ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年10月

 
  カルトの時空
 
 
聖書という書籍は
キリスト教の聖典であり
聖書を読むことで
生涯にわたる記憶になったり
その中から
信仰に導かれてキリスト者になる人も出てくるわけです。
 
聖書は
あるとき読んだけれどピンと来ず
別の機会に読んで心に響くということもあります。
全然分からなかったのが後で分かることもあるでしょう。
ということは
そのとき分かったと思ったことも
さらに理解が更新されることもありうる
ということです。
 
つまり
神様は人間を導きますが
例えば聖書を通じてどう導くか
ということも
同じ聖書でありながら人によって
一定に決まっているわけではない
ということです。
 
教条主義のカルトは
自らの解釈を言葉によって固定し
不変としてしまうので
動的な導きを否定してしまって
最初から全てを分かっていることにするので
そのことが
新しい考え方を受け入れない大きな要因となります。
 
つまり
カルトの解釈の誤りというのは
解釈が異なっていることだけでなく
解釈の受け取り方が訂正不能になっている
ということでもあるしょう。
 
言い換えると
カルトにとっては
彼らの手の中に納まるように
とても単純に言葉で時空が固定されており
自らの知りえない時空の存在を否定して
自らの情けない時空の観念によって
全て分かっているかのように教えているのです。
 
神の全知全能、完全、永遠、そして
神の支配する時空に対して恐れを抱くことがないのでしょうか。
 
彼らは彼らの了見に
すっぽり収まっている教条の世界で
満身に慢心の笑みをたたえながら
神を讃美するのです。
 
こういう態度は言い換えると
神を恐れない態度と呼びます。
 
自分の視野や思考の及ばない可能性を認めることなく
自らの人間としての不完全を想定できず想像しようともしない
という心の貧困がそこにあり
聖句の心貧しさとは正反対のところから
教えて従わせようとしていることを覚えてください。
 
カルトは、見かけの優しさとは裏腹に、
外れたら、とんでもないことになるぞ、
という恐怖の絶対によって信者を縛っています。
その絶対は人が作ったもので神ではないのです。
 
神の偉大さは
いつも人間にとって想定外ですが
人間は
想定外のことがあるという想定をすることは可能です。
 
思い上がりは心貧しさのない背きであり
見掛け倒しは心を豊かに見せようとする欺瞞です。
 
私たちが多くを持ち得ない
そして実際に持っていないという自覚としての
心の貧しさがあります。
 
心の貧しさは
文句を言わずに従うことでもなく
心が空っぽという難解な境地でもありません。
 
神に対して
持っていないという貧しさを認めることなのです。
 
神と人の
支配と被支配
そして全能と不全の関係は
神の全き豊かさと人の不全という貧しさの関係です。
 
この関係において豊かな人間はいません。
この関係において人間が神を仰ぐのが信仰です。
 
この関係を無視して人間が神?を仰ぐのがカルトや偽善者です。
 
キリストは人間に対して、心が豊かであること、つまりここでは、人間が持ち物によって富むことを戒め、心貧しいことを幸いとしました。
 
人の心の貧しさの対極にあって美しいのは
人の心の豊かさではなく
 
神なのです。
 
キリストそして神の心が豊かなのは言うまでもありません。人間が神と同じものを持った気になってはいけないということです。この意味において、人間が、豊かになろうとすることは、神になろうとすることに等しいからです。 
 
 
(2018年10月26日アップ、同日一部修正)
 
欺瞞(ぎまん)
 
 
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  ヨハネ書:ニコデモ
 
 
ヨハネによる福音書から、もう一度ニコデモについての記事を引用して考えてみます。このように同じ聖句をまた考えるということは何度も繰り返すことになるのでしょう。
 
私の現時点での見解に過ぎません。
 
書名のない引用聖句は、ヨハネによる福音書です。
 
ニコデモは、パリサイ人の中で唯一例外的な言動をしています。
 
パリサイ人らしい教条主義の表れと、それだけではないところとが描かれています。
 

3:1-2
パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。

 
ここだけだと、民衆に注目されていたキリスト対して、儀礼的に一応の世辞を言っているだけのようにも受け取れます。ニコデモは、まだ、神からこられた教師、について理解して讃えているわけではないのです。
 
儀礼は、当てになりません。ユダは、裏切るとき、キリストに接吻しています。
 
彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。
(マタイ26:49)
 
また、ニコデモは、ここでは、夜、独りで、キリストのもとを訪ねているようです。キリストに関心をいだきながら、怖かったのでしょうか、他のパリサイ人には内緒だったのでしょうか。それとも、偵察か様子見とでも言ったのでしょうか、あるいは、そう言われてきたのでしょうか。
 

3:3
イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
3:4
ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。

 
私たちでも、ぼんやりと、信仰によって・・ということだろうか、くらいのことは考えますが、ニコデモは、パリサイ人として教条主義の教育を受けてきたので、頭が硬い、ということが分かるでしょう。生まれることを、母の胎から、としか受け取れていないようです。
 

3:5-6
イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
3:7-8
あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。
3:9
ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。

 
ここは、私たちも、肉のことではないが、水と霊から生まれると言われても、ピンとは来ないわけです。風の喩えも、霊も風も見えないものだけど・・・と思うけど、理解まではいきません。
 
ニコデモは、教条主義に固まって、現実の儀式や行いに心が囚われているので、分からないとは言わず、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」と言っています。
 
3:10
イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。
 
キリストから言えば、当然、わからないニコデモ、ということになります。
 

3:11-12
よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。
3:13-15
天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。

 
人のことを言っても分からないなら、神のことを言っても分からないであろうことを、キリストは承知しています。そして、たとえ、人が、今、キリストを理解しなくても、救いは成就されるという預言です。
 
この引用部分は、キリストからの、前半は叱咤、後半は激励、という命を賭した救いのメッセージです。
 
「 
7:46
下役どもは答えた、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。
7:47-49
パリサイ人たちが彼らに答えた、「あなたがたまでが、だまされているのではないか。役人たちやパリサイ人たちの中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか。律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている」。
7:50-51
彼らの中のひとりで、以前にイエスに会いにきたことのあるニコデモが、彼らに言った、「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではないか」。
7:52
彼らは答えて言った、「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう」。

 
パリサイ人たちの集まりで、ニコデモは、イエスの言い分をもっと聞くべきといっています。ここで、ニコデモの、他のパリサイ人と違うところが表れています。
 
下役たちも、これまでになかったと言っていることから、イエスが、ただ者ではないことに気づいていたのは、ニコデモだけではなかったのです。
 
しかし、ニコデモ以外のパリサイ人は、律法を弁えない、ガリラヤ出、などと決めつけて、キリストを預言者でもないと言って、教条主義の腐ったところをあらわにしています。
 
このように、パリサイ人などの教条主義というのは、間違いのない教えを語ったつもりで、道理も理屈も弁えたつもりで、知ったかぶりをするけれど、その思路と視野は狭く、言葉と行為のみに固執して、心がなく、何か異なることを言われると、新しい視野の領域を持ち得ないために受け止めきれず、ただその時その場で、不快という感情でしか反応できなくて、言葉の尻を振り回し、嘲笑うか罵るという一方通行になるようです。
 

19:38
そののち、ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となったアリマタヤのヨセフという人が、イエスの死体を取りおろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトはそれを許したので、彼はイエスの死体を取りおろしに行った。
19:39
また、前に、夜、イエスのみもとに行ったニコデモも、没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど持ってきた。
19:40-42
彼らは、イエスの死体を取りおろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料を入れて亜麻布で巻いた。イエスが十字架にかけられた所には、一つの園があり、そこにはまだだれも葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であったので、その墓が近くにあったため、イエスをそこに納めた。

 
十字架の後、復活より前です。ニコデモは、弔いの薬を携えて来ています。パリサイ人たちが殺したキリストをパリサイ人のニコデモが弔いに来る、ニコデモの立場が、はっきり表れてきました。といって、ニコデモがキリスト者になったかどうか、聖書には書かれていないので、暗示的な聖句だと思います。
 
ニコデモは、ただ礼儀として悼むために来たのでしょうか、それだけなら、パリサイ人たちが死刑にしたキリストの弔いに参加することは、パリサイ人であるニコデモにとってはリスクが大きいです。何か決心のようなものが芽生えてきているのでしょうか。いずれにしても、ニコデモは、キリストに出会ったことが、忘れられなかったのでしょう。
 
私事ですが、聖書を少し読んだだけでも、キリストの言動は何か心に残る、キリストは忘れられないものを残す御方だ、と思っていた若い頃を思い出します。
 
その後の私の人生は、挫折した失格者であり怠け者です。そのこともブログにはところどころ書いていますが、そこをカルトは容赦なく、ダメ人間だと攻撃してきます。カルトというのは、何なんでしょうね、彼らは、ダメだから信仰が必要ということを理解せず、一生懸命、完全になれる、守れる、ということばかり教えようとするのです。
 
話が少し逸れましたが、ニコデモの言動は、興味深いところです。というのは、私たちも、ときに、疑いのために揺れて、迷うことがあり、分からないことがあり、信仰が儀礼みたいになることがあり、それでも、キリストを忘れられなくて、また考えるということになるからです。そして、教師でなくても、キリストに言われるからです。「これぐらいのことがわからないのか」と。
 
忘れていけないのは、主イエス・キリストは、ニコデモが、人が、そして、私たちが、分からないでいる、ということを、既にご存知の上で、憐れんでおられるということです。そのうえでのキリストによる救いだということです。
 
そうでなければ意味がないということです、分からないのに、分かったと言わないといけないなんて、我を張らないといけない信仰なんてあり得ません。
 
 
(2018年10月25日アップ)
 
讃える(たたえる)
叱咤(しった)、叱咤激励(しったげきれい)
嘲笑う(あざわらう)
罵る(ののしる)
逸れる(それる、(はぐれる))
 
 
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  聖なる体験?
 
 
神と名乗る者が、
いかにも聖なる者?のように現れた
という体験をしたら
あるいはそのような気分になったらどうする?
という話を前にしたので、
以前から考えることがあって
困ってもいたところの
聖なる体験
というものについて改めて考えてみます。
 
聖書の預言と言えば
旧約聖書にあるような
神が直接語りかけたり
夢のお告げであったりします。
 
また一方で
信徒も預言や異言をすることがあるようなことが
聖書には書かれています。
 
そこで
使命感に燃える?ところのキリスト者は
自分も預言をすることがありうるのだ
と思ったりするわけです。
 
そうして
一種の忘我状態を待ち望んだりします。
その流れで
あるとき陶酔気分だったり
聖句を読んで気持ちがよかったりしたときに
神の啓示が来た
と思ったりするでしょうか。
 
一種の興奮状態から
神を讃美する異言というものや預言として
命令口調になって聖書語を並べたりするでしょうか。
聖霊体験なども似たような経験でしょうか。
 
本当に聖霊や神の啓示があったのなら
先ず迂闊に声に出せないくらいの敬虔が必要でしょう。
何故なら神が直接働きかけてくるのですから。
 
そこには
ヨブ記などにあるように
雷や嵐に遭うような衝撃があるはずです。
そしてその人は今まで以上に
神の前に恐れおののくはずです。
 
その恐れは
その人の口を慎ませるはずです。
 
聖なる御方を直接体験することが
街の通りで親切に道を教えてもらうような
優しく気持ちの良い社交のようなものでありえましょうか。
否です。
 
 
ちなみに私は
神の声を聞いたこともないし
夢のお告げを見聞きしたこともありません。
私が語ろうと心がけているのは、
人間としての感受と思考による言論のつもりです。
そこを超えることは神の領域ゆえ人間の手には負えません。
また
聖霊が来たと分かった時も経験していません。
私ごときが聖霊が来たかどうか分かるとは思えないです。
癒やされたことを経験していますが、だからといって、
超常からの行為を決めつけることはしないほうがよいと思っています。
 
もし聖霊なり啓示が直接降りた時には
想像ですが、聖なる御方にとらえられて
使命が終わるまで離れること叶わず
そのとき私は、
もはや私ではなくなるのかもしれない
と思うくらいです。
 
つまり
聖なる直接体験を欲しがる前に
私たちは
聖なる御方が来たのかどうか
自分に分かるだろうかと考えるべきなのです。
そういう思考こそが信仰者の敬虔というものなのです。
 
信仰者は
人間として手に負えない超常や完全や絶対は神に任せて
人間として手に負えることを信仰として追求するべきです。
 
一方で
何らかの人生の成り行きや
聖書を読んだときの感動や
言葉やアイデアが浮かんだ時などに
これは導きかもしれないと思うことはあるでしょう。
そのような信仰の体験を
自分で勝手に聖なる超常直接体験と結び付けるのではなく
柔和で敬虔な心ならば
ひょっとしたら神様からの賜物かもしれない
という喜びをもって受け取り感謝して
さらにその後の導きを祈る機会とするのがキリスト者だと思います。
 
 
(2018年10月24日)
 
迂闊(うかつ)
 
 
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  自分信仰の憲法
 
   神の国の憲法
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28762313.html
    by shalom (以後、シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
意地になっているのでしょうか。前にも似たような・・と思いますが、シャロームは、長い記事を書いています。書く資格はないと言って、その根拠をいくら示しても、シャロームは、自尊のために書いてきます。
 
そして、またしても、批判だけでなく、引用記事によっても、斬られているのです。
 
引用記事には、人の話を聞いたかどうか、神の意志を無視していないか、についての反省が、教会のオーナーであるところのキリストの名を通して、書かれています。
 
シャロームは、反省を表したことがありません。この記事においても、反省は書いていませんし、今までも書いてきませんでしたし、反省の経過と結果が、良き訪れとして、今に至るまで、一度も表れてこなかったことが根拠です。
 
>《shalomのコメント》
 

ここ数年、日本の政治はモリカケ問題で混乱に次ぐ混乱をしてきたようです。
問題の本質は森友学園や加計学園ではなく、政治の私物化が問われているのです。
政治はこの国の主権者である国民が選挙によって選んだ人に、
この国を治めるための権威、権力の行使をゆだねることです。
なによりも大事なことは国民がどのような国とするかというビジョンが必要なのです。
ビジョンがなければ、政治権力はいとも簡単に私物化され、腐敗します。
日本はどのような国であるべきかという事がビジョンであり、憲法なのです。
国民に憲法によって示された日本のビジョンが明確でなければ、
選挙が私利私欲で選ぶことになり、国が乱れます。
この国の政治が乱れているなら、その原因の本質はここにあると知るべきでしょう。

 
シャロームの、盛り掛けボロクソ節です。いつも迷惑な盛り蕎麦の短絡麺です。
 
>問題の本質は森友学園や加計学園ではなく
 
暴言と言ってよいでしょう。シャロームは、自説を優先させるために、疑惑の対象を本質から外そうとするのです。そして、何度か言ってきたところの、私物化、という、今さらのような、単純で幼稚な言葉を、さも本質であるかのように見せかけようとしています。単純で幼稚なのは、シャロームですが、ここでも、記事を書いて、読者に、彼の無駄な空論に時間を費やさせているのです。
 
さらに、シャロームは、政治について、ビジョンについて、憲法について、誰に対しても語る資格はありません。自分の信仰についてさえ、批判に対して何も答えようとせず、嘘を吐き、批判者を侮辱するような者が、今も自己顕示欲のために、大きな問題について、教える上の立場から吐き出してくる文言は、腐敗の臭い尿失禁に過ぎないと申し上げます。
 

神の国のビジョンは主権者である神によって示されています。
神が治められる神の国のビジョンを信仰によって受け容れる人がその国民です。 

 
このように、どんな語り口でも、結局、シャロームは、自分信仰の誇大妄想に結び付けて、自分は、分かっている、知っている、見えている、自分は教える立場だ、と大言壮語したいだけなのです。
 
そういう魂胆が、批判によって、返す言葉もなく、既に明らかになっているのに、腐れ尿の脳循環によって、彼だけが気づかないでいる始末です。
 

神の国は主権者である神によって治められますから、統治の方法が異なります。

 
このように、神の啓示があるから知っているんだい、と言い張る迷惑偽善者は、超常の神の仕組みを、得々と語り始めるのですが、
 
>神は神の国の憲法として、たった一つの戒めを与えられました。
 
このように、造語を好み、好きなようにでっちあげるのが、シャロームです。憲法という重要な言葉さえ、自説を宣伝するために、神の憲法、という言い方を捏造し、自説にくっつけるという乱暴で節操のない無知と無恥を覚えてください。
 
シャロームが、いかに、他者を、物か何かのように軽く見なして、ガラクタのように扱い、あざ笑って生きてきたか、ということの根拠を示す一つの証拠です。言葉の扱いに、いい加減な奴は、人の扱いにも、いい加減なのです。
 

【新共同訳】創世記には次のように記されています。
 2:15 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
 2:16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
 2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」このたった一つの戒めがエデンの園の生きるすべての人に与えられた憲法だったのです。
人が神の国に生きるには神に対する信仰によってのみ生きる者とされたのです。
しかし、人がたった一つの戒めを破ってしまい、エデンの外で生きる者となり、
人は神に対する信仰によって生きることを捨て、自分の善悪の基準によって生き始めたのです。

 
そして創世期の話になります。つまり、政治の話は、導入の材料に過ぎなかったということです。こういう無礼を、シャロームは平気でやってくる人です。
 
このようなスタンスをキリスト者が持っているなんて思わないでください。
悪性度の高いシャロームを含む偽善者の類が持っているに過ぎないのです。
 
>人がたった一つの戒めを破ってしまい、エデンの外で生きる者となり、
 
シャロームは、全ての罪を、愚かなアダムとエバが間違えたから、ということにしてしまいます。アダムとエバの失楽園が、今生きている私たちの原罪の問題であることを明記していないのは、シャロームが、原罪と自分の罪について、まるっきり考えていない証拠です。
 
シャロームは、御言葉を食べ、消化不良のまま、糞尿を投げつけています。
 

神がご自分の国として創造された世界が神の国と人の国に分裂したのです。
神がご自分の栄光を表すにふさわしいものとして創造された世界は
信仰によって生きる神の国と人の善悪によって生きる人の国に分裂し、
人は神の国に信仰によって生きる人と人の支配のもとに生きる人とに分かれているのです。

 
ですから、シャロームは、聖書を受け取っておらず、自分の善悪によって生息して、しかも、それを信仰?と呼び、かつ、福音伝道?の名をもって寄生する病原媒体であります。
 

そこで神は神の国に生きる人のために、さらに新たな戒めを与えられたのです。
エジプトという人の支配のもとにある国の奴隷として生きていたアブラハムの一族を
約束に従って一つの神の国として育てて、エジプトの支配から解放し、
神の国、祭司の国として約束の地へと導き入れるために、シナイの荒野に導き、訓練し、
神に対する信仰による歩みを導き、神の国の新たな戒めとして十戒を与えられたのです。

 
そして、シャロームは、自らを省みることなく、救いの仕組みを、心を持ち合わせずに辻褄合わせをすることが、いかに殺風景を生み出すか、という典型例になっています。つまり、皆、他人事の遠い話として、自分を安全圏に置いた聖書語の羅列に終始しています。自分という人間を内省し、罪を洞察し実感するプロセスが、まるっきり抜けているのです。
 
これは、人間としての共感を必要ではないと言って、捨て去って、もはや共感の欠片も持ち得なくなったシャロームの常套句の語り口になっています。
 
シャロムの視野ROMからは、いつも、同じような聖書語しか出てきません。
 
自分を斬る、魂を砕かれる、という、ひとかけらの敬虔も示せないで、丁寧語に満悦する脳髄から、分かっている、自分は偉い、という傲慢を隠すのもシャロームの体質ですが、丘の上にでも立って見下ろしているつもりで大言壮語している所から、食傷から食中毒への排泄と悪臭を垂れ流しながら、自分の痛みは過剰に感じても、決して人の痛みを感じない者が、一切響きのない平板へと滑ってゆく病理を表しています。
 
>第1戒~第5戒 神を神とするために人が守るべき戒め
>第5戒~第10戒  人が人に対して守るべき戒め
 
シャロームの引用は、大言壮語の言葉足らずを補ったつもりの聖書語だのみとして無駄に長いので
ウィキペディアから内容を引用しておきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%81%AE%E5%8D%81%E6%88%92
 
 「 引用始め
 
正教会・聖公会・プロテスタント(ルーテル教会以外)の場合
 
1.主が唯一の神であること
2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
3.神の名をみだりに唱えてはならないこと
4.安息日を守ること
5.父母を敬うこと
6.殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
7.姦淫をしてはいけないこと
8.盗んではいけないこと
9.隣人について偽証してはいけないこと
10.隣人の財産をむさぼってはいけないこと
 
カトリック教会・ルーテル教会の場合
 
わたしはあなたの主なる神である。
1.わたしのほかに神があってはならない。
2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4.あなたの父母を敬え。
5.殺してはならない。
6.姦淫してはならない。
7.盗んではならない。
8.隣人に関して偽証してはならない。
9.隣人の妻を欲してはならない。
10.隣人の財産を欲してはならない。
 
 引用終わり 」
 
やはり十戒は、十の戒めが皆、神を神とするために人が守るべき戒めだと思います。
 
ここでシャロームの記事は終わっています。
 
シャロームは、自分は十戒を守っているとでも言いたのでしょうか。
守っているなら、キリストが来る必要はなかったはずなのですが。
 
神の国の憲法と言いながら、シャロームが、自分信仰ゆえに、全く書いていないことがあります。
 
私たちは、信仰者でも、求道者でも、しばしば十戒を破っている
ということと、
 
聖書の時代には、
指導する立場の者たちが、十戒を守っていると誇りながら、
潤いも温もりもない儀式的な戒律主義という偽善の罪を犯していたために、
神は、キリストを遣わした、という理解です。
 
罪の贖いは、神の前に、罪を告白し、罪人である自らを正直に表した人間のために、赦しとして行われ、それを信仰の義、つまり信仰義認と呼ぶのです。
 
 
(2018年10月23日アップ、同日一部修正)
 
 
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  無罪信仰?
 
 
罪は十字架の贖いによって赦されて
今は罪はない
あるいは
罪は死ぬまで赦されている
 (罪は前もって許可されることはないし
  何やってもいいよと事前に赦されることもない)
と信じている人が結構いるようだ。
 
今、罪人でないならば
今のままでよいということになる。
 
今、罪がないということは、完全ということ。
 
何を言っても言われても相手が悪い
ということになる。
 
反省をしなくなる。
 
成長しなくなる。
 
人間がそれでよいのか。
 
その前に
自分というものを振り返って
罪はないと本当に思うのか。
 
罪は十字架によって
贖われたから今は無罪
という理屈だけではないか。
実際は
罪を思うのが面倒になっていないか。
 
無罪と思い込むほうが容易い、
気分的にも
すっきりしたような気がするのだろうか。
しかし
それは安易な広き門である。
 
自分の気持ちがよくなるためだけに
その広き門を通って
無罪妄想に浸って思考は停止し
理路は大昔の幼稚なままで
感性も情緒も鈍麻して
同じことを繰り返し言っては
臭い讃美言葉を並べて
信仰を語ったつもりになる偽善者がいる。
 
 幼子のように・・という聖句は
 偽善者によって悪用されているが
 幼稚になれということではない。
 
 余計なものを持たないことだ。
 
 信仰者および福音伝道者には
 可能な範囲で思慮と知恵が必要である。
 
  (マタイによる福音書、口語訳)10:16
 わたしがあなたがたをつかわすのは、
 羊をおおかみの中に送るようなものである。
 だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。
  (マタイ10:16、新約聖書)
 
信仰の狭き門は苦痛の門ではない。
善行が条件になるわけではない。
善行は信仰がもたらす経過と結果であり
信仰において特に意識することではない。
 
自らの善行を自慢し
ダメ人間を罵るのは
行為義認のカルトの所業だ。
 
信仰の狭き門は苦痛の門ではない。
神の前に
自分の欠点も罪も隠さないこと
精いっぱい正直であることだけが要求される。
 
信仰において
罪がなくなるのではない。
罪を赦されるための祈りの道があり
その道が途絶えることはないということである。
 
この希望を絶やすものこそ無罪信仰?であり
その実体は無罪妄想である。
 
 
(2018年10月22日アップ)
 
容易い(たやすい)
途絶える(とだえる)
 
 
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