ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年07月

 
  聖霊
 
 
聖霊は聖三位の御一方
神の領域の御方であり
神でありキリストであるとも言える御方。
 
聖霊が降りることは
神や顕れることと同値である。
人は恐れて跪くべきことである。
 
ある人に
聖霊が降りたかどうかは
その人が
それにふさわしい言動であるかどうかをもって
推測されるにすぎない。
 
それは奇妙な言動ということではない。
安らかに見えるということでもない。
 
キリストと同じように
誤りがないのに謙虚であるかどうか
安らぎと癒しを他者に与えるかどうか
によって推測されるにすぎない。
 
つまり聖霊は
人が自分でその降臨を自覚するものではない。
 
聖霊は
人々の中に起こる現象でのみ降臨を推測される御方。
 
一人称で自分が
聖霊と交わった、
聖霊に従う、聖霊と相談して、
などと言うことは
人が聖三位を確定できる
という
聖三位に対する冒涜である。
 
そういう一人称主語の言説は
聖霊について成り立たない。
 
聖三位はいずれも人格を含むが
聖三位のいずれも、人が
人格と同じように交われると思うべきではない。
 
聖書に書かれている聖霊が
人のために身近に遣わされるからといって
友人のように親しむことの出来る御方と思ってはいけない。
 
聖霊を
人に対するように敬うだけで
神を恐れる気持ちを持たないまま
談笑できる相手として交わろうとするなら
聖霊の代わりに
聖三位が共通して含む人格ではなく
聖霊に似せた偶像が
人を
人道から非道へ
人間から人間離れへ
非人間の道へと導くだろう。
 
これは超常の奇跡を好む者が陥りやすい罠である。
 
人は、
聖霊と、
インスピレーションや
ひらめきや
気づきなどと言われるものとを
明確には区別できない。
 
実際それらは
どちらも神から与えられるものかもしれないからだ。
 
聖霊を区別できると思い込めば
その器に降りてくるのではなく
その器で捏ねらた焼き物の
石によって打たれるだろう。
あるいは
器に盛られた安酒によって酔いしれるだろう。
そして毒によって冷たく凍った薄笑みへ引き攣るだろう。
 
自己暗示の陶酔気分を
聖霊の臨在と勘違いしてはいけない。
 
聖三位を表す言葉は
人が知っているところの
いかなる言語をもってしても概念化できない言葉であり、
いかなる人知をもってしても実体化できない言葉である。
 
人間は
神聖でもなく、また、化け物でもないのだから
人間の心で反応できるものしか受け取ってはいけない。
 
ゆえに私たちは憧れをもって
聖三位を想像しては
的外れになる自分の心の貧しさに嘆くことになり
それゆえに聖三位の赦しと癒しを必要とし
砕かれた魂のみを捧げて祈るのである。
 
そういう信仰だから
キリストの荷は軽いのである。
 
 
(2018年07月30日、同日一部修正)
 
跪く(ひざまずく)
捏ねる(こねる)
罠(わな)
引き攣る(ひきつる)
 
 

 
  身の丈
 
 
人間は人間の身の丈しかないのに
人間の身の丈で
神の身の丈を測りうると思い込み
神の意志が正確に分かるようになります
などと言っている者がいます。
 
人間が神を考えるとき
どんなに想像を逞しくし
聖書の儀式や慣習など言葉の
辻褄を合わせても
そこに対象となる神は
人間の身の丈の神でしかありません。

つまり偶像です。
 
つまりそれは
本当の神の偉大さを
人間の身の丈で論じようとするような
傲慢不遜に過ぎないことです。
 
私たちは
人間性しか持ち合わせていません。
 
私たち人間が
この人間の身の丈の知恵をもって
聖書から受け取ることが出来るのは
人間性で理解できる範囲だけなのです。
 
それはキリストと人々の対話など
鋭いキリストの洞察力と
豊かなキリストの人間への共感性によって
人間に可能な共感を受け取るだけなのです。
 
それ以上は
辻褄があったとしても
私たち人間は
人間としての身の丈以上ではないことを弁えて
結論することを遠慮して
分からないと言う選択しかないのであります。
 
私たちは
神の身の丈を思考の対象とすることはできません。
 
にもかかわらず
人間の身の丈を超えて
分不相応な理解をしたつもりになれば
さらにそれを
不変の神の意志と決めつけてしまうと
人間の身の丈しかない神の偶像を崇拝することになります。
 
その偶像崇拝と
身の丈を超えている不遜で
人間性の届かないところを分かったつもりになることは
やがてその無理の影響が
その人間の頭と心に障るようになり
人間のあるべき人間性を損なってゆきます。
 
実際
誰が諫めても指摘しても批判しても
全く尊大の位置に留まったまま
上から損なわれた心性をあらわにするのです。
 
その症状は
自説絶対を守るために
批判者に対して
汚い言葉で言い返すことに専念するわけですが
 
大方は
批判を否定文にしただけで言い返した気持ちになって
あとは相手にしないような
揶揄や突っ張り方しかなくなり
ときに
何か批判者の弱点を知れば
そのことを再三持ち出して個人攻撃をしてきます。
精神病ではないかと平気で言ったり
知識不足で話にならないようなことを言ったり
荒らしだと言ったりします。
 
また心の視野の破損による狭小化をきたすために
理解力も損なわれて
場にそぐわない言い方も目立ってくるのに
なぜか幼稚な思考と先入観で
挨拶しないのが悪いなどと社交の礼儀など
些細なことに執拗にこだわってきたりします。
人間にとって欠くべからざるところの
ものごとの重要度の判断が出来なくなるのです。
 
それで言い得たと思っているので
議論に負けていない風を装うのですが
もはや突っ張るだけの
背伸びしてバラバラになりそうな
竹人形か何かを相手にしているようで
ここまで自分の状態を見ようとしない態度によって
身の丈を超えようとした人間の笑えない有り様を見て
むしろ神への恐れを新たにするのです。
 
このように
訂正不能に陥った傲慢不遜は
いつ来るか分からない終末の裁きとかではなく
この地上において既に悲惨であり
器の大きさも心の弾力性も見られなくなります。
 
神は恐るべきかな。
全能は恐るべきかな。
絶対は恐るべきかな。
身の丈を弁えない者のための
破壊の道さえも
人間離れの報いとして
自覚されることのないところの
人間性の負の部分として用意しておられるとは。
 
私たち人間は
特に信仰者は折々に自らの身の丈の自覚に注意して
一時的な思い込みならまだ修正可能ですから
努めて反省と悔い改めの祈りを心掛けるべきでしょう。
 
身の丈を誤らない限り
神は人をお見捨てになることはないのです。
 
私たちが
約束の赦しと導きと救いを与えられるために
さらに慰めと癒しと喜びを与えられるために
身の丈を誤らない努力のみが
神に対して人間の出来ることだからです。
 
最近、人間離れの人ばかり見ているような気がします。
どうか潤いと温もりのある人間になれますように。
 
 
(2018年07月30日、同日一部修正)

 
逞しい(たくましい)

揶揄(やゆ)

 
身の丈(みのたけ)≒身長、
  ここでは比喩的に使っています。≒身の程
 
 

 
  批判(9)人格障害そして悪魔
 
   批判対象:
   心に病を持つもの。BY YHOSHUAH (以後、ヨシュア氏、あなた、彼)
  
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64560538.html
 
 
批判の前に、以前、偽牧師の偽善者を批判したことがあることは、既に記事に書きましたが、
 
その偽善者は、自分の言い分が通らなくなったとき
まず、聖句を長々と引用しまくります。
こう書いてある、こう書いてある、だから文句を言うな、
と言いたいわけです。
水戸黄門の印籠と同じようなつもりでしょう。
 
しかし、前に述べたように、聖書は解釈次第なのです。
 無節操な解釈は無節操な信仰を生みます。
 解釈を思い込めば思い込み信仰になります。
 
それが通用しないと誹謗中傷、悪口雑言を並べ立てます。
 例えば
 カルトの「○○の証人」に似ているとか言っていました。
 しかし、どこが似ているかは言わないのです。
 貶めることだけが目的の発言でした。
 
それも通用しないと、今度は、相手を病気と決めつけます。
 例えば、
 自分に依存しているから満たされないので自分を批判すると言いましたが、
 偽牧師に誰が依存するかということです。
 また、
 小児期に虐待されたから成人になって逆他する側になったとか言ってきましたが、
 私、小児期の話など一度もその牧師にしたことはないのです。
 私は普通に親の愛情に恵まれて育った親不孝な息子です。
 
そして同時に、
相手を神の敵と決めつけて神に復讐を祈り願う聖句を並べるのです。
つまり聖書は悪意ある者によって利用されやすいということです。
 
この間、一貫して、悔いることがなく、非を認めず、
作戦の練り直し以上の、本当の深い反省をしません。
 
結局、偽善者は、
批判コメントを削除する日常になり、最終的には、コメント欄を廃止しました。
 
 
>このお題は私の専門ではありません。
>だから 調べました。
>いくつか 列挙してみます。
>人格障害・パーソナル障害とは?
 
専門ではないのに、なぜ今、人格障害を語ろうとするのでしょう。
 
推測ですが、私に批判されて、弁明できないでいるからでしょう。
弁明できなければ、反省すればよいことなのに、
自説=神の意志=聖書=神の言葉、ということに凝り固まっているから、
それが出来ないでいるのです。
反省する気がないと言ってもよいでしょう。
 
そして何とかして攻撃しようとしてきます。
 

自分や回りが困っている状況にある人は 障害を疑った方がいいのかもしれないです。
一概には言えませんが、障害がある人はとにかくトラブルを起こすそうです。 
ある障害は、知能は高い人が多く、言動は一見まともに聞こえる、そして 周りに知られない様に人をだまします。
それは 回りが気づきにくいのでタチが悪いです。

 
私を人格障害と決めつけての記事であるなら、
私のために
「自分や回りが困っている状況にある」と思っているのでしょう。
この場合、周りというのは、ヨシュア氏本人だけなのですが。
 
はっきり言って100%被害者意識のようです。
 
ヨシュア氏は、自分の思い込みや欠点について書いたことはありません。
「自分や回りが困っている状況にある」を自分に向けることができないようです。
 
ヨシュア氏は
人格障害の特徴をネットから引用しています。
 
>引用はこのサイトさまからです。
http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/iyasi/2000/jinkaku.html
 
この特徴について聞かれた場合、正常な人はどう答えるでしょう。--(1)
 
というのは、私のほうは人格障害のうち
反社会性の強いサイコパス(精神病質)について
 
サイコパス(精神病質者)に見られる共通した20の特徴
http://karapaia.com/archives/52164745.html を見たのですが、
同じように特徴が書いてあります。
 
そこに次のようなことが書いてあります。
 
「引用はじめ
 
 犯罪心理学者らが人間の奥底にある精神状態を見抜くのに、以下にある20のサインが役に立つという。だが、もしそのリストの大部分が当てはまってしまって、しかも本人が認めた場合、彼らはサイコパスだと認定できるのだろうか?
 
  それはたぶん違うだろう。心理学者らによると、ほとんどの人がこのリストの特徴の多くに当てはまる時期があるそうだ。誰もが心の中に闇を持っており、それが時として表に現れる場合がある。なのでほとんど当てはまってしまう人がいても、その人がサイコパスとは限らないかもしれない。また、本人に自覚のない場合もあるので自己判断では正しい結果とならない可能性もある。
 
引用終わり」
 
つまり(1)の質問に対して
 
私は全然そういうのはありません、というのは正解ではありません。
多くの人が、特に思春期においては、
いくつか部分的には思い当たることがあるというのが正解でしょう。
 
むしろ、無いに決まってるじゃないか!、と答えたら
何らかの思い込みか強迫観念のようなものが、
「ない」と答えることを強いている可能性があるだろうと思います。
私の記事は、今回、そこが焦点のつもりです。
 
ヨシュア氏の記事は、後半、悪魔の話になります。
なぜ、人格障害と悪魔が同じ記事に書いてあるのか、
状況としては、
悪魔が憑りついて人格障害者となっている誰かを想定している
ということを考えざるを得ません。
 
状況から、それは私のことを言っているのだろうと思います。
 
>悪霊は 人にわからない様に神様を罵ります、聖書を否定します。
>聖句より自分を上に置きます。
>神様の言葉より、人間なら人間の情が大切などと言い出します。
>悪霊は神様が愛する者、物も、すべてを否定します。
>あたかも 神様を信じたふりをします、、。
>そうした時、どうしたらいいでしょう?
>神様の知恵で見破りましょう。
>神様の知恵は 聖書です。
 
そう言うことを神の知恵とでも言うのでしょうか、
結果として人を悪魔扱いしている可能性を指摘しておきます。
 
>聖書で 神様が義と宣言した事に 悪霊は異を唱えます。
>義とは正しいという意味です。
>悪霊は神様が正しいという事に
>正しく無いと言います。
>ある程度 まともな事をいっていたとしても、肝心なところで 
>聖句と真逆の事を言います。
 
聖書は解釈次第ということを認めて
人間として考えることなく、
聖書の流れを辻褄合わせだけで考えると
こういう一方的に自分以外の他者に向けた文章になります。
 
>サタンの敵はイエス様でした、、イエスさま帰天後は
>クリスチャンです、だから サタンはクリスチャンを敵視します。
>だから、サタンはクリスチャンを攻撃します。
>だから よく 聞いて騙されないようにしてください。
 
今まで
私がヨシュア氏の解釈の決めつけを批判すると
彼は、
聖書で答えた、神が教える、というふうに決めつけを語り、
自分の解釈=聖書の言葉=神の意志と決めつけてきましたが、
 
ここに表れているのは、神のみならず、
悪魔についても知っているつもりの慢心です。
そして
自分に反対する者を悪魔と決めつけて
警鐘を鳴らしているつもりなのでしょう。
 
また、ヨシュア氏は、悪魔を、
全く自分という人間の外部に存在する者を見なしているようですが、
そういう見なしをすること自体が
自己に目を向けることなく被害者意識のみで
他者を一方的に悪と見なす決めつけのベースを作ってゆきます。
 
心ある人ならば、
悪魔が自分の中にもいることに気づいているはずです。
 
ヨシュア氏は被害者意識から、
相手を悪魔と決めつけている可能性を指摘しておきます。
 
 
(2018年07月30日、同日一部修正)
 
貶める(おとしめる)、貶す(けなす)
 
 

 
  批判(8)パリサイ人
 
   批判対象記事:「パリサイ人とは。」 2018/7/25(水) 午前 5:48
    by Yhoshuah (以後、ヨシュア氏、あなた、彼)
    
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64558882.html
 
 
現代のパリサイ人と、私が言うのは、聖書の言葉にこだわり、人間離れして、信仰者に災いをもたらす人たちのことです。ところが、そのパリサイ人を弁護するような記事を書いている人がいます。
 
>よく クリスチャン同士の会話でパリサイ人という言葉がでます。
>あの人はパリサイ人のようだ、など、、。
>それは良くないたとえで使われています。
 
間違っているのでしょうか。
 
>しかし 詳しくパリサイ人を知っているひとは少ない。
>パリサイ人とは?
>イエス様に敵対し、イエスさまを 十字架につけた首謀者たちの中にいた。
>他にはイエスさまを尋問し陥れようとした人という理解があります。
>他、聖書を文字通りで理解して律法のために律法があるような思考に
>なっていた人たち。 律法で民に重荷を課せた人たち。
>その程度が 悪くはないけど ふつうのクリスチャンの理解でしょう。
 
非凡なクリスチャンの自覚の誰かにとっては、間違っているのでしょうか。
 
>パリサイ人は当時 ユダヤ教の一派で 非常に有力な教派でした。
>民衆には 非常に人気があって 大祭司にさえ言い逆らっても
>民衆が支持するほどでした。
 
有力な教派だから何なのでしょう。民衆が支持して、キリストは殺されました。
 
>だから今のクリスチャンが思っている?のはただの思い込みで、
>嫌われものではなかったのです。逆に尊敬されていました。
>それから、、サドカイ派と違い パリサイ人は霊魂の不滅を信じていました。
 
嫌われ者ではないと思います。でないと民衆は扇動できないからです。
つまり民衆の支持というのは、当てにならないということです。
 
>だから イエス様をサンヘドリンの議員ニコデモが夜 訪ねて来た時 
>霊の話の中でイエス様は教師でありながらそんなことも知らないのかと言いました。
 
ニコデモは、私も例外として記事にしていますが・・弔いにも来たようだし・・。
 
>パリサイ人は断食も週に二回もしていましたし、十一献金も欠かさない人達でした、。
>聖書についても暗記しているほどです。
 
キリストの、パリサイ人と取税人の祈りの話を思い出します。義とされたのは取税人でした。
 
>議論の中で、イエスさまのおっしゃった聖句を即座に理解していました。
>理解してるがゆえに イエスさまの言葉の方が正しいと退散しました。
>つまり 律法的にはすばらしい信仰をしていたのです。
>(表面的には、。)
 
表面的には信仰で、実質は神に背いていたのがパリサイ人です。
 
パリサイ人についての聖句を、一部、下に引用していますが、パリサイ人は、陰謀によって、キリストを殺しました。
 
イエスさまの言葉の方が正しいと退散したのなら、そういうことは起こらないはずでしょう。
そういう愚かな人を批判しています。
 
表面的には律法的に素晴らしい信仰をしていた、というのは、褒める理由になりません。表面的であったからこそ、パリサイ人は、神に背く者だったのです。ヨシュア氏は、似たような、儀式や筋書きを大事にして、人間性を疎かにしているのでしょう。残念な人々では済まないのがパリサイ人です。
 
>だから、そう簡単に他人をパリサイ人と言うのは簡単では無いです。
>自分がパリサイ人より優れていなければ他人をパリサイ人のようだ、
>と揶揄(やゆ)する資格もありません。 
 
パリサイ人が、キリストの敵であったことは否定できません。つまり、パリサイ人に、知識があったからと、否定を緩めてしまうこと自体が、キリストに反するとは考えないのでしょうか。
 
したがって、パリサイ人は、パリサイ人でしかなく、パリサイ人よりも優れていることは、パリサイ人の延長にはないのです。
 
>しかし、パリサイ人らは肝心な事ができませんでした、。残念な事でした。
>キリストが来ていたのにそれがわからなかったこと。
>目の前にイエス様がいるのに 認めなかったことです。
 
それが一番大事なことなのです。そこで信仰があるか無いかが分かれる、
というのが福音書ではないのでしょうか。
それこそ、まさに、残念なことでした、では済まない話なのです。
 
>ある日イエス様は弟子にこういいます。
>マタイによる福音書/ 5章 20節
>律法学者やパリサイ人の義に勝らなければ天国には行けない!
>パリサイ人らに勝る義でなければとは、、たいへんな事です。
>でも 義とは究極的には 
>『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛すこと。』 と
>『隣人を自分のように愛すこと。』です。とイエスさまはおっしゃった。
>決まり事の律法は大切だが、それよりもっと大切な事だということです。
>簡単ではありませんが できない事はありません。
>そのように していこうと心に刻むことはできます、そこからが信仰です。
 
もう一度、申し上げますが、ここまでの話で明らかなように、パリサイ人の義に勝ることは、パリサイ人の延長にはないのです。
パリサイ人は、どこまでも否定されるべき存在でしかありません。
 
まるでパリサイ人に勝るか匹敵することがヨシュア氏には出来るつもりだから、こういうことを言ってしまっているように思われます。
 
この記事を読んだとき、私は驚いて、マタイ書のパリサイ人についての記事を見てみました。全部ではないが、23章など、引用してみます。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)12:14
パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。
 (マタイ12:14、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:7
偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、
15:8
『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
15:9
人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。
 (マタイ15:7-9、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)15:13
イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。
 (マタイ15:13、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)22:15
そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした。
 (マタイ22:15、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)23:13
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。
 (マタイ23:13-15、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)23:25
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。 23:26盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。
 (マタイ23:25、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
23:27
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。
23:28
このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
 (マタイ23:27-28、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)23:33
へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。
 (マタイ23:33、新約聖書)
 
ここまで引用して、うんざりしました。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:17わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
5:18
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19
それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
5:20
わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
 (マタイ5:17-20、新約聖書)
 
キリストは、律法を成就するために、パリサイ人とは全く違う伝道をしました。パリサイ人が出来なかった洞察によって、その慈しみを惜しむことなく罪に苛まれている人々に施したのです。
 
ヨシュア氏は、恐らくキリストの洞察や情感そして救われた人々との共感を受け取ることができないのでしょう。だから、パリサイ人に未練のような、半分評価するような、甘い考えを持ってしまったのだろうと思います。
 
ヨシュア氏の言説に惑わされないでください。パリサイ人と同種の偏った知識と思考でパリサイ人に勝っても、信仰は決して成り立ちません。信仰は、パリサイ人の信仰の延長線上にはないからです。イエスがキリストだと分からなかったのは、まさに、パリサイ人がパリサイ人の信仰しか持てなかったからです。
 
使徒パウロもパリサイ人でしたが、パリサイ人であることを否定して、パリサイ人としての自分を捨てて、悔い改めたから、使徒と呼ばれるようになりました。パリサイ的な考え方は、根こそぎ否定して悔い改める対象でしかないはずです。
 
ヨシュア氏の言説には決して惑わされないようにしてほしいと思います。神の知を追って、人の知を疎かにしていると思います。彼は、神と人の決定的な違いが、実感としては、何も分からないでいるのでしょう。彼はキリスト教の伝道者ではないと思います。
 
 
(2018年07月30日、同日一部修正)
 
勝る(まさる、優る)
 
 
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  聖書を読むということ
 
 
私たち人間は
データの蓄積や計算ではコンピューターに遠く及びません。
しかし人間には直観的理解というものがあります。
それはイメージであったり情緒であったり
さらには理路であることさえもあります。
 
例えば数学の数の概念は
直感的に理解しなければ先へ進めないということがあり
ゆえに数は何故あるのかを
いちいち考えて問題を解くことはないということです。
 
芸術的な美というのも
必ずしも情緒という言葉で片づけられるものではなく
全体として何か整っていて美しいということがあります。
 
だから真善美は
言葉が理解を助けることはあっても
究極的には言葉で説明できるものではないのです。
 
詩のようなものを書いたことがあるのですが、
なぜこの言葉が自分にぴったりくるのか分からないまま
言葉を選び言葉を結び付けているようです。
実際に他の人にはさっぱり分からないということもありますし
それが書く側の感性なのか
読む側の感性なのかさえ分からないこともあるでしょう。
 
聖書を読むときには
先ず事実なのか伝承なのか創作なのか
という点で解釈は分かれるのです。
さらに文脈を考えるにしても
昔の異国の慣習という環境があり
それを知識で知っていても
暮らしたことがなければ十分理解しているとは言えず
さらに二千年~何千年前の宗教的背景となると
ますます易しいようで難解なのが聖書です。
 
信仰は人間のために
人間が生きるためにあります。
したがって信仰は
人間にとって一番大事なところ
それがなくては人間ではないというところに触れてきます。
そうでなくては信ずるに値しないはずです。
 
だから信仰は
美味しい話ばかりではなく
超常世界の夢物語でもなく
奇跡物語で語りつくせるような安いものでもないはずです。
誰でも信じれば救われるという言葉で表せるような
ありがたや信仰でもありません。
 
しかしキリスト信仰が
狭き門と喩えられてもなお万人救済を目的としうるのは
一部の人しか出来ないことを要求する行為義認ではないゆえに
重たい戒律や厳しい罰を課されないからでしょう。
 
聖書が語っていることを端的に申し上げれば
罪なき人は一人もいない
だから地上でどんな生き方をしていても
それゆえに救われることも見捨てられることもない。
救いを求め
神の前に正直でありさえすれば救われる
ということになるでしょう。
具体的には祈るということが
唯一の人から行える手段になります。
 
祈りにおいて隠すことなく飾ることなく
精いっぱい正直な人間であることだけが
救われるための唯一の条件だと思っています。
 
それはそのとき精いっぱいであればよく
祈り損ねたり間違えたりしたときは
あるとき意地を張って突っ張っていたことに気づいたときも
いつでもまた神の前に祈ることが出来るわけですから
可逆的であり成長可能であり
おおよそ赦される余地のなさそうな偽善者でさえも
偽善を認めて罪人の自覚を持てば
罪人は罪人として告白して
ふたたび新しい信仰に生きることが出来るのです。
パウロにその典型を見ることが出来ます。
 
人がどんな状況に置かれていても
信仰は人間を人間らしくする神様からの贈り物です。
 
だから人が聖書を読んで
これはまさに神の正しさだとか
この解釈は正しいとかあるいは間違っているとか
絶対だと思ったとしても
たとえ自分が持っている総てを神の前に捧げたとしても
所詮は神の前に捧げるところの
神に対しては貧しい供え物に過ぎません。
 
ましてや人が
聖書を読んで辻褄があったと
正確に分かるようになったなどと思っても
そこに人間としての温もりと潤いがなければ
神の御名をもって神の御心とばかり決めつけることは
人自らが乾いて冷たくなった解釈に慢心する行為であり
人間らしさを無視する行為であり
悔い改めない限り決して赦されることではないのです。
 
神の前に自分のものを正しいと言うことは
分かっている、知っている、見える、と宣言するに等しく
これほど神を恐れない行為はないと知るべきであります。
 
ですから人が
神の前で分からないと駄々を捏ねても
それが正直な気持ちであれば
神はそういう人間性を既にご存知であり
分からないことをもって救わないということはなく
信仰の義を与えて
赦しと導きをくださるでしょう。
 
これらのことは
私たちは新約を読んだのだから既に弁えているべきことです。
 
神は人間に正しさを求めているのではありません。
そのような条件に人間は耐えられません。
 
神は個々の人間を
憐れみを与えるに相応しいかどうかだけを見ておられます。
 
 
(2018年07月29日、同日一部修正)
 
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