ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年09月

 
  偽善の逃げ口上
 
   朝の九時ー時空を超えた神の御業ー
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28721952.html
    by shalom (以後、シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
今回の記事は、だらだらと長いので、引用の使徒行伝の聖句は省力します。
 
シャロームのような偽善者は、批判されたときに、やたら聖書を引用して、こう書いてある、こう書いてあると、文字面で喚き散らすことがありました。そのことは、以前、指摘したのに、今回、また、同じことをしています。
 
そして、シャロームが強調しているのは、超常の奇跡です。彼の信仰は、そのことだけであることが、今回の記事で、いっそう、明らかになっています。彼は、人間について、人間性について、書くだけの感性を失っているのです。
 
人格が破壊され、もはや善悪の区別も、信仰の是非も分からなくなると、この記事のように、やたら、奇跡を取り上げ、だらだらと書いて、やたら、神を讃美するのです。
 
つまり、私が批判記事として、今まで書いてきたことを、まるで理解せず、受け取ることもせず、当てつけのように、勢いを増して、書くことが信仰だと思っているのです。そして、罪に罪を、偽善に偽善を、隠し事に隠し事を、自己正当化に自己正当化を、糊塗してゆくのです。
 
シャロームのような偽善者に捕まると、同じような人格破壊的な思路をすり込まれ、同じような言い訳や逃げ口上を身につけ、ひたすら、人間性を捨ててゆくことになるでしょう。そして、いつまでも、いつまでも、先生風を吹かせ、罪悪感もなく、次は、企みと言葉面によって、他者の人格を破壊してゆくのです。
 
シャロームは、聖書の中の奇跡に、芝居がかって大きく打楽器のように共振し、それをもって、自らの信仰の厚さを暗示しようとします。しかしながら、シャロームは、聖書の中の、キリストと、救われた人々との交わりに、人間として共感することがありません。
 
そして、すべての人間らしさを敵として排除した超常魔術の沼に、どっぷりとつかって、人の話を拒否しながら、自分に対して常にストーカーのようにべったり貼りついて、自分を常に正当化してくれる個人的な守り神を、こともあろうに、聖書を振り回して讃美する恥を上塗りしてゆくのです。こうなると、彼については、もはや神の裁きを待つしかなくなりますが、誰も彼の巻き添えにならないように、私は批判記事を書いています。
 
>その後弟子たちはイエスさまの約束の言葉を信じて、祈り待ち望んだのです。
>そして祈り始めて10日後(五旬節)に約束の聖霊が弟子たちに下ったのです。
 
彼が、自己正当化のために引き合いに出すのは、聖霊です。そして、神の啓示です。
しかしながら、自分がどんなに悪いことをしても自分を愛してくれる神と決めつけて信じているのです。そこで、どんでん返しの、主客転倒の、背教が起こっていることにだけは、反省しない偽善者シャロームは気づかないのです。
 
>《shalomのコメント》
 

先生が私に読んでみてくださいと渡されたのが、
ちょうど出版されたばかりの「朝の九時」という本だったのです。
その本を読んで私は本当に驚きました。
なぜなら、聖霊が初めて弟子たちに注がれた時、
ペテロが「今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、
酒に酔っているのではない。」と人々に話した出来事が、今、カナダで再び起こっていること、さらに、そのことが広がり始めていること、また私にその本をくださった方自身も、
その出来事を体験しているというのです。

 
このように、奇跡のような大きな目立つ出来事に、シャロームは驚く習性または性癖を持っています。シャロームの信仰の拠り所がそこにあり、そこにしかありません。
 

その本の書名が「朝の九時」である由来はペテロの言葉からきていたのです。
そして、教会を離れていた私でしたが、その方の教会で行われた集会で、
私自身の体験ともなり、私の信仰のリバイバルが起こったのです。

 
そして、その壮大なムーブメントに心を動かされ、一人の人間の動きを無視するようになったのでしょう。・・自分は神の御業に関わるのだ・・とでも思っているのでしょう。舞い上がると、いちばん怖いタイプです。そのことに、シャロームは、リバイバル(信仰復興)の名を悪用しています。
 

それ以来、様々な不思議な見えない御手に導かれて、思いもかけない出来事が
私の身に起こり続けて、聖霊に導かれて今の私はあるということができるのです。

 
このように、自分にもリバイバルが起こった、と豪語しています。それを導いたのが聖霊だと言っています。彼は、自分に働きかけるのは聖霊だと信じています。
 
実際には、彼は、数々の偽善を働いてきたのですが、彼は、悪霊の導きを聖霊と呼んでいるのです。つまり、誘惑を導きと勘違いして妄想化して訂正不能となり、無罪妄想で凝り固まり、そして恐ろしいことに、その霊は今も、飾れ、豪語せよ、大仰に伝えよ、聖句を並べて長文を書けと、彼を導いているのでしょう。
 

聖書の多くの言葉はわたしたちの理解を超えています。
それは当然です。神は時空を創造し、統べ治めておられる方であり、
人は神の御手によって造られ、生かされ、愛されてはいますが、
神との交わりを見失い、時空という有限で、死すべき、相対的な存在なのですから。

 
聖書の多くの言葉は、奇跡に拘泥しない限り、人間らしい共感が可能です。分かるところから読んで行けばよいのです。
 
時空を創造し、統べ治めておられる方と、即ち、神と同じ立場から物を見ようとしてはいけない、ということを理解することが、信仰の弁えであります。
 
時空という有限で、死すべき、相対的な存在である人が、同時に、神と聖霊と交わったと思い込むとき、想像を絶するような、偽善を働くようになり、その隠ぺいを図るようになるのです。
 

しかし、聖書は今も生きておられるイエス・キリストと父なる神の言葉を
飢え渇き、信仰を持って求め、探し、叩く人の心に証ししておられるのです。

 
聖書は今も生きておられるイエス・キリストと父なる神の言葉を、信仰を持っていてもいなくても、求め、探し、叩く人の心に語りかけます。
 
しかしながら、自分は神の御業に関わるのじゃ・・と、超常を想って陶酔気分と有頂天から傲慢に至り、自己膨張する者は、人を欺いて、嘲笑っているのでしょう。
 
なぜ笑っているかといえば、今の状況で、何事もなかったかのように言論を続けることは、人間の良心を捨てて相手をあざ笑うことなしには出来ないからです。
 
シャロームは、大袈裟なことを豪語しては破たんし、神を讃美しまくっては自己が高まったかのように錯覚し、人間的共感を否定し、超常的奇跡にのみ徒に共振して、飢え乾いた野良犬のように、よだれを垂らしている自分に気づかず、まだ立派な人間であるかのように、共感ではなく称賛を欲しがって、隠し事の闇の世界から、ぬっと手を出して、性懲りもなく大仰で長い記事を書き、ぬるま湯の中で悦に入るのでしょう。
 
神とキリストと聖霊を、聖書の文言から、超常の言葉のみによって理解することはできません。人間は人間としての経験の中で心で感じ取り、考えて学ぶことが必要です。例えば、敬虔は、外面上の遜る態度ではなく、発言が控えめであることでもなく、神の前に、罪深く低い存在であることを人間としてわきまえることです。信仰のあるべき態度はそこから生まれてくるものです。
 
超常の言葉だけで分かったことにするなら、聖書語ばかりを並べ立てて、一方で、人間の心を持たない、乾燥し焼き付いたような、近づけば火傷するだけのような、熱いか冷たいかを行き来する感情しか持たないような、温もりも潤いもない鉄くずを振り回すことになるでしょう。
 
忍耐ではなく、恐るべき不感不応無反省の信条によって凝り固まってしまうと、様態は、カルトと殆ど同じものになります。コメント欄を閉鎖して、批判されることが直接にはない環境で、シャロームは、好きなときに好きなだけ、フィッシングの釣り糸を垂れるように、丁寧語と聖書語で、見かけ美味しい記事を書き続けています。
 
9年くらい前でしたか、ネットのコミュニティで私をめぐるトラブルがあったとき、シャロームは私にアドバイスをしました。「決して謝ってはいけない」と。私は、謝りすぎたのかと思いましたが、そうではなかったのです。それから今に至るまで、シャロームは、記事について、信仰について、弁明が出来なくなった後も、一貫して、本気で謝罪も反省も表したことがありません。それは、シャローム本人が身につけた体質だったのです。
 
昔、シャロームのコメント欄が開いていたときには、シャロームは、答えられなくなると黙っていましたが、今は、記事と記事なので、上気したように、聖句と讃美という偽善者の常套手段によって、なりふり構わず大仰に書いてくるようです。
 
シャロームの訂正不能は完全に反面教師です。彼を見ることで、見るたびに、かえって、人間である信仰者にとって、反省することと修正可能であることが、カルトや自分信仰に陥らないために、悔い改めにつながる信仰の弁えとして、何よりも大事であることを痛感します。
 
 
(2018年09月19日、20:59下書き済み)
 
(2018年09月20日アップ、同日一部修正)
(2018年09月22日、一部修正)
 
徒に(いたずらに)
遜る(へりくだる、謙る)
火傷(やけど)
 
 
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  余裕のないカルト
 
   戸田さんのコメントを評価します。すこし長いです。
   
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64601240.html
    by Yhoshuah (以後、ヨシュア、あなた、彼)
   
   ヨシュアが批判してい私の記事は「心無いカルト」
   
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19878423.html
 
 
そういえば、私は私の記事にヨシュアの記事へのリンクを付けていますが、
ヨシュアは、私の記事へのリンクを付けていません。
ヨシュアは、自分の記事だけ読ませたいのでしょうか。片落ちです。
 
「 」は、私の言です。
 
前にも書きましたが、
カルト信仰の教条主義というのは、言葉にしがみついています。だから、一字一句違っても許容しないのです。
 
信仰についての言葉や聖書の神の言葉などは、一つの言葉=一つの意味だと思い込んでいるのです。その一つの言葉を言えば、表したと思い込んでもいるのです。そのことが、人間の不完全性に思い至るのを強固に拒んでいます。
 
このように、言葉一つに信仰そのものであるかのような無謬性を決めつけて、教えを守ることを信仰とするような行為義認だから、指導者は、お手本になる強迫的使命を持ちます。
 
したがって、指導者を批判する者に対しては、自己正当化の保身をするしかなくなり、退かせるために、表現の拙さや汚さを省みることもなくなるのです。
 
>戸田さんは 神様がイエス様と聖霊を作ったと言いました。
 
何度書いてくるのでしょう。以前の記事で既に私は書いています。
カルトの言葉についての余裕のなさを驚いています。
 
>大まちがいを指摘され はずかしかったのでしょうか?
>恥ですから、、戸田さんは。 恥だけはしっているようです。
 
私は、神に対して、とても恥ずかしい人間ですが、
ヨシュアに対して恥ずかしいと思ったことはありません。
 
「口で告白するときには、心に信じていなければいけません。」
 
>信じていないで、あなたはうその告白をした前科があります。
>あなたは、神様を偶像とまで言っていました。
 
キリスト者には、思い込みという偶像があるということを、前に書いたことがあります。
自分を見ない教条主義のカルトは、こういう考察が出来ないので、
即、相手を裁きにかかるようです。
 
そうすることで、さらに、教条で決めつけた神?という恐ろしい偶像を崇拝するのです。
 
「人間の心とはどういうものでしょう。
 それは、とても言葉との一対一の対応が図れるものではありません。」
 
>残念なことに精神に異常があるので戸田さんは常に心が不安定で、
>心と言葉が一体となっておらず、常に人をののしります。
 
私の言った意味が分からないんですね。
 
「それは私たち人間の心が、神ほどの絶対ではないからです。」
 
>人はそれぞれ人格が違うので心もことなりますが、
>神様の絶対性と比較しています、
>並列に並べる事自体、おかしな事です。
 
並列に並べているという指摘は呆れます。
 
神の絶対と、人の非絶対=相対、これは、
超えることの出来ない違いとして、必ず、
後者を意識しておくことが、信仰者には必要です。
 

神ほどの絶対>神様と人が肩をならべ比較できると思っている傲慢があるようです。

 
こちらの言葉を、恐らく意図的に捻じ曲げて、罵る材料にしています。
私は、「私たち人間の心が、神ほどの絶対ではない」と書いたのです。
絶対は、神のみの持ち物です。
 
ヨシュアは、私の否定文を、肯定のように引用して、罵っています。
 

人間には自由があるのは当然です。だからといって、他人を貶めることばかりに神様から与えられた自由を使っていていいのでしょうか? そういう事のために神様は人に自由を与えてはいません。自由に人を愛するためです。自由に神様を信仰するためです。
自由を履き違えないでください。 自由を与えられているのに、あなたは不自由な状態です、恨みに囚われて 神様からの愛の自由から逸脱しています。

 
自分が言われそうなことを逆に相手に向けてくる、という偽善者やカルトが、よくやる手口だと思います。根拠がないので、したがって、これは、ただの悪口です。
 
>戸田さんに 修正能力が本当にあったなら
>既に他人の誹謗を止めているはずです。他人には修正を強要し自分はできていない。
 
これも悪口です。さらに、ヨシュアは、私が修正するべきという根拠を、何一つ示すことが出来ていません。即ち、平行線なのに、こういうことを言ってくるのです。
 

誰をカルトと言うのか?知りませせんが、当てにならない標語を持って他人をカルトだと誹謗している自分の醜い姿がいまだに見えていない戸田さんです。

 
上と同様です。新しい説得や反論の材料がないので、この繰り返ししか出来ないのです。
 
「カルトは自己の解釈の無謬性が命となってきます。」
 
>神様が人を正しく導きます
 
自分の語る神が絶対だという表明です。
つまり、自分の誤りの可能性を、全否定する発言です。実にカルトらしい。
 
キリスト信仰者は、信じ方において、誤りの可能性を認めて、ときに、反省し、悔い改めの祈りをするのです。
 
>戸田さんで、自分を神様のように絶対だと勘違いしているようです。
 
でもヨシュアは、このように言い張って、相手だけを誤謬に定めます。
 
「間違えたときに、その都度、修正して成長するという方法が、カルトにはないのです。」
 
>そうなのでしょう、だから 戸田さんは カルトなのです、自身が証明しています。
 
このように。
 
>正常な人は悩んだりしたとき、不安を解決する方法をとります、そして行動します。
>言葉は人と人との交流に大切です、人を大切に思っているという言葉をつかいます。
>それができていない戸田さんです。
 
とても、人を大切に思っているとは思えません。
ヨシュアは、賛同者のお仲間にだけ、美味しい賛辞を与えます。自分のために。
 
>その時々で気分がかわり一定していない、それは 精神病といいます。
 
気分が変わるだけで精神病とは言いません。ヨシュアは見方が幼稚です。
 

イエス様と聖霊を神様が作ったという、馬鹿げた信仰を私がしてきしたら、途端に仮定だとか哲学だとかいいそうです。今までだれも あなたの 偽善的行状を暴露しなかったから、のうのうとしていたようですが、この度のことで 白昼にさらけられました。 その言い訳の伏線をここであなたは張っている。

 
この度量のない思い込みの強迫性をまともに受け取るのは、やめておきます。
 
>タダの 医師失格老人でしかない
 
ただの、悪口です。
 

神様が神様を造るですか?
創造された存在を神様とは言いません、神様は元々原初から作られた存在ではなく
在って在る者です。別々に二者神様がいたら二元論となりますよ。
唯一神でもなくなります。 自分で言っている事をきちんと弁えてください。

 
神は神格を造れないと言っています。このように、カルトの自己矛盾は、神の唯一そして在って在る者、ということと、神の全能、ということとの間に、人間らしい不十分さと不完全さの自覚と、遊び心の余裕とを、ことごとく削除してしまいます。
 
「やや哲学趣味に近い仮定の話なのです。決めつけているわけではないのです」
 
>戸田さんは うそをついています、
>自分の大間違いを取り繕うため、哲学や仮定を持ちだしました。
 
本来の信仰者同士の議論なら、自由に意見を出し合って、私の言ったことの整合性とかも、信条ではなく仮の話として扱えるのですが、どこまでも度量の狭いカルトの教条主義では、ヨシュアのように、攻め所として食らいつくしかなくなるのです。今日の記事のテーマなのです。
 
「カルト信者になると、いかに、度量が狭く小さくなるかを示しています」
 

誰がカルト信者なのか? なんというカルト教なのか?教祖の名を言ってみよ。
その教義を言ってみよ。
言えるのか? 言えないなら二度と人をカルトだと誹謗するな!

 
度量が小さい証拠に、ヨシュアは怒りだしました。ヨシュアは、オウムとかの大きい組織や、お騒がせの宗教団体だけを、カルトと呼びたいようですが、それらのカルトは、先ず、ヨシュアと自称マグダラのような人が、小規模から始めてゆくのです。その教えの解釈がキリスト信仰と根底から異質であれば、大きくなってからでは遅いということです。
 
私が上げた罵詈雑言のヨシュア語録、ヨシュアは、かなり端折っているようです。
罵詈雑言なのに、
 
>それが事実だから指摘されても仕方ないだろう。本当だから。
 
と開き直っています。
 
「お仲間の人は、手遅れにならないように、早く、抜けてほしい」
 

そういう物の言い方が失礼だと申し渡す。
対象者にも失礼な物言いです。
あなたのお仲間は抜けないだろう? あなた自身の別人格だから、。何十人のハンドルネームを
持っている? 自分でもわからなくなって 判別できない?
そうだろう、、。

 
ヨシュアが、正当なキリスト信仰者、または、異教徒であるなら、そういう言い方はしません。
しかし、ヨシュアの主張する信仰?は、キリストの名を用いており、かつ、異なる意見に対して手段を選ばない言葉の暴力を使っており、かつ、その一方的な言い方という人格破壊的な部分がヨシュア自身とお仲間に表れているから、看過できないわけです。
 
 
情欲の聖句の問題について:
 
「ユダヤの文化を考慮して読めば分かるということでしょうか。分かるはずはありません。」
 
>あなたは分かると言い、分かるはずが無いと言う、不安定な心と言葉だ、
 
日本語の文法構造、分かってないですね。
 
>ユダヤ文化を調べもせず、推測の誹謗しかあなたはできていない、
>だから具体的な言葉がでてこない
 
ユダヤ文化について普通の日本人は具体的には分からないでしょう。
自分は知っているから、という理由で従え、というのは無理です。
 
>他人の妻と言ったのはイエス様であり新共同訳の翻訳者たちが認定したのですよ!
 
権威が認定した訳でも、情欲の問題は、他人の妻に限定して片付くような問題ではないので、読者がしっくり来ないなら、その主旨の感想を書くのは当然のことです。それに何より、あなたは、その権威を利用して、罵ったのですから、もう一度言いますが、責任逃れなのです。
 
>他人の妻だとわかっていればみだらな思いをいだかない事はできます。
>自分の親とか従妹とか叔母とか、妹とか姉とかに情欲をあなたは持ちますか?
 
みだらな思いをいだかない事はできますと言って、さらに、他人の妻から親族や親戚に、論点をすり替えて、人間と切っても切り離せない情欲の問題を矮小化しようとしています。それは、訳がどうこうという問題を超えて、キリストの重要な教えを蔑ろにする方向でしょう。
 

それと同じでこれはいけない事だ、神様の戒めであると固く心に決めておけばできます。
戸田さんは 自分ができないと思っても、他人もできないと決めつけてはいけない。
あなたと他人は別の人です。
低い道徳心のあなたならできないだろう、しかしできる人は多くいる。

 
これも同じ方向です。
罪を戒めるキリストの教えに対して、罪を犯さないよ、と言っているようなものです。
キリスト信仰伝道者なら言わないことです。
 
「答えは、人間ならば、否、であります。」
 
>いや、否と断言できません。
>守ろうとしてできなかった人はこの戒律について悔いて赦しをいただくのは当然のこと。
 
例外規定もあります、というような、取って付けたような、深みのない話に、キリストの教えを貶めています。カルトの教条本位の、洞察を失った言説。
 
ここで、姦淫の女性が救われた話を、取って付け、
 
>人は自分の決心しだいで できそうもないこともできます、まもれます。
 
と言って、信仰の言葉を、自分の決心しだい、という話にしてしまいます。
 

守れないのですか?
女性のため、神様のため 堅い決心をしていることは み言葉の趣旨に叶います。
あなたは、信仰も無く決心もしないから み言葉を失っているようです。
努力もしないのでしょうね。残念な人間なのか、。

 
さらに、守れない人間の存在を貶めながら、
堅い決心、努力、という言葉で、自分次第の自力の教えを説くに至っています。
 
「心から、カルトに近づかないでほしいと思います。」
 
>結びがいつもそれですか?
>ハハ、、。子供みたいな幼稚な人。
 
「今、お仲間の人は、手遅れにならないように、早く、抜けてほしいと思います。」
 
>私は友人やブログ友を制限や強制はしていません、。
 
カルトというのは、すり込みはするでしょうが、
強制はしないものです。だから怖いのです。
 
>あなたは人をすぐに敵視していました。
>少しでも善意の非難か提言をされると誰かれなく噛みついていたあなたでした。
>心に余裕もない、のですかね?
 
カルトを批判することを、根拠もなく敵視するかのように見なしています。
こういう宗教と信仰の問題を個人の資質の問題にすり替えるのは、
今までもずっとヨシュアの論法として続いています。
 
>いつも あなたに気づくこと。
>戸田さんは、自分が思う事は他人も同じく思うのだろういう、錯覚がある。
>自分が標準との思い上がりが常にある。
>あなたは 逆に少数の部類にはいるのです。
 
このように、信仰について述べるのではなく、私が少数だからと貶める、という、ヨシュアの論法ですが、彼には、理路はないと思います。すり込みと言い張りと曲解と人格攻撃で出来ているからです。そこには、人間性という、人間にとって大事な要素が、知的にも、情緒的にも、共感としても、欠けているのです。
 
その点は、自称ヨシュア、自称マグダラ、シャローム、そして、荒らしに、見事なくらい、共通しています。罪悪感を感じないから非も罪も認めない群れなのかもしれません。
 
私は、常識と良心があれば理解できるように書いてきたつもりですが、その理解が、少数か多数かということによって、ヨシュアは、何を選別したいのでしょう。
 
このような決めつけ魔のようになりたくないなら、あるいは、もうなっていても、早くヨシュアから去るべきなのです。そこにキリストはおられません。
 
ヨシュアが、今まで言ってきた、完全でないと救われない、決めていないなら発言するな、神秘は人にとって謎ではない、神は完全な人を造った、などは、キリスト信仰とは真逆です。ここからキリスト者らしい敬虔は決して生まれません。
 
 
(2018年09月19日)
 
蔑ろ(ないがしろ)
 
 
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  恨みだと言う印象操作(2)
 
   「うらみ」と日本文化
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28719937.html
    by shalom (以後、あなた、シャローム、シャロム、彼)
 
 
先ず、シャロームのタイムスタンプに騙されないように、ヤフーブログ記事の上のほうに記されている日時は、最初に当該記事がアップされた日時であることを覚えてください。
 
先ほど見て、彼が記事に自分のコメントを追加しているのを知りました。前に記事の最後に書いてある日時にはなかったものです。こういう姑息な小細工をやってくる人なのです。
 
>《shalomのコメント》
 

私がこの「うらみ」の心理を引用する理由はまさに次の文に書きあらわされています。
概して陰の領域に追いやられる心性には、膨大なエネルギーを秘めているものが多く、
つねに光の当たる領域に反逆し、表の価値観によってとりすませている人を脅かしている。人はこの相克を統合することによって成長するのである。

 
ですから、心底に隠した恨みの心性を、その相克を統合することによって解決し成長する道をいっさい捨てて、表の価値観によってとりすませて、光の当たる領域に反逆し続けているのは、他でもない、シャローム自身であります。
 
とても醜い。どこまでシャロームは、この醜悪な作業を続けるのだろう。
 

「人はこの相克を統合することによって成長する」ためには
何よりも膨大なエネルギーの発生源を突き止める必要があります。
それは秘められている陰の領域に追いやられる心性にあるということができます。
人の心に「秘められている陰の領域」に追いやられ、抑圧された心性です。
この領域は本来だれにとっても、人が人であるための聖なる不可侵の領域です。

 
シャロームは、膨大なエネルギーのある陰の領域を、人が人であるための聖なる不可侵の領域だと言っています。
 
シャロームの言う陰の領域は、聖でも不可侵でもないですね。聖は人によって侵されることがないから聖と呼びます。不可侵の領域が、どうして人によって侵されるというのでしょう。理路、さらに、信仰の理路が、まるで成り立っていません。
 
神聖と人間の区別がまるで出来ていないシャロームは、こういう理路の成り立たない言葉や文章を、人間破壊の一つの表れとして出してしまいます。これは、言い方として不適当だろう、という判断が出来なくなるのです。しかも、これで、正しさの絶対性を歩んでいるつもりになるのが、シャロームです。
 
> 
聖書には次のように書かれています。
3:16 あなたがたは神の宮であって、
神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。
 【口語訳】一コリ3章16節
しかし、17節にはつぎのように書かれています。
3:17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。
なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。

 
つまり、シャロームのような人が、聖なる神の領域であり聖霊の宿っている神の宮を侵すことは決して出来ないし、にもかかわらず、彼が、侵そうと思って、偽善の詭弁に聖句を利用するなら、どうなるかということが、この聖句に書かれているのです。
 
上の引用聖句の前に
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
3:11
なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。
3:12この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、 3:13それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。
 (1コリ3:11-13、新約聖書)
 
それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる、という、神の前に、キリストという土台の上に、シャロームは、説教したつもりで、排泄物を載せて、神殿をけがし、キリストをけがしています。
 

聖書には「神は光であって少しも暗いところがない」とも書かれています。
私たちが神と交わりによって生きているなら
私たちは神の宮である「光の領域」として生きることができるのです。
しかし、人が神に対する信仰を失い、神との交わりから離れる時、
人は「闇の領域」にさまよい始め、カインの末裔として歩む者となるのです。

 
「光の領域」について、シャロームには、説教する資格はありません。
 
シャロームは、邪悪な隠し事を彼の黒いハラワタにしまい込んだまま、さらに腐らせ、非を認めず、罪を認めず、偽善を働いて悔いることがないので、彼は、「闇の領域」の、今はまだ、ぬるま湯につかっているのです。
 

カインは神との交わりを失った時、次のように言っています。
 4:13 カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。
 4:14 あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。
わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。
わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」
【口語訳】旧約・創世記4章13,14節

 

聖書に書かれていることはまるで、日本神話の様な昔話のようです。
しかし、私たちの現実であり、この世界の現実ではないでしょうか。
だれでも「闇の領域」に迷いこみ、さ迷い始めると、
カインの言葉が、心の叫びとなってしまうのです。

 
この昔話のような、そして現実と、シャロームが言っているだけの説教を、シャロームが、無理に語り始めると、今の社会と政治と、今までの歴史への、自分を悪から完全に除外した遠吠え、すなわち、シャロムのボロクソ節になります。どちらを聞いても、何の糧にもなりません。
 
シャロームは、創世記4:13-14だけを引用して、たいへんなことになりますよ、というような絶望の、脅迫めいたことだけを言っていますが、
 
 (創世記、口語訳)
4:15
主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。
4:16
カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。
 (創世4:15-16、旧約聖書)
 
15-16節においては、14節のカインの発言を否定する神の言葉に始まり、神は、カインを殺さず、むしろ、生きる余地を残しました。
 
私には、この聖句は、一定の理解に達しているとも言えないところでもあるのですが、14節で、カインは、自分が価値のないものになり、いつ殺されてもおかしくないほど低くなった絶望的な心情を吐露したので、そのことを、神は、憐れんだのでしょうか。
 
このカインの態度さえ、シャロームには一度も見られたことはありません。
 

神の宮であるべき光の心性は失われ、不安、恐れ、不信、怒り、憎しみの
「闇の心性」の宮となってしまい、「光の領域」のような偽りの光を装いながらも
憎しみと争いに満ちた地上の放浪者となっているのではないでしょうか。

 
今までの偽善と丁寧語と聖書語によって「光の領域」のような偽りの光を装いながらも、憎しみと争いに満ちた「闇の心性」の世界の放浪者となっているのは、紛れもなく、シャローム自身であります。
 

毎日のように、地震や豪雨や事件、事故によって
築いたすべてのものが失われ、かけがえのない人の命も失われていく、
悲惨な光景が次々とテレビに映し出されています。
テレビで観ていることがいつわが身に降りかかるかわからないのです。
このうらみをどこにぶつけていいのか、わからず、
やりきれない思いを抱えて眠れない夜を過ごしておられる多くの人がおられます。

 
いつから、シャロームは、災害被害者に同情する代表になったのでしょう。いつから、彼は、災害に遭った人々に、恨みについて説教できるほど、人間の気持ちの分かる人になったのでしょう。
 
シャロームは、災害からの立ち直りを促す人ではなく、その偽善によって、自ら思い込んでいる、無罪の境地から、資格もないのに教える立場で語ることで、かえって、人災を生産して、その害毒を広めてきた人です。
 
彼の同情めいた話は、ことごとく、彼の傲慢によって打ち消されてきました。
 
この人の意見に決して耳を貸さないでください。
彼は、人間破壊の破滅の通り魔であり、作り笑顔で迎える詐欺師なのです。
 
批判的な目ではなく、たまたま彼の記事を読んでしまった人は、
そのこと自体が災難なのです。
 

「うらみの心理」ーその洞察と解消のためにーというのが本の書名です。
「人はこの相克を統合することによって成長する」と書かれていますが、
今、おぼれている人がおぼれている人を助けることができないように
果たして、この相克に苦しみ、悩み、その道、救いを探し求めている人に
この相克を統合することができるのでしょうか。

 
シャロームは、いったい何が言いたいのでしょう。先は絶望だと言いたいのでしょうか。今までと同じように、助かりたいなら、自分と同じ信仰を持つことじゃ、と言いたのでしょうか。疑問形で終わっているということは、何も言えないのではないでしょうか。希望につながる説諭が何もないのは、思いつかないのでしょうか。何のために記事を書いたのでしょう。
 
実のある良いことが思いつかないのは、シャロームが、自分の現実に目を向けていないからでしょう。現実の、何より自分の問題を、正直に祈る姿勢を持っていなかったからでしょう。
 
だから、思いつくのは、常套句のような、報いと恵みのセットメニューしかないのです。シャロームが、30年牧師として説教壇に立っていたというのが事実なら、信徒は、30年間も、人生の深みとは全く関係のない期限切れの定期券のような脅し文句と世辞の讃美を繰り返し聞かされていたことになります。災難です。
 
 
(2018年09月18日午前2時04分)
 
(2018年09月18日アップ、同日一部修正)
 
吐露(とろ)
糧(かて)
 
 
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  恨みだと言う印象操作
 
   「うらみ」と日本文化
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28719937.html
    by shalom (以後、あなた、シャローム、シャロム、彼)
 
 
シャロームは、今回、自分を批判してくるのは、恨みに基づく不当なものだ、というために、書籍を引用しています。どうしても批判をを招来したのが自分だとは認めたくないのでしょう。シャロームを恨むのは悪い感情で、恨む人は悪い人です、という、自己正当化のために、臭い政治家のような印象操作をしてきます。
 
>「うらみの心理」ーその洞察と解消のためにーというのが本の書名です。
>出版年月日は1994年4月1日(第1版第2刷発行) 創元社出版 定価1800円
 
>先ず「うらみの心理」ーその洞察と解消のためにーという書名に
>何?と思われる人もおられると思います。
 
>「まえがき」
 
>だれでも「うらみ」の感情に近づきたくないだろう。
>人からうらまれる覚えもなければ、
>人をうらむ気持ちなど全くない、われわれはそう信じて毎日を生きている。
 
恨まれる覚えがない、批判される覚えがない、と言うならば、
弁明するべきだし、恨んでいる者がいて、その者が悪いというのなら、
反論するべきですが、シャローム氏は、それが出来ないものだから、
著者の文章を借りて、暗示しようとしているのです。
 
引き合いに出された著者は、いい迷惑でしょうが、そういうことを、
一切、お構いなしなのが、シャロームであります。
自分の都合しか考えず、また、感じなくなっているのだろうと思います。
 
そのような人格は、異常性の高い犯罪者などに見られるものです。
シャロームは、暴力を振るったりしたことはないか、前科はないか、
現時点では、むしろ、そういうことが気になります。
何故なら、彼は、私が関わったこの10年、批判してきたこの6年、
全く変わりがなく、同じようなことを言い続け、
真摯な反省も謝罪も表明したことがないからです。
今となっては空しい限りです。もはや、彼が何を言っても信用できないからです。
 
>最近(1994年頃)のアンケートでは、
>どれも八割近い人たちが、「いま私は幸せ」と答えている。
>私もそう答えると思う。
 
シャロームの場合、人の言うことを聞かず、自分の言いたいことだけは言い、
表面的でも賛同されることを喜び、「今私は幸せ」ということらしい。
 
>しかし、一方では、「幸せな人々」の心の底に、
>暗部の存在を感じさせるような現象も目につく。
>最近、社会問題となった霊感商法は、死者の怨念を持ち出して人々の不安を駆り立てる
>詐欺まがいの商売によって多くの被害者を出した。
>若い人たちの間でも、占いや霊能などの超能力がブームとなっているし、
>平将門の怨霊が現代都市東京で跳梁する怪奇SF小説が
>ベストセラーになったのは1987年のことである。
 
一方で、シャロームは、人間として共感する必要はないと言いました。
彼は、何をしても救われる、また、悔い改めなくても救われる、という、
何の弁えも必要としない超常奇跡のみを頼みとする自分無罪の信仰者です。
 
他者や社会や歴史に対してはボロクソに言うのに、
一貫して
自分を責めて反省することだけはしないのです。
 
>怨霊や魔や超能力の世界、それは人の心の暗部を支える共同幻想である。
>そして、正義とか理性とか愛という光の当たる心性も、
>その対極にある共同幻想と言えるだろう。
>もともと、個人でも社会でも国家でも、光が当たる領域があれば、
>必ず光の当たらない陰の領域がある。精神分析で無意識といっているのは、
>個人が光の当たる表の価値観によって、抑圧した、負の心性の流滴の世界である。
 
シャロームは、聖書の中の、キリストの愛と共感や、救われた人々との交わりや、キリストの、人間に対する洞察力の鋭さに興味や関心を持ちません。そのような記事を書いたことがありません。
 
一方で、彼は、キリストの肉体の復活は必須だから譲れないと言い張り、
何度も、どんな自分でも無条件に救われる、という、どんでん返しの救いの奇跡を強調しました。
つまり、キリストから、人間性とその共感を取り去った超常の奇跡のみを信仰しています。
それは、どう見ても、
キリスト教という宗教でもないし、キリスト信仰という信仰でもないのです。
 
>概して陰の領域に追いやられる心性には、膨大なエネルギーを秘めているものが多く、
>つねに光の当たる領域に反逆し、表の価値観によってとりすませている人を脅かしている。
>人はこの相克を統合することによって成長するのである。
 
だから、シャロームには、不感不応無反省の絶対性、という膨大な負のエネルギーがある
と言わざるを得ません。何故なら、何を言われても、無視してきたからです。
今回、シャロームは、また記事を書いているのです。書けるのです。
何事もなかったかのように。平気で。
 
私は、シャロームが白々しく書いてきた記事に反応して批判しているだけです。
 
>それと同じ現象は国家レベルでも起きている。日本歴史を見ても、
>光の当たる表の世界から追放された先住民族や政治的敗者や反体制勢力が、
>陰の世界に潜んで、怨霊、鬼、土蜘蛛、天狗などになり、表の世界を脅かし続けた。
>日本歴史や文化は、日会の当たる表の論理によって作り出されたものではなく、
>表の論理と影の情念との葛藤の過程で形成されたのである。
>本書で扱おうとしている「うらみ」が陰の世界に属することは言うまでもない。
 
そして、シャロームは、箔をつけたいのか、いつも大きなスケールに話を広げます。
それを私は、シャロムのボロクソ節、と言ってきました。
この本についても、彼は、またしても、自分勝手に、言葉の表面だけをなぞって、
著者が何も言わないのをいいことに、批判者と、日本と、社会と、歴史とを、
ボロクソに攻撃するのに、都合が良いと判断しているだけなのです。
シャロームは、とんでもない自分信仰によって、他者を自分の持ち物のように利用します。
 
シャロームとしては、自分が批判されるのは、相手が不当に、自分に恨みを抱いているからだ、
と言いたいのでしょう。ですが、シャロームは、そこで、なぜ恨まれるのかについて全く考えないのです。ゆえに、シャロームは、自分は一方的な被害者です、ということを言うために、記事を書いています。他者の著作を、また的外れに利用して。
 
このように、反省という心も習慣も欠如していて、いかなる時も、いかなることについても、罪悪感を抱かない男が、神の名によって絶対自己正当化をしようとするとき、手段を選ばなくなり、闇の世界に属する隠し事の陰険な手段と力を躊躇うことなく使うようになります。
 
真面目な批判に対して、
世辞、はぐらかし、揶揄、言いがかり、などで、ごまかせなくなると、
人格攻撃をしてきました。それは、
 
自分に依存しているから満たされなくて攻撃すると言いました。
 
  シャロームが、ネットから、いなくなっても、
  私は、何の変わりもなく生きてゆくでしょう。
  むしろ、
  私は、シャロームが、つまらない記事を書かなくなれば、
  今よりは自分発信の信仰の記事が増えるでしょう。
 
愛情に恵まれなかった子供が長じて虐待者になる人格の病気だと言いました。
 
  シャロームに私の幼小児期のことを話したことはありません。
  私は普通に父と母の愛情に恵まれて育ちました。
  
  むしろ今は、それは、シャローム、あなた自身のことではないかと懸念している。
 
無根拠に唐突に「(Yhwh)の証人」に似ていると言いました。
 
  似ている根拠をシャロームは示したことがない。
 
つまり、シャロームは、世辞の通じない相手は、詰れば退くと思っていたのでしょう。
それで駄目なら、攻撃すればよいと思ったのでしょう。
 
シャロームは、荒らしと仲良くしていました。真相の詳細は不明ですが、その後、私のブログは、荒らされた、という事実があります。
 
また、別のときには、シャロムのブログのコメント欄に私が書いたコメントを、次々に私のブログのコメント欄にコピペしたこともありました。嫌がらせとしか思えません。手段を選ばないとは、このことです。
 
そして自分を見つめなさい、と言って、コメントを削除したのです。
 
私が、批判という、集中力と注意力を要する作業に努めるのは、
シャロームという、説教者として人格的にも能力的にも失格者であり、信仰者でありながら偽善を働き、人間として卑怯な男が、自尊のためだけに、陰謀のように、柔和を装って書いてくる記事を、誰も真に受けることがないようにしてほしいからです。
私の記事は、今も続いているシャロームの白々しい嘘や印象操作を、逐一、打ち砕いておこう、という、信仰の理性によるものです。
 
もちろん、陰性の感情はいだいています。
しかし、感情だけでは、こんなに長く、批判は続きません。
 
シャロームは、他者から自分に、恨みが向けられていると言いたいようです。
しかしながら、
シャロームは、自分から他者に、不当に向けた恨みを内省できないのです。
 
つまり、現段階では、私の記事は、シャロームよりも、一般の人や、求道者や、信仰者に向けて、シャロームに近づかないようにという願いを込めて、書いています。
 
そして、そういう動機による私からの批判は、シャロームが書き、それを私が見て、批判記事を書けるあいだ、使命という判断によって、ずっと、一生続くのです。
 
>つづく
 
私の批判も、生きておれば、つづく
 
 
(2018年09月17日午後11時11分現在)
 
(2018年09月18日アップ、同日一部修正)
 
詰る(なじる)、詰める(つめる)
躊躇う(ためらう)
 
 
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  脅迫と疑惑と雑言
 
   戸田聡さんの反論を評価しましょう。 2018/9/14(金) 午後 3:50
   
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64603033.html
    by Yhoshuah  (以後、ヨシュア、あなた、彼)
 
 
批判対象記事が前後しますが、
見逃せないことを言っているので、
こちらを先に載せます。
 
ヨシュアは、退行現象でも起こしたかのように、
言うことがボロボロになってゆきます。
 
今回のヨシュア語録です。

駄文
別人格のHNをよびだし
ふし穴の目しかない者
卑怯な性根が醜い
自己愛に凝り固まった人
頭大丈夫ですか?
お馬鹿な事を信じていたんだろ?
灰を被って地に伏して謝罪しなさい
頭は大丈夫か?
もう手遅れであろう
おばかな事
なんでもが 、あなた、矛盾しています
人はあなたを信頼しない、まして神様はあなたに憐れみを与えられない。

 
私は、あとのほうで、愚か者、と言っています。
 
ヨシュアは、とんでもないことを言い出しました。
 

戸田さん、何の根拠も無く他人をカルトと誹謗している事は 
あなたは罪を犯している事になります。
侮辱罪をご存知か?
毎日、誹謗記事を書くたびに、罪を重ねているのは戸田さんあなたです。
訴状の送り先を書いて教えて下さい。
彼を擁護した関係者も、
公開法廷に呼び出される事を覚悟してコメントしてください。

 
こういう脅しは、言論者は慎む者だが、
真実の追求という客観的なスタンスがないのだろうか、
ヨシュアにおいては、慎みのない態度が目立っている。
 
誹謗し侮辱したのは、どっちだと言いたい。
ヨシュアがはいた罵詈雑言の多さについてはすでに述べた。
 
私は、キリスト信仰についてのみ、ヨシュアを批判した。
 
しかし、ヨシュアは、私の家族や職業や、
病気という決めつけをもって、私を攻撃した。
 
さらに、引っかかるところがあります。
 

国際弁護士になるので、それぞれ要求される分は、高いです。
日本の10倍以上要求されるかもしれないですよ。

 
国際弁護士?
 
思い出すことがあります。
 
2017年6月に、私のPCは、フリーズし、
結局クラッシュしてしまいました。
その時の画面のアイコンの様子が、
まるで文字のない青白い墓石が並ぶようだったので、
私は、シャロームが、誰かの手を借りて、
ウイルスでも送ったのではないかとさえ思いました。
 
2か月ほどは意気消沈していましたが、
結局、修理に出し、ウィンドウズ10マシンが、
8万円の修理費を費やして、ウィンドウズ8になって帰ってきました。
その後の記事に書いたことですが、
 
「 
 
「安易、気楽」 2017/11/13(月) 午前 0:08
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19469249.html
 
妙なものが出てきました。「shirasagikara」「shalom」「藤尾正人」「東京」「教会」などで検索してみると、在日大韓基督教会
http://kccj.jp/、というのが出てきました。彼が、時々、韓国の説教のビデオへのリンクを貼っていたのを思い出します。シャローム氏は、在日韓国人なのでしょうか、それとも、日本人が在日の教会に通っているのでしょうか。
 
キリスト教に国境はないので、関係ないといえば関係ないのですが、私は、シャローム氏の、訂正不能性と思い込みの異常な強さと、日本の社会と政治へのボロクソ節が、国籍または偏狭な愛国心と関係していないかどうかが気になります。
 
まかり間違って、もし、そういう関係があれば、彼の活動は、世界宗教としてのキリスト教を乱し、最悪、工作活動の可能性があり、また、結局、祖国をけがすことにもなるでしょう。あってはならないことだから、とても心配になるのです。といっても、私のシャローム氏への評価は、それこそ国籍とかに関係なく、最悪になってはいますが・・。
 
 」
 
そういえば、ヨシュアの日本語に、おかしなところがあります。
 
「ご自身と同等の存在があることをねたむ御方であります。」
に対して
 
>前にも指摘しましたが、神さまと同等の存在が有るのですか?
 
この問いは、おかしいです。
聖書に書かれている偶像崇拝のことを言ったのです。
つまり、金の偶像を、神と同等として拝んだという例です。
ここにおいて、私は、
 
神と同等の存在はない、しかし
人が神と同等として拝む偶像崇拝はあったし
それは、神が妬む対象となる。
ということを言ったつもりなのです。
 
しかしヨシュアは、
まるで、神と同等の存在があると、私が言っている
と受け取っているようです。
 
聖書の基本と、日本語が分かっておれば、このような見当違いの問い方はしません。
 
自称ヨシュアと自称マグダラのマリアは、シャロームも、在日韓国人なのでしょうか。
 
私は、嫌韓ではありません。
しかしながら、上の記事引用の、2段目3段目のような危惧が当たらないことを、
偏狭な愛国心に基づくヨシュアとマグダラの記事でないことを祈っています。
 
 
※ 
 
私が
「神は、ご自身のような存在としては、
 キリストと、聖霊しか作ってはおられないのだろうと思います。」
と書いた時点で、
私が見たわけではないのだから、仮定の話だということは分かるはずです。
神は人格を超えた存在だから、人によっては、このような表現をするということです。
 
創世期以降、イエス・キリスト以前に、預言はあっても、キリストはいないのです。
霊にしても、神の霊であり、霊の神ではないのです。というより、
霊も、神も、人間に、手に取るように、目に見るように、分かる存在ではないのです。
 
この表現が気に入らないなら、ヨシュアは、
自分はそういう言い方はしないと言うだけで済んだはずです。
しかし、いちゃもんをつけたいのか、情緒的に収まらないのか、
ヨシュアは、吠えるように何度も何度も、同じ文句を繰り返しています。
その結果は、自分は度量がありませんと、常軌を逸して怒鳴ってきただけなのです。
それこそが、自分の言い方から外れると怒りだす教条主義なのです。
 

キリストも聖霊も作られた? 神様を被造物だとあなたは理解していたのです。
異端認定です。カトリックだったら追放ですよ。中世なら処刑です。

 
度量が小さくて、
このような仮定の思考が受け入れられないヨシュアです。
 

神様の歴史? において三位一体があるのではありません、原初から神様は一体なのです。

 
あなたが、原初の何を知っているというのか。
 
>思考実験? 自分の神様を実験道具の様に扱う信者はいません。
 
そう決めつけることこそが、愚かです。
 
>決めていないなら発言しないでください
 
ヨシュアは、めちゃくちゃです。
決めつけていないから、信仰についても議論が可能なのです。
 
>動かない被造物の金の牛と創造の神様を同列にしないでください。
>たとえが幼稚です。
 
同列にしたのは、私ではなく、当時のイスラエル人でしょう。
 
これは、たとえではなく、歴史ではなかったですか。
ヨシュアは、何を言っているのか。
 
>人が最初から不完全なら、人に救いはないのですよ。
 
信仰者の発言とは思えません。ひどいボロ。
 
人は完全でないから救いが必要なのです。
神様に出来ないことはありません。
 

神様のように自由があり、
創造性もあるので、自分も自分で成長させ完成させることになっていました。
全てを神様が行ってしまうと人の創造性も無い事になります。
人は操り人形として創造されたのではないです。

 
自分で成長させ完成される、なんて、ありえません。
神の導きによって、すべての信仰者は、生きてきました。
 
「完全ならば、なぜ、蛇の誘惑に負けて堕落したのか、という謎になるでしょう」
 
>それは、神秘ですが、私の見解は記事に何度か書いています。
>もう、謎ではありません。
 
神秘は、人間にとって、謎なのです。あなたの見解など要らないのです。
ヨシュアは、神秘を分かったと言っています。
ヨシュアという人が、神が秘されたものを、分かると言ったのです。
 
>神聖な自分の神様を思考遊びに道具には信仰者はしません。
 
神聖が与える信仰だから、人はどう受け取るかを考えるのです。
それをしない人は、思考停止ということになります。
 
>イエス様をあなたは見たのですか?
>現代クリスチャンは見ないでも心に感じて、そして聖書の証しをもって信じている。
 
聖書で知り、その言葉が、私の生き方に働きかけ、
癒しと慰めを得たから、信じている。
 
教条の語る証など必要ない。証は私が今生きていることだ。愚か者。
 
>小汚いなーあなたは、心も良いところが全くないなー
 
すなおになればいいのに。かわいそうな、ヨシュア
・・この言に対しては、もはや言わない。
 
 
私たちブロガーは、言論者であり、非暴力であるからこそ、厳しいことや辛辣なことも言うわけです。ヨシュアが、どうしても、法的強制力に訴えたいというなら、好きなようにすればいいでしょう。牢屋に入っても、暴力受けても、意識がある間は、考えることと祈ることを止めることはないでしょう。
 
誠実に対して、企みを当てて抑えようとするなら、誠実は真実の表現の形を変える柔軟さをもって考察の時間を利用することで、命ある限り対応してゆくでしょう。
 
 
(2018年09月17日、同日一部修正)
 
 
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