ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年01月

 
  沈黙と平安
 
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41460514.html
   コメント欄より。タイムスタンプ一部省略。一部編集。
 
 
(シャローム)
宮沢賢治はたしかキリスト教の影響を深くうけていたと聞いたことがあり検索してみました。
 
 「宮沢賢治は子供のころ、教会に通って牧師からキリスト教のことを色々教えてもらっていました。 また最も良き理解 ... と言わせていることから、賢治としてはキリスト教をも内包した法華経の究極版のようなものを想定していたように思われます。」と書いてありました。」
 
 聖書にも人の賢さと神の愚かさについて書いてありますが、通じるものがありますね。(コリント第一の手紙1床18節~2章)
おそらく旧約聖書の箴言にもたくさんあるでしょうね。
 
2019/1/21(月) 午後 0:53[ shalom ]返信する
 
> 自由さん
 
「でも人に貸したら返ってこなくなったというパターンで、今は手元にないです(笑)。」
 
 私にも覚えがありますが・・・どっちもですが、トホホ
 フランスには本と傘とお金は貸すなということわざがあると聞きましたが、至言です。
 
2019/1/21(月) 午後 4:56[ shalom ]返信する
 
 
(自由さん)
>2019/1/21(月) 午後 0:53さん
 
見当違いかもしれないけど、自分としては、「どんぐりと山猫」に、キリスト教っぽさを感じました。
どんぐりたちが、どれが一番偉いか争ってるときに、主人公が言った言葉とか…。
 
・どんぐりと山猫 宮澤賢治
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/43752_17657.html
 
ちなみに、金平正氏の解説では、「どんぐりと山猫」と「雨ニモマケズ」の関係性をうんぬんしてた。
 
・〔雨ニモマケズ〕宮澤賢治
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45630_23908.html
 
2019/1/21(月) 午後 7:16[ 自由 ]返信する
 
雨にも負けず 風にも負けず
雪にも 夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち
欲はなく
決して怒らず
 いつも静かに笑っている
一日に 玄米4合と 味噌と少しの野菜を食べ
 あらゆることを
自分を勘定に入れずに よく見聞きし 分かり
 そして忘れず
野原の松の林の陰の小さな茅葺き小屋にいて
東に病気の子どもあれば 行って 看病してやり
西に疲れた母あれば 行って その稲の束を負い
南に死にそうな人あれば 行って 怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や 訴訟があれば つまらないからやめろと言い
日照りの時は 涙を流し
寒さの夏は おろおろ歩き
 みんなにデクノボーと呼ばれ
 ほめられもせず 苦にもされず
 そういうものに わたしはなりたい
http://www2.odn.ne.jp/~nihongodeasobo/karuta/amenimomakezu.htm
 
2019/1/21(月) 午後 7:17[ 自由 ]返信する
 
「雨にも負けず」を読み返してみると、遠藤周作の「イエスの生涯」に描かれたイエス像と似たところはあるかも…。
 
 遠藤周作のイエス像は、特に何かできるわけではなく、無力な男にすぎないけれども、とにかく優しい心を持っていて、虐げられ苦しめられている人に寄り添い、支え、決して見捨てない人という感じだったので。
2019/1/21(月) 午後 7:26[ 自由 ]返信する
 
 
(シャローム)
> 自由さん おはようございます
「虔十公園林(けんじゅうこうえんりん)」だけで
 どんぐりと山猫 はまだ読んでいませんが、読んでみましょう。
 
 「遠藤周作のイエス像は、特に何かできるわけではなく、無力な男にすぎないけれども、とにかく優しい心を持っていて、」
 
 遠藤周作の“おばかさん”にはそんなイエス像を感じますね。
イエスは“あなたがたはなにを求め、なにをしているかわからないでいる”と言っています。本当にその通りだと思います。
イエスはなにも求め、なにをしているかわかっていた“おばかさん”だと思います。イエスほどの“おばかさん”は人類史上いないと思います。(笑)
2019/1/22(火) 午前 9:24[ shalom ]返信する
 
> 自由さん
 
「どんぐりと山猫」読みました。
 
 人とくらべているうちは人はどうしてもドングリの背比べをやめることは出来ず、争いがやむことはないのだということでしょうか。ほんとうのえらさは愚かさにあることを知るまではということでしょうか。
 「虔十公園林(けんじゅうこうえんりん)」と同じメッセージですね。
 
イエスの十字架の姿のうちに神の愚かさに出会うとたしかに人はだれでも沈黙と平安に導入れられるのではないかなと思われます。
2019/1/22(火) 午後 5:10[ shalom ]返信する
 
2019/1/22(火) 午前 9:24
 
「イエスはなにも求め、」は「イエスはなにを」の間違いですね。
 
2019/1/22(火) 午後 5:52[ shalom ]返信する
 
 
(自由さん)
>2019/1/22(火) 午前 9:24さん
 
遠藤周作の「おばかさん」には、俄然、興味が出てきました。
タイトルは知ってたけど、まだ読んでなかったので。
 
2019/1/23(水) 午後 10:07[ 自由 ]返信する
 
 
ここから私の意見を述べます。書き込みますが、シャロームに妙に味方している人によって、承認されない可能性もあるので、記事として書くことにします。
 

(シャロームの発言引用+私のコメント)

 聖書にも人の賢さと神の愚かさについて書いてありますが、通じるものがありますね。(コリント第一の手紙1床18節~2章)

 
人の賢さと神の愚かさ、ということを、ポンと言っておきながら、解説しないシャロームです。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)1:25
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
 (1コリント1:25、新約聖書)
 
これを言わないと通じないでしょう。
人がいかに知識に優れていても神には及ばないということです。
 
何故、また、悔いもせず、改めもせず、書き込むのですか。
 
シャロームは、また、ほとぼりが冷めたと思ったのか、ここにコメントを書いています。自由さんの考え方が、自分に近いものだから、触手を伸ばしているのでしょうか、宿主を求めているのでしょうか。それとも、他に相手をしてくれる人がいないのでしょうか。私は、誰も、悔い改めない反キリストの偽善者に関わってはいけないと思っています。
 
シャロームが、反省も悔い改めもせずに、悔い改めなくてもいいとまで言って、訂正不能のまま、書き込んでいるというのは、キリスト者ではなく、反キリストなのに、キリストを語ることになるのです。これは、キリストを貶める行為を続けるということです。
 
>フランスには本と傘とお金は貸すなということわざがあると聞きましたが、至言です。
 
自由さんが、このコメント欄という場を、シャロームに貸すということは、シャロームは好きなように書くでしょうから、自由さんは反キリスト活動に手を貸すということです。本格的になってきました。
 

 遠藤周作の“おばかさん”にはそんなイエス像を感じますね。
イエスは“あなたがたはなにを求め、なにをしているかわからないでいる”と言っています。本当にその通りだと思います。
イエスはなにも求め、なにをしているかわかっていた“おばかさん”だと思います。イエスほどの“おばかさん”は人類史上いないと思います。(笑)

>「イエスはなにも求め、」は「イエスはなにを」の間違いですね。
 
キリストを讃えながら、キリストを裏切り続けているのがシャロームです。何をしているか分からないと、何をしているか分かっていたと、人に過ぎないシャローム自身は、いったい、どちらだと言いたいのでしょう。誉めればいい、という安易さで、人に分からないことを分かっているキリストを、自分は分かっているという詭弁を、また言うつもりなのでしょうか。
 
シャロームは、いちばん大事なことを全く分かろうとしない偽善者です。知っているかのようにキリストや聖書についてコメントできる立場にはありません。
 

人とくらべているうちは人はどうしてもドングリの背比べをやめることは出来ず、争いがやむことはないのだということでしょうか。ほんとうのえらさは愚かさにあることを知るまではということでしょうか。

 
人と比べないことを、シャロームは、自らの身勝手な「人それぞれ」自己中心の解釈よりなる妄想的無罪信仰の正当化に利用しています。人間として、正しさも、敬虔も、罪の自覚も必要とせず、真実の告白も、悔い改めもしないで、シャロームの詭弁は続いています。
 
このように、不感不応の絶対性に嵌ってしまうと、感じることも、考えることも、正常ではなくなり、同じことの堂々巡りになり、アウトプットをしてもインプットをしなくなる弊害は人格破壊ですから、異様な固定に満悦して、生ぬるい培地のようなブログで、自由を認められて、人それぞれ勝手の境地で、世辞の空虚さを交わして笑っている気色の悪さを、二人で舐め続けるつもりなのでしょうか。
 

イエスの十字架の姿のうちに神の愚かさに出会うとたしかに人はだれでも沈黙と平安に導入れられるのではないかなと思われます。

 
説明なしに、神の愚かさに出会うと沈黙と平安に導かれる、と言っています。神の愚かさ、沈黙、そして平安?、信仰の話として、支離滅裂と言ってよいでしょう。自分の愚かさしか存在しない沈黙の安穏に浸かって笑っているのは、シャローム自身であります。
 
それを、詭弁で繕おうとしていますが、言葉の使い方も説明も、無思慮と無感動のために、ひどいものになっています。妄想教理の自分信仰は、これほど、おかしなことを、平気で言うようになるのです。
 
沈黙と平安を同列に書いて、それを神の愚かさに出会ったから、と言っている。つまり、神を信じてなどいないシャロームは、信じているふりをして、何も言わないことと、平安を同一視しているのです。ならば、シャロームは、何も言わず、何も書かず、黙っていてほしいものです。
 
シャロームの、この信仰?話を肯定すれば、シャロームと同じように、沈黙を平安と言って苦言を遮断しながら、自分は言いたいことを言い続ける、という矛盾した単方向の唾吐き行為に生きることになります。それは、醜いだけで、御心に適う人間の欠片もありません。もはや、人間でもありません。
 
 
(シャロームです)
> 自由さん
 
 きっとがっさんも会うのを楽しみにしていますよ!
がっさんによろしくです。
2019/1/25(金) 午後 3:08 [ shalom ] 返信する
 
 
(私です) 
シャロームの、ここで挨拶は、不感不応、しかし、弁明と反論は一度も出来たことが無い。
 
クリスチャンなら、悔い改めないことを指摘されているのだから、悔い改めていることを告げるか、誤りを認めるか、いずれにしても、うれしそうに挨拶などしている場合ではないことが分かるはずなのです。
 
だいたい、クリスチャンなら、悔い改めなくても罪が赦されるなんてことを、クリスチャンであるあいだ、言うことはないのです。
 
通用すると思っているのでしょうか、書くたびに、きれいごと並べてごまかそうとするか、詭弁になるか、いずれも、嘘です。
 
2019/1/25(金) 午後 11:07 st5402jp 返信する
 
 
シャロームが、同じところを記事にしています。
『注文の多い料理店』 (宮沢賢治著、ポプラ社)
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28871826.html
シャロームは、自分に都合の悪いところは全部隠しています。
 

 
(2019年01月26日アップ、同日一部修正)
 
貶める(おとしめる)
 
 
  
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  誘惑と節操
 
 
シャロームは、自分で書いたものかどうかは分かりませんが、
「神の道と人の道」
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28871092.html
という記事を載せています。
 
中身は、福音書の後半をなぞったような話で、恐らく、キリスト者は否定しないような内容になっています。その序文のような位置づけでシャロームは次のように書いています。
 

私たちもイエスさまが私たちの救い主であり、人生の主なる神であることを
洗礼を受け、信仰告白をしてから祖の歩みが始まるのです。
その道がどのような道であるかを知ることはとても大切です。

 
今回の上の記事に対するシャローム批判は、次のことで十分なのです。
 
シャロームは、神が与えた道を歩んでいません。
 
シャロームにとって、キリストが救いであり、主なる神であるなら、なぜ、シャロームは、今まで仕出かしてきた罪と偽善を認めて、悔い改めようとしないのでしょう。
 
なぜ、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、と言って、それを間違っていたと訂正することなく、最近は、悔い改めは必要だが、神が与えるものだ、と言ったのでしょう。
 
悔い改めは、人間がするものなのですが、なぜ、神が与えて行わせるような言い方をしたのでしょう。
 
それは、シャロームが、悔い改めないことを、姑息に正当化する言い逃れだからなのです。
つまり、この記事は、全く弁明にはならないということです。
 
シャロームは、キリスト信仰に反しているのに、キリスト信仰を説こうとしています。
シャロームは、また、白々しい嘘を吐いたのです。
 
 
私が、批判の対象としてきたシャロームは信仰の源として、キリストの愛による体験ではなく、超常の奇跡が守ってくれたという人間離れと現実離れの体験を唱えています。
 
超常への思い込みが源であるために、人間性をゴミのように捨てる習性が身についたのでしょう。そのことは、自らを、好ましい人間から、人間なら耐えられないはずの超常の存在に変えてしまいます。
 
そこで、満足してしまったために、人間性を捨て、また、それ以上を学ぼうとせず、一切、何も学ぶ必要もなく、聞く必要もなく、成長する必要もなく、変える必要もないという不感不応の固定した境地にしてしまいました。
 
そのために、人間としての常識的判断も出来なくなり、普通なら奇跡に依存するなど幼稚だ、ということが分からず、普通なら我が身を見れば直ぐに罪がないなどとは決して言えない、ということが分からず、神?の名によって、人の言うことを無視することが信仰だという絶対自己中心に陥っているのです。
 
信仰が、神という超常の全能者との関係であるために、キリスト教からは、様々な、魔法のような、謎ときのような、非現実妄想のような、カルト的信仰~思想が生まれてきます。
 
その中でも、最も短絡度が酷く、かつ、幼稚で、同時に、思慮と情緒を捨ててしまうという危険度の高いのが、シャロームのご利益奇跡しがみつき信仰なのです。ここまで個人的な信仰が来てしまうのは、珍しいと思います。
 
信仰は、神という超常の全能者との関係であるゆえにこそ、信仰者は慎重でなければいけないと思います。迂闊に、感謝と讃美をもって、憧れを自らの成り上がりにして、自らの超常の使いであるかのように見なすようにならないために弁えておくべきことがあるのです。
 
神の意志と行為を決めつけてはいけない、
神の立場で物を言ってはいけない、
自らに無謬の絶対を持ってはいけない、
神聖との直接交流を求めて得られると思ってはいけない、
神に直接出会うことは人にとって一瞬で燃え尽きてしまうほどの脅威であることを忘れてはいけない、・・等々、弁えるべきことがあります。それが、神を恐れる姿勢であります。
 
そういうことを微塵も考えず、人間としての身の程を弁えなくなったシャロームのような者が、えてして、上に挙げたすべての違反を犯して、超常を自らに当てはめるがゆえに、大仰に讃美し、豪語し、訂正不能になってしまうのです。
 
訂正不能になった人間は、もはや、人間の節操も失って、人間性も失って、自分がしでかしていることの罪悪を自覚せず、思慮深く考えることが出来ず、深い情感を感じることが出来ず、まるで、本能のように、無作法に乱暴に吠えることを繰り返します。もはや、神の裁きによって終わる以外になく、彼に対しては、人間は、すべがなくなるでしょう。
 
一種の狂気ですが、この狂気は、精神医学が言うところの精神病とは違います。効く薬がありません。知能とも関係ないようです。また、サイコパスなどの人格障害に似ていますが、奇妙な宗教体験と奇跡だという見なしは、精神病理だけではなく、人間の深いところにある闇の欲望の成就欲求が、固定した安穏を欲しがっているということかもしれません。これこそが誘惑なのでしょう。
 
そして、その結果は、人間らしい心に対しては例外なく破壊的なのです。宗教そのものが怖いというのではなく、宗教を人間が扱うことが、慎重さを失わせ、怖さを生み出しているのです。
 
そのようなカルト的妄想宗教は、悪魔のように、丁寧語と聖書語で、もっともらしく見せかけて、誘惑してきます。見せかけだけが巧みで、それだけを身につけてきた生業だからです。
 
宗教が怖いからといって、怖いからやめるというわけにはいきません。宗教そして信仰の幸いをすでに受け取っているからであり、受け取った人々にとっては、救いとなる福音を伝道する務めがあるからです。
 
慎重さは、そう言うだけではなく、弁えとか節操とかいうべきものとして、まだ誘惑に乗っていない人に、誘惑から立ち直った人に、暴走を止めて、信仰を守る役割を果たしてくれることを期待するしかありません。そういうことを考えて、私も記事を書いてきました。
 
ですから、キリストに救われるべき心貧しい人々が、カルトの誘惑に惑わされてキリストの救いから漏れるのを、少しでも減らすために、ミイラ取りがミイラにならないように、シャロームのような偽善者の影響を誰も受けないように、狂気の言説が広まることのないように、批判する気のある人々による不断の批判が必要になるのです。
 
 
(2019年01月25日アップ)
 
迂闊(うかつ)
無謬(むびゅう)
生業(なりわい)
 
 
  
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  「底知れぬ闇」コメント欄+
   
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20056419.html
   一部タイムスタンプ省略
 
 
私は両方で良いように思うのですが?
というのは、宗教は科学で間違いが正されるし、科学は宗教で狙いが定まる。
これで言えば、
サタンも辛い厳しい仕事で人間のトラウマリセットの仕事をしていると気づけましたよ。
2019/1/22(火) 午後 0:12 [ jonah ] 返信する
 
 
>宗教は科学で間違いが正されるし
 
宗教を科学で扱うことは出来ないと思います。サタンに同情するのは勘違いだと思います。聖書には、サタンをそのように描いてはいないと思いますけど。
2019/1/22(火) 午後 3:59 st5402jp 返信する
 
 
宗教に科学の視点がなければ、人は騙されてばかりとなるのではありませんか?
 世間はみんな両ばさみで秩序が維持されていますよ。
これは作用と反作用。遠心力と向心力で地球も月も回っていることでご理解ください。
それにサタンは、無意味に生きる人々をトラウマリセットするために辛く厳しい仕事をしています。そうでなければアジアの人は皆殺しとなる。神はない、死後はないと言う人も、子どもが学校で進級しているように輪廻転生していると見れば良い。
 
そうでなければ神様の人づくりはこんな歩留まりが悪い仕事をしているのか?と、サタンを助けることになる。日本で輪廻転生を拒否すれば伝道にならない。この世界はサタンとみ使いの両ばさみ、愛と憎しみの両ばさみ、暑さ寒さの両ばさみ、戦争と平和では和戦二段構えの両ばさみ、資本主義と共産主義の両ばさみ、みんなみんなこの両ばさみのシステムがあると見れば神の深淵な愛の働きが見えます。神の愛は皆殺しキリスト教の無知な見方では思考停止してしまうと思いましたが、いかがですか?反論しても拒否ですか?
2019/1/22(火) 午後 8:02 [ jonah ] 返信する
 
 
サタンはルカ伝福音書4章5節~8節に書かれていますが、これはアダムとエバがエデンの園から追放された時から彼が神を拒否するこの世を委ねられていると見るのは、いかがですか?キリスト教徒は争いばかりして神の悪口を世に言いふらせてはならないと思っているのです。
それに、
 「愛する者よ、自ら復讐するな。神の怒りに任せまつれ。録して『主、言ひたまふ。復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり」(ロマ書12章19節)
とありです。
2019/1/22(火) 午後 8:03 [ Thomas ] 返信する
 
 
> jonahさん
>宗教に科学の視点がなければ、人は騙されてばかりとなるのではありませんか?
 
宗教を科学で扱えると思えば、心の問題など、論理よりも、共感が必要なことがなおざりになります。理屈で受け容れ、心が伴わないことこそ、騙されている状態です。教条主義などがそうです。
 信仰を論理で解明することは出来ません。しかし、信仰者が、科学的論理的な思考を持つことは、信仰に適うことです。心を疎かにしなければ。
 
>作用と反作用。遠心力と向心力
 
信仰は、このような同座標の力で動いているのではありません、というか、どういう力で働いているかは、神にしか分からないことです。
 
私たちは、人間の知恵と心しか持っていません。科学だと騙されないでしょうか。いえ、理屈だけになると、理屈に頷いてそれを信仰と思う人のほうが、騙されているのです。
 
>サタンは、無意味に生きる人々をトラウマリセットするために辛く厳しい仕事をしています。
 
聖書の示す見解とは違うと思います。また同じことを書いておられますが、サタンは、トラウマをメイクするためにも動いているでしょう。聖書の目的と心を読むべきです。
 
>神様の人づくりはこんな歩留まりが悪い仕事をしているのか?と、サタンを助けることになる。
 
歩留まりが悪いとは、効率が悪いということでしょうか。それは、救いにしても、何事にしても、この地上だけが全てとした場合の見解だと思いますが、聖書では、神は超常でありますから、この地上だけと決めつけてはいけないと思います。私たち人間には、分からない、神の秘密があると思います。分からないことは、分からないまま、キリストの慈しみにつながっている、それがキリスト者です。
 
>愛と憎しみの両ばさみ
 
両ばさみは、人の常、と考えるべきでしょう。何か考え方を変えて、両ばさみでなくなるとは思えません。分からないことは、神に任せるしかありません。分かったつもりになることのほうが怖いと思います。
 
>神の愛は皆殺しキリスト教の無知な見方では思考停止してしまう
 
仰っていることがよく分かりませんが、
皆殺しするのは人です。人が人を皆殺しにしかねない世の中なのです。
神なら、こうはならないはずという思い込みは、神を決めつける人の傲慢です。
 
無恥な見方、思考停止、などと言ってしまうのは、自分は分かっているという思い上がりが言わせることです。
 
私について言えば、私は、無知で、無恥で、思考停止することもあるでしょう。しかし、自分を分かっている完全と思うよりは、人間らしいと思っていますし、信仰者としても、神の前に敬虔でありたいなら、キリストが施した心を忘れてはいけないと思っています。キリストは、その人間の不完全を身に負われたのですから、私は、そのことに共感、共鳴したいです。
2019/1/22(火) 午後 11:55 st5402jp 返信する
 
 
> Thomasさん
>アダムとエバがエデンの園から追放された時から彼が神を拒否するこの世を委ねられている
 
アダムとエバの時代からというのは、実感は出来ないことです。しかし、主イエスは、救世主、そして個人的には救い主、そして神格を持っていることからは、否定はできないのでしょう。
 
しかし、遠い昔からの超常の神格のストーリーや辻褄を思うより、キリスト者が考えるべきは、今の時代と、個人の今において、キリストの言葉を受け取ることだと思います。そして、私たち信仰者でさえ、ときに、自説に凝り固まり、神を拒否していることを忘れず、折に触れて、悔い改めの祈りを通じて、修正し、成長することが大事だろうと思って、記事を書いてきました。
2019/1/22(火) 午後 11:56 st5402jp 返信する
 
このコメント欄は、記事にしようと思っています。HNを秘密にしたい場合は、その旨、コメントください。
2019/1/23(水) 午前 0:00 st5402jp 返信する
 
 
 「信仰告白」コメント欄
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20057778.html
 一部タイムスタンプ省略。
 
 
よくできました。〇
でも、その折角の信仰告白が、御用神学者らが集まって作った〇〇信条や〇〇信仰告白では、人からはきべんだと言われても「違う」と言えない。本当の信仰告白は、聖書の「と録されたり」でなければならないなと思いました。というのは、多くの信仰告白の類では、三位一体の神を信じるなど、神を名無しのごんべいにする偶像信仰にしてしまうからだ。なぜなら、神は三位一体ではなく、其処は父なる神エホバ、救い主神の子イエス・キリスト、聖霊を与えられて神のこどもとされた信徒の三つは一つだと言うのが正しいからです。これは一体と言うより一つが真実なのだ。それに神の子どもは空の星や海辺の砂のように数限りなく存在しても何ら差し支えないでしょう。
これで、
 「それ神は唯一なり、神と人との中保(なかだち)も唯一にして人なる(人となられたという意)キリスト・イエスこれなり」
が何の矛盾もなく確定できるからだ。
 契約主の署名がない三位一体の神の契約書面は、たとえ聖書が契約書だと印刷されても契約主のサインがないためオフィシャルには無効にされてしまうのだ。
2019/1/23(水) 午前 3:28 [ jonah ] 返信する
 
 
> jonahさん

 神の子どもは空の星や海辺の砂のように数限りなく存在しても何ら差し支えないでしょう

 
 信徒は、神とは違います。それは、わが身と心を見れば明らかです。
 
 >
 契約主の署名がない三位一体の神の契約書面は、たとえ聖書が契約書だと印刷されても契約主のサインがないためオフィシャルには無効にされてしまうのだ

 
 信仰に、署名とかオフィシャルとか印刷とか、分かりません。
 
 契約が有効というのは、信じている者にとって信じているということです。地上で、神の契約が普遍的に有効であることを示す理論的手段は、人にはないと思います。個別には、それぞれの信徒が証してゆくことでしょう。
2019/1/23(水) 午前 5:51 st5402jp 返信する
 

神は三位一体ではなく、其処は父なる神エホバ、救い主神の子イエス・キリスト、聖霊を与えられて神のこどもとされた信徒の三つは一つだと言うのが正しいからです。これは一体と言うより一つが真実なのだ。

 
あとで、読み返してみて驚いたのですが、やはり信徒を三位に加えるというのは同意できません。
 
聖霊を与えられて・・といえば、オレもオレも、という人がいっぱい現れるでしょう。聖霊体験については、そうなっているようです。聖霊体験が普通に語られているようですが、私は、大方、自己暗示による陶酔気分だと思います。そういう人が、人の目を覚ましてくれるようなことを言っているとは思えないからです。
 
そういう人たちは、神との合一を主張していることも多いようです。神と一体になる、という主張を聞いたことがあります。そのように、超常の全能者と一つになる、という主張は、人間が、神よりも下である人間の分際を忘れることにつながります。
 
そうなると、完成してもいないのに、神の国にいるような陶酔気分で書いた讃美言葉が並ぶことになり、肝心の、罪、悔い改め、祈り、といった信仰の芯になるものが疎かになるでしょう。
 
人間は、地上にいる間、神聖にはなりませんし、そうでない自分を自覚するために、上に書いたような、われとわが身を見ることが必要なのに、それをしなくなり、自分のイメージの中の神聖ばかりを思い描いて、思い込んで、讃えるようになるのです。
 
この地上で、神聖との合一を目指したり、神聖と一つだと主張する向きは、神の秘密である神秘を自分に当てはめるために、人間を見なくなるという大きな危険をもたらすことになるでしょう。そのことが、人格の鈍麻や破壊をもたらすことを危惧して、私は書いてきました。
 
神を信仰することは、全能の神と人間の違いを深く理解することです。でないと、罪の赦しや、敬虔や、告白、悔い改め、神の愛、キリストの愛、などの一番大事なことから、大きく外れることになるでしょう。
2019/1/24(木) 午前 0:28st5402jp返信する
 
ここも加えて記事にします。
2019/1/24(木) 午前 0:33st5402jp返信する
 
 
(2019年01月25日アップ、同日一部修正)
 
 
  
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  留まるを不変と解する詭弁
 
   「Stay hungry, stay foolish」
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28869821.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
    転載元:「Stay hungry, stay foolish」
     2018/11/7(水) 午前 9:21
    
https://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/34521194.html
 
 
またシャロームは、転載記事を載せています。前にも載せたサイトからです。
転載元は、2018年11月16日以降、更新がありません。どうやって了承を取ったのでしょう。仲良しだから、いいじゃろ、ということでしょうか。人を批判に曝して難を逃れたいのでしょうか。しかし、批判対象は、この転載記事に賛同しているシャロームです。
 
 引用はじめ
 >
 
 Appleが新製品を出して、話題となっている。
 私もリンゴ党のひとりなので、気になる。
 
 スタンフォード大学の卒業式でしたジョブズのスピーチ。
 
 エリートに向かって言う。
 「満腹するな。まだ先がある。」
 「賢いと思うな。知らないことがまだ多い。」
 前途多難ではあるけれど、現状に満足せず、
 モチベーションを高めて進め、ということだろう。
 
 聖書はこう言っている。
 
 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまり
 ます。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶ
 ことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまってい
 なければ、実を結ぶことはできません。ヨハネ15:4
 
 この世では頑張る者が成功すると、煽るのだが、
 自分の想い、力、努力では何もできない、わたしにとどまれ。
 留まらないと豊かに実を結ぶことができないからだと。
 
 そこには神との親しき交わりがあり、永遠のいのちがあると。
 一時の幸いではなく、永遠の幸いを送ることが重要なのだから。
 
 自分は無力である、だからイエスの愛に、恵みの中にとどまる。
 それによって真理を知り、生きる喜びが満たされるために。
 
 「Stay Jesus」「Stay GoodNews」と言うことになるのだろう。
 
 <
 引用終わり
 
シャロームは、キリストのもとに留まれ、ということを、信仰は不変でよい、と受け取って、この記事を転載しているのではないかと思います。
 
はっきり書いてあります。
 
>「満腹するな。まだ先がある。」
>「賢いと思うな。知らないことがまだ多い。」
 
これからも、学習が必要だという意味です。
 
シャロームは、ここは無視して、キリストの「わたしにとどまれ」という言葉を、今のまま不変でよいと解釈したのだと思います。
 
シャロームが、信仰について、これからも学習が必要だと受け取ることは、自分で、過去の、悔い改めない、反省しない、罪を認めない、という自説を訂正することなしにはあり得ないからです。また、お茶を濁し、ごまかし、読む人の目先を変えようとしています。
 

イエスの愛に、恵みの中にとどまる。
それによって真理を知り、生きる喜びが満たされるために。

 
イエスの愛にとどまるとは、主イエスのもとで、悔い改めと祈りの日々を過ごすことです。決して恵みが降ってくるのを何もせず何も努めることなく安穏と口を開けて待っていることではありません。シャロームの詭弁の入り口がここにあります。
 
>この世では頑張る者が成功すると、煽るのだが、
>自分の想い、力、努力では何もできない、
 
「自分の想い」に「だけでは」を加えないならば不備であり、人間の想いを無視してよいと言っているようなものです。信仰は、人の想いを無視することではありません。人の想いを無視して、神の想いが残ると思うのは、キリスト者ではないからです。
 
神の民である人間としての自分の想いを無視すれば、ケダモノか病気の神経が人を動かすことになります。神は、言うまでもなく、他でもない、人間のみに、信仰を与えるからです。
 
>そこには神との親しき交わりがあり、永遠のいのちがあると。
 
こういう、神との親しき交わり、永遠のいのち、という超常言葉を平気で使う向きには、神聖を、自分の頭の中において、そこから動かさないことが出来る、という、慢心を感じます。神を讃美したつもりで、実際は自分の信仰を自慢している、ということが多いのです。
 
>それによって真理を知り、生きる喜びが満たされるために。
 
こういう豪語につながります。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
15:4
わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
15:5
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
 (ヨハネ書15:4-5、新約聖書)
 
「自分だけでは実を結ぶことが出来ない」と、「だけでは」が入っています。
 
そして、「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない」と、この聖句が、キリスト者が何かをする、つまり、努力することのために書かれていることを表しています。
 
シャロームは、キリストから離れているので、自分では、信仰のために、何一つできず、物を言えば詭弁となり、信仰の実を結ぶどころか、偽善のために利用できるものを漁り、堕ちて腐った果実を貪っています。
 
何をするのかは、個人を枝に譬えていますから、個人によって異なるのでしょう。しかし、日々、悔い改めて祈り、新しくなることは必須であります。それも理解できないシャロームなのです。
 
ここで参考までに、注意するべきところがあります。上の直前の3節ですが、
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)15:3
あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。
 (ヨハネ書15:3、新約聖書)
 
こういう聖句を、シャロームなど偽善者は、自分は完成して清いから何もしなくてよい、という根拠にしてくることがあります。そうでないことは、4~5節で明らかです。あらかじめ書いておきます。
 
>自分は無力である、だからイエスの愛に、恵みの中にとどまる。
 
転載元は、書き方は不十分ですが、自分が無力であることを認めています。
 
書き方や言い方が不十分でも、改めることで成長する気があればよいのです。誰でも、私も、そう思って努めているわけですが、シャロームだけは、改める気がないのです。
 
シャロームは、非を認めず、罪を認めず、悔い改めなくても救われると言い、訂正していません。つまり無力であっても、自分は神がどんでん返しで救うから安心と信じて、あらゆる苦言と矛盾を不感不応の境地?で無視してきました。
 
シャロームと、転載元は、一致はしていないようです。
 
今回の批判は、数えきれないほどの背きと豪語、そして嘘と欺瞞を露呈していながら、今なお、何事も無かったかのように、信仰のブログで教えることが出来ると思い込んで、キリストから離れていながらキリストを讃え、神に背きながら神を讃美する修正不能の偽善者、シャロームが対象です。
 
シャロームと交わると、私の場合で言えば、数年間を無駄に費やすことになります。下手をすると、シャロームと同じような自己満足信仰?者になってしまいます。
 
>それによって真理を知り、生きる喜びが満たされるために。
 
転載元がどういう気持ちで書いているのかは、これだけでは分かりませんが、私たちが求めるのは、人間の真実であり、人間として生きる喜びですから、神と同じ真理とか、不変の喜びに満たされるなど、神しか持てないようなものを欲しがることのないようにしてほしいと思います。
 
神の前に、真実の告白をせず、秘密にして、うわべだけ飾った祈りをすることは、神に対して、人に対する場合と同じように隠し事が出来ると思っているということです。それを後に反省して悔い改めれば、それだけでも信仰は保たれますが、それさえしない者は、神に告白して赦しを求めることさえ拒んで、自分の閉塞した領域にいて、神に任せることをしないわけですから、信仰者とは言えません。
 
正直な告白をして神の前に悔い改めた者は、人の前でも、多少の秘密は持っていても、あまりに白々しい嘘は吐けなくなります。
 
人に対して、嘘を吐いて、それを隠して、平気でいるような白々しさがあるかどうか、あるいは、悔い改めるように警告しても、書いているものや発言に何の変化も見られないかどうか、これら、人間にも分かることから、信仰者か偽善者かを、その者の言動によって人間が判断することが可能な場合もあるということです。
 
神に対して、世辞や偽りの讃美言葉は通用しません。祈りにおいて、反省し、正直のみをもって告白し悔い改める、ということは、そのとき、信仰が真実であるかどうかが試されている、ということでもあるでしょう。その正直さによる誠実だけが救いの必要十分条件なのです。
 
 
(2019年01月24日アップ、同日一部修正)
 
漁る(あさる)
貪る(むさぼる)
欺瞞(ぎまん)
露呈(ろてい)
 
 
  
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  信仰告白
 
 
キリストの言葉に
慈しみを感じ取り感動して
キリストに共感したから
キリストを忘れられなくなり
その救いを信じて
キリスト者は生まれます。
 
キリストの言葉を
超常の謎解きワードとして
受け取ったからではありません。
 
信仰告白は
清明なる意識において
神から与えられたところの
人間の限りある知性と感性を
そのとき尽くしてなされます。
 
決して
我を失った陶酔気分や
神に捕らえられた脱魂状態や
聖霊が乗り移った憑依状態や
神の操り人形状態でなされるものではありません。
 
謎解きは興味~趣味です。
それ以上ではありません。
 
陶酔気分は気分だから一過性です。
それ以上ではありません。
 
脱魂状態には自分はいません。
どうして自分の信仰告白が出来るでしょう。
 
憑依状態は憑りつかれた状態です。
それで信仰告白したら別のものの信仰?です。
 
操り人形は人間ではありません。
 
悔い改めと信仰告白を
知性でも感性でもなく
神が与えるもの
と言うことの詭弁は明らかです。
 
悔い改めと信仰の機会を
神は人に与えるでしょう。
しかし
悔い改めと信仰告白という人間の行為を
神が与える恵みと言うのは、
こう言えば否定されないだろう
と企む悔い改めない偽善者の詭弁です。
 
人間の自由意志でなされない限り
悔い改めも信仰告白も成り立ちません。
 
 
今も魔術的に信仰を考えるものは少なくない。
キリスト者であっても聖書の奇跡を読んで
そういう考え方に惹かれることはあるだろう。
しかしそこに嵌ってはいけない。
 
物や肉体の奇跡が無いと結論しているわけではない。
物や肉体の奇跡は神のもので
人間の手に負えないと言っている。
人間の知性でも感性でも
その奇跡の仕組みを明らかにすることは出来ない。
物や肉体の奇跡は神に任せられるべきことである。
 
物や肉体の奇跡を分かるという人間がいたら
趣味の可能性を超常への思い込みで決めつけている。
 
カルトには今も
聖書を読み解いて超常が分かると主張する者がいる。
その解釈が自分の拙い知識と思考によるところの
辻褄合わせに過ぎないことを理解していないからだ。
 
キリスト教や聖書への興味で何を考えても
考えることは人間の自由だが
それと信仰を同一視してはいけない。
 
信仰は興味で生まれるのではない。
信仰は必要から生まれる。
 
 
どうしようもなく必要として
必要だから求めて
求めて与えられたものだから
人間は自分のはっきりした自由意志で
信仰を告白するのである。
 
偽善者の詭弁に頷いてはいけない。
 
 
(2019年01月23日アップ、同日一部修正)
 
脱魂状態(だっこんじょうたい)
憑依(ひょうい)
憑りつかれる(とりつかれる)
嵌る(はまる)
 
 
  
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