批判(7)20180727
批判対象記事「st5402jpさんへ」
2018/7/25(水) 午前 3:14 by Yhoshah (以後、ヨシュア氏、彼、あなた)
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64558848.html
殆ど子供の喧嘩のような言い返しと言い張りを続けているヨシュア氏です。彼は、理路について何かを指摘するのではなく、相手に打撃を与える言葉を漁ってはぶつけてくる始末です。そして、伝道者の成れの果てのように、一貫して上からの尊大な態度で圧してくるのです。
相手に向かって、あなたにできるなら考えましょう、というのは、応答したくない気持ちの現れでしょう。では、なぜ、応答記事を書くのでしょう。応答できると思い込んでいるのでしょうか。結果はどうでしょう。言い逃れ、屁理屈、詭弁、幼児的な駄々、強がりのオンパレードです。
彼ヨシュア氏は、聖書を学んだつもりで、思い込みを強くした分だけ、信仰を損なっています。それだけでなく、通常の理路も損なっています。しかも、信仰についても、理路についても、損なわれているという自覚がありません。立派に弁明と反論が出来ていると思っているようなのが、悲惨です。
最初から褒めてもらえる前提があるような、必要以上に優しい人々に囲まれているというような甘い環境以外では、自己の主張の説明ができない人なのでしょうか。教条的そして儀式的文脈しか追わなかったために、人間の心を追うことができなくなっているようです。人間のための信仰ですから、人間の心を失ったら、成り立ちません。無料で奉仕しているという自慢話を語って人に教えるよりも、自らの不全を知るべきです。
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自信たっぷりに述べて、決めつけて言い張って、修正可能な姿勢が見られない、あとは、似たようなことを言ってくる、からんでくるだけ、ということが、さらに、決めつけている要素として表れているからです。
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修正すべき事があったら 私はすべきとおもっています、しかしあなたが 言う事柄で 修正するところは無いです。
修正させたい事があるなら 単なる感情的な批判ではなく誰もが納得できる 根拠を示し 説明してください。 それがあなたにできるなら、それから、考えてあげましょう。
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「修正するところは無い」・・自己正当の結論だけを言っている、こういう同じことを繰り返しているだけなのが、あなたの言説に根拠がないということを表しているのです。まさに、言い張りに過ぎなくなっているのです。また、儀式の解釈のような根拠は一切示す必要のない事柄について批判しています。それ以前の人間の分別の問題ですから。
そして、それこそ、根拠もなく、感情的批判のレッテルを押したいようですが、感情的になって、幼児的な言い張りに堕しているのは、あなたヨシュア氏のほうです。
考える前に、受け取っていない、と申し上げます。このヨシュア氏は、恐らく、求道者や信徒が疑問を呈したときには、説明をもってではなく、この記事のように、権威をもって、文句を言わせないような圧力の顔貌と態度を示すのではないかと、ひょっとしたら、既にしてきたのではないかと危惧します。
受け取れない人は、教えてはいけません。言い換えると、十分に受け取れていないという自覚があれば、教えることに自信たっぷりにはなれないはずなのです。
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神と人の関係を考えれば、キリストに救われた人々と
パリサイ人たちの違いを考えれば、分かることを、あなたは、弁えなかった。
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>具体的には何のことですか?
>>キリストに救われた人々は、神の摂理など分かってはいなかった。
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摂理を知らない・・そうした人はいたでしょう、が、、
一方でわかっていた人もいます。
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聖書には、知識が乏しくても救われた人が数多く書かれているのだから、(摂理が)分かっていた人も(一部に)いた、という発言は、神の摂理を分からなくても救われるということの何の否定にもならない、という理路を、ヨシュア氏は分からないようです。
>神の摂理など・・・・> など? 神様の摂理を軽く言わない方が良いです。
と言っているのが、神の摂理どころではなく、信仰の節操さえも弁えていない思い込み信仰者であることを覚えてください。彼の頭の中で、神の摂理=自説となっているから、こういうことが言えるのでしょう。また、言わないといけないという強迫が働くのでしょう。
神の摂理の偉大さを知っているなら、神の前で、自説を絶対化することなどあり得ません。神の摂理を知ってるよ、という慢心だから、神の意志を、前の記事で「正確に受け取れるようになってくるものです」などと平気で書いてしまうのです。
>>ただ、罪と偏見に苛まれている人々であり、訂正不能にして
>>自己満悦するような何ものも持ってはいなかったということです。
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罪と偏見に苛まれている・・メシアは正しい人のために来たのではなく罪ある人のために来たと聖書があかしたとおりです。
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あなたヨシュア氏は、キリストが罪びとのために来た、と自分で言っています。この罪ある人の中に、ヨシュア氏は自分を含めているでしょうか。
>>公開されている記事は、すべて、批判の対象になります。
>そうなのですか? 誰が決めました?
>>公開されるということは、言論の自由であり、責任が伴うということです。
>>書くことも、批判することもです。これこそ常識ですが、
>>弁えていないというのは、驚きです。
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あなたの大きな間違いはそこです。
私のブログは言論活動ブログではありません。
学術的発表をブログでしているなら あなたの言う事になるでしょう、
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ブログが信仰ブログであるなら、さらに日記的感慨にとどまらず書いた人の見解を公開しているなら、公開された文章は、書いた人の主張ということだから、主張に非があると思う人は私のように批判するのです。今さら何を言っているのでしょう。教える姿勢で記事を書いておきながら、学術じゃないからと批判から逃れようとするのは、ひどい屁理屈の言い逃れです。
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しかし私のは、信仰ブログです。
私のブログに限らずキリスト教ブログはみんな同じ信仰ブログです。
あなたは どういう意図でキリスト教ブログばかりを狙って攻撃しているのですかね?
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キリスト教ブログは、見解や意見も書かれますが、信仰日記的な日々の出来事を中心に書いているブログと、自らの信仰についての見解を広めたいという伝道ブログに、明確ではないけど、傾向としては分かれています。あなたヨシュア氏が、信仰の正しさを主張して、広める意図があるのは明らかです。この部分の言い逃れは屁理屈を重ねた詭弁です。
「キリスト教ブログばかりを狙って攻撃している」のではありません。どう考えてもキリスト教とは思えないブログを批判しているのです。それは、今、あなたのブログです。私は、神への恐れを知らないで、自説絶対を説くキリスト教ブログを批判してきたと思っています。ヨシュア氏は、その典型であることが、一連の記事で、いっそう明らかになってきました。
>>思っていたほど常識人ではないことが明らかになってきました。
>あなたよりは あると思っています。
相手を単純否定+相手よりマシ、と言うことで、言い返したつもりでいることに呆れる。
>>こんな当たり前のことを説明しなければならないことは残念です。
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元々の議論の中心から離れ 本題から議論をずらし、本題をごまかしているあなたに
私も残念です。 アブラハムのイサク燔祭の議論はどこに行ってしまいましたか?
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あなたヨシュア氏の、信仰についての見解は、文章を書けば、その慢心と傲慢は至るところで信仰のあり方に反していることから、そこを批判することになります。そして、そこが、イサクの燔祭への人間離れした見解の確信に結び付いていることが分かりましたから、すべての問題は、あなたヨシュア氏の信仰の欠陥にあると思わざるを得ません。
信仰の問題を、聖書解釈の問題から、切り離してしているのは、ヨシュア氏あなたです。「どこに行ってしまいましたか?」と、とぼける姿勢は、あなたの信仰?なのでしょうか。
>>社会にも、信仰にも、
>>言論の自由はありますが、
>>言論の自分勝手はありません。
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そうですね、言論の自由といっても、それを悪用し、いつのまにか、議論の中心をずらそうとする身勝手な自由もありません。自由を取り違えない方が良いです。
信仰を言論と一体化しない方が良いです、信仰は言論活動ではありません、信仰は信仰です。
あなたは取り違えているのでは?
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最初の「そうですね」は、逆手に取ったつもりの皮肉です。あとは根拠を示さない悪口雑言の類でしょう。
「信仰を言論と一体化」「議論の中心をずらそうとする」・・やはり、こちらがあなたヨシュア氏に言いそうなことを、先に言ってきました。あなたは、言葉だけで辻褄を合わせて解釈したに過ぎないのに、人間の命となる信仰を、人間離れの方向に進めた独善を勧めて、まるで預言者気取りで、分かっている信仰として自己の信仰?を絶対化して伝えようとする現代のパリサイ人のようなものでしょう。
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信仰者には 人に寄り添うことや柔和などの行為が伴うのですが、
残念なことに あなたに そういう 人間らしさが感じられないです。
とげとげしい コメントばかりですが、
いったいあなたはどうしてそうなったのか?と疑問です。
<
あなたヨシュア氏は、賛同者には寄り添うでしょう。しかし、その柔和は見せかけであることが、批判者に対する今回の言い張りによって明らかになったと思います。人間らしい信仰を儀式的な手続きで冷たく錆びた金属に変えてしまっています。
あなたが誰かに寄り添ったとしても、このままでは、偽善にしかならないと思います。人間らしさではない社交の見せかけの優しさは、あなたの慢心の飾りに過ぎないからです。
>最後に、質問します。これが元々の議論です。
>アブラハムを義と認めたのはだれですか?
アブラハムに、訂正不要の絶対の義ではなく、人としての信仰の義を認め、アブラハムを愛し、その後も導いたのは神であります。だから、神は、アブラハムが息子を殺すのを止めて、アブラハムを正しさへと修正したのです。
人間は、人間性があるなら、そこまでしか語れないのです。そこより深く、神の意志へ踏み込もうとすると、分からないことを分かったと言い張る独善になります。
>以上です。stt5402jp さん。。
これからも批判を続けます。ヨシュア氏のような人が、長年にわたって、キリスト者を惑わせて、神の名のもとに、有無を言わさぬ従属をすり込んできたのだろうと思っています。ますます酷い記事でした。
この人ヨシュア氏の言説を真に受けてはいけません。
(2018年07月28日)
ここのところ、批判に集中せざるを得ない状況で、訪問がなかなか出来ずにおります。申し訳ありません。
殆ど(ほとんど)
苛む(さいなむ)
酷い(ひどい)
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