ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年05月

 
  存在と世界
 
 
「マトリックス」という映画では
コンピューターだったかの支配下で
大方の人間は眠らされていて
その脳に
世界が幻想として与えられている
という世界だったと思う。
 
ひょっとしたら
コンピューターもなく
私たちは
形さえ持たずに浮遊しているような
感覚の主体に過ぎないかもしれない
という想像は可能だ。
 
その人間を支配しているのは
神と言うべきか摂理と言うべきか
夢システムまたは幻想システム
とでも呼ぶべき秩序があって
人間という感覚主体を造り
そこに幻想を流している。
 
前に書いたことがあるが
ほぼ恒常的で
ほぼ秩序だっていて
ほぼ双方向であるなら
幻想の世界でも
人間はそれを現実と受け取るだろう
というより
そう受け取るしかないのだ。
 
一人の幻想か集団幻想か
その幻想を打ち破るためには
「マトリックス」のように
僅かでもリアルな世界を知っていて
システムに逆らい
幻想を一部打ち破り
リアルを見せてくれる人々が生きている必要がある
 
しかしながら
もしリアルが形のない感覚主体であるなら
私たちはリアルの中で動きが取れない。
リアルの浮遊するわが身の存在を見ても
何も見えないことになる。
 
それが人間存在の世界だという想像だが
否定も肯定も証明することは出来ないだろう。
 
神の存在も
人の存在も
見えない浮遊に過ぎず
目に見える実体はないのかもしれない。
 
しかしその想像の仮説において
悩む人はいないだろう。
何故なら述べたように
ほぼ恒常的で
ほぼ秩序だっていて
ほぼ双方向であるこの世界を
私たちは実在の世界と思うしかないし
思っていて何の問題も起きないし
ここは違う、幻想だ、実際はこうだ
と証明してくれる人もいないからだ。
 
したがって
私たちはこの世界で
悩み苦しみ悲しみ考えながら
生きるという幻想の行為を
感覚主体として実感してゆく。
 
その幻想に耐えきれず
乱暴に打ち破ろうとするのは
感覚主体の出来が悪いか
入力される刺激が耐えがたいかの場合で
それは病気とか狂気とか犯罪とか悪とか呼ばれて
治療または矯正が必要とされる。
 
私たちは
次から次に降りくるような刺激が
どういう刺激か
前もって知ることはない。
 
しかし私たちは
この世界がコンピューターでも
幻想システムでも
また私たちが感覚主体のみの
いかなる手段でも捕らえられない浮遊物であっても
人間という存在であることを自覚している。
 
だから
たとえ幻の無形の存在であっても
やはり心に潤いと温もりを
生きるために必要とするのであり
総てが幻想であっても
私たちが
例えば信仰によって
その人間存在の儚さと悲しみを
知っていて共感してくれる救い主を知ったならば
もはやどこまでも想像の仮説であるところの
リアルな世界がどうであろうと
救いの御方を忘れることはないのである。
 
つまり言い換えると
私たちがリアルに感じる世界に
絶対的な客観はないし必要もないのだろう。
 
人間存在様式がどうであろうと
私たちは
感情と記憶と
少しばかりの思慮を持ち
潤いと温もりには
悲しみと癒しには
理屈抜きで反応するように造られているからだ。
 
 
(2018年05月26日、同日一部修正)
(2018年05月30日、一部修正)
 
矯正(きょうせい)
儚さ(はかなさ)
 
 
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  完全欲
 
 
欲と書いたが
ここでは
邪悪な欲望という意味よりも
意識するとしないとにかかわらず
個人の欲するところの傾向として
善かれ悪しかれ有るものとして考える。
 
信仰については
罪にも恵みにも関わってくる問題である。
 
キリスト者は
神という完全なる御方に関わっている。
それで
信仰に完全を求めやすい。
憧れているからだ。
 
憧れていることは一つの傾向を生み
神の完全が当たり前になって
不全の人に対する配慮に気づかないことがある。
 
神という御方には秘密が多い。
言ってしまえば
人間は神を理解することは出来ない
と私は思っている。
 
人間が理解できるのは
神と人の共通するところ
すなわち
キリストの人格だと思う。
 
しかしながら
完全なる神の
しもべであるという自覚から
傾向として
完全のほうを見ている人が多い。
 
私たちは・・と振り返れば
私たちに完全は当てはまらない。
私たちは不完全なまま生きて
救ってくださる御方を慕っている。
 
完全なる神の
しもべに相応しい自覚は
不完全の自覚である。
 
私たちは不完全を見るべきだ。
 
不完全を目指すのではない。
不完全である自覚のほうを
もっと見るべきだと思う。
 
神は完全であり
神の肯定は全肯定である。
 
しかしながら
私たちは不完全であり
私たちの肯定は部分肯定が多い。
というより
私たちの言葉の肯定文で表されることには
考えてみると全肯定はむしろ少ない。
 
だから
肯定=全肯定が当たり前になってはいけない。
 
すぱすぱっと
肯定文を並べているときには
そんなに肯定していいのか
ということを考えてほしいと思う。
 
部分肯定とは
場合によって当てはまらないことがある
ということ。
 
不完全ということは
私たちの罪の性質にも深く関わることで
私たちは断定的な言い方としては
せいぜい部分肯定か部分否定され
せいぜい部分肯定か部分否定する立場である。
私たちは「と思う」に過ぎない存在である。
 
その性質の自覚を
神によって憐れまれて
赦され義とされるのが信仰の救いである。
 
受けるときも発するときも
断定表現には気を付けたほうがよい。
当てはまらない場合があって気づかなければ
そこに無理な圧力を加えることになる。
 
論理の話はめんどくさいけれど
全肯定の否定は
全否定ではなく部分否定である。
 
神は完全である。
人は完全ではない。
 
人は不完全を忘れてはいけない。
 
そこに救いが必要な理由があり
とても大切な
救われる根拠もあるからだ。
 
ただ
白の否定を黒にしないように。
 
そこに白でもなく黒でもなく
目立たない灰色の
私たちの憧れの原初があるからだ。
 
 
(2018年05月25日、同日一部修正)
 
関わる(かかわる)
慕う(したう)
 
 
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  動機と目的
 
 
キリストは
人の悲しみを分かっておられた
 
キリストは
公生涯よりも前に既に
多くの悲しみを見てこられたのだろう
 
貧困、犯罪、戦争、権威の横暴、
そして戒律がもたらす悲劇、
救いから遠ざけられた人々、
それをもたらし
それを少しも救えない律法の腐敗、
温もりを持たないパリサイ人や祭司、
罪を犯さなければ生きてゆけない人々、
汚い言葉、差別、偽善、
 
戒律を文字通り守ることが
救いにつながっていない
 
本当に救いが必要な人が
救われていないばかりか
汚れたものとして扱われる
 
どこに信仰の救いがあるのか
 
因習となり
修正されることのない律法は
人を縛っているだけで
病める人々を癒やすどころではなく
罪のレッテルを貼りつけて追放し
見捨てることしかしていない
 
神聖の心に従う代わりに
神聖を侵して教条で決めつけて
身勝手に讃美する者たちと
キリストは剣を用いず闘った
 
信仰を教条の奴隷にしないために
キリストは御自らを
教条に満たされた者たちに渡し
彼らの暴虐に任された
それは彼らの仇となり
よって彼らの暴虐が
私たちの仇となるためであり
神に裁きをゆだねることによって
私たちが剣を取ることのないためである
 
 
神聖を理解することは出来ない
ゆえに神聖を語ることは出来ない
しかし
神聖への願いを語ることは出来る
それは祈りだからだ
 
私たちは福音伝道のために
祈りを語るべきである
今悲しむものが幸いであるなら
祈りには、その経験があり、
その願いがあるからだ
 
 

 
私は結論のように強く語ることもありますが
それは今のところ反論がなく
よって修正の機会がないので
暫定的な結論になっているに過ぎません。
 
だから受け取って
さらに考えてくださることを前提としています。
私の信仰についての言論は結論ではなく
自分で考えていただければという願いです。
 
だからどうか
分かるところだけを受け取ってください。
感じるところだけを心にとめてください。
分からないところや感じないところを
無理に受け取らないでください。
疑問があれば一緒に考えてゆきましょう。
 
 
(2018年05月24日)
 
御自ら(おんみずから)
暴虐(ぼうぎゃく)
 
 
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  偽善者
   私が出会った偽善者の典型
 
 
30年の牧師のキャリアがあると言う。
外国で暮らした経験があることを
必要もないところで書いたりする。
 
丁寧な言葉遣いで
盛んに聖句を引用し
神を讃美する。
 
私は不覚にも数年間
彼を聖書の先生として
敬意を抱いてさえいた。
 
今思えば
私はまんまと騙されていたのである。
牧師だったのかどうかも分からない。
プロフィールには引退ボクサーというモジリも書いていた。
そこで疑うべきだったか。
 
先ず突っ込んでみた。
彼は、はぐらかしてきた。
こちらの気持ちが分かるような世辞を言い
ときに褒めてさえくる。
 
さらに突っ込んでみたところ
彼はコメントに唐突にお元気でと挨拶を入れた。
そういう場合じゃないだろうと思った。
その後の私のコメントは未承認のままで
読者から見れば
彼が私を説き伏せて退かせた
という見せかけの捏造をしたのである。
私とのことで彼の最初の偽装である。
 
本格的に批判を開始する。
彼は私に世辞が利かないと分かると
あからさまに侮辱してきた。
 
対立と分かったとたん
どこまでも貶めようとする。
 
私のことを
カルトだと言った。
後には荒らしだと決めつけた。
 
自分に依存しているから
自分を攻撃するのだと言う。
誰が・・アホ、と思う。
 
小児期に虐待されたから
攻撃するのだと言う。
私は親の愛を普通に受けて育ったと思うし
だいたい小児期のことなど彼に話したことはない。
それはあんたのことではないのか。
 
表では
いかにも善人に見えそうなリップサービスの
美味しそうな日本語の丁寧語と聖書語を重ねて
一方で
裏では
読者に分からないように
ブログ管理の強制力をフル活用して
対立者を暴力的に排除しようとする。
 
このことを同日中にやってのける厚顔。
 
根拠もないことに
異常な確信を抱いている。
訂正不能である。
 
彼の表の丁寧語は装いであり
策略としての慇懃無礼でしかない。
 
私は
理路を通す批判だけでは駄目だと思って
辛辣な比喩表現を交えるようになる。
 
コメントを削除するようになる。
 
彼には深い情感も
深い思慮もないのだろうと推測する。
 
だからコメントが多いだけで
理解できないまま不快になり
削除するのだろう。読まないで。
コメントの中身など理解していないのだ。
 
彼は私のブログを読まないから
批判を彼に見せつけることは出来ない。
批判の目的を
読者への警鐘として
彼のブログを名指しすることにする。
 
彼はコメント欄を廃止し
ゲストブックも廃止した
彼は
どう思いますか
などと記事に書いてくるが
これで交流など全く望んでいないことが明らかになる。
総ては満悦と尊敬と
生業という利益を得るためだろう。
彼は敬虔を装う権威主義者だ。
 
荒らしに襲われる。
数日の間100コメ超の遣り取りを強いられる。
荒らしは彼と仲が良いことが
彼のブログのコメント欄で明らかになる。
 
「いのちのパン?」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18423721.html
 
荒らしはキリスト者ではない。
彼は、浅はかに付き合い、
利用できるものは誰でも利用するほどに
節操がない。
 
罪は悔い改めなくても赦される、
アダムのように罪を犯さないために
善悪の判断をしないなどと
得々とした筆致で言う。
 
判断をしなくていい
という判断を既にしているではないか。
 
彼は思いつきだけで書いている。
深い思慮も深い情感もないことは
さらに明らかであり
罪悪感や後悔の念を感じないのだろう。
 
彼は反省したことがない。
反省するとしても単なる作戦の練り直しだ。
それで
都合の悪い総てを改竄し隠蔽した。
 
彼のような者に
決して権威を与えてはならない。
 
 
(2018年05月23日、同日一部修正)
 
捏造(ねつぞう)
改竄(かいざん)
隠蔽(いんぺい)
生業(なりわい)
慇懃無礼(いんぎんぶれい)
辛辣(しんらつ)
 
 
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  解釈と約束
 
 
聖書は読むべきだが
原語で読める人は極めて少ない。
また原語で読める人の言うことが
常に正しいわけではない。
 
聖書は
原語に詳しい人が解釈し
その翻訳を一般の人は読んでいるし
それを聖書と呼んでいる。
 
聖書は神の言葉と呼ばれる。
しかし聖書は
人の言葉で書かれ翻訳され解釈される。
 
受け取るべきは解釈だろうか。
 
神様の約束という言葉は麗しい。
しかし現実には
神の約束の有り様は
解釈する人によって分かれている。
 
受け取るべきは何だろう。
 
聖書を詳しく読むのはいいとしても
たくさん読んだから信仰がよくなるわけではない
ということを弁えるべきである。
 
旧約の神という創造主を考えると
私たちの知力と感性と
あらゆる能力と理解の範囲を超えた御方である。
 
 それを逆手にとって
 人知を超えた救いだから信仰は絶対だなどと
 豪語する言行不一致の偽善者もいたが
 
全能の神から
例えばヨブ記から
例えば伝道の書から
私たちが受け取るべきは
人間としての低い身の程を弁えることだ。
その弁えがないから偽善者は生まれる。
 
信仰がこの弁えを失うと
熱心な信仰であればあるほど
意見の異なる者に対して
例えばキリストを殺したような
例えばキリスト者を殺したような
偽善と迫害につながる。
 
信仰の弁えを持ち
自らと自らの信仰さえも絶対化しないで
受け取るべきは何だろう。
 
私たちの信仰の原初には
感動があった。
それは人生の見方を変えるほど
心を動かすものだった。
 
それはキリストの人々への共感であり
私たちのキリストの愛への共感であり
キリストに救われた人々への共感である。
救われた人々は
キリストに打ち砕かれ諭され
赦され癒され救われたのである。
 
その共感はそのときで終わっただろうか。
そうではないはずだ。
キリストは聖書の人々にのみ共感したのではない。
 
まさにキリストは
私たちに共感してくださったのだと思って
そのことを私たちは与えられたと言っている。
キリストの共感は愛と希望と信仰を
私たちの心に生じさせるほどである。
 
与えられ受け取っているのだから
私たちが今もなお不完全であるなら
一生を通じて
折に触れて与えられ
受け取らせていただかなくてはいけないのである。
 
聖書の言葉は
聖書の翻訳は
聖書の解釈は
信仰の糧であり
言語や文法や文脈の正当性も糧である。
それを神の御言葉と言うのなら
自分の中で固定してしまうような
冷たい固体の処遇を与えてはいけない。
 
聖書から
学者は、では史実はどうなのかと、
聖書の記述とは違うことも含めて
歴史上の事実を追究するのだろう。
神学はそれぞれの見地から
信条を形成するのだろう。
一方
聖書から
信仰者が受け取るべきは
神が信仰者に何を与えるかであり
それは史実よりも
むしろそれぞれの書における
著者の意図といったほうが近いのかもしれない。
 
言い換えると
事実が真実とは限らず
事実でないものが真実でないとも限らないからだ。
これは
人が人の知恵によって
何かを真実だと決めつけて訂正不能にすることが
いかに罪深いかということの理由でもある。
 
結果として
人間について
不活発を活発に変え
絶望を希望に変え
死にかけを生きかけに返させる言葉は
正誤がどうあれ
少なくとも一人の人間の正気の生存のために
そのとき既に命の言葉となっている。
 
人は言葉の厳密な正しさを見るよりも
信仰においては
言葉がもたらした心の経過と結果を見るべきかもしれない。
 
神の言葉は
とどまることなく一生にわたって
人間を成長させる言葉である。
 
ゆえに神対人の関係において
神の言葉の意味を
人が固定することが許されないのは
私たちが今もなお不完全な罪人だからであり
神の言葉は
これからも神によってのみ
あらゆる機会と手段を用意されて
私たちそれぞれの
涙となり血となり肉となる時宜を待っているだろう。
 
人が神のごとく修正不能に陥らないかぎり
それが救いの計画に向かうところの
神の約束なのだろうと受け取っている。
 
 
(2018年05月22日、同日一部修正)
 
糧(かて)
時宜(じぎ)
 
 
※ 
なお誤解されやすいところがあるので
以下のように訂正してあります。
 
(訂正前)
聖書から
歴史学等の学者は
歴史の事実即ち史実を受け取ろうとするのだろう。
  ↓
(訂正後)
聖書から
学者は、では史実はどうなのかと、
聖書の記述とは違うことも含めて
歴史上の事実を追究するのだろう。
 
 
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