ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年11月

 
  てんさい自己顕示くん
 
   1946年元旦人間宣言された天皇・皇后の基本的人権
   https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28808872.html
    全部転載記事です。
 
 
シャロームは、転載記事を書いていますが、出典を明記していません。
これは、転載元に対して失礼だ、ということが分からないのでしょうか。
 
自己中心で人のことを一切考えないシャロームらしい乱暴さです。
 
間違って、シャロームが書いたと思われることを期待しているのでしょうか。
だとすれば、自己顕示のための盗人行為なのです。
 
転載記事は、3つの部分から出来ています。
それぞれ、3つのサイトからコピペされています。
ただし、他にも載っているサイトはあるのかもしれません。
 
上)
安倍政権への皮肉か…天皇皇后の外国人激励に飛び交う憶測
https://news.nifty.com/article/domestic/gendai/12136-136298/
他にもあるかもしれないが、ニュースサイトからコピペです。
ここは、特に、いつものシャロームの書き方に似せています。
一見、シャロームが書いたのかと思いますが、読んでみると、とても、シャロームに書ける記事ではないです。
 
中)
官報 号外 昭和二十一年一月一日
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/056/056tx.html
 
下)
秋篠宮さま、大嘗祭の国費支出に疑問
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38317800Z21C18A1000000/
私のブラウザでは、画像の転載に失敗しているように見えてますが、いかがでしょう。
新聞社は、画像については著作権など厳しいのかもしれません。
 
黒ぉい四角が、隠そうとしても出てしまうところの、
シャロームの闇を表しているようにさえ思えます。
  
リンクを張ればクリックして転載元を見られるようにするのが常識でしょう。そこが便利なネットであるのに、そうまで誤魔化して自分の主張であるかのように見せかけたいのでしょうか。
 
 
(2018年11月30日、17時32分アップ、同日一部追加修正)
 
シャロームは、記事とリンクを追加したようです。
 
(2018年12月01日、13時26分)
 
 
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  聖書に向かうとき
 
 
聖書から
神の救いの仕組みや奇跡ばかり受け取っていると
人が何もしなくても
救いは超常から一方的に与えられると
勘違いする方向に向かう可能性があります。
 
確かに聖書には
人知を超えた神の業(わざ)が
いっぱい書いてあります。
 
奇跡ばかりに注目して
人知を超えた神の業に目を奪われがちなのです。
しかし私たち人間は
人知を超えたところを扱うことは出来ません。
 
よく読めば
神は超常など分からない人間のために
キリストの人間に対する共感であるとか
キリストと人間の交流であるとか
キリストに出会った人々に見られる特徴などに
救われるには
どういう人間であればよいか
ということを示しています。
そこを見逃さないようにしてほしいと思います。
 
そこを、すこ~んと見逃した偽善者は
赦され救われるということだけを受け取って
罪は赦されるから気にしないでいいと
悔い改めという信仰の芯を捨てて
罪悪感を感じない人になり
そしてそのことが招く一切の不祥事について
一生涯、反省しない人になっています。
 
このような偽信仰による人格破壊は
自覚も病識も伴わずに進行します。
 
誰もが否定はしないが
心に残る何ものもないような
言葉だけの讃美と感謝を人前で滑らせて
笑いを浮かべ
その偽善性を指摘されると
平気で嘘を吐き
相手を侮辱するようになります。
そして自覚も反省も一切しない人になります。
 
感謝も讃美も
本来、神に向かって唱えるべきことなのに
偽善者は、なぜか人のいるところで、
ブログの記事で、コメントで、
感謝と讃美の言葉だけを大仰に披露してきます。
 
白々しい言葉だけ過剰な讃美の唱え方は
自分を高めて
偉く見せたい偽善者やカルトがすることです。
 
そのあまりの、わざとらしさに、
また、受け取る内実の欠けている空疎さに
また、言行の不一致という実態に
顔をしかめ目を逸らしたくなり、
さらには吐き気を催すようになるのが正常です。
 
直接、相対して
間違いを指摘するのが難しくても
正常であるネガティブな反応を
多くの人が身につければ
白々しい讃美や感謝を武器とすることは
偽善者も出来なくなるでしょう。
 
人間の一生の中で
本気で感謝したいときというのは
いつも崖っぷちで生きている境遇の人を除けば
そんなに多くはありません。
 
聖書に書いてあるから
感謝しなければ、讃美しなければ、と思うのは、
一種の強迫神経症に似てくるということは
実際に私も経験しているのです。
 
感謝と讃美を唱えないと罰が当たりそうで
唱えると義務を果たしたような気持になるときは要注意です。
信仰者の義務は、そこにはありません。
 
どうしても溢れてくる感謝以外
神に対しては不必要ですし
むしろ御心をけがすものだと思います。
 
感謝と讃美をことさら強調するのは
言葉が全てで
言葉だけで信仰を完成させたつもりのカルトの所業です。
信仰?をひけらかして
信仰?が厚いと見せびらかしたい偽善者の所業なのです。
 
神の前に正直に生きてください。
神の前に、いかなる身構えも無意味です。
ただ正直だけが人間からの有効な神への音信です。
 
そこで信仰と偽善が分かれるからです。
救いと報いが分かれるからです。
 
神の前に正直に生きることが恵みなのです。
そうするべき、というより、そうあってよい
という恵みなのです。
このことによって地上の多くの荷が下せるでしょう。
 
神は在って在るものですから、
しょっちゅう感謝される必要もなく
讃美される必要もないのです。
 
聖書を読んで、
神の前に不正直であった者が
救われたことはないということを
学んで覚えてください。
 
聖書を読んで、
神の前に正直でありえた者だけが
救われていることを学んで覚えてください。
 
その分かれ目において
もはや洗礼の有無さえ吹き飛んでしまうのです。
 
正直とは
正確に事実を言うことではありません。
故意に捻じ曲げたり隠したりしないことです。
 
故意に捻じ曲げるのはカルトであり
故意に隠すのは偽善者です。
 
信仰の土台は儀式ではありません。
信仰の土台は人の言葉ではありません。
信仰の土台は神の憐れみであり
そしてキリストの愛に答えるキリストへの愛の双方向であります。
 
そこに、故意の偽りがあっては、信仰は成り立たないのです。
 
どうかキリストを儀式の主役にしないでください。
キリストを言葉の駆け引きにしないでください。
さらにキリストの臨在に拘泥しないでください。
 
キリストは
人間が何をどう考えようと
助けと癒しと赦しと救いと導きの必要な人間の正直な告白を待って
いつも身近におられるからです。
 
 
(2018年11月30日アップ)
 
披露(ひろう)
捻じ曲げる(ねじまげる)
 
 
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  比喩
 
 
私は以前
詩のようなものを無遠慮に書いていた時期があって
Hpに書き、このブログにもいくつか残っていますが、
そういう邪悪な表現を楽しみながら
発散もしていました。
 
優れた表現、小説、詩、評論などにおいては
多く、悪と悪魔のイメージがついてきます。
悪を描かないと真実は語れない
ということかもしれません。
 
私に真実を語ることが出来ているということではなく
私のような下手くそでも
善の言葉だけでは善は表せない
ということくらいは知っているということです。
前にも書いたことですが、
良いことばかり言っても、良くはならず、
悪を描いて肝に銘じるほうが
善の追求には資するところがあると思っています。
 
キリストが、おんぶしてくれたから
足跡が二人分ではなく一人分しかない
という、foot print と呼ばれる話を
偽善者も好んで使っているようです。
 
この話は、信仰についての、とても良い話なのです。
ただ、この話には、悪が登場しないのです。
信仰者が頷きやすい良い話は
偽善者にとっても都合の良い話なのでしょう。
 
ちなみに、前から批判対象としている偽善者は、
この話を記事に載せましたが、今は削除しているようです。
偽善者は、都合が悪くなると隠蔽するのです。
 
話を戻しますが、
丁寧語で話してくる偽善者について
それは、これこれだから、成り立たない
という、諭すような丁寧な言い方や
理路の説明が、いかに無益であったかを経験しています。
 
そういう場合、考えるのですが、
相手を、正誤の誤、善悪の悪、
つまり邪悪であると思って嫌悪しているのだから
理路の説明ばかりにこだわっていては、
こちらの疲労度に対応した結果は生まれない・・
 
辛辣な比喩のほうが読む人には強い印象として残るだろう
ということで、文章を排泄物、さらには、
相手を指して、下等な動物や、汚い物質に譬える
ということを遠慮していません。
本人が無反応ならば、
読む人が近づくことのないように
広く警鐘を鳴らすべきだと判断しています。
 
例えば
暗いところで、ゴソゴソと動き回る、ゴキブリ、ドブネズミ、
汚い、よだれ、尿便失禁、赤さび、青カビ、酸味、腐敗、臭気、
などが、・・むしろ、相手に向ける表現?としては、当てはまる・・
そのような人だよ・・と、私が言ったということのほうを
根拠とともに、表さないではいられない私の罪業のようです。
 
ということは
多分に私のストレス解消があります。
理路を語っても無駄という繰り返しに
辛辣な比喩を書くと、少しすっきりするような、
あたかも、言い得たかのような、
・・この辺は、私の未熟なところ・・
 
まことに、優等生的な言説は心に残りません。
記事もコメントも、言説が、
偽善者がまるで証であるかのように使うところの
聖句と月並み讃美言葉で満たされているかぎりは。
 
前にも書いたと思いますが、
カルトは
一つの言葉=一つの意味
さらに自分の発した言葉なのに
=神聖、ゆえに、=無謬
ということに拘泥して
そこからしか物の言えない人たちです。
人の言葉の未完成のゆらぎ、などを理解できないところも
すでにキリスト信仰とは、かけ離れているわけです。
 
つまり
良さそうな言葉=絶対的に良い言葉
悪そうな言葉=絶対的に悪い言葉
という考え方しかないので
同じ言葉を言えば気が済むし
否定の言葉に対しては、
自虐、逆説、などと言う説明も受け付けず、
さらなる理解の余地もなく決めつけてきます。
だから殆ど子供の喧嘩になります。例えば、
「絶対違うんだからね!」・・みたいな・・
上に無遠慮、邪悪、と書いたから
だから真理ではない!というような書き方・・
言葉の曖昧も自覚せず言葉の深淵も知らない
ということを、さらに知らない人たちなのです。
因果は、傲慢以外の何ものでもありません。
 
カルトのゲストブックに
「おい!戸田!毎日来てるんだろ。
  何かコメントして帰りなさい。
  扉は開けてる。
 2018/11/23(金) 午前 11:39 Yhoshuah 」
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/GUEST/64580769.html
と書いてありました。
 
信仰について宗教について書いたら、
私の母や職業や病気のこと、
ブログにそっと書いておいたことを、どど~んとばらして、
精神病、ダメ人間、などと罵り決めつけてくるところに
扉が開けてると言われても、誰が書き込むでしょう。議論以前の問題です。
 
ちなみに、このカルトは、他のサイトには書き込まず、
自分のブログだけで、記事を書き、罵り合いを続けています。
よそに書き込んで散々な目に遭った経験でもあるのでしょうか。
ホームだけで、最近、このカルトは、
荒らしクラスの人と親しく罵詈雑言を言い合っているようです。
 
同じ問いを何度も繰り返したり
攻撃として罵詈雑言を書き続ける人は
荒らしと呼ばれます。
意地悪な言い方は、元々の性格でしょうけれど、
さらに、どこでもまともに相手されることがなかったのでしょうか、
これからもないでしょうけど、
経験から、攻撃性が増強され、さらに知恵を付けているのです。
 
荒らしは、一種のマニアであり、技術を持っており、
複数のHNを使って違う人格になりすましていることも多いでしょう。
キャラ設定して言い方も変えているかもしれません。
私のブログに最初に来た荒らしは、
私のHN?!で、私にコメントしてきたのです。
 
悲しいことに、なりすましを証明することは
私の知る限りネットでは出来ません。
 
ゆえに、しかし、というか、ネットでは、
荒らしでないということも証明できないのです。
だから乱暴にコメント攻撃を多数書きまくる人は、
なりすましの疑惑とともに、
ネットにいる限り、一生、
荒らしと呼ばれ続ける宿命であります。
 
二人で議論しているから別人だということも
2つのPCがあれば出来ることです。
マニアくらいになって荒らしておれば、
そういう記事を証拠みたいに用意しておくことも出来るでしょう。
 
「比喩」というタイトルでしたが、脱線したようです。
邪悪な偽善者が、嘘を吐き、自説をキリスト教と偽るなら、
出来る人から、する気のある人から、批判を始めて、
多くの読者、特に、信仰者と求道者に、
警鐘を鳴らしてゆく必要があります。
 
私は、生きているあいだ批判を続けると言いますが、
その時間が、リアルに、健康状態や、ボケ具合などあって、
だんだん短くなるのを、最近は実感しています。
若い人は、カルト、荒らし、偽善者に、十分注意してください。
 
 
(2018年11月29日アップ、同日一部修正)
 
喩え(たとえ、譬え)
証(あかし)
罵詈雑言(ばりぞうごん)
拘泥(こうでい)=こだわること。拘る(こだわる)
 
 
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  サイコパスプロダクション
 
 
サイコパスと言われている人格は
一般に、生まれ育つ過程で
虐待を受けることなどによって
必要な罪悪感や反省力が身につかないために起こる
と言われているようですが
 
カルトや自分信仰の
偽善的確信に導く教えの類は
まさに
思春期以降
さらに成人までも
サイコパスに変えてしまうものです。
 
無抵抗な子供でなくても
心に弱みを持つ人や
受けの姿勢で救いに飢えている人に
カルトは囁き掛けるからです。
 
一部の弱者などと思わないでください。
弱みを持つ人とは、善くなるか悪くなるか、
まだ分からないものを持ち始めているところの
信仰者である私たちと求道者でもあるのです。
 
そうだったのです。
何か、うんざりすることや環境が
どうしようもなくあって
そこから逃れたいという欲求があって
聖書とか教会とかいった言葉に
すでに惹かれ始めていた頃の私なのです。
 
心のそういう弱い部分というのは
信仰者になってからも
全て悟って
みんな解消したというわけではなく
むしろ
その弱い部分こそが神が憐れむほどに
大切な自覚となってきている私たち
キリスト信仰者なのです。
 
弱さということが
忌み嫌うべきことだから捨てなければならない
と強いて来る行為義認がカルトであり
 
一方ではキリスト教?の曲解から
弱くても神は救ってくださるから心配ご無用
と罪悪感や反省を捨てて
ありがたや信仰に走るのもカルトであります。
 
神は御自ら人を造り
ご自身よりも弱いからこそ守り導こうとします。
人の中でその弱さを自覚して
神の前に故意に偽ることをしない人が
神によって信仰と伝道の道を与えられます。
 
神の導きは現象としては成り行きとして経過するので
その導きを人が知って歩むことになっているとか
決めつけてはいけません。
いかなる導きか人には分かりません。
しかし、折に触れて、
あれは導きだったのでしょうか・・と思うことはあるでしょう。
 
救われる人に共通しているのは
弱さの自覚があること、
あるいは弱いとしか思えない立場であることが
聖書には書かれています。
そして今もそのように経過しているのです。
 
 
特に弱さについて
人間的共感、人間としての共有、
そういった人間ならばできるはずの、
神の前に
いちばん捧げられるべき大切な心の弁えを
捨ててしまったところにカルトはあります。
 
罪は赦されるから気にしない
とか
完全になれるのです
とか
高みのワンサイドから単方向に
訂正不能を真理として擦りこんでくるような
秘密の闇の生業がカルトです。
 
御言葉絶対から
御言葉解釈絶対へと導いて
一字一句間違いのない確信のつもりの
自説絶対へといざなう広き門から
底なし沼への
ぬるぬる坂を堕としてゆくのがカルトです。
 
カルトは伝統宗教に似せて作られることもあり、
また伝統宗教の中からも生まれています。
 
 
そして大事なことは
原罪に塗れて
救いをキリストに求めている私たちも
ときにカルト的発想やカルト的理路を辿ることはある
ということです。
めんどくさくなると
断定して豪語したくなります、
讃美と感謝で日常を満たそうとします、
いけない、いけないと、邪念を払おうとして、
かえって教理の袋小路に向かってしまい、イライラする、
これも、私たちです。
 
どこがカルトと違うかというと
分からなくなった場合の逃げ道があることでしょう。
それは
迷いも邪念も袋小路もイライラも
全て正直に告白して赦しと癒しと導きを乞うところ
すなわち祈りという避け所があることでしょう。
 
 
カルトや偽善者にとって、避け所は、
自らがねつ造した自己確認のねぐらに過ぎません。
 
人の弱みを見つけては
そこににつけ込むのがカルトです。
日夜、丁寧語の世辞か、逆に罵詈雑言によって、
カルト信者をプロデュースし、教条をプロテクトしています。
プロテストされ都合が悪くなると
神?の避け処?などと言って
自らの垢と排泄物の溜まっている安穏の沼に逃避します。
そしてまた、何事も無かったかのように
白々しく丁寧な挨拶から始めて
人の作為のおぞましさを体現してゆくのです。
 
 
人の弱みを洞察して憐れんでくださるキリストが
命を賭して導いてくださる信仰です。
 
キリスト信仰は
罪人を憐れんで神が用意されるところの
祈りを避け所とする信仰であります。
 
 
(2018年11月28日アップ、同日一部修正)
 
囁く(ささやく)
塗れる(まみれる)
生業(なりわい、せいぎょう)
垢(あか)
安穏(あんのん)
produce = 生産
protect = 保護
protest = 抗議
 
 
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  可知と不可知
 
 
信仰において知るべきことは、
可知と不可知を分けることである。
 
可知は、
人間が人間性によって分かること。
すなわち、人間の心、
キリストと交わった人々の心、
キリストの人々への共感、
キリストの洞察力。
個人に起こる魂の奇跡。
 
不可知は、
神とキリストの意志と計画、
神とキリストの奇跡、
終末に訪れる神の国。
 
人間にとって確信とは、
その時々に
これしかないと思うことである。
信仰についてもこれ以上ではない。
 
人間が確信してはいけないことは、
神の存在ではなく、
神の意志と行為についての確信である。
 
何故なら
神の確信は不変であり
絶対であり、永遠であり、
それらは
人間が持つことも
人間が保つことも出来ないからだ。
 
可知と不可知を分けよ。
私たちは、たかだか、
推測し判断するに過ぎない。
 
私たちが過ぎ去るところに
未練がましく
人間の確信の墓場を残してはならない。
 
私たちは
神から頂戴したパンの欠片で生きてゆく小犬である。
そのパンこそが
人間にとってこの上ない恵みである。
 
可知と不可知を分けない者たちに
頷いてはいけない。
彼らは、実に、
神を讃美しながら罪を犯し
神の義を詭弁で語って偽善を為し
いつも笑って魂を傷つけている。
 
可知と不可知を分けよ。
私たちは、たかだか、
神の前に跪いて憐れみを乞う存在である。
 
跪きながら、
跪く相手を大仰に語るような不遜であってはいけない。
 
神の前に無条件に跪くゆえに
神の前に飾ることのない者ゆえに
神は無条件の憐れみをくださるのである。
 
自分信仰者や偶像崇拝者や偽善者は
理解することはないだろう。
彼らは憐れみに見せかけて嘲笑うだろう。
 
しかし神の前に謙る者は
神の前に人間の弁えを知るゆえに理解するだろう。
 
 
(2018年11月27日アップ)
 
頷く(うなずく)
跪く(ひざまずく)
嘲笑う(あざわらう)
謙る(へりくだる、遜る)
 
 
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