ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年09月

 
  大仰な讃美
 
 イエスは神の国の主権と支配を現わされる
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28735082.html
  by shalom (以後、シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
神に背いている者は、罪を隠すために、また、批判されると、さらに大仰に、神を讃美します。
 
>主の主、王の王なる方だから
 
実に大仰に。しかしながら、讃美することで、隠している偽善の罪に、神が目をつぶるということはないのです。無駄なのです。
 
罪は、悔い改めない限り、赦されることはありません。
 
私が讃美に対して、疑問を呈したのは、こういうわけがあるからです。きわめて単純な反応として、隠し事のある者ほど、そのうしろめたさを打ち消すかのように、神を誉め讃えるのです。
 
打ち消されるものは、何もありません。ただただ偽善が増し加わるだけなのです。
 

わたしたちイエスを信じる者、また主の教会が、その言われるみ言葉を聞いて従うことの大切さ、その意味がお分かりになったでしょうか。

 
聞いて従うことの大切さ、と言っている引用記事も疑問です。従っている振りをする偽者が多いのです。むしろ、しばしば従うことの出来ないことがあり、そういう罪人への救いが、キリスト信仰なのです。
 
>《shalomのコメント》
 

「King of kings  Lord of lords.......」歓喜の絶頂です!
生ける神は自らの罪のために、神の国を見失ったわたしたちに、
イエスさまをこの世につかわされ、そのみことばと御業によって神の国を支配を現わされました。
さらに、その十字架の死によって、私たちの罪を贖い、罪の赦しを与えられ、
さらに約束の聖霊を注ぎ、よみがえられたイエス・キリストの身体である教会を建てられたのです。

 
お祭り騒ぎのように讃美していますが、悔い改めの必要を否定しているシャロームは、罪人への救いを気にしません。十字架によって、罪は贖われたから気にしなくてよい、という考えなのです。讃美しておいて、罪について、無頓着でよい、という、この考え方は、決してキリスト信仰ではなく、偽善なのです。
 
次にシャロームは、使徒行伝を引用しています。
 

そのことについて使徒ペテロは次のように述べています。
【口語訳】新約・使徒行伝2章29~40節

 
以下、わけて引用します。
 
使徒行伝

2:29 兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。
2:30 彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、
2:31 キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。
2:32 このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。
2:33 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。

 
キリストの肉体の復活、そして、聖霊の注ぎ、という、超常からの救いの仕組みだけを後生大事に繰り返し讃美してきて、キリストの心に何の共感もないのが、シャロームです。ちょうど標識だけを見て分かったことにして、それが必要となった経緯を全く考えないのに等しいのです。
 
使徒行伝

2:34 ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、/『主はわが主に仰せになった、
2:35 あなたの敵をあなたの足台にするまでは、/わたしの右に座していなさい』。

 
34ないし35節については、詩篇110章からきているそうです。
 
詩篇110:
新共同訳1987
110:1 【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」
口語訳1955
110:1 主はわが主に言われる、「わたしがあなたのもろもろの敵を/あなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と。
 (旧約聖書)
http://www.bbbible.com/bbb/bbbps1101.html より。
 
'adoni わたしの主・主人・主君
YHWH  イスラエルの神の固有名詞
主<YHWH>はわが主<'adoni>に言われる、「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と。
「わが主 adoni 」は、ダビデの主。それが、YHWHと区別されていますから、理想の王 - メシアであると解釈するのが一般的ではないでしょうか。
わたしは、YHWHです。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2263992&id=63174045 より。
 
「わが主」「あなた」はキリスト、「主」「わたし」は神{ヤハウェ}ということでしょうか。
 
使徒行伝

2:36 だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。
2:37 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。
2:38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
2:39 この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。
2:40 ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲った時代から救われよ」と言って勧めた。

 
38節に「悔い改めなさい」と書いてあるのに、決して悔い改めることなく、罪を隠して偽善を働き、この二千年前のキリストの肉体の復活のみに縋りついて、自分は救われると信じ込み、変わることのない尊大さと傲慢によって、今も、人に教える牧師気取りで、やたら讃美しまくるこのシャロームをどう表わしたらよいでしょう。
 
キリストの心を捨て、野良犬の本能のように、キリストの肉を欲しがる者、とでも言うべきでしょうか。
 
>神の平安がありますように!
 
白々しい。よく言えるものです。
 
救われた感謝と讃美だけで、シャロームは洗礼を受けたのでしょうか。それで、今もキリスト者のつもりで、さらに牧師のつもりでいるのでしょうか。
 
 
もう一度、言いますが、私が讃美に対して、疑問を呈したのは、この記事のような事情が想定されるからです。きわめて単純な反応として、隠し事のある者ほど、そのうしろめたさを打ち消すように、神を誉め讃えるのです。
 
信仰者になってゆく過程で、誰からか知らないが、すり込まれたものは、奇跡のような体験の信じ込みと相まって、それが邪悪で間違っていることを説いても、容易にとれません。この辺は、カルトによく似ています。
 
正当なキリスト教とキリスト信仰においても、個人の誤解や曲解が入り込んでくると厄介になってきます。揺るがない信仰を・・と教えられているからです。だから、一般的に、人間の信仰というものを、訂正不能にしてはいけないと言ってきたのは、決して信仰の周辺事項ではなく、最重要課題に属することなのです。
 
信仰の初期において、他者からの自由ということが、私にとって大きな恵みでした。周囲の評判や他者の思惑からの解放を感じて、とても自由になった気分でした。しかしながら、他者からの自由は、決して他者を無視して勝手気ままでよいということではないのです。そのことも、やがて、信仰の道理として学んできたつもりです。
 
シャローム氏は、その信仰の初期に得たものを絶対の賜物として訂正不能に固定してしまったのでしょう。そうなると、そこからの成長がなくなり、変化し続ける他者と周囲に対して、もはや無視という方法しかなくなってしまうのです。
 
信仰において揺るがないのは主から与えられる希望であって、信仰者個人が信じ込んで持っている言葉や行為の教条ではないのです。
 
 
(2018年09月30日アップ、同日一部修正)
 
大仰(おおぎょう)
 
 
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  自己満足の偽善(2)
 
   「うらみ」は満たされない欲求?
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28731630.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームが、人間離れした超常現象だけに信仰を求めていることが見えてきます。
 

使徒パウロは次のように書いています。
使徒パウロは在世中のイエスを直接知らない人なのです。しかも、かつては
イスラエル社会のエリートの地位にあり、イエスを信じる人々を迫害し、投獄し、
死にいたらせていた人のなのです。そのパウロ自身も殉教したのです。
そのパウロの言葉なのです。

 
パウロは、パリサイ人でありましたが、悔い改めて、使徒となった人です。
シャロームは、悔い改める心を見せたことがありません。
 

新約聖書コリント人への第1の手紙15章12~19節
「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、
死者の復活などないと言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。
更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。

 
だから、シャロームのような人は、二千年前の肉体の復活にこだわるのです。二千年前の甦りに縋って自分は救われると信じ込んでいるのです。
 
そのような儀式的な考えと、超常の奇跡にこだわることで、今、いちばん大切にするべきことを、ドブに捨てているのが、シャロームの信仰だと思うので、誰も真似してほしくないから、批判を続けています。
 
シャロームは、たとえ、キリストが再臨しても、人間性がないので、それを理解しないだろうと私は思っています。
 
自分を小犬と言った女性も、衣に触った女性も、十字架上の犯罪人も、神とキリストに対する敬虔な人間の態度を心得ていました。
 
敬虔な姿勢の代わりに「(笑い)」「ハハ」「ププ」「けらっ」と書いた者たちは、それが、滅びのしるしだということに気づかないのです。
 

なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。

 
肉体の奇跡にこだわって、魂の奇跡を疎かにするシャロームは、例えば、どこか外国で死者が蘇ったという話を聞くと、それを盛んにブログで宣伝していました。事実を確かめようもないのに、それが信仰だと思っているようでした。
 
そして、日夜、コメントを削除し、偽善の証拠を消すことに専念していたのです。超常の奇跡にこだわるシャロームの信仰は、日常の現実を台無しにすることで、自己満足だけに集中してゆく経過と結果しか生まないのです。
 

そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、
あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、
キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。
この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちは
すべての人の中で最も惨めな者なのです」とパウロは書いています。

 
自分は、肉体の復活を信じていると、豪語したいようです。
 
復活については、肉体の復活はあったかもしれないが、この現実世界を見ると、精神の不滅すなわち霊的復活しか信じられないでいることをお赦しください、と祈ったことがあります。その結果は、神にお任せするしかないことです。
 
ただ、私の乏しい経験において、肉体や物に起こる奇跡にこだわる者たちには、ろくな人物がいなかったということをここに記しておきます。
 

今日も、わたしたちがイエスさまをとおして神の聖、愛、義にふれる時、
ありのままの自分、他の人、物事を喜びをもって受け容れることができるように
変えられていくのです。
なぜなら「神は万事を益となるようにしてくださる」(ローマ8:28)からです。

 
シャロームが、神の聖、愛、義に触れているなら、非と罪と悪を隠蔽して、善に見せかけるなどという偽善を犯すことはないはずです。
 
シャロームは、(ありのままの偽善者としての)自分を喜びをもって受け容れることを信仰だと思っているようですが、善に見せかける偽善自体が既に罪を認めず、赦しを拒むことですから、このシャロームの言は、白々しい詭弁であり、このような記事を書けば書くほど、滅びのしるしが増し加わることを知らないことを示しています。
 

信仰とは決して気休めでもなければ、わけのわからないまじないでもなく、
ましてやご利益や葬式のためでもありません。

 
シャロームにとって、悔い改めのない無条件の救いが信仰のようです。それは、いかなる道理にも反していて、魔法、まじないに近く、まともでないのに、まともだと思われる、超常の仕組みを知っている思い上がりで、聖書の先生として尊敬されたがるような、精神的な利益を求める態度そのままなのです。
 

神をも人をも愛することのできない私たちを、あえて愛してくださる神を信じることが信仰です。

 
違います。私たちは、神の愛を知るゆえに、不完全でも、神を愛することが信仰です。
 

私たちの愛は神との関係、交わりを失っているときには、必ず自己中心的なものでしかなく、
互いにすれ違ったり、傷つけるものとなってしまうのです。
神の変わることのない確かな愛をもって愛されていることを知ってはじめて、
私たちは互いに愛し合うことができるように変えられるのです。

 
そのことに、愛されない偽善者となって、真っ向から背いているのが、シャロームです。
 
それを正当化するために、記事を書いてきますが、弁明が成り立ったことはなく、滅びのしるしだけを表す経過と結果になっているのです。シャロームは、他者を、少しも本気で愛してなどいないと思います。記事のすべてが、彼自身の利益ために書いているだけだからです。
 

愛し合うということがどういうことであるかという誤解、互いに自立できない自他未分化関係から生じる共依存、共支配関係からも解放されるのです。

 
この「未文化」という言葉によって、どれだけ、シャロームは、批判者を愚弄してきたことでしょう。未分化つまり未熟だから、自分に依存して、かまってくれないことへの恨みから批判している、ということを書いてきたのは、もうずいぶん前のことですが、今も変わらないことが明らかとなりました。彼は、人の話を、まるで聞いていないのです。
 
だいたい自分が依存されるような人物だと思えること自体が呆れた話なのです。「依存」という言葉をどこかで見つけたことから考え出した言い逃れなのです。知識を本能的に保身のために使って、さらに恥をさらす経過と結果となっているのです。しかも、もうずいぶん前から。
 

私たちが生けるまことの神を知らないとき、食欲、性欲、睡眠欲という本能をゆがめ、
ただ欲望を満たすことをむさぼり求め、刺激を求めたりして、
また、互いに愛しあいたいという本能をも汚し、また物を得ることによって心の不満、空洞、
霊的渇きを満たそうとして、ただ忙しくしていることが充実した生活、
生き方であるかのように錯覚してしまうのではないでしょうか?

 
ただ欲望を満たすことをむさぼり求める、ということは、食欲、性欲、睡眠欲という本能をゆがめることでしょうか。文脈が変になっています。本能に神を求めることを入れたためのゆがみであり、それは、他でもないシャロームの
 
>第2に心(魂)にかかわる本能として互いに愛し合いたいという欲求です。
>第3に霊にかかわる本能で生けるまことの神を求める欲求です。
 
という言説の前提が間違っているからです。人が神を求めるのは、本能ではなく、生き方に悲しみ、生き方を考える、という経験からでしかありません。
 

霊的渇きを満たそうとして、ただ忙しくしていることが充実した生活、
生き方であるかのように錯覚してしまうのではないでしょうか?

 
また「霊的」を付けていますが、充実した生活についての陳腐な感慨です。これで、人が神を求めるようになると思っているのでしょう、彼は、深みのない自己満足の記事を偉そうに書いてきます。日々、偽善を隠しながら。
 

そして、あの「お忙しいですか?」と心の空洞を埋めようとしているのではないでしょうか?
パスカルは言いました。「神によって造られた人間の中には神のかたちを
もってする以外に決して埋まらない空洞がある」と。

 
哲学者が、人間の現実の空しさを認める言葉に対しても、あり余る暇を滅びに費やして、自己正当化に利用することしか出来ないシャロームは、その言葉面を深く掘り下げることが出来ません。深みがない、これは、隠し事とともに暮らすシャロームの記事の変わることのない現実として続いています。
 

あなたはどのように思われますか?
「人はパンだけで生きるものではなく、
神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるものである」(マタイ4:4)
「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、
わたしを信じる者は決してかわくことがない」(ヨハネ6:35)
【口語訳】新約・ヤコブ4章1~6節
4:1 あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。
あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。
4:2 あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。
熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。
あなたがたは、求めないから得られないのだ。
4:3 求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。
 :4 不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。
おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。
4:5 それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と
聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。
4:6 しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、
「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。

 
言っておきますが、彼の偽善と隠蔽を考えるならば、
シャロームは、命のパンを食べているとは思えません。彼は、保身の欲情によって罪を犯し、それを隠蔽しています。天国も神の義も、貪ろうとして得られず、シャロームは、自尊の快楽だけを求めています。そして、騙されて世の友となる人を欲しがっています。私は、彼は神の敵だと思います。偽善者が、偽善者のまま神のしもべになることはありません。
 
神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う神に、シャロームは、真っ向から背いているのです。だから、滅びのしるし、と書きました。滅びゆく者に好意的に関われば、その人も滅びるでしょう。
 
シャロームの説教話には理路がありません。ただの結論の言い張りに終始しています。理路を整える気持ちのない文章は説得力がありません。だから、今までも、これからも、彼は、誰も説得することは出来ないでしょう。社交の世辞だけが時々返ってきて、それを彼は喜ぶのです。彼が平気でいられるのは、彼が共感も説得力も必要としていないからでしょう。
 
つまり、シャロームは、神の言葉だから、神の啓示だから、という理由で、理路も共感も説得力も必要としないのです。そのことがもたらす経過と結果が、本人だけが全く自覚しないままで、今、進行中なのです。
 

 
 
私たちは人間です。超常や神聖や聖霊については、教理を語ることがあっても、そのものについては人間の手に負えるものではありません。
 
丁寧語と聖書語で讃美を振り回すところに、信仰は、成り立っていません。
 
神秘に属する言葉を弄して、整えたと思うところに、信仰は成り立っていません。
 
 
私たち信仰者は、福音を伝道するにあたって、人間という存在の不完全さを伝えることが大切です。それは、つきつめると、悲しみにつながり、孤独につながることがあります。絶対孤独は、絶対者によってのみ解放されるでしょう。
 
また、福音すなわち良き訪れは、悲しみを知る心に訪れます。
 
人間の良心で受け取れるところに信仰はあります。
 
人間の良心で受け取れないところには、人間が受け取れる信仰はありません。
 
今悲しみのない人は知識と言葉を蓄えれば、将来、役に立つことがあるだろうと思います。しかし、知識だけで信仰は成り立ちません。言葉だけで信仰は成り立ちません。人間としての経験の中で生きてくるのが信仰です。
 
信仰は、人間を超えることではなく、信仰は、人間を人間らしくするためにあります。
 
 
(2018年09月29日アップ、同日一部修正)
 
蘇り(よみがえり、甦り)
 
 
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  自己満足の偽善(1)
 
   「うらみ」は満たされない欲求?
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28731630.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
偽善者は、自分が批判されることを、相手の恨みによるものだと決めつけて、自分は悪くないと正当化します。そうして、たまに、そのことを、記事でもコメントでも、全く弁明できなかったのに、確認しようとしては、できなくて、また、黙りこむという始末です。
 
まず引用部分から
 

私自身、闇の中で復讐の牙をとぎ、恐ろしい燐光を発する眼でにらんでいる怨霊が、
実は醜い願望が達せられないことを怨んでいる私の邪悪な顔だとわかって、
愕然としたことがある。
根が臆病な私は、自分が相手を怨んでいることを認めることができず、
相手が自分を怨んでいると思い込んで恐れていたのである。

 
ここでは、公共の場で、偽善を隠蔽して、全てを相手のせいにする卑劣な偽善者のことを記事にしています。シャロームは、恐らく、自分の恨みに、気づいたことも、愕然としたことなど無いと思います。実際には、ときに遠回しな言葉で相手を罵って、ストレスを解消できずに、不感不応というやり方しかできなくなっています。今回、シャロームには、弁明の余地がないことを彼のコメントと記事が証しています。
 

それに気づいてからしばらくは混乱に陥ってしまった。
私は本書によって読者が、そのような混乱に陥ることなく、
「うらみ」を洞察できることを願っている。

 
シャロームは、自らの恨みを洞察したことがありません。書いてくる文章に、それは表れておらず、何の変わりもない白々しさだけを出してきているからです。
 
相手にだけ、恨みと洞察しろ、という、シャロームの企みは、根腐れに相応しい汚さで、記事を書き続けることに表れています。正常は神経を持っている人には出来ないからです。
 

第二部は心理臨床家の目から見た、「うらみ」と日本文化とのかかわりであるが、
日本の歴史や文化から、われわれの「うらみ」の心理の由来を
理解しようとする試みという方が適切かもしれない。
まず、日本の歴史や文化に重大な影響を与えた御霊信仰と、その意味について述べた。
御霊信仰は古代日本人の「うらみ」の心理を理解する絶好の資料であるだけでなく、
現代日本人にも少なからぬ影響を及ぼしており、今なお現代的意義を失っていないからである。

 
シャロームは、恨みを洞察し理解しろ、と言いたいようですが、彼自身が、自らの偽善を正当化している限り、それは起こりえないことなのです。そもそも、批判は、恨みに基づくものではないのですから、どこまでも、キリストがパリサイ人に対していったように、不法を、不法と言い続けることです。
 
>《shalomのコメント》
 

私の心に残った印象は次の言葉です。
「うらみ」はかならずしもおどろおどろした否定面ばかりではなく、
人間存在の根源にふれる積極的、肯定的側面もある」
わたしたちが本当に生きがいのある充実した人生を、自分のものにするためには、
どうしても私たちの本能を満足させなければなりません。
なぜなら、本能とは人間が生きていくための基本的な欲求だからです。
本能はそれがどのようなものであれ、否定したり、抑圧されたりすると
必ず心身に障害を招いてしまうのです。
今日心身症といわれる病気が多くの人を苦しめています。

 
シャロームの暴論は、心身症を、本能が満たされないところの、欲求不満の現れだと言っています。対人関係の複雑さをまるで考えに入れず、心身症は患者が悪いといっているのです。この、洞察力ゼロの、身の程知らずを肯定することは、彼のようになるということなのです。
 

さて、本能は次の三種類に分けることができると思います。
第1に体に関する本能として食欲、性欲、睡眠欲などの欲求です。
第2に心(魂)にかかわる本能として互いに愛し合いたいという欲求です。
第3に霊にかかわる本能で生けるまことの神を求める欲求です。

 
そうして、本能を三種類に分類しています。こういうふうに偽善者は、自分を悪の圏外において、迷惑な説教をするのです。
 
さて、本能は、経験によらない動物に共通するものですが、第2の、愛し合いたい、というのは、本能でしょうか。ここでも、人間関係の複雑さを、シャロームは、あっさり無視しているのです。
 
第3の、神を求める欲求になると、経験によらない、なんてことはないはずです。神の導きは、経験に表れてくるのです。シャロームは、自分は生まれながらの神のしもべだとでも思っているのでしょうか。それが前提で生きているのでしょうか。恐ろしい人です。
 

これらの本能はそれぞれ独立したものではなく、互いに関係し調和しなければならないのです。
これらの本能が調和し、満足させられてはじめて、試練や困難がなくなってしまう
という訳ではありませんが、人は本当に充実した人生、幸せを感じることができるのです。
これらの本能が人は父なる神、子なる神イエス、聖霊なる神という
三位一体の神にかたどって造られたことを証ししているのです。

 
シャロームは、彼の言う本能なるものが、彼においては、三位一体で満たされているとでも言うのでしょうか。そのような自己満足の上に充実や幸せを感じているなら、偽善者の根腐れと言うしかないということです。このように、自分は完成しているという自己満足と訂正不要の自覚こそが、キリスト信仰を、シャロームのような根腐れに向かわせるのです。
 

これらの本能のうち私たちが人として生きていくうえで、
もっとも大切な本能が霊にかかわる本能であって、人を宗教的な存在としている欲求なのです。
ですから、宗教は弱い人間の夢、たわごと、気休めではありません。
また科学が進歩し生活が豊かになれば消え去ってしまうような幻想に過ぎないと
言われてきましたが、決してそうではありません。
神によって与えられた本能ですから、なくなることもありませんし、
否定することもできないものなのです。

 
本能が霊に関わるといい、宗教も本能の産物であるかのように言っています。
 
宗教が弱い人間の夢でないならば、宗教は、自分のような強い人間の現実だとでも言うのでしょうか。それこそが、思い上がった宗教者?の、たわごと、気休めなのです。
 
信仰は、人間に弱さの自覚に基づく現実の生き方を与えるものです。シャロームの邪悪な言説に惑わされないでください。
 
それこそ、本能が宗教になっているのは、欲望によって偽善を働き、欲望によって、それを、人に隠し、神にも隠そうとしているシャロームのような、神を恐れる心を持たないケダモノの所業であります。それら一切、神はすべてをご存知です。
 

私たちが変わることのない愛を求め期待したり、正しいことを願ったり、心の安らぎを求めたり、
死を恐れ、救いを求めたり、何事につけ不確かであることに不安を覚え、
確かな拠りどころを求めたりしていることの中に神を求める霊的本能が働いているのです。

 
愛と救いを求める心は、通常の表現においても、高等感情と、高等な思慮によるものであり、本能とは言いません。
 
本能に「霊的」という言葉を付ければいいと思っているシャロームの安易さです。多くの事柄において、シャロームには、思慮深い配慮がありません。彼は、独善的な妄想によって慢心しているために深い思考と配慮が出来なくなった人なのです。
 
前には、心身症の代わりに、「霊心症」などという造語を使っていました。「霊」という言葉を付けて立派に見せようとしているだけなのです。騙されないでください。
 

この神を求める霊的本能こそが、人は神によって造られたことの確かなしるしなのです。
「神はご自分のかたちに人を創造された」(創世記1:27)のです。

 
ここだけ、人が神の似姿、ということを利用しています。信仰は経験を通じて導かれる、ということを無視しているシャロームの、自分は無条件に完成していることを示すための言説に惑わされないでください。
 

生けるまことの神は、人間の考えや願望、想像の産物ではありません。
私たちがその神を信じるとき、生きる意味、目的を見出すことができるのです。
聖書には次のような言葉があります。
「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、
そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。
あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ
陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、
親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。
彼らはこのようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、
自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」
                 (新約聖書ローマ人への手紙1:28~32)

 
神を信じるなら、無条件に人間のすべての機能が整う、というシャロームの考え方こそが、彼を完全救われ妄想に導いています。何もしなくても、何をしても、自分は救われる、という妄想から、一切の悔い改めをしなくなった者の末路と言ってよいでしょう。
 
まさに、
無価値な思いに渡され、そのため、してはならないことをするようになり、あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲、
となっているのです。
 
自己正当化と訂正不能に魂を売り渡したところから、それが、死に値するという神の定めを無視して、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。これは、偽善者とカルトに共通するところです。
 

イエスさまは「わたしを見た者は父(神)を見たのである」(ヨハネ14:9)と言われました。
私たちの限られた知識によれば、到底理解しがたい不思議なことですが、
あの十字架の上のむごたらしいイエスさまの姿に、
神の聖なるご性質、永遠不変の愛、全き正しさ、義が表されているのです。

 
理解しがたい、と言いながら、永遠不変の愛、全き正しさ、義が表されている、と大仰に讃美しています。信仰によって理解しているとでも言うのでしょうか。一人の人間が、理解の仕方を同時に二つ持てるのでしょうか。つまるところ、シャロームの信仰は、神へのお世辞で出来ていて、そこで無条件に完成した、と言いたいのでしょう。それを、彼の、表れてきた言説と、今までの行為が、証しているのです。
 

神はイエスさまの十字架の死と復活によって、わたしたちを生きるようにしてくださったのです。
イエスの死と復活という出来事によって示された神の愛は、私たちに惜しみなく注がれ、
わたしたちを生きるようにしてくださったのです。

 
シャロームの言説には、十字架の死と復活が何度も出来てきますが、その奇跡だけを必要として、彼は、共感は必要ないと言っていました。人間の救いに、人間性は必要ないというのでしょうか。そのことを、彼は訂正していません。
 

イエスさまの死と復活は不安、失望、恐れに打ちのめされていた弟子たちを
死をも恐れぬ者と変え、弟子たちは殉教の死を遂げたのです。

 
シャロームの教条主義の特徴です。死と復活の奇跡を讃え、死をも恐れぬ者に変わることも、人間の勇気とか愛とかいうこととは、まるで関係ないこととして、信仰でスーパーマンになったかのような、超常奇跡と見なしてしまいます。つまり、「霊」と蘇りで飾っただけの、潤いの水がなく血が通っていない人間離れの教条信仰なのです。
 
シャロームは、キリスト信仰者を自認しながら、その心に共感もなく、深い思慮もなく、言葉を並べただけの、嘘と偽善と隠蔽の、現代のパリサイ人なのです。
 
救われることをキリストの肉体の復活という奇跡としてだけ喜ぶのは、他者を教えを受ける低い者と見なして、理解してもいないくせに自己顕示欲で神聖の言葉をもてあそぶ大袈裟が好みの偽善なのです。
 
真実の信仰は、キリストに悲しみの共感を抱く出会いを経て、誕生しています。
 
 
(2)に続く
 
 
(2018年09月28日アップ、同日一部修正)
 
蘇り(よみがえり)
 
 
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  信仰を滅ぼす者(2)
 
   今夜も戸田聡さんの記事を評価してみます。
   
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64602551.html
    by Yhoshuah (以後、ヨシュア、あなた、彼)
 
 
「 」は、私の言。
 
「カルトにとって、キリストの十字架は免罪符に過ぎず、」
 

本当の免罪符を戸田さんは知っています? 
カトリックが教会建築の為、お金と引き換えに発行した罪からの減免書です。
そんな紙で人の罪がぬぐえるはずがないとルターが反抗したのでした。

 
本当の免罪符、ではなく、歴史上の批判された免罪符です。
その悪い例のようだ、と言っているのです。
また、知識を披露しようとして滑ってる。
 
>十字架は免罪符に過ぎずと、あなたは言った、。
>十字架は本物の免罪を可能にするのですよ。
 
「カルトにとって」と書いてます。つまり、あなたにとって、でもあります。
 
「キリスト信仰者にとって、
 キリストの十字架の贖いはキリストの愛のしるしであり、
 キリストへの愛の芽生えであります。」

はは、ははは。また、あなたは笑わしてくれる、お笑い芸人になった方がいいでしょう。
あなたのような三流詩人が唱える言葉では言い尽くせない事です。
イエス様の十字架の贖いは、ポエムではありません!幻想でもありません!
実際なのです、事実なのです、現実なのです!

 
信仰者は、このようにはならないでください。
キリスト者にとって何よりも大事なことを、
ヨシュアは、お笑い芸人と言って、笑い出しました。
ヨシュアは、自分の言葉以外は、ポエムか幻想に思えるのでしょうか。
 

神様としての愛の発露から出た人への哀れみであり、それが実際に人を救う為に行動した軌跡なのですよ。わかりませんか? だめですね、、。 

 
やはり、ヨシュアは、自分の言葉以外は、ポエムか幻想に思えるようです。
どこまでも、人をあざける有頂天伝道者と言っておきます。
 
>十字架の購いは全人類の救いのためのものでした。
>それをどうでも良いとか否定したコメントをしています。
 
「かわいそうなくらい、嘘を吐いています。」
 
>どれをウソと戸田さんは言うのか?あいまいですが、
>十字架の贖いをウソというのなら、戸田さんはクリスチャン失格です。
 
私が「十字架の贖いをどうでもよいとか否定した」というのが嘘です。
私も、その十字架のもとにあるのですから。
 
>戸田さんが、どうでも良いと言ったのは事実です。
>自分の言ったことを、言っていないというのは偽善です。
 
十字架の贖いを、罪滅ぼしの取引のように言っている人を批判しました。
十字架で贖われたから今は罪がない、という向きには、否と申しました。
その人は、偽善者です。しかも、そのことを訂正していません。
 
「教条主義は信仰ではないから批判しています。」
 

信条というのは、簡単に作られたのではありません、長い月日をへて信仰者の信仰遺産を引き継いで結実したものです。軽いものでは無いのです。

 
私は、信条のことを言っているのではありません。
言葉の表面だけを絶対化している教条主義を批判しています。
 
>あなたには、実際とか事実が全くないですね。
>本当に、観念的な言質ばかりで、無意味な主張ばかりです。
 
観念的で無意味なこだわりは、教条主義の持ち物です。
そこから、行為義認、そして、教えを守れると思っている
という安易な考え方が生まれています。
 

あなたを精査するには、あなた自身の記事を見るのです。そのうえで、あなたのコメントらに
反キリストの言葉を見て、みなさんに 教えてあげているのです。

 
ブロガーが、どうやって、どの範囲まで、他のブロガーを精査できるというのでしょう。
できないことを、ヨシュアは、出来たつもりでいるのです。
 

あなたがブログを開設した当時、私はあなたを知らないしあなたも私を知らないはずです、
だから、あなたのブログの題とわたしを関連するのは誹謗という感情です。
それこそ、あなたの どす黒い罪です。

 
おかしいですね。私は、あなたの文章を読んだから批判しているのです。あなたは、私の個人情報や私の人格まで貶めましたが、私は、あなたの文章に表れているところの、キリスト信仰とは思えないところを批判してきました。
 

恨みと怨念でシャロムと言う方を8年以上 攻撃しているし私たちを誹謗しているので
あなたに 神様の哀れみは無いでしょう。

 
決めつけが止まらない。
シャロムは、表で神を讃え、裏で手段を選ばず人を貶める偽善者です。
反省も謝罪もしないから、ずっと批判対象になっているのです。
 

あなたが どんなにか、強欲で悪魔的で、反神様で 反キリストで、 実際の信仰はしていないで、うその祈りをささげている、。あなたの祈りは真の神様には届かず、悪魔が受け取っている。
それも 毎日です。だから、あなたの中で邪悪な思念が湧いており 簡単に人にうそをついている。

 
悪口しか言えなくなったようです。呪いのような罵詈雑言テンコ盛りの罵り。
 

はは、これも 逆に真っ赤なウソを言っているのは戸田さん、あなたです。
以前、あなたが別人格でHNを作っていると指摘しましたが、懸命に反論したけど、真実味がなかったなー。
あなたのブログにはパターンがある、あなたが論破されると、必ず登場するHNがある、
自分で混乱し、パニックになるようだから、何かに助けてもらわないと 狂うのだろう。
だから、別人格のHNが、来て あなたに話かける。その他のHNも来て コメントをし合う。
奇妙だ! 不気味といえば、不気味。

 
また、成りすましだと書いてきましたが、
私がネットで好意的な交流をしないとでも思っているのでしょうか。
それにしても、精査すると言いながら、あまりにも貧弱で軽率な結論です。
即ち、大嘘です。
 

もう 言訳や言い逃れはできないようだね!
息を吐くように簡単にウソを平然と言う戸田聡さん、
恥をさらし続けなさい。
永遠に あなたは 糾弾されるでしょう、此のレベルまで、悪辣なら、
私がしないでも、ある者があなたを神様に訴え出るだろう。
証拠も揃っているし、、即決で罪有り!と裁かれるだろう。
かわいそうに。 
病気? それは 鬱及び、他の精神病のあなた戸田聡さんです。
狼狽? 別にしてないですが? 事実を突き付けられて慌てふためいて、おののいたのは
あなたでしょうが。 事実なのだから!
パニック?それは あなただという事が、だれにでも、読んだらすぐにわかる。
戸田さん、あなたのは、、まぁ、お粗末な反論記事でしたね!
嘘ばかりで、理論も何もなくて、神様を思考の遊び道具にしている事、、
よく わかりました。
だから、あなたは 偽キリスト者ということもわかりました。
読者をだまし続けていることもわkりました。
多重人格で多くのハンドルネームを使って自画自賛している事もわかりました。
とにかく、戸田のブログは 何でもが うそのブログです。

 
罵詈罵詈、罵詈雑言、罵詈雑言、・・悪口だけを並べている。
根拠も理路も説得力もない。ただ上から決めつけている。
即ち、大嘘です。最後は、彼のほうが嘘の垂れ流しになりました。
しかも、強がっている。これは信仰には無用です。
強がりは、むしろ、信仰には害毒であります。
 
感情論、感情的、とは、こういうのを言うのです。
ヨシュアは、得意や自慢ではない信仰の世界を知らないのです。
 
彼は、自分の教条に縛られるだけで、信仰による解放がないから、
このままだと、病んでしまうかもしれません。
かといって、私は、
間違っていて邪悪であるのを批判しないというわけにもいかないのです。
 
 

 
信仰は、全能の神に対し、精いっぱいの正直さを捧げることです。
それを支えるのは、聖書を読んでイエス・キリストを好きになり、
その主の憐れみと悲しみに共感することです。それだけなのです。
そのために聖書を読むのです。理屈ではないのです。
 
 
(2018年09月27日、同日一部修正)
 
貶める(おとしめる)、貶す(けなす)
 
 
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  信仰を滅ぼす者(1)
 
   今夜も戸田聡さんの記事を評価してみます。
   
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64602551.html
    by Yhoshuah (以後、ヨシュア、あなた、彼)
 
 
「 」は、私の言。
 
キリストは、罪によって砕かれた魂の求めに応じて救いを与えました。守っているという裕福な若者の慢心を退けました。そして、守っている者として支配したがるパリサイ人たちによって、殺されました。
 
それから、二千年・・
 
キリストの深い教えを、教えは守れます、教えを守れば天国に行けます、というような行為義認の教え方で、パリサイ人と同様、救われたい罪人を、そしてキリストの心を、貶めることに懸命なヨシュアです。聖書の訳も、教えは守れるという安易な方向に行っているのなら、キリスト教は、滅ぼされつつあるのかもしれません。
 
「ヨシュアは、ただ罵るために、いっぱい嘘を吐いています。」
 
>いきなりの 呼び捨てですか?品がないですね、文章に。文は書き手の品性が現れます。
 
ヨシュアに、文章の品性を語る資格はないと思います。
 

少し前に、戸田さんに、モーセも、アブラハムも、古代イスラエルの大祭司も民と神様の間に立って、仲保者となり、とりなした事を聖書を基に証明していたので、戸田さん主張のイエス様のみという間違った認識は論破しております。

 
恐ろしいカルトです。人間の罪を贖い、神に執り成しが出来る仲保者は、ただ御一人、
イエス・キリストだけです。
 
救い主と、民族の祖とか預言者とか呼ばれる人を、同列に見なしているヨシュアは、キリスト者ではないと思います。
 
旧約が好きで、パリサイ人が好きで、ということは知りましたが、今回、もはや、キリスト教に対しては、冒涜者と言わざるを得ないでしょう。
 
記事を重ねるほどに、反論どころか、外れ具合が明らかになっています。
 
「讃美には、信仰自慢が入りうるという危惧を書きました。
 それは
 理解力がないまま決めつけてくるヨシュアがそうだからです。」
 
「神は褒められることを善しとしないと思う。何故なら神にはその必要などないからだ。」
 

そこに、危惧などと言う言葉は一文字もありありません。言い逃れをするために危惧という言葉をつけています。

 
言い逃れをする必要など全くないところです。
 
付け加えると、とにかく神を讃えなければ、というのは、まるで、罰が当たらないように、という、動機に近く、信仰を脅迫に変えてゆく原初であり、動機として不純でもあります。
 
>戸田さんは、神様への賛美を全否定しているのです。
 
讃美を全否定するつもりはありません。しかし、讃美しまくる人の中には、おかしい人がいるのは事実ですし、上に述べたような危惧があります。
 
讃美をするな、とか、讃美は禁止、とか言っているのではありません。危惧があるということを知ったうえで、それでも讃美したいなら、祈りと共にするべきであります。
 

神様は賛美される必要も無いとまで賛美を全否定しています。 この戸田さんの主張も私は既記事で論破しております。賛美する役目の天使を神様は創造していたことや、聖書に多くの賛美の文章があること、などを 言い渡していました。

 
ヨシュアは、論破と言っていますが、議論には、真実追及はあっても、論破はないのです。ですから勝ちを目指し、論破した、論破した、と言っていること自体、議論をする資格がないことを表しています。実際、ヨシュアは罵るだけで、全く議論にも話し合いにもなっていません。
 
神は在って在る者ですから、讃美される必要がないことは自明であります。
 
今度は、天使と人間を、同列に置いています。傲慢が加速しています。
 

聖書からと、実生活の信仰の中で、そして祈りのなかで経験と知識と啓示と他者の証しなど、を照らし合わせて知性で理解し心情で納得して、ああそうだ、そのとおり神様とはそういう方なのだ、と 確信できた事を言っています。

 
ヨシュアの実生活の信仰というのは、教条主義による言葉に縛られた世界ですから、弁明にはなりません。神を知ったと言いながら、説得の言葉ではなく、訂正不能に罵りの言葉を発していることは、反対者に対する態度に表れているのです。
 
>全能なる神さまの、無限の全体像をすべてわかるとは、明言したことはありません。
 
ヨシュアは、神を、分かる、知っている、認識している、ということの罪の重さを、まるで理解していません。すべて分かるのでなければ言えないような、神の代弁者のような横柄な態度に慢心しているからこそ、反対者に罵詈雑言を吐くのです。
 

全体で無くても、神様をわかった!知った!という事が異常なのでしょうか?
40年以上、長い間、戸田さんは自称信仰者とのことであるのに、神様が解らない、と言う、どちらが異常?なのでしょうか? 

 
決めつけて訂正不能にしているからこそ、反対者を罵るのであり、ゆえに、訂正不能にした時点で、アウトだと思っています。
 

全てでなくても たとえ少しでも 神様の何かがわかった方が良いと私は思います。
戸田さんは 実際 何もわからない人でしょうが、 

 
少しでも・・と、今さら、謙虚ぶっても、ヨシュアが、反対者を罵った事実は消えません。
 
決めつけて、訂正不能にした時点で、アウトだと思っています。
 
ヨシュアの横柄ぶりは、相手を、何もわからない人でしょうが、と
今言っているのが証拠でしょう。
 
>他の人で必要以上にへりくだっている必要は無いと思っています、
 
実際は、決めつけて訂正不能にしているのだから、へりくだる姿勢は全くないと見るべきです。
このヨシュアの発言は、全否定を部分否定に言葉だけすり替えるという詭弁です。
 
ヨシュアに、へりくだる姿勢は、少なくとも反対者には、全く見られませんし、
私も、けしからぬヨシュアに、へりくだる必要は感じていません。だから呼び捨てです。
 
>へりくだりすぎて神様が寄り添ってくれている事すら、わからなくなるより良いと思います。
 
神の前に、へりくだりすぎて分からなくなることはありません。何を言っているのでしょう。
信仰者には、絶えることのない、神を求める心があるからです。必要だからです。
ヨシュアは、ホント、おかしいことばかり言う。
 
>人も生まれて成長して完成します。
>そうなるように神さまは人を完全に創造しています。
>ただし、完成するかどうか?は人自身の努力いかんです。
 
成長が、努力いかん、であるならば、
造られたとき、完全になってはいないということです。
また、何を言っているのでしょう。詭弁ばかり。
 
>人間は自由意志を与えられているので、自分を完成する過程で
>自分の自由意志で努力し成長しないといけません、
>もちろん、父母や友人や師や社会などからの助けをもらいながら、です。
 
そして、信仰を、深みのない当たり前の、道徳話に貶めています。
 

神様の創造は善しとされています。神様の創造は神さまが完全であるように被造物に於いては完全です。そうでなければ神様の創造は失敗ということになります。

 
そんなこと、あなたが決めることではありません。愚か者、と言っておきます。
 
神のことを、人の辻褄で語ろうとするから、こういう話になり、神の創造に、そうでなければ失敗などと、人が条件を付けてしまう言い方になるのです。
 

人の罪の事は堕落と言いますが、神さまの創造は完全だったけれど、人に与えられてあった自由意志により罪を犯したのです。すべてをコントロールされたら、人はロボットであり人が人でなくなってしまします。

 
これが、言葉に縛られた者の宿命でしょうか。神の完全を言い張るために、こじつけの無理な合理化をしています。神の自由意志は完全です。人の自由意志が罪を犯すことは、人とその自由意志は完全ではないという証拠なのです。
 
神には、神の計画があり、それは神秘として秘されているのです。それを身の程も弁えず、人が語ろうとすると、こういう、見すぼらしい言説になってしまうのでしょう。
 
私に向けた、識別できていなかった、知らない、知らなかった、わからなかった、が並んだ文章が続いて、
 

また、言葉をずらして言いのがれしようとしています、でもだめです私は騙されない。
「神は神格を造れるが、造った神」? あなたは最初の言葉では神格など一言も言っていない、

 
キリストと聖霊は、神格ではないのでしょうか。私は三位一体を説明するために、仮定の考え方を述べたのですが。
 

ワンパターン。知恵が乏しい、無知をあらわして、カルトも真っ青になる大嘘、ダメ人間ですね、、あきれる、ウソだらけ、

 
冷静に言えなくなると罵詈雑言が並びます。
 
(位格は)
>神様に原初から備わっている性質
 
また、見てきたようなことを言っています。
神の性質つまり御心は、今の信仰生活において、人には暗示されるだけです。
 

決めつけていないなら、論破された事を修正しなさい。仲保者と賛美と、他人の妻の聖句の事です、、忘れたか?

 
怒鳴っているかのようです。
はっきり言って、あなたに、うんざりして去る人はいても、
あなたに論破されるような人はいないと思いますよ。
 
「私は決めつけてはいません。」
 
>あなたは、決めつけているではないですか?私をカルトだと!。 
 
決めつけではなく、根拠があっての批判です。ずっと根拠を書いてきたと思います。
あなたヨシュアは、どんどん、悪くなってゆくようです。
 
「よっぽど余裕がないのでしょう。」
 
>はは、、笑ってしまいました、戸田さん、、。
>私はふつうの精神状態ですけれど、
 
こういうのが、いちばん危ない・・。
 
>右往左往して、三流詩人が書きそうな、無知で無論理、頭大丈夫ですか?、
 
罵詈雑言、また、入りました。
 
>罵詈雑言? 事実だから仕方ないでしょう。
>私は、別に大げさにしてはいないし、騒いでもいませんが?
 
こういうのが、いちばん危ない・・。
 
>忠告です、あなたの言葉を根拠にした忠告です。
 
忠告など求めてはいません。あなたからの、貶めと、罵詈雑言です。
 
 
(2)に続く
 
 
※ 前の記事とこの記事で思ったこと
 
自称ヨシュアのようなカルトでなくても、シャロームのような偽善者でなくても、キリスト者は、超常奇跡が起こって、スパッと救われたい気持ちも、信仰が教科書のように一度にぱっとわかるような理路があったらいいという気持ちも、心のどこかにあるのです。しかも最終的な救いとか、世の終わりとかは、それこそ、超常からの奇跡のような話にしかならないということもあります。
 
しかし、そこを短絡して、分かったような気持ちになって、それが信仰であるかのように思い込んでしまうと、カルトや偽善者になってしまいます。つまり超常願望は誘惑なのです。
 
いつ来るか分からないところの、個人の終末と、聖書のいう終末が来るまでの長い時間、私たちが人生と呼ぶ大部分の時間、人間として生きることは決して超常の理解が前提になるわけではないのは、聖書においてキリストに救われた人々を見れば明らかなのですから、それがどんなに無駄に思えても、打開するのに超常趣味に短絡するようなことがあってはいけないのです。
 
そういう人間の信仰の堕落しやすい性質を自覚し、それを共有して、ともに力を合わせて警戒するべきでしょう。それが、信仰の人間力だと思います。
 
神の国は、人間が超常を理解するところではなく、人間が人間らしく努力するところにあるとしか言えないでしょう。主イエスは、いつも、人間のがけっぷちに寄り添っておられるからです。
 
 
(2018年09月26日)
 
 
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