ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年06月

 
  憶えざる
 
 
みな地球に住み
生まれて懸命に生きて
いつか死ぬ
というような言葉がある
 
見せかけだけの美辞麗句とは違って
一定の共感が可能だが
個別の日常においては忘れやすい言葉なのだろう
 
儚いが切ない命の共感
しかし一般的すぎる
 
また
誰もが同意するか共感できて
しみじみとした気分になって
同意する数々の多くは逆説的な名言
 
しかし
その時と所から離れると
目の前に次々に現れる人とものに出会って
 
様々なものごとを扱う煩わしさから
ずるい処世や
卑しい反応をしてしまう
 
いかにも悪に見える罪だけでなく
聖書が説く罪はそこにある
 
それが最も切実な
誰もが避けようのない罪なのだ
 
そしてその罪は
目に見える悪に膨張する可能性を
密かに、しかし、常に持っている
 
日常の小さいことだからと無意識になり
自覚できず気づくこともない罪
 
無意識は
自分の正しさを宛がって正当化しているのか
いちいち気づいていたら生きられないから
気にしないでいるのか
 
あるときの、ちょっとした邪気で
むっとすること
小さい罪の連なりに生きていて
罪に気づかなくても
自分を罪人と認めるなら祈りにつながるだろう
 
憶えざる罪の赦しとは
自覚しないであろう罪の許し
という一般論ではない
 
憶えざる罪の赦しの祈りとは
気づいている罪の赦しと同様
正当化もせず隠しもせず
憶えざる罪をも犯しているところの
罪人である自分を
人格全体そっくりそのまま神に捧げることである
 
細かく言えば
罪自体に人格はないのだから
大事なのは罪が残るとか無くなるとかではない
 
もちろん罪の許しの予約でもない
 
罪は人が犯すもので
人が気づかない罪が多いから
 
本質的にそうならざるを得ないところの
罪を犯した人間そのものへの
その時その時の赦しである
 
人間を赦すのだから
理屈や戒律に基づくのではなく
愛によらなければ成り立たないのである
 
 
(2018年06月26日、同日一部修正)
 
煩わしい(わずらわしい)
憶えざる(おぼえざる)
儚い(はかない)
 
ここでは
赦し≒赦免(犯した罪を罰しない)
許し≒許可(前もって罪なしとする)
の意味で使っています。
 
 
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  10/10の痛み
 
 
私は、今までの64年の人生で
最大と思える痛みを二度味わっている。
二度とも歯科においてだった。
 
一度目は学生のとき
歯科で抜歯をするのに
私が心臓に欠陥があると告げると
紹介状を書いて検査するように言われ
内科に行って検査して
内科が歯科にどう返事したかは知らないが
自覚症状もなかったし
特に何かの処置がいけないとは言われなかった。
 
そして歯科で局所麻酔を受けたのだが、
口の中、何にも麻痺してない。
プラセボ(偽薬)であるとすぐ分かった。
医学生にプラセボ使うかな・・。
 
どこまで我慢できるだろうと思った。
私の歯は脆くて
ペンチのような器具で挟んで抜こうとしても
すぐ砕けてしまう。
それで歯茎がより広く見えるようにか
メスで歯肉を切った。
もちろん麻酔は偽りなので
ジョリッという感じが直に分かった。
でもそれは最大の痛みではない。
少し痛くて気持ち悪いだけだった。
 
それでも挟んで抜けないので
今度は何か叩く道具があるらしい。
それで歯茎を横から、カーンと叩くと
激痛が走り
呼吸が止まった。
正確に言うと反射的に吸気が強く抑制された。
悪いことに
カーンは繰り返された。
そのたびに吸気が止まる、息が吸えない、
つまり呼吸できないのである。
 
だんだん目の前がチラチラしてきて
吐き気がして
気が遠くなりそうだったので
緑の布の下から手を動かして
しばらく休憩してもらった。
 
そのあと処置を再開して間もなく抜歯できたけど
そのときの痛みは忘れない。
 
呼吸ができなくなる
→ 続けば意識を失う必然
これが10のうち10の痛みだと思っている。
気を失ったほうが楽なのだ。
 
 
それから40年余の後、
二度目も歯科である。
またしても抜歯である。
今回は局麻も効いて無痛のうちに無事に済んだ。
歯肉がいびつな格好だったので一針縫合した。
 
家に帰って夕食
痛い歯は抜いたと安心して噛もうとしたら
ビーン、と激痛が走った。
その瞬間ストップモーションのように体の動きと呼吸が止まる。
片方の目だけから反射的に涙が出る。
あの時と同じ痛みだ。
 
ビーンが治まるまでは息が出来ない。
何か食べると、またビーン、ということで
ろくに物が食えず流動物などを飲んで
二週間ほぼ寝込んでいた。
 
受診予定日は一週間後だが
体力も気力もなく弱っていて
行く気にならない。
電話もない。
縫合の糸を残したまま放置か。
見切りをつけてこちらも放置。
 
二週間後
ついに自棄気味になり
鏡を見ながら
爪楊枝で縫合糸を引っ掛け
裁縫用の糸きり鋏で切ろうとしたら
糸は円い輪のままプツッと取れた。
血が流れ出る。
そのとき痛みが7~8から1に減った。
 
縫合の糸が神経に触っていたのである。
 
 
二度目のときは
早く歯科を受診するべきである。
なんとなく行きたくなかったのは、
愛想もなく説明も乏しくて、
虫歯だらけの年寄りを扱うのが嫌なのだろうか
などと思っていたから。
 
 
一度目の痛みの後は
最大の痛み=呼吸が止まる痛み
と思っているので
注射とか打撲とかなんてことないし、
バイクで朝の防波堤に衝突して
骨折して立てなくて意識も失って
救急車で運ばれて病院で目覚めたときも
これは最大の痛みではないと思った。
 
 
(2018年06月23日、同日一部修正)
 
脆い(もろい)
直に(じかに)
自棄(やけ)
爪楊枝(つまようじ)
鋏(はさみ)
 
 
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  わたし
 
 
私は
亡き叔母と
今も長い入院生活の兄が統合失調症なので
また兄が狂ってゆくのを目の前で見てきたので
(その当時は「狂った」と思っていました)
 
兄のためにではなく
私の疾病恐怖のために
精神科医のみならず医者としても
一般常識的な適性は全くありませんでしたが
精神科の医者を目指すためだけに医学部に進みました。
 
人前でろくに物も言えない私には
無謀なことでしたが
私自身も発病するならその前に
精神科の医者の臭いを嗅いでおくんだ
という
統合失調症古くは精神分裂病を目の敵として
睨みつける視線のみが懐深くありました。
それしかありませんでした。
 
私の対人緊張の強い性格に対して
精神科医として不適の烙印を押した人も
少なくとも二人いましたが、ほぼ正解です。
高校のときからそれは分かっていました。
 
なんとか医者の資格を得ても
結局、不眠症と鬱になって
12年間お世話になった病院を辞めてしまいました。
多くの迷惑を病院にかけてしまいました。
 
正常人の中に入って
精神病院の医者として生きるという人生は
不適応傾向の私には困難でしたけれど
まことに身勝手で申し訳ないが
後悔はしていません。
それで気が済んだということです。
 
私は
希死念慮を慢性的にいだきながら
洗礼後今に至るまで46年を支えてくださった神様に感謝して
仕事を辞めたのち
ちょうどネットの時代が来たので
ホームページに、メーリングリストに、
そしてこのブログに
あくまで私の信仰と神への思いとして
信仰についての記事を書いてきました。
 
私は
小学校一年で患ったリウマチ熱のために
大動脈弁逆流(AR)という弁膜症で
最近は心臓の予備力の低下を痛感しています。
 
そういうことがあるので
生涯独身で未経験のまま死ぬ
ということにも諦めのような納得をしています。
 
さらに免疫が低下したのでしょうか
帯状疱疹を患い
しかも後遺症としての神経痛なのか
2年以上経っても顔面痛が治らず
毎日鎮痛剤を服用してごまかしています。
 
外にも殆ど出ることなく
認知症で介護施設にいる母の家
つまり実家の諫早のマンションの4階に住んで
実家をゴミ屋敷に変えてゆくような暮らしです。
 
ブログ巡りとブログを書くことが唯一の楽しみであり
季節を液晶の中の画像で味わうという不自然さで
体力の衰えと痛みのために
 
 気は済みましたから
 御心でしたら
 痛みと痒みと苦しみを取り去ってください。
 そして眠るように意識を失わせ
 御許へ逝かせてください。
 
という祈りを毎日のようにしています。
(ひどいですね)
 
今後ブログを書けるかどうか分かりません。
今までは下書きを毎日のように書いて
何日分かは投稿予定分がまだあるという状況でしたが、
この記事で、それもありません。
成り行きは神がお決めになることですから分かりませんが
そろそろ・・という思いもあって
今さらのように私事を書いております。
 
たいへんお世話になりました。
ここ半年ほどでしょうか、
こちらからのアクセスも増やして、
アクセスしてくださる方も増えました。
感謝いたします。拝。
 
ハレルヤ。
 
 
(2018年06月22日、同日一部修正)
(2018年07月16日、色を濃くした)
 
睨む(にらむ)
懐(ふところ)
烙印(らくいん)
痒み(かゆみ)
諦め(あきらめ)
御許(みもと)
 
 
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  なぜ
 
 
神と対話して
聖霊と相談して
主から目をそらさずに
キリストの道を踏み外さないように
など・・実際できると思うのでしょうか。
 
あちこちで聞くのですが
理想を事実のように語ることで
キリスト者の間でだけ
話の結びなどに使われる言葉を
聖書語と呼んできました。
 
なんなんでしょう
この言葉
 
それが出来たら苦労はないよ
という類の言葉です。
 
初めて聞く人は
霊能者になるのがキリスト教
と思ってしまうのでは?とか考えないのでしょうか。
 
目に見えるんですか。
耳に聞こえるんですか。
だったらその人は
もう人間ではないと思います。
人間である必要もないから言っているのでしょう。
でも見えるまたは聞こえる相手は
ひょっとしたら悪魔か病魔かもしれません。
 
空耳かも聴覚妄想かも幻聴かもしれないわけです。
相手は神だという決定を人が下していいのですか。
神が教えてくれると言うなら
そう教える相手が神だとどうして分かるのですか。
 
神かどうか分からない
というくらいの
神に対する謙譲を表すべきでしょう。
それが敬虔です。
 
目に見えず耳に聞こえず
心に感じているだけなら
それが神かどうか分からないはずです。
神かどうかを決めるほどの能力さえないから
人には救いが必要なのです。
 
人間関係においてさえ
しばしば間違いを犯すほど罪深いのに
どうして神の前に間違いがないようなことを言うのでしょう。
 
本当に正しいかどうか
神の御心であるかどうか分からない
というくらいの
神に対する謙譲を表すべきでしょう。
それが敬虔です。
 
私たちにできるのは判断と実行です。
正しさは神のものです。
信仰の正しさも神のものです。
 
啓示と聖霊を根拠に
議論の対象にならないと言い逃れて
訂正不能に自己を正当化して
他者を長年にわたって騙してきた者を知っています。
 
罪人の自覚をもって
日々正直に祈り
気になっていることを告白し
赦しと癒しと導きを願う
以外のことがあるのでしょうか
 
聖三位に従順であるような言葉を言えばよい
という安易さがあるなら
そこで見逃されるのは
人間離れのほうに言葉を及ばせて
出来もしないことを言って
努力しようと辻褄を合わせている自分の姿でしょう。
 
 人間というものをよく見ている感じの
 哲学系やスピリチュアル系の人のほうが
 よほどマシなことを言っていると感じることがあります。
 それらの人々は人一倍
 人間に興味と関心があるからでしょう。
  
  ちなみに
  スピリチュアルと言われる人の中にも
  見るたび予言や超常ばかり語る人と
  人間の気持ちを汲み取る姿勢を持っている人と
  二通りあるような気がします。
 
ということで?最初に戻って
 
預言者のようには
神と対話するわけでもなく
聖霊と相談したりする超能力もなく
主から目をそらしてばかりで
キリストの道を踏み外してばかりいる自分を
なぜ
主の前に晒そうとしないのでしょう。
主の前に隠そうとするのでしょう。
 
なぜ
人間の側の不実と不全の本質を掘り下げずに
良いことばかりに注目して
救われるためにはどうすればよいとか
未信仰者の救いを語ろうとするのでしょう。
 
なぜ
悪いことや悪い人を対象化してしまうのでしょう。
考えるべき対象は他でもなく罪深い自分です。
 
なぜ
信仰の幸福と美徳の話を語って
言うに事欠いて聖三位に従う努力目標を語って
信仰においてさえ辻褄を合わせようとするのでしょう。
 
なぜ
救いが必要な理由と根拠であるところの
自分の不信仰と不従順を隠すのでしょう。
なぜ
不信仰ゆえに導きと救いが必要な自分の有り様を
正直さを忘れて隠そうとするのでしょう。
 
私たちは信仰によっても
悪を自分の外に対象化できるほど善なる人とはなっていません。
私たちは道を与えられたのであって
歩んでいる道の途中なのです。
 
福音伝道は救いを教えることではありません。
私たちは救いを教えるほど立派な信仰を持ってはいません。
福音伝道は信仰による共感を伝えることです。
 
信仰は罪をなくすことではありません。
私たちは無罪を教えるほど立派な信仰を持ってはいません。
信仰は罪ある者のための救いです。
 
人間の不全の自覚においてこそ
神に捧げるべき多くの人間の言葉が
人間に理解可能な多くの大切な言葉があるのです。
 
 
(2018年06月21日)
 
類(たぐい)
騙す(だます)
 
 
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(修正あり)
 
  
  鱗(うろこ)
 
 
あなたの目には鱗が付いているし
わたしの目には鱗が付いている
と考えるべきでしょう。
 
 (使徒行伝、口語訳)9:18
するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、
 (使徒9:18、新約聖書)
 
私たちの場合は
パウロのように
いっぺんに鱗が取れたりはしていない
ような気がしてなりません。
 
あなたの言うことは不十分です。
わたしの言うことは不十分です。
 
どうすればよいのか。
 
互いの良いところを褒め合うよりも
互いの意見を出し合って
互いの鱗を見せ合うことが必要ではないのか。
 
信仰は人それぞれと言って
説明もしないで、
うわべだけ、皆、善しとしながら
人の意見を聞かず
うわべだけ、善と見せかけるために
日々せっせとコメントを削除していた偽善者もいます。
 
人間は
良いことを並べてもなかなかピンとこない。
むしろ
悪いところや欠けているところを
明らかにするほうが真実に近づきやすい。
 
善を明らかにして
勧めるよりも
人間は
悪を明らかにして
避けるほうが
まだ容易いだろうと思います。
 
人間は
善の因果を極めることは出来ません。
何故なら
それを極めているのは神の領域であり
人自らのうちに善は乏しいからです。
 
むしろ
悪の因果のほうが実に身近に
自分の内にも外にも豊富にあるからです。
 
罪に塗れている人間は
むしろ悪の因果を追究して
白日の下にさらして
戒めとするほうが向いているのです。
 
それをしばしば忘れているのが人間です。
 
あなたの見るところは不十分です。
わたしの見るところは不十分です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)7:3
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
 (マタイ7:3、新約聖書)
 
私たちに必要なのは
善なる恵みの共感ではなく
罪なる不全の共感だと思います。
 
念のために申し上げますが
憐れまれるために罪を犯せとか
罪人になれとかいう意味ではありません。
 
やはり自分は罪人だと思ったことがあるなら
それこそが人間の原罪の気づきであることを知ってほしいのです。
 
地上では完全に清められることのない罪の自覚
 
それゆえに私たちをキリストは憐れまれるのです。
 
それゆえに私たちはキリストを必要とするのです。
それゆえに私たちはキリストを慕い続けるのです。
 
 
(2018年06月20日、同日一部修正)
 
塗れる(まみれる)
容易い(たやすい)
梁(はり)
 
 
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