ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年12月

 
  ロボット詭弁
 
 
キリスト信仰においては
とても寛容なところと
そこを外しては成り立たないという厳密なところがあります。
 
キリスト信仰が人間において成り立つ理由は
全知全能の神が
多くをご自身で負われており
人間に可能なことしか要求しないところにあるのでしょう。
 
悔い改めて信仰者になるキリスト信仰においては
悔い改めは人の自由意志においてなされる必要があります。
そこが非信仰者から信仰者へと進む門だからです。
 
 
さて
過去に一度も反省したことがなく
悔い改めない者がいます。
 
悔い改めを思わせる文言が一度も見られなかった人です。
 
その人が
悔い改めが必要かどうかを聞かれて
悔い改めが必要だと答えました。
悔い改める気など微塵もないくせに。
 
ここからが詭弁です。
 
彼は
悔い改めも神からの恵みであると言いました。
詭弁です。
 
悔い改めも神が人にさせるというのでしょうか。
ロボットのように神が人を操り
悔い改め作業をするとでも言うのでしょうか。
 
その者は
信仰をマニュアルのように
聖書語の辻褄合わせだけの詭弁で語り
人間の思慮も情感も共感も無視してきた人です。
救いは全部どんでん返しの奇跡で起こると言っていました。
後は
やたら神を讃美しまくって誤魔化してきた人です。
人間をまるで物かロボットであるかのように
神が操って
それで信仰者と神のつながりになるというのでしょうか。
呆れます。
 
さらに
それだけでは誤魔化せないと思ったのか、
悔い改めに導かれるのだとも言いました。
これも詭弁です。
数々の欺瞞と嘘と詭弁が既に明らかになっているのですが、
悔い改めに導かれて悔い改めた形跡が何もないのです。
 
これらのことを嫌みとともに語りながら
悔い改めはどこにも表れておらず
彼はしっかり自尊と敵意と訂正不能を表していたのですから。
 
 
単純明快な理屈ではない信仰において
直感は大切ですが
直感と単純な思い込みとは違います。
 
直感と言っても
それは人生を変えるほどの体験であり
気安く取り繕った辻褄合わせの詭弁では決して語れないものです。
 
カルトに対しても
なりすましクリスチャンに対しても
宗教など適当でよいと思っている向きに対しては
罪、罪悪感、悔い改め
という人間の側の問題において
気安さと辻褄合わせと詭弁による誤魔化しを見過ごさないことが大切です。
 
こういう傾向は
何か事があって問い詰められたときの
信仰者にも起こりうることです。
 
これらを明らかにするには時間がかかるかもしれません。
しかし疑いをいだくことは出来るでしょう。
 
 
前に何度も言いましたが
もう一度
 
キリスト信仰においては
神が成就の荷を負われるゆえに
神が人に要求することは
人間の正しい行為ではなく
人間の積極的な自由意志によって
神の前に精一杯の正直さを示すことです。
 
それは救われる条件ですが
条件というより弁えと言えるものです。
 
それゆえキリストは
「わたしのくびきは負いやすく、
 わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:30より)
と言われたのだと思います。
そしてキリストは自らの命を捧げたのです。
 
キリストの十字架によって人は正しくなったでしょうか。
否であります。
信仰によって生まれ変わったから正しくなったのではなく
悔い改めによって赦される道が与えられたのです。
 
もう一度申し上げます。
悔い改めて信仰者になるキリスト信仰においては
悔い改めは人の自由意志においてなされる必要があります。
 
そこが非信仰者から信仰者へと進む門だからです。
 
それゆえ信仰においては
決して神が恵みを与えるだけという単方向ではなく
 
信仰においては
神の導きと人の自由意志とによるところの
神と人の双方向が成り立つのです。
 
 
(2018年12月21日アップ、同日一部修正)
 
詭弁(きべん)
誤魔化し(ごまかし)
微塵(みじん)
辻褄(つじつま)
欺瞞(ぎまん)
操る(あやつる)
 
 
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  敬虔の裏返し
 
 
性格や言葉が荒っぽくても
敬虔であることは可能です。
神を恐れ
その神に比べて
自分の低さを知っておれば
敬虔は自然と表れるからです。
 
そういう人はいると思います。
 
どんなに丁寧でも
どんなに聖句や教理を語っても
正しい立場から教えるようになって
無反省でいると
それだけで敬虔は崩れてゆきます。
 
そういう人はいると思います。
 
 
正しい立場というのは
信仰者にとって神の立場に等しいのです。
つまりそこには立てないし
立ってはいけない場所なのです。
 
人が人に正しい信仰を教えられると思い込むことも
人が神の立場に立つことであり
少なくとも預言者以上の聖なる立場を気取ることになり
敬虔からは逆の立場になります。
 
伝道に必要なのは正しさではなく
同じ人間としての共感であります。
教えるのではなく問題と立場を共有することです。
同じ人間として神を仰いでいるからです。
 
 
自己の信仰観を神の意志と同一視した者は
神の意志を表そうとして
身の程を弁えずに高みに立ち
その高みから一方向で教えようとします。
 
好きなように聖書を曲解して
逆らう者の意見を抹殺し
逆らう者をカルト呼ばわりし
保身のために詭弁を弄し平気で嘘を吐き
悪魔の誘惑という誘惑に嵌って
神から聖霊からの啓示と思い込んで
慢心と満悦からの自己正当化によって
賛同意見以外には応答できなくなり
異なる意見をことごとく捨ててしまうので
成長することがなくなり
鈍麻することが多くなり
知性も情性も破壊されてゆき
しまいには
みすぼらしいボロボロの粘土細工のように
二目と見られぬ醜い有り様になります。
 
 
信仰者も
一時的に思い上がることがあり
自己中心に、また保身的になり
傲慢になることがあっても、
神を恐れるならば
神の前に低く小さい自分を知り
修正不要ではなく
修正可能であるために悔い改め
いつでも神のもとに戻れるのです。
 
そこが信仰の命綱です。
 
戻れない訂正不能になってはいけません。
 
神の御心だからと
訂正不能にするのは間違っています。
 
神の御心を知りたいのなら
一生涯
成長可能な心を
神に対して向け続ける必要があります。
 
「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」と
神を讃える信仰があるなら
人が栄えを手にしたかのような
有頂天も威丈高もありえないはずです。
 
 
聖書の言葉を覚えるのと
神の御心を覚えるのは違います。
 
聖書の言葉を覚えるのは人にも出来ます。
聖書があり記憶は人が正すことが出来るからです。
 
神の御心を人が心に覚えることは出来ません。
心を見極めたり保持したりすることは出来ないからです。
 
あるとき神が人に働きかけたとしても
人にはその時から
ずっと御心を保存できるという保証はありません。
人はいつも
新しく受け取って成長するからです。
また
ときに反省して祈ることが必要だからです。
 
人は心の中身を固定することは出来ないと考えるべきです。
何かが心から失われたとき
人は何が失われたかを確認することが出来ないからです。
 
ましてや神の御心を
言葉以上に
心に固定してとどめることなど決して出来はしません。
 
修正可能ゆえに成長可能という自覚だけが
人が心がけて
いかなるときも人の心を神に向かわせ
神のもとに人の心をとどめる弁えになるでしょう。
 
人に出来るのは
自分が神の御心を心にとどめることではありません。
神が御心に自分をとどめてくださるように努めることです。
 
私たち信仰者は
荒っぽくても丁寧でも言い方は様々でも
御心を受ける用意があることを
祈りによってアピールし続けることが必要であり
それは時々の信仰告白であり
まだ不十分であることを承知しておりますという不信仰告白です。
 
以前にも言ったことですが
私たちの精いっぱいの最大の信仰告白は
不信仰告白に他ならないのです。
 
信仰を偽りで裏返した偽善とは全然逆であるところの
 
これが
裏返しに見える信仰の世界であり
信仰の裏返しの不信仰の告白が敬虔ということであります。
 
人間が自らの信仰を誇ることのないために。
 
 
(2018年12月20日アップ、同日一部修正)
 
敬虔(けいけん)
弁える(わきまえる)
抹殺(まっさつ)
詭弁(きべん)、弄する(ろうする)
傲慢(ごうまん)
命綱(いのちづな)
居丈高(いたけだか)
有頂天(うちょうてん)
 
 
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  聖書の読み方(私の)
 
 
私は読書障害の傾向があるようなので
読書は嫌い←苦手←遅いです。
だから聖書、全部読んではいません。
 
しかし
私がキリスト者のつもりなのは
洗礼を受けたからではなく
聖書の言葉に救われたからです。
 
最初に心を揺さぶったのは次の聖句です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)6:34
あすのことを思いわずらうな。
あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。
一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
 (マタイ6:34、新約聖書)
 
また、聖書と讃美歌と説教によって与えられた言葉が
 
永遠の友、永遠の同伴者
 
という言葉です。
 
これは私を救ったのだから否定しようがなく
仮にもし解釈が今と大きく異なることがあって
今の受け取り方では救われないと言われたら
私は言うでしょう。
「分かりました。あなたの言う救いは要らない。」と。
上の聖句も言葉も
全然違う意味になることは考えにくいですが、
何が言いたいかと言えば
 
私はこの時点で、
この聖句につながるところだけは、
誤解があるとしても、
さらに心を揺さぶられるまでは、
聖書を読んだ自覚になるということです。
 
聖書に感動し
聖書に心を揺さぶられた体験は
信仰として否定しようがないからです。
 
完全ではないが
救われたから信仰者になったのです。
 
聖書の他の厖大な文書については
・・読んだことにはなっていない・・
と申し上げます。
 
ですから
キリスト者には
聖書を毎日熱心に読んでいる人も多いでしょう。
 
申し上げたいことがあります。
教えられたとおりに覚えて
聖書を読んだことにはしないでください。
 
頷いても心と人生に生きて来なければ
聖書を読んだことにはならないのです。
 
ですから
私たちは殆ど聖書を読んでいません。
読み得ていません。
 
聖書に示された神の言葉は
人によって
殆ど理解されていません。
 
分からないことはいっぱいあると思います。
標準的でも、独創的でも、カルト的でも、
解釈を覚えて読んだことにだけはしないでください。
 
以前から私が
分からないことは分からない箱に、
あるいは、保留の箱に入れておきましょう
と言っているのはこのためです。
 
恐ろしいほど
都合の良いところだけ
都合の良いように受け取って
慢心している偽善者がいるからです。
その自他への破壊ぶりは酷いものです。
 
そのような自己正当化のためだけに
カルト的な解釈を呑みこむくらいなら
信仰など持たないほうが余程マシだと思っています。
 
聖書は神の言葉でも
人の言葉で書かれている文言を
人の解釈で鵜呑みにしてはいけません。
神の真理は
そうやすやすと理解に至ることはありません。
解釈次第の謎だらけと言ってもよいくらいです。
 
標準的な解釈であるとか
教理や信条といったものは知識であります。
知識が全て人を生かすわけではありません。
知識は心か頭の本棚に過ぎません。
 
読んだ、受け取った、理解したと言えることは、
ごく僅かであり、
ひょっとしたら一言なのかもしれません。
しかも、それは、つまり、
人間の心に響いて、心を揺さぶるのは、
言葉ですらないかもしれません。
 
このことは、とても大事なことです。
聖書の一言で生きている人もいるでしょう。
暗唱するくらい読んでも本棚に過ぎないこともあるのです。
 
知識から感動が生まれることは推測できます。
目を通したことがなければ感動は生まれないだろう
ということも分かります。
 
しかし
毎日読んでいるから
だからいっぱい読んだことになるから
分かっているなどと思わないでください。
 
でっかい本棚よりも
分からない自分を自覚することにこそ
全知全能の神は注目しておられるでしょう。
 
何故なら神は人の及ぶ能力の憐れむべき限界を
既にご存知ゆえに
救いの手を差し伸べておられるからです。
 
前から言っていることですが、
分かった、わかっている、見える、守っている、
と言って
分からない、見えない、守れない、
という憐れむべき人間存在の立場を忘れた者たちは、
それゆえに
救いを必要とする自らのことを忘れているからです。
 
謙遜、謙虚、敬虔ということは、
控えめに、口数少なく、などと誤解されやすく、
もっともですねと、一見、分かりやすく、
その分、安い道徳になりやすく、さらに、それは
邪悪なことを教える者にとって都合よくて、
それゆえに信仰を堕落させてゆく大きな要因です。
 
いつも、哀れな、かわいそうな自分であれ
と言うことではありません。
信仰はお芝居ではないのですから。
 
しかし
全知でも全能でもない人は
全知全能の神から見れば、
いつも哀れで可愛そうな存在でしかない
ということを忘れてはいけません。
 
神をキリストを聖霊を
そして聖書を
理解するのがキリスト者ではなく
理解しようとして
人知を超えたものを理解できない恐れを知っているのがキリスト者です。
 
信仰の大方は弁えました
と言うのは
何も弁えていない証拠です。
 
人は高々判断し実行し反省し祈るのが精いっぱいです。
 
分かりましたと
知識量で神の手伝いをする態度ではなく
分かりませんと
情に流されてお願いばかりをする態度でもなく
 
知識を得て慢心せず
知識を得ようとしないで窮乏することなく
 
不全ゆえに完全の助けを必要とする人間として
聖書を読み、何らかの言動を為し、反省して祈り、
日々全能者たる神への恐れを表すことが
信仰者の敬虔です。
 
 
(2018年12月19日アップ)
 
頷く(うなずく)
敬虔(けいけん)
酷い(ひどい、むごい)
窮乏(きゅうぼう)
 
 
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  隠し事
 
 
信仰者には
隠してよいこともありますが、
隠してはいけないこともあります。
 
一見、優しく柔和そうに見える人は、
まれに、とんでもないものを隠している可能性があります。
心の傷、訂正不能の妄想、底知れない怨念、など
 
そうでなくても
多くの人は心に秘密を抱えています。
 
隠しているものが
全くの個人情報であるなら問題にはならないでしょう。
むしろそれを暴露して罵ることのほうが問題です。
節操のない人によってやられたことがあります。
 
しかし、隠していることが、
真実や正義など公の義に関することであったり
さらに嘘や詭弁であるなら大きな問題になります。
 
表で主張していることの
中身と根拠が問われることになります。
 
多くの人に影響を与えるからです。
 
安易に肯定して当たり前になってしまうと
他の意見が封殺されることになりかねないからです。
 
したがって
特に対立している意見との議論が必要になります。
 
一般に真実、あるいは、その一部と認められるものは、
そういうプロセスを経てゆく必要があります。
 
それを拒む人は、その時点で
公に真実や正義を主張する資格はないと思います。
自己満足のほうを選んでいるからです。
 
一人が独りで自己満悦するだけで
笑いながら言うことも
正しいこととして公共に発表するなら
当然のこととして、責任は生じてきます。
 
独りで訂正不能にしても批判を受けることになり
不感不応で凌いでいるつもりでも
次には批判がメインになるほどに数が増えてゆきます。
そうして
この意見には批判している人がいます
という広がり方になるのが
むしろ望ましい、また必要だ
ということになるでしょう。
 
個人が一人では
意見もそれに対する批判も
広く受け入れられることは難しいとしても
不当な意見に対しては
応分の批判を当ててゆくしかないのです。
 
 
偽善者というのは
神に対しても人に対しても
隠し事で出来ていて
嘘の演技をしているようなものです。
 
つまり偽善者は平気で嘘を吐き
その舌の根も乾かぬうちに
お愛想の世辞で同意を求めてきます。
 
すなわち自分の嘘を
次の嘘で言い逃れようとするのです。
 
偽善者というのは
神に対しても人に対しても
嘘で出来ているようなものです。
 
息をするように嘘を吐く
という言い方がありますが
個々の内容の嘘があり
言うこと全部キリスト者のふりだけ
という全体を包んでいる嘘があります。
そしてそれを通すために
いちいち吐いた嘘を忘れたことにして
嘘の山のような隠し事をして
まともなふりをしてゆくしかなくなります。
 
 
隠し事と嘘は
人を欺く手段であります。
 
神を欺く手段でもありますが
神は騙されることはないのです。
 
隠し事と嘘は
隠した真実が重いほど
漏れ出てきてしまう自己矛盾のために、
結局、何も言えなくなってしまう
ということを覚えてほしいです。
 
何よりも
信仰者は処世ではなく
真実を求めているのだから
全てを知っておられる神の前に
隠すという作為があってはいけません。
 
神に対しては
正直だけが救いに与る条件です。
 
神の前に隠さない信仰者なら
人の前にどうするかは
全てを曝せということではないのだから
祈りと導きのうちに
人自身が判断してゆくことになるでしょうが
少なくとも利己のために人を騙すような
あまりに白々しい嘘を吐くことはなくなるでしょう。
 
 
(2018年12月18日)
 
隠し事(かくしごと)
嘘を吐く(うそをつく)
公(おおやけ)
与る(あずかる)
曝す(さらす、晒す)
 
 
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  おとぎの国のクリスチャン
 
 
なぜか知りもしないはずの
神の超常の世界や天国について
神聖の言葉を好き放題に絡ませて
得々と自説を語る者がいる。
 
その自説が説にとどまらず
確信であるならカルトと言うべきである。
 
仮説や憧れの話なら頷けるが
そういう者は
大方は神も信仰も知っているという慢心と
自己顕示欲に結びついている。
酔い痴れている状態なので
盛んに人に言って聞かせるのである。
辻褄が合っているつもりで言って聞かせ
人間として欠落しつつある自分に気づかない。
 
中には一足飛びに真理を得たい欲望から
分からないということを言えない者がいる。
現実が嫌で
おとぎの国に飛びたいのだろう。
自分はこんなに知っていると
非凡さを認めてほしいのだろう。
 
そういう者にとって
信仰は話の肴(さかな)に他ならないのである。
御伽の国を支配して見せたいのである。
 
弟子たちがキリストの国で
要職に就きたがったのと同じだろう。
 
この世で軽視されている者が
特別の存在になりたいとき
宗教はその材料を提供してしまう。
 
いつも安定して中庸で
安心していたい願望が誰にでもあるが
短兵急にそれを求めて
求めることから離れなくなって
カルトに堕ちやすい人が
命と人生を安売りしてしまう。
 
思慮深い人は
安定が移ろいやすい地上では
安心の永続が望めないことを知っている。
 
真剣に生きたいなら
この地上の生命の迫力を求めるなら
まず安定を捨てることから始めるべきだ。
 
安定を捨てるとは
不安定を喜ぶことではなく
成長を喜び期するである。
 
幼稚なまま大人になり
幼稚なまま超常を信じ込み
今や従わない他者をあざ笑い
従う他者を巻き添えにして笑うような
野良犬以下のケダモノもいる。
 
日ごと夜ごと獲物を求め
いかにも調和のとれた柔和さの装いで
自分と同じように柔和であれと
愚かな誉め言葉と社交ダンスを見せつけて
真に受けた者を精神の食い物にしている。
 
無知と無恥の自覚すら無い者はどうしようもない。
 
偽善者の地獄の仲間にならないために
この地上で必要なことは
訂正不能にしてよいものは無いということを
深く弁えておくことだ。
 
この地上は大方
試練の場であり苦難であり悲哀であり
気持ちを新たにするための余暇以外は
警戒する気持ちを失ってはいけない。
 
誰も信用しないのではなく
誰でも好意的に信用してしまうのでもなく
中庸でもなく、
信仰を持ち続けて
この地上を渡るためには
修正可能の意識以外にないのである。
 
そこにのみ活性が用意されて
人間の節操があり
人間の思慮があり
人間の愛があり
神への捧げものがあるからだ。
 
 
(2018年12月17日アップ)
 
頷く(うなずく)
中庸(ちゅうよう)
肴(さかな)
御伽(おとぎ)
短兵急(たんぺいきゅう)
弁える(わきまえる)
就く(つく)
 
 
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