敵を愛せよ?
世の中は、誰でも頷けるような、月並みなことを言うのが流行っています。信仰の世界でも、誰もが否定しないような教理話で惹きつけて騙そうとする者がいます。
牧師経験者を名乗る者が、信徒より分かっているなんて思わないでください。
特定の信徒が、牧師より、話が深いなどとも思わないでください。
誰かをつけあがらせるようなことは、やめましょう。
人間は、つけあがりやすいからです。
信徒と牧師、信徒と信徒、信徒と求道者、いずれの人材も、共感と共有と協力がなければ、何も出来ないで終わるのです。完全な宗教者など、聖なる御方を除いて、一人もいません。
私たちは、皆、芽であり、卵であり、ひよこなのです。
キリストの、とんでもない教え?、これによって、キリスト教を見限った人も多い?だろう、という教えについて考えてみます。
(マタイによる福音書、口語訳)
5:38
『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:39
しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
5:40-41
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
5:42
求める者には与え、借りようとする者を断るな。
(マタイ5:38-42、新約聖書)
一見すると、永遠のMになれ、と言っているような教えです。これを、これは極限の境地だから、できるだけでいいから、守りましょうね、と教えているなら、その教えの深みを見失っていると思います。
出来ないことを承知の上で、キリストは言っている、という見方をしないならば、これは、できないかもしれないが、できるだけ、という安い道徳律に堕してしまうのです。
(マタイによる福音書、口語訳)
5:43
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:44
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
(マタイ5:43-44、新約聖書)
これは、どうでしょう。同じです。しかも、教えの極致であります。
一つのことを前に書きました。
愛せるなら、敵とは呼ばない。
教えをけがす者と、私を呼ぶのは勝手ですが、できるだけでいいから、という安易な教え方をして、教えたつもりになるのは、明らかな偽善なのです。
前に書いたことですが、あるときテレビで、息子を殺された母親が、悲しいけど神の御心だから仕方ない、と言っていたのを見ました。その時の母親の表情が、まるで虚脱しているような無表情だったのを覚えています。感情が鈍麻~虚脱しているのです。
キリスト教は、感情を鈍麻させる宗教ででょうか、断じて否であります。ずっと私が言ってきたのは、人間としての情感を失ってはいけないということです。
この母親が、感情を失っているのは、教会からすり込まれたからか、それとも、うち続く戦乱の暴力を見過ぎたためか、・・それは分かりません。後者だと思いたいです。
※ 感情が麻痺する原因としては
精神的ショックによる情動麻痺、病気による感情鈍麻
もう一つは、人格異常による元からの情性欠如があります。
さらには、カルトなどによる洗脳やマインドコントロールがあり、
また、すり込みや宣伝や煽動による心の偏向によって
間違った理性が感情を抑えつける場合もあるでしょう。
怒りは、正常な心で処理されるべきです。異常な心になって処理してはいけません。少なくとも、この母親は怒りに耐えている表情ではなかったのです。
御心だから、という結論には、勇気ある信仰が必要です。それは、人間としての正常の感情を封じ込めるのではなく、それを克服する何ものかが、信仰によって与えられるのでなければ起こらないことなのです。
この母親の最初の気持ちを、あえて言うなら、殺した奴を皆殺しにしてくれ、どこまでも追いかけて、そうしてくれ、であるはずです。それは、キリスト者として、なぜ、いけないのか、考えてみましょう。
キリスト者は、神の民です。神は人に、何を、どんな試練を、与えるか、前もって告げることは、殆どありません。
復讐心に囚われることは、神の支配を拒否することです。
一時的には無理もないと思われることも、持続して、その人の人生を支配し続けるなら、これは、神の下を、キリストの下を離れることになるのです。
つまり、そこで、あなたはわたし(キリスト)を愛するか、ということが問われるということです。
(ヨハネによる福音書、口語訳)
21:15
彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16
またもう一度彼に言われた、ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
21:17
イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
21:18
よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19
これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
(ヨハネ書21:15-19、新約聖書)
つまり、信仰の極致であるところの、殉教に結び付いているのです。
そうです、これは、実に、私にとって、耳に痛い話なのです。
決して、自分は出来る、などと言う偉いことを言うつもりではなく、
これが出来るか出来ないか、どちらにしても、キリスト者には、信仰の極致、そして深みにおいて、不完全であることの罪について、共感と共有が必要だということを言いたいのです。
(マタイによる福音書、口語訳)
5:45
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
5:46
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
5:47
兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
5:48
それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。 (マタイ5:45-48、新約聖書)
完全な者となりなさい、という教えを、何のためらいもなく、人間についての何の洞察もなく、完全になれるんです、完全になろう、と教えているカルトや偽善者もいます。
人間について、傷つくほどに、知っている人なら、敵を愛せよ、及び、完全となりなさい、という聖句によって、躓くのが正常なのです。それだけ人間を知っているということなのです。
躓いたらどうしましょう。私は、また書くしかありません。
「神と書いた紙」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19933711.html
「答えられないからといって、おしまいにならないのが
キリストの約束であり、信仰です。」
いつどこの誰だとは、誰も言えない、誰も期待しない、導きの時の流れで、
こういう人々の中から、魂の奇跡を受ける人が表れてくることを期待します。
つまり、最後に残るのは、最後に問われるのは、教理ではなく、
キリストの、一つの言葉だけなのです。
「あなたは、わたしを愛するか」
(2018年10月31日アップ)
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