ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年01月

 
  多幸症讃美
 
   「いまはある者」
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28862069.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
   転載元:「いまはある者」
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/34522705.html
 
 
転載記事です。シャロームは、自分で書けなくなると、転載をしてきます。転載元は、以前から、シャロームと交流のあるサイトです。ここでも、何度か、問題を指摘して、批判もしてきました。いかにもシャロームが気に入りそうな聖書語と讃美言葉のサイトです。
 
シャロームは、自分が書いたんじゃないから、と責任逃れをしたいのでしょうか。それとも、自分以外を批判させて、他者同士の争いを促して、注意を逸らしたいのでしょうか。しかし、批判は、この記事を是として選んだシャロームに向かいます。
 
現在、転載元サイトは、投稿が停止しています。そして、シャロームについては、嘘、偽り、偽善、悔い改めをしないこと、詭弁がいっぱい、など、キリスト者ならありえないような問題点が山積しています。
 
こういう事態を自覚しているなら、他者を巻き込むような行為は、控えるのが普通ですが、シャロームには、そういう気持ちも考え方もないようです。そこがシャロームの怖いところです。全く他者への配慮が出来ないのです。しかも、あとになっても、それを悔いることが無いのです。
 
これまでの記事とコメントで、シャロームが、悔い改めと信仰告白は神によって与えられ、人の思慮や感情は関係ない、という言説で、自身が悔い改めないことの弁明であるかのように見せかけた詭弁は、使徒ペテロを辱める詭弁でもあり、信仰告白に悔い改めが必須である、ということに真っ向から背いており、キリスト者としての自覚において致命的な欠陥であります。
 
悔い改めないことは、へりくだって神に対する従順への志向を拒否することであり、それは、神の導きによる信仰のさらなる新たな成長と更新を受け取らないことを表しています。
 
悔い改めは、罪の赦しのみならず、信仰の成長に必須なのです。
 
シャロームが、自身の悔い改めと反省以外の記事を、書いたり転載するたびに、いかに讃美言葉を並べても、その行為そのものが、状況を分かっていない、裏切りや偽善の自覚がない、反省する気がない、悔いていない、改める気がない、という証拠となります。
 
それは、そのまま、シャロームが、カルトであり、キリスト者ではないことの証明となります。何故なら、信仰の有無にかかわる重大な問題があることを無視して、何事も無かったように見せかける隠蔽と偽装という偽善だからです。私が、そう見なそうと見なすまいと、そうなってゆくのです。キリスト信仰への真っ向からの反逆を自分の意志で重ねることだからです。
 
 
(記事です)

 
神はモーセにご自身の名前をこのように言われた。
 
 「わたしは、『わたしはある。』という者である。」
 出エジプト3:14
 
 神は永遠の初めからおられるお方、初めであり、終わりである方。
 イエスもまた、何度も何度も「わたしはある」と言われた。
 
 そして私たちにこう言われる。
 「あなたがたはない者だ」と。
 自分で好き勝手に生きていた者だったから。
 神から離れていることは、自分を見失うことなのだ。
 
 しかしいまは、御子イエスにあって、ある者だと。
 
 私たちは神の御前に死んでいたのに生き返り、
 いなかった者なのに、見つけられた。
 神との関係を和解と平和をもって、回復させていただいて、
 寄り頼んで生きる者とされたのだ。
 
 いまや、神の所有、息子、娘、家族とされている。
 そのことを喜ぼう、喜ぼう。ハレルヤ!
 

 
 
 (出エジプト記、口語訳)3:14
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
 (出エジプト3:14、旧約聖書)
 
神が有るというだけで、喜べるでしょうか。キリストが救うというだけで、喜べるでしょうか。そこに欠けているのは、神とキリストが関わって、人間はどうしたのか、自分はどうしたのか、ということであり、それこそ、聖書を読んだら、最優先に考えるべきことなのです。
 
「わたしは有る」と神が言ったら、それで、讃美するほどに、神を理解できるでしょうか。
 
「喜ぼう、喜ぼう。ハレルヤ!」と書けば、喜びが伝わるでしょうか。
 
あとは神に任せるのです、と言うなら、できることは全部したのかと、問われないでしょうか。
 
ときに、信仰者の精神が、信仰の多幸的な陶酔気分であることがあり、まれには、陶酔気分を求める傾向があります。さらには、それが習慣となっている人もいるようです。これは、不自然で、ときに無理のある多幸気分に過ぎませんから、その気分で書いた讃美は、多幸症の産物となり、説得力がなくなります。信仰は、多幸症でも陶酔気分でもありません。
 
考えなくていいから、とにかく信仰、それだけで嬉しい、という記事を、シャロームは、この上なく好みます。シャローム自身が、理路を考えることも、情緒を深く感じることも、嫌で嫌でたまらない人だからでしょう。シャロームは自分にとってだけの大好物をブログというテーブルに載せて満悦したいのでしょう。
 
シャロームは、丁寧語と聖書語で讃美しまくって悦に入るような記事をたくさん書いてきました。一方で、悔い改めを忘れ、真実を忘れ、信仰を忘れて、こんなに讃美しているのだから、自分は立派な信仰者とばかり、上から目線になり、悔い改めないカルト的な信条を、嬉しそうに語り続けて、困ったら、揶揄したり、「(笑い)」で嘲笑ったりするような偽善者として、自他を破壊してきました。
 
福音伝道は、信仰の幸いを人々に伝えることです。それを、神がいるのだから、とにかく喜ぼう、という書き方で、何が伝わるのでしょう。贔屓にしてくれるお仲間が、無難な記事だと安心するだけでしょう。
 
和解、平和、回復、生きる者とされた、と言うだけなのは、そう書けば、そう伝わる、という思い上がりでしょう。あるいは、そう思えるほど、自分の信仰は厚いのだ、自分はそれほど信仰しているのだ、という自慢でしょうか、自己顕示でしょうか。
 
 
シャロームには、悲しみの感情がないように思われます。そのような表出や表現が、今まで見られないからです。シャロームの感情は、快不快、すなわち、快ならばとにかく嬉しがり、不快ならば不機嫌から怒りや憎しみになり、文章には揶揄による嘲笑いが見られるようになります。
 
シャロームは、聖書をろくに読んでいないと思います。少なくとも理解していないことが、多々、明らかになっています。神があらわした(聖句) → 神から与えられた → 自分は何もしなくていい、というように、神の導きを、悔い改めないことの言い訳に平気で使う人です。
 
そういうことだから、ペテロの、イエスが救い主であるという信仰告白も、ペテロの思いではない、神が与えたから神に口を動かされて言ったのだ、つまり、ペテロの放心状態か脱魂状態での発言であるかのように見なしている、という、とんでもない解釈を書いてくるのです。
 
悔い改めの告白も、信仰告白も、神の導きを受けてのことなら、信仰者の清明な意識と自覚と感性によって、為されなければ意味がありません。放心状態でも脱魂状態でも陶酔気分でもないのです。人間の明確な自覚としての告白だからこそ、その後の人生に生きてくるのです。
 
出会った、よかった、救われたと書くだけなら、さらには、死んでいたが生き返った、などと、乱暴な聖書語で書くなら、人間にとって、何の救いにも癒しにもならないでしょう。シャロームのように、それで満足する人は、人間の気持ちを察することが出来ずに、何でもかんでも、神が起こす奇跡と言ってしまうことになります。
 
 
神は永遠の御方、キリストは救い主、おかげで死んだのに生き返ったという超常表現、こういう讃美言葉だけで出来ている文章に欠けているのは、なぜ、その言葉が喜びにつながるのか、ということです。
 
キリストとの出会いは、悲しみのときに、癒される体験となる、というのは、私の体験でもあります。心の癒しは、魂の奇跡として体験され、少なくとも滅多に起こらない物や肉体への奇跡よりも、はるかに一生を支える賜物となります。
 
そういうことを私は努めて書いてきたつもりですが、私の言うことが絶対に正しいというわけではなく、さらに心を動かしてくれる意見に出会ったら、私は意見を修正するでしょう。そうやって私も成長したいのです。
 
 
信仰についての体験談で感動することはあります。しかし、シャロームが語った体験談は、苦労話と、病気が治ったという奇跡の話でした。「超常体験?です(笑い)」という書き出しでした。この「(笑い)」は、「超常」という誇大的な言葉についているので、謙譲の笑みではなく、相手つまり私への揶揄ということになります。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19894145.html
 
こういう揶揄表現で、しかも、滅多に起こらない奇跡の話をわざわざ言ってくるのは、ご利益宗教を求めている人でしょう。まさに、シャロームは、キリスト信仰ではなく、ご利益にしがみついているのだろうと思います。
 
 
信仰について、書くときに、また、語るときに、聖書や教理に合わせようとして、忘れやすい大事なことは、聖書でも、現実でも、自分についても、キリストに対して、人間がどう関わったか、また、関わるかということです。そこに、人間の、心の弱さや貧しさ、へりくだる姿勢、そして、キリストの共感と慈しみが、溢れているのです。
 
そこに、私たち、今の信仰者が、キリストに対して、キリストの慈しみと共感に対して、どう関わって生きてゆくか、ということも表れているのです。限りある人知をもって反応する生き物である人間にとって、体験上、御言葉は、人間の想像や推測や思考を掻き立てながら、受けて答える、という信仰の双方向を促進するからです。
 
 
(2019年01月17日アップ)
 
贔屓(ひいき)
脱魂(だっこん)
掻き立てる(かきたてる)
ご利益(ごりやく)
 
 
 
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  悪と偽善
 
 
信仰者が
神の前で嘘を吐かないことは
神の前には
嘘偽りが通用しないことを知っているということであり
全てを見抜いておられる神に対して
信仰者が服従を示すことです。
 
それが信仰なのです。
 
人の前での態度は
そこから溢れてくるものであって
人の前での善行が
信仰の条件なのではありません。
 
神に救われるかどうかは
善悪ではないのです。
 
だから犯罪人も救われるのです。
 
神の前で
隠し、飾り、詭弁を弄する者は、
あさましい讃美言葉をいくら並べても
救いから最も遠い者です。
 
何故なら、そういう者は、神の前で
きれいごとや世辞の讃美を唱えれば
神の受けを良くすることが出来ると思っている者であり、
そのことが既に神に背いて
神を人と同じように見ることが通ると思う者であり、
すなわち神を舐めてかかっているからです。
これは最も重い罪そして偽善なのです。
 
世の中を見れば分かるでしょう。
 
罪人である人間のうち
最も凶悪な者たちは必ず偽善に走っています。
悪でありながら
嘘偽りで善に見せかける偽善だけは
神によって
永遠に赦されることはないのです。
 
偽善を悪と善の中間などと思わないでください。
 
神ではない私たちは
神の前に例外なく悪人であり罪人なのです。
 
 
神に救われるかどうかは
善悪ではないのです。
 
 
罪がないと言い張る者は偽善者であり
それは聖書に書かれているとおり
神の救いを拒むゆえに
神の救いの対象になり得ない穴へと滑り落ちてゆくのです。
 
偽善者は偉そうにしているから
よくないのは分かっている
などという次元の問題ではないのです。
 
偽善は最悪の悪であり
信仰においては唯一の最悪なのです。
 
偽善者は
神が憐れんで赦そうとしても
自分は
神に憐れまれる罪人ではないと思い込んでいる者です。
・・この問答を覚えてください。
 
つまり偽善は
神の憐れみを拒んで自ら正しいとすることで
神に対してダイレクトに背くことなのです。
 
少しばかりの善行を人に褒められたとしても
神の前に意味などないのです。
 
キリストの正義は
そして人の正義もまた
悪と戦うのではなく
偽善と戦うのであります。
 
偽善者は
人を騙して善人に見せかけます。
 
偽善者は神を信じてなどいないからです。
 
 
信仰者は
少なくとも神の前で
自分は善人だなどという言い分は
決して成り立たないことを知ってほしいと思います。
 
それを自ら弁えることだけが
神様のほうを向いて生きることなのです。
 
したがって、
全てを見抜かれる神の前に
精いっぱい正直に告白することだけが、
なお、神の民であることの唯一の証拠であります。
 
 
神の前に偽るような
偽善者にだけはならないでください。
それだけは決して赦されません。
 
 偽善者も聞かれると
 悔い改めは必要だと言います。
 しかし悔い改めたのかと問えば
 悔い改めは神に与えられるのだと言うのです。
 つまり
 神のお告げがあるまでは悔い改めないのでしょうか。
 神のお告げで自動的に口が動いて悔い改める
 とでも言うのでしょうか。
 結局、悔い改める気はないということです。
 詭弁の言い逃れをしているだけなのです。
 
 悔い改めないということは
 反省もしないということ。
 
悔い改めは反省する心を必要とします。
そして人間が自由意志によって
自ら進んで正直に神に告白することです。
どうか反省と悔い改めの機会を逃さないでください。
 
神は
造り給うたゆえ人を憐れみ
自由意志を与えた人間が罪深いことを憐れんで救いの手を差し伸べます。
 
 
(2019年01月16日アップ)
 
嘘偽り(うそいつわり)
溢れる(あふれる)
騙す(だます)
舐める(なめる)
 
 
 
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  悲しみと信仰
 
 
偽善者は相変わらず
弁明が出来なくても何も感じないで
繰り返し言い張るだけのようですが
 
聖書でも現実でもネットでも
偽善者が悲しむのを見たことがないです。
 
偽善者は悲しみの感情を持たないのではないか
と思うことがあります。
 
聖書でも現実でも
偽善者の感情は
得意げに笑うことと
怒りと憎しみだけのような気がします。
 
 
深い悲しみは
抑制がかかって
鬱になることもありますが
 
心が沈んで
激しさが涙になるなら正常で
出口があるということです。
 
悲しみはつらいけれど
心を潤し
心を濡らして
悲しみを洗い流す作用があります。
泣けない時には人からも受容が必要です。
 
しんみりと悲しむことは
その沈んだ思いのうちに
猛る思いを静めて
内へと向かう思考によって
やがて内省することもできるでしょう。
 
悲しみを知る人は
悲しみが去ることを喜ぶことが出来ます。
悲しみの克服が喜びとなり
楽しみへ導かれることになるのでしょう。
 
 
悲しみを知らない人は
出口のない感情と思考のために
憤怒だけを
どこかにぶつけることになるのではないか。
 
悲しみを知らない人は
悲しめない不都合に際して
怒り、憎み、恨んで、
他者のせいにして鬱憤を晴らすのだろうか。
 
悲しみを知らない人は
不快な感情を処理するにあたって
焦燥感が強いあまり
他者を貶めるか
他者をあざ笑うことになるでしょう。
 
そのような処理の方法は
他罰または責任転嫁となって表れるでしょう。
特殊な性格~病理として注意が必要です。
 
 
負の感情の出口がない間
静かな思考に向かうか
それとも
停止と遮断に向かうか
衝動と攻撃性につながるか
という違いがあります。
 
自分の感情をモニターできるか
正直に相談する相手がいるかどうか
 
モニターは反省に
正直は祈りに通じます。
 
つまり信仰において
悲しみは
悔い改めにつながる大切な感情のようです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10
義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。
 (マタイ5:3-10、新約聖書)
 
悲しむ人は、
おごらないゆえに、心貧しく、
うなだれるゆえに、慰められ
求める心があるゆえに、義に渇き、
むさぼらないゆえに、憐れみを受け、
余計なものがないゆえに、心が清く、
安らぎたいゆえに、平和を求め、
責められて受け止めたゆえに、
天国が与えられる
 
悲しみを知ることが信仰と偽善を分ける
と言ってもよいほどに
悲しみは大切な感情なのかもしれません。
 
 
(2019年01月15日アップ、同日一部修正)
 
猛る(たける)
鬱憤(うっぷん)
憤怒(ふんぬ)
焦燥感(しょうそうかん)
 
 
 
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  詭弁に詭弁?
 
   天国のかぎ
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28859818.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームは、問われて、悔い改めは必要だと言いながら、悔い改めは神が与えるもの、と言って、自分が悔い改めないことを詭弁で逃れようとしました。今回、そのことを強め、さらに詭弁を加えて、いかに愚かであるかを露呈しています。シャロームは、体質でしょうか、キリスト者ではないことを自ら証明する結果になる方向を選んだようです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
16:15
そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
16:16
シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
16:17
すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
  (マタイ16:15-17、新約聖書)
 

イエスは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と
信仰告白したペテロに向かって、
「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。
あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である」と言われました。

 
誰が「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と言いましたか。ペテロです。
 

ほかの多くの人たちはイエスに対して自分の思いや考えで
いろいろイエスについて言ったのですが、
ペテロのイエスに対する信仰告白はペテロ自身の思いや考えからではなく、
天の父なる神から与えられたのですとイエスさまは言われたのです。

 
誰が「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と言いましたか。ペテロです。
 
これだけでもいいのですが、念のために、ペテロに、神の導きがあることは誰も否定しないでしょう。ペテロだけでなく、私たちにも、神の導きはあるのです。
 
このことを拡大解釈して、神から与えられたと言って、シャロームは、悔い改めも神から与えられるから自分でする必要はないと、実際は、シャロームが悔い改めないことの言い訳にしたいのです。
 
>信仰告白はペテロ自身の思いや考えからではなく
 
信仰告白は、誰がしたのでしょう。ペテロです。シャロームは、ペテロが、このとき正気ではないようなことを言っています。信仰者は、神に操られた夢遊病みたいな状態で、思うことなく考えることなく、信仰を表すのでしょうか。シャロームは、露骨に人間性が信仰に向かう摂理に逆らって、信仰は人間離れだと言っているのです。シャロームこそ、正気でしょうか。
 
シャロームには、神の導きが無いのでしょうか。
 
キリスト者は、皆、神の導きによって、悔い改めているのですが。すなわち、シャローム以外のキリスト者は、皆、神の導きによって、言い換えれば、神に与えられて、悔い改めているのですが。
 
シャロームが、神の導きを、人の正常な意識に対してではなく、魔法で操ることのように見なしていることが明らかになっています。
 
信仰告白は、私たち人間の、思いや考えや気持ちといったものから離れることはありません。そして、私たちの本心そして真心からするのでなければ信仰告白にはなりません。
 
シャロームは、何を言っているのでしょう。信仰の世界を魔界だとでも思っているのでしょうか。
 
>神から与えられたのですとイエスさまは言われたのです
 
イエスがキリストであることを表したのは神であると、主イエスは言ったのです。つまり神の導きのことを言ったのです。それを、シャロームは、神から与えられた、という、シャローム自身の詭弁に当てはめて、彼自身の妄想に救い主イエス・キリストを合わせようとしています。シャロームは、どこまで神聖を冒涜したら気が済むのでしょう。
 

さらにペテロに向かって、
イエスさまは「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。
そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、
あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」と謎のような言葉を語られました。
信仰告白したペテロに授けると言われた「天国のかぎ」は
この世で、この地上で信仰によって生きる時、天国の扉を開けたり、閉じたりする鍵です。
その鍵は人からではなく、イエスさまから与えられるというのです。
その鍵を私たちに与えるために、イエスさまは十字架にご自分の命をささげ、
私たちの罪を贖い、罪の赦しを与え、神の子としてくださったのです。

 
シャロームは、地上で、天国の扉を開けたり閉じたりする鍵がキリストから与えられると言っています。それが、十字架の贖いだと言っています。
 
地上で、天国の鍵を開閉して、天国に入ったり出たりすることは出来ません。鍵は、具体的なものではなく、手掛かり、ヒント、と言った比喩と、神が導くという約束を表していると受け取るべきでしょう。
 
シャロームは、聖書の言葉を、魔法のようにしか受け取れないことを明らかにして、ますます、キリスト者ではないことを証明するに至っています。
 
このようなシャロームを決して信頼してはいけないことが分かると思います。我欲の言い逃れに聖句まで悪用する者です。
 

さらに、イエスさまを信じる私たち自身もイエスさまとともに十字架につけられ、
死んでいることを信仰によって受け容れる時、
イエスさまを死人のなかからよみがえらせた聖霊の働きによって
新しいイエスさまのよみがえりの命に生かされる天国の扉が開かれる約束なのです。

 
ここで、シャロームは、聖霊によって天国の扉が開かれると言っています。上で、ペテロが扉の鍵を与えられたと書いたばかりなのですが。
 

天の父からイエスさまが与えられる鍵によって開かれる天国の扉は
信仰告白しても、なお生まれながらの古き人という
肉の働きによって生きる時、閉ざされてしまうのです。

 
今度は、キリストが鍵を与えられると言っています。そして、肉の働きによって閉ざされると言っています。まるで、シャロームが、神聖の仕組みを作ったかのような言い方をしています。
 
私たちは、聖書を読むことで、体験から、感動をもって、天国を垣間見るような癒しの体験をすることがありますが、具体的に天国の扉を開くことは、地上ではできません。
 
具体的な事物と、比喩的な働きの区別、そして、一部と全部の区別さえできないシャロームです。この人が、このような口から出まかせで、人々に説教していたのですから、たまったものではありません。
 

イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。
だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
 (新約・ヨハネによる福音書3章5~6節)

 
シャロームは、肉から生まれた肉です。
 
シャロームは、水と霊を知りません。水と霊を恐れることも知りません。
 
神聖について、信仰について、詭弁という嘘を吐く者が、キリスト者と牧師のふりをして、とんでもない説教をブログに書いている、ということだけが明らかになっています。
 
シャローム shalom を、決してキリスト者、クリスチャンとは思わないでください。
シャロームは、信仰者を惑わし、信仰の邪魔をする者、つまり言葉で攻撃する迫害者です。
 
 
(2019年01月14日、同日一部修正)
 
ここのところ、コメントでも、記事でも、断末魔のように、シャロームの攻撃が酷くなっています。他のサイトも訪問するかもしれません。言っていることは、詭弁でしかありませんが、見かけだけ、讃美言葉によって丁寧に熱心に見せかけてくるので、特に、心に何らかの弱みを持つ人は注意してください。シャローム shalom からのコメントは、削除していいと思います。
 
 
 
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  すり寄る者
 
   
https://blogs.yahoo.co.jp/under_the_figtree/33768420.html
   コメント欄より。
 
 
シャロームは、悔い改めない問題や偽善の問題を指摘されながら、何の解決の努力もせずに、無責任のまま、またしても、「ですね」口調の、白々しい讃美言葉で、キリスト教サイトに、すり寄っています。
 
(よなたん様の記事です)
イエスさまの肉を食べ、血を飲んでわたしたちは永遠の命を得ることができたのですから、他の人にも永遠の命を分け与えることができます。サマリアの女がイエスから命を受けたように、福音を宣べ伝えることによって、わたしたちは人の命を与えることができるのです。この宣べ伝えるという行動によって、イエスは栄光を受けることができます。これこそが、教会がイエスの体となり働くということではないかと思うのです。
 
 
(コメント欄から抜粋です)
 

(シャロームのコメント)
よなたんさん こんばんは
 サマリアの女は人目を避けて水を汲みに来て、イエスさまと出会い、イエスさまから生ける水を与えられ、うれしくて、水をくむことも、恥ずかしさも、ひと目を恐れていたことをも忘れて思わず駆け出したのですね。
そんなイエスさまとの出会い、交わりが生けるキリストの身体として建てられた教会の働きなのですね。
 
2019/1/12(土) 午後 9:35[ shalom ]返信する
 
 
(よなたん様のコメント)

> shalomさん
こんばんは
パンがイエスさまの体であるように、みことばもまたイエスさまです、世の光も地の塩もイエスさま。水という形であることもあれば、ぶどうという形であることもあります。
いろんな形でわたしたちに働きかけてくださっています。
そこにイエスさまの出会いを発見できたとき、わたしたちは幸いです。
 
2019/1/12(土) 午後 10:14[ よなたん ]返信する
 

 
(以後は私のコメントです) 

 
> shalomさん
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
4:26
イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。
4:27
そのとき、弟子たちが帰って来て、イエスがひとりの女と話しておられるのを見て不思議に思ったが、しかし、「何を求めておられますか」とも、「何を彼女と話しておられるのですか」とも、尋ねる者はひとりもなかった。
4:28
この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、
4:29
「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。
4:30
人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った。
 (ヨハネ書4:26-30、新約聖書)
 
あなたが言っているのが、この個所なら、あなたは、なぜ、悔い改めは必要ないと言ったのでしょう。
 
2019/1/13(日) 午前 3:24 st5402jp 返信する
 
何故、自由さんに、悔い改めの是非を問われたときには、悔い改めが必要と言いながら、悔い改めは、あなたの行為であるのに、悔い改めは神から与えられると言ったのでしょう。悔い改めは、人間の自由意志でなされなければ信仰は始まりません。
 
今日の私の記事からです。
 
悔い改めていないと問い詰められれば、キリスト者なら、必ず、いえ、悔い改めています!と答えて、問い詰めを激しくきっぱりと否定するはずです。代わりに、悔い改めは必要だが神が与えるとか、言わないはずです。そういう必然が、キリスト者にはあるのです。
 
2019/1/13(日) 午前 3:29 st5402jp 返信する
 

サマリアの女は人目を避けて水を汲みに来て、イエスさまと出会い、イエスさまから生ける水を与えられ、うれしくて、水をくむことも、恥ずかしさも、ひと目を恐れていたことをも忘れて思わず駆け出したのですね。
そんなイエスさまとの出会い、交わりが生けるキリストの身体として建てられた教会の働きなのですね。

 
キリストのことを、語り、讃美しながら、何故悔い改めをしないのですか。悔い改めをしたのなら、それは、どこに書いてありますか。
 
「ぞくぞくとイエスのところへ行った」人の中に、あなたはいるのでしょうか。キリストを、べた褒めするだけでは、信仰ではありませんが。
 
「うれしくて」と書いたのなら、サマリヤの女性に共感して悔い改めるはずですが、あなたは、人間の共感を、必要ない、とも言っていました。
 
また、ほとぼりがさめただろうと、ひとこと、言いに来ただけなのでしょうか。
 
2019/1/13(日) 午前 3:48 st5402jp 返信する
 
ずっと前に、私に、悔い改めは必要ない、悔い改めなくても罪は赦されるから、罪は気にしなくていい、などと言っていました。
 
そして、最近になって、自由さんに問われると、悔い改めは必要だが、神に与えられる恵みだと言って逃げました。
 
あなたのブログのどこにも、悔い改めたとも、悔い改めているとも、書いていないようですが、悔い改め、という、信仰の芯となることから逃げて、キリスト者にはならないはずです。
 
悔い改めたのでしょうか、それとも、前と同じように、悔い改めは必要ないと言いたいのでしょうか。あるいは、神のお告げでもあったら、悔い改めるが、まだだ、と言っているのでしょうか。
 
また、余計なお世話だと言われそうだが、キリスト者たり得ない者が、キリスト者であるかのように、キリスト教のブログに書き込むのは、不当だし、別のカルト的な目的があると疑われるから、聞いているのです。
 
2019/1/13(日) 午前 3:59 st5402jp 返信する
 
悔い改めが必要ないなどとは言っていないというのは、やめてくださいね。すでに、私のブログには、あなたのその発言について、何度も何度も書いてきたのです。私は、言われていないことを書いたりはしません。あなたが言い、その発言は、キリスト者として、さらに元牧師として、非常に問題だから書いてきたのです。
 
2019/1/13(日) 午前 4:05st5402jp返信する
 
聖句です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)4:17
この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
 (マタイ4:17、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)11:20
それからイエスは、数々の力あるわざがなされたのに、悔い改めることをしなかった町々を、責めはじめられた。
 (マタイ11:20、新約聖書)
 
 (イザヤ書、口語訳)
6:10
あなたはこの民の心を鈍くし、
その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。
これは彼らがその目で見、その耳で聞き、
その心で悟り、
悔い改めていやされることのないためである」。
 (イザヤ6:10、旧約聖書)
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
12:40
「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。
12:41
イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである。
 (ヨハネ書12:40-41、新約聖書)
 
2019/1/13(日) 午前 4:19st5402jp返信する
 
悔い改めというのは、人間として反省したことを、神の前に正直な祈りとして捧げることです。キリスト者は、信仰告白をしたからといって、洗礼を受けたからと言って、この地上で、罪がなくなる、ということはありませんから、悔い改めは、折々に、キリスト者の日常において中心になります。
 
これをしないのは、キリスト者としての日常ではない、すなわち、信仰生活ではないということなのです。それは、すなわち、サマリヤの女性について、コメントを書いて、共感をもって、讃美する資格はないということを表します。
 
2019/1/13(日) 午前 4:35st5402jp返信する
 
 
(2019年01月14日アップ、同日一部修正)

 
 

 
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