中庸?
専門的な意味は、よく知らないので、
一般に知られている意味で考えています。
つまり、かたよらない、ほどほど、・・という意味です。
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28819496.html
by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41424487.html
by 自由 コメント欄において
(自由さんのコメント)
>
実は、自分は、意見が一致しなくても、あまり気にならない方だったりします。
自分は、甲と考える。
Bさんは、乙と考える。
Cさんは、丙と考える。
という具合に、他者の意見を知り、その差異が分かると、ひとまず満足。
他者の意見を、誤解することなく、なるだけ正確に理解できて、「自分はこう考えてるけど、あの人はそうではない考えを持ってるんだな」ということで一区切りです。
むしろ、一致させない方がいいんじゃないかと思ったりもしてます。
2018/12/12(水) 午後 8:38[ 自由 ]返信する
<
書き方が、くどい感じですが、つまり、違う意見があってもいいじゃないか、ということでしょうか。
何も否定しない、何も肯定しない、・・ここから何かが得られるでしょうか。
何かに憶病になっていると、結論を出すことにも臆病になります。
出すべき結論というのは、
人間にとって、そのときの判断であり、永久不変の真理ではありません。
暫定的であり、さらなる真実の追求の意志でもあります。
なのに、結論につながることを何も求めず、違うことだけを知って、
理路を掘り下げる意志もなく、安易に受け入れて満足するのは、思考停止です。
言葉の遣り取りに参加しておきながら、悪を追及せず、真実を追求もしないで、
ことを治めて安心する自己満悦です。
あたかも、それが、視野の広い自分?、であるかのように。
シャロームは、上の自由さんのコメントを、自分の記事に引用しているようですが、都合の良い部分だけ引用するというのは、彼の常套手段として、有利なら何でも利用する、という体質が表れているのです。
シャロームのコメントは、大方、相手の理路の根拠を理解できないので、相手の意見を受けて書こうとしないために、同じ主張を繰り返して、まともに見せかけ、すり込もうとしているだけです。丁寧語で自らの被害者面をすり込んでゆくのです。
すり込みは故意に誤解~曲解を誘導する偽善者の卑怯な手段です。
>一致させない方がいいんじゃないかと思ったりもしてます
一致を求めても、一致しないことのほうが多い、ということであり、一致するなら、したほうがよいのです。一致させないほうがよい、というのは、中庸というより、八方美人。
議論をしたいと思うのであれば、
シャロームのように、嘘偽りや、詭弁や、恣意的に選択して記事に引用する、などによって、勝ちや好印象を得ようとするのではなく、
他者の発言に対して、勝ちを求めるのではなく、正直に反応して書けることを書き、できることをする、というスタンスを持つべきです。それが出来ないときは、間違えたのなら訂正するか、あるいは、議論から降りるべきです。
ある特定の宗教について
信じていない人は語れない
という一般的な真実らしいものがあります。
それを理由と根拠にして
信じていない人には分からないのだ
という宗教側の言い分が成り立つような気もします。
しかしながら
宗教は人間を生かすものだ
という立場で見れば
現実において
人間を生かす方向ではない
または
人間を破壊する方向である
ということなら
その宗教は邪悪である
または間違っているということも言えるでしょう。
これが異なる複数の言説について
是非を検討する場合の基準のようなものになるでしょう。
ここで言う人間とは
良好な人間性あるいは良心を意味しています。
直観的でもあります。
しかし
人間が人間について考えるところには
なお社会通念や個人的見解の入り込む余地があります。
是非を検討する人が偏っている場合があります。
そういうことは、しばしばあって、
議論を論争に、さらに口喧嘩に変えてしまいます。
滑稽なのは、散々罵詈雑言を浴びせて台無しにした末に、
論破した、などと得意げに言う者もいるのです。
そこで、もう一度言いますが
是非を検討する人が偏っている場合もある
ということも忘れてはならないのですが・・
第三者が中庸のつもりで
一方は・・、もう一方は・・、というご意見で
というような言い方をするときに当事者としては
・・今までの話、聞いてたのかな?・・
という疑問が生じることもあります。
第三者の、面倒を避けたい、早く片付けたい
という気持ちの表れである場合があります。
そういう気持ちで参加していると、
発言の考察も、自分の発言も、いい加減になりやすい、
ということを申し上げておきます。
中庸を目指すべきでしょうか。
何も肯定も否定も出来なくなり
思い込みの中庸信仰?に走ってはいないでしょうか。
私は特に中庸を目指しているわけではないので、
最初からではないが、
辛辣な比喩も使って厳しい批判もしてきました。
むしろ、自分は中庸ではない
という自覚のほうが大事ではないかと思えます。
かたよってはいけないから
といって
是非、正邪、適否、などの判断を
うやむやにしてしまっては批判は成り立ちません。
隠れているものを明らかにすることが批判です。
しかし中庸には
人徳の中心的なこととして
極端に走らない
という意味があるようです。
確かに人が極端に走るときには
能力や視野を超えて
言い張りや罵りや
無根拠の断定に走ってゆくようです。
また、言い方が、いかに丁寧でも、
中身が極端に走っているということがあります。
キリスト信仰を
どこまでも神からの恵みだけと受け取って
聖書に書いてある戒める神や懲らしめる神を考えず
そのために自己の快楽原則で無頓着に走っている者については
丁寧語や飾った聖書語でごまかされてはいけません。
かといって
こちらが腹を立てて感情的に罵ったら
批判そのものが無駄に終わるでしょう。
そこで、批判と、腹いせとが、分かれるのでしょう。
この場合、中庸を考えるとすれば、
相手に反省する言辞と態度が見られたときには、
今、結論を出さなくてもいい、というようなことを
こちらが言って、その場で断罪しないことでしょう。
実際には、残念ながら、
そのような態度が見られることは一度もなかったということです。
中庸は儒学の言葉らしいので
私は、よく知らないところも多いと思います。
中庸に走って
はっきりした発言を控えるだけで
白も黒も言えずに灰色の煙に巻かれるのは嫌です。
中庸を捨てて
真っ赤に燃える噴石を飛ばすだけになるのも嫌です。
人間としておかしいだろうと言うところに注目して
自分発信でも、批判でも、
根拠をもって書いてゆくしかないと思っています。
だからこれからも
怒っては冷や汗をかき、
一方で
明確に出来なかったことに
溜め息をつくことになるのでしょう。
(2018年12月26日アップ、同日一部修正)
中庸(ちゅうよう)
偏る(かたよる)
煙(けむり、けむ)