ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年01月

 
  死語の泉
 
   死海に湧き出るいのちの真水
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28857701.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
書いても書いても、偽善だけがにじみ出てくるシャロームは、彼の信仰を書く、と言って、その実は、彼の自己保身のための妄想の害毒を広めようと、権威主義を立派に見せる企てをやめようとしません。今回の記事は、昔々の記事の練り直しのようです。以前から、訂正不能のために学習不能から成長不能となり自分で発想することの出来なくなったシャロームの常套手段であります。
  死海に湧く命の水
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/22113977.html
 2012/1/27(金) 午後 0:22
 
死んだ言葉が、シャロームは大好きなのです。何のエネルギーも努力も労力もいらないからです。聖句さえも、シャロームは、何の助けにもならない超常の抽象語に変えゆきます。それで受け入れて、彼の正体を知らず、社交で頷いてくれる優しい人々が、シャロームの大好物なのです。
 

聖書には「油断することなく、あなたの心を守れ、
 命の泉はこれから流れ出るからである。」
(旧約・箴言4章23節)という言葉があります。

 
加えて
 
 (箴言、口語訳)4:24
曲った言葉をあなたから捨てさり、
よこしまな談話をあなたから遠ざけよ。
 (箴言4:24、旧約聖書)
 
シャロームは、いのちの泉に見せかけた自分の病的な心理を守るために、曲がった言葉で、すり寄り、不健康に偏った精神から、よこしまな近況の健康談話を加えて、近づこうとしています。
 

心は命の泉です。
心という命の泉からどのような水が湧いているかによって、
心の健康状態を知ることができます。
心から湧く水とは言葉や思い、感情、行為などです。
人はだれでも心からあふれ出ることを語り、行動するからです。

 
シャロームから湧いてきたものは、柔和に見せかけた世辞、嘘、偽り、飾りのような讃美言葉、不都合なコメントをことごとく削除する切り捨て精神、反対意見など無いと見せかける偽装、笑いながら人を決めつけて侮辱する精神、強烈な利己主義、無根拠、無思考、不感不応、神の名さえも妄りに利用する反信仰、修正不能の無条件救われ妄想、などです。死語の泉に注意・警戒してください。
 

イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。
 口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、
そして、外に出て行くことを知らないのか。
しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、
それが人を汚すのである。
というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、
 心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。
しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」
(新約・マタイによる福音書15章16~20節)


ですから、私たちの思い、感情、言葉、行動には自分に責任があるんですね。

 
シャロームは、自身から湧いてきたものによって、信仰も人も汚しています。
かつ、シャロームは、自分の言葉に責任を果たしたことがありません。
まさに、今このとき、シャロームの心から出たものが人をけがしています。
 

人はだれでも孤独には耐えられません。
人という文字がそのことをよく示していますね。

 
「人」という字は、二人の人が支え合っている形ではなく、
一人の人が、歩いている姿か、一人の人を、横から見た姿が字源だそうです。
テレビで見て、これはいいと思ったら、訂正不能にしてしまって、その後の学習をしない、というシャロームの体質の一端が表れているようです。
 
それに、シャロームは、誰とも支え合っていません。他者を利用しているだけです。人も、人の言葉も、神さえも、神の言葉さえも、今ここで、自分の都合で利用しています。シャロームは、超利己主義と言ってよいくらい、人を舐めていることが、「失礼しました」の後で「負けるが勝ち(笑い)」とコメントしたこと、などに表れています。シャロームの偽善の悪行は、うんざりするほど、枚挙にいとまがありません・・。
 

聖書では人のことをアンスロポスという言葉が使われています。
それは“仰ぎ見るもの”という意味だそうです。
イエスさまの近くにはいつもたくさんの人たちが群がっていました。

 
引用)新約聖書の原語であるギリシャ語の「人間」=「アンスロポス」 άνθρωπος とは、「上を見上げる者」という意味の言葉から合成されています。
https://tamak.at.webry.info/201206/article_3.html
 
シャロームは、仰ぎ見ることをせずに、ひたすら、上に立つものとして、自分で整えたつもりのことを話します。上を仰ぎ見るのではなく、上を妄想する者だと思います。
 
シャロームの近くに誰も群がることのないように、私は批判記事を書いています。
 

その多くの人は貧しく、心の飢え渇いている人たちでした。
きっと社会的にも恵まれない人だったようです。
その人たちはイエスさまこそ神が約束された救い主だと期待していました。

 
本当に、神が約束された救い主、と思っていたなら、キリストが十字架につくことはなかったはずです。人々は、弟子たちでさえ、キリストのあり方を誤解していたのです。
 

当時イスラエルはローマ帝国に支配されていましたから、
神さまが約束された救い主はローマの支配からイスラエルを解放し、
ダビデ王国のような国に復興させてくださると信じていたのです。

 
それゆえ、十字架で殺されることなど考えなかったのでしょう。弟子たちは、十字架のときには、ことごとく裏切り、逃げ去って、散って行ったのです。
 

聖書の国イスラエルには不思議な海、死海があります。
塩分が多いため、泳げない人でも決して溺れることがありませんが、
でもその濃い塩分のために、死海には魚や生き物がいないのです。
イスラエルの人にはそんな死海のような環境だったのかもしれません。
どんなに渇いていても、その水は飲むことができず、
また飢えていても取って食べる魚もいなかったのです。
ところが、へブル大学で学び、イスラエルのガイドをしていた私の友人の話によれば、
実は、死海にも魚や生き物が生きていると聞いたことがあります。
真水がわき出ているところがあるというのです。

 
生き物がいないが、真水が湧き出ているから、いるかもしれない、という地理の話です。
 

死海はヨルダン川の水が流れ込むのですが、
決してどこにも流れ出ることはないのです。
それは死海は水面が海抜マイナス400mでいちばん低いからです。
ヘルモン山の雪解けの水がヨルダン川を流れて
流れ込むのですが、他へ流れ出ることがない海、それが死海なのです。

 
地理の話です。長い。
 

もし、私たちの心が死海のようであれば、私たちの心にも命の営みがなくなるでしょう。
もし、私たちが息を吸うばかりで、息を吐くことをしないならばどうでしょうか。
たちまち息は止まり、人と人とを結びつける言葉も
塩分過剰の言葉が流れ出ることはないでしょう。

 
ここで、否定とも肯定とも取れそうな死海の地理の話から、信仰の話に戻りますが、息を吸うばかりで吐くことをしない、というのは、どういう状況でしょうか。また、いのちの営みがなくなる、息は止まり、と断定していますが、塩分過剰の言葉とは何を言っているのでしょう。シャロームは、自らの塩害過剰の言葉を自覚していないのに。
 
こういう、半ば笑っているような、皮肉めいた表現で、地理と信仰と息と言葉の話のメリハリをつけないまま、昔から、シャロームは、読者を煙に巻いて、言い得たと思う人なのです。
 

イエスは「受けるより与える方が幸いである。」
(新約・使徒行伝20章35節)と言われました。

 
 (使徒行伝、口語訳)
20:33-34
わたしは、人の金や銀や衣服をほしがったことはない。あなたがた自身が知っているとおり、わたしのこの両手は、自分の生活のためにも、また一緒にいた人たちのためにも、働いてきたのだ。
20:35
わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。
 (使徒20:33-35、新約聖書)
 
シャロームは、欲望の自己顕示で自尊を欲しがるゆえに、人を陥れる嘘や偽善を働いてきたのです。そうして、今も、心の弱い人に世辞ですり寄って、浅ましい讃美を並べることで、自説を吹き込み、与えるより、受けていると言いふらし、人間性を奪う災いを、上から教えてきたのでしょう。
 

そして、多くの人が期待していたローマからの解放の戦いではなく、
私たちが生きることができるように、十字架の道を選び
私たちに命の道を拓き、ご自分の命を与えてくださいました。

 
シャロームは、十字架の道に学ばず、悔い改めなくても罪は赦されているという狂信に固まり、だから罪を気にしない、思慮も共感も必要ないと言って、どんでん返しの救いの奇跡を待っているのです。今現在、それとは全く逆の経過と結果が、どんでん返しではなく、必然として、シャロームにおいてはあらわになっています。
 

イエスは人の命のパンである神の言葉を私たち食べさせ、
飢え渇く心に命の真水である聖霊を注ぐ為に
神から遣わされこの世へ下られたのです。
(参考・ヨハネ1:1~4,14)

 
シャロームは、命のパンだと思い込んで、自説の解釈を貪り続け、言い張り続けているようですが、人間に醜さとは、こういうものだ、ここまできてしまうんだ、ということを垂れ流し続けているだけなのです。かつて、聖霊と神の啓示、という、超常を、シャロームは、自分の言説の根拠としてきました。超常だから人間によっては否定も肯定も出来ないことをさいわいに、悪用しているのです。
 
信仰者であることには、人間として納得できる理由と根拠があるのですが、それを私は書こうと努めているのですが、シャロームは、神の恵みの一点張りで、口を開けて、マナが降ってくるのを待っている信仰?です。人間から、努力という努力を、反省という反省を、取り去ったのが、シャロームの黴臭く干割れた信条であります。
 

私たちの心は弱く、人を愛することもできない者ですが、
しかし、神はイエスによって、私たちに愛を注いで下さいました。
私たちは愛されてはじめて、愛すること、生きることができるからです。

 
シャロームの心は病的に頑迷に凝り固まり、人を愛することも出来ず、キリストを殺した卑怯なパリサイ人の現代版のように、読む人々に、仁愛ではなく塵埃を、口臭付きで吐きかけてくるのです。
 

イエスは言われました。
神はそのひとり子を世につかわし、
彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。
それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、
わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。
ここに愛がある。(新約・ヨハネの第1の手紙4章9,10節)

 
先ず、これは、ヨハネの手紙ですから、キリスト・イエスの言葉ではないです。キリストが、ご自身のことを、神のひとり子とか、御子をおつかわしになったとか、言わないでしょう。
 
シャロームは、神の御名を、御子イエスの御名を、聖霊の御名を、信仰の言葉を、みだりに唱えて、好きなように悪用し、愛してくださった、という御心を、一途に自分にだけ向けて、罪が悔い改めもせずに贖われたと嘘を吐いて、自らの正しさの見かけを繕うことだけで出来ている記事を書き続けています。
 

イエスさまは死海のような私たちの心にいのちの真水を湧き上がらせ、
わたしたちを“神を仰ぎ見るもの”として生きるようにしてくださる方なのです。

 
私たち信仰者の中には決して入らない、シャロームの心は、死海かもしれませんが、私たち信仰者の心は、死海に譬えることは出来ません。何故なら、シャロームと違って、様々な悲しみから、温もりを求めて、動きながら、活性を求めているからです。
 
シャロームの讃美の言葉に惑わされないでください。シャロームは、自らの信仰を高めたいだけなのです。信仰者なら決してしないような偽善を働いてきたシャロームの決着は、神がなさるしかないのかもしれませんが、その裁きは、既に始まっており、私たち信仰者と違って、シャロームの修正不能は、この地上の時間の総てにわたって、偽善という本質と、卑怯という性質を表し続けるでしょう。彼は、今までも、今回も、過去の問題を一つも解決しないまま、白々しい讃美でごまかせると思っているのです。
 
イエスさま、と彼がキリストを呼ぶとき、私は、キリストが十字架で苦しんでいるさまを、笑って見ているパリサイ人を思い浮かべます。シャロームの笑いは、呪いです。すべてのキリスト信仰へ向ける呪いです。既に、シャロームというペテン師によるところの、程よい信仰の記事に見せかけた巧妙な嘘による欺きという迫害が進行しているのです。シャロームが、笑いながら誇っているのは、悔い改めによる贖いの信仰ではなく、人を笑って慢心する偽善の進行です。シャロームは、カルトよりも悪質な体質を信仰?を捏造することによって表し、見せて、全ての信仰者を嘲笑っているのです。
 
私は、シャロームが、悔い改めが必要と言いながら、実際には、悔い改めていない、悔い改めた跡が無い、という、ここまで偽善による誤魔化しのあからさまな一点において、シャロームの信仰を否定します。
 
悔い改めていないと問い詰められれば、キリスト者なら、必ず、いえ、悔い改めています!と答えて、問い詰めを激しくきっぱりと否定するはずです。つまり、悔い改めをする気が十分あることをアピールしないではおれないのです。代わりに、悔い改めは必要だが神が与えるとか、言わないはずです。そういう必然が、キリスト者にはあるのです。
 
したがって、シャロームが福音伝道と呼ぶものは一切信用できません。シャロームと話し合うことは無駄でしたから、信仰について、彼が選び、彼が語るところの、あらゆる認識と主張を、誰も受け取ってほしくないから、否定します。
 
シャロームの言う、いのちの泉は、死語の泉です。
 
 
(2019年01月13日アップ、同日一部修正)
 
頷く(うなずく)
繋がる(つながる)
黴(かび)
 
 
 
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  御心に適うとは
 
 
私たちは
どう考えても善に徹しきれない罪人であり
悪と背きへの誘惑がつきまとう存在だから
善行によって神の御心に適うなどということは
本来できない存在なのです。
 
そのことを認めない人は
神の御心に適うようにと思って
善の表面だけを装うようになるでしょう。
 
つまり
安らかそうな表情を浮かべ
迷っていなさそうな態度で
穏やかそうに話すでしょう。
 
しかしながら
私たちは自分でも知っているのです。
あるとき笑みを浮かべながら
実は怒っている自分や
そこまでいかなくても
ムッとしている自分がいることを。
 
つまり
悪人であり罪人である私たちが
うわべの善だけを表そうとすると
善の仮面だけになり、
そして、かえって
正直さを失ってしまうのです。
 
今までいっぱい書いてきたように
私たちが罪深く
しばしば悪い心を持つことを
神様は既にご存知です。
 
なのにどうして
完全な善の境地を求めようとしたり
得たかのように言う者がいるのでしょう。
 
それが無理なことは
神様が誰よりもご存じなのに。
 
神様は
私たちが罪の性質のために
好ましい善人になれないことを憐れむがゆえに
救いの手を差し伸べておられます。
それを知ることが信仰です。
 
神様の憐れみによって
善人であろうとか
罪を犯さないようにとかに
強迫的にならなくていいのです。
 
強迫性は
自分で強く念じて自分の心を縛りますが
むしろ病理のほうが強くて
心の自由を奪ったり
 
宗教の場合しばしば
出来ているという合理化機制を促進したりするので
むしろ信仰からは遠ざかる方向です。
 
信仰は神との関係です。
先ず神の前に
精いっぱい、できる限り、
正直であることを目指すべきでしょう。
 
人前では
どうしても完全に正直にはなれません。
 
他者というのは友であると同時に
ときに敵とならざるを得ないような
緊張関係を生む存在です。
 
向き合っている他者は
人として底知れず
不気味であり
何を考えているか分からないのに
何を考えているか知らないと困るからです。
 
どこか弱みを見せない気持ちや
飾る態度が表れます。
 
神様はどうでしょう。
キリストはどうでしょう。
 
神様というのは
信仰者が既に降伏している相手です。
今さら隠すものなどありません。
それに全知でありますから隠せません。
 
神と個人は秘密の関係です。
しかも神は
人にとって降伏している相手だから
余計な気遣いが要らないし
しても無駄なのです。
 
何を心がければよいかは既に今まで述べてきました。
 
私たちが罪の性質すなわち悪まみれでありながら
同時に良心として与えられている性質があり
 
 (その良心を信仰の邪魔だとして
  人間の思慮も共感も必要ないと捨ててしまって
  信仰の真実を受け取れなくなった背教者もいますが)
 
その正直を神様に見せることです。
それは
精いっぱいの正直として捧げることであり、
神様に捧げる誠実はこれだけでよいのです。
これしかないとも言えるでしょう。
 
つまり
人には秘密にせざるを得ないことでも
神様には言えることがあります。
 
悩み、苦しみ、悲しみ、
弱み、欠点、罪、そして、疑いまで
正直に告白するのが信仰です。
 
神様に対する正直を忘れてしまったら
私たちのうちに信仰はありません。
 
それだけが
神の御心に適う捧げものなのです。
 
人が悩むこと、苦しむこと、悲しむこと、
そして、罪、疑うこと、勘違いすること、
裏切ること、総て、神様はご存知であり
承知の上でキリストを遣わして
告白を待っておられます。
 
二千年前
人は皆ことごとくキリストを裏切りました。
 
そして今も裏切り続けています。
 
強いて言うなら
キリストは何度も私たちのために十字架についているのです。
 
旧約聖書エゼキエル書には何度も
私たちは、反逆の民、
私たちの家は、反逆の家、
そして、導きの言葉によって、
主であることを知るようになる
という預言が与えられています。
 
つまり
一時的に背いても救いの約束を
神様から破棄されることはないのです。
 
ということは
私たちが一度で救われようと思ったり
一度に悟ろうと思ったり
救われて不変、悟って不応などと決めつけることが
十字架の後は
信仰者の最も重い罪となったのです。
 
一方で、信仰者にとって、キリストの十字架は、
いつでも悔い改めてキリストのもとへ帰ることが出来る
という救いとなっていることを忘れないでください。
 
 
(2019年01月12日アップ)
 
適う(かなう)
破棄する(はきする)
悟る(さとる)
 
 
 
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  被愛妄想
 
   不眠症の処方箋 →  眠れない夜のために に変更
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28855833.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
被愛妄想とは、自分は愛されているという妄想です。ストーカーなどにみられる妄想です。妄想の特徴は、異常な確信、非合理、訂正不能、と言われています。シャロームが精神病かどうか、妄想体質かどうかは知りません。しかし、3つの条件がそろっています。そして、それは、彼の信仰?になっているのです。そして、被愛妄想は、否定されると被害妄想を生じやすく、他罰的となります。しかも、彼は、権威主義によって、いつも教えたがるから要注意です。
 
今回の記事は、シャローム自身が、いかに神に愛されているか、ということを言いたいようです。神を相手に、公共の場で、それを言っているのです。導きを受ける側の単方向の都合の良い信仰?として、見苦しいとか、恥ずかしいとか、を考えないシャロームが全開です。
 
シャロームは、嘘を吐き、他者の言うことを受け取らず、柔和な見せかけをもって、整わない言説を言い張り続け、共感の必要を感じていません。そして、反省をしません。悔い改めをしません。すなわち、修正不能に満悦して、それを、広めようとしてきます。
 
それでも奇跡で救われるということが、誰にでも起こるなら、生きることは、とても簡単でしょう。そうなってはいないのが、今も昔も現実であります。
 
いつも都合の良いことばかり起こるとは限らない地上に生きるために信仰が必要なのです。全て悪いことは、人のせいにする、という強烈な合理化機制の辻褄合わせによって、シャロームは、求道者とキリスト者の前に、魔術に魅入られた害毒として立ちはだかります。
 
近況のしあわせ報告と、宛がっただけで妄想材料となって悪用されている聖句は省略します。シャロームは、50年を挫折の連続と言っていますが、その度に、不都合を他者のせいにして、省みず、自分を正当化し合理化してきたのでしょう。シャロームの言う挫折は、被害意識だけで加害意識が抜けているのだろうと、今までの遣り取りから推測しています。それが、シャロームの、平安、だったから。
 

ソロモンの言葉のように
人はだれでも朝から夜まで汗して働かなければならなりません。
食べる為のパンを得なければならないからです。
時として生活の不安や焦りや生きる虚しさを感じる時もあります。
生きていくことには眠りを妨げる苦悩はつきものです。
しかし、ソロモンは神は神を愛する者に眠りを与えられるというのです。
だから、たとえ生活に苦しさがつきまとっても、心配することはないと言うのです。

 
信仰は、安らぎと忍耐力を与えます。しかし、シャロームは、安楽を求めて得られる信仰?を説いています。勘違いしないでください。いったい誰がシャロームのような強烈な自己中心になって人生を全うできるでしょうか。
 

たとえ苦労はあっても、心から信頼することのできる存在を知っているなら、
安心して眠ることができると、語りかけているのです。
状況は絶えず変わりますが、信頼できる存在を知っているかどうかが、
これを決定するのです。
そして、安心して眠ることができるように、
信頼できる存在が「私」を愛しておられるのは確かなことなのです。

 
シャロームの信頼の対象は、ご利益を与える神であります。何があろうとも、安眠できる、というのは、シャロームが、何も、そして誰も、気にしないでいられるからです。シャロームは、あらゆる感受性と、あらゆる思慮を捨てたところにいて、心配のない幸福を説いているのです。
 
神が、自分を愛していると、公言しています。しかも、神の愛を、悔い改めの告白による慰めや癒しではなく、神を知っているから決定として、安眠を与えられると言っています。
 
神は、特定の人の身勝手な欲求を満たし続ける贔屓のような愛を無制限に与え続けるような御方ではありません。少し考えれば分かることを、シャロームは考えない信仰なのです。
 

ある時、イエスは弟子たちに向こう岸へ渡ろうと言われました。
漁師である弟子たちにとってガリラヤ湖は日常生活の場所で、
隅から隅までよく知っているところなのです。
ところが突然嵐が起こり弟子たちは恐れたのです。
その時のことが次のように記録されています。

 
そして、愛されていることの聖句として、奇跡を挙げているのです。
 

すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。
ところが、イエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。
そこで、弟子たちはイエスをおこして、
 「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。
イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、
「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。
イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。
 彼らは恐れおののいて、互に言った、
 「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」
(新約・マルコによる福音書4章37~41節)

 
シャロームは、風も海も従わせるような奇跡によって、安眠できると言っています。弟子たちでさえ怖がったというのに、弟子たちを下に見て、自分は分かっているから怖くないと言いたげです。
 
何でもいいから、奇跡を持ってきたという感じです。
 

イエスは次のようにも語りかけておられます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、
わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
(新約・マタイによる福音書11章28~30節)

 
悔い改めさえする気のないシャロームが、キリストのくびきを、キリストの荷を、いつどこで負うというのでしょう。何も負わなくても休める話をここまでしてきたのです。
 

イエスは不眠症の処方箋を私たちに明らかにしてくださっています。
私たちの安心は状況が与えるのではなく、イエスさまがともにおられることにあるのです。
このことを知ることで、安心して眠ることができると約束している言葉なのです。
イエスさまは私たちに悩みがなくなるとは言っておられません。

 
シャロームとともにいるのは、いつでも波風を静めてくれて、安眠させてくれるキリスト?のようです。事実としては、シャロームは、嘘を吐いて反省せず、不正を行って悔いず、悔い改めないのに、一方的に赦されると言ってきたのです。
 
シャロームが、いつどこで、悩んだというのでしょう。シャロームにあるのは、快か不快だけだと思います。不快のとき、一切を無視して、その結果、何も感じない快のとき、神を聖書語を並べて讃美するという生業です。
 

これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。
あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。
わたしはすでに世に勝っている。(新約・ヨハネによる福音書16章33節)

 
この聖句の前には、キリスト受難の預言があるのです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
16:31
イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。
16:32
見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。
 (ヨハネ書16:31-32、新約聖書)
 
シャロームは、救い主の孤独な受難に共感できないので、散らされることに相当する試練など考えず、無視していられるのでしょう。
 
戒める神も懲らしめる神も信じないで、都合よく奇跡を与えてくれる神だけを信じるシャロームが平安と呼ぶのは、身に起こる一切を不感不応で無視した末の、外からの情報も刺激もない安穏に他ならないのです。
 
ちなみに、シャロームは勇気を出す必要がありません。何故なら、勇気が必要な状況を、まるで意識しないからです。
 
試練のときの耐え忍ぶ信仰も勇気も考えないシャロームは、耐えられなくなったら、パニックになって大慌てで逃げ回る者となるでしょう。傍迷惑も考えず、何の備えにもならない被愛妄想の、もたらす結末を考えることは恐ろしい気がします。
 
アリたちの努力を無視して、ずっといつも、安楽だけを求めるキリギリスの話でした。
 
 
(2019年01月11日アップ、同日一部修正)
 
被愛妄想(ひあいもうそう)
宛がう(あてがう)
贔屓(ひいき)
生業(なりわい)
 
 
 
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  キリストの教え
 
 
キリスト教には
節操とか弁えはありますが
 
キリスト教には
守れという戒律はありません。
また
守らなくていいという許可もありません。
 
そこを勘違いしてしまうと
キリストの
山上の説教を無にしてしまいます。
 
情欲で女を見ないことは
女を他人の妻に言い換えても
情欲というのは湧いてくるものなので
守れません。
 
敵を愛せよと言われても
愛せたら敵とは呼ばない。
 
明らかな無理難題なのに
キリストが
あえて言ったのは
罪なき者
すなわち
悔い改める必要のない者が
一人もいないという教えだからです。
 
 
何言い出すか
何やらかすか
分からないような危ない人が
守れるでしょ
完全になれるんです
などと言って宣伝しても
 
人間は地上において
決して完全にはなれません。
 
人が完全になるなどと言う人は
神の完全に対して恐れを抱かないのでしょう。
 
恐らく完全の意味が、
ほどよく、うまくいく
という程度のゆるいものと思っているか
信仰とは関係のない魔界を愛しているかの
どちらかでしょう。
 
守れるから
守って完全になりましょう
という行為義認の教条主義カルトに惑わされないでください。
 
 
キリスト教には
守れという戒律はありません。
 
守らなくていい
気にしなくていい
などという許可もありません。
 
祈りによって赦され救われる
という神の愛を無にしないでください。
 
すべての教えが、
そして何より
キリストご自身こそが、
人が守れないことを、罪を犯したことを、
道を外れたことを、間違えたことを、告白できる正直さ、
すなわち、神への誠実さに人を向かわせる福音なのです。
 
キリストに縁あって、キリストにある人、
キリストの負いやすい荷とくびきを負うている人なら気づくことなのです。
他に神への誠実を表す術はないということ。 
 
 
(2019年01月10日アップ)
 
術(すべ)
 
 
 
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  聖句引用の落とし穴
 
   神の賜物と罪の報酬
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28853472.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームが他者の記事を引用あるいは転載して、その記事が妥当なものであれば、シャロームが、いかに、背いているかが明らかになるでしょう。妥当でないか、恣意的な引用、または、シャロームが書いた記事なら、そこに表れているシャロームの言葉や主張が批判対象となるでしょう。批判する側に、神を恐れる姿勢があればよいのです。さて、
 
偽善者が聖句を引用する場合、自分に都合の良い話ばかりを引用する、という例となるような、シャロームの記事です。こう書いてある、こう書いてある、と強調して、自分と同じように受け取ることを勧め、きれいごとばかりを書いてくるのです。こういうことを繰り返しながら、恥じるという感性を持たないので、悔い改めもしないのが、シャロームであります。
 
 
>「あなたは私から実を得るのだ。」(旧約・ホセア書14章8節)
 
 (ホセア書、口語訳)
14:8
エフライムよ、
わたしは偶像となんの係わりがあろうか。
あなたに答え、あなたを顧みる者はわたしである。
わたしは緑のいとすぎのようだ。
あなたはわたしから実を得る。
14:9
知恵のある者はだれか。
その人にこれらのことを悟らせよ。
悟りある者はだれか。
その人にこれらのことを知らせよ。
主の道は直く、
正しき者はこれを歩む。
しかし罪びとはこれにつまずく。
 (ホセア14:8-9、旧約聖書)
 
エフライムはイスラエルの部族の一つです。
9節を見れば、罪人のつまずきが書いてあります。
 

実は植物の実ばかりではなく、人の働きを通して与えられます。
時に人の働きによって結ぶ実には甘いものだけではなく苦いものもあるようです。
人が生ける神に対する信仰による畏れと信頼、感謝によって生きているなら
その結び実は神の祝福であり、人の心の喜びです。

 
信仰のもたらす結果が、直ぐに分かるような書き方をしていますが、シャロームは、全てが自分に分かるような利益となると信じているからです。
 
実際には、一見、苦い実りに見えるものが、のちに、幸いとなるか、あるいは、試練の克服として、生きてくることを、シャロームは、書いていません。善を誉め、悪を避ける、という判断を即座に短絡的に行い、結局、いいことばかり書くことになります。深い情緒の欠けているところには、こういうことが目立ってきます。
 

私たちは働きの実として多くのものを持っています。
それは私たちの心の喜びとなっているでしょうか。
実は神の恵みによって結ぶ実はその人が生ける神とつながっていることなしには
実を結ぶことはできません。

 
ですから、シャロームは、全てが喜びとなるものだという信仰です。戒める神や、懲らしめる神を、信じておらず、自分が神とつながっているとばかり、背く自分を全く考えず、ありがたいことばかりを言って、人を誘ってきます。それこそが、さらなる背きなのですが。
 
 
>聖書には次のような言葉があります。
 

気をつけて、神の恵みからもれることがないように、
また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、
それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。
(新約・ヘブル人への手紙12章15節)

 
自分が、苦い根であることにも、苦い根から生えて出ていることにも、気づかない人は、人を悩ましても、人をけがしても、罪の自覚がなく、同じことを繰り返します。その悪と偽善の積み重ねを指摘しても、理解も反応もしません。反省することが無いので、いつまでも、自分を、善き伝道者だと思い込み、そう思わせるようなことだけを、手段を選ばずに、書いてくるのです。
 
多くの人が汚されることのないようにするべきです。上の聖句の続きですが
 
 (へブル人への手紙、口語訳)
12:16
また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。
12:17
あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。
 (へブル12:16-17、新約聖書)
 
俗悪で、祝福だけを願い、悔い改めなかったエサウのことが書かれています。
シャロームは、悔い改める必要を書きながら、一方で、悔い改めの機会を拒否し続けている人です。この矛盾が、何度も何度も噴き出してきたのに、なおも悔い改めないのは、神を信じていないから、と思うしかありません。
 

神学校の庭に一本のぶどうの木がありました。
手入れする人もないのかまるで枯れ木のように見えました。
そんなぶどうの木に誰も心にとめる人もありませんでした。
ある時神学校に入学されたひとりの人がその木を見て手入れを始められました。
枯れた枝を切り落とし、木のなかの腐れを掻き出し、
びっくりしましたが火で虫を駆除し、根元を掘り起こし、肥料を施されました。
するとそのぶどうの木は生気を取り戻し、葉を茂らせ、
小さなぶどうの実を結び始めました。

 
現実味を持たせようとしたのでしょうか、実際のブドウの木のことを語っています。少しでも詳しく語ろうとすると、こういうことしか、思い浮かばないのでしょう。
 
虫を駆除し、肥料を施す、という畑の手入れを語っていますが、この話の、信仰についての具体的な中身の話が無いのです。つまり、よいことをしましょう、と言っているだけになります。
 
>イエスは次のように話されました。
 

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、
実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
(新約・ヨハネによる福音書15章1~2節)

 
聖書でブドウの木が語られるのは、信仰についての比喩としてです。比喩として受け取っても、それが何を告げているかを、悔い改めの体験のないシャロームには、説明するすべがないのです。だから、あとは、美辞麗句の聖書語と讃美言葉を並べるだけ、ということが続いてきました。
 
自分が取り除かれる枝にならないためには、神に対する誠実さが必須であり、その誠実と正直をもって、悔い改めたという事実があれば、書くものに表れるはずですが、今まで、シャロームの書いたものの、どこにも表れてはいません。
 
>また預言者イザヤは次のように語っています。
 

「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。
そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。
わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。
 彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、
その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、
甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。
ところが、酸いぶどうができてしまった。
(旧約・イザヤ書3章1~2節)

 
イザヤ書の3章ではなく、5章のようです。
酸いブドウの続きがあるのに、シャロームは、書いていません。
 
 (イザヤ書、口語訳)
5:3
それで、エルサレムに住む者とユダの人々よ、
どうか、わたしとぶどう畑との間をさばけ。
5:4
わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、
何かなすべきことがあるか。
わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、
どうして野ぶどうを結んだのか。
5:5
それで、わたしが、ぶどう畑になそうとすることを、
あなたがたに告げる。
わたしはそのまがきを取り去って、
食い荒されるにまかせ、そのかきをとりこわして、
踏み荒されるにまかせる。
 (イザヤ5:3-5、旧約聖書)
 
めでたく有り難い話ばかり書きたがるシャロームとしては、3~5節の、懲らしめる神を書かないのでしょう。恣意的な、片落ち、と言うべきです。
 

このイザヤの言葉は御自分の民イスラエルの対する嘆きの言葉であると共に、
生け神によって創造された被造物を治め、その収穫の喜びに与り、
神へ感謝と礼拝をささげて生きるように創られた人に対する言葉でもあります。
この現実は人が生ける神の言葉を退け、
その心に苦い根がはびこった“結実”なのです。

 
他人事の悪者に対するように、神の言葉を退け、苦い根が蔓延った結実、と言っています。
キリスト者は、罪についての話を、同じ罪人として、自分のこととして受け取って、戒めとするはずですが、シャロームは、自分に対する戒めとして受け取っていないのです。まるで、こうならないように気をつけよと、預言者が垂れるような、傲慢の”結実”です。
 
どこまでも、シャロームは、教える立場に立っているつもりだけで、罪人として共感する情緒も共有する思想も持っていません。ずっとそうなのです。
 
>創世記には次のように記されています。
 

更に人に言われた、
「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、
わたしが命じた木から取って食べたので、/地はあなたのためにのろわれ、
/あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、
/あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、
/あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。
(旧約・創世記3章17~19節)

 
>しかし、使徒パウロは次のように私たちに語りかけています。
 

あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。
では、そのころ、どんな実りがありましたか。
あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。
それらの行き着くところは、死にほかならない。
あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、
聖なる生活の実を結んでいます。
 行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。
しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
(新約・ローマ人への手紙6章20~23節)

 
シャロームが言いたいのは、
アダムとエバは、ちりに帰る存在だが、
今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいる、だから、永遠の命に行き着くと、聖書語を並べて言っています。これは、他でもない、シャローム自身がそうなっている、という、自分のことなのです。シャロームは、反省せず、悔い改めないで言っていることを強調しておきます。
 
一見、救いを書いているように見えるところが、シャロームの偽善者たるゆえんです。こういう話し方だけを、彼のソーシャルスキル、すなわち、信仰の騙し文句として身につけてきたのだと思います。
 
悔い改め、赦し、救い、導き、とは何か、ということに一切答えていません。考えた跡もありません。何故なら、シャロームにおいては、すべて、完成しているつもりだからです。だから、どんなに嘘を吐いても、どんなに卑怯な作為で書いても、悔い改めないのです。
 
シャロームにとって、信仰とは、自分の救いの完成の、おすそ分け?に過ぎないのです。
 
神の前に、人の前にも、立派なことを言おうとして、讃美言葉を並べるのが、シャロームの信仰?の特徴ですが、神の前に、飾ることは無意味であり、神の前に、隠すこと、偽ること、悔い改めないことは、反信仰であります。
 
キリスト者は、シャロームのそんなもの、必要としないし、あまりにも安っぽいシャロームの、書くもの、語るもの、シャロームの言葉の策略や詭弁など、一切、受け取ってはいけません。
 
シャロームの活動は、信仰の妨げです。シャロームは、信仰の邪魔です。美味しい言葉を並べるシャロームは、偽善者であり、信仰の害毒です。
 
キリスト者は、真剣に考え、判断し、反省し、祈り、精いっぱいの正直をもって、悔い改め、導きを乞いながら、キリストのもとで生きています。
 
 
(2019年01月09日アップ、同日一部修正)
 
蔓延る(はびこる)
 
 
 
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