底知れぬ闇
私たちを生きるようにして下さる方 2019/1/21(月) 午後 4:01
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28867510.html
by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
類似記事:飼うもののいない羊? 2012/9/12(水) 午前 9:38
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/23425457.html
シャロームは、信仰の記事を書いては批判され、政治の記事を転載して被せ、また、信仰の記事を書いてくるようです。いつ何を書いても、その偽善ぶりが衰えることはありません。
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イエスは言われました。
わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
(新約・ヨハネによる福音書10章10~11節)
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悔い改めず罪を気にしないシャロームがいるのは、狼として肉と欲を食らうためでしょう。偽善者シャロームは、今日も嘘の讃美をするペテン師です。現代のパリサイ人シャロームは、神とキリストを讃美しながら、嘘を吐き、人を傷つけても平気です。
問い詰めても答えず、反論も弁明も出来ず、受け取らず聞かず、訂正不能で、しばらく沈黙したのち、また何事も無かったかのように、白々しい挨拶や讃美とともに嘘の種をばらまきにやってきます。ふつう、何が悪かったんだろう、というくらいは考えるものですが、何も感じず考えずにいられる人がいるということです。
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私たちはなにを信じるにしても、決して根拠もなく信じることはしません。
ところが、私たち日本人はなんでも信じてしまう傾向があるのではないでしょうか。
近くに小さな祠がありますので、何気なく見てみますと、“〇〇観音”――
つまり〇〇の観音様が祀られているのです。
俗に“鰯の頭も”と言われるほどですから、
それなりに祀られ信じられていることには由来もあるのでしょう。
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観音菩薩とイワシの頭を同等に見て、さりげなく異教への蔑視を表しています。いつも、異教のみならず、他者を馬鹿にして蔑視している目線しか持たない、これが、シャロームです。
観音菩薩を「“鰯の頭も”と言われるほどですから」と侮辱しておきながら、「由来もあるのでしょう」と、皮肉のように添えている。嘲笑いの「(笑)」が付いているようです。
配慮というものを、全くする気がないのでしょう。浅ましい丁寧語や聖書語を挨拶などに、わざとらしく使いますが、シャロームに対しては、幼稚な無罪妄想と悔いない不感不応信仰?を合わせて、イワシの頭ではなく、フグのハラワタとでも言いたいところです。
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だれがなにを信じようとも、それはその人の自由なのですが、
私たちの生き方は信じるものに支配され、
その人の人となりも、信じるものに似てくるのです。
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実にシャロームは、信じたものになってきています。仮面の優しそうな顔で世辞を言っても、悪鬼の本質と胡散臭さの強さが表れます。嘲笑いの強さを表しています。訂正不能のご利益宗教と、くじけない悪意と無視の強さです。自分の思慮と情緒と良心までもゴミのように捨て去るほど、フグよりもマムシよりも強くなったのです。だから、騙される人が出てくるのでしょう。偽善の軸がぶれないから怖いのです。このようになりたい人がいるでしょうか。
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それに安易に確かな根拠もなく信じることに馴れてしまうことによって、
物事の真偽の見分けがつかなくなり、簡単にだまされてしまうようになるのです。
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安易に確かな根拠もなく信じさせることを生業としているシャロームは、同じように騙されやすい人を欲しがって、同じ中身の記事を性懲りもなく書きながら、あちこち、わざとらしい丁寧語と聖書語で、あいさつ回りしています。
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欲や不安に付け込まれ悪徳商法や霊感商法などにだまされ、
大変な被害、損害を被った人の話は尽きません。
それは信ずべき方を見失い、知らないために、
安易に信じることにならされた結果ではないでしょうか。
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悪徳の原点のようなシャロームが言っています。信ずべき御方に背いて、知らないふりで、非を認めず、罪を認めず、悔い改めをしないシャロームが言っています。
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私たち日本人はなにを信じるかよりも、
信じること、信じる心を良いことだと考えがちです。
満たされることのない人間の心の欲や弱さや罪責感や不安に付け込む、
宗教がまるで雨後の竹の子のように出てきて、
たくさんの人がひきつけられてしまうのです。
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満たされることのない人間の心の欲や弱さや罪責感や不安とシャロームが言うとき、これは罪悪感の表出ではなく、人から責められるのが何よりも嫌い、ということです。こういう詭弁の言いかえをシャロームはしてくるので要注意です。シャロームは、罪悪感ではなく、罪を責められた恨みを笑いに変えて、余裕ありげに人に向けるのです。そして気安く忘れるのです。
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こうした人間の弱さを覚え、確かな心の拠り所を求め、
心の飢え渇きを覚える心の奥には
人間が弱い存在だということばかりではなく、
生ける神によって造られた存在だということがあるのではないでしょうか。
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「ではないでしょうか」という言い回しは、シャロームの場合、得意げな断定です。もちろん真意ではなく欺くための垂れ流しの常套句に過ぎません。
生ける神によって造られ、生ける神に背き、生ける神の御心とは真逆の、悔い改めることを忘れて、なお、キリスト者ふうな語り口を偽装して広めようとすることを止めないシャロームです。
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人はだれでも自分のルーツを知りたいと思います。
ある時、私も生後10ヶ月しかいなかった故郷を訪ねてみました。
懐かしさで心がいっぱいになり、そこにぼんやり立ちつくし、
立ち去りがたい思いにかられてしまいました。
その故郷の役所に行き、父が出した私の出生届けを見せてもらったりしました。
役所の方は怪訝な顔をされましたが、書庫から古い出生届けの束を見つけて、
見せてくださいました。そこには亡くなった父の筆跡がありました。
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私たちの心には神を求めずにはおられない欲求があるようです。
いつどこでこの世に生を受けても、すべての人は古今東西、
確かな心の拠り所である神を求める存在のようです。
それが人が神に造られているしるしではないでしょうか。
この心の深い欲求が満たされることなしには
人の心に決してほんとうの安心、平安はないのではないでしょうか。
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父親を求めるように神を求めたとシャロームは言いたいようです。ならば、シャロームは、父親にも背いたのでしょうか。背き続けたのでしょうか。ここにも闇がありそうです。
それに、肉の父親と、創造主である神を、同列にはできません。シャロームは、自分勝手なので、何でも利用できるものは遠慮も思慮もなく利用します。そして都合が悪くなると、すぐ忘れるのです。
古今東西、確かな心の拠り所である神を求める、とは限らない例がシャロームです。彼は、彼の欲求に忠実な超常の奇跡、すなわち、ご利益を信じ続けています。信仰の始まりにおいて、シャロームには思い込みの強さがあり、それを、彼の信仰?が正当化して、修正不能となり、幼稚な奇跡が起こって自分を守るという信仰を今も言い張っているのでしょう。
そして、深い欲求が満たされたと勘違いして、それを神が与えた与えた平安と信じ込んで、単純なご利益の中でも、奇跡が守るという信仰を、言い続ける愚かさに至っているものと思われます。シャロームが神の平安と呼ぶのは、彼自身の自己満足に過ぎません。
それを、キリスト信仰として広めようとするのですから、キリスト者にとって、これほどの迷惑~害毒はないのです。キリスト教を破壊する行為であり、迫害と言ってもよい外れ方です。まさに、パリサイ人相当の偽善者だと思います。
まさに、シャロームにおいては、他者を無視し、聞かず、忘れることが、神の平安となっているのです。そのために、恐らく多くの人にとって近づけば近づくほど迷惑な存在になって、その実体を隠すために嘘とその隠ぺいを重ねてきたのでしょう。
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イエスは天地万物の創造者であられ、
ご自分の父なる神を信じ、委ね、愛されました。
イエスにとってそれは十字架の道でした。
しかしそれが生きる道であり、豊かな命に至る道であることをご存知でした。
そして、生ける神を見失い、根拠もなく信じ、安心を得ようとして、
彷徨っている私たちに信じ、従うべき真実な生ける神を示してくださったのです。
<
キリストが十字架によって殺されて、自分は豊かな命に至る、という、これこそが、イエス様が死んでくれてありがとう信仰なのです。つまり、十字架の死を、言葉と仕組みだけで受け取って、そこに込められた深い悲しみを受け取る共感性の欠如した信仰です。彼の安くて何も気にしない人間離れの信条は、ここから始まっていると言ってよいのでしょう。
そして、シャロームが、悔い改めず、非を認めないほどに、真実の神に全く従っていないことの始まりでもあるのでしょう。
>
私が役所で父が出した出生届けに、
父の筆跡見た時、懐かしさを感じたように、
聖書には父なる神の筆跡を見出すことができるのです。
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このわざとらしい言い方で、自分は神の子、とでも言うのでしょうか。罪を認めず、悔い改めをせず、聖書から何も読み取っていないシャロームが、聖書を読めば、神の筆跡が分かると言っています。
シャロームは、ひどい人間のひどい有り様しか、表していません。神からも、神の子からも、最も遠いところに、偽りを懐にいっぱい隠したまま、独り満悦して、笑っているのがシャロームです。悲しむ代わりに、怒り、悔い改める代わりに、せせら笑うでしょう。
批判して深く突っ込んで初めて分かる、裸の、神気取り、裸の、神の子気取り、裸の、預言者気取り、裸の、王様気取り、実は、裸の大嘘吐きです。はっきりした批判精神を持っていないと、深入りしたころには、もう、すり込まれて、シャローム化しているという危険があります。
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イエスさまは言われました。
「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる」。
(新約・ヨハネによる福音書10章10~11節)
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シャロームが来るのは、羊をたぶらかし、嘘を食わせるためです。彼は、悪徳の主になろうとして、よい羊の命を自分のために破壊することも厭わない冷血の偽善者です。このような人に、信仰を聞きたい人がいるでしょうか。
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「神はそのひとり子を世につかわし、
彼によって私たちを生きるようにして下さった。
それによって、私たちに対する神の愛が明らかにされたのである。」
(新約・ヨハネの第一の手紙4章9節)
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シャロームは、世に数多ある宗教の中で、もっとも、安易な信条を、後生大事に固定して、神の名を騙るペテン師です。愛とか癒しとか導きとかではなく、人の行為である悔い改めまでも、神が与える、という詭弁を弄し、信仰を、実は、おもちゃのように弄んで笑う偽キリスト者のカルト教祖シャロームに、決して好意的に近づかないでください。
砕けた魂も、弱さも、信仰者の敬虔も、謙遜も、反省も、後悔も、言論も、聖句も、聖書も、祈りも、涙も、悲しみも、非情な妄信者シャロームにとっては、何の意味もないんだろう。だから、平気で、書ける。
シャロームと、10年以上の付き合いで、怒る心の文言を書いてみると、
ええ?、何言ってる、そういう質問じゃないだろ、はぐらかしたな、聖句ならべりゃいいってもんじゃない、削除したな、なんで同じこと書いてくる、読んでないだろ、理屈が苦手ならそれなりの書き方が、笑ってるのか、何様?、念押しの「ね」やめろ、ですね口調やめろ、オレはエホバじゃない、根拠がない、神の啓示?聖霊?あんたにあっておれにないと言うか、偽善もパリサイも赦される?、罪を気にしない?、与えられるだけ?、恵みだけ?、それキリスト教じゃないから、嘘吐いたな、誰があんたみたいなのに依存するか!、不快の伝道、怒らせて去らせる処世、卑怯者、よくそんな白々しい・・、等々
(2019年01月22日アップ、同日一部修正)
被せる(かぶせる)
数多(あまた)
騙る(かたる)≒ だます(騙す)
厭う(いとう)
詭弁を弄する(きべんをろうする)
弄ぶ(もてあそぶ、玩ぶ)
妄信(もうしん)
まさに、シャロームにおいては、他者を無視し、聞かず、忘れることが、神の平安となっているのです。そのために、恐らく多くの人にとって近づけば近づくほど迷惑な存在になって、その実体を隠すために嘘とその隠ぺいを重ねてきたのでしょう。
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イエスは天地万物の創造者であられ、
ご自分の父なる神を信じ、委ね、愛されました。
イエスにとってそれは十字架の道でした。
しかしそれが生きる道であり、豊かな命に至る道であることをご存知でした。
そして、生ける神を見失い、根拠もなく信じ、安心を得ようとして、
彷徨っている私たちに信じ、従うべき真実な生ける神を示してくださったのです。
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キリストが十字架によって殺されて、自分は豊かな命に至る、という、これこそが、イエス様が死んでくれてありがとう信仰なのです。つまり、十字架の死を、言葉と仕組みだけで受け取って、そこに込められた深い悲しみを受け取る共感性の欠如した信仰です。彼の安くて何も気にしない人間離れの信条は、ここから始まっていると言ってよいのでしょう。
そして、シャロームが、悔い改めず、非を認めないほどに、真実の神に全く従っていないことの始まりでもあるのでしょう。
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私が役所で父が出した出生届けに、
父の筆跡見た時、懐かしさを感じたように、
聖書には父なる神の筆跡を見出すことができるのです。
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このわざとらしい言い方で、自分は神の子、とでも言うのでしょうか。罪を認めず、悔い改めをせず、聖書から何も読み取っていないシャロームが、聖書を読めば、神の筆跡が分かると言っています。
シャロームは、ひどい人間のひどい有り様しか、表していません。神からも、神の子からも、最も遠いところに、偽りを懐にいっぱい隠したまま、独り満悦して、笑っているのがシャロームです。悲しむ代わりに、怒り、悔い改める代わりに、せせら笑うでしょう。
批判して深く突っ込んで初めて分かる、裸の、神気取り、裸の、神の子気取り、裸の、預言者気取り、裸の、王様気取り、実は、裸の大嘘吐きです。はっきりした批判精神を持っていないと、深入りしたころには、もう、すり込まれて、シャローム化しているという危険があります。
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イエスさまは言われました。
「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる」。
(新約・ヨハネによる福音書10章10~11節)
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シャロームが来るのは、羊をたぶらかし、嘘を食わせるためです。彼は、悪徳の主になろうとして、よい羊の命を自分のために破壊することも厭わない冷血の偽善者です。このような人に、信仰を聞きたい人がいるでしょうか。
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「神はそのひとり子を世につかわし、
彼によって私たちを生きるようにして下さった。
それによって、私たちに対する神の愛が明らかにされたのである。」
(新約・ヨハネの第一の手紙4章9節)
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シャロームは、世に数多ある宗教の中で、もっとも、安易な信条を、後生大事に固定して、神の名を騙るペテン師です。愛とか癒しとか導きとかではなく、人の行為である悔い改めまでも、神が与える、という詭弁を弄し、信仰を、実は、おもちゃのように弄んで笑う偽キリスト者のカルト教祖シャロームに、決して好意的に近づかないでください。
砕けた魂も、弱さも、信仰者の敬虔も、謙遜も、反省も、後悔も、言論も、聖句も、聖書も、祈りも、涙も、悲しみも、非情な妄信者シャロームにとっては、何の意味もないんだろう。だから、平気で、書ける。
シャロームと、10年以上の付き合いで、怒る心の文言を書いてみると、
ええ?、何言ってる、そういう質問じゃないだろ、はぐらかしたな、聖句ならべりゃいいってもんじゃない、削除したな、なんで同じこと書いてくる、読んでないだろ、理屈が苦手ならそれなりの書き方が、笑ってるのか、何様?、念押しの「ね」やめろ、ですね口調やめろ、オレはエホバじゃない、根拠がない、神の啓示?聖霊?あんたにあっておれにないと言うか、偽善もパリサイも赦される?、罪を気にしない?、与えられるだけ?、恵みだけ?、それキリスト教じゃないから、嘘吐いたな、誰があんたみたいなのに依存するか!、不快の伝道、怒らせて去らせる処世、卑怯者、よくそんな白々しい・・、等々
(2019年01月22日アップ、同日一部修正)
被せる(かぶせる)
数多(あまた)
騙る(かたる)≒ だます(騙す)
厭う(いとう)
詭弁を弄する(きべんをろうする)
弄ぶ(もてあそぶ、玩ぶ)
妄信(もうしん)
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