ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年06月

 
  信仰と言葉
 
 
教理や信条は
信仰そのものではありません。
 
信仰は心にあるもので
目に見える形や位置を持ちません。
 
ある教条主義者は
心のどこを探しても信仰はないと豪語していました。
彼は信仰を神聖化して
心と信仰が別物だと考えていたようです。
 
 彼は盛んに神を讃美しながら
 自分が何をしでかしても
 どんでん返しのような
 奇跡による救いだけを待っていて
 一方では同時に
 読者に見えないところで
 卑怯なことも平気でやるような
 言行不一致の偽善者でした。
 
 この判断は今のところ
 否定する根拠も材料もないままだから
 同じ批判を折に触れて書くことになります。
 
限られた知恵しか持っていない人間には
心の中を神の領域と人の領域に分けて
区別して理解するような
器用なことをする能力はないと思います。
 
言葉は心に働きかけます。
言葉は心を揺さぶって動かします。
 
 しかしときに言葉は
 心に働きかける力を失うこともあります。
 
 聖三位が不変なのは
 変えたり成長したりする必要がないからですが
 
 神聖を表す言葉を聖三位そのものと同様に見なして
 言葉だけを人間が絶対不変としてしまうと
 人間が使うとき生きた言葉が失われ
 同語反復のループとなって活性を失うのです。
 
感動は情緒的な享受だと前に書いたことがありますが
知・情・意は密接に関連しており
感情が高まれば知性も意欲も反応しています。
 
 (今、私が文章を書いているのも、
  質はともかくとして、似たようなものかもしれません。)
 
言葉は心の中と
一対一で対応はしているとは思えないほど不安定で
人によっても
言葉によって引き起こされる心の動きは異なるでしょう。
 
しかし
聖句が切っ掛けとなり
信仰者となり
教理を知っているなら
 
自らの罪と不全に気づいて
成長したい気持ちがあるなら
 
人それぞれに微妙に異なるところの
人間の言葉と心というものは
不安定で可変であるからこそ
異なる人間同士が響き合って
内にも外にも自分を
そして互いを成長させてゆく手段となるのです。
 
 
(2018年06月30日)
 
7月1日まで下書きがあると思っていましたが
勘違いでした。今のところ下書きがありません。
今日中に何か書ければいいけど・・。
 
ループ = 始点と終点の一致する曲線。
 
聖三位(せいさんみ)
享受(きょうじゅ)
 
 
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  言葉と存在
 
 
私たち信仰者は
何か良いことに巡り合ったり
何か良いものを受けたりすると
きっと神様が・・と思いがちである。
 
また
私たちは聖書において
様々な聖書語
つまり神聖を表す言葉を見慣れてきて
それらの言葉を
当たり前に使うようになっているようだ。
 
しかもそれら神聖は
私たち信仰者にとって
信じるべき対象であるから
良きものやことを結び付けて
喜びたい気持ちがあるのだろう。
 
しかしながら
その言葉は殆ど超常の言葉であり
憧れはしても
馴染んだことはなくて
慣れは即ち習性に過ぎなくなっていることが多い。
 
人間の良心については
体験に基づいて語ることができても
 
聖霊については
またぞろ聖書語か聖書の物語を
さらに重ねるだけになりやすい。
 
人間から乖離した世界の話をして
求道者に敬遠されてゆくよりは
人間としての体験に基づいて
信仰の話が出来たほうがよいだろう。
 
その原動力とするために
信じた対象である超常を語るよりは
信じた主格である人間を語るならば
信仰者ならではの話になるのではないか
という考え方をしている。
 
聖書の中には
人間の持っている感性と知性で
理解可能な話が溢れているのだから
そういう方向性を持つことで
語れる内容も変わってくるだろうし
聖書の読み方も
より人間に相応しくなるのではないだろうか。
 
例えば
聖霊の導きと言ってしまえば
そこから話は進まないが
 
聖霊の導きは
現象として良心の働きと区別はつかないと思う。
 
私たち信仰者は
実に多くの聖書語を持っているが
その聖書語の多くは
超常の奇跡が滅多に起こらないことを考えると
現象としては
私たちの心の中の動きとして表れるのみであり
心の動きを言葉にすることで語れるだろう。
 
そのうえで
これは神の導きかもしれません
というくらいのことを言ったほうがよいと思う。
 
物や肉体に起こる超常の奇跡は
興味の対象にはなっても
地上ではピンと来ないから驚くふりしかできない。
 
心に起こる奇跡のほうが
人間の心の琴線に触れると思うのは
そこが人間の活性の源泉であり
真善美と愛に関わる良心の住み家だからだろう。
 
響くべきところが響いて
信仰者になったのなら
響かせるべきところを響かせるように
なぜキリストが必要かを語るのに
なぜ自分にキリストが必要かを
語らずにはいられないはずだ。
 
辛い経験をつぶさに語る必要はない。
「辛い体験」といった人間の言葉たちは
人間の世界での活性を持っていて
人間ならば
その言葉から様々な体験を想像できるからだ。
 
そこが
それだけで完結してしまう聖書語と
深く人間世界と個人に想像が可能な人間の言葉の違いである。
神が前者だけを大事にされるとは思えないのである。
神は人間の能力と限界を既にご存知だからである。
 
聖書から言葉を受け取ったら
それを繰り返すのではなく
自分の心の言葉を生かしてゆきたい。
 
聖書語と言っても限りがあり
信仰者は既に多くの言葉だけは知っている。
 
人間のそして自分の言葉は
地上を去る時まで成長可能である。
 
神に救われた人間の存在と
その切実な思いを伝えるために
聖書はいつも用意されている。
 
既に人の過ちが歴史と現実に溢れている世界を
既にご存知の聖三位は人間に
ご自身と同志の実行者になることを望んでおられるだろうか。
 
今に至るまで救われた人々は
神に対して
正直な良心の告白以上のものを持ち得ただろうか。
 
 
神様は
人間の正義よりも
人間の精いっぱいをよくよくご覧になります。
人間が完全ではないことをご存知だからです。
 
 
(2018年06月29日、同日一部修正)
 
辛い(つらい)
溢れる(あふれる)
 
 
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  人間としての考察
 
 
聖書は神の言葉だとして、解釈せずに文字通り受け取ろうとする向きがあるようです。しかし、文字通り受け取ることも解釈なのです。
 
聖書には、文字通り受け取ると、一見、逆の意味を表すような記述があります。
 
「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、」
 
「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。」
 
という二つです。ヨハネによる福音書の聖句で、下のほうに少し長めに引用していますが、前者は著者の記述、後者はキリストの言葉です。
 
文字通り受け取ったら、分からなくなりそうですが、実際は、それほど難しくはない箇所です。聖書において、文脈、状況、などから、何を言いたいのか、といったところを考えてみると、分かりやすいでしょう。すなわち、聖書についての解釈と考察は、必須だということです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
3:16
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
3:17
神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
3:18
彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。
 (ヨハネ書3:16-18、新約聖書)
 
先ず、キリストが遣わされたのは、救うためだという意味のことが書いてあり、そして、裁くためではないことは信じることに、裁かれるのは信じないことに対応し、信じないことは、既に裁かれている、と言っています。
 
これを、信じる者は救われることの裏返しとしての脅迫と受け取らないでください。
 
私の考えとしては、信じない者は、自分で決めて、人を裁き、その結果、人に決められて、自分が裁かれるという必然がある、と言っているのだろうと受け取っています。まさに、世の中、そのような裁き合いに終始しているところがあるからです。これも、解釈の一例です。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
9:39
そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。
9:40
そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲なのでしょうか」。
9:41
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
 (ヨハネ書9:39-41、新約聖書)
 
ここも文脈を考えてみると、裁くということが、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるため、と書いてあり、そして、41節には、見えないということに盲人を対応させ、『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある、と書いてあります。
 
私の考えとして、この見えるということには、パリサイ人たちが旧約聖書の言葉から戒律を絶対として、それで十分わかる、すなわち、見える、知っている、と決めつけて言い張っている、ということを指しているのだろうと思います。
 
盲人の喩えに加えて、よく知られている喩えを挙げておきます。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:12
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
9:13
『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
 (マタイ9:12-13、新約聖書)
 
つまり、「さばくためではなく」と、「さばくために」という、ヨハネ書の二つの聖句は、いずれも、見えると言い張ることが出来ない罪人のための救いのメッセージなのです。
 
さらに関連聖句を二つ引用して結びといたします。説明は必要ないと思います。
 
 (ホセア書、口語訳)6:6
わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。
燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
 (ホセア6:6、旧約聖書)
 
 (詩篇、口語訳)51:17
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。
 (詩篇51:17、旧約聖書)
 
 
(2018年06月28日、同日一部修正)
 
喩え(たとえ、譬え)
辿る(たどる)
燔祭(はんさい)≒ 焼き尽くされる生贄(いけにえ)を捧げること
 
 
6月22日には、さすがに気力も失せた感じで
もう書けないだろうと思っていましたが、
コメントによって触発されるところもあり助けを得て、
似たようなことを書いているとは思いながら、
昨日、ようやく7月1日までの
下書きのようなものを書くところまで辿り着きました。
 
記事を読んでくださった皆様に感謝いたします。
 
 
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  生まれ変わりについて
    ゲストブック 20180626より
 
 
こんにちは✨戸田様🌠
(生まれ変わり)について
12使徒の場合、十字架刑に処せられるイエス様から呪ってまで裏切り逃げていた彼等が
復活の後、5旬祭の時に聖霊を受けるとぺテロは力強く説教を初め、他の弟子達も殉教に至るまで勢力的に
福音を述べ伝えました。
 
閉じる コメント(8)[NEW]
 
又、パウロはクリスチャンを激しく迫害する者であったのに、ダマスコで天から光りに照らされ回心して洗礼を受けると180゜転換して福音を伝える者になりました。
 聖霊を受けた時に方向が変わっている事が分かります。
 
2018/6/26(火) 午後 3:10 [ sesilia ]
 
又、パウロは聖霊を受けた後でもローマ書7章8章で、自分に内在する罪の問題と
私達の内に宿って下さる神の霊(聖霊)の導きとの間で葛藤する自分の事を説明しています。
 私達も、自分の罪(生まれながらの自分の判断、神から与えられている良心は除外する)
と、神の導き、掟の間で葛藤します。
 
2018/6/26(火) 午後 3:20 [ sesilia ]
 
私は、罪を人間が考える悪いものとするよりも、神から見て的外れなものと
考えています。
その罪は、最初の人アダムとエヴァがエデンの園で神と共に生きていた時に、神から禁じ
 られていた善悪を知る木から悪魔に騙されて実を取って食べた時に人間に入ったと理解
しています。
 
2018/6/26(火) 午後 3:28 [ sesilia ]
 
戸田様🌠
いつも私のブログにご訪問とナイスを頂き本当にありがとうございます。
 感謝致します🍀🌠🌠
 
2018/6/26(火) 午後 3:31 [ sesilia ]
 
 
コメントありがとうございます。
 私としては、聖霊を、安らかにしてくれる良きもの以上に人間は決めつけてはいけないと思っていて、創世記とかの悪魔の話もかなり象徴的に書かれているので、人間が実感できることから信仰を語っていこうと努めて書いてきたつもりです。
 教理や聖書解釈としてはおっしゃっていることは正しいと思いますが、人間を超える存在や話については、人間の良心によって共感できる範囲を感じ取り考えてゆくつもりです。
 
2018/6/26(火) 午後 4:00 st5402jp
 
何度も聞きそして読んだところの教理や信条といったものは、聖書解釈の要旨として認めるものの、それらの言葉を唱えることで感動することはあまりなく、むしろ繰り返すことで感動からは遠ざかってゆくのを感じます。ですから、キリストについても、十字架の贖いという教理よりも、キリストの優れた洞察力や人間に対する共感性、という、人間にも理解できることを大事にする立場から考えていきたいと思っています。
 
2018/6/26(火) 午後 4:11 st5402jp
 
ですから、生まれ変わりについても、聖書と教理の復活という言葉からは、地上の人間は経験していない超常の話として、人間としては、信仰の始まりに生き方や考え方が180度変わったことのほうを強調しています。超常の聖三位のなさることは、人間が見倣えるものではありませんから、それを受けるときや受けた後の人間に注目するという立場を今のところ取っています。
 
2018/6/26(火) 午後 4:19 st5402jp
 
このコメント欄のことを記事にしたいと思います。
 HNを出さないほうがよろしければ、その旨コメントくださいませ。
 
 考えるきっかけになりました。感謝いたします。
 
2018/6/26(火) 午後 4:22 st5402jp
 
 
ハレルヤ🌠感謝致します🍀
ハンドルネーム出して頂いて結構です🌠🌠
宜しくお願い致します🍀
記事にして頂くのですか?
ドキドキします(>_<)✨🌠✨🌠✨
 
2018/6/26(火) 午後 4:50 [ sesilia ]
 
 
(2018年06月27日)
 
 
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  同一性と良心
 
 
私は信仰について
できるかぎり神と人との違いを明確にすることを考えて
その区別については厳しい書き方をしてきたと思う。
 
勘違いしないで欲しいのは
人間が悪いばかりの汚れた者で
信仰によって
全然違う者に生まれ変わるべきだと言っているわけではない。
 
むしろ生まれ変わるという言い方は
かなり魔術的になる可能性を警戒するべきである。
 
もちろん信仰によって
これから罪がなくなるという意味でもない。
 
私たちは全然違う者に生まれ変わるのではない。
 
私たちには
罪を犯しても信仰を知らなかった過去の自分と
罪を犯したら祈る今の自分とが
同一だという意識があるからだ。
 
その同一性がなくなったら病気に向かう
と言ってよいからだ。
 
生まれ変わるとは別の人になることではなく
個人の生き方が革命的に変わるということ。
今まで知らなかった道を与えられたという意味である。
 
  ウィキペディアより
  「革命」の語源は、天命が改まるという意味である
  (「命(天命)を革(あらた)める」)。
  
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%A9%E5%91%BD
 
私たちが罪人であることを自覚しなかった頃にも
魔術的な超常の奇跡としてではなく
神が与えられた恵みとして
私たちには良心があり
良心によって信仰を求めるに至ったのである。
 
私たちの過去は
悪と罪だらけではなく苦難だらけでもなく
少なくとも信仰に至る良心は与えられていた
という恵みを覚えてほしい。
 
私たちは信仰を得て初めて神を仰ぐけれど
神は既にご存知であると
私が神の全知について
しばしば言ってきたのはこのためである。
 
神の全知なることを知って
いっぺんに人生が幸福になるわけではないけれど
信仰者も求道者も
恵みから漏れることはないことを
一番知っているのは今信仰を持っている私たちである。
 
 
(2018年06月26日)
 
 
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