超常奇跡信仰
ニコデモの葛藤と疑問
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28728729.html
by shalom (以後、シャローム、シャロム、あなた、彼)
恥を知らない人というのは、恥ずかしいという感情がなく、罪悪感も感じず、悔いる気持ちも持ったことがないのでしょうか。それで自己絶対正当化から、反対者を侮り、それゆえに不感不応の偽善の継続をしてゆくのでしょうか。シャロームは、とんでもない超常奇跡の決めつけ話を始めます。
>《shalomのコメント》
>
ニコデモはイスラエルの教師であり、しかも、泣く子も黙る?パリサイ人で、
律法に精通して、律法を守ることに、それこそ命がけでした。
律法を守ることこそ、神の祝福に与る道だと信じ、人にも教え、導いていたのです。
ニコデモがイエスさまを夜こっそり訪ねてきたことはヨハネ4章に書かれていますが、
3章にはイエスさまが神殿荒らしをされた事件が書かれています。
神殿荒らしはパリサイ人ならずとも、イスラエルのすべての人に、神を汚す行為であり、
神の呪いと裁きを受けることなのです。
ニコデモはイエスさまのしるしや奇跡は神がともにおられなければ出来ないと思うのですが、
しかし、イエスさまが神を汚し、
律法に背く神殿荒らしをされたこととがどうしても結びつかなくて、
その疑問をイエスさまご自身に直接聞くために夜やってきたのです。
<
まだ神殿荒らしと言っています。キリストを罪に定めたいのでしょうか。
実際は、神殿の商人たちが堕落していたからではないのでしょうか。
>
イスラエルの教師として人を教え、導いてきた教師であり、自ら律法を守ることに命懸けであるばかりでなく、人々にも要求していたのですから、おおっぴらにイエスさまを訪ねるわけにはいかなかったのです。ニコデモにはイエスさまに会うことも命がけだったのです。
ニコデモのイエスさま訪問の背景です。
ニコデモはイエスさまのしるしや奇跡は神がともにおられなければ出来ないと思うと言っています。が、しるしや奇跡に囚われているようです。イエスさまの神殿荒らしとどうしても結びつかないからです。イエスさまの神殿荒らしが神を汚す律法違反であれば、絶対神がともにおられるなんてありえないからです。自分の教師であり、パリサイ人の立場からの判断から考えると矛盾し、受け容れられないことなのです。
わたしたちも自分の人間としての知性や理性、経験、常識などという立場に囚われると、
聖書を読むとき、同じような葛藤、解けない疑問に直面してしまうのは変わりありません。
すると、神がともにおられるという言葉にもかかわらず、神の国が見えなくなってしまうようです。
<
ニコデモについて、しるしや奇跡に囚われている、パリサイ人の立場からは受け入れられないから、と言いながら、一方では、知性や理性、経験、常識などを、シャロームは、囚われる邪悪なもののように語っています。
ニコデモは、シャロームと似たような、パリサイ人の教条に染まっていたから分からなかったのだと思いますが、シャロームは、ニコデモが、人間性にこだわったから、分からないのだと言いたいのでしょうか。ここが、シャロームの堕落の原初と言っていいのかもしれません。
シャロームは、葛藤や疑問に対して無視することが信仰だと思うようになったのでしょう。シャロームは、自分の都合に合わせてくれる神がともにいると信じて、反省することを止めた経過と結果として、自己満悦の成り行きを神が奇跡で支えると信じ込んで、そのために、キリストもキリストの心も、戒める神も見えなくなっています。
シャロームは、自分のために奇跡を起こしてくれる神がともにおられると信じているようです。
人間性の働きを無視すれば、人間は壊れてゆくのです。そしてそれは既に表れているのですが、シャロームにだけは分からないのです。
>ちょっと私の経験を離します。超常体験?です。(笑い)
この辺の「(笑い)」は、超常奇跡と教条の信仰だと批判されていることを、せせら笑っているのでしょう。カルトとの共通点です。実によく似ていて、しかも実際に交流があるようです。
>
わたしの母はすでに亡くなりましたが、かつてばりばりの創○学○員で、○伏の突撃隊長のような人でした。年老いて少しおとなしく?なり、ある日の朝、目覚めると、突然右首筋のところに卵のようなこぶができていました。
・・・
そこで、私が母を父と一緒に大学病院に連れて行き、検査を受けました。
わたしが呼ばれて原発性の癌ですと言われ、
・・・
すると、ある日、祈っている時、ふいに母の病気が癒されるという強い思いが心に与えられました。そのことを連れ合いにも話して数日後、ある日突然、その大きなこぶが消えてしまったのです。
またレントゲン写真を撮りましたが、うっすらと卵のような影が残っているだけということで、
退院したのです。もちろんかりつけの病院でも不思議だと言われ、
連れ合いが仕事をしている先生も看護師の人たちもただ不思議だねというばかりでした。
その後は母は元気になりましたが、元気になりすぎて、近所の子供たちが蹴ったサッカーボールを手で取らずに足で蹴り返そうとして転んで大腿骨を骨折し、手術を嫌がり、動けなくなり、
入院し、ながい病院生活をしなければならなくなりました。
その病院生活で、母は私たちの信仰の歩みを見て、イエスさまを信じたいといいました。
<
具体的に奇跡的に救われたという体験を持っている人は少なくないでしょう。しかしながら、大きな奇跡でも小さな奇跡でも、魂の奇跡つまり心の癒やしでも、その時に、どう考えるかで、その後の有り様が全く違ってきます。
自分が神によって生かされるのには何らかの理由があるということを考えることから信仰は始まるのです。それは、はっきりとは答えが出ないかもしれない。しかし、そのことを考えない信仰はあり得ません。
私が今生きているのは奇跡のようなものです。しかし、私は、その奇跡の考え方において、不十分であることを認めています。私は人間だから、神の御心が測りがたいことを知っています。
シャロームは、大きな奇跡的な出来事を体験して、それを信仰だと思ってしまったのでしょうか。そして、今も、これからも、自分は選ばれたのだから、奇跡的に救われ続けると信じ込んでいるのでしょうか。だから、どんでん返しの奇跡で救われるなどと言い、不感不応であることを、揺るがない信仰と呼んでいるのでしょうか。それで笑っていられるのでしょうか。
それで、同じことを人にも伝えているのでしょうか。それで、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、自分のように神のお気に入りになって、奇跡の恵みに与るといいよ、という、奇跡のおすそ分け伝道をしているのでしょうか。
何ということでしょう。奇跡を受けて、それが続くのが信仰だと信じ込む、そのような身勝手な信仰を神が与えると思っているのでしょうか。この無思慮が招くものを思えば、身の竦む思いがします。知らないうちが花、という現状であることを知らないだけなのです。
断じて、この人を見習ってはいけません。与えられた命を棒に振るようなものです。
>
記憶している超常体験?はまだありますが、
これらは生けるイエスさまのみわざであり、神がともにおられるあかしなのです。
超常体験?があろうとなかろうと、生きていること、生かされていることが、
神がともにおられることであり、それが神の国に入ることなのです。
神の国の表れと神の国そのものは異なるのですが、
同じだと考えてしまうと、ニコデモと同じように解けない疑問となり、
肝心な神の国が見えなくなるようです。
はまりやすい信仰の罠のようです。要注意ですね。
イエスさまの名前はインマヌエル・・・神われらとともにおられるという意味です。
<
このように、奇跡体験だけを受け取り、キリストの心を受け取っていない者が、いかに捻じれた信仰に至り、いかに不法なことを為してきたかを思わざるを得ません。社交の世辞だけを交流と呼び、反対者を平気で侮辱して悔いず、人間らしい感受性を失い、理路がまとまらず、勝手な造語をもてあそび、いかなる批判をも無視して笑うような人間になってしまうのです。これらは、今に至るまでに起こってきたことのあらましに過ぎません。
受けたものを、そのまま、自分の都合だけを考えて、信仰は奇跡で救われることと固定してしまうと、何を言われても、このまま、生きてゆくのが正しい、という固定観念になり、学習も成長もなくなります。これは人間の姿ではありません。
シャロームが、反対者へ向けた、今日の笑い、かつての侮辱、そのことの恨みが私が批判する理由ではありません。神の前での、隠し事、嘯き、他者への侮辱、手段を選ばない攻撃といった偽善の人生を、シャローム以外の信仰者や求道者に辿ってほしくないから、私は、批判記事を書き続けているのです。
奇跡の都合よさだけを受け取って、理由と使命を考えることなく、それを、「生きていること、生かされていることが、神がともにおられることであり、それが神の国に入ること」などと言っているのは、いかなる軽い荷も負わないと神に宣言しているようなものであり、それは今までの経過に表れている傲慢不遜の証となるでしょう。奇跡の受け取り方次第で、人間は、シャロームのように、偽善と裏切りの反信仰をもって、信仰としてしまうという例なのです。
心に深くしみる話が何もないというだけではなかったのです。
彼が無反省の安穏境地でいられるのは、人の言うことを全く聞かないのは、
自分のために奇跡を起こしてくれる神がともにおられると信じているからなのです。
さて、神が彼とともにいて奇跡で彼を守っているでしょうか。彼は、誰の助けにもなっていないし、彼の今の有り様は最悪で、批判の対象にしかなっていないのですが。そして、これからも、この状況は変わりようがないのですが。彼は、ひょっとして、神が批判者を殺してくれると信じているのでしょうか。恐ろしい信仰?があったものです。
自己中心の信仰?を持ってしまうと、これほど酷いことになるのです。
神はともにいるから、この世が神の国で、神の国が見える、というのでしょうか。
よくこんな身勝手なことを信じられる・・驚きます。呆れます。
>
【口語訳】ヘブル人への手紙
13:8 イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。
<
今回のシャロームの記事を読んで、怖いと感じない人は、信仰を考え直したほうがよいと思います。奇跡が、きのうも、きょうも、いつまでも変わることなく与えられる、などと言う信仰を決して真似てはいけません。シャロームの言は、恐るべき神への、恐ろしい冒涜です。
いつにもまして恐ろしい記事でした。彼の正体も、教条信仰、奇跡信仰、自己中心と人間性無視と訂正不能の信仰?の弊害、極めて身勝手に偏った信条、など、だいたい、明らかになったと思います。人間性を無視しているがゆえに、奇跡を受けたことを特権のようにしか受け取れず、「超常体験?はまだありますが」、などと笑うように平気で言い放ち、いつの間にか、権威の座に胡坐をかく裸の王様になった偽善者の話でした。
私たちは知るべきです。奇跡は滅多に起こらないから奇跡と呼ばれること。奇跡は人の都合ではなく神の都合で起こるということ。肉体や物や成り行きに起こる奇跡だけでなく、一番大事な魂の奇跡を経験した者は、単純に喜ぶだけではなく、自分がどういう生き方をしたらよいのかを考えるのだ、ということ。
魂あるいは心に起こる奇跡は、人間が生きる力となります。物や肉体の成り行きに起こる奇跡は、考えるテーマを人間に与えるでしょう。いずれにしても、人間の心なくして信仰は成り立たないということを肝に銘じるべきだと思います。
(2018年09月24日、11:08下書き)
(2018年09月25日アップ、同日一部修正)
胡坐(あぐら、胡座)
酷い(ひどい、むごい)
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]