ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年09月

 
  超常奇跡信仰
 
   ニコデモの葛藤と疑問
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28728729.html
    by shalom (以後、シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
恥を知らない人というのは、恥ずかしいという感情がなく、罪悪感も感じず、悔いる気持ちも持ったことがないのでしょうか。それで自己絶対正当化から、反対者を侮り、それゆえに不感不応の偽善の継続をしてゆくのでしょうか。シャロームは、とんでもない超常奇跡の決めつけ話を始めます。
 
>《shalomのコメント》
 

ニコデモはイスラエルの教師であり、しかも、泣く子も黙る?パリサイ人で、
律法に精通して、律法を守ることに、それこそ命がけでした。
律法を守ることこそ、神の祝福に与る道だと信じ、人にも教え、導いていたのです。
ニコデモがイエスさまを夜こっそり訪ねてきたことはヨハネ4章に書かれていますが、
3章にはイエスさまが神殿荒らしをされた事件が書かれています。
神殿荒らしはパリサイ人ならずとも、イスラエルのすべての人に、神を汚す行為であり、
神の呪いと裁きを受けることなのです。
ニコデモはイエスさまのしるしや奇跡は神がともにおられなければ出来ないと思うのですが、
しかし、イエスさまが神を汚し、
律法に背く神殿荒らしをされたこととがどうしても結びつかなくて、
その疑問をイエスさまご自身に直接聞くために夜やってきたのです。

 
まだ神殿荒らしと言っています。キリストを罪に定めたいのでしょうか。
実際は、神殿の商人たちが堕落していたからではないのでしょうか。
 

イスラエルの教師として人を教え、導いてきた教師であり、自ら律法を守ることに命懸けであるばかりでなく、人々にも要求していたのですから、おおっぴらにイエスさまを訪ねるわけにはいかなかったのです。ニコデモにはイエスさまに会うことも命がけだったのです。
ニコデモのイエスさま訪問の背景です。
ニコデモはイエスさまのしるしや奇跡は神がともにおられなければ出来ないと思うと言っています。が、しるしや奇跡に囚われているようです。イエスさまの神殿荒らしとどうしても結びつかないからです。イエスさまの神殿荒らしが神を汚す律法違反であれば、絶対神がともにおられるなんてありえないからです。自分の教師であり、パリサイ人の立場からの判断から考えると矛盾し、受け容れられないことなのです。
わたしたちも自分の人間としての知性や理性、経験、常識などという立場に囚われると、
聖書を読むとき、同じような葛藤、解けない疑問に直面してしまうのは変わりありません。
すると、神がともにおられるという言葉にもかかわらず、神の国が見えなくなってしまうようです。

 
ニコデモについて、しるしや奇跡に囚われている、パリサイ人の立場からは受け入れられないから、と言いながら、一方では、知性や理性、経験、常識などを、シャロームは、囚われる邪悪なもののように語っています。
 
ニコデモは、シャロームと似たような、パリサイ人の教条に染まっていたから分からなかったのだと思いますが、シャロームは、ニコデモが、人間性にこだわったから、分からないのだと言いたいのでしょうか。ここが、シャロームの堕落の原初と言っていいのかもしれません。
 
シャロームは、葛藤や疑問に対して無視することが信仰だと思うようになったのでしょう。シャロームは、自分の都合に合わせてくれる神がともにいると信じて、反省することを止めた経過と結果として、自己満悦の成り行きを神が奇跡で支えると信じ込んで、そのために、キリストもキリストの心も、戒める神も見えなくなっています。
 
シャロームは、自分のために奇跡を起こしてくれる神がともにおられると信じているようです。
 
人間性の働きを無視すれば、人間は壊れてゆくのです。そしてそれは既に表れているのですが、シャロームにだけは分からないのです。
 
>ちょっと私の経験を離します。超常体験?です。(笑い)
 
この辺の「(笑い)」は、超常奇跡と教条の信仰だと批判されていることを、せせら笑っているのでしょう。カルトとの共通点です。実によく似ていて、しかも実際に交流があるようです。
 

わたしの母はすでに亡くなりましたが、かつてばりばりの創○学○員で、○伏の突撃隊長のような人でした。年老いて少しおとなしく?なり、ある日の朝、目覚めると、突然右首筋のところに卵のようなこぶができていました。
・・・
そこで、私が母を父と一緒に大学病院に連れて行き、検査を受けました。
わたしが呼ばれて原発性の癌ですと言われ、
・・・
すると、ある日、祈っている時、ふいに母の病気が癒されるという強い思いが心に与えられました。そのことを連れ合いにも話して数日後、ある日突然、その大きなこぶが消えてしまったのです。
またレントゲン写真を撮りましたが、うっすらと卵のような影が残っているだけということで、
退院したのです。もちろんかりつけの病院でも不思議だと言われ、
連れ合いが仕事をしている先生も看護師の人たちもただ不思議だねというばかりでした。
その後は母は元気になりましたが、元気になりすぎて、近所の子供たちが蹴ったサッカーボールを手で取らずに足で蹴り返そうとして転んで大腿骨を骨折し、手術を嫌がり、動けなくなり、
入院し、ながい病院生活をしなければならなくなりました。
その病院生活で、母は私たちの信仰の歩みを見て、イエスさまを信じたいといいました。

 
具体的に奇跡的に救われたという体験を持っている人は少なくないでしょう。しかしながら、大きな奇跡でも小さな奇跡でも、魂の奇跡つまり心の癒やしでも、その時に、どう考えるかで、その後の有り様が全く違ってきます。
 
自分が神によって生かされるのには何らかの理由があるということを考えることから信仰は始まるのです。それは、はっきりとは答えが出ないかもしれない。しかし、そのことを考えない信仰はあり得ません。
 
私が今生きているのは奇跡のようなものです。しかし、私は、その奇跡の考え方において、不十分であることを認めています。私は人間だから、神の御心が測りがたいことを知っています。
 
シャロームは、大きな奇跡的な出来事を体験して、それを信仰だと思ってしまったのでしょうか。そして、今も、これからも、自分は選ばれたのだから、奇跡的に救われ続けると信じ込んでいるのでしょうか。だから、どんでん返しの奇跡で救われるなどと言い、不感不応であることを、揺るがない信仰と呼んでいるのでしょうか。それで笑っていられるのでしょうか。
 
それで、同じことを人にも伝えているのでしょうか。それで、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、自分のように神のお気に入りになって、奇跡の恵みに与るといいよ、という、奇跡のおすそ分け伝道をしているのでしょうか。
 
何ということでしょう。奇跡を受けて、それが続くのが信仰だと信じ込む、そのような身勝手な信仰を神が与えると思っているのでしょうか。この無思慮が招くものを思えば、身の竦む思いがします。知らないうちが花、という現状であることを知らないだけなのです。
 
断じて、この人を見習ってはいけません。与えられた命を棒に振るようなものです。
 

記憶している超常体験?はまだありますが、
これらは生けるイエスさまのみわざであり、神がともにおられるあかしなのです。
超常体験?があろうとなかろうと、生きていること、生かされていることが、
神がともにおられることであり、それが神の国に入ることなのです。
神の国の表れと神の国そのものは異なるのですが、
同じだと考えてしまうと、ニコデモと同じように解けない疑問となり、
肝心な神の国が見えなくなるようです。
はまりやすい信仰の罠のようです。要注意ですね。
イエスさまの名前はインマヌエル・・・神われらとともにおられるという意味です。

 
このように、奇跡体験だけを受け取り、キリストの心を受け取っていない者が、いかに捻じれた信仰に至り、いかに不法なことを為してきたかを思わざるを得ません。社交の世辞だけを交流と呼び、反対者を平気で侮辱して悔いず、人間らしい感受性を失い、理路がまとまらず、勝手な造語をもてあそび、いかなる批判をも無視して笑うような人間になってしまうのです。これらは、今に至るまでに起こってきたことのあらましに過ぎません。
 
受けたものを、そのまま、自分の都合だけを考えて、信仰は奇跡で救われることと固定してしまうと、何を言われても、このまま、生きてゆくのが正しい、という固定観念になり、学習も成長もなくなります。これは人間の姿ではありません。
 
シャロームが、反対者へ向けた、今日の笑い、かつての侮辱、そのことの恨みが私が批判する理由ではありません。神の前での、隠し事、嘯き、他者への侮辱、手段を選ばない攻撃といった偽善の人生を、シャローム以外の信仰者や求道者に辿ってほしくないから、私は、批判記事を書き続けているのです。
 
奇跡の都合よさだけを受け取って、理由と使命を考えることなく、それを、「生きていること、生かされていることが、神がともにおられることであり、それが神の国に入ること」などと言っているのは、いかなる軽い荷も負わないと神に宣言しているようなものであり、それは今までの経過に表れている傲慢不遜の証となるでしょう。奇跡の受け取り方次第で、人間は、シャロームのように、偽善と裏切りの反信仰をもって、信仰としてしまうという例なのです。
 
心に深くしみる話が何もないというだけではなかったのです。
彼が無反省の安穏境地でいられるのは、人の言うことを全く聞かないのは、
自分のために奇跡を起こしてくれる神がともにおられると信じているからなのです。
 
さて、神が彼とともにいて奇跡で彼を守っているでしょうか。彼は、誰の助けにもなっていないし、彼の今の有り様は最悪で、批判の対象にしかなっていないのですが。そして、これからも、この状況は変わりようがないのですが。彼は、ひょっとして、神が批判者を殺してくれると信じているのでしょうか。恐ろしい信仰?があったものです。
 
自己中心の信仰?を持ってしまうと、これほど酷いことになるのです。
神はともにいるから、この世が神の国で、神の国が見える、というのでしょうか。
よくこんな身勝手なことを信じられる・・驚きます。呆れます。
 

【口語訳】ヘブル人への手紙
13:8 イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。

 
今回のシャロームの記事を読んで、怖いと感じない人は、信仰を考え直したほうがよいと思います。奇跡が、きのうも、きょうも、いつまでも変わることなく与えられる、などと言う信仰を決して真似てはいけません。シャロームの言は、恐るべき神への、恐ろしい冒涜です。
 
いつにもまして恐ろしい記事でした。彼の正体も、教条信仰、奇跡信仰、自己中心と人間性無視と訂正不能の信仰?の弊害、極めて身勝手に偏った信条、など、だいたい、明らかになったと思います。人間性を無視しているがゆえに、奇跡を受けたことを特権のようにしか受け取れず、「超常体験?はまだありますが」、などと笑うように平気で言い放ち、いつの間にか、権威の座に胡坐をかく裸の王様になった偽善者の話でした。
 
 
私たちは知るべきです。奇跡は滅多に起こらないから奇跡と呼ばれること。奇跡は人の都合ではなく神の都合で起こるということ。肉体や物や成り行きに起こる奇跡だけでなく、一番大事な魂の奇跡を経験した者は、単純に喜ぶだけではなく、自分がどういう生き方をしたらよいのかを考えるのだ、ということ。
 
魂あるいは心に起こる奇跡は、人間が生きる力となります。物や肉体の成り行きに起こる奇跡は、考えるテーマを人間に与えるでしょう。いずれにしても、人間の心なくして信仰は成り立たないということを肝に銘じるべきだと思います。
 
 
(2018年09月24日、11:08下書き)
 
(2018年09月25日アップ、同日一部修正)
 
胡坐(あぐら、胡座)
酷い(ひどい、むごい)
 
 
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  今ここにある災い
 
   神の国はいつ来るのか
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28726843.html
    by shalom (シャローム、シャロム、彼、あなた)
 
 
シャロームが書くたびに、私は、彼の信仰の白々しいごまかしと偽善について、批判記事を書いてきました。それに弁明も反論も出来ないくせに、書いてくる不感不応を、根腐れと言いました。その腐敗臭をまた与えに来ています。
 
彼の伝道話は、聖書語をいい加減に並べて、意味ありげに見せながら、読んで考えてみると、受け取れる内容は皆無であり、安い謎謎を見ているようで気持ち悪いのですが、今も、意味ありげなところを真に受けて、丁寧なお話と、世辞を言う人がいるのでしょうか。それで、シャロームは満足したりするのでしょうか。
 
聖句については記事の中に書いてある分は省略します。
 
>《shalomのコメント》
 

イエスさまは総督ピラトの法廷で次のように証言されました。
18:36 イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。
もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、
わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。
しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。(口語訳ヨハネ18章36節)

 
聖句を書いています。解説はない。
 

【口語訳】ルカ福音書にはイエスさまの言葉が記されています。
11:20 しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、
神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。

 
聖句です。
 

イエスさまの言葉やみわざは神の国を表しているのですが、
どうやらイエスさまが話しておられる神の国はこの世の国ではないようです。
だから、「神の国は、見える形では来ない。
『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。

 
この世ではない、どこにある、と言えるものでもない、
と書いています。聖句を読めばわかることです。
なお、解説はない。
 

実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」といわれ、
神の国を見るためには「誰でも新しく生まれなければ、」と言い、
神の国に入るためには「水と霊とから生まれなければ、」といいわれたのです。
「誰でも新しく生まれなければ、」=「水と霊とから生まれなければ、」のようです。

 
「水と霊とから生まれなければ、」は
ニコデモのところでのキリストの言葉ですが、
二つ並べて、ここから、何か分かるでしょうか。
シャロームは、こういうことをして、ごまかすということです。
 

イエスさまの言葉「水と霊」とはどのよう意味があるのでしょうか。
「水と霊」(新共同訳)という言葉は口語訳では「水と血」と訳されていますが、
【口語訳】ヨハネ19章32~34節には次のような言葉があります。
19:32 そこで兵卒らがきて、イエスと一緒に十字架につけられた初めの者と、
もうひとりの者との足を折った。
19:33 しかし、彼らがイエスのところにきた時、イエスはもう死んでおられたのを見て、
その足を折ることはしなかった。
19:34 しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。

 
>「水と血」イエスさまの十字架上の死を意味しているようです。
 
死んだキリストの体から血と水が流れたことと結び付けています。
キリストの死体から流れてきたから、死を意味するのでしょうか。
既に、キリストが息を引き取った、という記事の後なのですが。
 
シャロームは、血と水が出てきたから、水と霊、水と血、という訳の違う聖句に結び付けていますが、どちらも、そうですかと聞いたところで、人間にとって、なにか広がりのある内容にはなりそうもないのです。
 
意味があるとすれば、預言の成就として聖書は記しています。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
19:34
しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。
19:35
それを見た者があかしをした。そして、そのあかしは真実である。その人は、自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなたがたも信ずるようになるためである。
19:36
これらのことが起ったのは、「その骨はくだかれないであろう」との聖書の言葉が、成就するためである。
19:37
また聖書のほかのところに、「彼らは自分が刺し通した者を見るであろう」とある。
 (ヨハネ書19:34-37、新約聖書)
 
シャロームは、この、キリストの不滅を暗示しているような聖句を引用しないで、いったい、何をどう結びつけるつもりなのでしょう。
 
それででしょうか、シャロームは、また、違う聖句にすっ飛んで行きます。
 

またイエスさまの公生涯の初めにはヨルダン川で、バプテスマのヨハネかによる
水のバプテスマを受けられました。
その時、天が裂けて、聖霊は鳩のようにイエスさまの上に下ったと記録されています。
その時のことが次のように書かれています。
【口語訳】マルコ1章9~11節
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、
ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
1:10 そして、水の中から上がられるとすぐ、
天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。
1:11 すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

 
信仰の心を持たない者は、何かしら言葉を結び付けようとします。心を受け取れない言葉を結び付けては、こういう意味なのだ、聖霊なのだ、と豪語するのですが、辻褄合わせでは信仰は何も語れないのです。超常の救いの仕組みを語ったことにしたいだけです。こういう人の説教を聞くことは、求道者にとっても、信仰者にとっても、不幸としか言いようがありません。
 

「水の中から上がられる」とは罪のあがないためのイエスさまの来たるべき死を意味しています。
「水と天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来る」とは
イエスさまの死後、弟子たちに注がれる聖霊をあらわしています。

 
このことと、先ほどの、水と血を結び付けたいようです。水があっている、というようなことでしょうか。聖霊が下ってきて天から声があった、これこそ、何も分かっていないシャロームは、超常の言葉合わせの奇跡として根拠としたいのでしょう。共通する言葉を見つけて、辻褄を合わせることで、理解したことにする教条主義の典型です。
 

イエスさま「水と血」と言葉に表されているイエスさまの死と
イエスさまが約束された「水と霊」の水は聖霊を表す言葉でもありますが、
イエスさまの死と聖霊によって、だれでも神の国を見ること、神の国に入ることができますと、
イエスさまはニコデモ、そして私たちすべての人に話されたのです。

 
シャロームが、自己正当化の根拠とし、議論不要の根拠としていた聖霊でありますが、
 
キリストが死んで、血と水が流れたから、水と霊が、水と血という訳もあり、聖霊も降りてきて天から声もあったことだし、超常の仕組みだけを考えている者は、これは、ありがたいと、分かったことにするのです。ピンとくるものが何もないのに、後生大事に大仰に言ってきたのですが、現実的に具体的に、一歩も進むことの出来ない教条主義なのです。
 
進むことが出来ない教条に囚われて、シャロームは、讃美の微温湯に停滞していることを、神の平安と呼び、いかなる偽善の指摘にも、不感不応を貫いてきたのです。
 
一貫して、人間の心の深みに届かない筆致と内容であることに注意してください。
 
シャロームの今回の話は、救いの話ではなく、このようにして、中身のない偽善が生まれましたと、シャロームの、教条固定からの不感不応の成り立ちを説明することになります。
 
反省機能を持たず、何を言われても、泰然自若としているとでも言いたいのでしょうか、他者を無視して、気取りだけの平静を表に出そうとしているのが、いちばん、福音伝道もキリストも信仰も語ってほしくない人の一人、シャロームの記事です。
 
 
私たち人間は、聖霊と陶酔状態との区別もつきません。さらに、私たち人間は、聖霊と悪霊の区別さえつきません。人間の薄い感覚に、悪魔と悪霊は上回り、そして、神と聖霊は、さらに上回ります。その神を認識するのではなく、分かったことにするのでもなく、その神に正直に祈るのが信仰です。
 
神に対する正直さだけが人間の手に負える信仰であり、それが同時に信仰者の敬虔であり、それを支えるのがキリストの愛であり、信仰者はそれを聖書と経験から学びます。
 
その一番大事なところを全く学ぼうとしないのが、偽善者と教条主義のカルトであります。
 
その正直さを持っていない者が何を書いても、空回りするようにしか出来ていないのです。
 
 
  今ここにある幸い
 
教条主義に陥ることなく、経験と聖書の言葉から人間の良心を努めて養い、温もりと潤いを求めていれば、私たちも、いつどこと神の国を認識できないまでも、神の国を垣間見ることはあります。聖書の言葉に触れて、あるいは、聖句を思い出して、心の解放感を与えられるとき、広がる世界は、神の国からの賜物以外ではないからです。
 
 
(2018年09月23日、08:58、下書き済み)
 
(2018年09月24日アップ、同日一部修正)
 
微温湯(ぬるまゆ、ぬるゆ、びおんとう)
賜物(たまもの)
泰然自若(たいぜんじじゃく)≒ 落ち着いていて動じないさま
 
 
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  自己中心の箇条書き
 
   戸田聡さんの負い目。
   
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64607196.html
    by Yhoshuah (以後、ヨシュア、あなた、彼)
 
 
何をもって私に負い目があると言うのでしょう。見ていきます。
 
>戸田さん、あなたが抱えた負い目を教えます。
 

1、私を含め、複数の人をわけもなく誹謗中傷した罪。
  批判という名目で当りかまわず、でたらめな理屈でクリスチャンを
  誹謗中傷していた。
  私やマリアさんを、根拠も無くカルトだと決めつけた事。

 
誹謗中傷はヨシュアとマグダラの専門分野。
私は、根拠を述べて批判をした。
それに対して、私の家族や職業や病気のことまでネタにして
誹謗中傷したのは、ヨシュアである。
 
>2、神さまへの負い目
 
>A: 神様を賛美しないでも良いと言った背教心。
 
私は、神への讃美が、
信じている自分への讃美になる場合があることを危惧している。
 
>B: 神様は賛美を必要としないと言ったウソの背教心。
 
神は、誉められて伸びる御方ではないということ。
神は、褒められて、取り引きのように恵みを与えるわけではない。
全知全能の神は、ご自身の秘められた計画のみによって働き、人を導く。
 
>C: 神様がメシアであるイエス様と聖霊を作ったと言った、異端的思考。
 
この問題では、ただただ、ヨシュアの言葉への異常な執着と
ヨシュアの度量のなさ、という二つが明らかになった。
ヨシュアは、ずっと同じことで文句を言っている。
こういう人とは付き合わないほうがよい。
 

D: 神様が義人であると認定したアブラハムを義人では無いと主張した事。
   それは、神様に言い逆らった事になる。ここは補足が必要となるが。

 
アブラハムという人に対して、神が神と同様の完全な義を与えたとしたのが、
ヨシュアであり、神と人の違いを心得ていないと、私は見なしている。
 
別の折に、ヨシュアの、人も完全に造られている、完全になれる、
という、とんでもない信条が明らかになっている。
 

E:  神様への信仰を捨てても、神様が助けに来てくれるか?という馬鹿げた
   実験を して、神様を信仰実験の道具に用いた事。

 
信仰実験ではなく、思考実験という類のもの。
「信仰を捨てても、神様が助けに来てくれるか?」には、覚えがないが、
ヨシュアは、どんどん心と理路が壊れてきているので、でっち上げではないかと思う。
 
偽善は、罪を認めないで善を装う、ということであり、
罪を認めないことは、罪人のための救いを拒むことに他ならず、
人が、その自由意志で救いを拒むなら、
救いを与えられても救いとして受け取らないだろうから、
救いは成就しない、救われることはない、ということです。
 
一部に、何をしても、罪も偽善も赦されて、どんでん返しのように自動的に強引に救われる、などと宣伝している偽善者がいるからです。
 
ヨシュアは、言っているうちに、激してくると、
問題に執着しながら、理路が発散してゆくために、
言い張りや、罵詈雑言に、結び付きやすいのだろうと思います。
 
壊れる必然を持つカルト信仰?に身をゆだねているヨシュアが、
人間として信仰を伝え得ないのではないか、という問題のほうが重大だ。
 

3、 荒らし行為を何度も繰り返したこと。
  私は戸田さんあなたには、コメントを許可しています、当初はどこでも
   許可したけれどあちこちに荒らしコメントはしはじめたので、
    ゲストブックのみに限定した。

 
関連記事によってあちこちにコメントしたからといって
荒らし呼ばわりするヨシュアは、毎日のように私を侮辱している。
彼の侮辱は、最近では、ヨシュア語録としてまとめている。
ヨシュアは、全部事実だからと彼の罵詈雑言を肯定した。
とても、常識ある大人とは思えない。
 
私は、信仰についてだから厳しい言い方をしたが、
ヨシュアは、直接信仰の問題ではないところの
私の個人的な事情、母のこと、職業のこと、病気のこと、
などを、公開してあるからと、平気で私のブログからコピペして、
ネタにして、それをもって、私を貶めた。
とても、常識ある大人とは思えない。
 
私は、信仰の問題として批判してきたが、
ヨシュアは、手段を選ばない個人攻撃を手段としてきた。
 

4、 人としての信義則違反、。
 
  戸田さんは、私の記事を読んで掲載を認めたのにもかかわらず、
  裏ではYAHOOに記事削除を依頼し、実際私の記事は削除された事。

 
あまりにひどいものは報告した。削除してくださいとは言っていない。
削除するかどうかはヤフーが決めたこと。
 
もちろん、ヨシュアの反論記事は、反論の体をなしていないし、
糞便のごとく汚いものなので、
私の気持ちを言えば、削除されるほうがいい、と思っている。
 
しかし、削除するかどうかはヤフーが決めることである。
 

5、 上記に関係するが、私の記事を許可した事を黙っておいて、
   YAHOOに通報したことは虚偽であり、YAHOOを欺いた事。
    つまり、YAHOOをだました事。

 
ひどいことを書いておきながら、これは被害妄想としか言いようがない。
ヨシュアには、記事を書く上で常識的な思慮分別がないと思う。
 
このように、ヨシュアなる人物は、議論して真実を追求するのではなく、
ひたすら、相手を疲弊させ、その気持ちをくじくことで、
去らせようとする卑怯な強迫的な性癖を持つ人である。
 

6. マリアさんから、当該ブログに来ること及び、荒らしコメントを禁止
  されたのにもかかわらず、
  しつこく 訪問して 誹謗中傷コメントを書き続けた事。 
    すなわち ストーカー行為。

 
批判コメントや、批判記事を書き続けることを、ストーカーとは心外である。
このことから、
ヨシュアは、議論するだけの資質を持っていないことが明らかである。
 

7. イエス様から戴いている、二つの戒めを守っていない事。
  神様と人を愛す事をしていない。

 
ヨシュアが、そのような判断の出来る人物とは思っていない。
彼は、神と人の違い、神に対して人が弁えるべきことを知らない。
 

8.  神様の三位一体を実際は認知できていないのに、洗礼を受けたこと。
   C:に於いて、洗礼は無効となっています。

 
このように、洗礼という儀式の無効を言い渡し、絆の無効と同様に扱うのが、
ヨシュアというカルトの特徴です。彼の信仰には心がありません。
 
洗礼無効やキリスト者から外すかどうかを裁くのは、神のみの特権事項であります。
人は、他者に対して、キリスト者の資格については、不適格の疑惑の指摘に留まります。
何事につけ、人は、決めつけて訂正不能にしてはいけないのです。
 

9.  私とマリアさんを、何々国籍の何々人だと決めつけようとした
   印象記事を書いた事。 

 
ヨシュアが、国際裁判と言ったことと、日本語がおかしいところがあること、
ヨシュアが、前に同じ疑いを持ったことのあるシャロームの味方をしたことから、
疑惑を述べたに過ぎない。
 
また、この問題を取り上げてくるとは驚いた。
 
>以上 全て事実です。
 
以上、冷静な事実認識からは程遠いところで、ヨシュアは、決めつけて叫んでいます。これが、手段を選ばないカルトなのです。だから、自分の言ったことはすべて正しいという認識以外ないので、そう言い張るだけになり、結果、議論は全く成り立ちません。目的が相手をうんざりさせるというだけの、洞察も説得力もない疲労物質をぶつけるだけになります。
 

要求します。
上記に関連して、戸田さんは、早く謝罪してください。
上記に関連して、戸田sんは、早く修正してください、それを記事で公表して
ください。
悔い改めて、早く負い目を軽くした方がいいと思います。

 
ヨシュアのような心では、仲間意識の仲間褒めの関係は作れても、誰に対しても、本当に魂の救いを宣べ伝えることは、恐らく一度もないでしょう。救われるという言葉が掟のようにあるだけで、信仰の心がないのが教条主義なのです。
 
ヨシュアのような人は、掟に反する意見に対しては、怒り、憎しみ、敵意だけを生じます。そこから書いてゆくので、平静を装うために、ハハ、とか、フフ、とか書いて、笑って見せて、その実、結局、批判者の一言一言に対して、何を言うか、何を言うか、何を言うか、・・を繰り返しているようなものなのです。だから、口汚く罵るだけになってゆくのです。
 
ヨシュアには、どんでん返しのような、ひっくりかえるような、悔い改めが必要だと思います。
 
私の負い目を、ヨシュアがどんなに暴こうとしても無意味です。
 
私の負い目はすべて、神がご存知です。
 
 
(2018年09月23日、同日一部修正)
 
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  カルトの馬脚
 
   私たちクリスチャンを含め神様を信仰する者は、、
   
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64607759.html
    by Yhoshuah (以後、ヨシュア、あなた、彼)
 
 
今回、ヨシュアの記事は、カルトに騙されないために学ぶべきことを、反面教師として語ってくれています。悪いお手本だと思えば、学ぶべきところはあるということです。
 

私たちクリスチャンを含め神様を信仰する者は、、。
まだ 求道者と言われる方を含めて、悪魔的思想者を一ミクロンでも容認しないでほしいです。
甘い言葉をその人に与える事は悪魔の食物になり、悪魔的思想の永らえになります。
本当に その人間を神様の元に届けたいなら、お追従も悪となります!
細かいことですが、ナイスポチも悪魔への食べ物となります。

 
批判されたりするときには、離反者を出さないために、信者を脅す、というカルトの一面が表れています。強制はしないが脅迫はするのです。悪魔に手を貸すな、自分の言うことだけに従え、というわけです。
 

更には、あなたはこの人の記事にナイスをいれたでしょう!
この人を支持したのでしょう!と悪魔は迫ってきて、
証拠があるので 人は言い逃れできなくなります。
つまり、悪魔は神さまに これだけの人間が 反キリストを支持していますと
神様の法廷で堂々と証拠を基に 言います。言ってもサタンに責はないからです。

 
現実問題を語らず、悪魔が出席する法定を仮想して、ドラマのように語っています。超常でしか語れないというのは、このことです。この前提として、悪魔の性質を知っている、分かっている、という傲慢があります。この傲慢こそが、悪魔的なのです。
 

前にも言いましたがけっして、サタンの人質にならない言質でいましょう。
イエスさまは 言葉で表現されましたが、父神さまの言うことしか
言いませんでした。 旧約聖書を基本としていたのです。

 
キリストは、旧約聖書を基本としていましたが、言葉だけを語るならパリサイ人がやってきたことです。キリストは、神の子として、パリサイ人が出来ないような、人間についての深い洞察によって語りました。ゆえに、キリスト者が誕生したのです。それを超常の法廷ドラマに貶めているのがヨシュアであります。
 
>人には良心がありますが、良心は 罪のため 曇ってきました。
 
と、罪を認めるようなことを言いながら
 
>良心の本質にある 本心は神様の直のものです。
 
と言っています。
 

本心を認識できる人間は稀有ですから、凡なる人は聖書で神様を知ります。
聖書は原書は今は無いです。写本の最古を翻訳して現代人は読んでいます。
でも 究極では 聖書を一度も読んでいなくても救いはあります。
それは神様の哀れみによってです。

 
ヨシュアは、凡なる人、というのを想定しているようです。
凡と非凡によって、神を知る方法が違うと言っています。
 
キリストは、わけ隔てなく、神の前に魂の砕かれた人々を救いました。
キリストは、一方、知識があっても、偽善者に対しては厳しく批判しました。
 

神さまは姿をあらわさない。肉体の目では見えない。
でも 人は神様を神様だと認識できます。
人は神様に似せられて創造されたからです、。
わからない? 意味が、、。
神様は人を全て認識できます、 ただの動物ではない、植物でもない虫でもない と。
人は神様の似姿です、、みなさん、ここ、いいですか?
神様に似せてる造られたのですよね。創世記に書いています。

 
神に似せて作られたのだから、神を認識できると言っています。
作為的な理路の飛躍です。すっ飛ばしの詭弁です。
 
人は神と相互認識可能なほどのいかなる能力も持ってはいません。
生きて考えておれば分かることなのです。
ヨシュアは、多くの自分の罪を見逃してきたのだろうと思います。
だからまた、ここで、神に対して高慢な口をきいているのです。
 
こうやって、自らの非凡と、自らの神認識の無謬性を、カルトはすり込みます。
 
似せて作られたのは自由意志を持っているということです。
 

神様は簡単に人を人だと認識できるのと似たように、
人は神様を霊的に認識できるように創造されていているのです。

 
畳みかけて、神と人、同等発言です。きわめて胡散臭いです。
 

ただし、多くの人は罪によりその機能は発動されていいません。
しかし 認識できた人は聖書上、何人も存在します。
アブラハムも、ヤコヴも、モーセもダビデも、イエスさまも、、イエス様は人であり神様だから当然といえば当然だけど、他にもたくさんいます。

 
神を認識できる人が、どうして、罪を犯すのでしょう。
 

そうなら 現代もそうした 人間がいてもおかしくも不思議でもない。
神様に似せて作られた人は、神様の霊の一部を吹き入れられて生きる者になりました。
神様と人は人類始祖の時は、神様と会話できていました。
その時人は神様が神様だと認識できていたのです。

 
その認識においても人は罪を犯しています。
認識が十分でないから人は罪深いのです。
 
なのに、こうやって、人間の中に、優越した人物の存在を暗示します。
結局、それは、自分だと言いたいのでしょうか。
 
実際には、特別な人というのは、人並み優れて、神の前に敬虔な人です。
ヨシュアは、違うと思います。それにしても白々しいすり込みです。
 

人に与えられた霊は異質のものではなく神様の霊の一部なので質が同質です、
同質だから互いに認識できるのです。
全く異質なものなら認識も識別もできなかったでしょう。

 
霊を、物質のように、同質だと言い、だから認識できると言っています。
小学校の理科じゃないんだから、
いかに安っぽく幼稚な根拠であるかが分かると思います。
ここまで、恥をさらして、ヨシュアは、平気なのか。
 

人は神様に似せられているので、認識の能力も神様には劣るけれど神様が認識できることは
ほぼ認識できるようになっているのでしょう。

 
神に劣るけど、ほぼ認識できる、という、いい加減な見積もりをしています。
 
神を見積もることは、誰にもできません。
 

花を見て赤い花だと認識したとします。
色が赤だと認識できるのは?
人に赤色だと目に映る要素が無いと赤を赤だとみる事ができません。
その要素はあらかじめ神様が人に与えているのです。
自然に備わったのではなく、神様が創造した被造物なので神様は当然認識できています。
人は神様の似姿なので神様が認識できることは人も認識できるように創造されています。

 
神認識を、花の識別に喩えています。安易です。
どれだけ騙しやすい人々を相手にしてきたのでしょう。
馬脚を露すカルトですが、騙されているほうは悲劇です。
 
神の似姿だから神を認識できる・・成り立ちません。詭弁です。
似姿は、どこまでも、似姿です。同等ではありません。
前の「劣るけど、ほぼ認識」の、いい加減さと同じです。ペテンです。
 
神は全知全能であると信じました。
人の世界のみならず、宇宙から目に見えない全ての世界までを統べる御方と信じています。
ヨシュアのような安いペテン師に語れる存在ではありません。
 

神様が人を認識できるのだから、人も神様を認識できるのです、、本来は、です。
人が神様自身を認識できなければ、創造した意味が半減します。
半減どころか 無意味です、、人は神様の子の立場ですから、
子が父をしらないはずはないのです。

 
聖書にあるところの、人が「神の子」という言葉を、神に対する人間らしい敬虔をもって、神の家族として愛してくださる、という受け取り方は、決して無意味ではありません。
 
むしろ、安っぽい理屈を捏造して、認識しました、神の子だから父を認識できる、と説いてしまうことこそ、神について弁えるべきことを何も分かっていない証拠です。神を恐れぬ態度です。
 
子が父を知らないはずはないと、このように、言ってしまうのは、ヨシュアが、人の前にも、神の前にも、敬虔ではないという証拠なのです。どこまでも、安物の教条に、踊らされている信者たちは、かわいそうです。
 
>子が神様自身を知る事ができるように創造しているはずです。
 
神に、あなたの筈(はず)を当てないでください。
 

神さまが神様だと瞬時に識別とか認識できるように人に神様を認識できる要素をあらかじめ
与え備えさせているのです。
その要素と霊で神を感じた事を突合させ、照合し認識する。。それは瞬時です。
人自身があらかじめ持たされているものと一致したら、それが神様だとわかるのです。
だれにも教えられなくてもそれはわかることになっています。

 
子供が辻褄を合わせた空想話のようです。
 
「わかることになっています」・・どこで決めた?
 
カルトは、そこを詭弁によって、欺いているのです。
 
こうやって、完全になれる、というカルトの妄想と煽動は誕生するのです。
 
これは、神の前に、人が、その身の程を弁えない、という大罪です。
多くの犯罪、特にカルトの犯罪は、このように、神が分かる、神の意志が分かる、神の意志を伝える、神の命令を聞け、という傲慢から生まれてきたのです。
 
あわれです。神を信じるのに、神の下にある低い自分を知るのではなく、神の高みに昇ろうとする者は。
 
彼らの尊大さに比べて、彼らの教条が、いかに低いレベルの幼稚さであるかを知ってください。
 
ヨシュアが妄りに噴き掛ける泡のような唾液の滴を浴びないよう注意してください。
 
 
私たちが、神を知るのは、聖書と、人間としての経験によって、温かいものを心に与えられるということです。したがって、そういう受け取り方と知り方は、聖書の文言をいくら探っても、認識と言えるレベルではなく、むしろ、希望に近いものなのです。
 
 
(2018年09月22日、同日一部修正)
 
弁える(わきまえる)
胡散臭い(うさんくさい)
妄り(みだり、濫り)
唾液(だえき)、唾(つば)
滴(しずく、雫)
 
 
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  不感不応という偽善
 
   幸せ幻想の裏に潜む魔の幻想
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28724513.html
    by shalom (以後、シャローム、シャロム、彼、あなた)
 
 
生涯にわたって自分は無条件に無罪であるという自作の妄想信仰に長らえて、それがキリスト信仰だとばかり嘯いている者は、他者の意見に対して、驚異的な不感不応という心性を持っていて、批判に対して、一切気にせずに、何の反応も示さず、平気で善人を装うのです。
 
こういう人は、人を人とも思わず、人を物のように扱い、平気で人を傷つけて、決して謝罪も反省もせず、すべてを相手のせいにして、信仰と名付けた安穏境地に浸ったまま、他者を云々するという生き方を身につけてきたのです。
 
罪悪感を感じない者が、一つ記事を書けば書く分だけ、人間性が大根役者の芝居となり、悪質が増してゆきます。無視した数々の罪と偽善が、腐臭のように付きまとっても、笑ったまま、恨みに基づく言動が日常になってゆくのです。
 
まず引用から
 

そして、陰の世界に属する他の心情と同様に、
現代人は「うらみ」という心情からも目を背けようとしている。

 
シャローム自身のことです。他者についての言葉が、自分を刺してきます。感じないから平気で書けるのでしょう。
 

しかし、個人の理解を超えるまでに複雑化し、一見平等に見えながらも
大きな不平等を含む社会のなかで、人々はもっていきようのない「うらみ」をためている。
「うらみ」による犯行といった報道はあとを絶たず、
「うらみ」による紛争や人間関係の破たんも減少しているとは思えない。

 
シャロームは、根腐れの恨みを、他者へのボロクソ節という偽善によって排泄してきました。
 

それでも、人々はそれをテレビや新聞のなかの話だと思い込もうとしている。
心理臨床の場に限定してみると、かつては幸せの対極にあるものを抑圧している人が多かった。
自分の心の中に湧き出してくる「うらみ」を心の奥に抑え込みすぎて、
「うらみ」の感情を自覚することができなくなった人に出会ったものである。
しかし、最近では、抑圧するのではなく、
幸せ幻想によって現実にある「恨み」から目をそらせて、
それを感じないでいる人々が増えてきているように思われる。

 
シャロームは、人の恨みを指摘しながら、自身の恨みや、自身に向けられた恨みや怒りを意識することの出来ない人です。こういう人は、悔いるということがないです。
 

たとえ彼らが「うらみ」とは縁がないと思い込んでいても、現実から目をそらしているだけでは
わずかの衝撃でもその統制は破たんし、未分化で危険な「うらみ」が噴き出してしまう。

 
自分信仰によって感受性というものが欠落してしまうと、恨みを処理することもなくなり、自分の言動が与える影響にも不感となり、悪意の固定が人格になってゆきます。
 

困ったことに、幸せ幻想のすぐ裏には魔の共同幻想が潜んでいるのである。
私はいま、「うらみ」という心情を通じて人間を見ようとしている。
「うらみ」という心情をよく知ることは、
人の「うらみ」や自分の「うらみ」を洞察するための第一歩であり、
「うらみ」を根本的に解消するのに役立つ。
それには、幸せ幻想でごまかすような安直さはないが、真の心の安らぎが生まれ、
真の幸せに達することができると思う。

 
こうして他者の見解を引用しても、偽善者の不感においては、それを自分に当てはめることなど全く考えず、他者へ向けるだけで、他者から何かを受け取ることが出来なくなります。
 

私は本書を、幻想ではない、真の幸せに達するための、一つのアプローチとして書いた。
本書の第一部は、私の心理臨床経験に基づいて、「うらみ」の心情を、
およそ人間として生まれてきた以上嫌でも体験せざるを得ないものとしてとらえ、
その心情を解消しようとする試みでもある。

 
こうして他者の見解を引用しても、不感不応は今が幸せと満悦しているために、恵まれない他者へのお恵みとしてしか見ることが出来なくなります。それが尊大な説教者のスタンスです。
 

これは「うらみ」によって生じる人間社会のさまざまな紛争や、
自己の存在をも揺るがしかねない懊悩を、根本的に解消しようとする
心理臨床の実務家のために書いたが、自分や自分をとりまく人々の「うらみ」を洞察して、
心の平安を得ようとする人たちにも役立つよう配慮したつもりである。

 
自己中心の偽善者は、他者に当てはめても自身には当てはめず、他者に言っても自身には言わず、他者に感じても自身は感じず、いつまでもどこまでも自尊を誇るためにだけ書くのです。
 
>《shalomのコメント》
 

今日は自民党総裁選投票日です。。
ある記事がふと目につきました。
麻生氏による厳しい石破氏批判について、
「21年7月、石破氏は麻生内閣に身を置きながら、「麻生おろし」の先頭に立った。
麻生氏にとって、飼い犬に手を噛まれたようで苦々しく思ったに違いない。
さらに石破氏に先駆けて麻生氏退陣を突き付けた議員が石破派であることも、
石破氏に対する麻生氏のうらみはさぞ深いだろう」と。

 
また、何の関係があるのですか、という文脈になっています。政治を語るならば政治の記事の引用ではないのですか、という文脈になっています。このように、常識的な理路を、自分信仰は破壊してゆくのです。これを説教話とすれば、とても迷惑な話です。
 

国家国民のために政治家を志していても、いざ権力者となると、
政界は敵は味方に分けられ、国民も支持者かあんな人たちに分けてしまう。
国民も国民主権ではあるが、主権の行使である選挙による審判によって
権力者の腐敗を浄化する選挙権を簡単に権力者に売り渡してしまう。
その結果政治腐敗だと騒ぎ、政治家をうらむこと、それは天に向かって唾することだ。

 
このように、ボロクソ節を書くしかなくなるのです。
 

この本を私が読んだのは1994年に出版された間もなくでした。
24年前ですから、まだインターネットも普及してはいなかったのです。
教会でなんで、こんな「うらみ」の心理などという陰湿なテーマの本を読むのかと思われました。
「うらみ」など心に秘めておくべきもので、決して口に出してはおしまい。

 
底知れない恨みも罪も偽善も隠蔽して、無言で人をあざ笑うシャロームらしい陰湿なコメントです。その笑いは、過去の言動と今の言動の非連続性に表れています。例えばの話ですが、こういう人は、人を殺した後でも、人の罪を戒める説教をするでしょう。学習機能がないからです。
 

しかし、心深く押し隠し、封じ込めて、素知らぬ顔をして、本音と建て前を使い分けていても
わずかの衝撃でもその統制は破たんし、未分化で危険な「うらみ」が噴き出してしまう。
悲惨な事件のニュースに“あんないい子が、あんな幸せそうな家族が”と思われます。
心の底に秘められたうらみの蓄積はわたしたちの心にとって最も重い重荷ではないでしょうか。

 
シャロームは、どんな衝撃を言論によって与えられても、本音と建て前を使い分けて笑っていられるでしょう。恨みが噴き出す前に、既に、人間的授受の感受性が破壊されているからです。
 

幸い、インターネットにより、誰もが自由に、今まで、顔と顔を合わせては、
とても口に出せなかった心の思いを言葉にできるようになりました。
匿名でできることもあって、心に秘めている思いを発散することもできやすくなり、
ネットによるいじめや炎上、また犯罪の温床化していることもあるようです。

 
不感不応の温床としてシャロームは存分に利用しています。偽善者が、すべての刺激と情報を無視して、善人ぶることが出来るからです。
 

日本文化は言葉よりも、情的結びつきを重んじる文化だと思われますので、
言葉によって、互いの思いや意思を伝え会うことにはまだ慣れていないこともあり、
それは私自身にも当てはまるのですが、むずかしさを感じます。

 
互いに思いや意思を伝えあうことを、シャロームはとうに捨てています。コメント欄廃止に、それが表れています。そういう環境が、シャロームの至適なパラダイスであり唯一生存可能な培地なのです。
 
何も言われない、何も気にしない、そして言いたいことは好きなだけ言う。現実を逃れて、彼が存在しうる唯一の環境です。現実に戻れば、偽善の醜さを叩かれるだけなのですから。
 

SNSによってアラブの春が起こった時、世界は明るい希望を感じましたが、
あっという間にアラブの多くの国が無政府状態の混乱となり、
悲惨な内戦やテロや多くの難民を生み出してしまいました。
インターネットは私たちの思いを表現しあい、交流し、新しい方向を示唆することはできますが、
やはり、人と人とが顔を合わせて、対話し、選挙の投票に結びつくことなしには、
統合する力はネットにはないのではないかと思われます。
真の平和は私たちの心の中からはじまり、生み出されるのです。

 
まさに「人と人とが顔を合わせて、対話」ということを、完全に遮断して生息しているのが、シャロームその人であります。否応なく、彼が何かを書けば、それは、彼を斬ることになる、ということが、以前も、今も、表れています。
 

〈イエス・キリストの招き〉
11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、
わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられます。
(口語訳マタイによる福音書11章28~29節)
〈イエス・キリストの約束〉
14:24わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。
あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。
14:25これらのことはあなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。
14:26しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、
あなたがたにすべてのことを教え、またわたしがはなしておいたことを、
ことごとく思い起こさせるであろう。
14:27わたしは平安をあなたがたに残していく。わたしの平安をあなたがたに与える。
わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。
あなたがたは心を騒がせるな。またおじけるな。
14:28『わたしは去って行くが、またわたしがあなたがたのところに帰って来る』と、
わたしが言ったのをあなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、
わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きい方であるからである。
14:29今わたしは、そのことが起こらない先にあなたがたに語った。それは、事が起こった時にあなたがたが信じるためである。
(口語訳ヨハネによる福音書14章24~29節)

 
全て重荷を負わせる者は、キリストに値しない。休んでいるのは偽善である。
へりくだることなく、キリストのくびきを負わず、キリストに学ばないので、魂に休みではなく、自作の安穏しかない。
キリストを愛さないで、愛するふりだけをして、自己正当化の自尊を愛して、キリストの言葉を守ろうともしないのに、人には守るように言う。
人に言う言葉は、キリストの言葉ではなく、キリストの言葉にかこつけて、陰気で執拗な偽善者の企みの意図である。
したがって聖霊を受け取ることがなく、悪霊に総てのことを教えられ、悪魔の悪意を思い起こすのが日常である。
平安の代わりに、自作の捏造の安穏にどっぷり浸かり、確かに世が与えるものとは異なり、天も地も神も人も嫌うものを崇拝する。
心を動かせるときに動かず、勇気を出すときに逃げ隠れする。
そして、自分を全肯定すると信じて疑わない捏造の神が帰ってくると嘘を吐き、他者には、天国に見せかけた地獄に落ちることを喜べと言う。確かに悪魔はシャロームより大きい。
そのことは、まだ起こっていない。ことが起こったとき、彼が驚くためである。
                                 カルトと荒らしを味方にして勢いづき
                                 聖句さえも悪用する隠蔽と捏造の偽善者へ
                                               st5402jp戸田聡より
 
神の前に偽り、隠し事をする人は、人の前では、さらに、恣意的に隠し、偽るでしょう。
神を恐れず、正直でない者は、偽善に走り、救われることもないので、さらに偽りを重ねることで自らを慰めるのです。キリストの軽い荷さえ負うことを拒んだからです。
 
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11章30節)
 
これから先、彼の、どんな記事を読んだとしても、
シャロームには決して好意的に関わらないでください。
 
 
神の前に、精いっぱい、正直であることだけが、救われるための唯一の条件です。それだけですからキリストの荷は軽いと言われるのです。
 
その条件を守る人は、人の前でも、悪意と作為による不正直は避けるでしょう。神を恐れるからです。それが、人間に可能な精いっぱいの信仰であります。
 
 
(2018年09月20日、21:05現在)
 
(2018年09月21日アップ、同日一部修正)
(2018年10月01日、一部修正)
 
嘯く(うそぶく)≒ とぼけて知らん顔をする。豪語する。
執拗(しつよう)
隠蔽(いんぺい)
捏造(ねつぞう)
関わる(かかわる)
 
 
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