ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年08月

 
  気づかないシャローム(2)
 
   「批評」の確立の困難さ
    
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28691854.html
     by shalom  (以後、シャローム、あなた、彼)
 
 
シャローム氏は、上のタイトルの記事を、補足したようです。安易な譬えを、意地で貫こうとしているようです。その結果、人間の原罪という重要な問題を表している創世記の話を、夫婦喧嘩みたいに語って、結局、恐ろしい結論に達しています。
 
>アダムとエバの二人を「張り合わせられた異なる種類の金属板」と考えてみます。
 
バイメタルの比喩を続けようというわけです。解説したつもりのようです。
 

アダムは男性で物事や人との関係を論理的に考え、言葉で表現し伝えようとするようです。
エバは女性で情緒的に感じ、その心の思いを、感情豊かに表現し、伝えようとするようです。

 
男女の一般的な違いに喩えたいようです。男は論理的で、女は情緒的だと言っていますが、このような決めつけが一番いけないことだとは思わないようです。そのあとの文章で弊害が表れてきます。
 
アダムとエバについて、聖書は、詳しい性格までは語っていません。原罪を表すのに、それは必要ないからでしょう。なのに、シャローム氏は、自分の考えで勝手に決めつけています。
 
なぜ余計なことを書こうとするのでしょうか。自説をまともに見せたい以上の理由が見つかりません。彼の記事とその補足は、もはや意味がないのです。
 
完成した絵画である聖書に下手な色を塗りつけるようなものです。
 

そんな二人が一緒に生きているとき、同じ物事、人との出会いを体験しても、
当然アダムとエバの理解、気持ちはふたり同じではなく違いが生じます。
その時、お互いに相手のあるがままを理解、気持ちを受け容れ合えればいいのですが、
アダムの理解が言葉で表現され、エバの心の思いは言葉より非言語的な表現で伝えられる時、
ちょっとした“ずれ”が二人の心に生じることがあります。
そのような“ずれ”はよくあることではないでしょうか。
二人の関係が良い時にはそれほど問題なく、かえってその違いを互いの個性として、
受け容れあえれば、互いに愛し合っている素晴らしい姿となります。

 
"ずれ”があることを書いておきながら、失楽園というテーマでありながら、いい夫婦ですね、というような夫婦漫才にしたいのでしょうか。
 

それが、「人(アダム)と妻(エバ)は裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(創世記2章25節)という
神さまが二人をつくられた本来の関係、姿だということができると思われます。

 
そして、こともあろうに、神が二人を造ったことを、シャローム氏が本来の姿だと判定しています。裸であったのは、まだ恥ずかしがるようになる果実を食べていないからでしょう。私たちは、原罪後の人間、裸は恥ずかしいのです。何が本来の姿なのでしょう。分かりもしないくせに、と言いたいところです。原罪となる罪を犯す罪人であるアダムとエバの話なのです。
 

ところが、ふたりが、またひとりが神さまが食べてはなりませんと言われた、
あの善悪を知る木から取って食べると何が起こるでしょうか。

 
コメント欄のないブログで問いかけていますが、それよりも、どうなったかは、聖書に書いてあることです。シャローム氏が、もったいぶるのは、すでに底の知れた彼が、まだ、聖書の先生だと気取りたいためでしかありません。
 

アダムとエバは二人の間に生じた“ずれ”が気になってしまい、
どうしても、二人は自分の理解、気持ちの“ずれ”をなくし、一致させたくて、
アダムは論理的な言葉で説明し、エバに理解を求め、
一方エバは心の思いを言葉で表現しにくさを感じ、感情を非論理的な言葉で伝えようとします。

 
気取っているだけという証拠です。シャローム氏は、バイメタルに執着するあまり、アダムとエバの心理を創作してしまいます。それぞれ自分勝手と思われるのに、相手を気遣うあまり罪を犯したことにしてしまいます。神をも恐れぬシャローム氏です。
 
 (創世記、口語訳)
3:11
神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。
3:12
人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。
3:13
そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。
 (創世記3:11-13、旧約聖書)
 
それぞれ他者のせいにしています。だから、二人はそれぞれ、自分勝手と思われる、と書きました。禁断の果実を食べたのが最初の罪、この箇所が最初の偽善ではないかと思ったりもしますが、要するに、原罪です。
 
アダムとエバは"ずれ”をなくし、一致させようとしているでしょうか。
 
シャロームは何を言っているのか、信仰そのものを分かっていない人が勝手に聖書を解釈すると、このような、おかしなことを言い出す、という見本になるでしょう。
 
アダムとエバが神に言い訳をしたように、潔さが全くないシャローム氏は、下手な文章の言い逃れのために補足して、ますます酷い話にしています。
 
>どちらもまちがっているわけではないのに、大きな“ズレ”になってしまいます。
 
どちらも間違ってない、という解釈があるでしょうか。またしても、シャロームは、何を言っているのか。原罪を表す聖書の箇所なのです。つまり罪の話なのです。
 

このことはアダムとエバの間だけではなく、人間関係や社会でよく起こることではないでしょうか。

 
だから、いいとでも言いたいのでしょうか、普通だとでも言うのでしょうか。避けるために何かを考えることをしないのでしょうか。シャロームは、しない人かもしれません。
 
人間社会で、よく起こるのは、それが人間共通の原罪だからです。つまり罪の話なのです。
 

ブログも言葉によって、お互いの考えや心の思いを伝えあっているのですが、
すばらしい出会いの喜びもあれば、荒らし、炎上となってしまうこともあります。

 
人の意見を受け取らない人、反省しない人は、伝えてはいけません。伝えるための言論の責任を負う気がないからです。そういう人にとって素晴らしい出会いはありません。シャロームが言っているのは、賛同の世辞のことです。
 
シャロームは、根拠もなく、私を荒らしだと決めつけましたが、彼は、荒らしと仲良くして、その荒らしは私のブログを攻撃しました。もう一度、載せておきます。荒らしと仲の良い、実に憎々しいシャローム氏です。
 
(引用はじめ)
 
> st5402jpさん 
 お帰りなさ~い!せっかく易坊さんから親切に声をかけてくださったのに、何も得るものがありませんでしたか。
  ・・・
2016/3/31(木) 午後 8:19[ shalom ] 」
 
(引用終わり)
 

その時、私たちの心のバイメタルはどうなっているのでしょうか。
きっと、本来まっすぐになっているバイメタルが曲がってしまい、
私たちを造り、生きたものとするために、ご自分の命の息吹を吹き込んでおられるのに、
二人の心をつないでいるバイメタルにゆがみが生じ、安全装置が働いているのではないでしょうか。

 
ゆがみが生じ、安全装置が働いているのに、反省もせずに、また記事を書き続けているシャローム氏こそ、神が吹き込んだ命の息吹を何と思っているのでしょう。
 

お互いにお互いのゆがみを指摘し、相手のゆがみを正そうとしても、
バイメタルはますますゆがみを深めてしまうようです。
家電品なら大変な事故を招くかもしれません。
やはり製造元であるメーカーにバイメタルの修復、時には交換をしてもらうことがいいですね。

 
ここに至って、やけくそなのか、比喩であることを忘れたのか、製造元とは神のことでしょうか、修理か交換してもらうことがいいですね、とは、どういう結びなのでしょう。
 
神に壊されて死ぬしかない、と言いたいのでしょうか。信仰によって生まれ変わらないといけない、と言いたいのでしょうか。ここで終わって、続くべき肝心の説明がないのです。
 
それと、引用文献の主旨が、どこかに飛んでしまいました。
 
シャローム氏は、また、ごまかすために、書き変えるかもしれないので、
今の日時は、2018年8月26日、午前3時42分です。
 
彼が、また、書き変えて、ごまかすつもりなら、私も、また、追加の批判記事を書くでしょう。
 
 
(2018年08月26日午前3時42分、一部修正)
 
 
(26日、その後、追加された文章)
 

アダムとエバの関係にその問題が生じた時、
神さまが“あなたはどこにいるのですか”とふたりを探されたと
聖書(創世記3章9節)には書いてあります。
でもふたりはイチジクの葉っぱで恥ずかしい所を隠したり、
怖れて木の陰に隠れたり、お互いに責め合ったり、
おしまいには神さまのせいにしてしまうのです。
私の、私たちの姿ではないでしょうか。
神さまはいまも“あなたはどこにいるのですか”とさがしつづけておられ、
また、どこにいるのかさえ分からなくなり、迷っている私たちを、
ご自分のもとに導くために、神の御子イエス・キリストをお遣わしになられたというのです。
聖書は神さまの私たちへの愛の記録、救いの約束、契約なのです。

 
「製造元であるメーカーにバイメタルの修復、時には交換をしてもらうことがいいですね」という比喩に相当する信仰の文章は何なのでしょう。
 
キリストが遣わされたことにしては、比喩として、表現が、不適切で、かけ離れています。神様に何とかしてもらう、という意味だったのでしょうか。
 
最後は、「聖書は神さまの私たちへの愛の記録、救いの約束、契約」という、讃美の美辞麗句で終わっています。
 
この記事、書く必要があったでしょうか。試しにちょいと書いてみました、ということでしょうか。遊びか、ボケ防止の脳トレとして、書いて、公開するのでしょうか。
 
 
(2018年08月26日午前11時30分、追加)
 
 
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  冷静な情緒
 
 
デジタル大辞泉より引用
「じょう‐ちょ〔ジヤウ‐〕【情緒】
《「じょうしょ」の慣用読み》
1 事に触れて起こるさまざまの微妙な感情。また、その感情を起こさせる特殊な雰囲気。「情緒豊かな作品」「異国の情緒があふれる」「下町情緒」
2 「情動」に同じ。「情緒不安定」 」
 
 
情緒は感情の一種だから
タイトルの冷静な情緒というのは
言葉の上では矛盾しているかもしれませんが
 
感覚、感情、意欲、思考は、不可分ですし、
 
冷静な情緒という言葉で私が言いたいのは
激しかったり勢いだけだったりの感情ではなく
しみじみ味わうことの出来る気持ちという意味です。
 
例えば、ある種の悲しみであるとか、
ある種の味わいであるとか、趣であるとか、
ある種のありがたみであるとかは、
決して激情ではなく、
人間を生かし冷静な思考に導く働きがあると思うからです。
 
このことの重要性は
落ち着いてじっくり考える
という人間の営みに必要だからです。
また
冷静な情緒が無いとカルトに走りやすいからです。
 
宗教だけではなく
あらゆるイデオロギーになりうるものに
カルトの危険があります。
 
冷静という言葉を使ったのは
冷静ではなく激情に流されやすい場合
理性的な思考や理路も破壊され病的になるからです。
 
特に、しみじみとした悲しみを経験して、
じっくり考える習慣を身につけていない人は、
宗教や信仰を思うときにも、
カルトがよく宣伝するところの
完全になることや、すべてうまくゆくとか、
日常的でないことに興味が向きやすいと言えます。
 
それは、つまり、超常趣味ということになり、
超常現象や、物や肉体の奇跡などに、こだわる気持ちが強くなり、
それに、安易に答えを与えるような、
実際の日常においては、ありえないような話に引き込まれやすいのです。
 
そういうカルト傾向の根底には
じっくり考えることを面倒臭がる心性があるかもしれません。
しかしカルトから立ち直った人も多くいることを考えると、
それを性格や人格の障害と決めつけることはできません。
 
カルトに誘う者がおり、
そこに準備状態としての超常趣味や
自己の不全感に対する苛立ちなどがあって
引き込まれるのだろうと思います。
 
しみじみと味わう悲しみは涙を誘いながら
じっくり考えることを促してゆきます。
 
それは反省と再生産のステップと言えるでしょう。
それによって与えられた逆境でも再出発できるのです。
 
 
涙が出ないような泣けない悲しみは
激情を伴っていることもあり
衝動的になることもあるので
この記事の主旨とは離れていますから
休養もしくは治療が必要になりますが、
いつもそういう場合というわけではないでしょうから、
まだ何とか耐えられる悲しみや怒りのときに
できりだけの冷静さで
自分を見つめることはできるかもしれません。
 
 
キリスト信仰の立場から言いますと、
悲しみに涙を流すときには
自分の弱さや小ささが身にしみます。
こういう機会は人間にとって
自力で物事を完璧に行うことについての不全感を与え
さらに内省を促して
祈りに向かう心を促進するという意味で
信仰者や求道者にとって
掛け替えのない気付きにつながる可能性があるのです。
 
その感情は、悲しいのだから、
そのとき恵みとは呼べないでしょうけれど、
あとになって振り返るとき
導かれたのかもしれないという感慨に至ることは
十分にありうるだろうと思います。
 
キリスト信仰の立場から言いますと、
ここでは、完全になるためではなく、
自分が人間として生きるために、
自分という人間を遥かに超えた絶対者の存在を希望し、
その御方に祈る初めでもある出会いの機会
というくらいは言っておきましょう。
 
 
何よりも責められるのが嫌で、
責めた相手に憎しみしか返せず、
 
悲しみが嫌で、泣くのが嫌で、
そのもとになる罪悪感が嫌で嫌で
 
ただ楽なことだけを求めて、
罪悪感を感じないで済むように、
いつも悲しまないですむように、
いつも笑っているだけであるように、
などという境地を
一思いに手に入れようとする者たちが
空約束を信じてカルトに走る典型なのでしょう。
 
そこに用意されているのは、
あらゆる都合の悪いことを無視して、
自分に不快を与えるすべてのものを憎んだ末に、
自らの人間性をも破壊して自然な理路も情緒も葬り去った後の
不感不応で常時薄笑いを浮かべることを悟りと呼ぶ病的陶酔状態だけなのです。
 
 
人間らしい微笑みは、決して
悲しみを無視したり排除したりするところにはありません。
 
人間らしい微笑みは
悲しみを乗り越えたところにあります。
それは悲しげでありながら他者にも共感の潤いと温もりを与えるものです。
 
 
(2018年08月26日)
 
趣(おもむき)
 
 
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  気づかないシャローム
 
   「批評」の確立の困難さ
    
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28691854.html
     by shalom  (以後、シャローム、あなた、彼)
 
 
シャローム氏は、引用文献とシャローム氏の文章が自分を斬っていることに、シャローム本人だけが気づかない、という記事を書いています。
 
>この記事は中根千枝著「タテ社会の人間関係」(単一社会の理論)
>〈7.人間と人間の関係〉より引用。
>講談社現代新書1967年発行。900円(税別)
 
「論理を容易に無視するこの相対的価値観は、
 現実の日本人の人と人との関係、やり取りに如実に発揮されている。
 そして、特に知的な活動において致命的な欠陥を暴露するのである。
 そのもっともよい例の一つは、日本人による批評家の「批評」の確立の困難さであろう。」
 
論理を無視する感情的相対的価値観は、日本人だからでしょうか。
人間というものが、正当と不当の両方を持っている厄介な生き物である
ということを前提にすれば、批評の確立は容易ではない、
ということが本質ではないかとも思われます。
 
それを、確立している、という慢心で語るのがシャローム氏です。
 
「はっきりいうと、知らない人のもの、自分の反対に立つ人のものに対しては、
 悪評するが、知人や仲間、とくに先輩のものに対しては、
 必ずといっていいくらいほめている。」
 
文学の世界でも前に読んだことがある、いわゆる、仲間ぼめ、ということでしょう。
透明なはずの世界に、世間ずれの処世が入り込んでくる、という話です。
 
これは、必ずしも、日本だから、だけではないような気もしますが、日本にそれがあるということは否みようもなく、とても見にくいカルト同士の仲間ぼめがあり、批判者に対するボロクソ節があり、いずれもタテ関係の上に立っているつもりのシャローム氏の特徴でもあります。
 
シャローム氏は、シャローム氏について一部のカルト信者と荒らしのお世辞の好意的意見を見たのでしょうか、共通の敵である私の批判を無視して記事を書き続けますが、その記事が、自分を斬っていることに、シャローム氏だけは、気づかないようです。
 
シャローム氏は、批判を無視して書き続けています。
一方で、おいしいことを言ってくれれば、荒らしとも仲良くします。
シャローム氏が、荒らしに好意を寄せていたことを表すコメントを挙げておきます。
 
(引用はじめ)
 
> st5402jpさん 
 お帰りなさ~い!せっかく易坊さんから親切に声をかけてくださったのに、何も得るものがありませんでしたか。
  ・・・
2016/3/31(木) 午後 8:19[ shalom ] 」
 
(引用終わり)
 
シャローム氏は、世辞を喜び、批判を不快とする人です。
彼の精神は、快感は正義であり、不快感は不義、という単細胞だと思います。
こういう人には成長がありません。反省しないからです。
その根底には、またしても、そして二重三重に、
自分が神によって完成しているという傲慢があります。
 
批判は、他の人がシャロームの影響を受けないようにしたい、
という動機と目的で書くことになります。
 
シャローム氏の自覚としては、自分は知識人であり、
常に神の平安のうちにあって、完成しており、批判など受け取る必要はなく、
神の啓示と聖霊の導きなのだから、書いてゆくことが信仰だ、ということでしょう。
そのことが、ますます、彼の偽善を増長させ、
理路と情緒と文章の、不整と不正を際立たせてゆきます。
 
その理由として、彼は、強烈で頑迷な自分信仰者であることと、
そのために知性も感性も失って批判の理路を理解できないのだろうと思います。
批判を糧とすることが出来ないのです。だから無視し、だからさらに批判され、
さらに面の皮を厚くして、また書き始めるのでしょう。
 
「そして、往々にして、(筆者などもついそうなってしまうのだが)、
 本当に作品の弱点を突いたのちに起こる、
 いまわしい、パーソナルな感情攻撃をされることを考える、
 ついおざなりのことを書いてお茶をにごしてしまいたくなるのである。
 あるいは初めから、依頼を断るしか方法がない。
 結局、損をするのは第三者である読者であり、これは大きな社会的マイナスである。
 書評の信頼度が非常に低いということである。」
 
批判は、自らのこういうあり方との闘いであります。
 
シャロームに対して、お茶を濁したり、世辞を言ったりすることは、
信仰者にとって、命をどぶに捨てるようなものだからです。
 

著者紹介 (ウィキペディアより)
中根 千枝(なかね ちえ、1926年(大正15年)11月30日 - )は、日本の社会人類学者。専門はインド・チベット・日本の社会組織。東京大学名誉教授。女性初の東大教授。女性初の日本学士院会員。また学術系としては女性初の文化勲章受章者となった[注 1]。イギリス人類学民族学連合名誉会員、国際人類学民族学連合名誉会員など。

 
自分は東大教授の文章を読んだのだ、と誇るため、わざわざ紹介文を載せるのでしょうか。
このことは、引用著者とは全く異なるシャローム氏の正当を担保したりはしないのですが。
 
>《shalomのコメント》
 

日本人の心は社会的強制である世間様に対して建前と本音に分れているようです。
あるとき、あの人はとても話の分かる人だと思っていても、その場と空気が変わると
悪意があるわけではなくても、まるで違う人のように変身できるのです。
まるでカメレオンのようだなと感じることがよくあります。

 
述べたように、相手が世辞を言うかどうかで、
談笑と手もみの追従から~牙を剥いて野獣~セメントのように不感不応まで、
心をカメレオンのように、違う人のように変身するのがシャローム氏です。
 

「ヨコ」社会では自然なことであっても、「タテ」社会ではどうでしょうか。
神さまは素晴らしい天地万物をお造りになられましたが、
「タテ」と「ヨコ」を分けてお創りになったわけではありません。

 
どうして、それが、シャローム氏に分かるのでしょう。
しばしば、シャローム氏が、神の意志を語ることを真に受けないでほしいと思います。
彼は、自らの浅知恵で把握したつもりで書いていますが、それを自分に対してだけは
向けることの出来ない人だからです。
 

おしまいに、その自然を治める人(アダム)をご自分のかたちにかたどって造られました。
でも人(アダム)が一人であることはよくないと女(エバ)を助け手としてつくられました。
なぜアダムにはエバという助け手が必要だったのでしょうか。
アダムとエバとの関係、交わりを神と人、人と人との関係の
バイメタルのような安全装置として与えられたのではないでしょうか。
人が神との関係を失うと、張り合わせられた異なる種類の金属板が湾曲し、
神との交わりが遮断されてしまうことが分かるようにしてくださったのではないでしょうか。

 
また強引に信仰話に結び付けてきます。何でもかんでも信仰の話にすれば格好がつくと思っているようです。
 
引用文献にあるところの、感情が前提になって理路を抑えているという話は、いったい、どこへ行ったのでしょう。
 

バイメタルとは
熱膨張係数の異なる2種の金属板を圧延法ではり合わせ,温度が変化したときに湾曲するようにしたもの。比較的小さい温度変化をかなり大きな変位に変換する機能がある。これを利用して温度計として用いたり,あるいは温度変化を検出して自動的に働くスイッチとして家庭用電気機器などに広く使用されている。

 
今は電子制御になっているのかどうか、知識の乏しい私には分かりませんが、シャローム氏は、たまたま得た知識を、無知な皆様方?と彼が思っている読者に教えたいようです。
 
というのは、ここでバイメタルに喩える必要はないからです。何故なら、人間にとって、バイメタルのような安全装置が適切には働いていないことが問題だからです。そして、その典型例が、シャローム氏その人であるからです。
 
安全装置がある、ということでは、決して解決しない問題なのです。
 
>神との交わりが遮断されてしまうことが
>分かるようにしてくださったのではないでしょうか。
 
神との交わりを遮断して反省しなくなったシャローム氏の、
何も分かっていない話、としか言いようがないでしょう。
 
神を自分で決めつけることは、こういう尊大さと、その間違いに気づかなくなる救いがたさを招く、ということを、彼のような手遅れになる前に、読み取ってほしいと思います。
 
 
(2018年08月26日)
 
 
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  言い逃れ
 
 
ハハ、フフ
と書いてきたから
こちらを笑ったと返したら
微笑みです
なんて
 
微笑みは表情であって
声ではありません。
 
神の義と
人に与えられる信仰の義は違う
と書いたら
神が義としたのだと言い張る
なんて
 
誰が義としたかではなく
二つの義の違いを説いているのに
話をそらして言い逃れ。
 
理路が分からないのは
言い張ることしかできないカルトだから。
となると
笑ったと書けば返してきそうだ。
ハハ、フフは、文字であって
声ではありませんと・・?
 
たぶん言葉で表す様々の表現も崩壊して
通じなくなっているのではないか。
 
思慮分別、常識、理路、情緒
の崩壊してゆく者の言い分は
相手の言い分など聴いていない。
浅く言葉を引っ掛けて
その場の思い付きで返すだけ。
 
そのうち言ってくるか。
「神」は言葉であって
神そのものではないと。
 
実はその通りなのだ。
 
私たちは
神という言葉を使って
信じるというとき
すなわち神を仰ぐとき
神の導きと人の幸福について
その経過や結果について
実に多くの余計なものを作って
そのイメージや概念を思い込みやすい。
 
だから修正可能でないと
自分の思い込みを信じ込むことになる。
 
思い込みは文字列に過ぎない
などと言い出すかな・・?
 
神は神聖であり在って在るものだから
人がそのことをどうか出来るものではない。
思い込みは人の産物だから
いくらでも邪悪になりうることを知るべきです。
 
誰も神の正体を知らない。
神の意志も計画も知らない。
知っているのはせいぜい
善いことなのだろうということだけ。
人の浅知恵で、知っている、
分かっている、見える
などと言ってはいけない。
 
神の言葉と言われているのは
人の言葉で表された聖書だ。
 
一つの言葉にこだわって
そればかり繰り返していると
人の言葉の奴隷になり
神の言葉を裏切るだろう。
 
神の沈黙をよいことに
カルトが羽を伸ばしているようだが
 
神はいつまでも黙っておられるわけではない。
 
それより前に
人は今持っている心さえ保持など出来ない。
ゆえに
訂正不能は保持ではなく
自覚不能な崩壊への変化だ。
 
 
(2018年08月25日)
 
羽を伸ばす(はねをのばす)
 ≒ 抑制されずに好きなように振る舞う
 
 
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  教条のカルト(5)
 
   今回もtodaさんの記事を評価します。
   
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64580853.html
    by Yhoshuah (以後、ヨシュア、あなた、彼)
 
 
「少なくとも
 キリストに救われた人々は
 超常でもなく優秀でもなく有能でもなく
 キリストの理解者でもなかったのだから 」
 

そう言いきれますか?
救われた人全部がダメな人ばかり?
違うでしょう、それはあなたの思い込みで想像の範囲からでていない。
この世的に優秀な人はいたし、有能な人もいた。
キリストの理解者でもなかった?
ファリサイ派のニコデモや お金持ちのヨセフやヘロデの家臣らの
妻たちがイエスさまを信じて従っていたのをあなたは知らない。
彼らや彼女たちは当時の最高の教育を受けていた。
あなたは、うそを書かないでもらいたい。

 
やはり旧約に生きている人のようです。
自分という人間を考え、
孤独のうちに十字架についたキリストを考えれば、
キリスト者なら罪と敬虔というキーワードから理解できる文脈を、
ヨシュア氏は、理解できないのです。
 
また、私は、人間の不完全性として、
キリストの前で、優秀、有能、理解、ということを否定したのに、
ヨシュア氏は、それをダメ人間と受け取ったようです。
そして「あなたは知らない」と
自分が知っているという慢心から、
最高の教育を受けていたという限られた人を挙げて、
正しいのだという主張をするのです。
彼のように、こういうことを言っているあいだは
キリストとの縁はないのです。
 
彼に従えば、立派であることを目指し、誇るような
人間信仰に近いものになるのでしょう。
 
「小さい正直さだけをもってキリストに会い
 飾らず率直に祈る内容が誤解であっても
 その罪人の自覚だけを見られるところの
 キリストの愛と寛容によって赦され癒され救われたい
 という自分に気づくはずである。 」
 

小さな正直さで、あなたも 神様の前で祈ってください。
うその正直さや、自己を誇った行為をいまだに続けている自分を
自分で気づいてください。

 
人間の不完全さに共感を求める文脈も読み取れずに嫌味で返しています。
ここに共感しないで自己を誇ることは、ヨシュア氏の文章の特徴です。
そして、気づきのない人の特徴でもあります。
 
「信仰は
 超常の奇跡だけではない。
 言葉の暗記だけでもない。
 信条の順守だけでもない。
 これらは救いの要件ではない。」
 

だけではないと書いているので一部含むと言う意味でしょう、その後で
全否定している文章で矛盾があります。

 
信仰は、奇跡、暗記、信条、だけではない、
つまり、もっと大切なことがあると言い、そして
これらは救いの条件にもならないと言っている文脈も
彼は、国語力の問題か、信仰の堕落か、理解できないようです。
 
「信仰は
 超常は分からず暗記も順守も出来ない人間が
 罪深き我が身と心を
 正直に神の前に捧げて
 戒めと懲らしめの神を恐れる弁えをもって
 すなわち
 神の下に小さく
 キリストの下に安らぎを求める罪人でしかない自らの弁えをもって
 祈りを捧げること以外にはない
 と知るはずなのである。 」
 

しっかり自分の事として信仰したら良い。
他者にそう言って自分では 守っていないのは
あなたでしょう。

 
私は、ヨシュア氏に、一言のアドバイスも求めてはいない。
私はヨシュア氏の信仰はカルトだと批判しているのです。
 
言うに事欠くと、彼は、余計なアドバイスめいたことを書いてきます。
 

番外、
執り成しについて。
戸田さんがnoelpixさんと議論していました。
このことについて言及してみましょう。
以下はあなたのコメントです。

 
「> noelpixさん
 
それは、主イエスの仕事です。あなたは、主の領分を犯しています。
2018/8/20(月) 午前 4:32 」
 

主の領分を犯しています。果たして、そうでしょうか?
執り成しとは、罪咎のある人間が、神様の裁きに合わないように
仲保者となって、神様に罪咎のある人間の代わりに
弁明をして赦しを願うことである。
この仲保者になるのが
キリストであるのは
言を待たない。
キリストイエス様は大祭司でありますからね。

 
だったら、どこが問題なのでしょう。
 

しかし、キリストだけが仲保者の役目か?というと
そうではありません。
最大最高の仲保者はキリストであるのは間違いないけれど、
イエスさまが来臨するまでは?
旧約時代、祭司が捧げものを以て
神様の御前にでて、捧げて
罪びとの罪の赦しを祈り
執り成しをする役目を担っていた。
そのほか預言者たちも執り成しの祷りを捧げています。

 
旧約では、律法の戒律に堕してしまったから
キリストが遣わされて、新約の時代になったことについて
ヨシュア氏の理解では、全く重みが感じられません。
やはり、彼は、旧約に親和しているようにしか見えません。
 
その表れとして、以下のように
 

 
たとえば、
 ダニエル書/ 9章 20節
こうしてなお訴え、祈り、わたし自身とわたしの民イスラエルの罪を告白し、
わたしの神の聖なる山について、
主なるわたしの神に嘆願し続けた。
 
ほかには あの有名なアブラハムの10人の義人のお話があります。
 
創世記/ 18章 32節
アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、
もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
 
モーセも金の子牛の像を造った民のためにとりなしました。
現代でも司祭が執り成しをします。
神道でも神官が神様に執り成しの祷りを捧げます。
 
こういう事で戸田さんは、うそと言いますか、
虚偽を言っています。
間違っているので、noelpixさんに謝罪してください。
あなたはこの方の好意をさえ貶めていましたからね。
 
あなたは、口を動かせば動かすほど、謝罪の対象の人が
増えています。
 

 
よほど旧約が好きらしい。長々と書いています。
 
旧約が不十分、というより、偽善に堕したから、
新約が、キリストによって、与えられたのです。
このキリスト教の一番大事なところを
ヨシュア氏は、理解していません。
 
私は次のようにコメントしました。
 
「 > noelpixさん
  
  >彼は自分では何をしているかわからないのです
  
  人がこう祈れば、「彼」に対する侮辱になります。
  
  2018/8/20(月) 午前 8:53st5402jp返信する   」
 
どうでしょう、キリストの言葉を用いて、
あなたは自分で何をしているか分からないのです
と言われて、執り成しだからと感謝できるでしょうか。
 
できないです。何故なら、そう言った人の、
あなたが何をしているのか分かっているぞ
という思い上がりが露骨だからです。
 
次は、ヨシュア氏の、カルト防衛の凶暴なる部分、
許可してもいないのに
信仰とは関係のない私の個人情報を
私のブログから持ってきて、またしても攻撃のネタにします。
しかも上から下に教える姿勢です。
 

そして、、
あなたの母さまがクリスチャンかは知らないが、
あなたの母さまは、あなたが育つ間、あなたが
健康で健やかに育つように、神様か仏に祈っていたのでは
ないかな。
あなたが、子供のころ何か病気になった時、
何とか早く快癒するように神様に願ったのではないかな。
それは執り成しとは違うけれど、似たような事です。
自分のためではなく、他者のために祈ったり、
願ったり人間はするのです。
親はそうしたものです。
あなたは、他者のために祈った事が無いのかな?
他者のための祷りは執り成しに近い。

 
母は、カルトにつかまりそうになったことがあります。
つかまらなくて、本当に、よかったです。
 

自分の事しか祈れない人間には、
わからないかもしれないけど、
そんな人間にはならないようにしてください。

 
繰り返しますが、私は、ヨシュア氏に、
また、私の母を知りもしないで、祈りや執り成しではなく、
私を貶めてくるような、ヨシュア氏に、
一言のアドバイスも求めてはいません。
呆れた男です。
 
 
(2018年08月24日)
 
 
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