ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年01月

 
  底知れぬ闇
 
   私たちを生きるようにして下さる方 2019/1/21(月) 午後 4:01
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28867510.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
    類似記事:飼うもののいない羊? 2012/9/12(水) 午前 9:38
    
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/23425457.html
 
 
シャロームは、信仰の記事を書いては批判され、政治の記事を転載して被せ、また、信仰の記事を書いてくるようです。いつ何を書いても、その偽善ぶりが衰えることはありません。
 

イエスは言われました。
わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
(新約・ヨハネによる福音書10章10~11節)

 
悔い改めず罪を気にしないシャロームがいるのは、狼として肉と欲を食らうためでしょう。偽善者シャロームは、今日も嘘の讃美をするペテン師です。現代のパリサイ人シャロームは、神とキリストを讃美しながら、嘘を吐き、人を傷つけても平気です。
 
問い詰めても答えず、反論も弁明も出来ず、受け取らず聞かず、訂正不能で、しばらく沈黙したのち、また何事も無かったかのように、白々しい挨拶や讃美とともに嘘の種をばらまきにやってきます。ふつう、何が悪かったんだろう、というくらいは考えるものですが、何も感じず考えずにいられる人がいるということです。
 

私たちはなにを信じるにしても、決して根拠もなく信じることはしません。
ところが、私たち日本人はなんでも信じてしまう傾向があるのではないでしょうか。
近くに小さな祠がありますので、何気なく見てみますと、“〇〇観音”――
つまり〇〇の観音様が祀られているのです。
俗に“鰯の頭も”と言われるほどですから、
それなりに祀られ信じられていることには由来もあるのでしょう。

 
観音菩薩とイワシの頭を同等に見て、さりげなく異教への蔑視を表しています。いつも、異教のみならず、他者を馬鹿にして蔑視している目線しか持たない、これが、シャロームです。
 
観音菩薩を「“鰯の頭も”と言われるほどですから」と侮辱しておきながら、「由来もあるのでしょう」と、皮肉のように添えている。嘲笑いの「(笑)」が付いているようです。
 
配慮というものを、全くする気がないのでしょう。浅ましい丁寧語や聖書語を挨拶などに、わざとらしく使いますが、シャロームに対しては、幼稚な無罪妄想と悔いない不感不応信仰?を合わせて、イワシの頭ではなく、フグのハラワタとでも言いたいところです。
 

だれがなにを信じようとも、それはその人の自由なのですが、
私たちの生き方は信じるものに支配され、
その人の人となりも、信じるものに似てくるのです。

 
実にシャロームは、信じたものになってきています。仮面の優しそうな顔で世辞を言っても、悪鬼の本質と胡散臭さの強さが表れます。嘲笑いの強さを表しています。訂正不能のご利益宗教と、くじけない悪意と無視の強さです。自分の思慮と情緒と良心までもゴミのように捨て去るほど、フグよりもマムシよりも強くなったのです。だから、騙される人が出てくるのでしょう。偽善の軸がぶれないから怖いのです。このようになりたい人がいるでしょうか。
 

それに安易に確かな根拠もなく信じることに馴れてしまうことによって、
物事の真偽の見分けがつかなくなり、簡単にだまされてしまうようになるのです。

 
安易に確かな根拠もなく信じさせることを生業としているシャロームは、同じように騙されやすい人を欲しがって、同じ中身の記事を性懲りもなく書きながら、あちこち、わざとらしい丁寧語と聖書語で、あいさつ回りしています。
 

欲や不安に付け込まれ悪徳商法や霊感商法などにだまされ、
大変な被害、損害を被った人の話は尽きません。
それは信ずべき方を見失い、知らないために、
安易に信じることにならされた結果ではないでしょうか。

 
悪徳の原点のようなシャロームが言っています。信ずべき御方に背いて、知らないふりで、非を認めず、罪を認めず、悔い改めをしないシャロームが言っています。
 

私たち日本人はなにを信じるかよりも、
信じること、信じる心を良いことだと考えがちです。
満たされることのない人間の心の欲や弱さや罪責感や不安に付け込む、
宗教がまるで雨後の竹の子のように出てきて、
たくさんの人がひきつけられてしまうのです。

 
満たされることのない人間の心の欲や弱さや罪責感や不安とシャロームが言うとき、これは罪悪感の表出ではなく、人から責められるのが何よりも嫌い、ということです。こういう詭弁の言いかえをシャロームはしてくるので要注意です。シャロームは、罪悪感ではなく、罪を責められた恨みを笑いに変えて、余裕ありげに人に向けるのです。そして気安く忘れるのです。
 

こうした人間の弱さを覚え、確かな心の拠り所を求め、
心の飢え渇きを覚える心の奥には
人間が弱い存在だということばかりではなく、
生ける神によって造られた存在だということがあるのではないでしょうか。

 
「ではないでしょうか」という言い回しは、シャロームの場合、得意げな断定です。もちろん真意ではなく欺くための垂れ流しの常套句に過ぎません。
 
生ける神によって造られ、生ける神に背き、生ける神の御心とは真逆の、悔い改めることを忘れて、なお、キリスト者ふうな語り口を偽装して広めようとすることを止めないシャロームです。
 

人はだれでも自分のルーツを知りたいと思います。
ある時、私も生後10ヶ月しかいなかった故郷を訪ねてみました。
懐かしさで心がいっぱいになり、そこにぼんやり立ちつくし、
立ち去りがたい思いにかられてしまいました。
その故郷の役所に行き、父が出した私の出生届けを見せてもらったりしました。
役所の方は怪訝な顔をされましたが、書庫から古い出生届けの束を見つけて、
見せてくださいました。そこには亡くなった父の筆跡がありました。


私たちの心には神を求めずにはおられない欲求があるようです。
いつどこでこの世に生を受けても、すべての人は古今東西、
確かな心の拠り所である神を求める存在のようです。
それが人が神に造られているしるしではないでしょうか。
この心の深い欲求が満たされることなしには
人の心に決してほんとうの安心、平安はないのではないでしょうか。

 
父親を求めるように神を求めたとシャロームは言いたいようです。ならば、シャロームは、父親にも背いたのでしょうか。背き続けたのでしょうか。ここにも闇がありそうです。
 
それに、肉の父親と、創造主である神を、同列にはできません。シャロームは、自分勝手なので、何でも利用できるものは遠慮も思慮もなく利用します。そして都合が悪くなると、すぐ忘れるのです。
 
古今東西、確かな心の拠り所である神を求める、とは限らない例がシャロームです。彼は、彼の欲求に忠実な超常の奇跡、すなわち、ご利益を信じ続けています。信仰の始まりにおいて、シャロームには思い込みの強さがあり、それを、彼の信仰?が正当化して、修正不能となり、幼稚な奇跡が起こって自分を守るという信仰を今も言い張っているのでしょう。
 
そして、深い欲求が満たされたと勘違いして、それを神が与えた与えた平安と信じ込んで、単純なご利益の中でも、奇跡が守るという信仰を、言い続ける愚かさに至っているものと思われます。シャロームが神の平安と呼ぶのは、彼自身の自己満足に過ぎません。
 
それを、キリスト信仰として広めようとするのですから、キリスト者にとって、これほどの迷惑~害毒はないのです。キリスト教を破壊する行為であり、迫害と言ってもよい外れ方です。まさに、パリサイ人相当の偽善者だと思います。
 
まさに、シャロームにおいては、他者を無視し、聞かず、忘れることが、神の平安となっているのです。そのために、恐らく多くの人にとって近づけば近づくほど迷惑な存在になって、その実体を隠すために嘘とその隠ぺいを重ねてきたのでしょう。
 

イエスは天地万物の創造者であられ、
ご自分の父なる神を信じ、委ね、愛されました。
イエスにとってそれは十字架の道でした。
しかしそれが生きる道であり、豊かな命に至る道であることをご存知でした。
そして、生ける神を見失い、根拠もなく信じ、安心を得ようとして、
彷徨っている私たちに信じ、従うべき真実な生ける神を示してくださったのです。

 
キリストが十字架によって殺されて、自分は豊かな命に至る、という、これこそが、イエス様が死んでくれてありがとう信仰なのです。つまり、十字架の死を、言葉と仕組みだけで受け取って、そこに込められた深い悲しみを受け取る共感性の欠如した信仰です。彼の安くて何も気にしない人間離れの信条は、ここから始まっていると言ってよいのでしょう。
 
そして、シャロームが、悔い改めず、非を認めないほどに、真実の神に全く従っていないことの始まりでもあるのでしょう。
 

私が役所で父が出した出生届けに、
父の筆跡見た時、懐かしさを感じたように、
聖書には父なる神の筆跡を見出すことができるのです。

 
このわざとらしい言い方で、自分は神の子、とでも言うのでしょうか。罪を認めず、悔い改めをせず、聖書から何も読み取っていないシャロームが、聖書を読めば、神の筆跡が分かると言っています。
 
シャロームは、ひどい人間のひどい有り様しか、表していません。神からも、神の子からも、最も遠いところに、偽りを懐にいっぱい隠したまま、独り満悦して、笑っているのがシャロームです。悲しむ代わりに、怒り、悔い改める代わりに、せせら笑うでしょう。
 
批判して深く突っ込んで初めて分かる、裸の、神気取り、裸の、神の子気取り、裸の、預言者気取り、裸の、王様気取り、実は、裸の大嘘吐きです。はっきりした批判精神を持っていないと、深入りしたころには、もう、すり込まれて、シャローム化しているという危険があります。
 

イエスさまは言われました。
「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる」。
(新約・ヨハネによる福音書10章10~11節)

 
シャロームが来るのは、羊をたぶらかし、嘘を食わせるためです。彼は、悪徳の主になろうとして、よい羊の命を自分のために破壊することも厭わない冷血の偽善者です。このような人に、信仰を聞きたい人がいるでしょうか。
 

「神はそのひとり子を世につかわし、
彼によって私たちを生きるようにして下さった。
それによって、私たちに対する神の愛が明らかにされたのである。」
(新約・ヨハネの第一の手紙4章9節)

 
シャロームは、世に数多ある宗教の中で、もっとも、安易な信条を、後生大事に固定して、神の名を騙るペテン師です。愛とか癒しとか導きとかではなく、人の行為である悔い改めまでも、神が与える、という詭弁を弄し、信仰を、実は、おもちゃのように弄んで笑う偽キリスト者のカルト教祖シャロームに、決して好意的に近づかないでください。
 
砕けた魂も、弱さも、信仰者の敬虔も、謙遜も、反省も、後悔も、言論も、聖句も、聖書も、祈りも、涙も、悲しみも、非情な妄信者シャロームにとっては、何の意味もないんだろう。だから、平気で、書ける。
 
シャロームと、10年以上の付き合いで、怒る心の文言を書いてみると、
ええ?、何言ってる、そういう質問じゃないだろ、はぐらかしたな、聖句ならべりゃいいってもんじゃない、削除したな、なんで同じこと書いてくる、読んでないだろ、理屈が苦手ならそれなりの書き方が、笑ってるのか、何様?、念押しの「ね」やめろ、ですね口調やめろ、オレはエホバじゃない、根拠がない、神の啓示?聖霊?あんたにあっておれにないと言うか、偽善もパリサイも赦される?、罪を気にしない?、与えられるだけ?、恵みだけ?、それキリスト教じゃないから、嘘吐いたな、誰があんたみたいなのに依存するか!、不快の伝道、怒らせて去らせる処世、卑怯者、よくそんな白々しい・・、等々
 
 
(2019年01月22日アップ、同日一部修正)
 
被せる(かぶせる)
数多(あまた)
騙る(かたる)≒ だます(騙す)
厭う(いとう)
詭弁を弄する(きべんをろうする)
弄ぶ(もてあそぶ、玩ぶ)
妄信(もうしん)
 
 
  
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  唯一の神
 
 
唯一にして全知全能の神
 
私たち信仰者は
その神の存在を信じているが
 
私たち信仰者は
その神を信じているというほどには
神を対象とすることの出来ない存在である。
 
その神は
私たち信仰者の
想像や推測の対象とはなっても
決定の対象とはならない。
 
したがって
その神について
確定した知識があるとは言えない。
 
私たちの言葉は
神の言葉に比してあまりにも不十分である。
私たちの思慮は
神の思慮に比してあまりにも不確定である。
私たちの情緒は
神の情緒に比してあまりにも不安定である。
 
神は地上の人や物ではないので
安易に机上に載せてはいけない存在である。
 
唯一かつ全知全能と
私たちの違いはそれほど大きい。
 
私たちの心は
御心に遠く及ばないのだから
私たちの実感は
神の実感に及ぶべくもない。
 
いかなる儀式的仲介をもってしても
その神を知ることは出来ない。
 
 
その神を
父と呼んでよいのは
御子なる主イエスの人格について
いささかなりとも知識を得て
さらに掛け替えのない恩恵を受けているからである。
 
物や肉体への奇跡をおこなうキリストは
神格としての力によるのであり
私たちは神格の知識を得てはいないだから
奇跡が起こるという信仰は成り立たない。
 
主イエスから慈しみを受けるゆえに
私たちの心が開き
私たちが心を震わせて
唯一御子なる主イエスを仲保者として
父と呼ぶところに信仰は成り立つ。
 
主イエスの御名によって祈るとき
神様と呼ぶ対象は
主イエスとの違いのない御方であり
そのような知識と親しみをもって
実際そのように祈っている。
 
主イエスが人格を持っておられるゆえに
その主イエスが不滅であるゆえに
主イエスの御名によって
神に祈ることが赦されている。
 
 
神より低い民であり
神を恐れるならば
神の召命についても
恐れをいだくべきである。
 
キリストの父なる神のしもべだからといって
知りもしない神格の意志を汲み取ったつもりで
宗教的優越感や党派心をもって異教や無宗教を
己の信仰より下においてはいけない。
 
それが出来るのは聖三位だけであるが
聖三位がどういう道筋で人を選ぶかも
選んだ人が例外なくキリスト者となるかどうかも知りえないのだから
異教や無宗教を下に置いて
怒ったり哀れんだりするのは優越妄想に過ぎず
恐れを知らぬ神への冒涜に等しい。
 
宗教的優越妄想は
神聖を決めつけるカルトや偽善者の持ち物である。
 
 
私たちは
感性によって受け取り
知性によって思考し判断し実行するが
その結果は信仰者にとって神への捧げものであり
決して優越ではなく
反省と悔い改めによって
私たち自身の成長を神に祈り願うためである。
 
 
聖書は
言語や訳は違っても
言葉としてはいつも同じことが書いてあり
時に応じて別の言葉で語ってくれるわけではない。
 
だから目に見えない導きを期待して
時に応じ心を動かして
新しい意味を見出してゆくのは私たちである。
 
私たち信仰者は
人間として
嘆きのうちに受け取ることがあり
涙のうちに告白することがあり
悲しみのうちに悔い改めることがあり
温もりのうちに帰ることがあり
 
ゆえに
地上で無となる時まで
喜びのうちに三体を失って
拠りどころである三位の無窮のふところへ帰るまで
キリストの想いとキリストへの想いを
不十分で不確定で不安定な存在のよすがとして
キリストの父なる神のもとで
与えられ捧げる双方向の命を生きるのである。
 
 
(2019年01月21日アップ、同日一部修正)
 
 
  
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  砂のような黴のような
 
   いのちのパン
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28864467.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
   
   類似記事が、こんなにいっぱいあります。
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27899280.html
   https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27405956.html ―――(1)
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/19694661.html
   https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/12669226.html
  
   私も、(1)の記事の、コメント欄について批判記事を書いています。
   しかしコメントは、すべて削除されました。
   
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18423721.html ―――(2)
   まったくシャロームは、言論の自由と責任について何も考えない人です。
 
 
先ず、私が(2)に書いたことをいくつか抜粋して再録しておきます。
一部、再編集してます。
 
(引用はじめ
 

stさん、私はあなたと違って、あなたのコメントを歓迎していません。くりかえし削除すると伝えています。それでもコメントをするあなたは荒らしなのです。
誰が何を言っても自分の正当化しかできない、他者の非難中傷しかできないstさん、これからもstさんからのコメントは荒らしコメントとして削除することを伝えておきます。

 
言論において、双方向を拒み、ブログのルール上の権限によって、コメントを、未承認にしたり、削除したりする人は、言論の常識と民主主義の常識において、一方的な態度と見なされ、法律やルールではなく、言論者として、一方的で、自己中心的な行為です。
 
もし議論を拒むのであれば、誰にも見せないことです。公表した時点で文責は生じます。あなたの言い訳は成り立ちません。
 
(加筆)批判と荒らしの区別の出来ないシャロームです。都合の悪いことは全部荒らしと呼ぶのです。その精神から、いくら書いても削除するぞ、といっています。
 
易坊のコメントを承認しています。削除と不可視化は、言論者として不当だと思うからです。
 
>易坊さんは易坊さんの考えと易坊さんの責任でstさんにコメントされたのです。
 
(加筆)易坊は、シャロームの味方をして、私のブログを荒らしました。
易坊とシャロームは、仲良しです。そして、易坊は荒らしです。
  
 以前にシャロムの書いたコメントです。記事:「救いは神の恵み」
  
「 > st5402jpさん
  お帰りなさ~い!せっかく易坊さんから親切に声をかけてくださったのに、
  何も得るものが ありませんでしたか。
   ・・・
  2016/3/31(木) 午後 8:19[ shalom ] 」
 
易坊と仲が良いことを私に示すコメントであることは確かでしょう。
 
荒らしと共同で、私の批判を退けようとしました。
次のように、荒らしと共同で攻撃したこともあります。
 

またstさんのコメントをいつも削除していますので、初めてコピペして、送り返してみたのです。stさんは送り返した私を荒らしだと言われましたが、もともと荒らしコメントとしてstさんから送られたものなのです。

 
私が、シャロームに書いたコメントを、私のコメント欄にコピペしてきたのですが、意味不明です。嫌がらせとしか思えません。私は、腹が立ったので、コピペして返しました。
 
表現の自由には責任が伴うこと、知らなかったとは言わせません。
 
>神の裁きは神の御手の中にあることですから、お任せすることが最善なのです
 
神に任せることをしないで、自分で強制力で、偽善を隠蔽したのは、あなたです
 
いつまで、誤魔化そうとするのですか。隠蔽する必要があれば、神が隠蔽するでしょう・・と考えれば、隠蔽が、あなたの欲望から来ていることは、明らかです。
 
理路も、道理も、気持ちも、流れも、文脈も、全部無視して、被害者面するのは、やめるべきです。
 
好きなことを書けばいい、というような、信仰と趣味を同じに考えるやり方が、通用するわけはないのです。覚悟をもって書くべきであり、覚悟がないなら、宗教については、ここでは、キリスト信仰については、書いてはならないと思います。
 
以上の私のコメントも、すべて削除されました。
シャロムは、趣味や日記的ブログでの、好き嫌いの自由を、信仰という、間違えばカルトにもテロにもなりかねない、大きなテーマに、勘違いして混同して当てはめているようです。だから嫌いだったら拒否していいと思っているようです。また歓迎していないとシャロムは言っていますが、批判ですから、それは承知の上です。
 
 引用終わり)
 
 
シャロームは、何度も同じ記事を書いてきます。新しい記事が書けないのは、訂正不能となり、不感不応で、他者をを無視して、自己満足だけを求めてきたからです。
 
書くことで、また、罪と偽善と恥の上塗りをするわけですが、罪悪感が欠如しているので、平気でいられるのでしょう。それにしても、コメントをすべて削除した偽善の証拠に結び付く決定的なタイトルの記事を再び載せるとは。
 

今日の聖書のみことばです。
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。
このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、
 世を生かすためのわたしの肉のことである。」
(新約・ヨハネによる福音書6章51節)
私たちが生きていくのにパンを必要とすることは言うまでもありません。
ある人は信仰のことを話しますと、神を信じるのもケッコウだけど、
 神が食べさせてくれるの?なんていう人があります。

 
殆ど、いないと思います。いつまで、古い文言をなぞって満悦しているのでしょう。
 

 確かに私たちはパンなしに生きていけるわけではありませんが、
しかし、決してパンだけで生きていけないことを忘れがちのようです。

 
生き方をどうすればよいかで悩んでいる人は多いと思いますが、忘れがちというほどではないと思います。シャロームは、賢いのは自分だけであるかのように、無知な者どもに教えてあげるみたいな立場から、他者を舐めた書き方をしてきます。
 

 日本は世界で豊かな国といわれていましたが、今はどうでしょうか。
 残念ながらそれは命の豊かさではありませんでした。
 時にはモノの豊かさがかえって私たちの心の貧困を招いてしまうようです。

 
シャロームは、その独善的信仰?そのものによって、貧相で卑怯なふるまいを繰り返します。
 

この貧しさはパンでは満たされない空腹感なのです。
この空腹感が満たされないと、人としての存在感も生きている充実感も無いのです。
 心に痛みを抱いている人はよく食べます。ひっきりなしに食べ、食べては吐き・・・
 まるで食べることで心の飢えをいやそうとしているようです。
 食べ過ぎているのに心は空腹感と孤独感という心の飢えに耐えられないのです。

 
過食症は信仰欠乏症?なのでしょうか。幼稚な短絡思考で、過食症まで、自分と同じ信仰?が無いからだと言いたいようです。
 

 先進諸国といわれている国は飽食の状態にあるといわれています。
メタボリック・シンドロームはからだの問題以上に心の問題でしょう。

 
メタボが信仰で治るとでも思っているのでしょうか。何でも自分の信仰?に結び付けているようです。こういう全か無かという書き方をシャロームはずっとしてきたのです。
 

 一方アジアやアフリカでは食べるパンが無くて、飢えている人がたくさんおられます。
ところがそこで生きている人々の少しのパンを分け合って食べる
心の豊かさに驚かされるとNPOの働きによって聞きます。
 私も貧しさがどんなに辛く、いやなことであるかを知っています。
 今世界の人口は75億を超えています。
私たちは私たちの心と生活を本当に豊かにするのは、
 決してパンの豊かさによるのではないことを知ることが大切だと思います。

 
一見、世界を案じているかのようですが、自分の狭い了見で信仰と世界をボロクソ節で語ることに酔い痴れているだけだと思います。
 

イエスは「わたしは、天から降って来た生きたパンである。」と言っておられます。
 私たちが働いて地から取られたパンは身体を養いますが、
 決して心と命を豊かにすることが出来ません。

 
シャロームは、キリストと神の前に、上に書いたことだけでなく、おびただしい裏切りがあり、そのことについて、告白と悔い改めをしていません。ボロクソ節有頂天から、理路も道理も情緒も解しない砂岩のような精神で、ボロボロの砂を撒いてくるのです。
 

 人はそれができると錯覚して砂漠に蜃気楼を追い求めてさ迷っているようです。
そして大地も心も生活もますます砂漠化しているのです。
その砂が私たちの健康と生活をおびやかしています。

 
ボロクソ節全開です。
 

 私たちの命は生ける神から与えられ、生かされているのですから、
 天から、神が与えてくださるパンによらなければ、私たちの命を豊かにすることはできません。

 
ここからは、キリストの断食、悪魔の誘惑、バベルの塔、などを挙げて
人間の営みと歴史をボロクソに言います。これがシャロムのボロクソ節です。
その際、自分だけは高みに立って悪から除外して豪語するのです。
今までも、そのように書いてきて、散々批判されて、それでもまだ、このような書き方をしたがるシャロームは、訂正不能によって、学習機能がゼロになっているという証拠です。
 

イエスは「私を食べなさい。そうすればいつまでも生きることができるであろう」と
言われます。この謎めいた言葉はイエスを信じて、
飢え渇く心に受け容れることによって解き明かされます。
 私たちはパンを食べるときには口にパンを入れます。
イエスは天から降って来た命を与えるパンなのです。

 
キリストを、天から降ってきた命を与えるパンと言って、満悦するシャロームです。
 
命のパンは、キリストの前に、罪を認め、悔い改めて生きる人間に与えられるものです。
 
シャロームは、命のパンを食べてはいません。シャロームは、悔い改めを拒否しています。その言い逃れに、悍ましい詭弁を弄したことは、すでに何度も書きました。
 
シャロームは、自己顕示と自己中心の欲望のために、キリストも神も聖霊も福音も聖書も、その神聖の名を食い物にしているだけです。
 
>信仰は心という口を開いて食べるのです。
 
信仰は、人間の心や共感を必要としないと、シャロームは、何度も言ってきたのです。
 
シャロームは、浅ましい讃美言葉で騙そうとします。また、私?という荒らしにやられて困っているふうの芝居をして取り入ろうとすることがあるかもしれません。そういう社交の世辞のような、芝居に騙されて、熱心な信仰だと受け容れる人もいて、その人が今度は、他者を気にしない自己中心の生き方を宣伝しているようです。
 
このようにシャロームは、伝染する病原でもあります。それが偽善なのです。どうか、批判的な見方以外では、決してシャロームに関わらないでください。シャロームが、砂のように無意味でカビのように古い常套句の浅ましい讃美言葉と詭弁を弄して、福音伝道を乱す記事を書く、ということを止めることは、当分、期待できそうにありません。
 
※ シャロームからの、コメントおよび内緒コメントには、丁寧さに騙されないように、十分注意してください。
 
 
(2019年01月20日アップ、同日一部修正)
 
黴(かび)
舐める(なめる、嘗める)、舐る(ねぶる)
夥しい(おびただしい)
悍ましい(おぞましい)
 
 
  
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  書いたつもり
 
   condemnation と conviction
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28864377.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
毎度、言い逃ればかりのシャロームの記事ですが、なぜ、英語を使う必要があるのでしょう。学があると言いたいのでしょうか。恐らく何かからの引用だと思いますが、引用元を明記しないシャロームです。
 
でも、見つけました。下の記事の後半のようです。(2019年01月19日午前0時24分現在)
https://blogs.yahoo.co.jp/koroba121/38450519.html 
この引用元記事の画像は、引用元を示さないで、自分の記事に載せるシャロームを指しているようにさえ思えます。どこまで卑怯なのでしょうね。
 
>condemnation と conviction
 
condemnationは、非難。convictionは、確信、信念。
なぜ英語を使う必要があるのでしょう。
 

神を信じるあなたたちの中にも、人の罪を責める(condemning)考えを聞いたことのある人は多いでしょう。こうしたことを言うのは神ご自身だと思う人さえいます。友よ、とんだ考えちがいです。あなたがどんなにダメ人間かなんて、神様はけっして言いません。イエスさまは言います。「わたしは世をさばくためではなく、世を救うために来たのである。」(ヨハネによる福音書12章47節)

 
ダメ人間とは、前に、カルトが私の個人情報をばらして言った悪口です。非難にもなりません。根拠がないからです。人間ならば、言わないことです。シャロームは、批判と悪口の区別が出来ない人です。何度言っても、同じことを返してくるのです。
 

condemnationとは何か
condemnationはサタンから来ます。あなたを傷つけることがねらいです。condemnationはたえず、あなたがどんなにダメ人間か、これまでどんなに失敗ばかりをしてきたかを指摘します。condemnationはあなたに問題を示しますが、解決は示しません。

 
反対者を悪魔呼ばわりするというカルトと偽善者の常套手段を、シャロームは振り回します。もはや、通用しないのに、また、書いてきます。そして、神に、敵を滅びを祈り念じるのがシャロームの常套手段なのでしょう。
 
根拠を示して、反論できず、弁明できない者が、使う手段なのです。シャロームは、失敗も、ダメも、悪も、嘘も、偽善も、自覚できないので、不感不応で、同じ言い逃れを向けて、同じ悪意を表してくるのです。
 
シャロームは、人間に分かる根拠が示せないので、超常の神?と悪魔?の名によって、人を傷つけることが狙いです。
 
>イエスさまが来られたのは世をさばくためではありません(ヨハネによる福音書12章47節)。
 
自分が裁かれそうになると偽善者は、この聖句を持ち出します。書いてある、書いてあると、自分に都合の良い聖句の言葉尻だけを挙げてきますが、シャロームは、いかなる聖句の救いにも赦しにも背いています。反省せず悔い改めないからです。
 

イエスさまの中にcondemnationはありません(ローマ人への手紙8章1節)。一方サタンは、兄弟たちを告発する者として知られています(ヨハネによる黙示録12章10節)。

 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
8:1
こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。
8:2
なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。
 
シャロームは、悔い改めを拒否したので、キリスト・イエスのもとにはありません。キリストの言葉を悪用する者です。さらに、シャロームは、黙示録を持ち出していますが、その前に、シャロームは、福音書にある救いに相応しくないのです。
 
シャロームは、性懲りもなく、またしても、何もしなくても、反省もしなくても、悔いなくても、改めなくても、赦される、という、救いの自動販売機の話をしています。全く真剣に信仰を考えておらず、言い逃れに汲々とするシャロームです。
 

あなたがどんなにダメかなんて神様はこれからもけっして言いません。どうしてでしょうか。イエスさまが言われたからです。「わたしは世をさばくためではなく、世を救うために来たのである。」(ヨハネによる福音書12章47節)

 
シャロームは、同じ聖句を同じ記事に二度挙げて、何が言いたいのでしょう。悔い改めない者は、パリサイ人と同じで、この記事に表れている通り、自己を正当化しようと、他者を婉曲的に否定し責めながら、悪あがきをするだけなのです。聖句の恣意的引用に逃げているとは、何度も言ってきたことです。
 

convictionとは何か
convictionは聖書の中では、神様のあわれみとして知られています。聖書には、神様のあわれみは私たちを悔い改めに導くものであると書かれています(ローマ人への手紙2章4節)。condemnationはあなたに言います。「おまえはなんてダメ人間なんだ!自分のやったことを見てみろ!」。一方convictionはあなたに言います。「わたしのもとに来なさい。ゆるしてあげよう。」

 
悔い改めに導く、と言いながら、実際には、シャロームは、悔い改めたことが無いのです。悔い改めれば、書いたものに、その変化が表れてくるはずですが、それが、シャロームには全く見られないのです。これも、最近、何度も言ったことです。シャロームは、批判者を疲弊させることだけが目的のようです。
 

神様はあなたの罪をよろこんでゆるそうとするばかりではありません。神様はゆるしたいと切望し、ゆるすことを深く深く願っておられるのです。イザヤ書30章18節には次のように書いてあります。「それゆえ、主は恵みを与えようとしてあなたたちを待ち、それゆえ主はあわれみを与えようとして立ち上がられる。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。」

 
どんなに讃美言葉を並べても、赦したいと深く深く願っておられる神に対して、シャロームは、悔い改めをしない、という背きだけを返してきたのです。
 

ヨハネの第一の手紙1章9節をみてみましょう。「自分の罪を告白するのなら、神は誠実で正しい方ですから、私たちの罪をゆるして下さいます。そしてあらゆる不義から私たちをきよめて下さいます。」
ローマ人への手紙2章4節:「あるいは神のあわれみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」

 
神は導くのです。しかし、シャロームは、悔い改めないのです。そして自己正当化ばかり、繰り返すのです。その結果、嘘、偽り、悪口、当てつけ、嫌がらせ、あざ笑い、自己正当化、といった偽善だけになっています。シャロームは、まさに、神の豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじて、さらには、無視して、無理な妄想の救いをわめいているのです。
 

convictionはあなたの抱えている問題に解決を示します。convictionはあなたに、あなたの罪を洗い流すイエスさまの血を見せます。
何がちがうのか
convictionはあなたに解決を示します(つまりイエスさまの血です。イエスさまの血が罪を洗い流します)。一方condemnationはあなたに問題を示します(罪と過去、あなたの失敗です)。condemnationはあなたに問題を示しますが、convictionはあなたに解決を示すのです。

 
シャロームの conviction 確信も信念も、悔い改めなくても偽善も赦され救われるから罪は気にしなくていい、という、真っ向から神に背く妄想です。まだ言ってる・・
 

condemnationは叫びます。「おまえの過去!おまえの罪!ダメな奴だ!」けれどもconvictionは叫びます。「イエスさまの血が罪を洗い流します。イエスさまのもとに来て、罪をゆるしていただきなさい。あなたの罪と過去はもうあなたの一部である必要はありません。」
神様のゆるしの本質を理解すること

 
神に背いているのはシャロームという人間です。主イエスのもとに、すなわち、祈りにおいても、言論においても、罪を認めず、非を認めず、救いをことごとく拒否しているのは、シャロームという者です。
シャロームは、赦しの本質を理解していないし、本質に背いているということ。
 

神様のゆるしの本質とわたしたちを過去から浄めたいと願っておられる神様のねがいを理解することはとても重要です。罪のゆるしは、神様のゆるしの本質を示す偉大な教えなのです。

 
神様のゆるしの本質は、悔い改めに基づいています。神様の願いも、人が悔い改めることです。このことはとても重要です。悔い改めは、神様の赦しをいただくための信仰の本質です。
 
どうか、シャロームから、赦しの本質が聞けるなどとは決して思わないでください。彼は、何もわかっていません。そして、真っ向から背いて、悔い改めの機会を無にして、真っ逆さまに堕ちて、口だけ、偉大な教え、と言いますが、飾りばかりの言説で、内実は、うなりながら、餌をあさる野良犬によく似ています。もう、よだれを垂らすのは、やめなさい。臭すぎる。
 
 
赦しの機会を無にして、シャロームのように、自分に不都合な話を受け取らず、偽善の常套手段に走って、都合の良い言葉だけを集めて、唾を飛ばして繰り返し、同じことを喚いて、さらに堕ちてゆくようにならないために、信仰の節操と弁えがあります。
 
神の前では、全ての人間が罪人であるから、罪を自覚して悔い改める人を、神は赦し、癒し、導きます。
 
悔い改めない者、詭弁を弄する者、聖句を悪用する者、自己正当化に走る者、他者を逆に責める者、正面向いて言えないために嫌がらせをする者、やたら外国語を引用して、やたら他者の文章を引用して、ますます信仰者としての基本的な知恵さえ持たない者、それでも余裕で教えているつもりでいる者、そして笑って見せる者、感じない、考えない、受け取らない、成長しない、そして、ただただ言い張りだけになる者、これが、偽善者の成れの果てです。
 
こうなってはいけない、こうなったらおしまい、そのような見本を、シャロームは、これからも、あらわにしてゆくつもりなのでしょうか。悪と罪においても、珍しい極端な反面教師です。
 
神の赦しと救いには、神の前に正直に告白して悔い改めることが前提であります。その前提を弁える人間をキリスト者と呼びます。聖書を通じて、そうなのです。
 
そのことを、シャロームは完全無視して、やたら結果の、救い、赦し、だけを、偉大と誉めまくっていることを見逃さないでください。彼の安い讃美言葉に騙されないでください。
 
※ シャロームからのコメントおよび内緒コメントに注意してください。
 
 
(2019年01月19日アップ、同日一部修正)
 
詭弁を弄する(きべんをろうする)
節操と弁え(せっそうとわきまえ)
騙す(だます)、騙る(かたる)
 
 
 
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  信じるとは
 
 
聖書は、
言葉の辻褄合わせだけの教条主義ではなく、
ありがたやの讃美だけで良い気持ちになって
何か良いものをくださると信じることでもなく、
 
人間が救いを求めて読むからには
生きて現に傷ついている人間のために
遣わされた御方に導かれるところの
救いと愛を読み取るからこそ
聖なる書と呼ばれる。
 
聖書を読んで信じるということは、
書いてあることが書いてある通りに
あったと信じることではない。
それだけでは生きる力にならないからだ。
 
前から言っていることだが、
奇跡を史実と信じ込むだけで
どうして生きる力になるというのか。
実感のない思い込みが増えてくるだけだ。
 
聖書を読んで信じるということは、
そこから
生きるための真実を見出し
生きる力を受け取ることである。
 
聖書は
単なる歴史書ではない。
暗号解読の謎解きクイズでもない。
お伽噺や魔法の書でもない。
 
そこに書かれているのは
人間が生きるのに必要な真実であり
 
人間が陥りやすい過ちや悪から
立ち直るために説かれているので
真実の書となるのである。
 
そこに書かれている神とキリストは、
いつもニコニコ笑って
何でもあげるよと招いているのではなく、
 
命を懸けて
人間の悲しみを理解し共感するからこそ
いのちの書と呼ばれるのであり
ゆえに
神とキリストと聖霊と呼ばれるのであり
聖三位という神聖の名で呼ばれるのである。
 
すなわち
聖書に書かれている中心は
神とキリストのことだけが目的ではなく
すなわち、神聖なる超常のことではなく、
 
神とキリストに仕えた立派な人の話でもなく、
 
救われる必要があるのは人間に他ならないから
信仰は人間のためにあるのだから
人間のことが書かれているのである。
 
私たちのことが書かれているものとして
聖書は読まれるべきである。
 
特にキリストと人間のことであり
そこから神と人の双方向の信仰を読み取らなければ
人間にとって
聖なる書とはならないのである。
 
聖書は
人間のために書かれたのであり
救われる人間のために、キリストが表すところの
負いやすい荷が、祈りが、愛が、書かれたのであり
 
人間に可能な、救われるための節操と、込められた愛と、
救い主のいのちに呼応する心のことが書かれている。
 
 
(2019年01月18日アップ)
 
言葉尻(ことばじり)
辻褄(つじつま)
お伽噺(おとぎばなし)
 
 
 
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