ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年11月

 
  一喜一憂
 
   一喜一憂からの解放
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28803027.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
どんな決定的な証拠を示しても、シャロームは無視して、訂正不能に、同じことを言い続けるのが信仰だと思っている、ということが分かる記事です。信仰の敵というより人間の敵かもしれません。
 
シャロームの話は、前から私が言っている、ボロクソ節と、最近分かったこととして、何があっても、良かった節、という2つで出来ているようです。
 
塞翁が馬(さいおうがうま)の話を書いているようです。割と有名な話で、幸不幸は変転して、予測できない、という、たとえ話です。
 

面白い話ですが、ここから何か教えられることがありますか。
目先の結果だけを見て、一喜一憂している人たちがいる。
一方で、それに対して、その先を見ようとしている人がいるのですね。

 
上の、たとえ話自体が、あまり一喜一憂しないほうがよい、と教えているのです。
先を見るとか先を見ようとすることが必要だという話ではないです。
人間は、そんなに、先のことは予測できないからです。
 
>1テサロニケ5:18
 
文章で引用しないのですか、ってことで
 
 (テサロニケ人への手紙、口語訳)5:18
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。
 (テサロニケ5:18、新約聖書)
 
それで、シャロームは、どんな悪いことしても、嘘を吐いても、人を侮辱しても、神に逆らっても、何事も無かったかのように装って、神に感謝して、人間とは思えないほど、相変わらず、いつも喜んでいられるのでしょうか。
 
総てのことに感謝するなんてことが人間に出来るでしょうか。無理にそうしようと思えば、今まで何度か書いてきたような、極めて不自然な、いつも薄笑いを浮かべた悟り顔の、実際には感情の起伏の乏しい、むしろ、何らかの病理を感じさせる人間になります。
 
したがって、この聖句は、文字通りには受け取れない、ということになります。
 
 (テサロニケ人への手紙、口語訳)1:5
なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。わたしたちが、あなたがたの間で、みんなのためにどんなことをしたか、あなたがたの知っているとおりである。
 (テサロニケ1:5、新約聖書)
 
パウロは、伝道の実績をもって、励ましているというべきではないでしょうか。
 
聖句を見ると文字通りに受け取り文字通りにするのが信仰だ、という、鵜呑み思い込み信仰が多すぎます。人間として・・という前提を考えないと、どんどん異常な精神世界を作り出すことになるでしょう。
 
《shalomのコメント》
 
>私たちは一喜一憂します。
 
当然のことなのです。生きておれば、嬉しいことにも出会い、困ったことにも出会うのです。例えば、「(何かの)速報に一喜一憂する」と言うように、当たり前に使われる言葉です。
 
シャロームは、これを異常だと思っているようです。一喜も一憂もしないのが信仰だと思い込めば、シャロームのように、何も感じないで、人間離れした対応をして、異常に気づかず、何をしても後悔も反省もしないで笑っている人になります。
 
一喜一憂がよくないのは、些細なことで、その度に、感情が不安定になる場合です。
 

なぜなら私たちはいつも形あるもの、目に見えるものに
目と心を奪われているので一喜一憂してしまうのですね。

 
目と心を奪われるな、と言いたいようですが、シャロームの場合、自分がしたこと、自分が言ったこと、自分が言われたこと、など、自分の周りに起こったことに対して、完全無視ですから、一喜一憂しないほうがよい・・どころではないのです。
 
シャロームは、たとえ話を、理解せず、悪用しています。こういうことは、聖句についてさえ、シャロームには、珍しいことではありません。誤解と曲解で出来ている精神構造のようです。しかも、そこで固定しているのです。
 

目に見えるものはどんなに私たちの心をひいても、移ろいゆくものです。
それに私たちの心は目に見えるもので満たすことのできない底なし沼のようです。

 
ボロクソ節です。
目に見えるもので満たすことが出来なければ底なし沼になるのでしょうか。シャロームのように、満たすものが何もないことに気づかず、神が満たしている、平安が満ちている、と言っている人こそ底なし沼でしょう。
 

日産のゴーンさんと言えば高額所得者として有名ですが、
どんな高額所得をもってしても心は満たせない悲劇、喜劇が起こっているようです。
神さまは見える素晴らしいもので天地を創造し、満たされましたが、

 
全か無という理路しかないシャロームが語れば、ボロクソ節と、良かった節、になるわけです。
 

人の心はモノでは満たされないので、心を見えるモノで満たそうとしてはいけません。
それを食べるとかえって飢えと渇きによって死んでしまうと言われたようです。

 
1行目は、モノで心を、満たすな、何故なら満たされないから、と言っています。
 
いい加減な書き方をしています。
「言われたようです」と書くのは何故でしょう。聖句なら、なぜ引用しないのでしょう。
 
飢えもせず、渇きもせず、いつもニコニコ笑って、人を侮辱している者もいます。
 

神さまは土塊で人をつくられましたが、神のいのちの息吹を吹き込んで、
人は神の言葉であるいのちのパンを食べて生きる者とされたのです。

 
これが、良かった節です。土塊で造られ、いのちの息吹、神の言葉、いのちのパン、生きる者とされた、・・これを書くだけでは、中身がない、人間が生きるうえで何の良い影響も糧も受け取れない、という空疎さです。悪い政治家みたいな、保身のための臭い讃美ということになります。
 
シャロームは、聖書を読むときに、理解を深めることではなく、クリスチャンが気に入ってくれそうな、少なくとも否定できないような、超常言葉の美辞麗句だけを漁ってきたのではないかと思われてきます。
 
シャロームは、ペテロがお気に入りで、堅実な信仰でありながら、しなやかな信仰、などと言っていましたが、その表面だけを真似ようとしたのでしょう、訂正不能の硬い項と、酸っぱい讃美の白々しさ、などを身につけて、ある時までは、浅はかにも、私も気づかず、騙されていました。
 

口語訳ヨハ
6:33 神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。
6:34 彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。
6:35 イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。
わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。
6:36 しかし、あなたがたに言ったが、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない。
6:37 父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。
そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。

 
キリストは、赦されたい癒やされたい救われたいと本気で願う心貧しく低き人を拒むことはありません。しかし、思い上がった偽善者、パリサイ人や、シャロームは、欲望のために信じているので、命ではなく、謙遜芝居と裏の闇の尊大さを生むだけになり、キリストの意図を受け取っておらず、ゆえに、信仰の命を自ら拒んでいるのです。
 
それにしてもシャロームは、拒むのは人の側、という私の記事を、読んで受け取って反論と弁明を考える、ということを全くしていないようです。だから、話が進まないし、同じことを言われて、こちらも同じことを、また繰り返して書かなければいけなくなっています。これが自己絶対化の末路なのでしょう。
 
キリストは、わたしがいのちのパンである、と言いました。そして、命を賭して、人々に、私たちに、いのちを与えました。
 
シャロームは、その聖句を引用しましたが、記事やコメントから、彼が命を受け取ったと思えないのは、パンくずを求める小犬としてではなく、人より上に立とうとする欲望から受け取ろうとしたからです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:26
イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
15:27
すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:26-28、新約聖書)
 

【口語訳】ヨハ
14:27 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。
わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。
あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。

 
シャロームは、偽善の道を選んでいるために、平安の代わりに、全てのインプットを無視して、自ら捏造し神?と信じ込んだ無刺激の安穏の沼を、神の平安と呼んでいます。聖句とは全然違って、世が与えるものとは異なるのは、シャロームの自家製だからです。
 
刺激のない世界で、戒めの神を知ることなく、懲らしめの神を知ることなく、無自覚ゆえに、心を騒がせることなく、おじけることなく、人を思いやることなく、理路を考えることなく、情緒の深みを感じることなく、反省することなく、過ぎ行く時を、自分という偶像とともに、日々、ずるずる舐めているのです。
 

イエスによって与えられる平安によって、は与えられるのです。

 
イエス・キリストは、
シャロームのように嘘を吐いて、人を貶め、罪悪感もなく、何も気にしない者に、平安を与える・・などとは言っていません。
 
日本語になっていませんが、
「は与えられるのです」の前は何でしょう。書き忘れでしょうか。
推敲をしないのでしょうか。後で何か加筆するつもりでしょうか。
ユーモアのつもりでしょうか。何かの小細工でしょうか。
分からないですかという意地悪な問いかけの笑いでしょうか。
自らの置かれている状況を弁えなくなると、こうなるのでしょうか。
気色の悪い陰謀家でしょうか。変質者の、おふざけでしょうか。
 
自作の安穏を神の平安と呼ばないように。
自作の不感不応の安穏をキリストによって与えられたなどと言わないように。
「イエスによって与えられる平安によって」は与えられる
という、小細工どころではない人の、小細工・・しなくても一緒の。
また、ニヤニヤ笑っているのでしょうか。
謎をかけるような言葉遊びで、罪も偽善も、なくなるなんてことはありません。
こういうことで笑えるのは、気心知れた仲の場合なのです。
状況を考えないで平気で書いてくるのは、良心のないサディストの精神ですね・・
 
自らの置かれている状況を弁えない者が奇妙な書き方をすると、
その意図を巡って、あらゆる疑惑の対象になるということです。
 
シャロームは、荒らしのように他のブログに攻撃的コメントを多量に書き込むことは稀ですが、基本的には、人を見下している荒らしと似たような精神の持ち主です。だから、荒らしと付き合えるのだろうと思っています。
 
シャロームは、実際は、荒らしと仲良くした時点でOUTと言ってよいのです。普通の精神を持っていたら、荒らしに攻撃されることはあっても、荒らしの応援を喜んだりはしないし、荒らしと付き合ったりもしません。
 
「 > st5402jpさん
 お帰りなさ~い!せっかく易坊さんから親切に声をかけてくださったのに、
 何も得るものがありませんでしたか。
  ・・・
 2016/3/31(木) 午後 8:19[ shalom ] 」
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18423721.html 「いのちのパン」
 
 
私たちは、シャロームのような書き方はしないように努めたほうがよいと思います。
 
 
(2018年11月26日アップ、同日一部修正)
 
漁る(あさる)
項(うなじ)
安穏(あんのん)
捏造(ねつぞう)
 
 
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  修正可能
 
 
私は何度も
修正可能ということを強調してきました。
これは一般的にも
成長するためには必要なことです。
 
とりわけ信仰については
これこそが神の恵みだと思っています。
むしろ
これだけが神の恵みなのかもしれません。
もちろん
人間に分からないところで
神の導きもあるでしょうけれど
人間が認識できる恵みとしては
唯一だろうとも思っています。
 
そして何よりも
悔い改めこそ他でもない修正なのです。
その機会が
一生を通じて与えられていることは
あるとき間違えて
ふてくされて神のもとを去ったとしても
いつでも悔い改めることで
戻ることが許されているということです。
 
その悔い改めをしなくてよい
などというのは
唯一悔いる必要も改める必要もない神に対して
まさに人が神に成り上がろうとする背教
そして反逆に他ならないのです。
 
キリスト者になるとき
洗礼を受けるときには
私の経験から言うと
罪について殆ど分かっていなかったと思います。
教えられるから認めることにした概念のようなもので
やさしい神様、やさしいキリスト、
そのイメージで一生付き合うと決めただけなのです。
 
悟ったかのように思い込み
のぼせ上がり
預言者気取りになって
思考が誇大的になり
世界を相手に
それこそ天国から物を言いそうなほどの
有頂天の陶酔気分があったような気がします。
 
つまり
修正可能は
すなわち折々の悔い改めは
キリスト者になってから
ますます必要になってくるということです。
 
神の民になったから完成ではなく
完全になるわけでもなく
目指すべきは
信仰者として人間としての成長であり
修正可能すなわち悔い改めは必要であり
その機会と
そうしなければいけない機会とが
必ず訪れてくるということです。
 
誰かの解釈を真理として
信じ込むことをしてはいけません。
自分の生きる力になることを
時々に受け取ってください。
たとえその後に人が外れることがあっても
神は
いつでも帰りうる道と機会を用意しておられるのです。
人間が勝手に固定してはいけません。
 
洗礼の機会も大事ですが
信仰を問われて受洗証明みたいな書類を
出してくるような人もいますから
洗礼は絶対ではなく
 
それよりも
善悪問わず陰性の感情が激しくなるとき
怒り、憎しみ、恨み、
悲しみ、失望、絶望、
それらのときに祈りのうちに
慰めと癒しを得て
悔い改めて自らの信仰の姿勢を正してゆくことは
キリスト者の義務というより
神が誰にでも与えている恵みであり
はっきり言えば
洗礼の有無にかかわらず
そのときそこに信仰があるという証なのです。
 
全知全能の神はそれを見逃すことはないということです。
 
 
(2018年11月25日、同日一部修正)
 
折々(おりおり)
証(あかし)
 
 
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  神を恐れる
 
 
前の記事で、次のようなことを書きました。
 
「神は漠然としているのではありません。
 漠然などという言葉を神に当てることは出来ません。
 キリストにおいて神は明らかであり、ただし、
 人の知恵では決めつけられない御方ということです。
 漠然とした神のイメージさえ、人においては正しくありません。
 私たちは、神の正しさを理解してはいないからです。
 神は、決して人の見識の対象とはなりません。
 私たちは、祈り願い、受ける立場でしかありません。」
 
キリストが父と呼び
私たちが信じる神は
私たちが知らないだけであって
漠然とした神などではありません。
 
私たちは神について想い考えますが
それは、不正確な想像という罪を承知で
想い考えるに当たってそうするしかないからであって
信仰の内実において神を対象化してはいけません。
神は
人の想いと思考などという有限が向かうところの
対象に並んでいるような御方ではないからです。
 
神を信じるということは
神についての人の見識の正しさを否定することです。
神についての人の思いを相対的とすることです。
神についての人の情熱を相対的とすることです。
 
神の御心は変わることはありませんが
神について人が思うことは
そのときの思いに過ぎません。
可能性に過ぎないのです。
だから祈りのうちに
さらなる導きを待つしかないのです。
 
神と人の契約とは
赦しと救いの約束であり
人が人らしく
神の前に低い存在であることを自覚しているあいだ
破棄されることはありません。
 
人が神や神の意志と行為を決めつけることは
自分が神と同等だと言うに等しく
人が神の前に故意に隠し事をすることは
自分が神を騙せると思うに等しく
いずれも
人が神の前に低い存在という自覚を失っている姿です。
それは、神に対する反逆であり
ゆえに、その時、人が赦しも救いも拒んでいるのです。
つまり
神と人の契約を破棄するのは
まさに、人の側でのみ起こることなのです。
 
神との救いの約束が破棄されることはありません。
 
あるとき傲慢であっても
そのあと悔い改めて
神を恐れるにふさわしい姿になれば
神の側は破棄していないのだから
救いの約束は恵みとして有効になります。
 
あらゆる生殺与奪の全能を持つ神に気づき
神を恐れること
それが信仰の節操の始まりです。
 
キリストに愛され癒やされることに気づき
キリストを愛するようになること
それが信仰の情熱の始まりです。
 
信仰は人にとって
神がかったと言われるような
超常のものではありません。
 
神は
人が超常を知らないことを
隅から隅までご存知ですから
超常を知らなくても理解と共感が可能な信仰を
キリストを遣わすことで与えられたのです。
 
 
(2018年11月24日アップ)
 
 
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  反逆の偽善
 
   人は神の作品である証拠
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28798921.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
ヨブに出来て、キリスト者ならできるけれど、シャロームには出来ないことがあります。
 
 (ヨブ記、口語訳)42:6
それでわたしはみずから恨み、
ちり灰の中で悔います」。
 (ヨブ42:6、旧約聖書)
 
それで、親族まで登場させて、何事も無かったかのように見せかけ、ごまかそうとします。
 
生きている人間には状況とか事情とかいうものがあります。今の生き方の有り様、最近、どのようなことを考え、かつ、行ったか、そして、どう感じたか、その結果はどうだったか、などということです。その状況に応じて、人間は、悲しくもなり、嬉しくもなるのです。その気持ちは、日々の感じ方や考え方にも影響して、そのことで、人間は、落ち込んだり、またそれを克服して成長もするわけです。
 
ところが、その状況というものを全く無視してしまう人は、どんな失敗も過ちも、悔いることなく、反省することなく、ゆえに、成長することもありません。これからも、前と同じことを言い、ずっと、同じ過ちを繰り返すのです。そういう生き方は停滞ではありません。正常では成長する分を、無にしてゆくので、衰えだけが訪れます。ゆえに、人間の精神活動としての情緒と理性的な部分が現実に対応できず、逆に壊れてゆきます。
 
シャロームは、彼が、今までの記事とコメントに書いて、私が批判記事に書いたように、我を張っては、通らない自説を振り回し、醜い偽善を表して、発言のたびに、矛盾した理路と、崩壊した心性をあらわにしてきました。そして、コメントを削除するという行為は、反対者を亡きものにするという凶行の縮図と言っていいでしょう。
 
しかし、彼は、それを踏まえることなく、今まで順調であり、これからも順調である人のように振る舞っています。それは、すなわち、信仰?として組み込まれた、絶対的多幸気分によるもので、不感、不応、無反省、無修正であり、成長どころか、ひたすら、退化し破壊されてゆく人間崩壊をあらわにしてゆくのでしょう。
 
修正不能に固着した捏造の境地が、どういう白々しさを生むかが明らかになっています。これは、今までもあったことで、これからも、あることです。そして、それは、文面では、穏やかに見えますが、恐ろしい悲劇と加害を、自他に及ぼしてきたし、及ぼしてゆく絶対自己中心に生きる魔性であり、神と等しい境地を人が作ろうとすると、どうなってゆくかという見本なのです。
 
穏やかに笑っているような文章ですが、そのような文章を書いている場合でないときに書けば、都合の悪いことを一切なかったことにしてしまう企図であり、とても見苦しい精神の荒廃を、何も手当てせずに、多幸気分によって代償し防衛しようとする忘却の症候群となります。
 
そういう忘却こそが、ずっと以前から、都合の悪いことを、例えば精神病質つまりサイコパスにつながる虐待の主体と対象という決めつけを平気で相手に当てつけたにもかかわらず、そんなことはしていませんと言って、具体的な指摘を返されて、黙ってしまう結果になり、修正機能が無いから固着し、殆ど体質となってしまっています。
 
また、のどかな情景を穏やかな文章で綴ってよい理由が既に壊れているにもかかわらず、平気でいられる思い込みの世界では、根拠もなく、相手を、カルト呼ばわりしたり、自分に依存していて構ってあげないから意地悪をするのだという自己愛的な決めつけをしたりとか、まるで根拠のないことを、平気で言って、相手を侮辱する、という病巣を、底知れない心の闇に隠し続けることになります。
 
これこそ、まさに、悪と罪よりも、いっそう悪性の、善に見せかけた偽物の日常、すなわち、偽善なのです。日常が偽善になってゆく者の、とても、おめでたい排泄物の温度と湿度と臭気を噴霧している文章です。
 
一切、反省しない、という凝り固まり方を、超常の信仰?のつもりで続けてしまうと、人間は、モンスターになってゆく、という醜悪な例として、自覚なく笑っているシャロームです。
 
 

日本にはまだまだクリスチャン人口は少数だと言われています。
しかし、日本人は一般に神の存在を信じている人は多いのではないかとわたしは思います。
ただし、その神がどういう神であるかは、それぞれまた別であるかもしれません。

 
神を唱える者が、神を信じているとは限らないという実例として、
神を恐れないシャローム、罪を悔いないシャローム、人をあざ笑うシャローム、平気で嘘を吐くシャローム、一切の責任を負わないシャローム、経過と結果が乖離しているシャローム、人の言うことを感じることも受け取ることもしないシャローム、どんな愚かな事を仕出かしても、以前からあり未来もあるかのごとき絶対の無視によって忘却し、そんなことは無かったという気分で、季節を愛でるシャローム、あらゆる不都合な状況を思考から排除し、ですね口調の一方通行で語ろうとする性癖だけのシャローム、等々、
今回も、シャロームは、批判コメントを受け付けないブログで、独り舞台を演じています。
 
ゆえに、
 
>人が漠然とであっても神の存在を信じているのは、
>人間はすべて神に創造されていることの証拠とも言えます。
 
これは、偽善の証拠となることはあっても、神の創造の証拠とはなりえません。
 

この日本には、神の存在を信じている人たちが大勢いるとするなら、そこに希望があります。
その人たちに知ってほしいことは、その神がどのような方であるかということです。

 
それを全く知らない人が、神を分かったかのように語り、故意に欺くこともあります。
欺く者は、神のごとく思い上がった自分自身を語っているに過ぎないのです。
 

神の存在は信じているが、
イエス・キリストのことはよく分からないという人たちも少なくないようです。

 
日々キリストを裏切ることだけに熱心なシャロームです。
 

漠然とした神の存在はある程度信じられても、
目に見えないその神についてあまりにもハッキリと示されると戸惑ってしまうからでしょうか。

 
神について、はっきりと示し得た人間は、いません。
 

あなたは自分の心が見えますか。
目に見えないその心があなたです。

 
何も示していない。
 

その心があなたのからだの中に住んでいます。
そのからだは入れ物であって、からだそのものがあなたではありません。
そうですね。

 
体のどこに心が住んでいるのでしょう。
具体的なことが何も分かっていない所在不明の説明です。
どこが、そうですね、なんでしょう。
 

紅葉の美しい季節ですが、聖書によれば、目に見えない神のことについて、
神ご自身が自分はどういう方であるかを二つの方法で示しておられます。

 
以下の示し方で、受け取れるなら、信仰は、とても深みのないものになります。
このように、讃美として示される信仰の言説は、大方、中身が薄く浅くなります。
 

一つは自然を通してです。
自然界のすべてのものに神の美的センス、バランス感覚、温かい心と真実などが表されています。
創造主はご自分が造ったものにご自分のご性質というものを表しておられるからです。
イエスは空の鳥を見なさい、野の花を見なさい、と言っておられます。
自然を造られたその父がどういう方であるかが分かります、と言われています。

 
思い煩うな、につながる大事な聖句を、陶酔気分を盛り上げるのに使っている印象です。
こういう書き方は、カルトが好むと言っておきます。
 

もう一つ、神がどのような方であるかを表しているものがあります。
実は、イエス・キリストを通して、神はご自分がどういう方であるかを表しておられるのです。
目には見えない神が、目に見えるイエス・キリストという方を通して
ご自身がどのようものであるかを見せておられます。
「わたしを見たものは、父を見たのである」とは、何という大胆な言葉でしょう。
誰が言った言葉でしたか。
そうです。イエスご自身が言っておられます。

 
キリストが、そう言ったからと、人は、神が示されたと分かるでしょうか。
神を、見たい、見よう、見せろ、という欲望に対して、
私を見たではないかと言っているキリストの気持ちが分からないのでしょうか。
 
>「漠然とした神の存在」
 
神は漠然としているのではありません。
漠然などという言葉を神に当てることは出来ません。
キリストにおいて神は明らかであり、ただし、
人の知恵では決めつけられない御方ということです。
漠然とした神のイメージさえ、人においては正しくありません。
私たちは、神の正しさを理解してはいないからです。
神は、決して人の見識の対象とはなりません。
私たちは、祈り願い、受ける立場でしかありません。
(ここは、次の記事で、もう一度、取り上げる予定です)
 
>《shalomのコメント》
 

私もよく観ますが、なんでも鑑定団は人気馬組ですね。
いろんな作品が登場し、鑑定師の方々の知識や鑑定眼のすごさに感心したり、
鑑定される作品の評価に一喜一憂させられます。
人によってつくられた作品には、作者の心が表現されています。
作者の心にふれると、作品に対する感動は深まります。

 
状況から目を逸らすシャロームの卑怯な心が表現されています。
シャロームの心に触れると、その文章に対する嫌悪は深まります。
幸福そうに目先の人参に食らいつく馬の組でしょう。
 

きのう連れ合いとイオンに買い物に出かけました。
いつもより人出が少ないので楽でしたが、
それでも、ひとりひとりの顔立ちを見ると、
ひとりとして似ている人はいないことにいつもながら感心します。
買い物している人の顔がみんなよく似ていたらきっと大変だろうなと思ったりしてしまいます。
私たちはつい比べて評価をしてしまいますが、さすがは神さまの作品だなと思わされます。

 
似ている人はいるんじゃないですか。探してないだけでしょう。
それで、さっそく、神に結び付けて、さすがは神様の作品、とは、どういう讃美なんでしょう。
ちょいと見た感じで、人それぞれと言いたいのでしょうか。
比べて評価もせず、探し求めもしない、不具合頻発のシャロームのようです。
 

天地万物をつくられた神は新しいものや人をつくられるたびに
“よかった”“よかった”“はなはだよかった”と繰り返されたと聖書には書かれています。
みんな神さまのすばらしい手作りの作品なのですね。

 
神が被造物を善しとされた、良かった、よかった、神が造ったのだから良いのだ、だけが、いつまでも、自分には、ついてくると信じ込んでいる、シャロームです。ここまで身勝手なのは、聖書をまともに読んでいないとしか言いようがありません。
 

一昨日のことでした。久し振りに孫娘に会いました。
中3ですから受験生なのですが、あまり勉強が苦手なようです。
それに髪の天然パーマがしきりに気になるようです。
私も受験のことは気になりますが、あまり聞きません。
これから友達とイオンに行くと言っていましたが、
300円しかないと言っていましたので、1000円渡すとうれしそうでした。

 
こういう状況で、親族を出してくるのは、信仰について何も書けないからでしょうか、でも、不遜な、何でも正当化の、よかった節は、上に書いているのだから、やはり作為的なものでしょう。
 

私も勉強が苦手で、公立高校に落ちた身ですし、
その失敗で私は思いもかけない生き方へと導かれたこともあり、
どんなことでも必ず最善の道を拓いてくださる方と出会えればいいなと思っています。
孫娘はかわいい!

 
シャロームは、想像を絶するような偽善の獣道を暴走しています。自分だけでなく他者に及ぼす悪影響は、はかり知れません。しかも、それを、どんな事態でも、最善の道だと信じ込んで自己正当化に走っているのです。それゆえ、今回も、反省しない不感不応において、いわれなき多幸気分を幸福と言いたいだけの記事なのです。
 
独裁者が、子供にやさしい場面を見せて宣伝する、というのと同じ方向でしょう。
その意図で、4行目は、感嘆符とともに、実に作為が、わざとらしく、あざとい・・
 
シャロームは、子にも、孫にも、馬子にも、事情を知らない誰に対しても、顔向けの出来ない自らの陰険で卑怯な状況を、全部、隠していることを、強調しておきます。
 
そういうときに、平気で家族がどうこう・・と出してきて、巻き込んでいるというのは、冷酷な者のすることです。家族を巻き込んじゃいけない、という配慮が出来ないのです。
 
シャロームが、今回のように、家族を、出汁や山車みたいに、ダシに使ってくるときには、いっぱい書くことがありそうです。見かけだけ幸福、という、本性が冷血の卑怯な逃げ方を、決して通用させてはいけないのです。シャロームの騙しのテクニックによって、少なくとも言論上の精神的な、そして信仰上の、実害が、コメント欄でも、明らかに噴出しているからです。
 
正直も誠実もないシャロームの信仰の体質では、猫かわいがりは出来ても、正常な愛し方は出来ないでしょう。歪んだ偏愛になるか、身勝手な従属を強いるようになるか、最悪の場合、憎しみに変わる可能性があります。病的な信仰は、愛を、そして、人間を、破壊します。
 
自己確信の固定、つまり、自分信仰は、愛を破壊します。
信仰が、正常で健康な愛し方を促進するのは、正常で健康な信仰の場合のみです。
 
信仰は、つまるところ、愛そのものだから、ダイレクトに影響してくるのです。
 
 
(2018年11月23日アップ、同日一部修正)
 
乖離(かいり)
捏造(ねつぞう)
あざとい ≒ どぎつい、いやらしく派手な
獣道(けものみち)
出汁(だし)出し(だし)、
出しにする ≒ 自己の利益のために悪用する
山車(だし)
 
 
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  神の国はいつどこに
 
 
信仰者の中には
神は、キリストは、聖霊はと
聖三位のことばかり語ろうとする者がいます。
信仰のことといったら奇跡のことばかり語り
物や肉体に起こる奇跡を信じることが信仰だ
と思っている人もいるようです。
 
神聖の仕組みを知ることが信仰でしょうか。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
神の国について、キリストは、人間たちの中にある、と言っています。
 
神聖の救いの仕組みを知ることが信仰でしょうか。
神が人を救うということを知らせることは福音ですが、
人間が信仰者になることは、どうして起こるのでしょうか。
神が人を救うと言うだけで救いを信じるでしょうか。
 
そうではなく
キリストと人の交わりを知るからこそ
人は救いを求めるのだと思います。
なぜなら、そこにだけ人は
人間に救いが与えられることに実感が持てるからです。
さらに、救われたとさえ感じられるからです。
 
そのとき
神の国は、いつどこに?という問いは
救われたと感じる人にとって無意味になります。
既に見ているからです。
 
仕組みの記録映画のように視聴覚ではなく
知識としてでもなく
人間として既に見ているからです。
 
神の側の話をいくら聞かされても
それは人の側とは、かけ離れた神の業の話です。
 
それが人を救うと言われて奇跡を信じる人、
つまり、救われるという話だけで夢中になる人は、
救われるにふさわしい成長をする気になりません。
 
そういう人は、
総て、奇跡だから救われるのだと、
自動的に救われることを信じてしまいます。
 
最悪の場合、救われる立場から
自分のようになりなさいという話しか出来ず、
神の恵みなのだというだけで、
救いを求める心に答える話が出来なくなるでしょう。
 
そこには愛という言葉はあっても
愛そのものは、ないのです。
 
なぜ、キリストと人が関わった話に、
人は胸を打たれるのでしょう。
 
それは、キリストが、
救いのために犠牲になったという役割でなく
その言行において、教えだけでなく、
キリストと
低さを知るしかない人間たちとの交わりが
溢れる共感を抱かせるからです。
 
キリストと本当に交わったら
人間の心には忘れられないものが残るのです。
 
その大切なものが弟子たちを使徒に変えてゆきました。
 
恵みだけを語る者を、
つまり、恵みなのです、恵みなのです、
ということばかりを繰り返す者を警戒してください。
 
そういう者には、
信仰の芯について、
まだ知らない者と、
知ろうとしない者がいます。
 
後者は、キリスト信仰者ではありません。
憐れみも愛も知らないのです。
だから神もキリストも
救いの仕組みの骨だけの知識だけしか知らない者です。
そこには血も涙もありません。
すなわち人間らしい温もりも潤いもありません。
 
キリスト信仰者ではない偽者は
神の仲間になったかのように思い上がっており
全て知っているという慢心から
学ぼうとしないために成長がなく
やがて自他ともに破壊してゆくのです。
 
そういう者は
世辞の丁寧さによって
見かけの憐れみと敬虔を装っています。
傲慢が
言葉や振る舞いにすぐには見えないことがあります。
しかし
突っ込んで質問すれば答えられず、
しかも分からないとは言わず、
それが一回ではなく重なると
最後には質問者を無視し拒否してくることで分かります。
それが偽善者なのです。
キリストを殺した者たちと同じ体質を持っています。
しかもその不感不応で悔いることのない体質を
不動の信仰だと思い込んでいます。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:12
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
9:13
『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
 (マタイ9:12-13、新約聖書)
 
キリストが引用した言葉は旧約聖書ホセア書のようです。
 
 (ホセア書、口語訳)6:6
わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。
燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
 (ホセア6:6、旧約聖書)
 
したがって、神を知るというのは、神の憐れみを知るということなのでしょう。
 
神の憐れみを知るために必要なのは、
奇跡を信じることでもなく、教理を鵜呑みにすることでもなく、
身近で人間に分かる愛に共感できることです。
聖書ではそれがキリストを動かし
私たちは身近なキリストが施す愛に共感するゆえに
キリストを信じるに至ります。
 
上の例外的な偽善者を除いて
殆どの人は共感できる心を持っています。
 
どうかその共感性を、
儀式的信仰の習慣や言葉中心の教条や
たとえ奇跡体験があったとしても
解釈に詳しくなったとしても
人間の潤いに満ちた温かい共感を捨てて損なうことだけはしないでください。
それが
人間の中にある信仰であり
人間が知りうる神の国に他ならないからです。
 
 
キリスト信仰は
良いことをしたから救われるという行為義認ではありません。
信仰によって救われる信仰義認ですが、
信仰、つまり、神を信じることは、いったい何を意味しているのでしょう。
神を造り主、キリストを救い主と信じる者の信仰とは何でしょう。
救われる唯一の条件とは何でしょう。
 
それは、
自分の罪を認めるがゆえに
神の前に罪深い自分を正直に差し出すことです。
 
聖書の罪人たちは、それが出来たから救われました。
それが救われる唯一の条件ですし、
信仰そのものであると言ってもよいのです。
 
 (詩篇、口語訳)51:17
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。
 (詩篇、旧約聖書)
 
神の憐れみと共感を示す聖句です。
 
 
(2018年11月22日アップ)
 
神の業(かみのわざ)
溢れる(あふれる)
 
 
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