ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年02月

 
  赦しが先?(4)
 
   楽山ブログのゲストブック:shalom
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/GUEST/41469556.html
   コメント欄、私のコメントは記事専用です。
 
 
(私)
テーマから、離れて、シャロームの自分勝手な妄想を批判しています。造語、作話、嘘の類ですが、シャロームは、楽山の味方を得て、上機嫌に舞い上がり、口が減らないようです。
 
(シャローム、楽山から引用)
「関わることはないと…そうですか。それも仕方ないですね。余計なこと言ってしまったようで失礼しました。」
(シャローム)
 少しも余計なことではありません。
とても大事なことです。でも私たちは神に赦され、愛されていることを頭で知っても、心に届かない現実があります。そのために人を赦し愛することができないことも事実なのです。その力が自分自身のうちにないのです。それでは神様からどんなに赦され愛されていると信じても無意味な虚しいことでしかないではありませんかと思うのも当然です。ですから信仰をもつと互いに赦し合い、愛し合おうと努力をするのです。
2019/2/26(火) 午後 11:29 [ shalom ]
 
(私)
神の愛が心に届かない現実だそうです。罪を認めず悔い改めないシャロームは、どうして、なぜ、キリスト者を自認しているのでしょう。
>信仰をもつと互いに赦し合い、愛し合おうと努力をするのです
白々しい嘘です。シャロームと楽山の共通点ですが、丁寧語は愛に繋がるとは限りません。二人の場合、相手を低く見て、侮辱する手段に過ぎません。読者には、殴られるより悪いことがあることを知ってほしいと思います。
 
(シャローム)
しかし、疲れてしまうのです。そして疲れると、自分は神に赦され愛されていると信じていると言いながら、人を赦し愛し、ありのままで受け容れ仲直りをすることもできない、私の信仰は偽りだ。あの人の信仰は偽りだと自分を裁き、互いに裁きあうようになってしまい、その結果、信仰を失ってしまことが多いのです。
 
(私)
キリスト者らしく罪を語っているように見せかけて、信仰は偽りだと批判者が裁くので、仲直りが出来ず、信仰を失うと、恐らく私に、当てつけています。こういう狡い暗示をするシャロームですが、楽山は、それでも、真に受けるのでしょう。
 
(シャローム)
何が問題かというと、神との和解、仲直りは信じて、神さまはこんな私をありのままで赦し愛しておられると信じながらも、自分自身との和解、仲直りができないと、神さまの赦しと愛が他の人へと流れることができないのです。なぜ神さまの赦しと愛を信じているのに、他の人を赦し愛することができないかの理由は自分を赦し愛し、自分をありのままで受け容れることができないからのようです。自分で自分を赦し愛し、受け容れるなんておかしいと思われるかもしれませんが、自他未分化状態ではこの気づきがとても難しいのです。それが例えば、投影というような様々な自己防衛機制となって表れるのです。このことに気づくのはそう簡単なことではないようです。
2019/2/26(火) 午後 11:30 [ shalom ]
 
(私)
すごい当てつけになっています。神の愛を信じてはいるが、仲直りが出来ないと言いながら、シャロームは自他未文化を自分に当てはめたことはないので、それは、自他未文化の相手が悪いと言っています。下劣なやり方で、自己正当化への言論を持って行く詭弁家のシャロームです。
 
(シャローム)
ですから人と人との和解、仲直りは人が作り出すことではなく、神の御業なのです。
 
(私)
このように、和解や仲直りの出来ない自分を正当化するために、神の御業に持ってゆきます。仲直りできないのは私にとっては明らかに私の罪なのですが、シャロームは神のせいにするのです。
 
(シャローム)
神のみわざが私たち間で和解、仲直りを生み出すのは、初めに神との和解に始まり、その次に神を信じた人とその人自身との関係が和解し、仲直りする必要があるのです。
そうして初めて神の赦しと愛が信じる人をとおして他の人に流れていくのです。とても回りくどい言葉を羅列していますが、
 
(私)
もっともらしいシャロームの詭弁に騙されないでください。シャロームが仲良くするのは、自分の賛同者だけです。悪い結果の総てを、批判者のせいにして、神と和解していないのだと決めつけています。シャロームは、罪を認めず悔い改めないのに、どうやって神と和解したのでしょう。いつも、成り立たないことを、すり込んでくるのがシャロームです。
 
(シャローム)
このことが分からないために、多くのクリスチャンの人が信仰生活に疲れて信仰を失ったり、教会に混乱、分裂が起こったり、異端に走ったり、挫折し、教会から離れてしまわれるのです。
私もその一人で、そのことが分からず随分回り道をし、自分だけではなく、多くの人を傷つけました。そのことを気付いた今でも他人事ではないのです。なぜ自分のことで悩んだり、他の人との関係で悩んだりするのか、その原因は他の人にあるのではなく、自分自身と和解できないことに原因があることが多いようです。それを私たちは自分に向けたり、他の人に向けてしまうことで苦しんでいるのです。
2019/2/26(火) 午後 11:31 [ shalom ]
 
(私)
シャロームは、他者を心配しているように見せかけて、自己中心に自己正当化しかしてこなかったのです。自分と和解するとは、どういうことでしょう。シャロームは、それを、私という言葉を使いながら、他者にだけ向けているのです。
(私)
シャロームは、我欲のままに、殆ど本能的に、信仰を捻じ曲げて固定してきたのです。ここでは、シャロームは、また、白々しい嘘を吐いています。恐ろしい詭弁です。反省というものを、全然する気がないので、辻褄の合わないことを、理屈めいた話にでっちあげているのです。ここまで悪質でも、楽山は見抜けずに真に受けてしまうのでしょう。
 
(シャローム)
私たちの心のからくりを解きほぐし、自由にしてくださるのは神の赦しと愛による他できないことだと痛感させられます。
 
(私)
このように、シャロームは、神を全面的に信じているように見せかけて、実は、悪いことは他者のせいにして、そういう自分が神を讃えているように、見せつけ、見せかけるのです。
 
(シャローム)
私が「stさんとの対話が無理なように、きっと仲直りも難しいと思います。仲直りを望まれて断る理由はありませんが、stさんの病的体質が変わることは難しいでしょうから、関わることはないと思います。」と書いたのはstさんと自由さんに謝罪し、撤回し、削除すべきだと思います。
stさんの病的体質が変わることは難しいと書きましたが、それはstさんだけではなく、私自身のうちにもあることです。それは私と他の人との和解、仲直りを妨げている障害は私という自分と自分自身との和解、仲直りができていないことにあり、自分との和解を妨げている病的体質の気づきの難しさだということです。
 
(私)
私は、対立している人とは和解しません。する理由がありません。悪い奴は悪い奴、嫌な奴は嫌な奴なのです。それを、そのまま、罪として告白するのです。シャロームは、方便として、きれいごとを言っていますが、言っている内容に相当する言動は、全く見られたことがないのです。また、嘘を吐いています。
(私)
しかし、口で、謝罪と言ったので、楽山は、またしても、さらに、真に受けることでしょう。シャロームは、それを承知の上です。楽山へのサービスなのです。
(私)
申し訳ありませんでしたということをシャロームが言うこともありますが、全くの社交辞令だったと書いておきます。確認しておきますが、シャロームは、嘘を吐きますが、罪を認めない人です。詭弁と嘘も、ここまで来ると実に気持ち悪いです。
 
(シャローム)
このことを抜きにして私たちがどんなに仲直りをしようとしてもそれは出来ないと思うのです。
私の思いをつたない言葉と文字で書きあらわすのは難しいのですが、少しでも伝えることができればうれしいです。
2019/2/27(水) 午前 7:51 [ shalom ]
 
(私)
ここで、謙譲を見せかけています。私は、約7年間、シャロームを見てきました。彼の体質は、謙譲とは正反対の傲慢な権威主義です。と言っても、楽山は、ここを見て、シャロームを褒めるのでしょう。それも気持ち悪い仲間ぼめです。シャロームは、人に対しても、神に対しても、罪悪感を感じない人だから出来ることです。とても怖い人なのです。
 
(シャローム)
おはようございます。
 「日本教の社会学」の一章をまだ読み終わってはいませんが、
 日本教の問題点について触れられ、嫌な言葉ですが、「日本人にはわからない」と繰り返されていることを不快に感じながらお気づきだと思います。私が書いていることが日本教、日本教キリスト派の核心だと思いますがどうでしょうか。
 
(私)
シャロームがいったい何を書いてきたというのでしょう。今までの、どれもこれも、奔逸した思い付きの誇大的な豪語に過ぎないということを、私は書いてきました。
 
(シャローム)
私もまた日本教キリスト派のひとりにほかなりません。そこから解放し、自由を与え、名実ともにイエスキリストにある神の子としてくださり、その完成に向かって助け、導いておられる方がイエス様であることを信じていますが、私たちのこの世における人生はその旅路の道程だと思います。
2019/2/27(水) 午前 8:44 [ shalom ]
 
(私)
日本教キリスト派など存在しないと思います。それは、キリスト教ではないです。シャロームがキリスト教徒でないことは確かですが、恐らく、シャロームの造語です。以前には、民主主義は、よくないから神主主義?、心身症というより霊心症?が分かりやすいなど、滑稽なだけで無意味な造語を、自慢げに書いてきたのです。ここまでを見て、異常な上機嫌に舞い上がっているとしか思えないシャロームを、それでも、楽山は、立派だと、受け入れるのでしょう。
 
(シャローム引用)
5:13 兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。
5:14 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。
5:15 気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
 (新約・ガラテヤ人への手紙5章13~17節)
2019/2/27(水) 午前 8:44 [ shalom ]
 
(私)
最後に愛を説く聖句を引用して、箔を付けようとしています。シャロームの企みは、見え見えなのですが、楽山は、真に受けてきたので、引っ込みがつかなくて、これからも、一生、あの人は丁寧で、いい人だと、真に受けてゆくのでしょう。
 
(シャローム引用)
5:23 どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。
5:24 あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。
 (新約・第一テサロニケ人への手紙5章23,24節)
2019/2/27(水) 午前 8:45 [ shalom ]
 
(私)
シャローム大好きそうな、「全くきよめて」「霊と心とからだとを完全に守って」「責められるところのない」「真実であられるから、このことをして下さる」という、完全言葉が並んでいます。神秘の絶大なる完全を、自分に当てはめるのが大好きだからです。
(私)
聖書は、霊と心を分けているようです。シャロームは、前に、信仰は、心のどこを探しても見つからない、と言っていました。分かっているつもりで、霊のことを言っていたのでしょう。
(私)
私は、どう言うかというと、聖書に書いてある、霊と、心の、具体的な区別がつきません、聖句であっても、分からないことが罪であっても、分からないものは分かりません、どちらも、人の中にあって、目に見えないものだから、分けて区別して見る能力が、私にはありません、と言って、このことは、分からない箱に入れておくのです。
 
(私)
見栄だけの、正直でない信仰が続くと、誇大妄想に至るようです。
 
(楽山)
こんばんは。
難しい文章ですけど、ありのままの自分を受け入れることが、他と良好な関係を築くことにつながるというのは分かる気はします。
 
(私)
そうして、楽山は、うわべだけの社交に努め、真実の追求を止めたのでしょう。
 
(楽山)
思い返してみれば、自分の場合も、ありのままの自分を受け入れるに従って、喧々諤々の議論をすることもなくなってきたと思うので。
2019/2/27(水) 午後 7:52 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
洞察力が鈍麻して、楽山は、深いところが見えなくなっただけなのです。
 
(楽山)
>削除すべきだと思います。
すいません。確認ですけど、「2019/2/26(火) 午前 10:10」の削除依頼と受け止めましたけど、それでよろしいでしょうか。
2019/2/27(水) 午後 7:53 [ 楽山 (自由) ]
 
(シャローム)
楽山(自由)さん こんばんは
「2019/2/26(火) 午前 10:10」の最後の私のstさんとの関わりについてのコメントは間違いであることを謝罪と撤回をしたうえで、そのあと私の考えを書きましたので削除せずにそのまま残してもいいのかなと思っています。
私はだれとの関わりについても言えますが、連れ合いや家族関係も含めて自他未分化を前提としたような関わりに対しては程良い間を取り、互いに自立したありのままのひとりの人として尊重し合い、基本的には不即不離でありたいと考えています。
shalom!
2019/2/27(水) 午後 9:48 [ shalom ]
 
(私)シャロームは、本か何かで仕入れた言葉を、よく吟味もせずに、盛んに使います。それ以外に手段も方法も持たないのでしょう。ここでは、それが「自他未文化」という言葉です。それを人に向けたり、一般の社会に向けたりしますが、シャロームは、真剣に自分に向けることだけは出来ない人です。
(私)
>自他未分化を前提としたような関わりに対しては程良い間を取り
このように、他者の言うことを気にしない、すなわち、他者を無視するための、正しい?理由を得たつもりなのです。それに楽山が呼応し、だまされて、ソウルメイトのように頼り、依存しあい、固まり、二人は自他未文化になっているのです。
(私)
>互いに自立したありのままのひとりの人として尊重し合い、
>基本的には不即不離でありたい
それで、他者を無視しながら、それで自立していると思い込み、尊重しているつもりの世辞だけで褒め合うことを善しとして、不即不離(つかず離れず)、実際は、人を人とも思わない傲慢な言動を、丁寧語と聖書語でごまかしているのです。
(私)
でも、不即不離といっても、自己中心の保身のために他なりませんから、二人同士の配慮は世辞の範囲に限られ、絆と呼べるものは何もなく、何の共感もなく、つかず離れず、言い換えれば、いい加減な、薄っぺらなものになっています。温もりも潤いもない、彼らの心のように、執着や強迫観念に近い、凝固して自壊か融解を運命づけられている様態です。
 
(私)
シャロームの言説は、子供だましのペテンです。しかし、人間は、どこかに子供の心を持っています。そのことは、悪いことではありませんが、残念なことに、そこに、つけ込む者がいる、ということです。
 
 
(2019年02月28日アップ、同日一部修正)
 
 
 
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  赦しが先?(3)
 
   楽山ブログ:ゲストブック
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/GUEST/41469556.html
   コメント欄。私のコメントは記事専用です。
 
 
(私)
楽山の、ねちねち書いてくる筆致は、本人は自覚がないようだが、健康に良くありません。だから、楽山が書けば書くほど、私も辛らつになるでしょう。楽山もシャロームも、策士です。私はストレートです。
 
(楽山)
たとえば、stさんは、shalomさんがコメントすると、楽山ブログや、よなたんさんとこには突撃してた。でも論客の易坊さんとこには行かない。
楽山ブログのコメント欄では、私が黙ってると傍若無人に振る舞い、私が意見するとピタリと来なくなった。
あと、私の文章に、st批判と受け取れるものがあれば噛みついてくるけど、マリアさんがst批判らしい記事をいくつだしてもスルー。マリアさんは反論する人だし、その背後には天敵のヨシュアさんが控えてるからでしょうか。
 
(私)
それについては、前に書いたと思いますが、話にならない罵りが帰ってくる自称マグダラや自称ヨシュアには、書かないのです。言われることが同じなので、書くことも同じになってゆくからです。
(私)
何より、彼らは、自分のブログから外には出ないので、シャロームよりはマシなのです。罵るヨシュアや易坊よりは、シャロームと楽山のほうが、丁寧さに隠れて分かりにくい分、偽善は悪質なのです。
(私)
易坊は理屈屋だが、論客ではありません。彼とは、前に、数十コメ~100コメ超の遣り取りをしています。もう、うんざりなのです。攻撃的で、執拗な荒らしです。
(私)
>私が意見するとピタリと来なくなった。
それは、あなたのコメントを見るのが不快だからと、信頼できないから縁を切りたいのと、この記事のように、もっと詳しく厳しいことを記事に書くためです。呆れた。楽山はナルシシストか。
 
(楽山)
こうしてみると、相手が下手に出ると増長するのは、stさんの方かと…。
2019/2/26(火) 午前 6:11 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
シャロームも、楽山も、ヨシュアに劣らず、凶暴です。丁寧語で書けば大人しいなんて、私は全然思っていません。判断の基準が、感じ方が、違うと言うことです。丁寧は、卑怯に結び付くものです。相変わらず、気持ちの悪い書き方です。
 
(楽山)
>楽山は、コメントでシャロームを援護したのち、直接、反論することをせず、ゆえに、黙っているかと思えば、ツイッターで、遠藤周作の文章から、善魔、という言葉を載せて当てつけ、さらに、他者の本から、赦しが先で改心があと、と書いてある文章を、よく吟味もせずに載せて当てつける、という卑怯な方法で対抗してきました。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20101472.html
ツイッターでは、趣味の他は、HS批判を呟いてます。善魔もその流れであり、HSを念頭においてリツイートしてたかと…。
また、自分の発言の根拠を示すために、その書籍の該当ページを貼るのは当然のことかと思います。それを当てつけと言われても困ります。
2019/2/26(火) 午前 6:12 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
HSという言い逃れは出来ません。相手には私もいるわけですから。相手にしないと言っても、書いたものは、私も見て、批判を返すことは、覚悟していただきます。
 
(楽山)
言い難いことですが、HSとstさんには重なるところがあります。
だから、HS批判をすると、st批判に受け取られかねないこともある。
 人それぞれの記事でいえばこうなるし、
 「カルトや毒親の過干渉はスルーしてよい」
 「stさんの過干渉はスルーしてよい」
 善魔でいえばこうなる。
 「HSは、自分の正義を押し付けてくる善魔だ」
 「stさんは、自分の正義を押し付けてくる善魔だ」
この辺りについては、私の目的はあくまでHS批判にあることを理解してほしいと思います。とりあえずは、stさんを名指ししてない限りは、HSを念頭において書いてると思っていただければ幸いです。
2019/2/26(火) 午前 6:16 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
来ましたね。決めつけ。無視することの正当化。言われても、私はHSを知らないのだから分かりませんが、こうやって、アドラー教は難を避けてきたのでしょう。それに私の正義ではありません。キリスト教の標準的なことです。シャロームは、それに100%反しています。楽山は知らないことに勝手に口をはさんでいます。
 
(楽山)
というか、私にとって、stさんはあんまり批判対象にはなりません。
数万、数十万の信者がいるとされるカルト教団ならともかく、信者も、取り巻きもいないstさんを、批判しても仕方ないです。
 
(私)
そういうことは関係ありません。卑怯な言論者が、分かりもしないでキリスト信仰に反しているものを見逃すわけにはいかないということです。
 
(楽山)
stさんはいろいろ書いてるけど、読者は賢明なので賢明な判断をするでしょう。
 
(私)
楽山は、読者を気にして、丁寧語を使うようだが、私は、それが、嫌らしいと感じている。いよいよ、全開になってきたようです。でも構いません。私が批判するかどうかは、私が決めるのであって、楽山の気持ち悪いだけの的外れの脅迫には乗りません。これは、なかなかの燃焼剤をもらった気分です。あなたの丁寧語は相当な毒です。それに、私なりに使命とか務めとか思ったことを遂行するのに、読者を気にして、真剣な言論は出来ません。
 
(楽山)
それに私にとって、stさんはもとから議論の対象から外れます。私はこの記事にある基準から外れる相手とは、議論する気にはなれないので。
・議論の作法 (なぜ議論は難しいのだろう?)
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41325846.html
2019/2/26(火) 午前 6:17 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
ここで、おとしめてくる。だったら、なぜ、このコメントを書いたのか。
私は裸で直球を投げる。あなたは背広を着て隠し玉をする。
私は骨を投げている。あなたは皮を投げている。
 
(楽山)
ちなみに、上と同じことを、shalomさんで試すとこうなります。
 「カルトや毒親の過干渉はスルーしてよい」
 「shalomさんの過干渉はスルーしてよい」
 「HSは、自分の正義を押し付けてくる善魔だ」
 「shalomさんは、自分の正義を押し付けてくる善魔だ」
なんか、いまいち重ならないですね。
この点については、HSとshalomさんは別ものですね。
2019/2/26(火) 午前 6:19 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
シャロームは、押し付けてくるのではない。とんでもないことをキリスト教の名で言ってくる、と言っても、楽山には分からないだろう。分からないなら、なぜ、このコメントを書いたのか。だから、硬派カルトがHSとヨシュアで、軟派カルトがシャロームと楽山と判断している。
 
(楽山)
>シャロームshalomと楽山を、上から命令を下す硬派カルトに対して、刷り込みや印象操作を手段とする軟派カルトと呼んだのは正解だったようです。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20101472.html
印象操作といえば、stさんがいつもやっていることかと思います。
相手の意見を、変に捻じ曲げて、さも変なことを言っているかのように吹聴するというやり方。
2019/2/26(火) 午前 6:20 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
私はストレートです。楽山といっしょにしないでください。根拠を書いたうえでのこと、楽山が、その根拠を無視しているだけのこと。
 
(楽山)
>二人は、無視することによって邪魔なものを排して楽をしているために、洞察力や、文献の理路を検討する努力や、多面的に検討する思慮と、さらに、真実への深い共感性も欠けていることが、言説に表れています。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20101472.html
私としてはstさんとの対話は難しいと判断しています。誤読、曲解、思い込みが激しくて、事実に基づいた対話は無理と…。
 
(私)
楽山は、事実が目の前に来ないと気づかないようです。人間としての理路や感性がないのでしょう。無理と言うなら、なぜ、このコメントを書くのか。うじうじと、汚い。
 
(楽山)
口出しするな(黙れ)と言ったり、無視するな(しゃべろ)と言ったり、発言がコロコロ変わるところも、対話不可能と判断する理由でもあります。
 
(私)
黙れと無視するなは、それぞれ別のことについて言ったのに、いっしょにして、矛盾に見せかけようとする詭弁です。先ず、黙れは、キリスト者でもないのに、キリスト教について書くことを言っている。
無視するなは、糸くずのような細かい周辺のことをほじくって、いちゃもんめいたこと書いているから、こちらの主要な言い分を無視せず、ちゃんと受けて、それについて、書けということ。
(私)
楽山の話は、鬱陶しくて仕方ない。私は、あれから、そちらのコメント欄には書いていない。これからも、批判は続けることになる。楽山は、人をいらだたせ、怒らせる策略を身につけているようだ。辛気臭くてしょうがない。無視して結構、だったら、黙っていなさい。
 
(楽山)
さらには、こういうことは他の人も気づいていることだろうと想像してます。
なので、私からいちいちstさんを批判することもなかろうし、スルーするということになります。
思うに、stさんは自分から狭い方に進んでます。孤立する方に進んでます。ほぼ無抵抗のshalomさんの内面を悪く想像して、悪く言うのは止めて、仲直りした方がいいです。こういうことは恐らくは他の人も勧めてきたのだろうけど、私もお勧めします。
2019/2/26(火) 午前 6:40 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
楽山のスルーは今に始まったことではない。異教の楽山には分からないことだが、シャローム批判を止めることはありません。今回の楽山のコメントを見ながら、決意を新たにしています。
「ほぼ無抵抗のshalomさん」大きな勘違い。「悪く想像して、悪く言うのは止めて、仲直りした方がいいです」出来ないことを承知で言っているなら狡猾、本気で言っているなら、シャロームに、まんまと騙されている。
 
(楽山)
ところで今、HS界隈は大騒ぎの最中です。私もHS批判する機会は増えるかと思いますが、stさんにはそれを自分に対する当てつけだと勘違いして怒らないでほしいと思います。再度お願いしておきます。
・大川隆法長男が語る「『幸福の科学』決別の理由は清水富美加との“結婚強制”」
http://bunshun.jp/articles/-/10791
・「神託結婚」― 異常性の発現
http://algorabarchives.blog.fc2.com/blog-entry-5.html
・「清水富美加との結婚強制」はまったくの嘘 大川総裁が宏洋氏と週刊文春の間違いを指摘
https://the-liberty.com/article.php?item_id=15452
・「週刊文春」(2019年2月28日号)インタビュー記事 「大川宏洋氏の虚言・誹謗中傷」に反論する
https://happy-science.jp/news/public/6702/
2019/2/26(火) 午前 6:50 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
この段階で、お願いしておきます、という言い方をしてくるのは、丁寧語に固執しておれば、誰もが、賛同してくれるという思い上がりであり、楽山は、陰気で狡猾だと知りましたから、HSを批判ですか、大変ですね、などと気をつかって、批判を控えるなどということはしないわけです。恐らく、楽山の言論は、結局、説得する力はないだろう、と思っています。
 
(シャローム)
長いメールありがとうございました。
悔い改めの後先については書いておられることでいいと思います。最初にアダムとエバが罪を犯したとき、私たちが今もよくしているように、二人はすぐ枯れてしまう木の葉で身を隠しますが、神は毛皮の衣(罪のあがないと赦しのために流される血)によって覆ってくださり、さらにカインが荒野へ放浪の旅立ちをするとき、だれでも私を見つける者がわたしを殺すと恐れ、私の罰は重くて負いきれませんと呻き苦しんでいる時、神はカインの額にある印をつけてカインを守ることを約束しておられます。その印もまた毛皮と同じく、イエスさまの十字架を指示していますし、新約聖書においては神によって与えられた義の衣と記されています。
2019/2/26(火) 午前 10:09 [ shalom ]
 
(私)
罪を認めず悔い改めないシャロームが、いくらキリスト教と聖書について書いても、偽善のあかしになるだけだ。どういう顔と精神で、キリストを讃えるのだろう、身の毛が弥立つ。
 
(シャローム)
古今東西すべての人が神の赦しと愛のなかに生かされているのです。しかし、そのことは信仰によって受け容れることによってはじめて、人の現実となるのです。受け容れないとしても神の赦しと愛のなかに生かされていることに変わりはありませんが。
 「今、HS界隈は大騒ぎの最中です」
そうのようですね。
 「・大川隆法長男が語る「『幸福の科学』決別の理由は清水富美加との“結婚強制”」」という記事が
私は読んでいませんが、有料記事が掲載されていましたね。
 「私としてはstさんとの対話は難しいと判断しています。誤読、曲解、思い込みが激しくて、事実に基づいた対話は無理と…。
 口出しするな(黙れ)と言ったり、無視するな(しゃべろ)と言ったり、発言がコロコロ変わるところも、対話不可能と判断する理由でもあります。
2019/2/26(火) 午前 10:09 [ shalom ]
 
(私)
シャロームは、信仰によって、何を受け容れたというのだろう。罪は気にしないで悔いもせず改めもしないでいいなどとは、キリストも神も言っていない。
 
(シャローム引用か)
さらには、こういうことは他の人も気づいていることだろうと想像してます。
なので、私からいちいちstさんを批判することもなかろうし、スルーするということになります。
 思うに、stさんは自分から狭い方に進んでます。孤立する方に進んでます。ほぼ無抵抗のshalomさんの内面を悪く想像して、悪く言うのは止めて、仲直りした方がいいです。こういうことは恐らくは他の人も勧めてきたのだろうけど、私もお勧めします。」
(シャローム)
きのうメールした後にstさんの記事を読み、stさんの私と自由さんに対する批判コメント読みました。
stさんとの対話が無理なように、きっと仲直りも難しいと思います。仲直りを望まれて断る理由はありませんが、stさんの病的体質が変わることは難しいでしょうから、関わることはないと思います。
shalom!
2019/2/26(火) 午前 10:10 [ shalom ]
 
(私)
まともに関わったことなど無いくせに、今さら、何の芝居をしている。人に助けてもらわないと、自分の言説を自分で弁明することも出来ないシャロームが、反証したのに「神の赦しと愛のなかに生かされている」と、根拠を示さずに「stさんの病的体質」と、平気で言えるということが、今まで積み重なって、陰でうまくいったと、ほくそ笑んでいる偽善者であることの証明となるわけです。ゆえに、今まで以上に、キリスト信仰を害する極めて悪質な偽善者として、両者に対して、いっそう厳しく批判してゆくきっかけとなるでしょう。
 
 
(2019年02月27日アップ、同日一部修正)
(2019年02月28日、一部修正)
(2019年03月04日、一部修正)
 
 
 
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  赦しが先?(2)
 
   楽山ブログ:ゲストブック
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/GUEST/41469556.html
   コメント欄。私のコメントは記事専用です。
 
 
(私)
信じてもいない神のことを、誤解と曲解によって、とやかく言っている楽山です。
 
(楽山)
>立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20101472.html
これは放蕩息子の話とのことですが、この部分を読むと、先にゆるしがあるのではないでしょうか。
2019/2/26(火) 午前 5:54 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
この息子の発言を、悔い改めというのです。父親は神に譬えられています。このことを記事にも書いているのに、やはり理解していないのは、キリスト教も聖書も分かっていない証拠です。そして、自説以外は何も受け容れない姿です。シャロームは、この悔い改めをしてこなかったから、悔い改めは神が与える、などと、言い逃れの詭弁を弄しているのです。
 
(楽山)
上の文章は、整理するとこうなるでしょう。
・子は父に謝ろうと決意する。
・父は子の姿を遠くに見た瞬間、走り寄り抱きしめる。
・子は父に悔い改めの言葉を述べる。(父は子から悔い改めの言葉を聞く)
こうしてみると、父は、子の悔い改めを聞くより先に、その姿が遠くに見えた時点で、すでにゆるしているようです。
父は、子の悔い改めを知るより先に、ゆるしてる。
 
(私)
赦したのではなく、赦そうという心なら、父すなわち神はずっと持っていて、悔い改めるのを待っておられます、という喩えが分からないのでしょうか。息子が、悔い改めたので、赦したのです。楽山は「赦しが先、悔い改めがあと」をどうしても成立させたいがために、詭弁を弄していて、恐らく、反省したくないだけなのです。
 
(楽山)
子の視点からすれば、悔い改めのあとにゆるしを得たように思えるかもしれないけど、
父の視点からすれば、ゆるしが先だったということ。
 
(私)
私たち人間は、人間にとってどうなのかということを考えるべきなのに、楽山は、神は赦していたと、神の立場に立って、繰り返し言い張っているのです。
(私)
悔い改めなくていいはずがありません。神の救いは、人が悔い改めから始まります。読むにあたって、正常な人なら、上のような、とぼけた発言はしないでしょう。曲がった読み方しかしていないのが楽山です。キリスト教について、何も語ってほしくない人です。おとぼけが続きます。
 
(楽山)
ではいつゆるしたかと言えば、話の最後に「いなくなっていたのに見つかったのだ」と父が言って喜んでいることからすれば、子がいなくなったときにはすでに、ゆるし、その身を案じていたのかもしれません。
 
(私)
帰ってきて悔い改めたから赦したのです。いなくなったから案じても、どうして赦したことになるでしょう。父は帰ってくるのを待っていたのです。そして、いなくなったことを悔い改めるのを待っていたのです。それは愛によるものであって、それで赦していたとは言わないのです。
(私)
神の赦しの心すなわち愛と、赦されて始まる人の信仰とは違うのです。自説を言い張るような者がいて、罪を認めず、悔い改めず、それでも一人前のような振る舞いなら、決して赦されることはないということです。成り立つ信仰を、たとえで語っている聖句であります。
(私)
案じることを、赦すことと同時に使って、すり込もうとする意図を感じます。もう一度言いますが、これは信仰の話なのです。悔い改めなければ信仰は始まりません。知りもしないのに、キリスト信仰を語らないでください。自尊と高慢によって引っ込めなくなっている姿が見え見えです。
 
(楽山)
父が子をいつゆるしたかは明文ではないようだし、この辺りの議論はなかなか決着はつかなそうだけど、私はこのように想像します。
2019/2/26(火) 午前 5:58 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
分からないのでしょうか。息子が悔い改めた時点で、父は息子を歓迎しているから、喜んで赦しているのです。楽山には常識がないのでしょうか。ひょっとして、まだ聖句を読んでいないのか。聖書全部とは言わないが、聖句を読まずに聖書を語るか。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
15:21
むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
15:22
しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
15:23
また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
15:24
このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。
 (ルカ15:22-24、新約聖書)
 
(私)
もし息子が、金よこせ、とでも言うようなら、同じ反応はなかったのです。しかし、たらればのないたとえ話ですから、キリストは、ここで、悔い改めが大事だと言うことを、放蕩息子という悔い改めの話をして、人に向かって、繰り返し説いているのです。信仰を知らないのに、あまりキリスト者を煩わせないでください。
 
(楽山)
>15:7よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
 >15:10よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。
(楽山)
この部分だけを読むと、天は、悔い改めをよろこぶようです。悔い改めによってゆるすではなく、よろこぶとしている。
これは、ゆるしは悔い改めより先行していたことを示しているのではないでしょうか。
 
(私)
また詭弁です。引っ込みがつかないですか。赦しは神が与えるもの、悔い改めは神の民になるために人がすること。その悔い改めを喜ぶのが神の愛です。悔い改めるのが人の信仰の始まりです。 
 
(楽山)
「天は人をゆるし、その悔い改めを待つ→人が悔い改める→天はようやく気づいてくれたとよろこぶ」という流れ。
 人は悔い改めによってゆるされるというよりは、悔い改めによってゆるしに気付けるという一面もあるかもしれません。
2019/2/26(火) 午前 6:00 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
それを、赦される幸いと呼ぶのです。言葉遊びは止めてください。
 
(楽山)
私の意見は、そうではなくて、こうです。
・『ゆるしが先で、改心があと』という考え方がある
・これはそれほど特異な考え方ではなく、これをもってカルトとはいえない
・『ゆるしが先で、改心があと』と信じなければならないとは思わないが、そういう考え方があることは認めるべきだし、それをもってカルトとはいえないだろうということ。
 
(私)
『ゆるしが先で、改心があと』を理由に、シャロームは、改心せず、罪を認めず、悔い改めもしないでいます。報いは、シャロームが受けていますし、これからも受けるでしょう。楽山が責任を取るとでも言うのでしょうか。
 
(楽山)
stさんは、人の心を悪く想像し、その意見を歪曲して非難するということを繰り返してます。気をつけてください。
2019/2/26(火) 午前 6:02 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
悪いものは悪いと言うのです。楽山は、楽がしたいので、不快が嫌なので、無視した分、悪いかどうかが分からなくなって、悪いということを、いっさい、言わなくなっているだけです。歪曲しているのではなく、楽山が、なぜか、知りもしないのに、味方しているだけです。
 
(楽山)
ゆるしが先ということについては、私としては、これだけで了解してもらえれば十分です。
ゆるしが先という意見があり、それにも一理あることを了解してもらえれば、賛成、共感、支持までは求めてませんので。
2019/2/26(火) 午前 6:03 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
楽山の言い分には、一理もありません。信仰の言葉を何も理解していない人の、傷つけないという慢心からの、善に見せかけた、二度に及ぶ遠回しの当てつけと、乱暴な発言であり、キリスト信仰者を惑わす発言です。二度と言わないように。
 
(楽山)
>こうして自分のことを言って、柔和に対処しているつもりの保身です。
>答えられず、読まない、しない、流される、主張しない、我慢、と
自身が謙譲することによって、傷つけなかった、傷つかなかったと、
 楽山は、アドラー教に照らして、気が済むのでしょう。
>権利主張したり、戻っちゃった、反省、などと書いて、
 楽山は、手をデスクか何かについて、寄りかかり傾いて、
 反省したのでしょうか。いつぞやのテレビの、猿のように。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20102535.html
また、stさんは他人の内面を悪く想像し、決めつけ、貶めてる。これは悪い癖です。
2019/2/26(火) 午前 6:04 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
楽山は、不利な刺激、つまり、不利な発言を、無視する信仰を持っています。そういうところは、都合の良い見方として、シャロームも持っています。こういう人に対して、やさしいことだけを言っていると、何も言わないのと同じことになりやすいので、表現や比喩など、遠慮せずに、辛辣になっています。今回は、緩いほうです。
(私)
もとより、私は社交をするつもりはないし、今回も、楽山の文章を読んで、楽山は、自らの知識や思考や感性の範囲を弁えていない態度ですから、こういうことが、これからもあるなら、同じように言うでしょう。私は、今しばらく生きている間、悪い癖として存在するでしょう。そのように書き続ける日々のうちに、定められたある日ある時、ふっと死ぬるのです。
(私)
楽山は、美しい人間像を期待しているかもしれないが、今回のように、そうではない人を見ることのほうが、はるかに多い。だから私は、そういう傲慢に対しては、批判を手加減しません。私が、人に対して、激しく言っても、丁寧に言っても、神に対しては、いつも、反省ザルに過ぎません。言うべきと判断したことは言うのです。言わない人が多すぎるからです。
(私)
自らを見るべきです。自らの罪と悪と偽善を見るべきです。見たら、傷つき傷つけることを避けることなど出来ないことを知るでしょうし、社交の言葉よりも、インパクトのある言葉を欲しがるでしょう。真実は、人間にとって、うわべの善いところには形骸が多くて見えず、悪いところのほうに、その対極として、はるかに多く垣間見えてくる、という成り行きです。
 
(楽山)
>ゆるゆると、遠回しに、他者の言葉を借りて、人を侮辱してきた楽山です。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20102535.html
人を猿よばわりしつつ、こういうことを書くのはよくないです。
 
(私)
私のは、毒舌ですが、楽山の遠回しのほうが、分かりにくく、温和に見える分、たちが悪いのです。殴られるより悪いことなのです。
 
(楽山)
それに先日は、私の名前を、不自由さんとか、安楽山とか変な呼び方をしてバカにしてた。
こうしてみると、人を侮辱するというのは、自分の姿を他に見てるだけのような気がします。
ちなみに、ヨシュアさんはエグゼルさんの名前を変にしたり、猿よばわりしてた。この点、stさんとヨシュアさんは同じです。
2019/2/26(火) 午前 6:05 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
馬鹿にしていたのではなく、怒っていたと言うこと。また、そういう書き方について、改める気はありません。丁寧に書いたのでは、話にならない相手だからです。特徴を読む人に伝えるための一種の比喩。優しい言葉は味気がないので無視されやすい。まことに、楽山の道徳は、本質とは関係のない、おしろいのような物だと思っています。
(私)
このように指摘されるくらいでないと、力がなくなるほど、無視する人が相手である。丁寧に言って伝わると思っているから、つまらない文章になる。楽山は、自分の文章をまともだと思っているようだが、むしろ、執拗な丁寧語は、意地の悪い執拗さと高慢を感じさせる。
 
(楽山)
>シャロームは、相手が低く出てくれば、さらに、さらに、舞い上がります。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20102535.html
これも、shalomさんというより、stさんご本人のことと思います。
shalomさんはどこでも誰に対しても、大体同じ態度です。
でも、stさんは大分ちがう。
 
(私)
シャロームに対しては、嘘が酷いから、そもそも信仰が嘘だし、私は一貫して厳しいと思います。シャロームは、誰に対しても、同じ偽善芝居をしています。楽山は、ねちねち細かいことを言ってくるクレーマーですが、いちばん大事なところで勘違いしています。だから、だんだん話にならなくなります。
 
 
(2019年02月27日アップ、同日一部修正)
 
 
 
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  盲目と強面
 
   奇跡をされる方
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28877266.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームが、人の記事を読む気がなく、自分の欲求だけで記事を書いていることが、よく分かる記事です。
 
シャロームの信仰は、結論から始まり、結論しかありません。だから全く解説が出来ないのです。根拠は神の啓示と聖霊の導きで、議論の対象にならないと言っていました。しかも、その結論には、人間としての愛も共感も含まれていないのです。
 
その結論は、何度も書いてきましたが、悔い改めなくても罪は赦されるというもので、悔い改めは自分がするのではなく神から与えられるというのです。自分は神の操り人形だと言いたいのでしょうか。シャロームは、それらのことを訂正していません。
 
その信仰から表れてきたのは、嘘と罪と偽善だけでした。つまり、都合の悪いことの、無視と隠蔽と偽装、そして、詭弁です。しばしば嘲笑いを向けてきます。訂正不能のそれらは今も続いていて、あちこちの、あまり喧しく言わない優しそうなサイトを訪問しては、世辞から聖書語への書き込みをしているのです。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
10:46
それから、彼らはエリコにきた。そして、イエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
10:47
ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。
10:48
多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。
10:49
イエスは立ちどまって「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。
10:50
そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。
10:51
イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。
10:52
そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
 (マルコ10:46-52、新約聖書)
 

+++++++++
★今日のみ言葉★((2019.1.27)
+++++++++
「人間とは、イエスとは」
この「盲人バルテマイ」の話(マルコ10:46-52)から、人間とはどういう者でしょうか。
ここでは、目の見える人と目の見えない人のことが対比されています。
不思議なことですが、目の見える人の方が信じないで、
目の見えない人の方が信じていたのです。
目が見える人が分からなくて、耳から聞くだけで
目が見えない人の方が分かっていたのです。
目が見えている人は何でも分かっているように思えるのですが、
こんなこともあるのですね。
目に見えない心の問題や霊的なことは特にそうです。
イエスを目の前に見ていた当時の人たちは、見えていることで、
イエスのことを知っていると思っていました。
しかし、この人たちは、目の見えないバルテマイが知っている
ダビデの子としてのイエスのことは知らなかったのです。
今日も同じです。
イエスのことを知識として、ある程度の常識としては知っていても、
心で、霊的には知らないでいる人の方が圧倒的に多いのは、
いつの時代もそうなのかもしれません。

 
バルテマイには、キリストのうわさを聞き、この機会を逃したら、もうチャンスはない、というほどの救いと癒しの強い欲求があったのでしょう。長血を患う女性が救いと癒しを求めてキリストの着物に触ろうとした(マルコ5:24-34)のと同じような強い救いへの欲求です。いずれも、キリストは、その信仰を誉めています。
 
キリストだと言われているこの御方をおいて他にない、という、切羽詰まった欲求は、信仰の強い動機となり得ます。
 
この二人の場合、それぞれの不幸が、それをもたらしたということです。真実の強い信仰は、多く、悲しみを通してもたらされるようです。
 
訂正不能なほど、強く信じたら、奇跡が起こります、という話ではないのです。そういうことは、シャロームなどの、カルトの信条であります。
 
大事なことなので、もう一度、申し上げますが、信仰への最も強い動機は、奇跡が起こるから有り難いということではなく、他に頼りとする救いが無い、という心であります。
 

人間とはどういう者かについてもうひとつ分かることがあります。
人々は叫んでいる盲人を黙らせようとしました。
それは盲人で物乞いをしている人間に対する、
人々の偏見や軽蔑の思いもあったかもしれません。
それとともに、人々は、イエスが大勢の人たちと一緒に行動しておられる時、
見も知らない、ひとりの盲人の物乞いに構ってくださるとは思わなかったのでしょう。
社会的な貢献は何も出来ず厄介者のように思われている人よりも、
人の数の多い方が重視されるというのは、今の時代も同じです。

 
バルテマイをしかって黙らせようとした多くの人々は、キリストに大仰な立派さを期待していたのでしょう。救いを求める先が他にない、というバルテマイの心境は理解されず共感もされなかったのでしょう。激しく叫んだから、迷惑とも恥さらしとも感じたかもしれません。
 
キリストは、バルテマイの、他にないという必死さと一途さを見逃さなかったということです。
 

では、この話の中で、イエスとはどういう方でしょうか。
盲人で物乞いをしている人間に対して、
人々の見る目と違った目を持っておられた方です。
ご自身に心の目を向け、ご自身を求める人に目を留め、
心にかけ、声をかけてくださる方です。
人が見えていない信仰の心を見られる方であり、
また、質問によって、その信仰をその人から更に引き出される方です。
また、信仰を見られて、癒しの奇跡をされる方です。
さて、盲人バルテマイの、その信仰は、どこでどのように養われたのでしょうか。
次回に続きます。

 
奇跡が本当に起こったかどうかは分かりませんが、何らかの癒しはあったのでしょう。
 
分からないと言ったのは、盲目が見えるようになる奇跡が起こったと言えば、シャロームのような奇跡のみに依存する偽善者が喜び、また、多くの信仰者が、滅多に起きない物や肉体の奇跡のほうを期待してしまう危惧があるからです。
 
>《shalomのコメント》
 

奇跡といえば、超自然的なことだとおもいます。
もちろん生ける神は無からこの天地を創造された方ですから、
人の思いも力の及ばない御業をなすこともおできになられます。
しかし、そういうことばかりではないようです。
たとえば、心や体の病気や苦しみ、悲しみにもかかわらず、
それを受け容れ喜んで生きていることも奇跡です。
自分の過ぎし日を省みて、
あの砂浜の足跡という詩のような
奇しき足跡という奇跡も見せてくださいます。
聖書に“数えよ主の恵み”と言葉という言葉があります。
あなたも奇跡を発見し、数えてみませんか。
きっと生きる希望と勇気が与えられます。

 
だとすると、シャロームは、キリストに背負われた、その背中で、罪の悔い改めを拒否していたことになります。それは、キリスト者には、決してありえないことです。
 
>「あしあと」

ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね
した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお
いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

 
これについては、前にも記事にしています。
「比喩」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19977921.html
そこから、引用しておきます。
 

 
私に真実を語ることが出来ているということではなく
私のような下手くそでも
善の言葉だけでは善は表せない
ということくらいは知っているということです。
前にも書いたことですが、
良いことばかり言っても、良くはならず、
悪を描いて肝に銘じるほうが
善の追求には資するところがあると思っています。
  
キリストが、おんぶしてくれたから
足跡が二人分ではなく一人分しかない
という、foot print と呼ばれる話を
偽善者も好んで使っているようです。
  
この話は、信仰についての、とても良い話なのです。
ただ、この話には、悪が登場しないのです。
信仰者が頷きやすい良い話は
偽善者にとっても都合の良い話なのでしょう。
  
ちなみに、前から批判対象としている偽善者は、
この話を記事に載せましたが、今は削除しているようです。
偽善者は、都合が悪くなると隠蔽するのです。
 
 」
 
シャロームは、悪が登場しないという注意点を書くでもなく、また、この話を引用してきました。シャロームは、私の記事など、読んでいないだろうと思いますが、いったん削除したことがあったと思います。しかし、このフットプリント足跡という詩を、また、載せていることになります。
 
悪が登場しないという注意点の指摘が必要と思いますが、偽善という悪においては、悪が登場することのほうが不都合なので、良さそうな話だけを載せることになります。
 
シャロームは、都合が悪くなると、自分の記事も削除します。過去に批判したシャロームの記事が、多く削除されています。不祥事に際して、弁明するのでも反省するのでもなく、隠蔽をするのがシャロームであり、保身の鬼であり、丁寧な言葉遣いの裏には、強面の権威主義を隠し持っているのです。
 
盲目で見えないバルテマイは救われた者。
 
隠して見せないシャロームは救いを拒む者。
 
 
信仰が悲しみを通してもたらされるからといって、悲しみましょう、なんてのは、現実的でもない、変な話になりますから、むしろ、悲しみが訪れたときに、救いと癒しを通して、信仰が成長する、という希望として受け取ったほうがいいだろうと思います。
 
 
信仰とは、教えられた超常の話を思い込み信じ込むことではない。
 
信仰とは、それなしでは生きられない、というほどに、望み続けること。
あるいは、信仰とは、それ以外に、希望がないということ。
 
 
(2019年02月26日アップ)
 
隠蔽(いんぺい)
嘲笑い(あざわらい)
詭弁(きべん)
喧しい(やかましい)
頷く(うなずく)
強面(こわもて)
 
 
 
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  まとまったもの?
 
   楽山ブログのゲストブック
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/MYBLOG/comment.html
 
 
ゲストブック
[ 楽山 (自由) ]
2019/2/25(月) 午後 7:40
>それにしても、stさんはまだ続けるつもりなんですね。
>それじゃあ、こちらも一度くらいは、まとまったものを書いておこうかな。
 
この状況で、「まだ続けるつもり」の「まだ」の前には、
≪おかしいのは向こうなのに、馬鹿げたことを、あるいは、無駄なことを、≫
が隠れているような書き方です。
まるで、マフィアのボスが、復讐をするときみたいな台詞です。
語尾に、≪愚かなやつめ・・≫を、隠しているようなセリフです。
 
>一度くらいは、まとまったものを書いておこうかな
 
その上、次の台詞によって、楽山は、今まで、まとまったものを一度も書いて来なかったことを自ら認めています。私は、何度もコメントに精一杯のことを書いてきたのに、誠意ある返答をまとめたことはないということです。いつもそうなのでしょう。明らかな上から目線です。
 
放蕩息子の喩えに、十分、悔い改めの必要性は表れています。それで、分からないと言うならば、その人は、一生、キリストの話も教えも、理解しないでしょう。ゆえに、信仰の話を聞きたい心を持たない人、なのに、信仰の話の是非を云々するような、いい加減な楽山と、キリスト信仰の話をすることは、それ自体が無意味だということです。
 
批判を、まだ続ける、というより、ずっと続ける、死ぬまで続ける、という必然を作ったのは、他ならぬ楽山のほうなのです。シャロームという偽善者の自己中心のカルト思想である、罪を気にしない、悔い改めない、という破壊的な信念の味方をして、人間ならば分かる理路を受け取ろうとせず、キリスト信仰を知りもしないのに、本に書いてあるからぁ、目の前の証拠不十分だからぁ、という軽口の小理屈を付けて、賛同し、批判者を否定しました。
(「ぁ」は、軽口の形容です。)
 
正面を向いて反論せず弁明せず、遠くから、嫌がらせのような当てつけをしてくる、そして、こちらが批判すれば、今回のように、圧力を持つ恐怖の台詞で余裕を見せる、という、対等で真摯な議論や遣り取りをせず、邪魔と感じた嫌なことについては無視してよいというアドラー教の軟派カルトらしい。これから、もっと、それらしくなってゆくのでしょう。
 
嫌なことを無視して生きるということは、反省をせず、修正をしないということです。この結果は、自己を増幅してゆくだけということになります。いま間違っている自分を、省みることなく、無視してゆけば、自分の間違いや悪や罪の性質を訂正せずに、そのまま含めて増幅してゆくことになり、他者に対して傷つけることがあっても、それが不快でないならば、悪かったと反省することはなく、止めることはないということを意味しています。
 
つまり、自分が生きるための楽だけでなく、必然的に、自分が苦痛でなければ、他者にとっての苦痛をも与え続けることになるのです。だから、あらゆることについて、気持ちよく、軽口の苦言だけは、たたける習性になるのでしょう。
 
>気に入らない意見は、無視しましょう。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20024186.html
 
>他人の意見がどうも納得いかないのなら、その人と距離を取るしかありません。
>他人の課題に介入できないと割り切って、自分のことに集中しましょう。
https://twitter.com/adler_salon/status/1051230439216562177
 
無視することを、返答せずに距離を取ると言っています。
しかし、距離を取って、遠回しの当てつけだけはしてきたのです。
 
 
(2019年02月26日アップ)
 
 
 
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