ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年01月

 
  ミイラの徘徊(3)
 
  ★カルト体験 
 (人間観の問題:人は神性を有する神の子だと思い込み過ぎると、
 反省できなくなってしまう?)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41338653.html
 コメント欄。
 
 
シャロームの偽善者としての強心臓が、ずっと表れて続けています。どんなに不都合なことが起こっても、起こった出来事の事実そのものを記憶から排除できるのでしょうか。そのような無視の能力を、いったい、どこから吹き込まれて、また、できるんだという確信のもとに、記事を書き続け、コメントを書き続け、偽善の罪状を、天にも地にも積み重ねてゆくのでしょうか。
 

教会でも目的‐機能論的推理による暴走はよくあります。
教会で聖霊の働きである導き、助けを強調されるとよく分裂、混乱が起こることがあります。霊はなにしろ見えないのですから、たしかにそういう危うさには気を付ける必要がありますね。そのために聖書のみ言葉との整合性をつねに求めることが不可欠だとおもいます。

 
聖書に聖霊や霊感のことが書いてあれば整合性があるからいい、というものではないのです。聖なる存在には、常に、恐れをいだいていなければいけません。聖書に書いてあるからと、聖霊の名をみだりに使ってはいけません。
 

 使徒パウロは弟子であるテモテに次のように書いています。
 新約・第二テモテ
3:14あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、
3:15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。
3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 
「とどまっていなさい」とは、シャロームのように固定して訂正不能でよいということでは決してありません。「だれから学んだか知っており」「あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて」とあるように、学んで準備をする務めがあるのは言うまでもないことです。不完全な罪びととしては、学習可能、修正可能であることが必須なのです。
 
聖書は救いで、整えられたものになる、と聖句は言っています。ここは、聖書に書いてある、聖書の言葉と整合している、と言って悪用する者が出てきそうです。シャロームが載せていない直前の聖句を見てみると、
 
 (テモテへの手紙、口語訳)
3:12
いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。
3:13
悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。
 (テモテ3:12-13、新約聖書)
 
ということが書かれてあります。つまり、自説を正当化するために、聖書に書いてある、書いてあると、だらだら無駄に長い文章を書いて、悪用をする者がいるということです。
 

ほかにもたくさん聖霊について書かれています。イエスさまも死を前にして弟子たちに聖霊の来臨とその働きについて話しておられます。イエスさまを信じる信仰は人から生まれた思想ではありませんから、神の言葉である聖書という土台抜きにはあり得ないのです。

 
神の言葉である聖書という土台抜きにはあり得ないと、その通りに自分には聖霊が降りていると言いたげに、神聖のみを根拠とする人は、人間としての説得の根拠を持たない人ですから、信用しないほうがいいと思います。人間は人間としての学習と成長への努力が必要です。
 

(自由さん)
「絶対神がいるなら全ては予定されてるだろうし、絶対神がいなくても何らかの法則があるなら全てはニニが四なんだろうなあと。」


 神はとことんまで私たちの主体性と自由を尊重されます。カルトのように決して法則で私たちを縛り、支配される方ではありません。私たちは自由に選択し、行動することができますが、決して結果を選ぶことは出来ません。その結果が私たちにとって苦々しい受け入れられない結果であっても、その結果をとおして神は最善の導きをしてくださる方なのです。私たちの弱さや過ちですら、ご自分の祝福の通り管とすることのできる方です。

 
人間の主体性と自由について、シャロームは、相当に軽視してきたと思いますが、ここでは、手のひらを返したように、神が主体性と自由を尊重すると言っています。しかも、その結果を通して神が最善の導きをしてくれると言っています。さて、シャロームは、悔い改めない罪と偽善に塗れていますが、その偽善が神の祝福の”通り管”だとでも言いたいのでしょうか。絶対正義の神の立場で、そういう場合もあるのです、とでも言うのでしょうか。
 

確かに私たちが罪を犯せば、その罪が私たちの苦い結果をもたらしますが、神はその苦みをとおして、私たちをご自分のみもとに引き寄せ、み言葉の真実を証しし、私たちの信仰をみことばしっかり結び付けてくださいます。信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉からという聖書の言葉だと書かれています。

 
シャロームの罪と偽善は、苦い結果によって、シャロームを、神のもとに引き寄せたでしょうか。神に引き寄せられたのなら、今までの罪と偽善を悔い改める発言があるはずですが、シャロームは、相変わらず、悔い改めた発言も様子も示さないまま、ここに、まともなつもりで、説教を書き続けていることが、そのことを明確に否定しているのです。
 

神はすべてのことを相働かせて益としてくださる方だとも聖書にかかれています。全ての道で主を認めよ、そうすれば主はあなたがたの道をまっすぐにされるとも書かれています。
どんな弱さも失敗も神には神の恵みをあらわし、祝福としてくださいます。

 
シャロームが上で神が尊重すると言ったシャロームという人間の主体性と自由において、神はすべてのことを相働かせて益としてくださっているでしょうか。道は真っ直ぐになったでしょうか。何も益とはならず、真っ直ぐにもならず、シャロームは、何事も無かったかのように、自説を説教し続けています。シャロームの言行も因果も矛盾しています。
 
弱さも失敗も、正直に告白して赦しを祈る精いっぱい誠実な信仰者にとってだけ、神の恵みは顕れ、祝福となるのです。つまり弱さや失敗が、成長の糧になってゆくのです。
 
シャロームは、罪と偽善を悔い改めず、罪悪感も抱かず、まるで気にせずに、白々しい説教言葉と聖書語を言い続けているあいだ、悔い改めない者として、偽善者のままであり、ますます、ペテン師らしく、平気で嘘を吐いて回るようになってゆくのでしょう。
 
 
シャロームの詭弁を、もう一つ、ここに書いておきます。
自由さん「アドラー心理学」コメント欄より。
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41368232.html
一部編集。
 
(シャローム)

口語訳ロマ2:1~
2:1 だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。
2:2 わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。
2:3 ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。
2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
2:5 あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。
 【口語訳】二コリ
7:10 神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救神のみこころに添を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。
(シャローム)
 悔い改めは人が人に要求できるものではなく、神が与えられる恵みです
2018/10/4(木) 午前 8:03 [ shalom ] 返信する

 
(私)
正しい裁きというのは、神という絶対が、多くは強制的に、背く人に対して下すものです。人が、自分を絶対の正義に置き、誰かを悪と決めつけて、何らかの制裁を下すなら、神に背いて裁くことになるということを聖句は教えています。それを、冷酷にやっているのは、むしろシャロームであります。シャロームの前提には、自分の絶対正義があり、ゆえに、聖句を引用すれば、その目的も解釈も神の御心に適っているという前提が訂正不能になっているのです。
(私)
私は絶対の正しさなど持っていないので、言論によって、シャロームの誤りや矛盾や詭弁や卑怯さなどを指摘してきました。ゆえに、裁くということとは明らかに違います。私は、遠慮なく書いているので、それが気に入らないシャロームは、聖句の悪用をもって、裁いている、裁いていると、わめいているに等しい決めつけをしています。その決めつけこそが、裁いている思考と志向なのです。絶対ではない自分を知っているなら、悔い改めるはずです。シャロームは、全く、その逆を走っています。
(私)
「神の慈愛があなたを悔改めに導く」「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救神のみこころに添を得させる悔改めに導き」という聖句は、神の慈愛を受け取った人は、その愛ゆえに悲しみを癒やされ、罪を赦されるゆえに、悔い改めるということです。
シャロームは、教条的に、言葉の辻褄だけで、神が導く、という言葉を吊り上げて、悔い改めは神が与える恵みだと言っています。
(私)
上の聖句によると、この約7年間、恐らくずっと前から、悔い改めたことのないシャロームは、神の慈愛を受け取ったことがない、ということになります。それで説明がついてしまいます。
(私)
シャロームは、聖句を、超常の辻褄と教条だけで受け取って上のような聖句を悔い改めないことの根拠にしたいようですが、じつは、せっせと墓穴を掘っているということです。
(私)
シャロームの詭弁は、心で受け取ることのないシャロームの、本当の悲しみを知らず、本当の神の慈愛も、キリストの共感もキリストへの共感も知らないことからの必然であるのかもしれません。私は、もはや、シャロームに悔い改めを要求している段階にありません。ただただ、シャロームの詭弁の影響を誰も受けることがないように、批判記事を書いています。
 
 
※ TVドラマ「クリミナルマインド」の格言から
 
http://toikimi.hateblo.jp/entry/2018/07/11/211656
 
庭には、植えたつもりのない物の方が多く育っている。(スペインのことわざ)
 
https://twilog.org/cminds_bot/month-1508/3
 
物事は見かけ通りとは限らない。見かけにだまされる人間は多い。ごく少数の知恵のある者が、巧妙に隠された真実を見抜くのだ。 ファイドロス (S4#4)
 
経験は残酷な教師だが、人を大きく成長させてくれる。 C・S・ルイス(S5#13)
 
人は嘆き悲しむからこそ人間なのである。 アントニオ・ボルキア(S6#20)
 
 
(2019年01月31日アップ、同日一部修正)
 
塗れる(まみれる)
 
 
 
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  ミイラの徘徊(2)
 
    ★カルト体験 
   (人間観の問題:人は神性を有する神の子だと思い込み過ぎると、
   反省できなくなってしまう?)
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41338653.html
   コメント欄より。
 
 
神聖のことを分かりやすいと言えば信仰は厚いのでしょうか。
 

「幼児というのはイエスのこと」
 一番わかりやすく、一番いい解釈だと思います。

 
救い主が神を信じることが、分かりやすいのでしょうか。
シャロームの言うことは、いちいち疑ったほうがよさそうです。
 

が、イエスは罪なき神の御子であり、私たちは神のかたちにかたどって造られた人の子ですが、イエスが父として信じておられた神との関係と交わりを見失っているのです。その的外れの状態を罪と言います。そのために、イエスのような幼児のような信仰を信仰とすることができないのです。

 
神の子でない今のキリスト者の持つべき信仰さえ、罪を認めず悔い改めないシャロームは裏切っています。しかも、それをも悔い改めません。的外れの、さらに、的外れです。
 

イエスの主体性は父なる神に対するイエスの自由意志による信仰によって、神にゆだねられていましたが、神が食べてはならない、それを食べると死ぬと言われた善悪を知る木の実を食べることによって、神との自由意思による信仰をと関係を失いう、それを死というのです。その死によって私たちは自由意思によって神の御手にゆだねる信仰ではなく、

 
また、シャロームは、アダムとエバの話をしていますが、それは、昔のことではなく、今の私たちのあり方を言っているのです。私たちが、神の御手にゆだねる信仰から逸脱して、罪を犯す者なのです。
 
自分ではない罪人か悪者のせいのように語るべきではないのです。前にも同じことを言ったのですが、シャロームは、修正不能なので、同じ主張のままです。
 

善悪の基準を自らの手の内にあるとして、私たちの主体性は神に対する不信仰によって支配されて生きるものとなっているのです。

 
私たちの主体性が、不信仰に支配されているなら、信仰者は生まれません。私たちの主体性によって、不信仰と罪の自覚が生まれ、悔い改めて信仰者になるのです。シャロームは、悔い改めをする気がないために、他者を含めて、全か無の判断で、不信仰によって支配されているというのです。これも、ボロクソ節です。
 
不信仰があり、信仰があるのが、人間です。罪人であり、一方で、愛し愛されるのが人間です。人間の罪性を全か無で語ることは出来ません。その罪もあり愛もある人間が、自由意志で悔い改めて信仰者になるのです。分からないシャロームは、余計なことを言って邪魔をしないでください。キリスト教を誤解させるシャロームの言説は、とても迷惑です。
 

神は私たちの罪によって失われた神への自由意思による幼児のような信仰をイエスの十字架の死によって、本来私たちが罪の代価として自ら支払うべき代価を支払い、私たちが神による罪の贖いによって与えられる罪の赦しを信じ受け容れるとき、失われた神との関係と幼児のような信仰を回復してくださったというのが福音なのです。

 
罪によって信仰が失われたのでしょうか。罪があるから信仰が必要なのです。変な言い回しをしないでください。それにしても、福音から、温もりと潤いを取り去り、贖いの辻褄だけで語るとこうなる、という見本のような文章です。
 
幼児のような信仰は回復されてはいないと思います。シャロームのような、罪を悔いない者もいるので、ますます、人間は罪と偽善に走らないように注意する必要があります。
 

幼児のような信仰はイエスが幼児のように神のみことばと聖霊の導きによって十字架の死に至るまで従い生きられたように、御言葉と聖霊の導きに対する幼子のような信仰によって生きることなのです。ですから、イエスさまはご自分の死を前にして語られた遺言によって、そのことが明らかにされているのです。(ヨハネ14章~16章)

 
幼子のような信仰によって、信仰者は生きられてはいないと思います。だから、信仰が必要になり、悔い改めによって、信仰も成長する必要があるのです。
 
幼子から最も遠いところにいるのが、シャロームです。辻褄にのみこだわり、余計な理屈ばかりこねています。
 

弟子たちにイエスは今は、知性や理性では耐えられない、理解を超えたことだとイエスは語っておられますが、しかし、助け主である聖霊がイエスの死、御業、語られた言葉、神の御心を、イエスの死後、あなたがたに教えてくださいますと語っておられるのです。
このようにして神はイエスによって幼児のような信仰へとわたしたちを導いてくさるのです。まさに人にはできないが、神にはできる律法の成就であり、救いの成就です。

 
十字架の後、弟子たちは、結局、キリストを理解しました。助け主である聖霊を、シャロームは、超常からの魔法で教えられるかのような言い方をしていますが、聖霊も導きも、キリストの愛と同じように、人間としての情感と共感によって、人間らしい感動と情熱を持った信仰に導くのです。
 
シャロームの、魔法や奇跡のみで信仰が出来ているような、よこしまで、人間離れした言説に惑わされないでください。
 
幼子のような信仰は、ふつう成就したとは言いません。シャロームが、そのような信仰へ導かれると豪語するのは、奇跡でそうなる、または、奇跡で自分はそうなってる、という傲慢の口であります。だから、シャロームは、人間の共感を否定しているので、成就としか言えなくなります。実に、ホラーのように冷たい成就なのです。
 

たしかにキリスト教という一宗教の考え方としてはきっとわかりにくいと思います。でもきっと自由さんなら、これが本来の姿である人間の心の神に対する幼子のような信仰、信頼を、神のようなものになれると騙し、偽り、自由意思を奪い、主体性を奪い、善悪の基準をすべてカルトの支配者にゆだね、支配されカルトのいうがまま罪の奴隷とされ隷属化された人間を支配者であるカルトのボス?から救い、解放し、癒すために、神がイエスという救済者、解放者、癒し主を遣わされたと想定すればわかりやすいと思いますがいかがですか?

 
キリスト信仰は、人をカルトから救うかもしれませんが、その先に、シャロームの超常奇跡信仰が、ふんぞり返っているのなら、別の人間破壊であり、シャロームのようになるなら、信じないほうがマシだろうと思います。
 

確かにイエスは騙され、的外れの罪の奴隷と化している私たちを救い、解放し、癒す方なのです。現実にカルトに勝利し、囚われている人を解放し、人それぞれの自由を超えた、神に対する自由意思を回復し、その自由意思と主体性を回復するために神がイエスを遣わされ、罪の奴隷としての自我をイエスととも十字架につけられる死の道によるほかに確かな救いはないと思われますが、いかがでしょうか。

 
人それぞれの自由を超えた、・・どう超えるのでしょう。シャロームのように人ではなくなるのでしょうか。これは、誇大広告と言ってよいでしょう。
 
神に対する自由意思、・・これも、シャロームの勝手な造語ではないでしょうか。シャロームは、こう言えば、何か、うまくいきそうな気がしただけではないでしょうか。
 
人それぞれの自由を超えた、神に対する自由意思、・・(シャロームのような)欲望からの自分勝手ではなく、進んで神に従う心を言っているのなら、そのまま言えばよいのです。何かにつけ、造語的に、かっこよく、ぶった言い方をしたがる人は信用できないという見本でしょう。
 
罪の奴隷としての自我をイエスととも十字架につけられる死の道によるほかに確かな救いはない、・・ほとんど脅しています。シャロームの丁寧語は、つまるところ、余裕のない単方向なので、最後には脅迫の文言になりやすいということです。
 
(自由さんからの引用)
>「痛い目に遭った過去」、「迷信深く、思い込みが激しいところがある」
 

 自由さんのその気持ち私もあります。
 痛い経験や迷信など、私たちの心、生き方を不自由にしているトラウマを乗りこなすのは難しいですね。やはり辛いこと、思い出したくないことの再体験は嫌でつい避けて通りたくなります。
でも振り返ると私の大きな生き方の転機はいつも行き詰まりやそういう避けて通りたいときに開かれたことが多かったように思います。よく危機はチャンスだなんて言われますが、確かにそうだなと思います。

 
シャローム教の勧誘は、かなり、しつこくなってきました。
 

 神はその時、私をいやなトラウマから自由にして、神による新しい道を開かれる時だということは聖書に一貫して証しされていることのようです。

 
言葉だけの保証。実際、シャロームは、何の責任も果たさない人です。
 

イエスの十字架の苦難と死はイエスにとって最悪の出来事ですが、それが父なる神の最善の道だと信じて、まさに幼児が親の手にゆだねるように“私の思いではなく、御心のままにしてください”と祈られたイエスさまの祈り、信仰の歩みによって私たちの前にいのちの道が開かれたのですから感謝ですね。でも、それでもやはり避けて通りたいと思う弱い自分がありますね。

 
御心のままに、・・この祈りの言葉に、最も背いてきたのがシャロームなのですが。
 
「信仰の歩みによって私たちの前にいのちの道が開かれたのですから感謝ですね。でも、それでもやはり避けて通りたいと思う弱い自分がありますね。」・・安さがにじみ出ている。そろそろ、伝道者?としてのシャロームが、誰も説得できないことを感じてほしいところです。
 

人と他の生き物との違いは本能に従って生きるか、本能と自由意思をもって三次元世界における目的、意味にかなう行動、生き方を選択すること、またその生き方がどのような死後の三次元以上を世界、地獄や極楽、天国、神の国を招くかを考えたりすることと言えるかもしれませんね。だから人は寺院をつくり、宗教的な儀礼や墳墓に副葬品を備えたりするのではないかと思います。このこと自体はどんなに科学が進歩しても、古今東西、人の心にあり、特に日本人の心にはアニミズムに由来する因襲が日本文化の核になっていることは否定できませんので、日本人が日本人である以上なくなることはないと思われます。今日の政治風潮も明らかにそういう強い傾向への回帰を感じさせます。

 
天を指して三次元と言っているのでしょうか。空間建築の宗教性の話に、いつから成ったのでしょう。ついていけない、これが、ふつうになってきます。
 

私たちの過去の心の痛みや苦しみ、不安、飢え渇きから解放し、癒し、真の自由を与える方がイエスだと私は信じ、それが真実であることは聖書の証言でもあり、私の体験として知っています。

 
次に戒めているようなことを、今言っているのは、シャロームです。なぜ、シャロームは、しつこいのか。説得できなかった、失敗、負けた、・・で、終わりたくない意地と欲望です。
 

真理はあなたがたに自由を与えますなんて人が言える言葉ではありませんし、さらに、イエスは私は道であり、真理であり、いのちです。だれでも私によらないでは父のもとに行くことは出来ませんと言ったり、それは狂気の沙汰で、神でなければ神を汚す人物に違いありません。私もそう思います。カルトの教祖にはそういう人物もいるようですね。イエスも伝統的なユダヤ教によるとそういう人物だと断罪されたのです。

 
物わかりのよさそうなことを言っていますが、シャロームは、実際、しばしば、聖書語で、都合の良い聖句で、このような絶対言葉を発してきたのです。狂気の沙汰ということを、誰よりもしてきたのがシャロームです。
 
「狂気の沙汰で、神でなければ神を汚す人物に違いありません。」・・神でなければ、という仮定でキリストを場合分けできるのは、キリストを概念の軽さで考えているからです。また、キリストの、洞察力や共感性、という優れた人格的能力も無視しています。とうとう、シャロームは、キリストに、彼のボロクソ節を向けているのです。
  

カルトにかかわった人はほんとうに深いトラウマを心に負いながら、「もし目的‐機能論的推理をすれば、上で少し述べたようにトンデモ、デンパな方向に行ってしまうのは火を見るより明らかですから、ここは自分を守るためにも、そっちとは距離をおくしかないと」と長い間新たな心のよりどころを求めながらも、フォビア(恐怖)と戦っておられる人が多いことは私も数人知っていますし、否定できない事実です。私も決して例外ではありません。私が劣等感のないオープンな人だと書いておられましたが、わたしにも同じような防衛機制がはたらいているのです。自己防衛機制は決して悪いものではありませんが、同時に自分の心の自由な働きを規制し、拘束する働きでもあります。

 
劣等感どころか、攻められることへの怨念が、シャロームのベースだと思っています。したがって、根拠のない優越意識があり、防衛機能というより、がちがちの保身機能があります。だから、コメントを削除したり、弁明できなくなると、当てつけや皮肉を言ったり、黙ったりします。追い詰めると、保留も訂正も謝罪もせず、どこまでも、醜い本性を表すでしょう。
 

同化も投影も反動形成も、知性化も・・・私たちの防衛機制として働いていますが、他の人を批判したりしていても、ある意味自分を守るバリアーでもあります。
 自由さん。自由さんだからこそ、私はこうして私の思うこと、信じることを自由に書いていますが、だれにでも書けることではありません。それは自由さんが自由であり、真剣に自由に生きようとしておられるからです。自由さんの心に踏み込んだり、批判をしている意図はありませんので、いつでも自由に思うこと、感じることを書いてください。

 
すでに、かなり踏み込んで、言っていることの質を考えると、踏み荒らしているとも思いますが、べた褒めですね。自由さんが、人の言うことを気にしない、という似たような考えを持っているので、付き合えると思っているようです。
 

ほんとうに自由であることには自分のうちや外との戦いなしには生きることは出来ませんね。

 
シャロームの戦いは、はぐらかすこと、無視すること、憎まれ口をたたくこと、根拠なくても言い張り続けること、気にしないこと、コメントを削除すること、反省しないこと?、悔い改めないこと?、嘲笑いの「(笑い)」を付けること、しばらく黙り込むこと、荒らしやカルトの助けを得ること、ウイルスを送ること?(去年6月の疑い)、こっそりコメント欄を漁って書き込むこと、フェアでないこと?、忘れること、などでした。
 

この世にあってはあなたがたには戦いがある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っていると言われたイエスがいつも共におられます。私たちが自覚しようと自覚できないとしても。
SHALOM!

 
上のようなシャロームの戦い方で、よく聖句を引用できるものだ。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)16:33
これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
 (ヨハネ書16:33、新約聖書)
 
シャロームは、いつも、自分で勝とうとし、神の勝利を信じておらず、神に任せることが出来ないでいる人です。
 
 
「砂のような黴のような」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20053633.html
「 
 >神の裁きは神の御手の中にあることですから、お任せすることが最善なのです。
  
 神に任せることをしないで、自分で強制力で、偽善を隠蔽したのは、あなたです。」
 
 
(2019年01月30日アップ、同日一部修正)
 
 
 
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  ミイラの徘徊
 
    ★カルト体験 
   (人間観の問題:人は神性を有する神の子だと思い込み過ぎると、
   反省できなくなってしまう?)
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41338653.html
   コメント欄より。
 
 
批判をされて弁明が出来ないシャロームは、カルトから脱会した自由さんという人の心の隙に、つけ入ろうとしています。自由さんについては、自由を得ようとして、中庸のようなものを目指して
 
   「人は人、自分は自分」という考え方 (アドラー心理学)
    
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41442356.html
     by 自由
 
という記事に書いていますが、私は、
 
   「いびりのような当てつけ」
    
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20024186.html
 
という記事を書いて、
結局、人の言うことを気にしない~無視して真剣に考えない、という付け焼刃の処世に陥っていることを、私は指摘しました。
 
一番上のリンクは、私が十分に批判できない隙に、シャロームが、好きなように書き込んでいるようです。シャロームは、批判されると弁明も反論も成り立たないので、どこでも、受け入れてくれそうな2~3あるいはそれ以上の他者のサイトに、批判さえされなければよいと、批判者の目を盗んで、盗人のように書き込むのです。
 
そして、今回、そこに書き込んだコメントを、自分の記事にしています。大きめのフォントで、見よとばかり、乱暴にコピペしているようです。都合の良いところだけ。
 
たくさん書いたシャロームのコメントを拾ってゆきます。
 

人は死すべきもので、神の心は聖、義、愛でいつも、どこでも、どんな時も変わることのない真実であり、人の心はころころ変わりますから心というともいわれます

 
人の心が変わりやすいことを認めているなら、不感不応が致命的な結果を招くことは分かるはずですが、好きにさせろとばかり、シャロームは、同じことを言い続け、他者の意見を、自分のブログでは削除し、コメント欄を閉鎖し、何も聞かずに、世辞の挨拶で近づいては、神の啓示と聖霊が根拠だから議論の対象にならない、と言っていた自説をご披露するのです。
 

人間が有限で、相対的存在である以上、その思想も有限で、相対的であることは避けられないはずなのですが、でもそのような不確かさからくる不安を逃れるために、その思想を確かなものであると信じようとするのも人の神を求めずにはおられない弱さゆえでしょうか。

 
人間が相対的、思想も有限だと、ここでは言っていますが、自説を絶対として、訂正不能にして、その結果が、嘘と詭弁という悲惨なことになっているのがシャロームなのです。
 

イエス・キリスト信じる「霊性進化」に方向についてですが、普通私たちの進化という言葉のイメージからすると「下から上に向かうこと」と考えがちだと思うのですが、イエス・キリストを信じる道は「下へ上る道」と言えるようです。

 
人間には実感のない、わけの分からない理屈を言い出しました。これで言い得たと?
 
>それがイエス・キリストの道なのですから、
 
イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストと同じ道は歩めないことを知っています。だから、十字架の贖いと言われていることを、シャロームは知らないのでしょうか。
 
>聖書にはそのイエス・キリストの上から下へ歩まれたことを次のように記されています。
 
それで、どうして、信仰が、下から上になるのでしょう。シャロームは、上に行けると思っているのでしょうか。紛らわしい喩えを、造語のように作るのはシャロームの癖のようです。前にも、民主主義ならぬ神主主義とか、心身症ならぬ霊心症とか、ひどい造語がありました。言葉作ればいいというものではないということが分からないようです。
 

 使徒パウロの言葉です。
 「2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 2:8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」と。(ピリピ3:6~8)

 
キリストが父なる神に従順であったことが、シャロームの言い分と、どう関係していると言うのでしょう。神格が人格を持って地上に来られたことを、さも分かっているふうに言わないと気が済まないのでしょうか。
 

「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。」とはしてへ上ることを意味しています。
それは十字架の道です。

 
「してへ上る」は「下へ上る」のタイプミスでしょうか。まだ、奇妙な自説で飾りたいようです。こういう自己顕示欲が、シャロームにしばしばみられることです。自分は、平凡ではないと言いたいのでしょうか。平凡未満だと思います。
 

12:25 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」と。
 (新約ヨハネ12:23~25)
 「自分の命を愛する者」はそれを失い、この世で「自分の命を憎む者は」それを保って永遠の命に至るであろう。
 「自分の命を愛する者」とはこの世の下から上への道を歩む自己愛に生きるこの世を支配している道であり、それは死の道です。
 「自分の命を憎む者」とはこの世でイエス・キリストの道である上から下への歩む自己愛をイエス・キリストともに生ける神にゆだねるいのちの道です。

 
自己愛をキリストとともに神に委ねたのなら、シャロームは、なぜ、低き者としての自覚で悔い改めないのでしょう。なぜ、平気で嘘を吐くのでしょう。また、幼稚な詭弁を弄しています。
 

イエス・キリストを信じて受ける洗礼について次のように使徒パウロは記しています。
 「6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。6:4すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。」と。
 (新約ロマ6:3~5)

 
シャロームは、前に、罪も死んだ、死体を蹴ってもびくともしない、という記事を載せていました。死に等しくなり、復活に等しくなる、ということを、概念以上に分かる人がいるでしょうか。シャロームは、いつも、このように、辻褄合わせだけをもって信仰を語ります。
 

聖書の言葉を列記しましたが、これらのことは聖書全体を貫いている事柄です。
これらの言葉は神の言葉であり、神の御心ですから、この世の常識、人の思い、考えでは理解することの困難な言葉です。

 
シャロームは、何によって理解したのでしょう。ここに、シャロームの、神の啓示と聖霊、という絶対を自己に結び付ける妄想が暗示されています。
 

しかし、神は私たちを上から下へ登るイエス・キリストが歩まれた道へと導くことによって私たちにみことばの真実を悟らせることができるのです。

 
図式的に上だの下だのと言って、これで、理解を助けたつもりのシャロームです。真実を悟ったのだそうです。シャロームの自説に、まるで実感がないのは、こういうことからでしょう。聖書全体を貫いていると豪語しているシャロームが、裏切っているのは、他でもない、その真実です。
 

イエスさまがだれでも幼な子のようにならなければ神の国に入ることができないと言われた理由です。
 言われてわからなかったのはニコデモというイスラエルの律法の教師であるニコデモでしたが、霊的な神の真理は神が導き、開いて下さいます。
 「2:4 そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。

 
シャロームは、神秘が大好きです。しかも、その神秘を、神が分からせてくれると言っています。このことは、つまり、シャロームが、実感のない「霊的」「真理」を与えられた、と言いたいのです。自慢虫だと思います。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
2:1
兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。
2:2
なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。
 (1コリント2:1-2、新約聖書)
 
パウロは、優れた言葉や知恵を用いなかったと言っています。知恵を使わないとは言っていません。確かに特別に優れた知恵は信仰には要らないのです。また、十字架につけられたキリスト以外のことは知るまい、と言っています。キリストへの想いを何よりも大事するということです。さらに
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
2:6
しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。
2:7
むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。
2:8
この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。
 (1コリント2:6-8、新約聖書)
 
ここでは、知恵で語ると言っています。その知恵は、知っていたら、キリストを十字架にはつけなかったであろうという知恵です。つまり、イエスがキリストつまり救い主だということを知る知恵なのです。決して、シャロームが大好きな、わけのわからない神秘ではないのです。
 
いちばん必要なのは、私たちにとって知恵云々ではなく、キリストの愛であり、キリストへの愛であるということです。シャロームは、そこに共感できないので、やたら言葉だけ、霊だの力だのと、実感もないのに神秘を持ってくるのです。これがシャロームの詭弁と誘惑です。どうか騙されないようにしてください。
 

信仰は私たちの思想ではなく、神の啓示と神のみことばと神の導き、助けによって与えられる事柄です。

 
シャロームは、共感というものを持てず、また、必要とも思っていないので、このように、人間は何もしなくても、啓示と導きで、与えられると言っています。言葉だけだから、しかもシャロームの利用するその言葉は、神聖に属していて、人には実感のないものだけだから、シャロームは、平気で讃美し、一方で、平気で裏切りに走るのです。こういうことをシャロームは、これからも強調してくるでしょう。騙されないようにしてください。
 

「してへ上ることを意味しています。」は「下へ上ること」です。「下へ上る」なんて変な言い回しですが、聖書にはこんな変な言い回ししないと表現しにくい言葉や文章があるようです。
それも大事なことほどですから厄介です。

 
上だの下だのと、幾何のように、決まっているかのように、分かりもしない超常の方向をいじくって、分かっているふうに見せかけて、煙に巻くシャロームの自慢に惑わされないでください。共感と学習の可能な人なら理解できるのがキリスト信仰です。シャロームには、それが無いだけなのです。
 

科学は仮説とその検証、実験から始まりますが、生ける神は作家が作品によって自己を表現するように、神は被造物とご自身の啓示の器として選ばれた民とその歴史、超自然的な神の御業、啓示によってご自身を証しされますが、神の御言葉である聖書と御言葉の真理を拓き、悟らせてくださる聖霊の導き、助けが何よりです。

 
こういうのは、みな、シャロームの自己正当化と自慢です。どれだけ、実感のない抽象語を使っているかを考えてください。ペテン師シャロームの煙幕に過ぎません。自分は特別だ、だから、分かっていると言いたいだけなのです。
 

人は知ることから信じることへ三次元の世界から三次元を超える世界に飛躍するには人にはどうしても超えられない渕があるようです。イエスさまは滅びに至る道は広く、命の至る道は狭いといわれましたが、幼な児のようにならなければ神の国へ入ることはできないともいわれました。その道は人には狭い道のようです。幼な児は知の世界ではなく、信の世界に生きているといえると言えるかもしれませんね。人には広いようで狭い道だといえるでしょうね。

 
信じることは三次元なのでしょうか、シャロームが、気取っているだけではないでしょうか。
 
幼子は、信の世界に生きているでしょうか。幼子に、信心があるでしょうか。
 
これは、シャロームの、ペテン師らしい作為的な言い回しに過ぎません。
 
幼子は、私たちのような先入観もなく、シャロームのような妄想もないということです。
ここで、幼子の聖句までも利用するとは。
 
 
(2019年01月29日アップ)
 
騙し(だまし)
 
 
  
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  婉曲的偽善
 
   政治と宗教の話題はタブー?
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28871751.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
今回、シャロームは、テニスの錦織選手が記者から敬遠されている話題(省略)を持ち出して、政治と宗教の話題はタブーということを批判しているつもりのようです。また、瀬戸内寂聴さんは、そのタブーにもかかわらず発言していると称賛しています。
 
何が言いたいのでしょう。自分が批判され、政治と宗教に話しにくくなっている、つまり、自分も政治と宗教の言論をタブーにされているのはよくないと遠回しに言いたいのでしょうか。
 
私が批判しているのは、政治と宗教についてシャロームが語ったからではなく、シャロームの政治の話が、自分を正義の高みにおいて、誰の参考にもならないような、日本の政治と社会と歴史を一方的に活用地にボロクソに言うところの、私が名付けたシャロムのボロクソ節だからです。
 
また宗教については、毎度書きますが、シャロームが、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、と言いました。キリスト教と聖書の、どこにもそんなこと書いてありません。真っ向からの背教です。キリスト者なら決して言わないことです。シャロームは、キリスト教を馬鹿にしているとしか思えません。
 
それをごまかすために、最近、悔い改めは神が与える、などと言い訳しました。誰の悔い改めなのでしょう、人間の悔い改めです。シャロームの悔い改めです。神が自動的に悔い改めさせるかのように言うのは、明らかな詭弁です。
 
および、平気で嘘を吐くこと、さらに、この記事もそうですが、まるで、悪い政治家のすり込みのように、詭弁を弄したり、婉曲的に自己正当化へ持っていったりすることを批判しています。どちらもキリスト者として、あからさまに背教の偽善だからです。
 
シャロームが何を書こうと自由です。私に強制力はありません。しかしながら、上の2つの理由により、また、シャロームが悔い改める気が全くない無視と不感不応であることにより、書けば、私が批判するということは必然であり、私が生きている限り、ずっと続くということです。
 
シャロームは、言いたいことは一方的に言うが、文句は言わせない、という環境を欲しがっているようです。とんでもないことです。政治についても宗教についても、真実への希求が大きな源泉でありますから、その真実を嫌い、自分勝手を通そうという欲望に対しては、永遠に抗うしかないのであります。
 
シャロームは、今回、スポーツと評論を持ち出して、婉曲的に、自分は正義の言論者なのに迫害されていると言いたいのでしょうか。この卑怯さを、決して見逃してはならないと思います。それにしても、シャロームという男は、反省というものを全くしない人だなと思います。
 
>《shalomのコメント 》
 

既に錦織圭は連戦激戦の疲れもあり、大きな身体的に優位だと考えられるジョコビッチに途中棄権し、15連敗に終わりました。
しかし、健闘をたたえたいと思います。
全豪オープンテニスもいよいよ男女とも決勝戦を残すのみとなりました。
大坂なおみは26日ついに決勝戦に臨みます。健闘を祈ります。

 
錦織選手は残念でしたが、大坂なおみ選手は優勝しました。(シャロームは、なぜか、記事投稿よりも早い時刻表記で優勝の記事を追加したようです。どういう見栄なのでしょう。)
 
シャロームは、こういう話題さえも、汚い自らの正当化に利用してきます。
 

ここに掲載した記事は決して錦織圭を貶めるためではなく、
だれでも自由に生きることができますが、
また人ぞれぞれにどのように生きていくかの選択を迫られることもあります。
その選択も自由であるべきですが、
時には状況や事柄によって自分の自由な意志により自制したり、
時には抑圧したりしながらの選択と意思決定をすることがあります。

 
人それぞれに生きることについて、選択の自由を言いたいようです。それを、自制、抑圧によって、妨げられるかのごとく書いています。詭弁です。
 
人それぞれに公共の福祉に反しない限りにおいて自由に生きてよいのです。ただし、加えて、キリスト者として生きるなら、キリスト信仰を持っていなくては、おかしいわけです。ですから、キリスト信仰に真っ向から反することをしながら、嘘を吐いて、キリスト者に見せかけることが批判されるのは当然のことです。
 

私は若かりし1970年ごろ、ある講習会に出席しました。「話し方教室」でした。
講師は皆さんよくご存じの瀬戸内晴美さんでした。
その内容はよく記憶していませんが、一つだけはっきり覚えていることがあります。
それは会話話題にはタブー(禁忌)があるということでした。
話題は“木戸に立てかけせし衣食住?”という気候、読書?・・などの
頭文字を連ねた言葉と、タブーは政治と宗教であると言われたことでした。

 
自分が話せなくなったことを、瀬戸内寂聴さんの話を持ち出して、政治と宗教がタブーになっていて困る、とでも言うのでしょうか。迫害されているとでも言いたいのでしょうか。福音伝道を、狂った言説で惑わそうとするシャロームこそが迫害者です。
 

今は瀬戸内晴美さんは瀬戸内寂聴という尼僧になられました。
当時私はある印刷会社の会計事務の仕事をしていました。
今、寂聴さんは尼僧して宗教、政治に積極的に発言し、高齢にもかかわらず、
活発な活動をしておられます。
私は職場を転々としながら、考えてみたことも、
予想もしなかったキリスト教会のボクサーを30年間し、今は引退し、
リングから降りて、このようなブロガーとして福音のささやかな発信をし、
その中で政治にも大きな関心を抱いています。

 
寂聴さんは政治も宗教も話しているし、自分も政治に関心を持っているとシャロームは言っています。いつから、シャロームは、寂聴さんのような評論が出来るようになったのでしょう。私が見る限り、ボロクソ節の政治批判は悪口でしかなく、紛らわしく、読んでから、うんざりするものですかないです。だから、そのようなものだと批判するのは当然なのです。
 
偽善者というのは、何でも人のせいにして、自らを省みることをしません。自分は人の言うことを受け取らずに、勝手に言いたいことだけ言っているようなものを、言論とは呼びませんし、それを、人のせいにして、発言を妨害される感を婉曲的に表そうとするシャロームは、気色悪いくらい卑怯な偽善者であります。ささやかな発信とは聞いてあきれる。キリスト者なら決してできない厚顔無恥の発信だと思います。
 
こういうのを見ると、さらに批判していかなければならない使命を感じます。実際、キリスト者の中には、シャロームに対して、逆らうことが出来ず、結局、シャロームに感謝し、シャロームを批判している私にも感謝のコメントを書く、という苦しい対応を強いられている人がいます。シャロームは災いは、このように、人の良心を貪る性質のものです。
 

50年前の「話し方教室」の講師とひとりの受講者でしたが、
必ずしも、自由気ままではなく、自分の内なる不安や、怖れや、
劣等感などにおびえたりしながら、確かなものを求めずはおられない、
自分の弱さに振り回されたりしながら、また食べるための生活に必要のために、
連れ合いに助けられ家族、特に子供たち必要も考える50年間の歩みで、
昨年50周年となりました。

 
シャロームが、劣等感を持っているなら、いつまでも反信仰の自説を言い張ったり、あちこちのブログに挨拶と讃美コメントを書いてすり寄ったりはしないでしょう。また、白々しい嘘を吐いています。シャロームの白々しい挨拶と讃美は、支える実質が何もなく誉めまくるだけなので、本当に気持ち悪いです。
 
恐らく逆に訂正不能の宗教的優越妄想によって、お世辞にも求めているとは言えず、確かなものを得ている慢心と神を恐れない傲慢によって教えてあげる姿勢で妄想説教を書いてきたのです。牧師をしていた時代のことが空恐ろしくなります。また一方、本当は教会を辞めさせられたのではないかという疑いさえいだきます。底知れぬ闇、そこにシャロームの正体があります。
 

しかし、そんな私の人生をいつも、私の目には見えないけれども、
下から支え、また導いておられた確かな方がおられることを伝えたいと思いながら、
ブログというリングに立ち続けています。

 
神から導かれているのなら、悔い改めるはずです。悔い改めないと指摘されたら、先ず、驚いて、いや悔い改めています、というはずです。キリスト者なら、自分が悔い改めるのに、悔い改めは神から与えられる、などと詭弁を弄することはないし、また、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、と言って訂正しない、などということはないのです。
 
ゆえに、嘘だけが明らかになったシャロームは、神からの導きに背いています、というより、神の導きなど、何も気にしていないと思います。シャロームは、宗教を、全く甘く見ている、あるいは、バカにして、あざ笑いながら、利用しているとしか思えません。
 
シャロームのような嘘吐きそして偽善者そしてカルト信仰者は、伝えれば伝えるほど人間を駄目にするのだから、伝えておきながら知らないよとばかり嘯いて責任を取ろうとしないのだから、いちばん福音伝道ブログのリングに上がってはいけない人です。
 

私はふと思うのですが、日本の政治や、経済、教育などありとあらゆる
ところ政治や宗教に対するタブーが生きていて、
ひとりの人間として生きる時、ひとりの社会人として生きる時、
必ず、避けて通れない政治や、宗教をタブーとしている為に、
政治音痴と宗教音痴、否、痴呆化が日常化していると感じていますが、
言い過ぎでしょうか。

 
シャロームは、タブー、タブー、よくない、と言いたいようですが、シンプルな言い方をすれば、嘘と悪と偽善は当たり前にタブーなのです。シャロームに弁明の余地はないのです。シャロームは、妄想信仰のために、政治音痴であり、宗教音痴ですが、それ以上に、政治と特に宗教を悪用する者、つまり偽善者なのです。
 
言い過ぎではなく、シャロームが、音痴~痴呆から自分を除外して、それを他者に当てるのは、まずもって滑稽なほど、真逆なのです。シャロームが使った乱暴な当てはめ方をするなら、シャロームこそ、どこまでも病識のない音痴~痴呆なのです。
 
シャロームを受け容れることは、誰にとっても、自他ともに破壊するような妄想宗教洗脳活動に加担することになるでしょう。いつまでも無駄な正当化の詭弁を弄してきます。不感不応で、かつ、罪悪感が無く、反省機能や学習機能が無いからです。
 
自分信仰が妄想的確信によって進行すると、こうなるという症例のようなものなのでしょう。日本を代表するスポーツ選手と宗教評論家をけがすのは止めろ、自分を棚に上げて日本と社会をけがすのは止めろ、と言いたい。
 
このように、シャロームは、全く病識も自覚もなしに無根拠に満悦して書いてくるので、シャロームが、婉曲的だが幼稚な自己正当化を、自分では上手に書けたつもりで、次から次に出してくるたびに、そこに表れた拙劣さと汚さを書いて、シャロームがサイコパス的な異常な人格であることの証拠を積み重ねてゆくことが、今の私の務めであろうと考えています。
 
つまり、現実検討の全くできない愚か者に対しては、キリスト教を、こういうふうに曲解すると、こんなに身勝手な酷いカルト的妄想宗教になり、こういう人間破壊が起こり、こんな酷い言動をするようになる、という実例ですから、その実際の言動の記録を積み重ねて、宗教人への戒めとして残すことになります。積み重ねても資料として残るかどうかは分かりませんが、それを務めとする者がいなければいけません。
 
私は、言い過ぎと思われることもあるでしょうが、神様の前に、できることをしているつもりですから、それで、結局、嫌われても仕方ありません。そう努めるつもりならば、神様に対しては、私は、裁きをゆだねるしかないと承知しておくことになります。
 
 
(2019年01月28日アップ、同日一部修正)

(2019年01月30日、一部修正)
 
止める(やめる)
嘯く(うそぶく)
 
 

  
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  カルトの宣伝
 
    The Gate of Heaven の管理人
   ヨシュア Yhoshuah を名乗る教条主義者は
   ★★★☆★★★ という記事?の中で
   2019/1/24(木) 午前 3:05
   
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64717861.html
   番外、戸田さんの罪の軌跡
   というリンクを付けています。
   リンク先は、彼の記事
   戸田聡さんの負い目
   2018/9/18(火) 午後 11:37
   
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64607196.html
 
 
これについては、既に、去年のことなので、「自己中心の箇条書き」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19891980.html
という私の記事に書いていますが、もう一度、書いてみることにします。似たような記事になるでしょうけど。
 
去年でしたか、しばらく、上のサイトにコメントを書いていたことがあります。
 
ヨシュアという人は、批判に対して、罵りのネタになることしか、書いて来ない人です。
 
一言で言えば、話にならない人です。
 
>戸田さん、あなたが抱えた負い目を掲示しておきます。
>これから、日々、罪を犯したら加算していきます。
 
自分の罵りの罪を、スコ~ンと除外しています。
 

1、私を含め、複数の人をわけもなく誹謗中傷した罪。
  批判という名目で当りかまわず、でたらめな理屈でクリスチャンを
  誹謗中傷していた。
  私やマリアさんを、根拠も無くカルトだと決めつけた事。

 
私は、辛口の批判をしますが、誹謗中傷では、ヨシュアほどではありません。
ヨシュアは、私のことを、悪霊憑き、ダメ人間、精神病、などと罵ってきました。
それは根拠のないものですが、元々言ってはいけないことでしょう。
 
>2、神さまへの負い目
>A: 神様を賛美しないでも良いと言った背教心。
>B: 神様は賛美を必要としないと言ったウソの背教心。
 
神は、人の讃美を必要とするでしょうか。私は、人が讃美しないと存在が危うくなるような神を信じてはいません。ヨシュアは別の神?を信じているようです。
 
>C: 神様がメシアであるイエス様と聖霊を作ったと言った、異端的思考。
 
ヨシュアは、度量が狭いので、自由な発想が全く通用しません。教条主義によってカチンカチンの頭なのでしょう。こういう人とは、自由な議論が成り立たないです。
 
だから、私は、もはや、向こうには行きません。ヨシュアは、コメント欄は開けてある、と言うのですが、誰が、罵られるためにコメントを書くでしょう。
 

D: 神様が義人であると認定したアブラハムを義人では無いと主張した事。
   それは、神様に言い逆らった事になる。ここは補足が必要となるが。

 
ヨシュアは、神の絶対の義と、神が人に与える信仰の義、
という2つの義の区別さえ理解できない未熟なカルトなのです。
完全になれると言っていました。彼が完全のつもりだからでしょう。
 

E:  神様への信仰を捨てても、神様が助けに来てくれるか?という馬鹿げた
   実験を して、神様を信仰実験の道具に用いた事。

 
これは覚えていません。信仰によって救われるための条件は別の記事で書いていますが、その正直も、誠実さも、持たないのが、シャローム、そしてヨシュアです。
 

3、 荒らし行為を何度も繰り返したこと。
  私は戸田さんあなたには、コメントを許可しています、当初はどこでも
   許可したけれどあちこちに荒らしコメントをはじめたので、
    ゲストブックのみに限定した。

 
私が書き込んだのは、いずれも、コメント欄が開いていたからです。こういうことさえネタにして、ヨシュアは、罵ってくることを覚えてください。教条主義によってカチンカチンの頭なのでしょう。
 

4、 人としての信義則違反、。
  戸田さんは、私の記事を読んで掲載を認めたのにもかかわらず、
  裏ではYAHOOに記事削除を依頼し、実際私の記事は削除された事。

 
個人情報暴露と個人攻撃で、削除されるような記事だった、ということを、まったく考えないで、人のせいにしています。自己中で、他罰的です。
 

5、 上記に関係するが、私の記事を許可した事を黙っておいて、
   YAHOOに通報したことは虚偽であり、YAHOOを欺いた事。
    つまり、YAHOOをだました事。

 
ふつう、ヤフーとか、だませるものでしょうか。私は、そんなに、偉くも強くもありません。
 

6. マリアさんから、当該ブログに来ること及び、荒らしコメントを禁止
  されたのにもかかわらず、
  しつこく 訪問して 誹謗中傷コメントを書き続けた事。 
    すなわち ストーカー行為。

 
書いてあることが酷ければ、空いているコメントに書き込むことは言論の自由なのですが、分かっていないようです。
 
シャロームは、コメント欄を閉鎖するほどに、都合の悪い意見を聞かず、言いたいことだけ書いてくるというほど、言論の責任を分かっていない人ですが、ヨシュアは、言論の自由も分かっていないようです。
 
自称ヨシュアとつながっている自称マグダラのマリアは、承認制のコメントから選んで、感情論だと断じて、「ププ」とか「けろっ」とか、あざ笑いのオノマトペを入れながら、感情的に、言い返してきます。罪を赦され救われた聖書のマグダラのマリアと、自称マグダラのマリアの違いでしょう。キリスト教をめぐる現状は、めちゃくちゃな有り様のようです。
 

7. イエス様から戴いている、二つの戒めを守っていない事。
  神様と人を愛す事をしていない。

 
私の総てを見てもいないのに、どうして、ヨシュアに分かるのでしょう。
 
こういうことを言うことが、神に対して傲慢と言わざるを得ないのです。
 
ヨシュアは、キリストの教えを守っているつもりであることが分かります。これこそが、キリスト信仰からは、かけ離れたカルトだということが分からないでいる証拠です。そして、ヨシュアが、パリサイと似た信仰であることをも示しています。
 

8.  神様の三位一体を実際は認知できていないのに、洗礼を受けたこと。
   C:に於いて、洗礼は無効となっています。

 
こういうことを平気で言うことが、神に対して傲慢と言わざるを得ないのです。
 
洗礼を無効にできるのは、神様だけです。
 

9.  私とマリアさんを、何々国籍の何々人だと決めつけようとした
   印象記事を書いた事。 

 
後に書いてある国籍のことでしょうか。
 

10、 神様への信仰を実験的に捨てたこと、そしてみんなに信仰を
   捨てた方が救いのためには良いと言い、馬鹿げた教理を広めようとしたこと。

 
これは、ひどい言い方です。要するに、ヨシュアとは違うことを言い、同じことを言わなかっただけですから、自虐的な私の詩のようなものの理解もひどかったが、また馬鹿げた以上に空しい罵り言葉を使っています。
 

11、 戸田さんはjur*a*_v*tto*io_*maner*という新たなハンドルネームを使い、
    我々の批評を避けようと
    奸計を施していた。私が自由と戸田さんは同一人物と見破った事を
    ごまかすために、幼稚な策を労している。  その関係記事はここ
     読者をも 欺こうとしているのは、罪です。

 
これは誰でしょう。数学の問い合わせをしてきた人のことでしょうか。ヨシュアは、その人を私の成りすましだと言ったことがあります。
自由さんもエクゼルも、ヨシュアは、私の成りすましだと言っていましたが、二人とも私とは別人です。私は st5402jp 以外のHNを使ったことはありません。このように、やたら成りすましを疑えば、自分の成りすましを疑われることになるということが分からないのでしょうか。
 
>以上 全て事実です。
 
勘違いか誤謬か妄想だと思います。
 

要求します。
上記に関連して、戸田さんは、早く謝罪してください。
上記に関連して、戸田さんは、早く修正してください、それを記事で
公表してください。
悔い改めて、早く負い目を軽くした方がいいと思います。
あなたから ファンは大勢逃げています、当然ですね!

 
さんざん罵っておきながら、謝罪と修正を求める心境が理解できません。
負い目ということからも、ヨシュアは、自分を除外しているのです。
ヨシュアの言説の特徴は、威張り散らすことです。ナルシシストでしょうか。
 

9.の事は、上であいまいに書いたけれど、やはりここに書いておきます。
何々国籍とは韓国籍のことです。私もマリアさんも韓国籍はありません、在日韓国
人ではありません、。在日朝鮮人ではありません。
 もしそうであったなら、そうです韓国籍ですと私は言います。
違うから違うといったまでです。
戸田さんが何を言いたかったのかは その時の文章と心を読めばわかります。
戸田さんは 韓国人を含めた朝鮮人を小ばかにしているのでしょう。
軽蔑もしているのでしょうね。
日本人が昔、朝鮮人を差別した事を知っていて、私たちを同じとみなし、
読者に私を差別させようとした魂胆があったようです。

 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19883994.html
などに、私が嫌韓ではないと書いています。
ただ、もし韓国人ならば、祖国をけがしているのではないか、
という危惧を書いたと思います。
にもかかわらず、差別させようとした魂胆があった、などと書くのは侮辱であり、
ヨシュアの妄想としか言いようがありません。
上に書いたように、罵りのネタになるような書き方しかしないのです。
 

卑劣なやり方です、戸田さんは。
戸田さんの深層心理には差別意識もあるということです。
クリスチャンの国籍は有ってないようなものです。
国籍は神様のいます天の国!と言うのが我々です。
戸田さんは、悪魔のいます、地獄の国!なのでしょう。
かわいそうに。。

 
かわいそうに、と言いながら、全体に、攻撃の態度で見下ろしています。
私は、かわいそうに、などとは言いません。真剣に憤っているからです。
 
批判すると罵詈雑言を返し、罵ることしかできない、手段を選ばないカルトの宣伝です。
 
彼に、深層心理は読めないと思います。なのに、彼は、完全になれると思っていて、いつも自分が上だという態度で書いてきます。だから当然、反発に遭い、結局、怒って、罵りにしかならないのです。
 
神の義と信仰の義の区別さえつけていないカルトです。完全と不完全さえ区別をつけず、完全になれるのです、と言っていました。
 
ヨシュアは、パリサイ人が好きなようです。そういうところも、彼の、儀式にこだわり、言葉尻にこだわり、律法にこだわり、優越にこだわり、心を失った教条主義だと思う理由です。
 
知識だけあっても、信仰は成立しない、という典型となる教条主義です。ヨシュアは、投げかけられた言葉の尻だけに、何やかやと、いちゃもんを付けて執拗に攻めてくるだけのハナタカ人です。その高慢のために、恐らく誰とも、まともな議論は出来ないだろうと思います。
 
シャロームは、何々主義というものを持たず、奇跡のご利益をずっと信じて、いかなる悪にも罪にも偽善にも、罪悪感をいだかず、そしてそれらを批判されても、不感不応で他者を無視して、社交の丁寧語と、口だけの讃美言葉で、すり寄って人を陥れます。
 
ヨシュアは、シャロームとは違ったタイプのカルトです。
 
ヨシュアは、なぜか、自サイトから外に出て書き込むことはしないようです。向こうを見るのは自由ですが、決してコメントなどは書かないでください。ご機嫌取り以外、ヨシュアは、あらゆる個人情報を平気で暴露する無神経さで、罵詈雑言で攻撃して、疲弊させてきます。キリスト者ではなく、カルトだから、平気で、そういうことが出来るのです。
 
決して神の絶対の義ではなく、私たち信仰者が信仰の義を得るために、正直な告白と悔い改めに生きる誠実を示す信仰を貫けますように、たといカルトの災いに遭っても、信仰の揺るがない忍耐をもって克服できますように、主イエス・キリストの御名によって祈ります。
 
 
(2019年01月27日アップ)
 
罵る(ののしる)
罵詈雑言(ばりぞうごん)
陥れる(おとしいれる)
遭う(あう)
憤る(いきどおる)
 
ハナタカ人:造語です。高慢だけという意味。
 
 
  
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