存在と世界
「マトリックス」という映画では
コンピューターだったかの支配下で
大方の人間は眠らされていて
その脳に
世界が幻想として与えられている
という世界だったと思う。
ひょっとしたら
コンピューターもなく
私たちは
形さえ持たずに浮遊しているような
感覚の主体に過ぎないかもしれない
という想像は可能だ。
その人間を支配しているのは
神と言うべきか摂理と言うべきか
夢システムまたは幻想システム
とでも呼ぶべき秩序があって
人間という感覚主体を造り
そこに幻想を流している。
前に書いたことがあるが
ほぼ恒常的で
ほぼ秩序だっていて
ほぼ双方向であるなら
幻想の世界でも
人間はそれを現実と受け取るだろう
というより
そう受け取るしかないのだ。
一人の幻想か集団幻想か
その幻想を打ち破るためには
「マトリックス」のように
僅かでもリアルな世界を知っていて
システムに逆らい
幻想を一部打ち破り
リアルを見せてくれる人々が生きている必要がある
しかしながら
もしリアルが形のない感覚主体であるなら
私たちはリアルの中で動きが取れない。
リアルの浮遊するわが身の存在を見ても
何も見えないことになる。
それが人間存在の世界だという想像だが
否定も肯定も証明することは出来ないだろう。
神の存在も
人の存在も
見えない浮遊に過ぎず
目に見える実体はないのかもしれない。
しかしその想像の仮説において
悩む人はいないだろう。
何故なら述べたように
ほぼ恒常的で
ほぼ秩序だっていて
ほぼ双方向であるこの世界を
私たちは実在の世界と思うしかないし
思っていて何の問題も起きないし
ここは違う、幻想だ、実際はこうだ
と証明してくれる人もいないからだ。
したがって
私たちはこの世界で
悩み苦しみ悲しみ考えながら
生きるという幻想の行為を
感覚主体として実感してゆく。
その幻想に耐えきれず
乱暴に打ち破ろうとするのは
感覚主体の出来が悪いか
入力される刺激が耐えがたいかの場合で
それは病気とか狂気とか犯罪とか悪とか呼ばれて
治療または矯正が必要とされる。
私たちは
次から次に降りくるような刺激が
どういう刺激か
前もって知ることはない。
しかし私たちは
この世界がコンピューターでも
幻想システムでも
また私たちが感覚主体のみの
いかなる手段でも捕らえられない浮遊物であっても
人間という存在であることを自覚している。
だから
たとえ幻の無形の存在であっても
やはり心に潤いと温もりを
生きるために必要とするのであり
総てが幻想であっても
私たちが
例えば信仰によって
その人間存在の儚さと悲しみを
知っていて共感してくれる救い主を知ったならば
もはやどこまでも想像の仮説であるところの
リアルな世界がどうであろうと
救いの御方を忘れることはないのである。
つまり言い換えると
私たちがリアルに感じる世界に
絶対的な客観はないし必要もないのだろう。
人間存在様式がどうであろうと
私たちは
感情と記憶と
少しばかりの思慮を持ち
潤いと温もりには
悲しみと癒しには
理屈抜きで反応するように造られているからだ。
(2018年05月26日、同日一部修正)
(2018年05月30日、一部修正)
矯正(きょうせい)
儚さ(はかなさ)
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