれる、絶対、という言葉で、
まだこの地上にいて、まだ天国も極楽も知らないのに、
確信の強さに任せて絶対の世界を断定されることに抵抗を覚えます。
 
2018/4/15(日) 午前 7:57 [ st5402jp ] 返信する
 
 
(2018年04月22日)
 
 
 
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  基督の歌 (+加筆)
    
http://ww7.tiki.ne.jp/~satoshi/matome.index.htm
    http://ww7.tiki.ne.jp/~satoshi/uso2faith.htm
    https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/3679212.html
    https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/16305608.html
    https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/17078505.html
    https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/3679293.html
 
 
前にも載せましたけど、またここに載せておきます。
私の信仰の原点とも言える宗教詩のようなものです。
(+少しばかり解説)
 
 
   呪いの丘
 
 晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
 しばらくは指が動いていたという
 つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
 その後長きにわたって呪いの丘とされ
 ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
 ある者は笑いながら
 あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
 その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
 その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
   悔い改め
 
 キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
 それゆえ暴かれると
 あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
 ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
 それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
 またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 

 
つまりそういうことです。
私たちは勘違いばかり
 
ゆえにキリストの十字架後二千年
この地上に罪の絶えることはなかった。
 
キリストを十字架にかけているのは
私たちだということです。
 
 
にもかかわらず、なお
この世の欲望に惑わされ
神の奇跡ばかりに目を向けて
自覚を持ちにくいのが私たちなのです。
 
創世記の話は
今の罪深い私たちを表しています。
ゆえにその罪は原罪と呼ばれます。
 
十字架の話は
今の罪深い私たちを表しています。
ゆえにキリストは憐れみ
赦しのために十字架につかれたのです。
今の罪深い私たちが救われるために。
 
不滅のキリストは
私たちを憐れんで
命を惜しまず語りかけています。
 
  悔い改めなさい
  天国は近づいた
 
  こころの貧しい人たちは、さいわいである
  天国は彼らのものである
 
天国が近づいたというのは
時間的に近いという意味でしょうか。
終末でしょうか、個人の死後でしょうか。
 
時間は待つしかないので
距離的に近いという意味も
否定できないような気がしています。
 
聖書では、また祈りにおいては、
まさにキリストが目の前におられるのです。
何を聞く必要があるのでしょう。
 
 (ルカによる福音書17:21、新約聖書、口語訳)
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。
神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 
今、悲しんでいる人は祈り求めてください。
主は今もここにおられると申し上げます。
 
主は
地上の創世に添い
地上の末日に添い
今の人間一人一人に添うことの出来る唯一の御方
 
 
(2018年04月21日、同日一部修正)
 
 
 
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