偽善の逃げ口上
朝の九時ー時空を超えた神の御業ー
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28721952.html
by shalom (以後、シャローム、シャロム、あなた、彼)
今回の記事は、だらだらと長いので、引用の使徒行伝の聖句は省力します。
シャロームのような偽善者は、批判されたときに、やたら聖書を引用して、こう書いてある、こう書いてあると、文字面で喚き散らすことがありました。そのことは、以前、指摘したのに、今回、また、同じことをしています。
そして、シャロームが強調しているのは、超常の奇跡です。彼の信仰は、そのことだけであることが、今回の記事で、いっそう、明らかになっています。彼は、人間について、人間性について、書くだけの感性を失っているのです。
人格が破壊され、もはや善悪の区別も、信仰の是非も分からなくなると、この記事のように、やたら、奇跡を取り上げ、だらだらと書いて、やたら、神を讃美するのです。
つまり、私が批判記事として、今まで書いてきたことを、まるで理解せず、受け取ることもせず、当てつけのように、勢いを増して、書くことが信仰だと思っているのです。そして、罪に罪を、偽善に偽善を、隠し事に隠し事を、自己正当化に自己正当化を、糊塗してゆくのです。
シャロームのような偽善者に捕まると、同じような人格破壊的な思路をすり込まれ、同じような言い訳や逃げ口上を身につけ、ひたすら、人間性を捨ててゆくことになるでしょう。そして、いつまでも、いつまでも、先生風を吹かせ、罪悪感もなく、次は、企みと言葉面によって、他者の人格を破壊してゆくのです。
シャロームは、聖書の中の奇跡に、芝居がかって大きく打楽器のように共振し、それをもって、自らの信仰の厚さを暗示しようとします。しかしながら、シャロームは、聖書の中の、キリストと、救われた人々との交わりに、人間として共感することがありません。
そして、すべての人間らしさを敵として排除した超常魔術の沼に、どっぷりとつかって、人の話を拒否しながら、自分に対して常にストーカーのようにべったり貼りついて、自分を常に正当化してくれる個人的な守り神を、こともあろうに、聖書を振り回して讃美する恥を上塗りしてゆくのです。こうなると、彼については、もはや神の裁きを待つしかなくなりますが、誰も彼の巻き添えにならないように、私は批判記事を書いています。
>その後弟子たちはイエスさまの約束の言葉を信じて、祈り待ち望んだのです。
>そして祈り始めて10日後(五旬節)に約束の聖霊が弟子たちに下ったのです。
彼が、自己正当化のために引き合いに出すのは、聖霊です。そして、神の啓示です。
しかしながら、自分がどんなに悪いことをしても自分を愛してくれる神と決めつけて信じているのです。そこで、どんでん返しの、主客転倒の、背教が起こっていることにだけは、反省しない偽善者シャロームは気づかないのです。
>《shalomのコメント》
>
先生が私に読んでみてくださいと渡されたのが、
ちょうど出版されたばかりの「朝の九時」という本だったのです。
その本を読んで私は本当に驚きました。
なぜなら、聖霊が初めて弟子たちに注がれた時、
ペテロが「今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、
酒に酔っているのではない。」と人々に話した出来事が、今、カナダで再び起こっていること、さらに、そのことが広がり始めていること、また私にその本をくださった方自身も、
その出来事を体験しているというのです。
<
このように、奇跡のような大きな目立つ出来事に、シャロームは驚く習性または性癖を持っています。シャロームの信仰の拠り所がそこにあり、そこにしかありません。
>
その本の書名が「朝の九時」である由来はペテロの言葉からきていたのです。
そして、教会を離れていた私でしたが、その方の教会で行われた集会で、
私自身の体験ともなり、私の信仰のリバイバルが起こったのです。
<
そして、その壮大なムーブメントに心を動かされ、一人の人間の動きを無視するようになったのでしょう。・・自分は神の御業に関わるのだ・・とでも思っているのでしょう。舞い上がると、いちばん怖いタイプです。そのことに、シャロームは、リバイバル(信仰復興)の名を悪用しています。
>
それ以来、様々な不思議な見えない御手に導かれて、思いもかけない出来事が
私の身に起こり続けて、聖霊に導かれて今の私はあるということができるのです。
<
このように、自分にもリバイバルが起こった、と豪語しています。それを導いたのが聖霊だと言っています。彼は、自分に働きかけるのは聖霊だと信じています。
実際には、彼は、数々の偽善を働いてきたのですが、彼は、悪霊の導きを聖霊と呼んでいるのです。つまり、誘惑を導きと勘違いして妄想化して訂正不能となり、無罪妄想で凝り固まり、そして恐ろしいことに、その霊は今も、飾れ、豪語せよ、大仰に伝えよ、聖句を並べて長文を書けと、彼を導いているのでしょう。
>
聖書の多くの言葉はわたしたちの理解を超えています。
それは当然です。神は時空を創造し、統べ治めておられる方であり、
人は神の御手によって造られ、生かされ、愛されてはいますが、
神との交わりを見失い、時空という有限で、死すべき、相対的な存在なのですから。
<
聖書の多くの言葉は、奇跡に拘泥しない限り、人間らしい共感が可能です。分かるところから読んで行けばよいのです。
時空を創造し、統べ治めておられる方と、即ち、神と同じ立場から物を見ようとしてはいけない、ということを理解することが、信仰の弁えであります。
時空という有限で、死すべき、相対的な存在である人が、同時に、神と聖霊と交わったと思い込むとき、想像を絶するような、偽善を働くようになり、その隠ぺいを図るようになるのです。
>
しかし、聖書は今も生きておられるイエス・キリストと父なる神の言葉を
飢え渇き、信仰を持って求め、探し、叩く人の心に証ししておられるのです。
<
聖書は今も生きておられるイエス・キリストと父なる神の言葉を、信仰を持っていてもいなくても、求め、探し、叩く人の心に語りかけます。
しかしながら、自分は神の御業に関わるのじゃ・・と、超常を想って陶酔気分と有頂天から傲慢に至り、自己膨張する者は、人を欺いて、嘲笑っているのでしょう。
なぜ笑っているかといえば、今の状況で、何事もなかったかのように言論を続けることは、人間の良心を捨てて相手をあざ笑うことなしには出来ないからです。
シャロームは、大袈裟なことを豪語しては破たんし、神を讃美しまくっては自己が高まったかのように錯覚し、人間的共感を否定し、超常的奇跡にのみ徒に共振して、飢え乾いた野良犬のように、よだれを垂らしている自分に気づかず、まだ立派な人間であるかのように、共感ではなく称賛を欲しがって、隠し事の闇の世界から、ぬっと手を出して、性懲りもなく大仰で長い記事を書き、ぬるま湯の中で悦に入るのでしょう。
神とキリストと聖霊を、聖書の文言から、超常の言葉のみによって理解することはできません。人間は人間としての経験の中で心で感じ取り、考えて学ぶことが必要です。例えば、敬虔は、外面上の遜る態度ではなく、発言が控えめであることでもなく、神の前に、罪深く低い存在であることを人間としてわきまえることです。信仰のあるべき態度はそこから生まれてくるものです。
超常の言葉だけで分かったことにするなら、聖書語ばかりを並べ立てて、一方で、人間の心を持たない、乾燥し焼き付いたような、近づけば火傷するだけのような、熱いか冷たいかを行き来する感情しか持たないような、温もりも潤いもない鉄くずを振り回すことになるでしょう。
忍耐ではなく、恐るべき不感不応無反省の信条によって凝り固まってしまうと、様態は、カルトと殆ど同じものになります。コメント欄を閉鎖して、批判されることが直接にはない環境で、シャロームは、好きなときに好きなだけ、フィッシングの釣り糸を垂れるように、丁寧語と聖書語で、見かけ美味しい記事を書き続けています。
9年くらい前でしたか、ネットのコミュニティで私をめぐるトラブルがあったとき、シャロームは私にアドバイスをしました。「決して謝ってはいけない」と。私は、謝りすぎたのかと思いましたが、そうではなかったのです。それから今に至るまで、シャロームは、記事について、信仰について、弁明が出来なくなった後も、一貫して、本気で謝罪も反省も表したことがありません。それは、シャローム本人が身につけた体質だったのです。
昔、シャロームのコメント欄が開いていたときには、シャロームは、答えられなくなると黙っていましたが、今は、記事と記事なので、上気したように、聖句と讃美という偽善者の常套手段によって、なりふり構わず大仰に書いてくるようです。
シャロームの訂正不能は完全に反面教師です。彼を見ることで、見るたびに、かえって、人間である信仰者にとって、反省することと修正可能であることが、カルトや自分信仰に陥らないために、悔い改めにつながる信仰の弁えとして、何よりも大事であることを痛感します。
(2018年09月19日、20:59下書き済み)
(2018年09月20日アップ、同日一部修正)
(2018年09月22日、一部修正)
徒に(いたずらに)
遜る(へりくだる、謙る)
火傷(やけど)
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