ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年12月

 
  中庸?
  
   専門的な意味は、よく知らないので、
   一般に知られている意味で考えています。
   つまり、かたよらない、ほどほど、・・という意味です。
 
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28819496.html
  by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41424487.html
  by 自由 コメント欄において
 
 
(自由さんのコメント)

実は、自分は、意見が一致しなくても、あまり気にならない方だったりします。
 自分は、甲と考える。
 Bさんは、乙と考える。
 Cさんは、丙と考える。
という具合に、他者の意見を知り、その差異が分かると、ひとまず満足。
 他者の意見を、誤解することなく、なるだけ正確に理解できて、「自分はこう考えてるけど、あの人はそうではない考えを持ってるんだな」ということで一区切りです。
むしろ、一致させない方がいいんじゃないかと思ったりもしてます。
2018/12/12(水) 午後 8:38[ 自由 ]返信する

 
書き方が、くどい感じですが、つまり、違う意見があってもいいじゃないか、ということでしょうか。
違います。
趣味の話ではないのだから、正反対の意見が同時に真実として成立したり通用したりすることはありません。根拠があれば、変な意見は否定するべきです。議論は、そのためにあります。
 
何も否定しない、何も肯定しない、・・ここから何かが得られるでしょうか。
何かに憶病になっていると、結論を出すことにも臆病になります。
 
出すべき結論というのは、
人間にとって、そのときの判断であり、永久不変の真理ではありません。
暫定的であり、さらなる真実の追求の意志でもあります。
 
なのに、結論につながることを何も求めず、違うことだけを知って、
理路を掘り下げる意志もなく、安易に受け入れて満足するのは、思考停止です。
言葉の遣り取りに参加しておきながら、悪を追及せず、真実を追求もしないで、
ことを治めて安心する自己満悦です。
あたかも、それが、視野の広い自分?、であるかのように。
 
シャロームは、上の自由さんのコメントを、自分の記事に引用しているようですが、都合の良い部分だけ引用するというのは、彼の常套手段として、有利なら何でも利用する、という体質が表れているのです。
 
シャロームのコメントは、大方、相手の理路の根拠を理解できないので、相手の意見を受けて書こうとしないために、同じ主張を繰り返して、まともに見せかけ、すり込もうとしているだけです。丁寧語で自らの被害者面をすり込んでゆくのです。
 
すり込みは故意に誤解~曲解を誘導する偽善者の卑怯な手段です。
 
>一致させない方がいいんじゃないかと思ったりもしてます
 
一致を求めても、一致しないことのほうが多い、ということであり、一致するなら、したほうがよいのです。一致させないほうがよい、というのは、中庸というより、八方美人。
 
議論をしたいと思うのであれば、
シャロームのように、嘘偽りや、詭弁や、恣意的に選択して記事に引用する、などによって、勝ちや好印象を得ようとするのではなく、
他者の発言に対して、勝ちを求めるのではなく、正直に反応して書けることを書き、できることをする、というスタンスを持つべきです。それが出来ないときは、間違えたのなら訂正するか、あるいは、議論から降りるべきです。
 
 
ある特定の宗教について
信じていない人は語れない
という一般的な真実らしいものがあります。
 
それを理由と根拠にして
信じていない人には分からないのだ
という宗教側の言い分が成り立つような気もします。
 
しかしながら
宗教は人間を生かすものだ
という立場で見れば
 
現実において
人間を生かす方向ではない
または
人間を破壊する方向である
ということなら
その宗教は邪悪である
または間違っているということも言えるでしょう。
 
これが異なる複数の言説について
是非を検討する場合の基準のようなものになるでしょう。
 
ここで言う人間とは
良好な人間性あるいは良心を意味しています。
直観的でもあります。
 
しかし
人間が人間について考えるところには
なお社会通念や個人的見解の入り込む余地があります。
 
是非を検討する人が偏っている場合があります。
 
そういうことは、しばしばあって、
議論を論争に、さらに口喧嘩に変えてしまいます。
 
滑稽なのは、散々罵詈雑言を浴びせて台無しにした末に、
論破した、などと得意げに言う者もいるのです。
 
そこで、もう一度言いますが
是非を検討する人が偏っている場合もある
ということも忘れてはならないのですが・・
 
第三者が中庸のつもりで
一方は・・、もう一方は・・、というご意見で
というような言い方をするときに当事者としては
・・今までの話、聞いてたのかな?・・
という疑問が生じることもあります。
 
第三者の、面倒を避けたい、早く片付けたい
という気持ちの表れである場合があります。
そういう気持ちで参加していると、
発言の考察も、自分の発言も、いい加減になりやすい、
ということを申し上げておきます。
 
中庸を目指すべきでしょうか。
何も肯定も否定も出来なくなり
思い込みの中庸信仰?に走ってはいないでしょうか。
 
 
私は特に中庸を目指しているわけではないので、
最初からではないが、
辛辣な比喩も使って厳しい批判もしてきました。
 
むしろ、自分は中庸ではない
という自覚のほうが大事ではないかと思えます。
 
かたよってはいけないから
といって
是非、正邪、適否、などの判断を
うやむやにしてしまっては批判は成り立ちません。
隠れているものを明らかにすることが批判です。
 
しかし中庸には
人徳の中心的なこととして
極端に走らない
という意味があるようです。
 
確かに人が極端に走るときには
能力や視野を超えて
言い張りや罵りや
無根拠の断定に走ってゆくようです。
 
また、言い方が、いかに丁寧でも、
中身が極端に走っているということがあります。
 
 キリスト信仰を
 どこまでも神からの恵みだけと受け取って
 聖書に書いてある戒める神や懲らしめる神を考えず
 そのために自己の快楽原則で無頓着に走っている者については
 丁寧語や飾った聖書語でごまかされてはいけません。
 
かといって
こちらが腹を立てて感情的に罵ったら
批判そのものが無駄に終わるでしょう。
 
そこで、批判と、腹いせとが、分かれるのでしょう。
 
この場合、中庸を考えるとすれば、
相手に反省する言辞と態度が見られたときには、
今、結論を出さなくてもいい、というようなことを
こちらが言って、その場で断罪しないことでしょう。
 
 実際には、残念ながら、
 そのような態度が見られることは一度もなかったということです。
 
中庸は儒学の言葉らしいので
私は、よく知らないところも多いと思います。
 
中庸に走って
はっきりした発言を控えるだけで
白も黒も言えずに灰色の煙に巻かれるのは嫌です。
 
中庸を捨てて
真っ赤に燃える噴石を飛ばすだけになるのも嫌です。
 
人間としておかしいだろうと言うところに注目して
自分発信でも、批判でも、
根拠をもって書いてゆくしかないと思っています。
 
だからこれからも
怒っては冷や汗をかき、
一方で
明確に出来なかったことに
溜め息をつくことになるのでしょう。
 
 
(2018年12月26日アップ、同日一部修正)
 
中庸(ちゅうよう)
偏る(かたよる)
煙(けむり、けむ)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
 

 
  主イエス
 
 
今もそうだが
昔も地上には争いがあり
土地を得ようと
人と人は奪い合い殺し合い
群と群、国と国には、戦争が絶えなかった。
 
そういう人間の有り様に
うんざりした人々のうち
思慮深い人たちがいて
 
生きているこの世界に
何の秩序も平和もないなんて考えられない。
そして
今は隠れているが
きっとこの殺伐とした時間と空間の背後には
麗しい世界があって
この人間の世界を造ったであろう御方がおられ
その御方は全知全能で
いつの日か絶対の秩序をもって
この地上をも支配してくださるに違いない
という思想を表した。
 
その御方を神と呼んだ。
 
人々はその神に
希望を抱くようになった。
 
もはや
そこにしか希望が無かったからだ。
 
神は今は目に見えず
その働きも分かりやすく顕れてはいないが
どんなに過酷な生き方をしていても
神という支配のもとにある
と思うことが慰めと励ましになると唱え始めた。
 
そしてそれは救い主の預言となった。
 
イエスという名の
救い主すなわちキリストと呼ばれる御方は
奇跡を抜きにしても
人格に対する優れた洞察力があり
人間が抱えている悲しみと苦しみに対して
溢れる共感を抱いておられ
憐れみのために
命を捧げることを厭わなかった。
 
古代には直接、神またはキリストに会った人々がいるが、
今のキリスト者は聖書を読むことでキリストを知るのである。
 
聖書を読んで
世界と自分の救い主だなんて
と思うけれど
いつしかその御方を忘れることが出来なくなり
 
聖書で知っただけなのに
孤独を癒やしてくれたり
一生そして永遠に同伴してくださる
というその御方に惹きつけられている人間は
その御方の愛に絆されている。
 
これは縁であり愛なのだ。
 
年月を経ても変わらない思いによって告白する。
 
わが主は
聖書に記されたところの
イエスという名の救い主すなわちキリストである。
 
キリストが愛してくださり
慰めを得ているのだから
この御方なしで生きることは出来ず
キリストを愛すると告白する。
 
この罪人をおゆるしください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
 
 
(2018年12月25日アップ)
 
惹きつける(ひきつける)
絆す(ほだす)絆(きずな)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
 

 
  美味しい言葉
 
 
昔、国民の大方は、
政治や哲学や宗教について
まず疑ったり
先ず不信から始めるのがベースでした。
 
騙す人が多かったからです。
 
最近は違うようです。
 
お祭り騒ぎが何よりも好きで
派手なことをしたい風潮以外であるとか
良さそうな言葉からは
良い意味を受け取らなければいけない
というような
難を避ける傾向があるのではないか。
 
難を避けられても
それは個人の面倒臭さを避けているだけです。
一種の短絡です。
 
根拠も内実もないような
吐き気を催す美辞麗句が蔓延しています。
大袈裟なのが好まれる傾向さえあります。
 
気安く騙す人が多くなりました。
 
そのような言葉に頷いて受け取ったもののために
中身の空虚さに恣意が入って
濃密な欲望の流れを作り
やがて抗しがたい壁となって立ちはだかるのです。
 
抗しがたい壁を築いてしまえば
それがあたかも本道であるかのように
当たり前じゃないですかと
崇拝と隷属を強いてくるでしょう。
信仰と思想の大きな流れはピンチだと自覚してください。
あちこちで偽善の汚水が噴出しています。
 
 
旧き時代には、
自由は血で血を洗う闘いによって勝ち取るものでした。
また
信仰のために多くの人が殉教して命を失った時代もありました。
 
ここ70年の平和が続いたために
まるで、何もしなくても、何も考えなくても、
今の平和は
当たり前に続くとと思われているかのようです。
 
キリスト教においては
悪口と批判を混同して批判禁忌の不文律が蔓延し
批判しないことが敬虔であるかのように
いつも薄笑いを浮かべている人がいるようです。
 
吐き気を催すような美味しい言葉を
何故か、今の人たちは喜ぶ傾向があるのではないか。
 
疑ってください。
 
人間はそんなに良い性根を持ってはいません。
 
批判してください。少なくとも疑ってください。
 
批判しなくなり疑わなくなったとき人間は隷属するのです。
 
能力が足りないがゆえにリーダーを求めます。
 
弱気がゆえに全能者を求めます。
 
リーダーに任せてはいけません。
 
全能者を人が決めてはいけません。
 
野蛮な時代は去ってはいません。
 
私たちは人間です。
限りある力を持つ人間です。
それは危うさを常に伴うのだから
安易な安心言葉や安心事に身を委ねないでください。
 
私たちは人間です。
限りあるゆえに共感と協力が必要です。
手遅れになる前に
あらゆる偽善と闘うために。
 
とうもろこしの芯を吸うように執拗に貪欲に
企みの触手を伸ばす者たちを警戒してください。
 
私たちは人間です。
節操があり理路があり情感があり
共感できて協力できる人間です。
中身のない言葉を真に受ければ
中身のない人型の家畜になります。
 
私たちはそれぞれが自由意志を持つ人間です。
それぞれに価値を持ち
それぞれに責任を持ちます。
うごめき右往左往する原生動物ではないのです。
 
私たちはそれぞれが自由意志を持つ人間です。
それゆえに神に背いて罪を犯すこともありますが
どうか罪を正直に告白して悔い改める幸いを忘れないでください。
 
 
(2018年12月24日アップ)
 
美味しい(おいしい)
騙す(だます)
頷く(うなずく)
うごめく(蠢く)
崇拝(すうはい)
隷属(れいぞく)
 
 

にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
 

 
  信仰宣言?
 
 
信仰者が人に向かって
 
神はいるのです!・・と断言するとき
 
信仰者は必ず
背負ってはいけないものを背負おうとしている。
自分では余計なものを排除したつもりで。
 
そのとき人は
人の秩序だけでなく
人と神との関係
そして神の秩序まで整えて
背負ったつもりで断言している。
 
人が神の秩序を整える?
なんて出来るはずがないのに
呑みこんでいるつもりなのだ。
 
信仰者は神の存在を断言するべきなのだろうか。
 
信仰者は否定できないことを告げるべきではないか。
 
否定できないこととは何か。
 
信仰者にとって
神がいないならば生きてゆけない
ということではないのか。
 
なぜ背伸びしようとするのか。
 
それは信仰者が
自分のプライドを守ろうとする行為ではないか。
自分はちゃんとしていて
ちゃんとしている神を信じている
という虚しい言い張りではないか。
 
なぜ信仰が必要なのか。
自分がちゃんとしていないからだ。
なぜ自力でちゃんとしていると言い張るのか。
 
人が神の存在を言い張ることで
神の存在がちゃんとするわけではない。
 
神の存在は
神の存在である。
人によって変わることはない。
 
無駄に力むよりも
語るべきは
聖書に表された神に自分が
救われたゆえに信じたということだろう。
 
その救いは一回で終わるわけではなく
地上の信仰者の生涯にわたるものだ。
 
救われて万歳ではなく
キリストとの付き合いは一生続くのである。
 
であるならば伝えるべきは
自分が聖書の神から何を受けたのかであり
 
むしろ神の存在か不在かを問われることは
伝道の機会なのである。
言い張って済むことではないのである。
 
神の存在か不在かを問われて
人が相手に存在を説得できると思ってはいけない。
 
相手が神を信じるかどうかは
究極的には相手と神との問題である。
言い張って解決することは何もない。
 
そこで詳しく正しく
聖書や信仰について言えるだろうか。
否である。
恐らく短兵急になり混乱して
双方とも心を病みそうになるだけだ。
詳しく言う必要はない。
 
神の存在より自分の存在を端的に語ればよい。
 
自分はどうかと言えば
神の御心に沿っているとは言えない存在である。
 
信仰告白でありながら自分を表せば表すほど
不信仰告白になってゆく自らの
逆説のように砕かれてゆく魂において語るべきである。
 
偉そうなことを言ったり
他者を無言のうちに裁いていたり
福音伝道から離れることをしていて
ちゃんとした自分を表す資格がないと知るならば
 
それが自分という信仰者であるなら
整っていない世界に整わないまま生きている人間として
 
これで神がいない世界と思ったら生きられない自分を表すべきである。
 
 
(2018年12月23日アップ)
 
呑む(のむ、飲む)
短兵急(たんぺいきゅう)≒ だしぬけ、ひどく急な
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
 

 
  双方向の信仰
 
 
私は
信仰は神と人の双方向だと言いました。
つまり
神の導きと人の自由意志との双方向です。
 
人間は自由意志を持っています。
少なくとも現象において
私たちは自分の意志で判断し行動します。
 
 
 神は呼べば応える御方だから
 神の意志によって行動していると誰が言っても
 それは嘘です。
 あるいは大袈裟な信仰自慢です。
 
 私たち人間は預言者ではないのだから
 神の意志を対面するように受け取ることは出来ません。
 神は大方沈黙しておられます。
 
 また
 神が人に
 そして人の心に働きかけても
 私たちは
 それが神の意志だと認識できる能力はありません。
 
 神を恐れる人はそれを知っています。
 
 神を恐れない者ほど
 神、キリスト、聖霊
 という聖三位の名を出して
 自己正当化を誇るので警戒してください。
 
 
人間は自由意志を持っています。
少なくとも現象において
私たちは自分の意志で判断し行動します。
 
神の導きは
現象としては成り行きです。
 
成り行きが神の意志かどうか
あるいは成り行きのどこが神の意志かどうか
人間は
・・かもしれない、だったかもしれない・・
という判断しか出来ません。
その判断で行動するしかありません。
 
信仰者でも
自らの良心によって行動することに変わりはありません。
 
しかも思い切って行動するしかありません。
 
そこが信仰の命なのです。
 
正しさについて
判断以上の固定を遠慮するところに
かつ思い切って決断し
行動し、反省して祈りを捧げるところに
信仰の敬虔があるのです。
 
神の導きがあるはずだが
今の神の御心は?と考えるけれど
神の意志について確定的なことは分からないのが
人間の領分なのです。
 
言い換えれば
神の意志について確定し固定するのは
人間の領分を超えた傲慢であります。
 
 
 そんな、あやふやでは、不確定では信じられない
 と思うなら信じないほうがまだマシでしょう。
 
 この世には
 根拠もなく神の意志?を語る者が多過ぎるからです。
 
 
確定できない生き方であっても
信仰を支えるのは、
人の合理ではなく、
キリストの愛であります。
 
人には神の判断は出来ないということを弁えなければ
自分の正しさの判断を絶対化してどこまでも暴走するのが人間です。
 
それを神のもとに引き戻すのが信仰です。
 
勘違いしないでください。
神の御心の正しさは
ただ神のみのものです。
 
神が、キリストが、聖霊が
人に働きかければ人は正しく働くでしょう。
しかしそれは
不全なる人が、
それはこうだ、それはああだったと
語れるほど明確に決められることではないのです。
 
聖なる御方の導きは
人には秘められて進行する
すなわち神秘だという弁えが必要です。
 
人は正しさを目指し
時々の判断を為して行動し
祈りのうちに神に捧げ
反省して成長し
明確には知らないまま導きから離れないように
神の御心に従う道へ
ときに迷っても戻りながら終末に向かって生きるのです。
 
過ちを犯しても
祈りによって赦されて
キリストの愛によって支えられて
神の道に戻れるかどうかが
神を恐れる不全の自覚
すなわち信仰の有無にかかっています。
 
 
(2018年12月22日アップ)
 
大袈裟(おおげさ)
傲慢(ごうまん)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
 

このページのトップヘ