ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年05月

 
  イエスからキリストへ
 
 
キリストは
人の悲しみを分かっておられた
以前そう書きました。
 
その理由は
神の子だからというのは
分からないと言うのと大して変わりありません
 
神と同じ全知という理由では
何も広がりがないのです。
人間として共感しようがないのです。
 
キリストは
公生涯よりも前に
すでに多くの悲しみを見てこられたのだろう
これも前に書きました。
 
ここを考えることで
人間として生きてきた御方の
人間に共感できる資質と
人間に対する鋭い洞察力を思うことになります。
 
30年
長いような短いような
公生涯以前の年月が
どんな経験を経て
どんな考察を経て
救いを志すに至ったのだろう
 
最初からキリストとして生まれ
全能であり
悪魔からの試練を経た
これは人間が受け取るには
象徴的すぎるのです。
 
人間として生きたキリストの路程を
聖書から読み取る以外に
キリストが背負ったものと
キリストが与えようとしたものを
感じることは出来ないはずです。
 
キリストの強さと寛容さ。
悪に身を渡す犠牲の勇気。
キリストの負ったものの重さ。
キリストの誰よりも深い悲しみ。
 
公生涯においても
人知の及ばない、
驚くべき、
奇跡物語として読むだけで
すごい、すごいでしょ、という
魔法ワールドへの興味だけにならないように
 
人間が憧れるに余りある良心の慈愛を
人間と共感するキリストに見るべきなのです。
 
二千年前の聖書の中の
キリストと
キリストに出会った人との
交わりという機会は
それぞれの人にとって
掛け替えのないものでした。
 
それはそのまま
聖書を読むことが
二千年前の話よりも身近に
深い悲しみと慈愛と喜びを味わうことで
キリストに出会う私たち一人一人にとって
掛け替えのないものになるのです。
 
 
(2018年05月31日)
 
 
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  幸福と不幸
 
 
伝道者によっては
信仰を持つと
こんなに幸福になります
というような
信仰は幸福への道
という伝え方をする人がいます。
 
私はたちは
信仰を与えられて
そんなに幸福でしょうか。
 
今も数々の困難の中で
ただ信仰によって耐え忍んでいる
ということ以上に
信仰を与えられて
どんでん返しのように
今は、とても幸福です、幸せいっぱいです
と言えるような
素敵な心境に変わるでしょうか。
 
信仰を得たのだから
幸福でなければならない
幸福であるに違いない
という強迫観念ではないでしょうか。
 
どんでん返しのように
試練は跡形もなく消えたでしょうか。
 
本当は今も不幸と感じているものを
幸福でなければならないと思い込んで
幸福に言い換えたときから
不祥事があるのに建前だけを主張するような
都合の悪いことを隠蔽するような
神の前に
正直であるべきなのに
不必要で余計なことをしていることになります。
 
以前に比べれば幸福なのに
不幸を感じる心も残っているのは
わがままだと思うなら
その通り
わがままだと思いながら
そのことを正直に祈り告白するべきなのです。
 
どこか神の前に
人間の性(さが)であるかのように
表面を整えようとする姿勢があって
それが信仰の正直を不正直に変えてしまう。
 
キリスト者になったとはいえ
私たちは相変わらず罪深く
折に触れて赦しと癒しを求めて祈るというのに
なぜ幸福だなどと思わなければならないのでしょう。
 
なぜキリスト者だから恵みを受けて
今は幸福なはず
などと思い込まなければならないのでしょう。
 
私たちが罪を犯さなくなり
全身全霊が幸福に包まれるのは
御国に至ってからではないのでしょうか。
 
幸も不幸も
自分がどう感じているかを
正直に祈りとして捧げてください。
 
信仰だからと無根拠に
幸福の道だけを説くことはしないでください。
この地上の大方は耐え忍ぶことで
凌ぐ道であります。
 
徒に幸福の道ばかりを説いて
それでも不幸を感じている心を
贅沢だと戒めるかのように
幸福の言葉で糊塗しないでください。
 
祈りが立派であるかどうかは
神のみが判断することです。
人が正直以上に作ってはいけません。
 
求道者から信仰者になることで
私たちが与えられたのは
不変の平安の悟りの境地ではありません。
 
私たちが与えられたのは
神の前に総てを包み隠すことなく捧げて
地上で成長してゆく道なのです。
 
恵みを先取りしたような幸福の前提も
思い込みのような不幸の前提も
信仰にはないのです。
 
神の前に祈りが正直であるためには
自分に正直であることが必要です。
 
私たち信仰者に与えられた信仰は
傷つきやすく転びやすい私たちが
様々な刺激に対して活性を持ち
より人間らしく新たに成長してゆく道です。
 
人間は
悲しみを悲しみ
喜びを喜ぶ生き物として
御心によって養われています。
 
信仰の恵みは
悲しみがなくなり
ずっと喜びだけになることではありません。
何故なら
最も大きな喜びは
何が訪れたときにも
悲しみを克服することだからです。
 
信仰は人間として
この地上の悲しみを超克してゆく道です。
そのお手本はまたしてもキリストであります。
 
 
(2018年05月30日)
 
凌ぐ(しのぐ)
徒に(いたずらに)
糊塗(こと)
 
 
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  魂の奇跡
 
 
讃美する資格もない罪人である私さえも
神は憐れんで救ってくださる
ということに誤りはないと思うけれど
 
そうするために
讃美ばかりをするというのはどうだろう。
 
 ハレルヤ
 くらいが精いっぱいで
 神のどこがと讃美するほど神を知らない。
 助けてくれたということなら
 それは感謝でしょう。
 
それは罪深く
讃美する資格のない自分という人に
目をつぶることではないか。
 
神は
罪に目をつぶり目をそらす人を救うだろうか。
 
讃美するのなら
神の前で
先ず捧げるべきは讃美ではなく
人間の罪であり
自らの罪であり
罪人の自覚である。
それが神の前の敬虔である。
 
罪に定める目を
用いることを止めて
罪を罰せず
罪を赦すのは
神の仕事である。
それが神の憐れみによる魂の奇跡である。
 
私たちが讃美することで
神の仕事を先取りすることは出来ない。
 
私たちは赦されたいのだから
赦されたいという祈りを捧げるべきである。
そこに罪の自覚が表れるからだ。
 
私たちは慰められたいのだから
慰められたいという祈りを捧げるべきである。
そこに弱さが表れるからだ。
 
私たちは癒されたいのだから
癒やされたいという祈りを捧げるべきである。
そこに
地上で癒やされることのなかった魂の
病の苦しみと悲しみが表れるからだ。
 
物や肉体の奇跡を求めるのではなく
しるしを求めるのではなく
いつ起こるか秘されていることよりも
 
一途に
魂の奇跡を求めるべきだ。
 
 
(2018年05月29日、同日一部修正)
 
 
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  双方向
 
 
神が与える救いは
神が与えたかどうかさえ秘められたうちに
人間に与えられるだろう
 
神は愛です
ということを表したいのならば
神と人は双方向なのだから
どのような状況で
どのような愛が与えられ
どのような気持ちになったか
人間の気持ちとして語る他ないのだろう
 
例えば孤独からの解放
悩みのうちの休息
苦しみの緊張緩和
悲しみの解放に向かう涙
これらは
人間が共感できる恵みであり
それゆえ肉体や物の奇跡より
はるかに強い印象を残すだろう
 
信仰と人生の成り行きの対立は
また一方で
祈りと導きの双方向を表している
 
どんなに祈っても
成り行きは変わらないだろうか
成り行きは一通りしかないから分からないが
祈りは重ねられて
人生は造られてゆくのだろう
 
どこへでも従ってまいります
・・人の子にはまくらする所がない
み衣にさわりさえすれば
・・あなたの信仰があなたを救ったのです
お助けください
・・なぜ疑ったのか
パンくずは、いただきます
・・あなたの信仰は見あげたもの
わたしを思い出してください
・・パラダイスにいるであろう
 
人とキリストとの対話
悲しみと悲しみの共感と
悩みと癒しの双方向は
姿がなく言葉がなくても
遍く今も続いている
 
時々に
祈る前と祈った後で
心残りのないように正直であれば
祈りと慰めは
今も生まれている共感である
 
悲しみがもたらすのは孤独であり
涙がもたらすのは解放の始まりであり
温もりがもたらすのは癒しであり
孤独からの解放という癒しは愛によるもの
 
それは信仰者に与えられる最も多いなるもの
そして信仰そのものである
 
 
(2018年05月28日)
 
遍く(あまねく)
 
 
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  主の道
 
 
キリストが
驚くべき救いの業を成し遂げるだけの
超常奇跡だけの主であるなら
 
その主を信じるだけで救われるという信仰は
何の弁えも生まないことになるだろう。
 
人は超常の奇跡を見習うことなど出来ないからだ。
 
つまり信じますと告白したときから
必ず救われる未来が待っていることになり
 
人はせいぜい
悪いことはしないほうがよいだろう
という自分の善悪の基準を生きることになるだろう。
 
あるいは
道徳的な心得だけではなく
聖書の教えを守らねばと思い始めると
信仰を戒律に変え始める項の硬い者になるだろう。
 
実際
信仰義認と行為義認は
キリスト者の中で揺れていることが多い。
 
信じるだけでと説きながら
いや守るべきはこれこれ・・と
いやこのことは守らないといけないことで・・
というように揺れている。
 
こういう不安定さは
救いが人知の及ばない奇跡を中心に語られることの弊害である。
 
人知で実感し共感できる奇跡に注目するべきである。
 
キリストの超常の奇跡を中心にするのではなく
キリストの魂の奇跡、
心に起こる奇跡と言ってもよい奇跡を中心にすれば
人は共感をもって
神に仕える人間のお手本もまたキリストである
ということに気づくのが当然であり
そこから
キリストの優れた洞察と資質による共感に
見倣って及ばないとしても
キリストの寛容さとともに
人間的共感に溢れた所を志す道は既に見えているのである。
 
併せて道徳的なことは
全てキリストから出てくるが
共感に溢れた良心の産物であり
しかも
それを完全に守れる人がキリスト以外
いないことも知るはずである。
 
少なくとも
キリストに救われた人々は
超常でもなく優秀でもなく有能でもなく
キリストの理解者でもなかったのだから
 
小さい正直さだけをもってキリストに会い
飾らず率直に祈る内容が誤解であっても
その罪人の自覚だけを見られるところの
キリストの愛と寛容によって赦され癒され救われたい
という自分に気づくはずである。
 
信仰は
超常の奇跡だけではない。
言葉の暗記だけでもない。
信条の順守だけでもない。
これらは救いの要件ではない。
 
信仰は
超常は分からず暗記も順守も出来ない人間が
罪深き我が身と心を
正直に神の前に捧げて
戒めと懲らしめの神を恐れる弁えをもって
すなわち
神の下に小さく
キリストの下に安らぎを求める罪人でしかない自らの弁えをもって
祈りを捧げること以外にはない
と知るはずなのである。
 
 
(2018年05月27日、同日一部修正)
 
項(うなじ)
弊害(へいがい)
 
 
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