偽善の末路
見せかけの柔和芝居によって
人を誘い
心で人を嘲笑い
得々と妄想を語り
何もしなくてもいいと
悔い改めなくてもいいと
どんでん返しで救われるからと
たぶらかすような
偽善者が天国に行けるというなら
私は神様に祈り願って
偽善者がゆく天国ではなく
どこか遠くの
違うところで
私を焼き尽くしてくださいと言うだろう。
既に偽善に誘われ取り込まれた人々を
救うことは元々私などに出来ることではない。
この者だけは信用するなと
この者だけは心の底まで醜いと
告げるだけ告げて
この地上の人生を終わりたい。
もはや偽善者に語る言葉も
繰り返しに近くなってきている。
心もなく頭もないケダモノには
いかなる説得も圧力も意味がない。
そういう偽善者は
神の裁きが下るまでの
見せかけの満足と栄えを楽しむのだろう。
笑えばいい。
嘲笑えばいい。
ばたつく足腰を美しいと言うだろう。
信仰の代わりに
己の面の皮を福音と呼ぶだろう。
いずれ誰もが地上から
跡形もなく消え失せる時まで
誰とも真剣に語らえず
好物以外何も食えず飲めない偽善者は
語らえず食えず飲めない物を漁り貪って
語った食った飲んだと喜ぶだろう。
テンゴクという名の泡を吹いているだろう。
裁きは神のみが行う。
裁きは強制力による捌きである。
神は御手をもって分けるのである。
私の願いは
あの偽善者とは違う国へ行きたいだけだ。
何故なら見るたびに身の毛が弥立ち
聞くたびに吐き気がするのだから。
昼と夜があって
日に一回殺されるような一日が
永遠に続く国に向かうことなど考えもせず
なぜか大喜びでいる偽善者
偽善者の笑いは
人間としての死である。
偽善者はそれでも笑う。
偽善者の怒りは
人間としての殺しである。
偽善者はそれでも怒る。
偽善者は悲しむことがない。
偽善者は悲しみを笑うだろう。
信仰者は笑わないとき
愚か者と呼ばれるだろう。
信仰者は悲しむとき
愚か者と呼ばれるだろう。
今の世には
その呼び名しか与えられないからだ。
義人はいない。
一人もいない。
いるのは
悲しみを知る人と
それを笑う者だけだ。
(2018年12月16日アップ)
嘲笑う(あざわらう)
漁る(あさる)
貪る(むさぼる)
捌き(さばき)
弥立つ(よだつ)
己(おのれ)
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