ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年07月

 
  MgM批判:批判ストーカー?
 
   追記あり、批判ストーカーされてます。
   
https://blogs.yahoo.co.jp/magtaranomaria/43071811.html
    by Mary Magdalene (以後、MgM)
    Yhoshuah (以後、ヨシュア氏)が書いた可能性あり
    というより、二人は同一人物である可能性が高い
    と今回の記事を見て思います。
 
 
一応、MgMの記事として見てゆきます。
記事のあとのほうに次のように書いています。
 

私が、畏れ従うのは、
イエス様の父さまである天地創造の神様と、イエス様のみ、。
栄光と誉は、すべて、、
天の父さまへ、、そして、我主イエス様へお返し致します。
私は、取るに足らぬ者、。
そんな私を、選ばれた父なる神様、、、、。

 
ここは、だいたいにおいて、キリスト者が書いて可笑しくない文章です。
しかし、記事の大方は、罵詈雑言と言ってよいでしょう。
 
私が強調したいところは「 」で囲んでいます
 

そのくせ、「持論を受け入れて、正しいとしろ」って言われても、、
批判的行為したり、話もまともにきかない人相手に、
はいそうですか、、という人はいません、。

 
こういう言い方はしていません。
コメントを入れたのは、対立意見を対峙させるためです。
 

人間は、、人間が、、、こうあるべき、。
信仰の自分勝手はない、という批判コメントには、、呆れました、。

 
なぜ呆れるのでしょう。信仰に自分勝手はあってはいけないのです。
 

聖句の論は、聖句によって、論証と論拠を明確にするべきで、
自分がこう思うから、こう、、という論が、まかり通ってしまったら
神学もなにもありません、。

 
聖句の言葉の辻褄合わせだけによって理解したつもりになって、
一番の問題は、それを絶対化し訂正不能にしていることです。
だから、異なる意見を全く寄せ付けません。
 

すべて、ただの独りよがりの論です。
感情論でしかなく、聖書に背く内容なので、
到底、受け入れる気にはなりませんし。

 
私が言いたいことです。感情的になっているのはどちらでしょう
 

それで、批判的なコメントを入れないように、と
私が何度も言ってるにもかかわらず、、、
批判を続けるぞ、と暗に脅す態度ばかり、、、。」

 
こういう言い方もしていません。
 

やってる行動、「ストーカーと同じ」なんですけど、。
はぁ、。(大きなため息、。)「すごく面倒くさい、タイプ」、。
普通、来ないで下さいとか、
コメント入れないで下さいと言われたら、
行くのも、コメントも入れるの、やめますよね、。

 
ストーカーという言葉が、なぜ当てはまるのか、分かりません。
 
やめろと言われたら、批判をやめるのが普通と思っているようですが、
問題が大きければ、やめるわけにはいきません。
多くの批判において、そうです。
 

第一、、もともと、良識あるクリスチャンは、
おいこら、、自分の言うこと聞かなきゃ、批判し続けるぞ」、と
暗に脅すような思考も行動もしないし、、

 
こういう言い方もしていません。
 

普通は、、自分のサイトで、
自分の信仰体験や気づいたことを、
ちまちま書いてるだけ」でしょ?
私もそうです、。

 
真実を追求する者が、ちまちまと書くでしょうか。
 

ふざけんなよ、記事で晒すぞ、、
お前が、持論を取り下げるまで、
このまま批判し続けるからな
。」的な
ニュアンスの思考から出た批判コメントをされて、

 
このニュアンスの表現は、度を越しています。
 
悪口と違う批判においては、こういう書き方はしません
 

言葉は、ここでは、やや普通ですけど、要求内容は、
上の思考が元なので、同じことを何度も何度も言ってきて、
実に、し・つ・こ・い・です、。
まるで、「餌に食らいついたスッポン」みたいですよ、。

 
ここまで見てきて、文章が
ヨシュア氏のブログでコメントの遣り取りをしていたときと
極めて似ていると思いました

 

御自分が、私の上に立って、
あれこれ指図し出来たなら、手のひら返して、、
批判はやめて、黙るかおだてるか、するのでしょうけど、。

 
そんなこと、考えもしません。
 

こちらの話、完全無視で、持論の押しつけし続けるのと
「批判され続けるのが嫌なら、自分の軍門に降るように」と、いう
ストーカー的な手口で、

 
こういう書き方はしません。
 

クリスチャンの中で、柔順で、心弱くおとなしい人を
「ノイローゼにしてきた」わけで、、仕方ないので、、、
生きてる人の判定も仰ぐべき、と思いまして、、
公開記事を書くことにしました。

 
私が批判してきたヨシュア氏は心弱くおとなしい人ではありません
私の個人情報までネタにして、元気に、侮辱してきます。
 

私には霊的な護りがあります、。
過去に、まだ、ここを父様のご指示で開設した初期の頃の話ですが、
霊能者と言ってきた方が、ゲストへの内緒コメで、
そのような醜いなりで、マグダラのマリアの名前を名乗るとは笑止千万!と
言って、なにやら霊力勝負をしかけてきてたらしくて、
高熱が出るから、これに懲りて反省するよう言い捨てて言ったのですけどね、。
微熱さえも出ませんでした、。
ひっくり返ったのは、あちら様だったのでしょうね、。
後から、ゲストの内緒コメント削除していかれましたから、。
・・・
悪意のある批判を、続けると返り念現象で、
本人の悪念によって悪い報いが発動する危険性を感じましたから、

 
この辺が、カルトくさいと思っています。
 

見えない世界は、正直です、。
悪い行いには悪い報いが良い行いには良い報いがあります。
彼は、知らないのでしょう、。

 
ここも、あまりキリスト教的ではありません。
 

バレなきゃ、いい、警察に捕まらなきゃ、たいしたことない、。
警察に捕まるだけが罪じゃないのですよね、。
いわれの無いことで、
人を貶めたり、押し付けたり、苦しめたら、天法違反となって、
罪が蓄積していきます。

 
誰がこんなことを考えるのでしょう。
 

嫌だと言ってるのに、、異常なしつこさ、。
これでまともな行動だと思ってるから、ほぼ、精神病ですね。
心を深く病んでるのでしょう、。

 
ヨシュア氏も、私を侮辱するために精神病扱いしました。
 

人を思いやることが、全然、出来ないんだから、。
持論の押しつけ、自己都合の理屈オンパレード、。

 
それは、どちらでしょうね・・。
 

くだらない義人きどり」して、
クリスチャンに、批判コメしてる人には、
イエス様は必要ないのでしょうね、。

 
この乱暴さ、極端な書き方、ヨシュア氏にそっくりです。
 

父上さま、、お聞きになりましたか、。
命を捧げるそうですよ、。
笑っちゃいますね、。
そんな覚悟、これっぽっちもないのに、。

 
神様は、こんなことで笑わないと思います。
ヨシュア氏なら、笑うでしょう。
記事とコメントで、彼は、今まで
「ハハ」、「フフツ」、「ふふ」、と3回笑いを入れました。
 

自分の「薄汚なさ」さえ認めれずに、自己の正当化のため、
同意者、賛同者をかき集めようと、、
夜中の1時に、良いお年のお年寄りが、、
あちこちを必死になって「徘徊」して歩く。
一匹狼で強く生きれぬ弱き者、。
綺麗事しか言えない「が」、何を言う、、、。

 
ひどいものです。
 

ほんとに神様を愛してたら、
神様が、とても愛してるイエス様を信じ、、愛している
クリスチャンの兄姉を追い詰めるような、お馬鹿な真似はしないのよ、。
それは、、神様の御心に背くことだもの、。

 
ここで、女性言葉になっています。
 

異なる意見だから、受け入れないのではなく、
聖書に反してるから、受け入れれないのです、と
腐るくらいにレスしても、まだ、これ、、、。

 
腐るくらいのレスとは・・。
 
自分の解釈を絶対化しています。
 

受け入れないとレスしても、「なんで受け入れないんだ」、、と
言い張る言葉が、堂々巡り、、。

 
このような言い方、私はしません。
 
悪を排除する思考は、自らの中の悪しき部分を認めないこと、。
 
違います
キリスト信仰は、まず自分の悪つまり罪を認めることから始まります
 

悪しき者も、神様に砕かれ清められ、救われて、
すべてが、真の完全完成に至る、。

 
地上では、罪を犯し、祈り、そのたび、赦されて生かされてゆきます
 

もっと、大きな器になって、思いやりを身に着けて、
身勝手な批判もやめて、聖書に背く持論でなくなれば、、、
容認くらいしても、良いのだけどね、、。

 
どういう容認なのでしょう。気味が悪いです。
 

アブラハムの記事のコメント欄で書いた、、
クリスチャンだと言うなら
御自分の受洗年月日と、洗礼を受けた所属教会名と牧師の上の名だけで良いので書いて下さいな。の私の問いの部分は、、

 
答える必要があるのでしょうか。
 
もう昔のことですが、ここは、私の記事なので、書いておきます。
1972年、高校3年のとき、長崎県の
日本基督教団、佐世保教会にて洗礼を受けました。クリスマス頃だったかもしれません。
集団が苦手なので、教会には、20代半ばで、行かなくなりましたが。
 

綺麗にスルーされてましたので、彼は自称クリスチャンなのですね。
クリスチャンサイトを潰すために回ってる、。

 
嘘です
 
 
以上、読んで、キリスト教ではなく、やはり、カルトだと思います。
かなり、悪意のある記事です。
 
 
(2018年07月31日、同日一部修正)
(2018年08月02日、一部修正)
 
 
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  キリスト教と偽るカルト
 
   マグダラのマリアの部屋(Mary Magdalene)
   アブラハム、イサクをささげる時、。by Mary Magdalene
   
https://blogs.yahoo.co.jp/magtaranomaria/43057336.html
    のコメント欄
 
 
キリスト教と偽るカルト。心霊現象を語り、賛同意見以外は認めないサイトです。
 
>ここは私のサイトです。
> 言わば私のお家です。
> 人の家に批判という名の土足で上がり込むのはマナー違反です。
 
違います。あなたは、サーバーのサービスを利用しているだけです。
サーバーがいちいち管理できないから、管理人になっているだけです。
脅迫などという横暴な真似をしてはいけません。
 
>聖句の提示もなく、神様をないがしろにする論を受け入れるよう強要し、
> 記事内容を変えるよう批判コメントをして来られたのは、あなたが先です。
 
記事を変えるように言った覚えはありません。
あなたの言い張りに意見を対峙させているだけです。
 
>あなたをクリスチャンの兄弟だと思わないことにしましたので。
 
あなたは、スピリチュアル系のカルト教祖ということになります。
 
>ここを批判したあと、
> 歩けなくなったり、転んだり、物損事故を起こしたり、
>高熱が出たりというようなことは、御本人が削除されたサイトでつぶやいておいででした。
 
そろそろ死んでゆこうかという老人に何をおっしゃっているのでしょう。
 
> 2年程、クリスチャンを棄教するよう批判されましたが、。
> 最終的にここに来て何かするたび熱が出たりするようになったらしく、
> 批判に来るのは止めて下さいました。
 
カルトであることの証明です。オカルトかもしれません。
 
だから賛同意見以外、排他的になるのです。
 
そして、また脅しています。
 
>このように過去に色々ありまして、私は悪意の念から事実、
>護られていますので嘘偽りでは無いのですよ。
 
いつまでも守られているとは思うべきではありません。
横暴な人を、神が好むことはありません。
 

今まであなたをクリスチャンの兄弟と思い、お相手もしてお返事しておりましたが、あなたがクリスチャンのサイトをここが変だと批判して回って、あなたの軍門に下らない場合は、ストーカー行為でノイローゼになるくらい攻撃批判していた事を他のクリスチャンの記事から知ったのでね。

 
軍配に下るように言った覚えはありません。
対立意見を述べただけです。批判と併せて読むべきサイトです。
 
ヨシュア氏は、強がったまま、元気に、私を侮辱し続けています。
 

 私は19歳で受洗しましたが17の半ばで求道しましたので、足掛け35年ほどクリスチャンをしてますが、聖書を読み始めたのは12歳頃からです。あなたの信仰と同じ期間、聖書を読んでいます。
 私が理解できてる基礎的な内容をあなたが分からないのは、あなたが教会に通って牧師から教理を学んで居ないからです。

 
牧師が、必ずしも正しいとは限りません。
 

あなたは他のクリスチャンの兄弟の信仰の友のことまで知らない、配慮しない、と、他のクリスチャンに言ってましたから、

 
他の人の都合を持ち出して、私を悪者にしようとしているだけです。
信仰の友がいるなら、配慮するのは、ヨシュア氏の仕事です。
 

もともと教会には興味もなく行かず、独学で聞きかじった程度の聖書の知識では聖書の聖句の議論が出来ないから、人間至上主義思考で思考して、

 
決めつけです。
 

アブラハムは義人ではないとしておくのが謙遜で人間的だと言ってました。
でもね、それは神様が清めたものに清くないといい、正しいとしたものに正しくないとする、
 反聖書、反キリスト思考となるので、神様が大好きな私の思考とは相容れません。
 立ち去って御自分の場所で持論展開されて下さいね。

 
前にも聞いた話です。硬直した教条主義です。私の意見も既に書きました。
神の義と人に対する信仰義認の違いを全く理解していません。
 

 交わることを目的とせず批判目的の方のお相手するのは嫌なので来ても良いけど批判的コメントは、もうしないで下さいね。

 
私の記事にて、ヨシュア氏を含めて、批判を続けます。
 
>ここの管理人としてあなたの批判目的のコメント禁止を正式に要求します。
 
正式も略式もなく、批判は自由なのです。
 
> 改善されない場合、
>ヤフーの方に名指しで誹謗中傷してるので
>誹謗中傷目的でブログを利用してます。注意して下さい。
>と通報します。
 
今回の脅迫について、私は既に、ヤフー関連サイトに報告しています。
 
 
(2018年07月31日)
 
 
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  呪いと脅迫
   
  
   因果応報
    
https://blogs.yahoo.co.jp/magtaranomaria/43070697.html
     と言っていますが・・
 
 

もろに脅迫されているようです。
 
>自分が悪意をもって、
>正当な理由もなく、個人的感情のまま
>人を批判し陥れたり脅したり、罵ったら、
 
批判は、悪意で行うことではなく、不正に対して指摘をすることです。
感情論ではありません。
 
>人に無慈悲であれば、神様も自分に無慈悲となり、
>脅し断罪すれば、自分が断罪され、、
>罵れば自分が罵られ、傷つけたら自分が傷つけられ、
>憎めば自分が憎まれ、蔑めば自分が蔑まれるでしょう、。
 
対立関係では言論において慈悲を施してはいけない場合があります。
 
>歯には歯、、目には目、命には命、傷には傷、
>基本的に、自分で罪を贖う場合、
>最低限で、等価での贖いが必要、。
 
そういう考えでしたか。
 
>自分の持論は、自分の場所でのみ、
>自由に言いたいように言えば良いです。
>ただし、自己責任においてですが、。
 
自説に逆らう者を呪う人もいるようです。
 
ロマ書
12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」
 
と書いてあるのに。
 
>そろそろ、8年間も言われないことで罵られ、
>苦しんだ人の苦しみ、悲しみが、、、
>だいぶ溜まりに溜まってると推測しますれば、、、
>猶予期間も残り僅かではないか、、と思われます、。
 
どのみち、私は、死んだも同然の身でありますが、
年寄りでもあり、遠からず、死んでゆく身でありますが、
いよいよ本当の死に時が来たようです。
それにしても、
今のキリスト教の世界は
めちゃくちゃになっていると痛感しました。
 
 
以下はコメント
 
st5402jpさん
一言、忠告をしておきます、。
 
 私に批判目的で、関わると、、、
 私は、この件に関しては執り成して祈りませんので、
 
 私の本意ではなくても、私を守るものによって、、
あなたが打たれる場合がございます、。
 
 早めに退いて、私に対し批判には来ない方が賢いです。
 以上、忠告を致しました。
 
マグダラのマリア
 
Mary Magdalene
2018/7/29(日) 午前 9:19
 
 
キリスト者が
他者を脅迫をすることはない。
 
マグダラのマリアというHNに惹かれて見てきたが、
 
聖書のマグダラのマリアは、
呪いをかけたりはしない。
脅迫したりもしない。
いかなる権威の立場によっても
威丈高に物を言ったりはしない。
 
神はいつまでも黙って見ているわけではない。
 
 
(2018年07月30日)
 
 
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  信仰を学ぶとは
 
 
超常の救いの筋書きを学んでも
信仰を学んだことにはならない。
 
超常の救いの筋書きに詳しくなっても
つまり教理の解釈に詳しくても
それは聖書の中で
一応知っておくことであって
信仰を語る上で
少しも進歩したことにはならない。
 
超常に心から感動することはない。
超常の話に心から救われることはない。
それだけでは起こりそうもない夢の話である。
それらは参考にする知識に過ぎない。
 
超常のことは
人間にはどうしようもないからである。
 
ましてや
聖書一途ですと言いながら
単方向と社交で
発信するだけになるのは空しい。
対立意見のないところでは
人間はそして信仰も成長しようがないからだ。
 
同様に
キリストの物や肉体の奇跡の話を
いくらつないでみたところで
信仰を学んだことにはならない。
 
奇跡に心から感動することはない。
奇跡の話に心から救われることはない。
それだけでは起こりそうもない夢の話である。
それらは参考にする知識に過ぎない。
 
物や肉体の奇跡はめったに起こるものではない。
滅多に起こらないものを
人間が拠り所にすることは空しいだけだ。
そのために自らを捧げることは人間離れになるだけだ。
さらに悪いことにそういう者は
伝道と称しても
他者を自らの超常奇跡に巻き込むだけだろう。
 
無条件に正しいと言い張る者に
無根拠をもらっても空しい。
言い張りはヒステリックな犬猫の遠吠えのようなものだ。
 
自分という人間を解放してくれるのが信仰なのだから
信仰と名付けた心の縛りに縛られて、
なのです、と、ねばならない、を
繰り返す強迫神経症は空しく悲惨である。
それは解放をもたらさないばかりか
人間を硬直させ崩壊させるだけだからだ。
 
大切なことは
超常の奇跡はわきに置いてもいいから
キリストに救われた人々のように
キリストの人間への共感に
人間として共感することだ。
 
そこに人間として生きるために
一番大事なことが表れている。
 
その共感なくして
いかなる人の信仰も成り立たない。
 
その共感こそ慈愛であり
神の愛であり人の愛である。
そこだけは受け取らなければ信仰ではない。
 
私たちは魔法の組織に組み込まれたのではない。
 
私たちが何と言おうと
私たちには手に負えないところで
神の超常の計画は神によって進むのであり
 
私たちは、ただ、
救われるに相応しい人間であることだけが求められている。
 
救われるにふさわしい人間とは
救われる条件であり
それは知識によって高められるようなものではなく
ただキリストとのご縁によって導かれるのである。
 
奇跡志向や儀式志向の者たちに惑わされてはいけない。
得々と聖書に書いてあるからと
神に比して問題にもならないような
お粗末な知識を並べるものを相手にしてはならない。
 
私たちは話がうまくなるために信じたのではない。
知識の引き出しを増やすために信じたのでもない。
救われたいから信じたのである。
 
知識だけに頼るのは
信仰を知らない者がすることである。
彼らは自慢したいのだろうか。
長話をしたいのだろうか。
教える立場に満悦したいのだろうか。
見下ろしたいのだろうか。
 
人が聖書を決めつけることを
人が全能のように知識をひけらかすことを
言うまでもなく神は望んでなどおられない。
 
私たちは
自慢できなくてもいい。
長話などしなくてもいい。
教える立場など要らない。
見下ろされても構わない。
 
いかなる自慢も多弁も欲しない。
正義さえも必要ない。
屈辱を受けたからどうだと言うのか。
そのために低さも弱さも乏しさも受けて構わない。
それは私たちを
救われるべき人間に近づけてゆくことを知っている。
 
キリストとのご縁は
何も持たずに救いを求める者に与えられる。
 
それは神秘的な結合ではない。
地上にいる限り
それは人間的な共感の繋がりである。
 
猛々しく豪語する者や
怒って退けようとする者や
口を開けば大仰に讃美する者や
丁寧に従属を強いる者に
一片の賛同も世辞も必要ない。
 
凄まじい体験を経て信仰に救われたのなら
それを儀式のような辻褄で汚してはいけない。
分からないことは分からないのだから
分かったと言ってはいけない。
 
知識を誇る者に信仰はない。
知識の多い者と少ない者とで信仰の差はない。
知識で信仰を説明することはできない。
 
神と人の
全能と不完全の
全て分かっている神と多くを分からないでいる人の
決定的な違いを弁えなければ
信仰は成り立たない。
 
私たちは大方
神について分かっておらず
にもかかわらず
分からないまま救われる。
 
信仰に生きるために
分かろうとする努力は大切だが
神と信仰について
分かったという結果は地上にはない。
だから詳しく分からなくても信仰は成り立つ。
 
ゆえに
キリストの荷は軽いのである。
 
 
(2018年07月30日)?
 
繋がり(つながり)
辻褄(つじつま)
汚す(けがす、よごす)
 
 

 
  批判の根拠
 
 
他者の信仰を批判するのは良くない
という話を聞きます。
 
その背後には
敬虔という意味を
人の言うことに文句を言ってはいけない
と取り違えていたり、
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
 (エペソ4:29、新約聖書)
 
という聖句によって、
批判を悪口と同じように見なしていることがあるでしょう。
 
それで人と人同士では
口喧嘩のみならず
批判や、さらには議論まで不義と見なしてしまって
批判禁忌の不文律が出来上がっているのでしょう。
 
信仰は社交ではありませんし
間違えている人に何も言わなかったら
間違いが継続するという矛盾があります。
 
批判は苦手という人に
批判しろというわけではなく
少なくとも
批判は
する気のある人や
出来ると思う人や
するべきだと思う人がするのです。
そこで
批判は良くないと言うことは
そう言うことも
批判していることになりますから
これは成り立たないでしょう。
 
ここで
信仰は理屈ではないなどと言わないでください。
それは問題をすり替える詭弁です。
 
しかしもう一つ
何が間違いか言える人がいるのか
ということを
批判禁忌の根拠のように考える人もいます。
 
この問題は
何が正しいか言える人がいるのか
という問題と同質として考えるべきでしょう。
 
信仰について考えているのですから
真偽は数学のように明確ではありません。
 
しかし全く不可能ではありません。
というのは
私たち信仰者には
神は全知全能であり
人はそうではない
という大前提があります。
そういう御方として神を信じているわけです。
 
それゆえに私たちは罪深いのであり
ゆえに救いを必要とするのです。
 
この神と人の決定的な違いという前提は
信じる者にとって
信仰が成り立つために最も基本的な理解であり
それが成り立たないならば信仰ではない
と言ってもいいのです。
 
前から言ってきたように
人の不全の自覚において信仰は成り立ちます。
 
すなわち
人が不全の自覚を失っている状態や
さらには人が神と同等である自覚が批判対象となり
また
これも前から言っていることですが
神の関わることについて
人が、分かる、知っている、見える、
などと言うことが常態であるならば批判対象となります。
 
不全を忘れ
自己に慢心する者は
幸福と満足を伝えるようになり
祈りは感謝と讃美に偏り
批判禁忌をよいことに
ついには教える立場から
愚にもつかぬ独善を
微笑して得々と語るようになるのです。
 
この現象は言葉にも態度にも表れ
人間性を欠いた圧力を持っていることで
人間にも時に判断可能です。
 
一見柔和に見えますが
引き込まれると知らないうちに
従属の身分に落とされて
いつのまにか慢心する者を
肯定し讃える社交の世辞の役割を担ってゆくことになるでしょう。
 
このような慢心からは
赦しの祈りは儀式に過ぎなくなり
慢心の好むところになってゆくでしょう。
 
私の罪をお赦しください
という祈りは
不全の自覚からしか生まれないのです。
 
 
(2018年07月30日、同日一部修正)
 
 

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