ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年10月

 
  敵を愛せよ?
 
 
世の中は、誰でも頷けるような、月並みなことを言うのが流行っています。信仰の世界でも、誰もが否定しないような教理話で惹きつけて騙そうとする者がいます。
 
牧師経験者を名乗る者が、信徒より分かっているなんて思わないでください。
特定の信徒が、牧師より、話が深いなどとも思わないでください。
誰かをつけあがらせるようなことは、やめましょう。
人間は、つけあがりやすいからです。
 
信徒と牧師、信徒と信徒、信徒と求道者、いずれの人材も、共感と共有と協力がなければ、何も出来ないで終わるのです。完全な宗教者など、聖なる御方を除いて、一人もいません。
私たちは、皆、芽であり、卵であり、ひよこなのです。
 
キリストの、とんでもない教え?、これによって、キリスト教を見限った人も多い?だろう、という教えについて考えてみます。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:38
『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:39
しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
5:40-41
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
5:42
求める者には与え、借りようとする者を断るな。
 (マタイ5:38-42、新約聖書)
 
一見すると、永遠のMになれ、と言っているような教えです。これを、これは極限の境地だから、できるだけでいいから、守りましょうね、と教えているなら、その教えの深みを見失っていると思います。
 
出来ないことを承知の上で、キリストは言っている、という見方をしないならば、これは、できないかもしれないが、できるだけ、という安い道徳律に堕してしまうのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:43
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:44
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
 (マタイ5:43-44、新約聖書)
 
これは、どうでしょう。同じです。しかも、教えの極致であります。
一つのことを前に書きました。
 
愛せるなら、敵とは呼ばない。
 
教えをけがす者と、私を呼ぶのは勝手ですが、できるだけでいいから、という安易な教え方をして、教えたつもりになるのは、明らかな偽善なのです。
 
前に書いたことですが、あるときテレビで、息子を殺された母親が、悲しいけど神の御心だから仕方ない、と言っていたのを見ました。その時の母親の表情が、まるで虚脱しているような無表情だったのを覚えています。感情が鈍麻~虚脱しているのです。
 
キリスト教は、感情を鈍麻させる宗教ででょうか、断じて否であります。ずっと私が言ってきたのは、人間としての情感を失ってはいけないということです。
 
この母親が、感情を失っているのは、教会からすり込まれたからか、それとも、うち続く戦乱の暴力を見過ぎたためか、・・それは分かりません。後者だと思いたいです。
 
 ※ 感情が麻痺する原因としては
 
 精神的ショックによる情動麻痺、病気による感情鈍麻
 もう一つは、人格異常による元からの情性欠如があります。
 
 さらには、カルトなどによる洗脳やマインドコントロールがあり、
 また、すり込みや宣伝や煽動による心の偏向によって
 間違った理性が感情を抑えつける場合もあるでしょう。
 
怒りは、正常な心で処理されるべきです。異常な心になって処理してはいけません。少なくとも、この母親は怒りに耐えている表情ではなかったのです。
 
御心だから、という結論には、勇気ある信仰が必要です。それは、人間としての正常の感情を封じ込めるのではなく、それを克服する何ものかが、信仰によって与えられるのでなければ起こらないことなのです。
 
この母親の最初の気持ちを、あえて言うなら、殺した奴を皆殺しにしてくれ、どこまでも追いかけて、そうしてくれ、であるはずです。それは、キリスト者として、なぜ、いけないのか、考えてみましょう。
 
キリスト者は、神の民です。神は人に、何を、どんな試練を、与えるか、前もって告げることは、殆どありません。
 
復讐心に囚われることは、神の支配を拒否することです。
 
一時的には無理もないと思われることも、持続して、その人の人生を支配し続けるなら、これは、神の下を、キリストの下を離れることになるのです。
 
つまり、そこで、あなたはわたし(キリスト)を愛するか、ということが問われるということです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
21:15
彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16
またもう一度彼に言われた、ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
21:17
イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
21:18
よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19
これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
 (ヨハネ書21:15-19、新約聖書)
 
つまり、信仰の極致であるところの、殉教に結び付いているのです。
 
そうです、これは、実に、私にとって、耳に痛い話なのです。
 
決して、自分は出来る、などと言う偉いことを言うつもりではなく、
 
これが出来るか出来ないか、どちらにしても、キリスト者には、信仰の極致、そして深みにおいて、不完全であることの罪について、共感と共有が必要だということを言いたいのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:45
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
5:46
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
5:47
兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
5:48
それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。 (マタイ5:45-48、新約聖書)
 
完全な者となりなさい、という教えを、何のためらいもなく、人間についての何の洞察もなく、完全になれるんです、完全になろう、と教えているカルトや偽善者もいます。
 
人間について、傷つくほどに、知っている人なら、敵を愛せよ、及び、完全となりなさい、という聖句によって、躓くのが正常なのです。それだけ人間を知っているということなのです。
 
躓いたらどうしましょう。私は、また書くしかありません。
 
 「神と書いた紙」
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19933711.html
 
 「答えられないからといって、おしまいにならないのが
  キリストの約束であり、信仰です。」
 
いつどこの誰だとは、誰も言えない、誰も期待しない、導きの時の流れで、
こういう人々の中から、魂の奇跡を受ける人が表れてくることを期待します。
 
つまり、最後に残るのは、最後に問われるのは、教理ではなく、
キリストの、一つの言葉だけなのです。
 
 「あなたは、わたしを愛するか」
 
 
(2018年10月31日アップ)
 
躓く(つまずく)
 
 
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  怨念と信仰
 
   御霊信仰と怨霊神を守護神に変える心理
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28771190.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
批判する必要がないほどに優れた引用記事なのです。なぜ、シャロームは自分のブログに書くのでしょう。シャロームが扱うと、気色の悪い騙し技になって、胡散臭い文章になってしまいます。
 
引用文献によって自分が斬られていることに気づかないシャロームは、読解した慢心をもって、また、書いてきます。とはいえ、大方、引用だけなのですが・・。
 
(引用文献より)
 
 「
 
4.怨霊神を守護神に変える心理
怨霊の猛威を恐れていながら、神に祀り上げてしまうと安心してしまうほど
古代の権力者は単純だったのだろうか。また御霊会を営むと御霊は鎮魂されて
荒ぶる怪異を表すことがなくなると信じるほど、古代の庶民派楽天的だったのだろうか。
古代から近代に至るまで、かつて祟りが強烈だった怨霊ほど、
鎮魂されると霊験あらたかだと信じられていたが、それは彼らが手強い滴ほど、
味方にすれば頼もしいと考えられていたからだと片付けられてきた。
確かにそれも一面の真理には違いないが、怨霊神が守護神に変貌する真の理由だとは思えない。
 
さきに、敗者の怨霊に悩まされ続けた勝者の心の深層に、
自分が滅ぼした敗者に対する良心の呵責や謝罪の気持ちと、
なおも自分に祟り続ける怨霊に対する怨みや恐れの感情との間に
アンビバレンスな葛藤が生まれ、その苦しさから逃れるために
自分の怨みや恐れを怨霊に投射して自分を被害者の立場に置こうとする
心的なメカニズムが働くようになったと述べた。
 
  」
 
日本の宗教を考えるうえで、とても興味深い文章です。
そして、その中の、
 

なおも自分に祟り続ける怨霊に対する怨みや恐れの感情との間に
アンビバレンスな葛藤が生まれ、その苦しさから逃れるために
自分の怨みや恐れを怨霊に投射して自分を被害者の立場に置こうとする
心的なメカニズムが働くようになったと述べた。

 
これこそ、シャロームの怨念でしょう。それによって、彼は、何を批判されようとも、不感不応の、ひび割れて笑う仮面顔貌を表すように、自分は被害者だ、被害者だと、書き続けているのでしょう。反省しないで、ひたすら無視し続ける者は、このような手段と取るということです。
 
さらに、シャロームが、バッサリ斬られているところが
 

こうして、自分を被害者の立場に置き、ひたすらに怨霊神に許しを乞い続けることは、
心理的には怨霊神に幼児のように甘えているに等しい。

 
シャロームが、この記事を引用するのは、まさに、これを、批判者に向けるためでしょう。しかしながら、出来が良いとは言えなくても、私の批判記事は、幼児に書ける文章ではないと思っています。
 
シャロームは、この記事を理解していないから、平気で引用していますが、同時に、今までの私の批判記事をも全く読解していないことが表れています。
 
私は、シャロームに許しなど乞うてはいません。シャロームが臭い文章など書かなければ、私は、批判記事は書きませんし、そもそも、私は、シャロームに、何の興味もありません。
 
シャロームの誤謬と偽善だらけの文章が、キリスト者と求道者に、キリスト信仰について、大きな誤解を与え、福音伝道を妨げるものだと判断したから、批判記事は生まれるのです。
 
シャロームの、文章理解と作成は、小学校レベルにも達していないと思いますし、その極端な偏りについて、その原因が、彼が訂正不能にして学習しなくなった信仰の姿勢にあると思われるので、批判記事としては、特異な、そして、固有の意味を持っているのです。
 

日本人は支配層も庶民も、怨霊神に甘える心理を抱き、
それを介して怨霊神を守護神に変えていたのだと思われる。
なおこの甘えが、宗教的な意味での愛とは全く異質のものであるのは言うまでもない。

 
シャロームの、怨霊神信仰も、語るところ、何の共感も伝えておらず、情緒がなく、古い皮袋の破裂そのままの、愛とは全く異質のものです。
 
 
>《shalomのコメント》
 

「うらみ」の心理 (山野 保著)の第2部「うらみ」と日本文化より
第1章「御霊信仰と日本人の心」を引用してきました。
お読みくださりありがとうございます。
今日も日本人の心を支配している日本文化、宗教の底流が明らかにされていると感じました。
著者も言葉を再度引用して終わります。

 
シャロームは、自分の意見は書かず、そして、月並みな挨拶とお礼のメッセージを書いています。なぜ、シャロームは、自分の言い分など、殆ど書いてないのに、「《shalomのコメント》」などと書いて、ろくに読み解いてもいないのに、転載だけで十分なのに、自分の名前を出したがるのでしょう。コメント欄を、閉鎖したままで。
 

民俗学者谷川健一は「敗者が勝者を支配し、死者が生者を支配することが、
わが国の歴史ではれんめんとつづいている。
この奇妙な倒錯を認めないものは、
日本の歴史の底流を理解することができない」と述べているが、
この奇妙な倒錯こそが御霊信仰にほかならない。

 
この歴史と宗教史を考察した文章に、シャロームは、自説の、社会と歴史に対する勘違いの自己中心のボロクソ節を加えて記事にしたことについて、何の反省の弁もないのです。
 

世界中どこでも古代の原始宗教では、
神と人間との間が越え難い深淵によって分割されておらず、人間が存在しえたのである。

 
シャロームは、現代の人間にも通じる原罪の実存的な問題を、アダムとエバに罪を押し付けて語り、人間にも、人間の原罪にも、他人事として、全くの無頓着ぶりを表しています。
 

しかしながら日本には、人を神に祀る風習が延々と続き現代に影響を及ばしているという極めて特異な文化がある。
現在でも、われわれは死者をすべて「ホトケサマ」と呼んでいるし、
戦死した将兵はすべて「カミサマ」として祀られている。
その感覚が現在でも怨霊の祟りを信じさせ、霊感商法が生まれたり、
怪しげな祈祷が繁盛する背景となっている。

 
シャロームが、よく言っていたのは、どんでん返しの奇跡で、自分は救われるということです。何の覚悟も反省もなく、そう言ってしまうのが、シャロームの、自己中心のボロクソ節と、不感不応に通じています。
 
いずれ奇跡によって救われるのだから、思考も感性も人間性も必要ないと活動を停止させたために、その後の人格破壊によって、書けば拙劣で、偽善にしかならないという経過となっているのでしょう。そういうことに無関心でいられるというのも、彼が自分信仰の沼にいるからだと思います。これは、霊感宗教の魔法の成就とでも言うしかないことです。
 
ここで、日本の精神文化を、沼、というのは、遠藤周作の本で読んだような気がします。
 
シャロームは、沼のように底知れない怨念を他者に向けているから、他者を完全に悪者に出来てしまうのでしょう。教会の牧師というイメージとは全く一致しない精神をシャロームは持っています。訂正不能の老人の頑迷と質の悪い子供の身勝手な心性とを混ぜたような精神だろうかと思ったりしています。昔々の幼稚な結論のまま固定してしまった人です。
 

古代日本人は怨霊は悪であり滅びるべきであるという論理で戦うよりも、
安易に怨霊と和解し、その証しとして神に祀り上げて共存したのである。
適応性に富むというべきか、いい加減というべきかはしばらくおき、
少なくともそれが日本人の特技であることは間違いない。
このような習俗を千年余りも持ち続けた文明国が日本以外にも存在するかどうか
私は知らないが、稀有であることだけは確かであろう。

 
シャロームは、怨霊、ここでは、悪魔か悪霊でしょうか、彼は、和解というより、いつも一緒にいて、アドバイスをもらっているかのように、平気で批判コメントを削除しましたし、また最近、平気で嘘を吐き、しかも謝ったあとで、負けるが勝ちと笑いを入れたりするのです。
 
とても、いい加減に、そのときそのときを処世して、それで、なお、知識人ででもあるかのように、自尊心だけは持っていて、過去には、神が自尊心を支えているなどと言ってはばからなかったのです。それらの失言というより吐き気を催す汚言のようなものについてさえ、自尊が傲慢になっているのか、シャロームは、訂正したことがありません。
 
 
そのあと、シャロームは、靖国批判のネットの記事を載せています。
 
> 全文は
https://netallica.yahoo.co.jp/news/20181028-13453820-litera
 
基本的に、私は引用サイトに、ほぼ賛成なのですが、神社について詳しいことは知らないので、多くは語れません。シャロームは、自分が言論をリードしているかのように、長々と引用しています。そして、引用した責任は果たさないのです。
 
靖国神社が怨霊と和解しているとでも言いたいのでしょうか。英霊と呼ばれる人々を怨霊とでも思っているのでしょうか。引用したなら、その前の記事との関連を述べるべきですが、シャロームは、自分の意見を、一切、述べていません。
 
ずいぶん前に、ある政治思想のサイトに、例えば、特攻隊を英霊と呼ぶことに関しては、愛国心は認めても、当時の軍国主義教育の犠牲ということがあり、さらに、もともとから、特攻隊の、敵の殺傷破壊という目的行為を忘れるべきではないと書いたことがあります。
 
そういう意味はあっても、シャロームが、引用記事の流れで、怨霊と和解と言うつもりなら、成り立たないと思います。ひょっとして、これは、シャロームの、新手の、ボロクソ関係づけ引用なのか、と勘繰りたくもなります。
 
自分が詳しい知識がなく、関連を説明できない場合、言論者は、どうするべきか。普通は、引用せずに、リンクにとどめるか、混ぜこぜにせず、転載記事として載せるべきでしょう。
 
シャロームは、政治や歴史について書けば、必ずと言ってよいほど、一方的に、ボロクソ節で悪者にするだけなのです。日本に特別な恨みがあるのでは?と思うほどです。
 
そのような幼稚な思想しか持ち合わせておらず、自分の意見が悪口だけで全然まとまっていない者が、宗教であれ、社会であれ、歴史であれ、何であれ、記事の中に引用して利用することが、引用元に対する迷惑になり、何より、引用自体が的外れになる、という常識的な配慮が、全く働かないのが、曲解と妄想信仰のために他者の迷惑を考えない怨念法師、いかなる文書の整合性とも無縁でいられるシャロームなのです。
 
 
(2018年10月30日アップ)
 
質(たち)
汚言(おげん)
催す(もよおす)
 
 
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  響き
 
 
信仰においては
 
心に響いたことだけを受け取りましょう。
 
それでは不十分になりますが
 
心に響いたことは
 
心が活動していることであり
 
心に残るでしょう。
 
 
心に響いていないことを辻褄合わせだけで受け取ると
 
それは嘘になります。
 
心に響かないことは
 
心を縛るだけです。
 
言い張っても思い込んでも
 
響かないし働きにならないのです。
 
それは絡みついた針金のようなもので
 
縛るけれど恩恵がないのです。
 
 
心に響いたことは
 
不十分ですが
 
不十分な心を成長させるのです。
 
心に響いたことは
 
縛らずに人を生かします。
 
 
十分だと辻褄が合っても
 
不十分は必ずあり
 
それを十分だと慢心したときから
 
響きを受け取る心の働きも鈍ってくるのです。
 
十分や完全は地上ではありえません。
 
それらは神の持ち物だからです。
 
そして私たちは不十分だと自覚するから
 
神に出会えるのです。
 
 
学問は興味から始まります。
 
信仰は必要から始まります。
 
どちらも不十分だから進みます。
 
 
心は不十分だから
 
心に響いたことは生き続けます。
 
 
十分だと慢心したときから
 
心は生きることも響くことも受け取ることも止めてゆきます。
 
神の憐れみも受け取らなくなるからです。
 
 
響かないことを取っておきたいなら
 
分かったつもりにならないために
 
分からない箱に入れておきましょう。
 
 
心に響いたことだけを受け取りましょう。
 
不十分な心が必要としていたから心に響くのです。
 
 
つまり不十分の自覚が信仰になり
 
人間を成長させるのです。
 
神はそれをご存知だからです。
 
 
(2018年10月29日アップ)
 
 
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  神と書いた紙
 
   回復された神の国
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28768737.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
言うだけなら、書くだけなら、聖書由来の美辞麗句は、たくさんあります。それを聖書語と呼んでいます。また、仲良くしたいと思わせるためだけの状況にそぐわない丁寧な書き方もあります。それを丁寧語と呼んでいます。その2つしかないシャロームの、実感も実体もない記事が、今日も、人が油断して受け容れるのを待っています。そういう人だから、シャロームに対しては、忍耐強く、どこまでも批判を当ててゆく必要があるのです。
 
(まず、引用記事から)
 
シャロームが、同意して引用した記事として、彼の発言と同等に扱ってゆきます。
 
>今日、神の国が見える人が必要です。
 
神の国が見える人がいるのでしょうか。
こういうことを軽軽に言ってしまう人は注意が必要です。
表す言葉を持たないためにスーパーな言葉を豪語している可能性があります。
 

しかし、それは特別に聖書に精通した人のことでしょうか。
それは特別に霊的な人のことでしょうか。
いいえ、イエスの言葉によれば、そうではありません。
「誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることは出来ない」とイエスはニコデモに言われましたね。

 
ニコデモに言った
「誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることは出来ない」
この聖句で、分かるでしょうか。
 
 私の記事「ヨハネ書:ニコデモ」
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19930577.html
 
何かを付け足せば分かるでしょうか。見てみましょう。
 

今日、神の国と神の義をまず第一に求める人たちが必要です。
それは神の国についての詳しい知識のある人のことでしょうか。
神の国、神の国といつも言っている人のことでしょうか。

 
キリスト者は、神の国と神の義を求めているのではないでしょうか。
 
引用の3つの文は、それほど変わりはないのです。今さら言っても、それで肯定も否定も出来るものではない、ということです。
 
ただ、神の国、神の義など、神という言葉を、言うだけは、うんざりするほど言っているシャロームのような偽善者がいるということです。彼の知識は、信仰において成り立っていないという証拠だけが積み重なっています。
 

自分の生活の場と、信仰共同体、エクレシアである教会を通して、神の主権と支配を見ていく人、求めていく人、それが神の国を求める人たちだと、わたしは思います。

 
この文も、しっかり信仰しましょうと言うのと、たいして変わりはないのです。
 
教会を通して、ということを強調したいのなら、教会において教えられることが真実という保証は殆ど説得力がありません。結局、神の国を、神の主権と支配と言い換えただけで、分かる問題ではないということだけが明らかになっていると思います。
 
シャロームのような、言葉の深い理解をせず、表面的に受け取っている者だけが、ちょうどいいと、快楽原則だけで、頷いて、引用しているだけでしょう。
 
不完全の自覚、罪性の自覚、と言ったことを通り越して、分かるんだ説教をもって、信仰の神髄や秘訣を語ろうとすると、こういう、似たような言葉の堂々巡りに至るのでしょう。
 

その人たちは自分の思うようにしようとする「自分の国」を求めていません。
その人たちは自分たちの思うようにしようとする「みんなの国」を求めていません。
そしてまた、その人たちはもちろん、「この世の国」を求めていません。

 
誰でも肯定することですが、シャロームのような、自分の思うように神が導いているから、罪を悔い改めなくても救われる、と言っている人がいることを覚えてください。シャロームにとって、神の国=自分の思い通りの国=みんなが自分に従う国=この世で自分に都合の良い国、ですから、信仰者の立場からは、そういう国ではないことを突き付けてゆく以外にはありません。
 
神の国が見える人はいません。「見える」というところには罪が表れます。また、引用しないといけないのでしょうか。
 
  (ヨハネによる福音書、口語訳)9:41
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
  (ヨハネ書9:41、新約聖書)
 

イエス・キリストが王であり、オーナーであるとすれば、
その方の主権を認め、その方の支配される領域が広がることを求めている人です。

 
同じです。神の国のオーナー、主権、支配領域、と書いて、語ったつもりになるシャロームの詭弁の、ずっと続いている繰り返しです。このような、理解のために一切役に立たない屑のような言葉の使い方で、信徒に、世辞で、信仰が厚い先生、と言わせてきたのがシャロームの生業です。
 

その領域の始まりは、あなたやわたしの心からだと、わたしは思います。
自分の周りに起こったことで、ああ、これは神の国だ、と分かったことはありませんか。

 
シャロームは、今まで述べてきたことから、自分の心も体も、神の領域にあるつもりなのでしょう。恐ろしい信仰の裏切り方ですが、ああ、これは神の国だ、と分かるのだそうです。
 
人間離れ、現実離れ、神がかり、訂正不能、何を言われても不感不応、という、自分信仰のすべての要素を備えてしまうと、愚かの罪から、悔いることのない悪への偽善へと向かう人間破壊は、自らのみならず関わる人をも、神の名によって、滅ぼしてゆくでしょう。
 

神の国と神の義をまず第一に求める人、その人たちのためには、生活に必要な他のすべては、添えて与えられると約束されています。
すごい約束ですね。

 
すごい約束と言って、生活に必要なすべてが添えて与えられることについて、何も説明していないのが、実に偽善者らしくシャロームらしい。文字通りと受け取って、都合の悪いことを、無視したり、忘れたり、隠蔽してきたシャロームの偽善が重ねられて、今回も表れています。
 
シャロームは、神に任せるのが一番と言いながら、自分に不都合な証拠を、自分で強制力をもって隠蔽してきたのです。凄まじい背教を全生涯に通そうとする変性と破裂の錆びた鉄パイプです。書けば書くほど、裂け目から凄まじい無理解と無感動と破綻の無知と無恥が漏れ出てきています。言葉だけが大袈裟になる必然でもあります。
 
シャロームは、真っ向から、神の国と神の義に、歯を出して笑いながら、歯向かっています。
 
シャロームは、すごい約束を、すべて、自分の都合で信じて、人を人とも思わず、人の意見を聞かず、受け取らず、それを隠しながら、言葉としては聖書語と丁寧語によって、誰の糧にもならない空疎な自分の言い分だけを言って、丁寧語で騙されて賛同してくれる人を待っているのです。
 
道理も恥も完全に無視して生きていられるとは、シャロームは、本当に、すごい?!人です。
 
 
>《shalomのコメント》
 
自分だけを高みにおいて、他者について、上から見下ろす立場で語るところの、
全か無かに短絡したシャロムのボロクソ節が、またしても全開になっています。
 

国には国土と国民が必要です。
日本には日本の領土、領海、領空と国民があります。
神の国は神が創造され、統べ治めておられる神と天地万物がその領域です。
その領域のすべてを神はご自分のかたちに創造された人にゆだねられました。
しかし、神の国をゆだねられた人は神の言葉と神の対する信仰を退けてしまい、
サタンに属する国、自分の国としてしまったのです。

 
地上の人間世界をサタンに属する国という見なしをしています。
自分は何様のつもりなのでしょう。
 
人間世界にはサタンの支配しかないでしょうか。キリスト者が誕生するのは、シャロームにとって、人知を超えた超常奇跡でしか起こりえないでしょうか。
 
一人一人の信仰はその誕生から、聖書を通して、神と人の、キリストと人間の、双方向です。
 
その双方向を否定して、神と人の、人と人の、共感を否定して、人間性というものを全く理解できないで、人間をやめた境地に立っているシャロームは、人間性をサターンのように見なして、かえって、超常の魔性?が運ぶものを信仰しているのです。彼は、すべての人間をゴミでも扱うかのように軽蔑し、使徒と呼ばれる弟子たちをも貶めています。彼の信仰の、どこをとってもキリスト信仰ではないことが表れています。
 

神はサタンとその奴隷となった人から神の国を取り戻すために、
弱小な民をご自分の国とするために、アブラハムをその始祖として選ばれました。
そして、アブラハムの子孫を神の国、祭司の国として建てられ、
サタンの国、人の国を神の国とするために、アブラハムを選び、
神の国、祭司の国であるイスラエルの民による救いの計画をされたのです。

 
このように、シャロームは、人の集まりを固まりを動かすように語り、聖書の登場人物をその名前と役割でしか語れません。信仰から人間性を除くと、こうなってしまいます。教理を、救いの仕組みの理屈だけで語る、垢だらけになる擦り方です。
 

その約束を成就するために、神と人との間に祭司の国を立て、
神と人との和解のために、罪のあがないによる救いの大祭司を遣わされたのです。
その大祭司がイエス・キリストなのです。

 
救い主という言葉より、大祭司という言葉を好むのは、ものごとを儀式的にしか語れない教条主義へ向かう特徴の一つですが、シャロームの場合は、中身のない自分の、中身のない無駄話を、立派に見せる詐欺師の語り口なのでしょう。どこまでも、自分を大きく見せようとするところは、救いとは何の関係もない大口と唾液と舌を自ら腐らせる悪臭の墓場になってゆきます。
 

イエス・キリストは罪なき神の御子ですが、罪ある人の罪を贖うために、
私たち人の罪をご自分の罪とし、罪を贖い、罪の赦しを与えるために、
神の裁きによって血を流すことなしには出来ない罪のあがないのために、
イエス・キリストは十字架につけられ、私たちの罪に対する裁き、呪いを受けてくださったのです。

 
共感というものを全て排除して、教理を語り騙る偽善者の企みは、贖罪を腐食剤に変えてしまいます。まさに、シャロームの説教には、温もりも潤いもなく、血も涙もなく、人間を処理する工場の壊れて放置されたラインのような冷たさしか感じられません。いかに丁寧でも、これは、欺きのための聖書語の羅列が、教理を不細工に追いかけているだけなのです。
 

そして、人は如何なる自らの義のわざによってではなく、
ただイエス・キリストを信じる信仰によって与えられる神による義認の恵みを与えられ、
すべての人にサタン国、人の国から神の国への救いの道が開かれたのです。
神はイエス・キリストによって、神の国として創造された天地万物を再び、神の国とし、
すべての人を信仰によって神の国の民となる救いの道を備えられたのです。

 
信仰義認を語っているように見せかけていますが、シャロームは、十字架の贖いによって、悔い改めることなく無罪になっているという、キリスト信仰とは正反対の無罪妄想信仰者です。自分以外に対しては、世辞であろうが言葉の断片であろうが、利用するだけの意味しか感じていないと思います。
 
シャロームにおいては、義とされた信仰者の謙遜も見せかけだけなのです。この6~7年の間、シャロームは、丁寧語と聖書語を並べるだけで、嘘の方便と、最近も明らかになった真っ赤な嘘によって、露になった裏の獣性が明らかになってくるだけでした。信頼に値する何ものも示したことが一度もありません。それで平気でいられるような、人間に必要な何かが欠けたところの、何らかの病質者なのです。批判以外で関わってはいけない人です。
 
シャロームが、いかに信仰を守っているつもりでも、表れてきたのは、彼の利己だけです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
6:31
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
 (マタイ6:31-34、新約聖書)
 
神の国と神の義とを求めることが書いてあります。必要なものが添えて与えられるというのは、神に全てを任せる人にとって、それで満ち足りて、余計な欲望がないということでしょう。それは、つきつめてゆくと、殉教の精神に関係してくるのです。
 
神から与えられるもので、それが生でも死でも、受けることを幸いと思えるか、ということが問われることになります。そこでは、キリストに愛された者が、どこまでキリストを愛せるかということが問われます。
 
全ての信仰者が、殉教するほどの信仰の勇気を持ちうるでしょうか。そのような信仰者になれない人には、罪を犯し、悔い改めの祈りをするという信仰が必要になるのです。
 
その立場に、キリストの十字架の時は、ペテロや弟子たちがいます。
 
キリストは、誰も巻き添えにせず、誰も責めずに、ただ独り、十字架につきました。キリストは、弟子たちが裏切ることを見抜いていたゆえに、赦されて使徒となる悔い改めの道を、ご自身の十字架の後に用意しておられました。
 
思い煩うな、というキリストの教えと、添えて与えられる、というキリストの約束には、罪をご自身の身に背負うキリストの愛が表れているのです。そうして、弟子たちは使徒となって、教理に従ったのではなく、キリストの愛ゆえに、そして、キリストを愛したがゆえに、殉教に向かう道を歩むことになります。その信仰は、とても情熱的です。
 
その命を賭したキリストの話に共感できないシャロームは、ああ、これは神の国だ、と分かることがある、という超常理解?の自慢話に貶め、すごい約束ですね、という素っ気ない括りで済ませてしまうのです。
 
偽善者とカルトの特徴である境地自慢に陥らないように気をつけてください。偽善者は、平気で裏切り、ペテロとは違って泣くこともなく、笑いながら平気で裏切りを隠す生業だからです。
 
広き門には、わざとらしく神を誉めまくり、自分の卑怯を隠しながら、教える立場で目立とうとする輩がいます。好意的に関わることのないように注意してください。
 
自分は何を受け取ったか、ということを考える習慣が必要だと思います。
 
 
神の前で、強がることなく、飾ることなく、
弱虫でも、正直に罪を告白し、赦しを乞うのが信仰です。
 
自分が、キリストの愛に、どれだけ答えることが出来るか、
それは、神以外、誰も知りません。
しかし、弟子たちに用意されたように、
答えられないからといって、おしまいにならないのが
キリストの約束であり、信仰です。
 
 
(2018年10月28日アップ、同日一部修正)
 
錆(さび)錆びる(さびる)
屑(くず)
糧(かて)
騙す(だます)騙る(かたる)
生業(なりわい、せいぎょう)
輩(やから)
貶める(おとしめる)貶す(けなす)
括り(くくり)
垢(あか)
擦る(こする)
露(あらわ)
 
 
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  カルトの慢心
 
 
神は
神を恐れる者に
信仰の義を与えます。
 
しかるにカルトは
自分の思い込みの解釈上の神を讃えます
まるで自らの不義を隠すかのように
自らの慢心を神に向けて
自分の神を誉めまくるのです。
 
人はいずれ
自らの慢心を砕かれます。
何よりも
必ず地上の命は終わります。
 
ゆえに私たち信仰者は
神を恐れるゆえにキリストの愛に縋ります。
 
しかるにカルトは
いつも、そして、臨終においても
自らの慢心を神に見せて
その誤りの無さ?を誇るつもりなのでしょうか。
そしていっそう神を誉めまくれば
神は、よくやったと、
誉め返してくれるとでも思っているのでしょうか。
 
教条の言葉による解釈で
神の言葉を固定してしまったカルトは
神を恐れるふりをして
神を讃えるふりをして
神から
神の義と同じ義を与えられると信じているようです。
 
訂正不能のカルトの自己破壊は目を蔽わんばかりで
まるで子供が駄々を捏ねるような
相手の言うことを単純に否定したり
自分が言われそうなことを相手に向けたり
という言い張りに終始しているのに、
大方、教理とか論理とか認定とか忠告とかの
言葉だけをちりばめて格好をつけようとします。
そして常識が壊れて
普通しないような罵りのための罵りに
個人情報を大切にする節操もなく攻撃してきます。
カルトは反対者を排除するのに手段を選びません。
 
カルト信仰は反対されると
石像になって固まるか
野獣に豹変します。
すり込みと鵜呑みだけで出来た信仰は
自らを否定されたときの内省の理路を持たないからです。
 
やさしい言葉に騙されないでください。
批判者に向ける無制限の罵りと、
離れると大変なことになるぞ
という脅迫がカルトの本質です。
それは
賛同者への世辞、そして、
批判者への罵倒に表れています。
 
このような
無秩序を必然とするカルトですから
信仰者がカルトを批判しないならば
カルトは好きなように神の名を悪用して広めるでしょう。
神のいない神の言葉?を広めるでしょう。
生きるのに役に立たない慢心のカルトの言葉は
そのまま放置して好きにさせてしまうと、
いずれ何らかの切っ掛けで衝突事故を起こし
取り返しのつかないカルト騒動を起こすのです。
 
成長可能な人間のあり方を放棄して
自らの中に神?も人も固定してしまったカルトは
毎日毎日慢心だけを神に捧げることになります。
 
 
神は
人としての分際を弁え
神を恐れる者にのみ
信仰の義を与えます。
 
そのことは
聖書を読んで
人間として考えれば明らかなのです。
 
 
(2018年10月27日)
 
縋る(すがる)
誉める(ほめる、褒める)
蔽う(おおう)
駄々を捏ねる(だだをこねる)
弁える(わきまえる)
 
 
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