ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2018年12月

 
  偽善の末路
 
 
見せかけの柔和芝居によって
人を誘い
心で人を嘲笑い
得々と妄想を語り
何もしなくてもいいと
悔い改めなくてもいいと
どんでん返しで救われるからと
たぶらかすような
偽善者が天国に行けるというなら
私は神様に祈り願って
偽善者がゆく天国ではなく
どこか遠くの
違うところで
私を焼き尽くしてくださいと言うだろう。
 
既に偽善に誘われ取り込まれた人々を
救うことは元々私などに出来ることではない。
 
この者だけは信用するなと
この者だけは心の底まで醜いと
告げるだけ告げて
この地上の人生を終わりたい。
 
もはや偽善者に語る言葉も
繰り返しに近くなってきている。
心もなく頭もないケダモノには
いかなる説得も圧力も意味がない。
 
そういう偽善者は
神の裁きが下るまでの
見せかけの満足と栄えを楽しむのだろう。
笑えばいい。
嘲笑えばいい。
ばたつく足腰を美しいと言うだろう。
信仰の代わりに
己の面の皮を福音と呼ぶだろう。
 
いずれ誰もが地上から
跡形もなく消え失せる時まで
誰とも真剣に語らえず
好物以外何も食えず飲めない偽善者は
語らえず食えず飲めない物を漁り貪って
語った食った飲んだと喜ぶだろう。
テンゴクという名の泡を吹いているだろう。
 
裁きは神のみが行う。
裁きは強制力による捌きである。
神は御手をもって分けるのである。
 
私の願いは
あの偽善者とは違う国へ行きたいだけだ。
何故なら見るたびに身の毛が弥立ち
聞くたびに吐き気がするのだから。
 
昼と夜があって
日に一回殺されるような一日が
永遠に続く国に向かうことなど考えもせず
なぜか大喜びでいる偽善者
 
 
偽善者の笑いは
人間としての死である。
 
偽善者はそれでも笑う。
 
偽善者の怒りは
人間としての殺しである。
 
偽善者はそれでも怒る。
 
偽善者は悲しむことがない。
偽善者は悲しみを笑うだろう。
 
 
信仰者は笑わないとき
愚か者と呼ばれるだろう。
 
信仰者は悲しむとき
愚か者と呼ばれるだろう。
 
今の世には
その呼び名しか与えられないからだ。
 
 
義人はいない。
一人もいない。
 
いるのは
 
悲しみを知る人と
 
それを笑う者だけだ。
 
 
(2018年12月16日アップ)
 
嘲笑う(あざわらう)
漁る(あさる)
貪る(むさぼる)
捌き(さばき)
弥立つ(よだつ)
己(おのれ)
 
 
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  偽善の御託
 
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41424487.html
   コメント欄。編集してあります。
 
 
シャロームが、たくさん書けば書くほど、かえって、シャロームの無理解と詭弁が明らかになります。自分の理解を神の啓示からとする者が、いかに横暴であるか、さらに、啓示とは裏腹に、いかに貧相で愚かな言辞を弄するか、そして、いかに自分自身が、気づかずに廃物になってゆくか、つまり、神への恐れも敬虔も忘れ、うわべだけになった人の末路近くです。
 
自由さん

stさんとshalomさんは、その具体的な中身については意見の合わないところもあるようですが、信仰は人それぞれでは済まされないという点については考えは同じみたいですね。

 
私の批判を聞かないために、シャロームが、信仰に人それぞれを持ち込んだということです。
 
自由さん

自分の考えはどうかといえば、信仰、信条、主義などこそ、人それぞれにならざるをえないのが現実ではないかという気はします。
どのような信仰、信条、主義を持つかは、生まれつきの性質、生まれ育った環境などによる影響は大きいだろうし、他者による批判や自分の意志によって、それらを変えられるかといえば、それは難しそうです。

 
人それぞれにならざるをえないのが現実ではないか、という現実があるのと、そのままでよい、というのとは違います。できるだけ掘り下げてゆくことで、到達はしないまでも、共通点はあるのです。それを一切無視しているのがシャロームです。つまり、シャロームは、人それぞれではなく、自分勝手を主張しているのです。
 
シャローム

キリスト教信仰は人の言葉や人の論理の上に建てられるものではありません。なぜなら人の言葉や論理は有限で、相対的なものだからです。

 
当たり前のことです。シャロームは、これをもって自分勝手を正当化したいようですが、一人一人が勝手な言い分で正当なら、信仰など、存在する意義が無いし、何の役にも立たないでしょう。
 
キリスト信仰は、言葉や論理の上に建てられるものではありません。しかし、直感だけで正しさを主張するところから、シャロームのような、預言者気取りの、啓示だから文句は言わせない悪臭付きのペテン師が生まれてくるのです。
 
神聖も、ゆえに、信仰も、よく分からないところが多くあるゆえにこそ、人間同士は、話し合う必要があり、人間の世界でも修正してゆく必要があるのです。それを、可能性さえも認めず、御託のように当てつけてくるのがシャロームです。
 
確認しておきますが、シャロームは、神または聖霊からの啓示を根拠にして議論不要、と言ったのです。しかも、その言説には何の説得力もないのです。騙されないでください
 
シャローム

キリスト信仰は永遠普遍にして不変の生ける神ご自身の啓示と記録された聖書の御言葉、またイエスさまご自身が神の生ける言葉なのです。全聖書は聖霊が多くの人を通して、人の言葉によって記録された神の啓示の証しの言葉です。イエスさまがご自分の苦難と死を前にして助け主である聖霊が注がれることを恐れ戸惑う弟子たちに繰り返し深く語られたのはそのためだったのです。

 
神聖ばかりを語るシャロームですが、その現実面では、嘘吐きであり、何をやらかしても罪を認めないのだとしたら、どうして、この人をキリスト者と呼べるでしょう。彼の、神聖への、べた褒めに騙されないようにしてください。中身は、真逆です。
 
シャローム

聖書を除外し、離れて信仰、少なくともキリスト信仰について議論、批判し合うことは、虚しい不毛の論争であり、多くの異端裁判という痛ましい歴史があります。
ですから人の論理や心情による論争、批判、裁き、誹謗、中傷をどんなに正当化してもキリストに対する信仰に導かれ、イエスさまとの出会いにも、交わりに導き入れられることはありません。

 
聖書を勝手な解釈で曲げているのはシャロームです。
キリスト信仰について議論は有益です。ときに批判は必要です。シャロームが、それを空しい不能の論争というのは、シャローム自身が、議論不要の神の啓示という立場に立っているからです。
 
異端裁判を悪い例として挙げていますが、見当違いもいいとこです。シャロームを批判するのは、実害として、おかしなことを言う人が出てくるのを少しでも減らすためです。それに、批判は、刑罰という強制力を持ちません。批判に曝されることが刑罰だというなら、それを招いているのはシャローム自身です。
 
言っておきますが、キリスト信仰のベースにおいて共感できるサイトがいっぱいあります。私は自らに「悪」という言葉を歌から引用して当ててでも、辛辣な批判をしているのです。その情緒を全く解しないで、こいつは悪だとばかり、自分のブログに曝して、自分の都合の良いコメントとともに書いている者もいるようですが。
 
シャローム

「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」と聖書(ロマ10:17)は証言しています。

 
いくら聖句を引用しても、シャロームの場合、無駄だということです。
つまり、キリストの言葉を聞いて、曲げて、自分に都合よく固めているのは、シャロームです。
聖書の解釈と信仰の、ベースから、自己中心なのです。
 
シャローム

 聖書の言葉に人の相対的な論理を+αしたものが異端であり、カルトは巧みに人の納得と共感に訴え、カルト、異端によって人の心と、生き方がマインドコントロールされ自由、さらに命まで奪われる恐るべき罠なのです。

 
また同じことをシャロームは書いています。書けばいいと思っているんでしょうか。
カルトも、シャロームも、+α、で済まされるものではないのです。キリスト信仰のベースをひっくり返しています。信仰の中心に自分の解釈を置いているからです。自分の解釈=神の言葉としたときから、きょうの有り様は定めのように決まっていたのかもしれません。
 
シャローム

しかし、異端、カルトの罠には人の心をとらえる魅力があります。アダムとエバが神が食べてはならい、それを食べると死ぬと言われた善悪を知る木に近づき、その実を見るとその魅力にひかれたのです。そこにへびであるサタンの誘惑にとらえられるチャンスを与えてしまったのです。
 昔も今もそれは変わることがありません。

 
(修正後です)
 
アダムとエバをカルトに騙された愚か者扱いしているようだが、アダムとエバは人類の祖として書かれていることを考えないのでしょうか。
 
今も昔も変わらないとか言っていますが、キリストによって変わったからこそ、キリスト者という人々がいるのです。アダムとエバが重要な教訓として描かれていることを、シャロームは自分と違う愚か者扱いしているのです。
 
こういう全か無かの、人間としての身の程知らずの、断定の言い張りがシャロームの特徴であり、その断定の訂正不能性ゆえに、彼は、キリスト者になれないのです。アダムとエバは、神に叱られて導かれました。シャロームは、独りで、とても醜く訂正不能の孤島に住んでいます。
 
そして今、とんでもない自己中心妄想から神を決めつけているところの、偽善者シャローム、つまり、ヘビであるサタンの誘惑に対して、キリスト者も、皆が無防備というわけではなく、闘いを続けている私のような者も、ぼろぼろの状態ながら、出てくるということです。
 
いつまでも、シャロームが羽を伸ばせる安穏の沼は続かないということです。
また、神は、いつまでも黙って見ておられるわけではないということです。
 
シャローム

確かな平安、正しい生き方を求め、深く、ひそかに心の飢え渇きを感じておられる、まじめな人、善意の人、素直な人ほどカルトの虜になっておられることが多いと感じます。

 
真面目な善意の人の中にシャロームは入っていません。そういう人を騙しているのがシャロームです。カルト思想を持ち、自己中心、自己正当化だけの偽善者シャロームです。この人からは、無視不感不応無頓着無反省が生まれてくるだけです。
 
シャローム

 自由さんはその痛みの経験がありますから、信じることに人の自由がなければならないと感じておられるのだと思います。

 
信じることに自由はありますが、身勝手があってはならないのです。大方のカルトと、シャロームは、詭弁をもって、身勝手を広めようとしています。偽善は、悪なのに、善に見せかけることだから、めちゃくちゃなことを言いながら平静を装って、笑いながら嘘を吐くような、シャロームは、ぴったり当てはまるのです。
 
自由と自己中心の身勝手を混同する詭弁です。自由は、自由に議論もしますし、何より、修正が可能なのです。どうかシャロームという訂正不能カルト教祖体質に影響されないでください。
 
シャローム

 「真理はあなたがたを自由にする」とは聖書の言葉ですが、人による真理ではなく、神の真理であられるイエス。キリストご自身なのです。
 「わたしは道であり、真理であり、いのちです。だれでも私によらないでは父のもとに行くことは出来ない」と言われたのはイエスさまご自身なのです。嘘であれば、イエスさまは最悪のカルトであり、最悪の詐欺師ですね。
 是非コリント人への第一の15章を読んでみてください。

 
カルト教祖的体質を持っている者が根拠にするのは、こういう、神の真理、キリストご自身、ということになります。このことを豪語し、大仰に繰り返す以外にすべがないのです。
 
シャロームは、自己のためには、表現に事欠いて、キリストにまで冒涜の言葉を当てはめることに逡巡しないようです。キリストがシャロームの中で、いかに軽いかを物語っています。
 
キリスト者は、キリストの教えに嘘はないと信じています。分からないところを考えてきました。これからも考えてゆきます。
 
カルトであり、最悪の詐欺師は、シャロームに他なりません。
 

自由さん
 「信仰は人それぞれでは済まされないという点については考えは同じみたいですね。」

 
シャローム

いいえ。同じではありません。
 信仰という言葉に含まれていることには、
 信仰の土台として神が据えられた永遠普遍、不変の不動の土台と、人による信仰の中身?あり方として、人がその土台を基礎としてどのような生き方をするかという二つのことにによって成り立っているのです。
 建物に基礎と建造物があるのと似ています。
 基礎は基礎は堅くて動かないものであり、建造物は人の思い、願い、好みによって様々な形、様々な建材を使って建てることと似ています。

 
シャローム「神が据えられた永遠普遍、不変の不動の土台」
 
絶対言葉を使うことで讃美するのは、カルトとパリサイ人などの偽善者の特徴でしょう。そのうえで、人の生き方を語るのは、しばしばカルトの脅迫に使われる言い方でしょう。
 
キリストが礎となる、という聖句から、喩えを広げたつもりで、人が建てる建造物を持ち出すというのは平凡ですが、それを、この文脈で持ち出すことは、自分は分かっている、という自慢にしかならないのです。
 
比喩というのは、形象化によってテーマから距離を取るために、よほど直感に訴えないと、それを書いて、似てる、というだけでは、テーマについて具体的なことを語ったことにはならない、という特徴があります。
 
シャローム

信仰の土台は神が据えられた永遠不変、不変。信仰の在り方、生き方は人がそれぞれ与えられた自由意思に従って、神が据えられた土台を土台として、神のみことばと聖霊の導きに従い、どのような生き方をするかは自由ということです。有限で相対的な不確かな神と神のみことばを信じないで肉に従って生きることもできます。

 
シャロームは、土台が間違っていると私は申し上げています。今さらのように、同じゴタクを並べるとは、シャロームが人の話を全く受け取っていない、受け取る気がないことを証明しているようなものです。
 
シャローム

信仰について自分の、人の考えによることば、論理のみで理解しようとしないでください。

 
シャロームは、信仰について、論理も理路も道理もなく、共感も不要とし、情感を込めるすべさえ知らず、神聖の言葉だけを振り回して、人間としての身の程を弁えず、自分の好き勝手に受け取って、罪を認めず、悔い改めず、ずっと同じことを言い続けています。悔い改めたのか、その表れはどこにあるのか、という問いに答えることなく。
 
シャローム

かえってその限界性と相対性のために混乱させらせら、人による偶像信仰に迷い込みます。神による信仰の土台を受け容れることも、信仰による歩み、生き方も、神は人の自由意思による選びにゆだねてくださっているのです。

 
シャロームは、限界性と相対性を混乱のもととして敵視して、偶像信仰と言っているようです。
まさに、その結果を表しているのが、シャロームなのです。相対的な人間が、絶対を分かっていることにしたゆえに、人の言うことに耳を貸さなくなり、不感不応になっているのです。
 
人に自由意志があるといっても、神が人の総ての自由意志を是としているわけではないことは、聖書においても明らかですし、歴史の事実においても、経過と結果によって明らかなのです。
 
このように、シャロームの人それぞれは、全く信用するに値しません。彼は、自分勝手を、長々と、あたかも、ほめたたえるかのように書いて、信仰に関わる人を煩わせているだけなのです。
 
また不謹慎なことを言いますが、シャロームは、耳かきの上に信仰を載せて、笑っているようなものです。それは違う、それは、ミミクソだ。大事なことは、そこには何もない。
 
だから、シャロームは、何も大事なことを伝えていないし、読み応えもないし、感動もないし、納得もないし、ただ浅はかな思い込みの執拗さだけを今日も書いているのです。
 
うわべだけ整えたつもりで、薄笑いの心の奥に大きな闇を抱えて積み重ねてゆくような、シャロームと同じ道を、誰も選んでほしくない。
 
シャロームの自己中心と、聖書の私物化と、神の決めつけと、訂正不能と、罪の無自覚と、悔い改めの不実行を、ゆるしてはいけません。
 
今までのコメントの外れ方から、シャロームは、ひょっとして、荒らしと同様に、宗教が嫌いで嫌いで、いちばん優しいことを言っているキリスト教を滅ぼしたくてしょうがないのではないか、とさえ思えてきます。荒らしとカルトと偽善者、体質において酷似しています。
 
 
(2018年12月15日アップ、同日一部修正)
 
 
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  偽善と詭弁
 
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41424487.html
   コメント欄の続きを編集しています。
 
 
シャロームの汚い詭弁が全開です。醜態が際立っています。
自分がキリスト者ではないことを熱心に証明しているのです。
 
シャロームは、自分のブログに、自分に都合の良い自分のコメントを加えて載せています。
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28819496.html
私は既に、コメント欄で、つまりこの記事で、根拠がない、実行が見えない、ということを批判しているのですが、私がいっぱい書いた反対意見を載せないで、婉曲的に私の悪い印象を暗示し、自分の主張を正義のように印象付ける、というやり方にも偽善者の汚さが加速しています。
 
 
自由さん

 「shalomさんは、イエスの十字架によるあがないを信じることと、悔い改めについては、どのようにお考えですか。
イエスの十字架によるあがないを信じていれば、悔い改めは必要ない?
イエスの十字架によるあがないを信じていても、悔い改めは必要?
stさんのshalom批判のなかで興味ある論点なので、確認しておきたいと思った次第です。」
に対して

 
シャローム

そうですね。私の信仰観と決定的な違いで相容れることがない点ですから当然でしょうね。この違いがキリスト教信仰と異端と言われるキリスト教系異端、エホバの証人、統一教会、モルモン教などとの決定的な分岐点であり、どのようなカルトも強調しているのではないかと思います。私が体験して感じたことで、聖書理解についても、きっとどんなに話をしてもかみ合うことがなく、一致を見出すことは出来ない点ですね。

 
私のことを、カルトだと言いたいようです。私は、キリスト教ならば、罪の自覚や悔い改めなど、必ずあるはずのことを問うていますが、それを、体験と聖書理解において一致しないというのは、キリスト教ではない証拠です。
 
 
自由さん
>「イエスの十字架によるあがないを信じていれば、悔い改めは必要ない?」
に対して
 
シャローム

 悔い改めなしにイエスの十字架の死による罪のあがないを信じることはあり得ません。しかし、重要なことはイエスの十字架による罪のあがないによってのみ、人はまことの悔い改めに導かれるということです。ですから、悔い改めは人のわざではなく、神によって与えられる恵みの賜物なのです。肉の働きから悔い改めは決して生じないのです。悔い改めをもって自分を義としたり、誇ったり、人を裁くこと、だれも他の人に悔い改めを要求することは出来ないのです。そのような悔い改めは神から与えられた悔い改めではなく、人の自我から生じた肉のわざなのです。

 
などと、白々しく言っていますが、では、悔い改めたほうにシャロームは変わったのでしょうか。否です。シャロームは悔い改めたことが一度もないのです。そこでOUTなのです。
 
悔い改めたならば表れてくるはずの敬虔が表れず、悔い改めたならば、決してあってはいけないはずの、嘘吐き、侮辱、嘲笑い、などとともに、同じことを7年間言い続けているだけなのです。
 
自由さん
 「イエスの十字架によるあがないを信じていても、悔い改めは必要?」
に対して
 
シャローム

 必要ですね。イエスの十字架による罪のあがないを信じることによって、罪の赦しを与えられますが、私たちは人としての弱さをもった存在には変わりませんから、罪を犯し、過ちを犯さないでで生きていくことは出来ません。

 
これが偽善者というものです。悔い改めの後が、どこにも表れていません。
そのための詭弁が次の通りです。
 
シャローム

しかし、それも神の恵みによって、私たちを罪の性質から清め導く神の恵みの御業のなかにあるのです。罪を犯し過ちを犯すたびに聖霊様がわたしたちをイエスの十字架のもとに導き、悔い改めに導いてくださるのです。

 
では、なぜ、悔い改めないのでしょう。悔い改めれば、それは書いたものに表れてくるのですが。
 
シャローム

そのように御言葉と聖霊の助けによって私たちの心の闇が明るみに出されることによって、はじめて、私たちの心の闇が御言葉の光にさらされ、悔い改めに導かれ、その光にさらされることによって闇の力は砕かれ、清められるのです。この点においても悔い改めは神の恵みによって与えられるのです。

 
このように、悔い改めは恵みだと言っています。
明らかに、自分で努めることを放棄しています。
信仰はそういうものではありません。信仰者は、信仰によって、悔い改めて成長する生き方をするのが、神を信じる者の道です。
 
シャロームは、神が自動的に悔い改めさせるかのような、させられ体験的なことを書いています。
我欲と自尊によって、怠慢と無視を正当化し、自分が悔い改めないことを、神の意志だと言っているのです。
 
シャロームは隠し事のカルト教祖のようなものです。シャロームの心の闇は、隠している分、明るみに出されたことはなく、悔い改めたことが無い、ということを覚えてください。
 
シャローム

 罪の増すところ恵みもいや増せり(ロマ5:20)
 口語訳エペソ
5:12 彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。
5:13 しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
5:14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、/「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。

 
どうしようもなく罪を犯してしまった人に対する神の救いのメッセージです。光が当てられ、明らかにされるのは、悔い改めることで信仰によって救われるためです。
 
罪と偽善を、次から次に増し加えて、信仰者気取りものものには、報いが迫るだけです。
実に悍ましい詭弁をシャロームは書いています。
 
シャロームは、起きているのに、気づかず、キリストから離れて、地獄への下り坂を、照らされることもなく、人間としては死人のまま、ますます黒ずんで、ひたすら、裁きと報いへ向かっています。シャロームの悪魔性が今回いっそう明らかになっています。彼の言説を決して誰にも届かせてはならないので批判を続けています。
 
私の
>私の「赦しを乞う祈りのほうが大切です」は、信仰と別にあるものではありません。
>2018/12/11(火) 午前 10:57
 >罪の告白と、時々の赦しを乞う祈りによって、改めてゆくのが、人間の成長です
>2018/12/11(火) 午後 2:10
に対して
 
シャローム

カルトはよくこのように主張して、人の信仰と心、生き方を操作、支配しようとします。
 
○○○○を追放できるなら、ぼくは悪にでもなる。

 
カルトがよく使う手段であるところの、言われそうなことを批判者に向けてくる、という手練手管です。罪を犯し悔い改めながらでも、上にも書いたとおり、彼の言説を決して誰にも届かせてはならないので批判を続けています。
 
シャローム

 統一教会は蕩減復帰のあと為すべき責任があると言われたり、合同結婚させられたり、この世を蕩減するために霊感商法によって金品を詐欺商法によって販売し蕩減行為をし、だまし取ったものを統○教会にささげることを要求し、エ○バの証人は奉仕活動をし、輸血禁止など多くの戒律を守るよう求めるのです。またモ○ルモ○教は献身して仕事を辞め、宣教師となり仕えるように要求されたりするのです。
またオーム真理教は恐るべき犯罪集団となり、悲惨な犯罪を犯し、悲惨な結果を招きました。
自由さんは幸福の科学から何を学ばれたのですか。

 
このように、ここでは直接関係のないところの、社会問題となった邪悪なカルトのことを言って、印象操作をしてきます。悪魔性です。
 
シャロームを引用する自由さん
>悔い改めなしにイエスの十字架の死による罪のあがないを信じることはあり得ません。
>悔い改めは人のわざではなく、神によって与えられる恵みの賜物なのです。
>だれも他の人に悔い改めを要求することは出来ないのです。
>私たちは人としての弱さをもった存在には変わりませんから、罪を犯し、過ちを犯さないでで生きていくことは出来ません。
 
自由さん

実は、自分は、意見が一致しなくても、あまり気にならない方だったりします。
 自分は、甲と考える。
 Bさんは、乙と考える。
 Cさんは、丙と考える。
という具合に、他者の意見を知り、その差異が分かると、ひとまず満足。
 他者の意見を、誤解することなく、なるだけ正確に理解できて、「自分はこう考えてるけど、あの人はそうではない考えを持ってるんだな」ということで一区切りです。
むしろ、一致させない方がいいんじゃないかと思ったりもしてます。

 
それこそ、シャロームの人それぞれ、ということですが、
それでよいのは、芸術とか文学など、好みの問題で済まされる問題のときです。
それと同じように信仰を語ることは決して出来ません。
 
シャロームは、社交と詭弁によって、人にすり寄り、騙してきた害悪なのです。
この人をゆるしてはいけません。本気なのかと疑われるでしょう。
 
記事にします。
 
シャロームは、自分の都合の良いように曲解した聖句を引用して、さらに偽善ぶりを発揮するでしょう。偽善者が、いかに真実を歪曲するか、という見本を重ねることになります。
 
シャローム

わたしたちの日常生活における人と人との関係、ことがらにおいては私も自由さんの考え方に同感です。しかし、キリスト教という福音についての信仰観については神のみ心を歪曲してしまうような理解に陥らないように気を付けたいですね。

 
シャロームの特徴ですが、悔い改めをしたのか、したならどこに表れているのか、私がカルトだと言いたいなら根拠はどこにあるのか、シャロームがカルトでない証拠はどこにあるのか、など、私の言ったことを全く受けないで、一方的に書いてきます。一つの特徴であるところの、ですね口調で書いて、すり込んできます。これが、カルト信仰者と偽善者の特徴の一つです。
 
シャローム

キリスト教系の異端とされている統一教会には原理講論が聖書理解の基本的考えですし、エホバの証人には新世界訳という自分の教理に合わせた訳の聖書があり、教理理解の本があります。モルモン教にはモルモン経というモルモン教によって作られた経典があります。
 異端の教理のすべてが間違いであることではなく、ほんの一部が聖書のみ、信仰のみではなく、必ず+αが混入され、教祖の神格性や権威とづけの根拠とする教理によってカルト化されているようです。

 
そして、直接関係のないカルト話を書いています。それだけではなく、このコメントからは、シャロームの特徴も表れています。
 
申し上げますが、カルトは、キリスト教+αではありません。本質が正反対なのです。中心に神ではなく、自分の解釈を置いています。そして、それは、きわめて、自己あるいはカルト解釈絶対から自己あるいは集団中心の教条へと変わっています。ここは、シャロームの悔い改めることのない信条と酷似しています。
 
キリスト者は、自己または教えられたことを中心に置くのではなく、悔い改めによる修正可能をもって、自らを神の前に晒し、赦しと癒しと救いと導きを求めてゆくのです。
 
修正可能性が全く見られないのがシャロームです。だから成長がなく崩壊だけが露わになって進行します。シャロームのカルト話は、シャロームに向けられるべきです。
 
私は、私が感動するような解釈や信仰の話に出会ったら、私の言説を改めるでしょう。
 
シャロームから、感動できる話や納得できる話を聞いたことは一度もありません。
シャロームの言は、詭弁か、的外れ応答か、丁寧語と聖書語の生臭い酸味の讃美か、
陰気臭い罵りだけです。
 
 
(2018年12月14日アップ)
 
詭弁(きべん)
罵り(ののしり)
 
 
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  現実に生きるからこそ
 
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41424487.html
   コメント。一部タイムスタンプ省略。
 
 
きみが笑ってくれるなら、ぼくは悪にでもなる
 ・・すべての大人しい人々へ。
 
大袈裟でした。失礼。中島みゆきの歌詞だったと思いますが、厳しく辛辣に物を言う役割は、今のところ、私だけのようなので。
 
 悪は、ここでは、罪を犯すこともあるということです。辛辣な言い方は、シャロームのような人がいる限り、やめるわけにはいきませんが、罪なのでしょう。祈りにつなげるつもりです。
 
2018/12/10(月) 午後 4:14 st5402jp 返信する
 
 
>stさん
 
「ぼくは悪にでもなる」には、おどろきました。
でも、すぐに修正されたようなので、安心しました。
悪いこと、罪なことは、できるだけ避けた方がいいと思うので。
 
2018/12/10(月) 午後 8:01 [ 自由 ] 返信する
 
>shalomさん
 
迷惑とは思ってませんので、いつでもお越しください。
ところで、よなたんさんのところで、下のコメントを見ました。
shalomさんは、イエスの十字架によるあがないを信じることと、悔い改めについては、どのようにお考えですか。
イエスの十字架によるあがないを信じていれば、悔い改めは必要ない?
イエスの十字架によるあがないを信じていても、悔い改めは必要?
stさんのshalom批判のなかで興味ある論点なので、確認しておきたいと思った次第です。
 
 >無限の赦しを、イエスさまの十字架の死による罪のあがないによって与えられていることを固く信じるからです。
https://blogs.yahoo.co.jp/under_the_figtree/33736936.html#33748910
 
2018/12/10(月) 午後 8:02 [ 自由 ] 返信する
 
 
> 自由さん
 
悪と罪という言葉だけ避けている人もいますから。悪と罪ということは、キリスト者にとって、身近なはずです。
 
2018/12/10(月) 午後 9:07 st5402jp 返信する
 
> 自由さん
 

イエスの十字架によるあがないを信じていれば、悔い改めは必要ない?

 
 二千年前の十字架によって、今生きている信仰者の罪がない、というのは、魔法の世界の話でしょう。現実に、罪と悪の事実が報じられる世界では、二千年前の十字架の贖いより、今、折に触れて、赦しを乞う祈りのほうが大切です。
シャロームは、十字架、罪の贖い、贖われたから、罪はない、という、幼稚な三段論法的な考えで、赦しと救いの成就を既遂としてしまったのです。教条主義だとそうなりやすい。それで、今は罪を気にしなくていい、という、独断になってしまっています。
 
2018/12/10(月) 午後 10:57 st5402jp 返信する
 
 
>stさん
 
自分としては、shalomさんは、「信仰のみ」という考え方なのかなと思って質問してみた次第です。
救われるには、イエスを信じることのみで十分であって、その他のことはあまり考えなくていいとか…?
 
ちなみに、これと似た考えは浄土真宗にもあるみたいです。検索で一番にでてきたページの説明では次のように述べられてます。。
 
>ですから本願を信じたうえは、救われるために他のどのような善行も必要としません。
 如来よりたまわった本願の念仏にまさるほどの善はないからです。また悪もおそれるに及びません。
 阿弥陀仏の本願の救いをさまたげるほどの悪はないからである、と仰せられました。
http://www.hotokuji.com/tannisyo-1.html
 
2018/12/11(火) 午前 6:55 [ 自由 ] 返信する
 
一方、stさんの方は、
 「現実に、罪と悪の事実が報じられる世界では、二千年前の十字架の贖いより、今、折に触れて、赦しを乞う祈りのほうが大切です」
というように、信仰のみではなく、「赦しを乞う祈り」という行為も必要だとしてると…?
 
2018/12/11(火) 午前 6:56 [ 自由 ] 返信する
 
 
> 自由さん
 
違います。
 
>shalomさんは、「信仰のみ」
 
シャロームは信仰ではなく、信じ込みです。仰ぐ姿勢は芝居です。
 
私の「赦しを乞う祈りのほうが大切です」は、信仰と別にあるものではありません。
 
これは、キリスト信仰の芯です。つまり信仰です。シャロームに欠けているものです。
 
シャロームの、イエスを信じる、というのは、自分の都合の良いように自分を救い守るイエスそして神であり、いちばん大事なところを外しているので、キリスト信仰とは言えないのです。
 
よろこびをも、かなしみをも、えらびとりて、あたえたまえ、
 
 讃美歌の一節です。
 
かなしみのない信仰はあり得ません。最後は、地上で死を迎えるのですから。
 
2018/12/11(火) 午前 10:57 st5402jp 返信する
 
シャロームの理路には、一見、教理のように見えても、実感がありません。教条主義の特徴です。だから、やたら讃美するしかなくなっています。
 
人間ならば「{人間の理路}」
あるいは、
 「{人間の理路}」というのが人間だ
 
というのが、実感を内実とする人間の理路だと思っています。
 
もし、シャロームは神のこと信仰のこと、私は人間のこと現実のこと、を言っていると思っておられるなら、申し上げますが、
 
私たちが、根拠と是非を語れるのは、現実の人間世界だけです。信仰が現実離れすると、シャロームのような、自分の都合を超常に当てはめるような信仰になってしまうのです。そういう自己中心と、カルト化が、キリスト信仰の敵となっています。
 
2018/12/11(火) 午前 11:08 st5402jp 返信する
 
>「ぼくは悪にでもなる」には、おどろきました。
>でも、すぐに修正されたようなので、安心しました。
>悪いこと、罪なことは、できるだけ避けた方がいいと思うので。
 
おどろかないでください。
安心しないでください。
 
悪いこと、罪なことは、避けて通ることは出来ません。
キリスト教においては、真となるテーマと題材です。
そこを避けて、良さそうなことばかり言って、慢心しているのが、シャロームとカルトです。
 
真となるテーマ(誤)→芯となるテーマ(正)
 
罪と悪は避けて通れない、ということは、必ず罪を犯し悪を行うことがあるのが人間、というより、罪と悪の系譜が人間、とまで言って、だから、信仰による救いが必要、という考え方です。
 
罪と悪を避けることが信仰、行為義認と言いますが、そうではないのです。
罪と悪は避けられないなら、その時々に赦していただく以外に救いはないということです。
 
シャロームのように、考えることを止めてしまうと、十字架で成就したのがキリストの使命で、救い全体を受け取ったつもりになって、その幼稚な心性のまま訂正不能になってしまうのでしょう。もし救い全体であるならば、その後、聖霊も、そして、信仰さえも必要なかったはずです。シャロームは、利己を念じているだけです。
 
シャロームは「生ける神」という言葉を好んで使うようですが、生ける神は、生ける人間を救います。シャロームが、死体を叩いても蹴ってもびくともしない、という、信仰を死体に譬えるような、死の進行は、生ける神は語っていません。
 
2018/12/11(火) 午前 11:43 st5402jp 返信する
 
罪と悪を、避けるべきもの、避けられるもの、という考えで生きてゆくと、シャロームのように、自分で気づかずに、自分では真っ当なつもりで、それこそ真っ逆さまに、罪と悪にどっぷりつかって、飲んで、飲みこまれてしまうことになるのです。
 
2018/12/11(火) 午後 1:06 st5402jp 返信する
 
私たちは、常に、罪と悪と対峙して生きています。対峙しているだけでなく、原罪ある身の人間は、ときに、罪と悪を身にまとうこともあります。その罪性を認め、罪と悪の存在でもあることを認めることが信仰の始まりです。そこから、罪の告白と、時々の赦しを乞う祈りによって、改めてゆくのが、人間の成長です。
 
2018/12/11(火) 午後 2:10 st5402jp 返信する
 
人間が、試練としての邪心に支配されることのないために、人間が神から与えられた良心をなくさずに済むように、また、その良心の働きを生かすことが出来るように、そして、人間が真実を喜び楽しめるようになるために、洞察と思慮と情感に満ちた知識から信仰が与えられるのです。
 
キリストから、それらの賜物を受け取らず、神の子だ、奇跡だ、贖いだ、救いだとばかり吹聴する向きは、聖書の一言さえ読んだことにはならないのです。
 
シャロームは、信仰告白のつもりで、背教宣言をしているのです。
 
2018/12/11(火) 午後 2:15 st5402jp 返信する
 
 
>キリストから、それらの賜物を受け取らず、神の子だ、奇跡だ、贖いだ、救いだとばかり吹聴する向きは、聖書の一言さえ読んだことにはならないのです。
>シャロームは、信仰告白のつもりで、背教宣言をしているのです。
 
シャロームさんが書いてるのは、福音伝道というものかなと思って読んでました。
 
2018/12/11(火) 午後 8:58 [ 自由 ] 返信する
 
 

シャロームさんが書いてるのは、福音伝道というものかなと思って読んでました

 
シャロームは福音伝道のつもりなのでしょう。つもりが、その通りとは限らないということです。その点はカルトと同じです。
シャロームが奇跡体験の話をしていましたが、ここでしたか。何か病気がよくなったみたいな・・今回も奥さんのがんの手術のことで、似たようなことを書いています。それを神の恵みと奇跡による守りだと思っているようです。だから今のままでいいと思っている。
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28819496.html
そこで、自分のしてきたこと一切を合理化してしまっているのでしょう。一歩引いて、それが信仰なら、誰にとっても、いいことばかりになるはずだか、そうなっているかとか考える、というような内省的、また、一般的思考が出来ないようです。
 選ばれている、という気持ちかもしれません。だから、執拗に伝えようとします。誰にとってもそうだったら、誰も苦労しないのに、それだけではないはずだ、と考えないのでしょう。いいことばかり考えて奇跡を待っている態度、その無頓着が人間性を破壊しているんじゃないかと思います。都合の悪いことを考えなくなったから。
 
2018/12/11(火) 午後 10:32 st5402jp 返信する
 
 
(2018年12月13日アップ)
 
 
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  偽善の嫌がらせ(2)
 
   
https://blogs.yahoo.co.jp/under_the_figtree/33736936.html
   コメント欄、続き。
 
 
すでに破たんしているのに、その自覚もなく、シャロームは書いてきました。
シャロームのコメントからです。
 
 
> st5402jpさん おはようございます
 
 ピリピ人への手紙
3:13わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
3:14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
3:15 だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。
3:16 ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。
 
2018/12/10(月) 午前 7:57 [ shalom ] 返信する
 
よなたんさん いつもありがとうございます!
 
いつもよなたんさんの記事を読まれる方にわかりやすく、信仰のあるなしにかかわらず、信仰や聖書の言葉、生き方に対する疑問やとまどいをわかりやすく書いてくださり興味深く読ませていただいています。
 
2018/12/10(月) 午前 9:22 [ shalom ] 返信する
 
 
きみが笑ってくれるなら、ぼくは悪にでもなる
 ・・すべての大人しいクリスチャンへ。
 
 大袈裟でした。失礼。中島みゆきの歌詞だったと思いますが、厳しく辛辣に物を言う役割は、今のところ、私だけのようなので。
 
 悪は、ここでは、罪を犯すこともあるということです。辛辣な言い方は、シャロームのような人がいる限り、やめるわけにはいきませんが、罪なのでしょう。祈りにつなげるつもりです。
 
2018/12/10(月) 午後 4:10 st5402jp 返信する
 
 
> shalomさん
 

よなたんさん いつもありがとうございます!
いつもよなたんさんの記事を読まれる方にわかりやすく、信仰のあるなしにかかわらず、信仰や聖書の言葉、生き方に対する疑問やとまどいをわかりやすく書いてくださり興味深く読ませていただいています。

 
 世辞が、どんどん酸っぱく臭くなりますね。まだ、これで、まともなつもりでしょうか。分からなくなっていますか。文脈の中の、不相応な、唐突な賛辞。あなたには、こういうのが、頻発しているのです。
 
2018/12/10(月) 午後 9:20 st5402jp 返信する
 

ピリピ人への手紙
3:13わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
3:14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
3:15 だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。
3:16 ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。

 
思い出します。以前、私に「達しえたところに従って」歩むように、私に言った。聖句引用も、あなたの都合だけの意味付けをしてくる。
 
あなたの勝手な解釈は、
 
3:13
後のものを忘れ・・あなたには、何をやらかしても、悔いることなく、忘れ、
前のものに向かって・・あなたには、何をやらかしてもいい
という勝手な意味づけだと、以前、分かったことを思い出します。
3:14
あなたは、何も努めていないだけでなく、偽善を働いて、賞与をくれと言っているようなもの
3:15、16
あなたは、全き自覚だけがあり、実際は、偽善しかない。その後と跡から目を逸らして、達しえたところに従って、というが、あなたにとって、達しえたのは、何度も言ってきたように、偽善の捏造した無刺激無反応の安穏の沼です。あなたは、その沼で、手足をばたつかせて溺れながら、進むんだ、進んでいると、わめいているだけなのです。
 
シャローム、困ったときに聖句を並べる、という、あなたの常套手段の一つ。あなたの解釈の恣意と、ゆがみを文脈において表すだけです。聖句悪用も偽善です。また一つ、あなたは積み重ねました。
 
2018/12/10(月) 午後 9:35 st5402jp 返信する
 
聖句は、信仰者であること、信仰者らしくあることが、前提です。
シャロームあなたは、その前提を、何も満たしていません。偽善者である限り、満たすこともありません。聖句は、後、すなわち、過去を、無視することを勧めてはいません。何故なら、聖書は、罪を無視することなど、決して勧めてはいないからです。
 
ここに、書くのは止めなさい。あなたの醜さが際立つだけです。それは、さらに、結果として、あなたが、キリスト者ではないことを表すところの、あなたの恣意に過ぎません。
 
同ピリピ3:12
わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
 
分かっているつもりになって、追い求めようとしない者は、去れ。
 
2018/12/10(月) 午後 9:48 st5402jp 返信する
 
二千年前の十字架によって、今生きている信仰者の罪がない、というのは、魔法の世界の話でしょう。現実に、罪と悪の事実が報じられる世界では、二千年前の十字架の贖いより、今、折に触れて、赦しを乞う祈りのほうが大切です。
シャロームは、十字架、罪の贖い、贖われたから、罪はない、という、幼稚な三段論法的な考えで、赦しと救いの成就を既遂としてしまったのです。教条主義だとそうなりやすい。それで、今は罪を気にしなくていい、という、独断になってしまっています。
 
2018/12/10(月) 午後 10:57 st5402jp 返信する
 
シャロームの理路には、一見、教理のように見えても、実感がありません。教条主義の特徴です。だから、やたら讃美するしかなくなっています。
 
 人間ならば「{人間の理路}」
あるいは、
 「{人間の理路}」というのが人間だ
 
 というのが、実感を内実とする人間の理路だと思っています。
 
2018/12/11(火) 午前 0:48 st5402jp 返信する
 
 
※ 
 
シャロームは、ずっと前から最近までの数々の自分の失敗を考えようともせず、何事も無かったかのように、一人前のキリスト者然として、いつも、バカ丁寧語やハズレ聖書語の挨拶から始められると思っています。批判しなければ、図に乗って、次は、得々と自分の信仰?の境地を自慢し説教を始めるでしょう。それを福音伝道と思っているから、悍ましい限りなのです。
 
上に書かれているような、婉曲的な問い詰め方は、荒らしに酷似しています。そして道理や整合性など何も成り立たないところで、個人情報をネタにして相手の悪を印象付け、自分に有利に運ぼうというのは、カルトに似ています。
 
つまり、信仰に絞って真実を追求しようとか、話を深く掘り下げようといったスタンスなど、元々持っていない人なのです。快楽原則だけと言ってよいでしょう。そうして、自らの作為によって得られる快楽や無音無言の安穏を、神の平安と呼んでいるのです。これまで、いったい、どれだけの人を、どのように退けてきたのか、背筋の寒くなるところです。神を恐れるキリスト者なら、決してできないことを平気で仕掛けてくるのがシャロームです。
 
始めてから7年間、毎回のように頻繁には3年間、根拠と理由を示して批判を続けています。批判されて、弁明と反論が出来ない場合、いい加減、書くのを控えるか、書くのが嫌になるか、反省するはずです。しかし、シャロームは、神が不動の奇跡的な恵みを自分に与えた、という、自分信仰の絶対自我による無視と忘却で、ケロッと、しらばっくれることが出来るのでしょう。
 
シャロームは、恐らく、批判と悪口の区別が出来ないのだろうと思います。批判の目的は真実追求で、悪口の目的は腹いせの攻撃です。批判は理路を大事にして根拠や理由を示しますが、悪口は始めから終わりまで根拠なく罵倒するだけです。聖書の「悪い言葉」というのは悪口のことだと思います。シャロームは、そこを区別できずに、同じ言い合いをしている認識のようです。
 
だから、シャロームは、次元の低い当てつけも真っ当なつもりで書いているようです。そういうシャロームが相手だから比喩が辛辣になったりもしますが、最初からそうだったわけではありません。疑問の提示に対して、シャロームが、真っ直ぐな答え方をせず、はぐらかしたり、皮肉ったりしてきたところから、だんだん、現在進行中の、厳しい批判+辛辣な比喩表現になってきたのです。
 
こうなってしまうと、批判による説得は期待できません。シャロームの影響を受ける前に、せめて、私のブログを見る人たちに、キリスト教に見せかけた偽善者として、こんな嘘吐きがいるという情報を敷衍してゆくしかないのです。
 
 
※ 
 
シャロームは、12月9日のコメントで、開き直って、彼の信仰とその言説について、コメントしました。断片的には、
 
いつでも、いつまでも繰り返しますよ、/罪の赦しを幼児の幼稚さのように信じる、/人の論理や信条は御言葉への信仰に基づかない限り、どんなに人の納得や共感を得られることがあっても罪であり、/肉の働き、人の肉はすでにイエスさまとともに十字架につけられた、/私はこれからもすべてのことを相働かせて益としてくださる方を信じて私に与えられた信仰によって歩んでいきます、
 
などと言っているわけですが、御言葉を信じておれば納得や共感など要らないかのように人間の良心を破壊せてきたシャロームは今その破壊の醜さだけを全開であらわにしています。浅はかな讃美と感謝と世辞の挨拶、これからも、実際には、自分の益だけを信じ込んでシャロームは生きるのだそうです。救いの御言葉を自分にだけ当てはめて、他者を世辞と社交で軽視~無視してゆくシャロームの偽信仰の経過と結末を見たい人見れる人はじっくり見ていてください。
 
シャロームの言っていることは、彼の、嘘を吐いても、侮辱しても、悔い改めをしない、罪を認めない、という妄想信条を、彼の言葉で、いつまでも繰り返す、ということなのです。
 
罪を認めることと悔い改めは、キリスト信仰の芯であります。シャロームは、それをしないどころか、キリスト信仰を、納得と共感は得られても信仰ではないと断言しています。どうやら、世俗の納得に過ぎないと言いたいようですが、シャロームの言説は、反キリストの妄想です。これほど曲がってしまっても、訂正不能を、聖句を引用して信仰だと言い張るのです。
 
人間が、試練としての邪心に支配されることのないために、人間が神から与えられた良心をなくさずに済むように、また、その良心の働きを生かすことが出来るように、そして、人間が真実を喜び楽しめるようになるために、洞察と思慮と情感に満ちた知識から信仰が与えられるのです。
 
キリストから、それらの賜物を受け取らず、神の子だ、奇跡だ、贖いだ、救いだとばかり吹聴する向きは、聖書の一言さえ読んだことにはならないのです。
 
シャロームは、信仰告白のつもりで、背教宣言をしているのです。
偽善を暴露し、敷衍するのが批判の目的とはいえ、ひどい日でした。
 
(シャロームのコメントから引用した私のコメント)

きっとあなたは罪を悔い改める者にのみ与えられる赦しだと信じておられるのでしょう。

 
このシャロームの、5:02コメントから、
シャロームは、罪を悔い改めない者にも赦しが与えられると信じている、
ということが分かると思います。
 
この発言は、
パリサイ人も信仰者と同様に救われる、偽善も罪だから同様に悔い改めなくても救われる、
と、シャロームが以前言っていたこととも符合します。
 
それを考えたうえでの私の11:01コメント
「そんな勝手な赦しなど、キリストは与えないし、私は受け取ったことありません。」
になります。一応、補足です。
 
 
(2018年12月12日アップ)
 
敷衍(ふえん)
 
 
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