ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年12月

 
  いびりのような当てつけ
 
   「人は人、自分は自分」という考え方 (アドラー心理学)
    
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41442356.html
     by 自由
 
 

*アドラー心理学
 前に記事にしたことだけども、最近はアドラー心理学サロンさんのツイートをよく見てる。
ちなみに、「いいね」と思ったのは、この辺りのツイートだけど、自分なりの感想をちょこっと書いてみたい。(行間は詰めてコピペ)

 
アドラー心理学では、個人をそれ以上分割できない存在であると考えることから、人間の生を、個人という全体が個人の必要な機能等を使って目的に向かって行動している、というふうに考えている。より具体的には、人間は相対的にマイナスの状態(劣等感を覚える位置)から、相対的にプラスの状態(優越感を覚える位置)を目指して行動している、と考えている。
(ウィキペディアより)
 
この正当化は、一歩間違えると、自分がいい気持ちになるための処世術になるでしょう。さらに間違って、人生の指針から信じ込みになると、宗教~カルトに似てくるでしょう。
 
いちばん気楽なのは、人を気にしないことです、ということになると、人との関係で出来ている自分をも気にしなくなります。気楽に、変わり果ててゆく自分に気づかないでいられるのです。これこそ、反省機能を持たないがゆえに崩壊する人間の辿る道でしょう。
 

あなただけは、あなたを否定してはいけない。
たとえ、みんながあなたをバカにしても、最後まであなたの味方でいられるのはあなただけです。

 
違います。自己否定そのものが不可能に近いほど難しいということです。否定しようと思っても否定できないのが自己であります。ゆえに自己否定も自己批判もやめるなら、無頓着、無反省が付きまということになり、その自覚すらもなくなります。
 

自己否定を始めたら、あっという間に人生の迷走が始まる。
「どうせわたしなんて…」と考える価値は無い。
必ず人生は好転する。
https://twitter.com/adler_salon/status/1077899495319302144

 
それで人生が好転するという考えの根拠が示されていません。反省まで辞めたら「どうせわたしなんて」どころか、いつも、「どうせ、ひとごと」と、誰の苦言も気にしなくなります。
 

これは元気をくれる言葉だ。
 自分は、文章を書くときには、ついつい自己検閲して、「これはダメ、これもダメ」などと自分にダメ出ししすぎるところがあるので、この言葉には勇気づけられる。

 
元気ではなく、お気楽人生モードが簡単に手に入る言葉です。「これはダメ、これもダメ」にとどまらず、「こいつはダメ、あいつもダメ」と見限って自己満悦に生きる道です。
 
>気に入らない意見は、無視しましょう。
 
気に入らない意見が人間を育てます。それを無視したら、自己中心に固まってゆく道しかない。
 

人の意見を変えさせようとするのは、無意味です。
他人の考えを変えられる人間は、この世に存在しません。

 
これは、人間は変わらない、変えることは出来ない、と言ってるようなもの。
人の意見によって影響を受けたことが自らを変えさせるところを無視しています。
 
自分はどうやって成長するのでしょう。この言は成長を否定する言葉です。
自分が気に入るものだけで成長するという考え方は偽善です。
 
それに、批判は、批判対象を変える目的だけではなく、当事者以外の読者に警鐘を鳴らすことでもある、ということを前に言ったのですが、忘れているようです。短絡がだんだんひどくなっています。
 

他人の意見がどうも納得いかないのなら、その人と距離を取るしかありません。
他人の課題に介入できないと割り切って、自分のことに集中しましょう。
https://twitter.com/adler_salon/status/1051230439216562177

 
他人の課題に介入できないと思ったら、まず、交流から、完全に身を引くことです。普通でない人を普通だと見なして、社交の交流をする時点で、すでに責任が生じており、、好意的に関わっている証拠になるのです。
 

一応は、どんな意見も聞いておいた方がいいのではないかという気はするが、やたらと難癖をつけてきくるとか、的外れ、嫌味、嘲笑、中傷…というものは無視するのが正解だろうとは思う。

 
やたらと難癖をつけてくるとかいった難癖を、逆に、つけることになっています。
 

どうしてもウマが合わず、相性が悪い相手とは、距離を取るしかないというのもよく分かる。
 間違っていることをしている人に対しては、きちんと意見してあげるのが親切だという考え方もあるけれども、その者が子供ならともかく、大人であれば、一、二度意見すれば十分だろう。その後どうするかは本人の課題。

 
どうするかが本人の課題と言えるのは、一、二度の意見が、あさましいほど軽いものではないことが条件でしょう。短絡と思慮の浅さで、社会通念的な意見を書く人ほど、こういうことを言いたがるものです。偽善者として批判対象としてきたシャロームもそうです。
 
要するに恣意が勝っていて、好きなようにするから、ほっといてくれ、という状態です。
シャロームは、まさにそうでした。受けない、は、やがて、考えない、に、通じてゆきます。
 

ムカつく奴が、頭から離れない?
腹の立つことを言われたり、されても、そんな人のこと考えてはいけません。

 
殆ど説教のような口調ですね。批判者を徹底して無視せよ、と言っているに等しく、もはや、批判の域ではなく、真実追求の学問でもなく、嫌悪に基づく防衛機制のようです。
 

それでは、その相手の為にあなたの大切な人生の時間を使って、相手の欠点とその改善方法を考えてあげているのと同じです。
あなたの為に時間を使うのです。
https://twitter.com/adler_salon/status/1049234916624326657

 
相手の欠点とその攻撃方法を考えているようです。
人の意見を聞かず、受け取りもしなくなるのは、唯我独尊の道です。
だんだん、シャロームとの類似点ばかりが目立ってきています。
そして、知らないことにまで口をはさみ、かつ、人の意見は聞かないと言っているのです。
 

嫌いな人、相性の悪い人のことは、ついついあれこれ考えてしまいがちではある。
不毛な議論に時間を費やしてしまうこともありがち。

 
このように思考停止を促しているようです。不毛の根拠が示されていません。自分が不毛と思ったら、そこで考えることを止めてしまう心理です。保留するとさえ言えないで、当てつけてくるシャロームに酷似してきています。
 

でも、相手方が助言や援助を求めているならともかく、そうではないならば、ああすべき、こうすべきと要らぬ世話をやいても仕方ない。

 
相手の意見を聞くことを、いらぬ世話をやくことと見なすのは、これも短絡でしょう。
 

そういうことに時間を使うよりは、もっと建設的で、愉快なことに時間を使った方がいい。

 
考えないことが建設的だというのでしょうか。考えないで愉快になりたいというのでしょうか。既に、理路の一貫性が失われています。
 

こういう考え方は、こすっからいような、けちくさいような気がしないでもないが、自分の人生を第一に考えた場合はもっともな結論とは思う。

 
自分の愉快さだけを第一に考える、ということになります。
 

失礼な人の相手をしてはいけない。
礼儀もマナーもわきまえないであなたに絡んでくる人に、律儀に対応しても無駄。

 
失礼なのは、どちらか。また、自分が律儀であったかどうかについて無反省な人の態度です。
 

そんな人に好かれようとすることも、分かり合おうとすることも、無意味な努力。
相手にその気がないなら、あなたも律儀に相手にする必要性が無い。
あなたが消耗するだけですよ。
https://twitter.com/adler_salon/status/1069710993326956545

 
好かれようとしていたとは驚いた。そんなこと期待していません。分かり合おうとすることが無意味だというのは、心掛けが足りない自分を考えていない証拠。私は、シャロームによって、ずっと消耗してきたのです。それでも、こだわることで見えてくるものもあるのに、それが嫌で嫌でたまらないと言いたいようです。かなり人に対して、冷淡な切り捨てをする人だと思います。
 

ずいぶん前のことだけど、釣り場の挨拶について愚痴った時に、こんなやり取りをしたことがある。
 「釣り場では、先行者がいたら、挨拶をしてから、釣りを始めるのがマナーだけど、挨拶しても無視する人も多いんだよなあ。不機嫌オーラを出して無視されるのは面白くないんで、今度から挨拶しないことにすっかな」
 「相手が挨拶しないからって、自分が挨拶しなくていい理由にはならんだろ」
たしかに、これは一理ある。たぶん、とりあえずは、こちらはマナー通りに挨拶して、挨拶が返ってきたら通常の対応をとり、無視されたら次からは距離を取るというのが賢明なんだろう。

 
驚きます。カルト批判とか、偽善を批判するとか、真実追求につながることを、趣味の釣りに譬えています。こういう安易な譬え方は、シャロームが引用する文献で、嫌というほど見てきました。
 

人に執着してはいけません。
信頼していた親友であれ、大好きだった恋人であっても、裏切られたり、関係の維持が難しいなら関係を終わらせましょう。

 
人を、好きが嫌いに変わったら、切り捨てて無視して、この記事のように嘲って、悔いない人になりましょう、と呼びかけています。好感が裏切りに変わったら、根こそぎ手を引くか、でなければ、批判するべきなのです。
 

親密度が高いと、関係を終わらせることに躊躇してしまうかもしれません。
しかし、これから先の人生、今のまま嫌な気分で過ごすのはもったいない。

 
自分が、嫌な気分で過ごしたくない、という安楽欲求から、邪魔な人は切り捨てると言っています。
 

https://twitter.com/adler_salon/status/1051367492050857984
これは人情としては、とても難しいことのように思うが、自分の人生を守るためにはやむを得ないことではあるかもしれない。

 
自己保存の権化として、人情をも、犠牲にするのでしょう。すっかり、すり込まれ、感化されているのか、もともとなのか、シャロームにそっくりです。言い訳がましく記事にして納得しようとするところも。
 

毒親、サイコパスとか、そういった話を聞くと、たとえ肉親であっても、友人であっても、距離をとらなければいけない場合があることはわかる。

 
そういう、のっぴきならない話を、他人同士の議論に持ちこんできました。
 

問題を抱えている人に対して、自分が支えてあげたいという気持ちになってしまうこともあるが、そういうことは素人には無理だし、最悪の場合は、共倒れになってしまいかねない。

 
無理です、または、保留します、とも言わずに、この記事を書いた人が言っています。
今さら、どういう素人自覚なのでしょう。
無理なら、無理だからとシャロームにも言って、最初から関わらないことです。
 

やはりそういう相手とは、できるだけ速やかに関係を終わらせるのが賢明ではある。そう簡単には割り切れないかもしれないが、そうしなければ傷付くのは自分だということを忘れてはならないと思う。

 
自分だけは傷つきたくない、相手のことは知らない、と言ってしまう心性には、相手が傷つくことに対して、何の配慮も出来ない貧弱な人格が表れています。
 
途中まで、中立、中庸、スーパーバイザーのような態度を取って、余裕を見せながら、いざ、自分が批判されるとなると、にわかに、心理学という学問の名を持ち出して言い逃れ、しかも、そのことを正当化するとは、まるで、ダイレクトに物が言えない小姑の嫁いびりのような当てつけがましい文章になっています。
 
理路も批判に耐えるほどには理解できず、情感も浅いところでとどまっているような人は、シャロームの狙いである社交の罠にかかりやすく感化されやすいと言えるでしょう。幸福の科学から脱却しても、幸福の心理学に没入して、保身の権化になってしまうのでは、シャロームの「人それぞれ」身勝手保身と、殆ど現象も心理も変わりがなくなっています。独り言を言って、独りで頷いているイメージです。
 
シャロームの普通は普通ではなく魂胆です。自覚がないようだが、受け入れ先として存在することで、いわゆる悪を匿う機能として批判の邪魔になるという偽善もありますから、無駄なトラブルを避けるには、シャロームのコメントをスルーすることです。今後も、シャロームのコメントに、社交を返すようなら、また、当てつけ記事を書くようなら、やむを得ず、シャロームと併せて批判することになります。
 
繰り返しますが、そういう客観性のない自己満足中心の根性なら、HSを抜けた幸いだけにして、畑違いのキリスト教の偽善といった問題には、最初から関わるな、と言いたいのです。
 
 
(2018年12月31日アップ、同日一部修正)
(2019年01月02日、一部修正)
 
権化(ごんげ)
小姑(こじゅうと)
匿う(かくまう)
併せて(あわせて)
頷く(うなずく)
罠(わな)
嘲る(あざける)
 
 
 
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  謎解き?
 
 
現実において超常が起こることを期待して
超常からのメッセージとして
聖書を読むというより解読しようとしている人はいるだろう。
 
しかしそれは人を生かさない。
信仰は謎解きではないので
興味本位は、どこまで行っても興味本位であり、
真実の信仰の求め方としては
的外れであることを自覚したほうがよい。
 
信仰だと思って
神を人の想像で決めつけることは
絶対の神を
絶対ではない人が決めつけることであり
神に対する冒涜であり
神に従う態度の正反対である。
 
そして神から離れた者が
信仰のつもりで神聖の言葉を並べるときには
神聖についての勝手な想像を
口から心に次から次に神としてしまうために
その者は
語るたびに自らの想像を崇めることになり
神から離れてゆき、自らの心を制御できなくなり
気づかぬうちに心が乱れ暴走し
自他を破壊することになる。
 
 
「イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである」(マタイ9:20-21)
 
「胸を打ちながら『神様、罪人のわたしをおゆるしください』」(ルカ18:13)
 
「小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」(マタイ15:27)
 
救われる人は、神と取引をして、結果の保証をありがたがる人ではなく、
キリスト以外に頼るところがなく、キリストに愛された人間として、
できることをし、精いっぱいの正直な告白をして、成長してゆく人なのです。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
人間として誠実を尽くすべきなのに、神の国を知っている分かっていると言いたくて、謎解きのように暗号解読のように、また条文のように聖書を読み、神の国はどこ?、そして終末はいつ?、などと、真顔で詮索して面白がる者たちを、キリストは戒めている。
 
 
※ 
 
シャロームは、錯乱しているのでしょうか。よく分かりませんが、
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41424487.html
でのコメント欄を記事にしているようです。
記事にした目的も意図も書いてありません。
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28839871.html
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28839875.html
 
いずれも既に、私もコメントを書き、私が批判記事として載せているので、
今さら、特に私から書き加えることはありませんが、
シャロームを批判する私の厳しいコメントを出したら、読者が同情して
シャロームの味方をしてくれると思っているのでしょうか。
 
錯乱した偽善者でペテン師で、一度も非を認めず、一度も罪を認めず、いやらしく全てを批判者のせいにして、批判者をカルト扱いして、自分は反省も悔い改めもしようとしないで、嘘を吐き、批判者を嘲笑い、自分の絶対正義を信じ込んで訂正不能になっている自分信仰者、シャロームを見てください。といっても、中身は、私の記事に書いたことと、殆ど同じだと思います。私は、今さら読む気にはなれません。
 
それと、念のために申し上げますが、シャロームを赦さないと私が書いているところがあるかもしれません。それは、あくまで私という人間の日常語のレベルです。悔い改めをしない者を赦すことはキリスト教ではありえないことからの理路のつもりです。
 
シャロームを、永遠に、赦すか赦さないか、という裁きは、神のみの権限であります。
 
私は、シャロームによって書かれた記事の詭弁や自分勝手な偏った解釈を、厳しく指摘することに専念してきましたし、これからもそうしてゆくつもりです。
 
 
 なお、上の自由さんのブログのコメント欄には、続きがあります。
  https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41424487.html
  一部日時省略。一部編集。
 
正直言って、それで、よくカルト批判とかできますね、という感じです。
 
2018/12/27(木) 午後 11:05 st5402jp 返信する
 
 
カルト批判については、自分の場合はその対象はもっぱら幸福の科学ですね。
 
批判の仕方については、以前は教団を厳しく糾弾したり、信者に議論を吹っ掛けたりしてたこともあったけど、
最近はおとなしくなって、かるくツッコミを入れたり、信者との対話を試みるとか、そんな風に変わってきてます。
 
シャロームさんとの挨拶については、
 私は、人との付き合いでは、できるだけ穏和、友好的でありたいと思ってます。前評判はどうあれ、はじめから拒否するようなことはしたくないなと…。
そういうわけで、シャロームさんが普通に接してくるなら、こちらも普通に接することになってます。
 
2018/12/29(土) 午前 8:15 [ 自由 ] 返信する
 
 
>できるだけ穏和、友好的でありたいと
>シャロームさんが普通に接してくるなら、
>こちらも普通に接することになってます
 
私は、それが、決して普通ではない、異常だと、ずっと言っているわけですが・・・無駄のようです
 
自由さんをも批判するようになったのは心苦しいことですが、シャロームの友好的な言葉に、友好的に応じてしまうと、シャロームは、やっぱいこれでいいのだと思って、今までと同じことを繰り返すことに満足してしまうでしょう。
 
もし、自由さんが、シャロームの信仰を是としているのであれば、自由さんはクリスチャンではないのだから無理もないかもしれませんが、そのためでしょうか、シャロームは、このコメント欄を記事にしています。彼の狙いは、私の批判が、いかに辛辣で厳しく残酷か、ということを読者に訴えたいのでしょう。それが功を奏するかどうかについては、私が責任を負います。必要なら、シャロームに対して、改めて反論も批判もします。
 
しかし
 

批判の仕方については、以前は教団を厳しく糾弾したり、信者に議論を吹っ掛けたりしてたこともあったけど、
最近はおとなしくなって、かるくツッコミを入れたり、信者との対話を試みるとか、そんな風に変わってきてます。

 
私が7年闘っているシャロームに対して、この警戒する態度を解いてしまうのは何故でしょう。理路が滅茶苦茶のシャロームに対して、その詭弁の理路を読もうとしないのは何故でしょう。それ以前に、すり込み、煽り、嘘や偽りは、この地上に溢れているのに、まるで、カルトの脅威は去って今は平和、みたいな気持ちになるのは止めてください。脅威は、いちばん厄介な社交の世辞として、目の前にいます。それが偽善の特徴です。
 
記事で批判を続けるつもりでしたが、シャロームがコメント欄を載せているので、私のコメントも実際のコメントであることを示すために、ここにも書くことになっています。
 
宗教や思想に関わる限り、警戒を説くべきではありません。一段落は、次の始まりです。
 
今の時点で、キリスト教についての、すごく浅はかで幼稚なシャロームの詭弁を、警戒もせずに社交のあいさつで受け取れるということは、その方向で、何気なく、詭弁の固定観念を常識として、無意識に、すり込まれつつあるということです。とんでもないことです。シャロームが語り、自由さんが、受け止めていることは、キリスト教でもキリスト信仰でもありません。
 
2018/12/29(土) 午後 5:07 st5402jp 返信する
 
 
(2018年12月30日アップ)
 
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  偽善者の友達
 
   釈迦とイエスの違い
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28839382.html
    by shalom  (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
私のブログを荒らした易坊、および、「バーカ」などの罵詈雑言を遠慮しないエクゼル、といった危ない人たちと、シャロームは仲良しです。シャロームは、今回、易坊ブログから遣り取りをコピーしてきました。
 
(易坊)

イエスは自分が見捨てられても、自分を見捨てた人たちを見捨てませんでした。
どっちがいいとかわるいとかじゃなく、釈迦とイエスの違いはここかも。

 
(エクゼル)

うん、そうだね。でも、キリスト教のそれは建前だ。誰もできないことを尊いこととしている。
 仏教は誰でもできる「捨てる、関わらない」ことが苦を滅することになると教えている。

 
十字架の贖いなど教理を振り回す必要もなく、キリストは、現代では、天におられる存在として、また同時に、臨在する存在として、誰も見捨ててはいないと思います。キリストに無関心か、キリストを見捨てている人がいるだけです。
 
(エクゼル)

聖書に書かれているにもかかわらず、イエスの言葉にもかかわらず、クリスチャンは妻や子を捨てない。

 
全か無の受け取り方です。信仰者は妻子を捨てろとは言っていないでしょう。信仰が、世にある物や人と価値が一致するとは限らないということです。また、そういう場合、この世に執着して、罪を犯しますが、告白と悔い改めによって救われる道が、キリストによって、与えられています。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
10:23
それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。
10:24-25
弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。
イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
10:26
すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。
10:27
イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。
10:28
ペテロがイエスに言い出した、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。
10:29-30
イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。
 (マルコ10:23-30、新約聖書)
 
捨てたものが祝福を受けるというのは、捨てない者が救われないという意味ではなく、すなわち、戒律による縛りではなく、祈りの道が用意されているというのがキリスト信仰です。
 
(エグゼル)
「後の世では永遠の命を受ける。」に対して

イエスのためにすべてを捨てたら「後の世では永遠の命を受ける」んだ。死後の褒美なんだ。死後の褒美が欲しいから捨てるんだ。

 
死後の褒美だけで、キリストを信じる人は、恐らく、一部の夢想家であって、それだけの人は、極めて少ないと思います。信仰は、生きるためにあります。真の信仰者は、魔術のようにではなく、キリストを好きになり、信じ、それなしでは生きられないと言うほどのあり方として、信仰を持っていると思います。
 
(マルコ福音書)

10:32 さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、
10:33 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。
10:34 また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」。

(シャローム)

なぜなら、このことがイエスが人にはできないが、神にはできると言われたことそのものを示しているからです。
そのイエスの苦難、死、よみがえりの出来事の
 そのあとに、弟子たちは
「イエスは自分が見捨てられても、自分を見捨てた人たちを見捨てませんでした。」…というイエスとイエスの言葉の真実を体験したのです。
そのまえの弟子たちはイエスが獄に入れられても、殺されるようなことがあっても、決してイエスを見捨てたり、裏切ったりしないと誓ったのです。
しかし、実際にはみじめな自分を突き付けられたのです。
それが弟子たちのみならず、私たちの本当の姿なのです。
そんな私たちが
「わたしのためまた福音のために」なんだよ。
イエスはイエスのためまた福音のために、すべてを捨てろと言ったんだ。・・・
 と言われても従うことができるはずがないのです。
ですが、やはり、その後のことも、人にはできないが、神にはできるとイエスは言っておられるのです。
 事実、弟子たちはその後みな殉教しました。

 
シャロームは、マルコ10:27聖句の、神にはできる、を繰り返していますが、解説をしていません。何故なら、悔い改めによって赦されるのに、シャロームは、それをしていないからです。
 
(シャローム)

今イエスを信じている私は弱く、相変わらずイエスの言葉に従って命を捨てて従う強さはありません。
が、しかし、自分の弱さを通して働かれるイエスの助けと導きによって、イエスの姿に似たものと変えられる聖化の道を導かれ、生かされているのです。
その道は信仰の霊的戦いの道ですが、
「後の世では永遠の命を受ける。」…という栄化という確かな救いに至るいのちの道なのです。
 確かな救いの道ですが、決してきれいごとの道ではありません。
その救いも「人にはできないが神にはできる」神にのみできる救いの御業なのです。
 神がイエスによって成就される救いは罪のあがないによる新生、弱さを通して働かれる神の清めの働きである聖化、栄化という永遠の命に至るプロセスすべてを指しているのです。

 
シャロームは、自分で何もしなくても、今までのように、嘘を吐いても、罪を犯し偽善を働いても、聖化されると言いたいようです。シャロームは霊的闘いなどしておらず、ひたすらこの世の安楽を求めているだけです。
 
シャロームという化け物が、聖化に栄化にと、神聖の救いの言葉を弄するのは、全部、神が、手取り足取り操ってくれると思い込んでいるということです。したがって、シャロームは、罪の贖いと救いにつながるキリスト者の負いやすい務めさえ、一切果たしていません。ゆえに平気で嘘を吐けるのです。
 
(エクゼル)

キリスト教は「原罪」を発明して、人は生まれながらにアダムとイブの犯した罪を原罪として引き継ぎ持っている。その罪をあがなうのがイエスであるとするんだよ。
ところがね、ユダヤ教はね、「原罪」の概念も存在も認めていない。
イエスの存在価値を高めるために、イエスが登場した意義を強調するために、イエスが神であるとするために、原罪を発明したんだよ。

 
なぜ、ユダヤ教に言及する必要があるのでしょう。キリストによって、キリスト教という宗教は完成されたと信じるのが、キリスト者です。信仰は、それを受けて個人の歩む道です。
 
シャロームの信仰?は、キリスト信仰として、あまりにも外れて、むしろ逆になっているので、キリスト信仰でもなく、キリスト教でもないのです。
 
人が完全ではなく罪を犯す、ということを分かっている人は、原罪を認めることに、それほど抵抗はないでしょう。原罪が発明だと言う人は、自らの罪の性質に自覚がないのだろうと思います。
 
 
(シャローム)
> エグゼルさん

事実と真実の違いについての凡人さんとのコメントはとてもいい学びができましたが、
聖書に書かれたことで、あることは宣教用の物語、あることは事実、あることは作り話だと人が判断するのはその人にとっての真実ということなのでしょう。ですから、エグゼルさんの判断はエグゼルさんにとっての真実だと思います。その上にエグゼルさんの世界観、価値観、人生観が構築されているのですね。

 
真実が人それぞれあってよい、と認めるなら、どこにも存在しないんだよ、と言っているのと同じです。シャロームは、自分の妄想を正当化するために、キリスト信仰をバカにして、破壊しています。そして、人間の良心が追求するべき真実を否定しているのです。それが、シャロームを支配しているのは、キリスト信仰ではなく、キリスト信仰に対する憎しみと恨みではないかと私が思う理由です。
 
(シャローム)

聖書に神による啓示としてイエスの言葉、みわざ、死、よみがえり?など書き記されていますが、誰もひとがそれがすべて事実であると証明はできません。しかし、聖書には証明される方がおられると書かれているのです。神の言葉は人知では理解できませんし、人には証明できませんが、神には証明できると聖書は証言し、その方についてイエス自身もご自分の死を前にして、あるいは死後、よみがえられた後、弟子たちに語られ、そのイエスの言葉が弟子たちに実現した出来事が記録されています。神は時空を超えた方で、今も生きておられ、聖書に書き記されたご自分の啓示された事実が真実であることを今も証ししておられます。イエス・キリストはきのうも、今日も、いつまでも変わらないとの言葉も聖書にかかれています。

 
シャロームが、神は人知を超えた、という時、それは、シャロームが、神もキリストも、何も分かっていませんと言っているのです。分からないなら、分からないと言えばいいのに、分かりもしないのに、人知を超えた、時空を超えた、啓示、証、などと、超常と神聖の言葉をもてあそんで、結局、自分が、何も分からないのに、正しいと、平気で嘘を吐き、偽善を行っているけど、正しいと、言い張っているだけなのです。この幼稚で身勝手な文章の偽りを読み取ってください。
 
(シャローム)

聖書を神のあかしの書として読み、その真実にふれるためには、人の知恵や知識、経験ではなく、イエスが生前、死後よみがえられ弟子たちに遣わすと約束された助け主である真理の御霊の証しが必要だと聖書は語っています。
その事実なしには生けるキリストのからだとしての教会もこの世に生まれ出ることはなかったでしょうね。それ以来今日に至るまで様々な議論が続けられていますが、いまだ決着はついていません。神自ら決着をつけられる時が来るでしょう。

 
神が人に与えた知恵や知識や人生経験という賜物と導きを、何一つ使おうとせずに、真理の御霊の証しという誰も実感できないようなことを、わざと言って、信仰らしく見せかけるペテンの筆致は、昔から少しも変わっていません。
 
このような幼稚な詭弁で言論をなしたつもりでいられる人は珍しいと思います。それは、彼が、自らの妄想を絶対化して固定して、罪悪感をいだけないし、恥を知らないから、何と言われても、同じ愚かなことを言い続けられるのでしょう。
 
シャロームは、
聖霊または神の啓示だから議論の余地がないと言ったことを訂正していません。
罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていいと言ったことを訂正していません。
シャロームは、
最近は、悔い改めが必要だ、と言いながら、悔い改めた、とは言っていません。
悔い改めたという変化が、書いてくる文章に表れたことが一度もありません。
 
以上より、
シャロームは、全く正直ではありません。
シャロームは、キリストを信じていません。
シャロームは、キリストと神の名を、みだりに唱え、利用しているだけです。
シャロームは、
成り立たない捏造妄想教義?を訂正しないかぎり、キリスト信仰を語る資格はありません。
にもかかわらず、今もキリスト者のつもりで発言するという偽善者です。
シャロームが伝道?することを許し、それを皆が真に受けるなら、恐ろしく我がままで無責任で怠け者ばかりの地獄になるでしょう。
 
神自ら決着をつけられる時が来るでしょう。
 
 
(2018年12月29日アップ、同日一部修正)
 
 
 
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  何のアピール?
 
 ナイスしたくなる記事とは? ナイスの意味とは?
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41424487.html
 コメント欄。一部タイムスタンプ省略。一部編集。
 
 
> 自由さん おはようございます
 
身内のけが二か所の病院でレントゲンを撮り、それほど心配なしということでしたが、後日左腕が腫れあがり、再診の結果左上腕骨頚部骨折、左鎖骨遠位端骨折ということが分かり、急遽金属プレート、スクリューで骨接合手術することになってしまい、クリスマス、師走もあわただしく過ぎてしまいました。
 免許更新したりして、ちょっと疲れましたが、今ホッとしています。
ここ4.5年毎年12月にはひと騒動起こっていますが、すべてのことは御手のなか、きのうからまたジムでの運動再開しています。
 今年も残り少なくなりました。お元気でお過ごしください。
shalom!
 
2018/12/27(木) 午前 8:56 [ shalom ] 返信する
 
 
自由さんは、結局、シャロームと親友なのでしょうか。不幸の打ち明け話というのは、そういう関係でなされるものと思っていました。
 
そうでないなら、不幸の打ち明け話は、偽善者が被害者面して、同情を乞う策略以外ではありません。
 
何が言いたいかと言えば、シャロームがシャロームの信仰を表せば必ず詭弁となり、ただでさえ一般の人にはとっつきにくい宗教の話ですから、話し相手がいなくなるのは当たり前のことです。だからといって、当たり前に挨拶と近況のコメントを書いてくるということが、シャロームが、いかに、自分の異常事態を認識していないかを表しているのです。
 前に書きました。何も言えなくなると、しばらく黙っていて、ほとぼりが冷めると思っているから、その後、また、白々しい挨拶から始められると思っていること。
 
懸命に、賢明に、苦難に耐えている自分を表しています。一方で、苦難を与えた自分には、まるで無頓着です。
 
シャロームのコメントの丁寧さから、私は、逆に、彼の冷酷さを見ています。数年騙されたのち、7年批判してきた経緯を根拠として書いています。シャロームの欺きは、ずっと、常識や良識を超えて続いてきたのです。
 
何かを利用して他者の関心と興味と好感を誘うことはしても、
何かを他者と共感することなど考えてこなかったシャロームの態度において、
今後、予測されることとしては、
不運が起こっているが、信仰によって耐えているので揺るがない、というような信仰自慢。
逆に、起こっている不運を、不運ではなく試練であると言って讃美する、これも信仰自慢。
起こっている不運の事実を、悲しむことなく、自分は平気だと示す讃美の信仰自慢。
起こっている不運の事実を、否定または合理化する自己満足で讃美する。
起こっている不運を、何かの、誰かのせいにする呪いまたはボロクソ節。
起こっていることをすべて神の恵み節で合理化するカルト的結論。一見信仰に見えるが、一貫して、罪と偽善の反省と悔い改めなど見られない所が違う。
または、
いよいよバタ狂って、・・コメント書くどころではなくなる。
 
彼が根っからペテン師で信仰も嘘っぱちで他者を嘲笑っている人か、あるいは、本気で救われ恵み妄想を信じ込んでいるカルト自分信仰者かも、どちらも反キリスト信仰の偽善でありますが、表れてくるかもしれません。
丁寧語と聖書語に騙されないようにします。
 
ここに至って、私が、同情ではなく、このような冷たい態度で書かなけらばならないのも、シャロームが、一度も悔いることがなく、一度も非を認めず、一度も弱みを見せたことのない7年間の経過の必然であります。
 
2018/12/27(木) 午後 6:35 st5402jp 返信する
 
 
>shalomさん
 
 こんばんは。
 病院で、心配なしと言われたのに、そうじゃなかったというのは、本当に大変ですね。
それにしても、そういう話は他でも聞いたことあるけど、病院にはしっかりしてほしいなあ。
ご身内の方の快癒をお祈りしてます。
 免許更新、お疲れ様です。
ちなみに自分の方では、これといった変化もなく、同じような平凡な日々が続いてます。多分、これが幸福ってやつですね。
 
では、よいお年を!
 
2018/12/27(木) 午後 8:10 [ 自由 ] 返信する
 
>stさん
 
 こんばんは。
 自分としては、シャロームさんとは、ネット上の知人という感じと思ってます。
あと自分の印象では、シャロームさんは、さほどのコンプレックスもなく、人馴れしてる人のような気はします。
だから、身内のこと、プライベートなことも、さらっと書けるんじゃないかなと…。
 
2018/12/27(木) 午後 8:14 [ 自由 ] 返信する
 
 
(ここから私のコメントです)
 
> 自由さん
>コンプレックスもなく、人馴れしてる人のような気はします。
 
 私、シャロームにコンプレックスがあるとか書いてないと思いますが。シャロームは、社交と挨拶と世辞が得意ですから、人なれしているわけです。近況報告のような文章が得意なのです。
シャロームが、さらっと書けないのは、信仰についてです。書けば、必ず自己の解釈絶対の詭弁になっています。それを神の御心とばかり、繰り返すだけです。人間に分かる理路や共感ではなく、結論から始まるだけの文書を、私が説明しても、自由さんが見抜かないのは残念です。
 
>自分としては、シャロームさんとは、ネット上の知人という感じと思ってます
 
あれだけ多くの遣り取りを見て、シャロームを知人と受け取っているというのは、危機感が薄いと言うか、騙されやすいと言うか、殆ど理路を読み取っていないのではないでしょうか。人の心の隙間に、やさしい言葉で入り込んで、間違ったキリスト教信仰を吹き込んできたのです。
 
シャロームは、挨拶と近況報告で、知人として付き合うのが大好きです。ずっとそうです。それにわざわざ嵌りこんでいる自由さんは、もうすっかり中庸主義から、シャローム仲良しになっているようですが、シャロームが唯一得意としている社交に付き合うというのは、ほぼ彼を受け容れていることになり、シャローム本来の隠している偽善と嘘の持続を許容することになるという考えが出来ないのでしょうね。
 
私も数年間、やさしい聖書の先生として敬意を払っていました。なんか、おかしいと思って、本質に突っ込んで行って、ようやく偽善が露わになって来たというのが7年前です。
 
つまらないことですが、シャロームの記事やコメントを題材にした私の記事は、一応、参加人数は少ないですがブログ村のトーナメントにその都度参加して、回数も少ないけれど何回か優勝したこともあります。一般読者つまりブロガーにも、あの白々しい詭弁は、ある程度は理解され、伝わっているのですが、自由さんには伝わらなかったようです。私の記事も読んでいないのでしょうね・・まあ、それはしょうがないですけど。(下の画像参照)
 
シャロームがもし私ところに挨拶でも入れてきたら、何を気軽に挨拶しているんだと始めて、それこそ10コメくらいの批判レスになるところです。
 
自由さんは、社交で話題を逸らせるというシャロームの手練手管に、社交を返しています。このコメントも記事になるでしょうが、既に今日の記事にも表れていますが、やむを得ず、自由さんのコメントも批判対象になってゆきます。
 
シャロームは、たぶん、すごく丁寧な言い方で、私のことを挨拶入れたくらいで批判する荒らしという意味のことを言ってくるかもしれません。シャロームのしてきたことを思えば、彼は、挨拶で社交をする余裕を持ってはいけない人、百害あって一利ない偽善者です。
 
正直言って、それで、よくカルト批判とかできますね、という感じです。
 
2018/12/27(木) 午後 11:05 st5402jp 返信する
 
 
( ※ ブログ村トーナメント結果の画像です。
   投票してくださった方々に感謝いたします。
   拡大しないと見えないので、画像の右下の(+)しるしをクリックしてください。
 
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 偽善との闘いですから、自慢ではないつもりです。
 私は、私の、できることをしています。 
  以上、11~12月分です。 )
 
 
(2018年12月28日アップ、画像など編集)
 
 
 
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  自己中信仰
 
  今あるは生ける神の恵み!
  
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28819496.html
   by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームが、コメントに書いたことを記事にしています。ここで、改めて、恵みだけを与える神を信じて反省することを忘れた偽信仰が、いかに、訂正不能の身勝手を表しているか、いかに恐ろしいか書くことにします。
 

(省略)
ほかに病気知らずの生活をしています。
今あるはすべて主の恵み!金婚感謝の一年でした。

 
自分が、いかに、神に守られているか、という、自己中心に歪曲した事実の解釈を書いています。そのような現世的な神の依怙贔屓を信じる信仰は、キリスト教にはありません。
 

改めて主の恵みを感謝して、私の信仰告白を記します。
長年ブログで私の生き方、信仰に対して手厳しい批判をされ、
今も続けておられるstさんへの返信コメントをそのまま記念として転載しました。

 
信仰告白だそうです。それが、いかに、身勝手な思い込みであるか、シャロームの驚き呆れる信仰の有り様が表れてきます。前にコメント欄に書いたことから、シャロームに都合よいことを選択して、記事に載せていますが、実際は、いかに道理も恥も知らないか、ということをを表す結果になるのです。
 

私にとって一番大事にしていることですから、あなたがどんなに批判しても、いつでも、いつまでも繰り返しますよ。私は自分に弱さもあり、多くの過ちも犯しましたし、決して清廉潔白だとも思っていませんが、それはイエスさまがすべてご存知です。しかし、イエスさまがペテロに言われた「罪の赦しについて3回までとは言わない。7の70倍赦しなさい」と言われた赦し、つまり無限の赦しを、イエスさまの十字架の死による罪のあがないによって与えられていることを固く信じるからです。

 
過ちを犯した、清廉潔白ではない、と言いながら、聖句を悪用して、どれだけ罪を犯しても無限に赦されると豪語しています。
 
それが全ての人に起こったら、この世は争いと殺し合いだけになるだろう、というようなことを信じているのです。
 
それとも、自分だけは赦されるのだ、と言うのでしょうか。だとしたら、それこそ、神は、依怙贔屓の神ということになります。そして、シャロームは、神がシャロームだけを守る依怙贔屓を信じているわけで、いったい、どれだけ、自分が特別だと思っているのか、という、呆れた自己中だということです。良識による判断がまるで出来なくなった者の壊れ方です。
 
聖句を考えてみると
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
18:21
そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。
18:22
イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。
 (マタイ18:21-22、新約聖書)
 
ペテロが尋ねているのは、他者が自分に対して罪を犯して、自分が他者を赦すという場合だということが明らかです。自分は、罪を犯す側ではなく、赦す側です。ですから、キリストは、限りなく赦すべきことをペテロに教えています。
 
この教えには、情欲の聖句や敵を愛する教えと同様の逆説的な解釈が必要になります。
 
私の考えでは、
ペテロは、どうすれば、救いに値する人間なのかという行為を尋ねたのに対して、7×70倍まで赦せという無理難題を言うことで、人間は何をされても無限に赦すなどということは出来ないことから、赦せないという人間の罪性ということをもって、罪なき者は一人もいない、すなわち、全ての人は、悔い改めによる神の赦しが必要だと、キリストは、用意されている救いとして、行為義認ではなく、信仰義認を教えている文脈だろうという解釈です。
 
義人は一人もいない。人は完全な義人にはなれない。罪なき人は一人もいない。
ゆえに、悔い改めて、神に赦されることが必要だ、という意味に受け取っています。
 
それを、シャロームは、ペテロとは逆に、自分が罪を赦されることばかり言っているのです。シャロームが、何をしても、無限に赦されるのだと豪語しているのです。シャロームに、聖書と信仰を聞く人は、こういうことを教えられるのです。シャロームに、いかなる牧師の権限も与えるべきではありません。
 
シャロームは、またしても、信仰告白と言いながら、背教宣言をしているのです。
 
そして、そこに神の名を掲げるという傲慢不遜によって自己正当化をしています。
 

それは人の論理や心情にとって納得と共感を得られる考えでしょうが、信仰によってのみ与えられる神の恵みです。パウロは「あなたがたが救われたのは、実に恵みにより、信仰によるのである。それはあなたがた自身から出たものではなく神の賜物である。決して行いによるのではない。それは誰も誇ることがないためなのである」と書き、「すべて信仰によらないことは罪である」とさえ書いています。

 
シャロームの解釈は、信仰による恵みではなく、我欲による実に悪質な詭弁です。
信仰によるからこそ、人間は自分で悔い改め、その祈りを神に捧げるのです。
 

悔い改めなしにイエスの十字架の死による罪のあがないを信じることはあり得ません。しかし、重要なことはイエスの十字架による罪のあがないによってのみ、人はまことの悔い改めに導かれるということです。

 
この嘘については、別の記事に書いたと思います。悔い改めに導かれて悔い改めたのであれば、それは、書いた文章にも表れてくるはずです。それほどに、悔い改めと赦しは、人間とその価値基準を革命的に変えるからです。しかし、シャロームは、悔い改める必要はないとは言いましたが、その後、悔い改めた跡が、書いてきた文章のどこにも表れてはいないのです。
 
注意してください。シャロームは、悔い改めが必要、悔い改めに導かれる、ということは書いていますが、悔い改めます、悔い改めました、とは、一言も書いていません。
 
問われたから、苦し紛れの言い逃れとして辻褄を合わせた詭弁なのです。こういうことを平気でやってくるのが、シャロームという嘘吐きの偽善者なのです。
 

ですから、悔い改めは人のわざではなく、神によって与えられる恵みの賜物なのです。肉の働きから悔い改めは決して生じないのです。悔い改めをもって自分を義としたり、誇ったり、人を裁くこと、だれも他の人に悔い改めを要求することは出来ないのです。

 
悔い改めによって私は自分を義としてはいません。何故なら、私は、神の前に、自分を義とするような恐ろしいことは出来ないからです。それは、完全になれるというカルトのわざです。
 
また、私は、悔い改めによって誇ったりもしていません。悔い改めることは、誇ることとは逆方向です。シャロームは、そんなことも分からないのでしょうか。
 
シャロームの言うところの、神に与えられる悔い改めは、人間の自由意志ではなくロボットのような操り人形の行為なのでしょうか、それとも、シャロームは、神が悔い改めの恵み?を与えるのを、人間としては何もせずに、待っているのでしょうか。まるで、空を見上げて、アパ~ンと口を開けて、空からマナが降ってきて口に入るのを待っているかのように。
 
>誇ったり、人を裁くこと、だれも他の人に悔い改めを要求することは出来ないのです
 
誇ったりはしていません。裁くのは、結局、神であります。
悔い改めをしていないと批判することは出来ます。それをしなかったら、シャロームのようなカルト的な信仰が地上に溢れてしまうでしょう。おかしいと思うことを、指摘するのが批判です。
シャロームは、批判するなと言いたいようですが、それは反論も弁明も出来ないからです。
 
>そのような悔い改めは神から与えられた悔い改めではなく、
>人の自我から生じた肉のわざなのです
 
また、悔い改めは人間がする行為なのに、シャロームは、神から与えられるものであるかのように言っています。
 
悔い改めの機会は与えられるでしょう。しかし悔い改めそのものは、人が自由意志でしなければいけないことです。それによって、人は、俗と欲に塗れた世界から信仰の門を通り、信仰の道を歩むのです。道を外れたら、また悔い改めることになります。それが信仰です。
 
悔い改めは、神から与えられるものだ、神の恵みだ、と言いながら、いつまでも、いつまでも、悔い改めようとしないで済ませようとするのが、シャロームの偽善です。
 
すでに書いたように、シャロームが我欲から発して言い逃れようと弄しているのが詭弁であり、
シャロームの自我から生じた汚い汚い肉の技なのです。
 
今も、はっきり言えます。シャロームのようになってはいけないと。
 
シャロームは、聖書の解釈の歪曲と訂正不能によって、自己の信条の不感不応となってしまった偽善の悪性と悲劇の実例として、表れて、表されてきたのです。
 
シャロームは、詭弁の自説を、言い張って、言い張って、その果てに、口を開けたまま、薄笑いか、怒った顔のまま、硬直してゆく屍となるのでしょうか。
 
私たち信仰者も、ときに嘘を吐いたり、詭弁を言ったりはするでしょう。しかし、シャロームとの違いは、いつでも反省して、悔い改めるならば、キリストのもとへ帰ることが出来るし、神も顧みてくださることを知っている、ということです。
 
 
(2018年12月27日アップ、同日一部修正)
 
呆れる(あきれる)
依怙贔屓(えこひいき)
塗れる(まみれる)
詭弁を弄する(きべんをろうする)
屍(しかばね、かばね)
顧みる(かえりみる)≒振り返って心に留める。
 省みる(かえりみる)≒反省する。
 
 
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