ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年07月

 
  批判(7)20180727
 
   批判対象記事「st5402jpさんへ」
    2018/7/25(水) 午前 3:14 by Yhoshah (以後、ヨシュア氏、彼、あなた)
    
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64558848.html
 
 
殆ど子供の喧嘩のような言い返しと言い張りを続けているヨシュア氏です。彼は、理路について何かを指摘するのではなく、相手に打撃を与える言葉を漁ってはぶつけてくる始末です。そして、伝道者の成れの果てのように、一貫して上からの尊大な態度で圧してくるのです。
 
相手に向かって、あなたにできるなら考えましょう、というのは、応答したくない気持ちの現れでしょう。では、なぜ、応答記事を書くのでしょう。応答できると思い込んでいるのでしょうか。結果はどうでしょう。言い逃れ、屁理屈、詭弁、幼児的な駄々、強がりのオンパレードです。
 
彼ヨシュア氏は、聖書を学んだつもりで、思い込みを強くした分だけ、信仰を損なっています。それだけでなく、通常の理路も損なっています。しかも、信仰についても、理路についても、損なわれているという自覚がありません。立派に弁明と反論が出来ていると思っているようなのが、悲惨です。
 
最初から褒めてもらえる前提があるような、必要以上に優しい人々に囲まれているというような甘い環境以外では、自己の主張の説明ができない人なのでしょうか。教条的そして儀式的文脈しか追わなかったために、人間の心を追うことができなくなっているようです。人間のための信仰ですから、人間の心を失ったら、成り立ちません。無料で奉仕しているという自慢話を語って人に教えるよりも、自らの不全を知るべきです。
 
>>
自信たっぷりに述べて、決めつけて言い張って、修正可能な姿勢が見られない、あとは、似たようなことを言ってくる、からんでくるだけ、ということが、さらに、決めつけている要素として表れているからです。
<<
 

修正すべき事があったら 私はすべきとおもっています、しかしあなたが 言う事柄で 修正するところは無いです。 
修正させたい事があるなら 単なる感情的な批判ではなく誰もが納得できる 根拠を示し 説明してください。 それがあなたにできるなら、それから、考えてあげましょう。

 
「修正するところは無い」・・自己正当の結論だけを言っている、こういう同じことを繰り返しているだけなのが、あなたの言説に根拠がないということを表しているのです。まさに、言い張りに過ぎなくなっているのです。また、儀式の解釈のような根拠は一切示す必要のない事柄について批判しています。それ以前の人間の分別の問題ですから。
 
そして、それこそ、根拠もなく、感情的批判のレッテルを押したいようですが、感情的になって、幼児的な言い張りに堕しているのは、あなたヨシュア氏のほうです。
 
考える前に、受け取っていない、と申し上げます。このヨシュア氏は、恐らく、求道者や信徒が疑問を呈したときには、説明をもってではなく、この記事のように、権威をもって、文句を言わせないような圧力の顔貌と態度を示すのではないかと、ひょっとしたら、既にしてきたのではないかと危惧します。
 
受け取れない人は、教えてはいけません。言い換えると、十分に受け取れていないという自覚があれば、教えることに自信たっぷりにはなれないはずなのです。
 
>>
神と人の関係を考えれば、キリストに救われた人々と
パリサイ人たちの違いを考えれば、分かることを、あなたは、弁えなかった。
<<
 
>具体的には何のことですか?
 
>>キリストに救われた人々は、神の摂理など分かってはいなかった。
 

摂理を知らない・・そうした人はいたでしょう、が、、
一方でわかっていた人もいます。

 
聖書には、知識が乏しくても救われた人が数多く書かれているのだから、(摂理が)分かっていた人も(一部に)いた、という発言は、神の摂理を分からなくても救われるということの何の否定にもならない、という理路を、ヨシュア氏は分からないようです。
 
>神の摂理など・・・・> など? 神様の摂理を軽く言わない方が良いです。
 
と言っているのが、神の摂理どころではなく、信仰の節操さえも弁えていない思い込み信仰者であることを覚えてください。彼の頭の中で、神の摂理=自説となっているから、こういうことが言えるのでしょう。また、言わないといけないという強迫が働くのでしょう。
 
神の摂理の偉大さを知っているなら、神の前で、自説を絶対化することなどあり得ません。神の摂理を知ってるよ、という慢心だから、神の意志を、前の記事で「正確に受け取れるようになってくるものです」などと平気で書いてしまうのです。
 
>>ただ、罪と偏見に苛まれている人々であり、訂正不能にして
>>自己満悦するような何ものも持ってはいなかったということです。
 

罪と偏見に苛まれている・・メシアは正しい人のために来たのではなく罪ある人のために来たと聖書があかしたとおりです。

 
あなたヨシュア氏は、キリストが罪びとのために来た、と自分で言っています。この罪ある人の中に、ヨシュア氏は自分を含めているでしょうか。
 
>>公開されている記事は、すべて、批判の対象になります。
 
>そうなのですか? 誰が決めました?
  
>>公開されるということは、言論の自由であり、責任が伴うということです。
>>書くことも、批判することもです。これこそ常識ですが、
>>弁えていないというのは、驚きです。
 
> 
あなたの大きな間違いはそこです。
私のブログは言論活動ブログではありません。
学術的発表をブログでしているなら あなたの言う事になるでしょう、

 
ブログが信仰ブログであるなら、さらに日記的感慨にとどまらず書いた人の見解を公開しているなら、公開された文章は、書いた人の主張ということだから、主張に非があると思う人は私のように批判するのです。今さら何を言っているのでしょう。教える姿勢で記事を書いておきながら、学術じゃないからと批判から逃れようとするのは、ひどい屁理屈の言い逃れです。
 

しかし私のは、信仰ブログです。
私のブログに限らずキリスト教ブログはみんな同じ信仰ブログです。
あなたは どういう意図でキリスト教ブログばかりを狙って攻撃しているのですかね?

 
キリスト教ブログは、見解や意見も書かれますが、信仰日記的な日々の出来事を中心に書いているブログと、自らの信仰についての見解を広めたいという伝道ブログに、明確ではないけど、傾向としては分かれています。あなたヨシュア氏が、信仰の正しさを主張して、広める意図があるのは明らかです。この部分の言い逃れは屁理屈を重ねた詭弁です。
 
「キリスト教ブログばかりを狙って攻撃している」のではありません。どう考えてもキリスト教とは思えないブログを批判しているのです。それは、今、あなたのブログです。私は、神への恐れを知らないで、自説絶対を説くキリスト教ブログを批判してきたと思っています。ヨシュア氏は、その典型であることが、一連の記事で、いっそう明らかになってきました。
 
>>思っていたほど常識人ではないことが明らかになってきました。
 
>あなたよりは あると思っています。
 
相手を単純否定+相手よりマシ、と言うことで、言い返したつもりでいることに呆れる。
 
>>こんな当たり前のことを説明しなければならないことは残念です。
 

元々の議論の中心から離れ 本題から議論をずらし、本題をごまかしているあなたに
私も残念です。 アブラハムのイサク燔祭の議論はどこに行ってしまいましたか?

 
あなたヨシュア氏の、信仰についての見解は、文章を書けば、その慢心と傲慢は至るところで信仰のあり方に反していることから、そこを批判することになります。そして、そこが、イサクの燔祭への人間離れした見解の確信に結び付いていることが分かりましたから、すべての問題は、あなたヨシュア氏の信仰の欠陥にあると思わざるを得ません。
 
信仰の問題を、聖書解釈の問題から、切り離してしているのは、ヨシュア氏あなたです。「どこに行ってしまいましたか?」と、とぼける姿勢は、あなたの信仰?なのでしょうか。
 
>>社会にも、信仰にも、
>>言論の自由はありますが、
>>言論の自分勝手はありません。
 

そうですね、言論の自由といっても、それを悪用し、いつのまにか、議論の中心をずらそうとする身勝手な自由もありません。自由を取り違えない方が良いです。
信仰を言論と一体化しない方が良いです、信仰は言論活動ではありません、信仰は信仰です。
あなたは取り違えているのでは?

 
最初の「そうですね」は、逆手に取ったつもりの皮肉です。あとは根拠を示さない悪口雑言の類でしょう。
 
「信仰を言論と一体化」「議論の中心をずらそうとする」・・やはり、こちらがあなたヨシュア氏に言いそうなことを、先に言ってきました。あなたは、言葉だけで辻褄を合わせて解釈したに過ぎないのに、人間の命となる信仰を、人間離れの方向に進めた独善を勧めて、まるで預言者気取りで、分かっている信仰として自己の信仰?を絶対化して伝えようとする現代のパリサイ人のようなものでしょう。
 

信仰者には 人に寄り添うことや柔和などの行為が伴うのですが、
残念なことに あなたに そういう 人間らしさが感じられないです。
とげとげしい コメントばかりですが、
いったいあなたはどうしてそうなったのか?と疑問です。

 
あなたヨシュア氏は、賛同者には寄り添うでしょう。しかし、その柔和は見せかけであることが、批判者に対する今回の言い張りによって明らかになったと思います。人間らしい信仰を儀式的な手続きで冷たく錆びた金属に変えてしまっています。
 
あなたが誰かに寄り添ったとしても、このままでは、偽善にしかならないと思います。人間らしさではない社交の見せかけの優しさは、あなたの慢心の飾りに過ぎないからです。
 
>最後に、質問します。これが元々の議論です。
>アブラハムを義と認めたのはだれですか?
 
アブラハムに、訂正不要の絶対の義ではなく、人としての信仰の義を認め、アブラハムを愛し、その後も導いたのは神であります。だから、神は、アブラハムが息子を殺すのを止めて、アブラハムを正しさへと修正したのです。
 
人間は、人間性があるなら、そこまでしか語れないのです。そこより深く、神の意志へ踏み込もうとすると、分からないことを分かったと言い張る独善になります。
 
>以上です。stt5402jp さん。。
 
これからも批判を続けます。ヨシュア氏のような人が、長年にわたって、キリスト者を惑わせて、神の名のもとに、有無を言わさぬ従属をすり込んできたのだろうと思っています。ますます酷い記事でした。
 
この人ヨシュア氏の言説を真に受けてはいけません。
 
 
(2018年07月28日)
 
ここのところ、批判に集中せざるを得ない状況で、訪問がなかなか出来ずにおります。申し訳ありません。
 
殆ど(ほとんど)
苛む(さいなむ)
酷い(ひどい)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
 

 
  批判(6)20180726
 
   批判対象記事「st5402jpさんへ」
    2018/7/25(水) 午前 3:14 by Yhoshuah (以後、ヨシュア氏、彼、あなた)
    
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64558848.html
 
 
もう私、この人をキリスト者だと思えません。
 

stさん、あなたが最初の方で言った事、以下。
「摂理という人知を超えた神の意志ではなく、人知と情緒で分かる人間の心の流れを見るべきだと思っています。」ここから、根本的にあなたは 間違っています。
人類救済という目的がある摂理は神様の意思があり同時に人間も時に苦悩しながらも摂理に関与するのです。

 
神は、人知を超えているのに、ヨシュア氏は、神の意志を分かっているかのように、まるで、神か預言者かのように、神への恐れを知らず、自分も苦悩して摂理に関与できるのだ、と言いたいようです。
 
>>
ヨシュア氏は、指摘されたことを受け取る意志もなく、答える意志もないように思えます。言い逃れで絡んでくるだけのコメントを見て欲しいと思います。ネットで、いい気になっている人には、こういうタイプが多いような気がします。
<<
>答えは今のところ、行っています。ただ 応えるかどうかは私の裁量です。
 
どこにも結論の言い張りしかありませんし、あなたヨシュア氏の妄想的思想が表れているとしか言いようがないです。ヨシュア氏の裁量?・・自分勝手のことでしょう。
 

あなたに その権利はない。
指摘されたこと> その指摘が適切だと思えば、諾としたい、
けれどあなたの指摘は今のところ全て不適切です。

 
根拠をまるで示せないで、上から目線で、そう言っているところの、もはや人間かどうか、人間性があるかどうか、分からない人がいる、ということになります。
 

ネットでいい気に> ですか、 気がするだけですか ?確信が無いのに
意味不明の事をあなたは言っている。 良い気になってなどという言葉
で非難する人が 良識のある人とは到底思えない、ですよ。 

 
ヨシュア氏あなたは、数えきれない結論だけの言い逃れと、私への貶めと嘲笑いと、自慢を書いてきました。だから、そこに、あなたの慢心が、当然のごとく溢れています。あなたは全く自覚が欠損しているようだから、そっくりそのままお返しするところの、いい気になっているだけの「良識のある人とは到底思えない」人ということになります。
 
>>
趣味のブログではありません。信仰という人生と命にかかわるテーマであることを忘れてほしくないです。読者は、キリスト信仰のブログとして見るわけです。自分勝手容認と自己満悦で書いていいわけはありません。
<<

趣味か趣味でないかは、ブログ主が決める事であなたでは無いです。
ただし、私のブログは信仰を書いていますから、あなたに言われるまでも無いです。
私のブログはキリスト教が主旨です、あなたのブログは他人の批判が主旨のブログです。そのことは、そのことは、あなた自身が 書いていました。自分勝手な判断は、あなた自身です、あなたは自分勝手な判断で他人のブログを批判しています。
「自分勝手容認と自己満悦で書いていいわけはありません。」
個々のブログで自分の好きなように書いて悪い事は無いです。

 
>個々のブログで自分の好きなように書いて悪い事は無いです。
 
本当にキリスト者としての自覚がないのですね。妄想的な思い込みを書いたら迷惑なだけではなく、心の弱い人は鵜呑みにしてしまうこともあるでしょう。自分の書いた文章を公開している、ということを考えるべきです。あなたヨシュア氏の文章は、単純な信仰日記ではなく、明らかに、教えてあげる姿勢で書いてありますから、不備や欠陥があれば、批判抜きで読めるものではありません。
 

あなたのように自分勝手に 大した根拠も示さないまま、他人を批判する目的でブログ活動をしているよりは各段に良いと思いますが?

 
根拠は、いっぱい書いています。あなたに受け取る姿勢がないだけです。あなたが、理路ではなく、そういう調子で書いてきたから、あなたの文章一つ一つが批判対象になっている始末です。
 
>>
「お疲れー」・・ふざけた言い方をしていいような関係ではありません。
「これは良し」・・受けて考えるのではなく、容認するかどうかを語る尊大さ。
「約束は守るべきです」・・そんな約束、した覚えはないです。
<<
 

人が出会ったら挨拶をするのは、社会のルールです。だから、ふざけてはいません、あなたの受け取り方がゆがんでいるかもです。 心がゆがんでいると そう思うかもしれないですね。

 
社会のルールですが鉄則ではない、つまり、状況によっては軽蔑や侮辱を表す、という言葉の性質を、そして、あなたの心の状態も、あなたは全く自覚せずに書いていましたか。驚きに次ぐ驚き・・ここを言い逃れしてくるとは思いませんでした。さらに、それをもって、心が歪んでいるなどと言えば、今度は、あからさまな侮辱になるだけです。もう書くの、やめてください。あなたに言論者の資格はないと思います。
 

尊大> それは あなたが勝手に思う事、私はそうは思っていない。
あちこちの キリスト教ブログに出向いて あなたは 
自説をおしつけています。そういう態度が尊大なのでは?。
ただそのコメントに説得力があれば 良いけれど 全く 無いです。

 
尊大や傲慢というのは、自分で気付きにくいことだという常識もないヨシュア氏のようです。
後は結論だけですから、私の説得力がないのか、あなたに理解力がないのかは、言い張りの応酬になっても仕方ないので、読者が判断するしかないことです。
 
私は押し付けてはいるのではありません。人間なら、アブラハムが正しいとは受け取れないと言っています。かつ、アブラハムの間違いと断定するのではなく、もちろん押し付けるのでもなく、人間には理解できない箇所として保留にするべきだと言っています。
 
ここまで来ると、これからは、批判というより糾弾に近くなるかもしれませんから、私は冷静でいようと自らを戒めているところです。
 

約束> 批判する場合、アドレスの記載と無編集を あなたに言っていました、アドレス引用をあなたはしたのだから、無編集であるべきです。

 
あなたが言っただけで、私は、了承したとは書いていないと思います。自分勝手がここにも表れています。改めて言いますが、私は私の書き方で自由に書きます。反論もあなたの自由です。
 
>アドレス引用をあなたはしたのだから、無編集であるべきです
 
何の根拠にも理由にもなりません。幼児性のようなものを感じます。
 
>>>
ブログで語る事は、聖書的なことです。聖書は神様のお言葉ですから
教えるのは神様です。だから驕りたくても驕れません、
(驕るつもりも無いですけれど。)
<<<
>>
このコメントが既に驕っているのです。聖書は神様のお言葉、教えるのは神様、という理由で、あなたは、受け取る側である人間の、誤り、誤解、曲解の可能性を考えていないのです。
<< 
 
>> このコメントが既に驕っているのです。

いや、そういう stさんのコメント自体が驕りがあります。 
コメントの根拠がまるで無いです。

 
あなたは、神と人の関係、全能と不全の関係について、理解力がないから、根拠を受け取れないのでしょう。それを言っても、あなたは理解しないでしょうから、これからは、あなたに対してというよりも、あなたのブログを訪れるかもしれない不特定の読者に対して、自分信仰の危険なサイトとして私の記事で批判して警鐘を鳴らしてゆくつもりです。
 

受け取る側が間違って受け取る可能性のことですね、それも 長年学んでいくと 正確に受け取れるようになってくるものです。
 前にもあなたに 例えで言った数学理解と同じです。
人には進歩の度合いが それぞれ同じではない事はあるのです。
勘違いとかミスがあったら、記事では訂正することはあります。

 
また数学の話を持ってくるのですか。数学などの勉強と教育の例えでは決して信仰は語れません。人間はいくら知識を増やしても神の意志を正確に受け取ることはできません。その時々の判断をして実行して、その結果を祈りのうちに神に捧げるだけです。
 
やはり、あなたは、私の記事を読んでいない、あるいは、受け取っていないようです。
 
神の意志を「正確に受け取れるようになってくる」と書いていることこそ、神は、いつも真実を人に分かるように伝えるとは限らない、また全て分かるように伝えるとは限らない、という、神秘に対する敬虔なる弁えを、あなたは知らないという証拠です。これは、あなたが信仰者ではなく全能者を気取っているということです。今後も言い張るなら、それは神への冒涜です。
 
>聖書そのままを引用した事を あなたは 否定します、
>それは 神様に反逆しているのと 同じことです。
 
あなたヨシュア氏は、私が前に何度も言ったところの、聖書は解釈次第、ということをまるで受け取っていないです。そのまま、というのも、それが引用目的に沿っているという解釈なのです。分からないでしょうね。
 
>>
上にも述べたとおり、神に教えられて、学ぶ、その姿勢が、驕っているから、
自説絶対となって、訂正不能の言い張りになってしまうのです。
<<
 

聖書から学ぶと言っています、。
学ぶ姿勢が驕っている> ですか?  聖書から学ぶ姿勢が驕っている
とのことですが、あなたのいう事は意味不明です。
あなたは 思い込みのみで 根拠無く 言わない方が良いです。
言い張り> ずっとおなじ事を、根拠を示さず言い張っているのはstさん
あなたですよ。 しかも聖書の事から離れ 人格攻撃しかあなたはできていない。
聖書を学ぶ、姿勢だとか 驕っているとかstさんは言いますが、
学んでいないのはstさん、あなたです。イエス様の公生涯が何年かも知らないあなたは、
人に言う前に 自分が学んでください。
学んでも居ない者が他人に学ぶ姿勢云々と言えないでしょう。
訂正不能で 無根拠の自分の思考のみで 批判しているのはあなたです。

 
同じことです。聖書から学ぶ、これは解釈をするということです。聖書が悪いと言っているのではない。あなたの解釈つまり聖書の受け取り方が間違っていると言っています。
 
「あなたは 思い込みのみで 根拠無く 言わない方が良いです。」
決めつけた結論だけの言い張り、また、幼児性を感じます。坊ちゃん育ちなのですか。
 
「イエス様の公生涯が何年かも知らないあなた」という、つまり批判者の知識不足、ということだけにしがみついて、批判の全てを否定しようという、問い詰められて答えられないヨシュア氏の見苦しいあがきです。
 
「無根拠の自分の思考のみ」という決めつけ等々、あなたは私に対して誹謗中傷を繰り返しているようだが、私は根拠を逐一書いています。
 
以前も書いたことですが、前に批判し、今も記事があれば批判対象にしている偽牧師の偽善者が使った方法があります。言い訳ができなくなると、自分が言われそうなことを逆に批判者に向けて書いて、それで、批判者が呆れて、うんざりして去ることを期待する、という、とても卑劣で汚い方法です。このヨシュア氏という預言者か伝道者気取りの人は、思っていたよりも、より悪質な偽善者的な人だということが分かります。
 
この人ヨシュア氏の言うことを真に受けてはいけません。
 
批判(7)に続く。
 
 
(2018年07月27日、同日一部修正)
 
呆れる(あきれる)
誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
 

 
  批判(5)20180725
 
   批判対象記事「st5402jpさんへ」
    2018/7/25(水) 午前 3:14 by Yhoshuah (以後、ヨシュア氏、彼、あなた)
    
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64558848.html
 
 
>一般の方で読みに来てくれているかたには、
>このところ関係ない記事です。スルーしてください。
 
一般の人も、求道者も、信仰者も、この記事と彼の記事を読んでほしいと思います。教理と自分の解釈に凝り固まった人が、いかに、理路も情緒も解さなくなるかという典型だと思います。やはり彼は、既に書いたように、一般的な人間の理路が分からない人なのだろうと思います。
 
>あなたはアブラハムのイサク燔祭は正しくないという趣旨だということでした。
>アブラハムは人間として子を捧げるのは間違いである、というのがあなたの主張でした。
 
違います。誤解なのか曲解なのか言い逃れなのか。私は、燔祭の是非ではなく、アブラハムという人間の行おうとした行為について、人間ならば、アブラハムは正しいという理解はできないはずだと言っています。
 
> 私は 善意で説明していました。
 
凝り固まった宗教者の善意が、いかに信用できないかという表れでしょう。
 

方法として、聖書中の事なので 私は聖書で 動物燔祭の事からの関連を説明しイサク燔祭の儀を説明しました。

 
ここが、先ず大きな勘違いです。私は、儀式の説明など求めていません。人間のあり方を求めています。人間の思考と情緒において理解できないことを、理解したかのように肯定していることを批判しています。
 
>最初は 聖書に関係する議論というほどの議論でもなかったのですが、
>いつのまにか、あなたは聖書を解説する私自身への批判をするようになっていました。
 
最初から、人間とは思えない断定をするヨシュア氏自身を批判しています。
柔らかそうな書き方に惑わされないでください。
 
>聖書を解説する事や論じる事自体をするな、という趣旨です。
 
ヨシュア氏自身がこのままなら、この人の論なるものは、人間性を欠いている思考から生まれているので、書くより、書かないほうがマシだと思っています。
 
>でも 自身の主張は正しいと言う。
 
それは、そちらも、同じであり、あなたは、その正誤の検討をする前に、自分で絶対正義を固定して、それが信仰だという主張だから、批判するしかないのです。
 
人が自分で神の絶対を決めつけてしまうところに、すべてのカルトの邪悪さが表れます。その一点がおろそかになるだけで、信仰は成り立たなくなり、心は変質してゆきます。
 
>矛盾も甚だしいし、わがままで 自分勝手な事ばかり。
 
この一行は根拠を示さない誹謗中傷です。ヨシュア氏は具体的に矛盾を指摘できていません。
 

いくら説明しても st さんは 聖書に書いている意味がわからないからなのか?、論点をすり替え、ずらしました。

 
上に書いたように、的外れ応答でごまかし、疑問に答えていないのは、ヨシュア氏のほうです。それを、彼は、私を聖書の意味が分からない人という断定にすり替えています。卑怯極まりないので、そっくりそのままお返しします。
 

stさんは、論点をずらし、個人攻撃を続けるのは、
あなた自身が告白したように、
聖書の知識が乏しいから、人格攻撃しかできないからでしょう。

 
説明説得の理路を人間として持ち合わせていない者は、すぐ、個人攻撃だ、知識が乏しい、人格攻撃だ、という言い張りで被害者面をする、という、これも典型です。前にも度々私が経験してきたことです。このことこそが、根拠を示さない個人攻撃だということが分からないのです。
 

あなたのブログ記事を いくらかパラパラと読みました、
あなたのブログは開設当初から複数の他者批判をしています。
その時も聖書の事から離れて、人格攻撃オンリーと お見受けしました。

 
このように、批判されると返しに人格攻撃と言いまくるのが思い込み信仰の特徴です。ヨシュア氏は、褒められて育ち、教会などから、批判禁忌を教えられて鵜呑みにしてきたのでしょう。
 
「人格攻撃オンリー」と言ってしまうところに、彼が、人の記事を殆ど読解できていないことが表れています。それに私はすでに次のように書いているのです。
 
「批判(1)20180719」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19812128.html
>>
信仰と、信仰者の人格は、密接に関係があるので、
そこに人格が関与していれば、それも批判対象になります。
 危機的であれば、社交みたいに丁寧に済ませることは出来ないのです。
<<
 
彼ヨシュア氏は、あっさりと都合の悪いことを忘れ、また、同じことを書いています。
 

あげく、、stさんは複数のクリスチャンから出入り禁止となったり、
無視されることになっています。

 
どこを出入り禁止となったのでしょう。私は自由に書いています。
 
ひょっとして、内緒コメントか何かで、荒らしが何か書いてきたりしていないでしょうね。そそのかされたのではないことを祈っています。
 
それに、他のブログサーバーは知りませんが、今のヤフーブログの設定では管理人が誰かを出入り禁止にすることはできないと思います・・・まあ、これは、詳しくは知りません。
 
ただコメント削除については、批判する以上覚悟しておかなければいけません。ヨシュア氏のように、好かれる社交を常態する信仰ではないので。
 
つまり、ここにおいて、ヨシュア氏は、あからさまに嘘を吐きました。
 
このように、他者を貶めるために嘘を吐くことさえ憚らないのは、その根底に、相手を神の敵と決めつけ、敵を排除するためには何をやってもよいと思い込んでいるからではないかと推測します。恐ろしいことに、これは、多くの宗教戦争の動機と原動力なのです。
 

あなたは 自身でも 批判するためにブログを開設したとの事を言っていました。
誰彼となく、他人を批判するためのブログだったのですね、、。 
あなたは自称キリスト者、、、と言いつつ、残念な人だったのですか?

 
「批判するためにブログを開設した」とは、どこに書いたのでしょう。私のブログはこのブログの一つだけ、もう足掛け9年になります。また嘘を吐いたのですか。手段を選ばずに。
 
「誰彼となく、他人を批判」しているわけではありません。ヨシュア氏のような訂正不能の信仰を広めようとするものを批判してきました。
 
残念なことに、ヨシュア氏の本性が、だんだん明らかになってきたようです。彼は、自分が間違える?なんてことが信じられない人なのでしょう。
 
ここから、信じられないような言い逃れの悲惨さが表れてきます。
 
>私のブログは基本、キリスト教ブログです。
>学術的言論活動をしてるブログではありません。
>あなたの大きな間違いはキリスト教ブログが言論活動ブログだと
>誤認識していることです。 
 
キリスト教ではないと思うから批判しています。聖書について真実を書こうとするなら、学術性はともかく、それは言論活動です。ならば批判はあって不思議はないのです。つまらない言い訳はやめなさい。気持ち悪いです。だから3~4行目は、とても臭い詭弁です。
 

あなたのブログが実際は
非キリスト教ブログで左翼のような言論活動を目的としているのは、あなたの 自由。

 
私が国民として政治と無関係ではいられないことを、ヨシュア氏はことさら言って、彼自身はキリスト教だけだと、また自慢げに暗示して、それが正しいと思っているこの人の恐ろしさが表れています。なお、私が左翼の言論活動をしていると言ったら、左翼の人は笑うでしょう。
 
また、私は、政治的なことも少々書いてはいますが、イデオロギーは嫌いです。何故なら、イデオロギーには、ヨシュア氏あなたの信仰と同じように、人間離れした理屈がしばしば人を掻き立ててきた歴史があるからです。
 

しかし、私を含め クリスチャンブログは 信仰ブログなのです。
それを あなたは 認識できていない。
あなたの 記事やコメントには 極端にイエスさまとか、聖霊とか、
の語句が少ない。

 
すべてではないが大部分クリスチャンブログとして書いています。
聖書語が少なければ信仰ブログではない、というヨシュア氏の考え方こそ、垢のように貼り付けられた固定観念で唱えられる教条信仰の悍ましい姿だと思っています。
 

イエス様の公生涯期間について私が聞いたけれどれ、あなたは 知らないと答えた。
 3年半なのを 良い大人のクリスチャンが知らないはずは無いのです。

 
こういう、知識比べで人を貶める人は、自分を高めているわけですから、信仰を語る資格はないのです。実際、私は、3年くらいかな・・、ということしか知らなかったわけですが、そのとき知らないことを正直に書いただけです。誰かが、それを貶めの材料に使うなど、思いもしませんでしたから。
 

あなたの目的はキリスト教ブログを批判するだけであり、正しい聖書理解を目的としていないという事がわかります。
聖書を根拠に正しい答えを 与えられた場合、聖書で答えられないから
人格攻撃しかできない。 つまり あなたは 正しい答えを元々必要としていない人だと お見受けしました。

 
私が、キリスト教と聖書のことを書いてきた事実を無視して、「聖書理解を目的としていない」と言ってしまう人は、聖書から何も学んでいないことを自ら証しています。
かつ「聖書で答えられないから」と、まだ、自分の聖書解釈を絶対としている自分信仰をさらしてしまうのでしょう。
 
「正しい答えを元々必要としていない人」というのは、ひょっとして、私の記事「トラウマ」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19808071.htmlから持ってきたのでしょうか。
だとしたら、ヨシュア氏は、実に底意地の悪い人だということになるでしょう。
 
>クリスチャンで聖書に疑問があれば 学ぶのが普通です。
 
言っておきますが、学んだ結果が、あなたの人間離れなのです。
ヨシュア氏あなたは、学び方を間違えると正反対になる、という見本であります。
 
私は、あなたから正解を得ることは不可能であり、あなたに学んではいけないと言っています。
 
この人ヨシュア氏の見解を真に受けてはいけません。
 
批判は「批判(6)・・」に続きます。
 
 
(2018年07月26日、同日一部修正)
 
憚らない(はばからない)
悍ましい(おぞましい)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
 

 
  超常を呑みこむ者
 
 
アブラハムに
咎のない息子イサクを燔祭として捧げるように
命令した神は、
本気で息子を殺そうとしたアブラハムを止めた。
 
神は、アブラハムを、止めたのである。
 
このことから
人間が読む限りにおいて
神は本気でイサクを殺すことを望んではおらず
正しい神は
間違っているからこそ
本気で息子を殺そうとしたアブラハムを止めた
という見方しか出てこないのである。
 
しかしながら
愚直に命令を守ろうとして
人間離れしかけてしまったアブラハムを憐れんだ神は
見捨てることをせずに赦し
かつ人としての信仰の義をアブラハムに認めて
その後も彼を愛し導き続けた
という見方しか
人間ならば出来ないはずなのである。
 
しかし、教条主義であろうか、
神のなさることはすべて正しく
それは神が導いたアブラハムも正しいのであって
間違っているなどと言ってはならないと
聖書を
儀式と命令の冷たい非人間の筋書きでしか追えない者は
まるで首を横に振り続けるかのように
人の言うことに耳を貸さず
人間アブラハムを聖化し続けるのである。
 
 
自分の解釈以外には目も耳も閉ざし
強迫的に言い張りだけに専念する信仰は
最近まで長らく批判してきた偽善者と同じように
偽りの神の平安を唱えるでしょう。
 
それは
当然のように不都合な刺激を
鈍麻したゆえの常同の意志と行為をもって
あるいは
鋭い拒絶の刃物をもって
次から次に斬り捨てて見ないでいるのですから
自己防衛機制の作る安穏に過ぎないのでありますが、
今のところ事なきを得ているだけで
それを神の平安と呼ぶのでしょう。
 
信仰にも言論の自由はありますが
 
言論の自分勝手はあってはならず
他者を無視して
賛同者だけに説明して満悦して
自閉のうちに発信だけしてゆく信仰はありません。
 
それは、まさに、
パリサイ人の偽善の訂正不能の信仰と同質であります。
 
自説だけを信じて呑みこんでいる信仰は
もはや神とも双方向ではなく
反省も悔い改めもなく
同じ信仰の常態だけを保持しようとするのだから
そこに信仰の成長はなく
インプットを拒む人間の必然として
神とは違う人の不全がそのまま猛進すれば
自らを破壊する方向にしか向かないからです。
 
その破壊の方向で
神の教えとキリストの救いを宣べ伝えるならば
他者を巻き添えにする破壊であります。
 
一人は
とぼけた応答を繰り返し
一人は
滅びてもよいと言うほど
自らを空しくして見せながら
何故か自分が間違っていることだけは
可能性さえ受け入れないのです。
 
私も
40年以上を
主イエス・キリストの恩寵の下に
祈りの信仰によって
絶対孤独から救われてきた人間として
滅びてもよいと言えば不遜であることを自覚しながら
この命がこの地上から取り去られる時までは
懸命なる思いを伝える信仰者でありたいのです。
 
私が説き
かつ求めることは
アブラハムは正しいと決めつけることではなく
また
アブラハムは間違っていたと確定することでもなく
つまり
自分の解釈を言い張ることではなく
人間ならば
アブラハムが正しいということには
疑問を抱かざるを得ないことをもって
聖書のイサクの燔祭の話を
人間には正しさが理解できないこととして
いつの日か新しい納得が得られるまでは
分からない箱または疑問の箱に入れて
保留することであります。
 
それが神に対して恐れを知る者の
神を決めつけないで生きる唯一の道だからです。
 
 
(2018年07月25日)
 
咎(とが)
燔祭(はんさい)
恩寵(おんちょう)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
 

 
  熱心と熱傷
     (過去の作を一部交えています)
 
 
いくつかのサイトを訪問して
少しばかり関わって思うこととして
 
神を熱心に信仰しているつもりで
神の言葉を自分の持ち物として焼き付けて
ただ習い覚えた知識だけをひけらかして
教える立場に安穏として
そこから一歩も動こうとせず
自分の頭の概念で聖書を解釈しただけなのに、
神が教えた、聖書が教えた、
という主張だけを訂正不能に繰り返す者がいる。
 
 人が神様に感謝するとき
 多くの場合
 その賛美は的を外れており
 現状の幸福か
 多幸的な気分の先に向かっている
 
 
あるいは
キリストを
エロスのような情熱をもって愛しているつもりで
自分の信仰の覚悟を熱して語って
自らの信仰をどんどん高めながら
今すぐ滅べてもよいとまで言うのだが
キリストの前に信仰を誓ったペテロはどうなったか。
 
ゆくゆくペテロのように泣くのだろうか。
あるいは
パリサイ人のように殺意でも抱くのだろうか。
 
 人間がなしうる
 最も良質な
 精一杯の信仰告白は
 不信仰告白である
 
賛同意見を見ているうちは
穏やかなキリスト者として
優しく柔和に振る舞うのだが
疑問や反対意見や批判に出会うと
もはや拒否するか
はぐらかすしか術を持たず
熱傷の剥がれそうな皮膚を擦るように
ヒリヒリした人格があらわになる。
 
その拒否の強さは
擦り切れて焼き切れて
剥離しても構わないと言いながら
都合の悪いものを
徹底的に心から排除する思考停止である。
 
なのに文末に添えた言葉は
「にこにこ」
 
 信仰は
 理路や言葉よりも
 心の動きに表れてくる。
 
皮肉のつもりか。
荒々しさを中和したつもりか。
余裕を見せつけているのか。
今度書き込んだら・・と
むしろ婉曲的に脅迫しているのか。
 
文脈を整える節操がまず失われてくる・・
 
信仰が熱心というよりも
熱傷になっていたり
熱傷をもたらしたりすることがある。
熱傷の後の瘢痕のようになることもあるだろう。
 
 
自らの信仰の正しさを疑わないところに
冷静な信仰の話など出来るわけがない。
 
神は人に正しさを
不変に定めて与えたことはない。
不変は神のみの持ち物である。
 
 
前者の例は恐らく
ぬるま湯かガラスの培地のようなものに
親や教会や自分の言葉で培養された辻褄を
神の絶対に結びつけている。
 
後者の例は恐らく
救いの体験から訂正不能になり
決して離すまいとする情念の執着と強迫。
キリストの裾を握りしめているつもりの
贔屓の引き倒しである。
 
 
一信徒から気持ちだけ舞い上がって
溶けて貼りついたゴムのような高慢であったり
 
情熱から度々張り裂けて
ガラスの尖った欠片のような偏愛であったり
 
神の前に罪深い人の敬虔など微塵もない。
 
人間が信仰を持ち
信仰の節操を持たないと
これほど固まり
これほど爛れてゆくというのは
いったい何を教えられてきたのだろう。
 
不都合なインプットを拒んだときから
信仰は自我による固定に向かう。
社交の世辞を交わりと勘違いして
やがて自分の信仰が
どんなに変形しているかに気づかなくなる。
 
自分に不都合な
自分の思いにも気づかなくなるからだ。
 
信仰者にとって
信仰の節操の喪失は
人間の節操の喪失である。
 
神の前に
人が不変に固定できるものはない。
固定しようとすれば歪み
保持しようとすれば毀れるだろう。
 
自己納得の一点張りで罪を忘れ
神に捧げて見てもらおうとしないからだ。
 
 
(2018年07月24日、同日一部修正)
 
術(すべ)
擦る(こする、する)
剥離(はくり)
爛れる(ただれる)
敬虔(けいけん)
微塵(みじん)
欠片(かけら)
脅迫(きょうはく)
歪む(ゆがむ)
毀れる(こぼれる、こわれる)
贔屓(ひいき)
度々(たびたび)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
 

このページのトップヘ