ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年02月

 
  悔い改め
 
 
悔い改めるとはどういうことでしょう。
 
悔いるとは告白です。
神に対して
正直に罪を認める告白です。
 
改めるとは直すことでしょうか。
犯した罪を
罪を犯す前に戻って
犯さなかったことに出来るでしょうか。
出来ないと思います。
 
あるいは
二度と罪を犯さないことでしょうか。
地上に生きている限り人は罪を犯します。
罪を犯さなくなることはありません。
 
あるいは
犯した罪と同じ罪を犯さないことでしょうか。
考えてみてください。
同じ罪というのはないと思います。
犯すたびに
状況も動機も罪は違うのです。
単純ではありません。
 
または
似たような同種の罪を犯さないことでしょうか。
さて
そもそも私たちは
私たちの行為のどこが罪であるか
正確に分かっているでしょうか。
私たちは
神に比べて不完全だという自覚があります。
私たちは
犯した罪に総て気づくわけではありません。
つまり
告白した罪が罪の総てとは限らないのです。
罪を告白しても
告白から漏れた罪があるかもしれません。
その罪に
その後に必ず気づくとは限りません。
 
私たちが不完全であるように
私たちの罪の告白も不完全なのです。
どうして完全に改めることが出来るでしょう。
 
気づいただけの罪を告白します。
自覚した罪を何とか再び犯さないように努めます。
そこまでしかできないのです。
 
したがって悔い改めて
もう罪は犯さないと思っても
その達成は至難の技であります。
 
私たちは罪を改めることは完全には出来ない
ということを知ってください。
 
では
改めるとはどういうことでしょう。
 
告白とともに
信仰を改めること
すなわち
信仰を新たにすることだと思います。
 
何のために悔い改めがあるかを考えてください。
今までとは違った立派な人になれるでしょうか。
それは高が知れていることです。
 
悔い改めは
罪を赦していただくためにするのです。
 
許可ではなく
赦免され裁きを免除してもらうために祈るのです。
 
それこそが再び主のほうを向くことと言ってもよいでしょう。
 
申し上げますが
私たちはしばしば主から目を逸らし
しばしば自分の観念に囚われて
しばしば主から離れているということです。
 
だから
改めて主のほうを向き
具体的には
改めて主の民であることを自覚するためなのです。
 
キリスト信仰は祈りの信仰です。
 
そのために悔い改めがあります。
 
悔いもなく
改めもしないならば
祈ることもなくなるでしょう。
形ばかりの祈りをしても
それは祈りではありません。
 
いつもいつまでも主のもとにあるために
私たちは祈り
そのたびに改めるのは
罪を無かったことにすることではなく
罪を赦されるためであり
何より
赦す主格である主のもとに帰るためであります。
 
ですから
私たちは主の前に
精いっぱい正直であることが必要なのです。
 
悔い改めの祈りは
祈ったから赦されて罪が無くなったいう話ではないのです。
 
神の前に精いっぱい正直であることを
神に対して申し述べることであり
悔い改めの祈りをささげて
主のもとに帰り
全てを神にお任せするための祈りなのです。
 
悔い改めの祈りこそが
いや、それだけが、
信仰者が神のほうを向く行為なのです。
 
 
(2019年02月25日アップ)
 
 
 
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  誇大妄想気分
 
   楽山ゲストブック
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/GUEST/41469556.html
 
 
シャロームの異常を、楽山は加速させてきました。今回も。
 
シャロームは、正義の味方気取りで、自らを省みもせず、
今回も、日本をボロクソに言っています。
 
(シャローム)
こんにちは
私は40年来の花粉症との付き合いですが、
 山に囲まれたところから海辺の町に来て、花粉症はだいぶん軽減されたのですが、今年は花粉の飛散量が多いのか、いやに花粉症がひどいようです。
 寒気になかにも明るい陽ざしに春近しといううれしい時候のはずですが、咳とハナミズと目の不快感で頭も重く感じて本が読みづらいシーズンとなりました。
 「日本教について」届きました。七平さんの本が5冊手元にそろいましたが、「日本教の社会学」一章を読みかけたままとなっています。
 日本人は日本は戦後民主主義になったと思っていますが、ただアメリカの経済力と軍事力の支配のもと、経済復興のみに心を奪われ、日本人の心の民主化が置き去りにされ、アメリカの占領状態からいまだ脱却しようともせず、いまだに民主主義については全く知られていないというのは本当だと思います。
2019/2/24(日) 午後 3:50 [ shalom ]
 
ここから引用してみます。
 

日本人は日本は戦後民主主義になったと思っていますが、ただアメリカの経済力と軍事力の支配のもと、経済復興のみに心を奪われ、日本人の心の民主化が置き去りにされ、アメリカの占領状態からいまだ脱却しようともせず、いまだに民主主義については全く知られていないというのは本当だと思います。

 
日本へのボロクソ節ですが・・
 
>アメリカの経済力と軍事力の支配のもと、
 
アメリカを意識してはいたでしょうが、
アメリカの支配のもとだったでしょうか。
どういう意味で、支配、という重大な言葉を使っているのでしょう。
 
>経済復興のみに心を奪われ、
 
経済復興のみ、だったでしょうか。
他は何もしない日本だったのでしょうか。
多くの人の様々な努力を無視してはいないでしょうか。
 
>日本人の心の民主化が置き去りにされ、
 
心の民主化と言っています。置き去りにされたと言っています。
民主主義というのは政治の形態ではないのでしょうか。
「心の」を付ければ、民主主義が心の話になるのでしょうか。
しかも、問題は多いとはいえ、置き去りにされたのでしょうか。
今、運動している人々の努力を無視してはいないでしょうか。
 
>アメリカの占領状態からいまだ脱却しようともせず、
 
アメリカとの関係では難しい局面や難題が多々ありますが、
占領状態から脱却しようともせず、と、
脱却という言葉を使えば、言い得たことになるのでしょうか。
乱暴な断定のボロクソ節を機関銃のように連射しています。
 
>いまだに民主主義については全く知られていないというのは本当だと思います。
 
自分は分かっているという高揚した妄想気分が、
他者をボロクソに言って、お前はどうなんだと
返されそうな痴態をわざわざ表しています。
 
黄葉気分でボロクソになっているシャロームと判断します。
 
(シャローム)
それは単に知的な理解ができていないということではなく、
民主主義と何ぞやという基本的理解がされないまま、拠って立つべき契約意識、法という背骨がなく、従来の空気の流れに支配される多数決があたかも民主主義であるという誤解が今日の日本的民主主義を機能不全にしているように思われますが、
どうでしょうか。
「言霊のくだりは興味深い。話をしただけで、けがれがうつったとみなされて排斥されるとか、言霊を信じるとジョークが言えないとか、事実を事実として指摘できなくなるとか。論争になると罵詈讒謗だらけになるとか。この辺りは、「ある、ある」と頷きながら読んでしまいましたよ。」
これから読みますが、指摘されているようなことが
日本人の心の民主化を妨げている理由のような気がしますね。
これから読みます。
shalom!
2019/2/24(日) 午後 3:51 [ shalom ]
 
これだけ、思い上がる人も珍しいと思います。
 
>単に知的な理解ができていないということではなく、
 
ずっと知的な理解が出来ていないのは、
シャロームのほうです。しかも自覚がない。
 
>民主主義と何ぞやという基本的理解がされないまま、
 
言うに事欠いたからと言って、一行目とどう違うのでしょう。
 
>拠って立つべき契約意識、法という背骨がなく、
 
シャロームは、誰かと契約しているつもりなのでしょうか。
民主主義というのは、政治的視野で考えるべきではないのでしょうか。
国と国民の契約関係で理解するものなのでしょうか。契約書ありますか。
 
>従来の空気の流れに支配される多数決があたかも民主主義であるという誤解が
 
空気の流れなのでしょうか。これが、全か無の断定言い張りシャローム集です。
 
>今日の日本的民主主義を機能不全にしているように思われますが
 
民主主義の機能不全に対して、シャロームは何が出来るのでしょう。
言葉も選ばず、否定の言葉を並べて、ボロクソに言う以外に、
シャロームは、何が言えたのでしょう。
シャロームは、何も出来ないのです。何もしていないのです。
けなせばいいと思っているだけなのです。
義憤という言葉がありますが、
これは、シャロームの、欺糞、あざむきのクソです。(造語です)
 
 
(楽山)
こんばんは。
自分も花粉症のようで、春先、初夏あたりがもっともつらい時期です。特に春先の朝の連続くしゃみは、家族からもうるさいと顰蹙を買ってるので、今年はこれを試してみるつもりではあります。↓
・耳鼻咽喉科専門医に聞く。朝起きたときのくしゃみや鼻水が止まらない「モーニングアタック」とは!?
http://news.livedoor.com/article/detail/9784551/
読書の方は、あまり無理せず、体調と相談しつつ、ゆるゆる進めればよいかと思います。
2019/2/24(日) 午後 9:23 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
ゆるゆると、遠回しに、他者の言葉を借りて、人を侮辱してきた楽山です。
読んでも、理解できないだけでなく、自己中心に、自分の都合で、
聖書を、読んでもいないのに、
逆に解釈していた情けない事実が、私の記事になっています。
 
 
(楽山)
政治の話については、私にとっても耳の痛い話です。民主主義とは何かと問われれば、すらすらとは答えられず、契約書はさほど身を入れて読まなかったり、質問、交渉もあまりしない、空気に流される、権利主張しないで我慢することも多いですからね。
 
>政治の話については、私にとっても耳の痛い話です。
 
こうして自分のことを言って、柔和に対処しているつもりの保身です。
 

民主主義とは何かと問われれば、すらすらとは答えられず、契約書はさほど身を入れて読まなかったり、質問、交渉もあまりしない、空気に流される、権利主張しないで我慢することも多いですからね。

 
答えられず、読まない、しない、流される、主張しない、我慢、と
自身が謙譲することによって、傷つけなかった、傷つかなかったと、
楽山は、アドラー教に照らして、気が済むのでしょう。違います。
 
偽善者シャロームに関わって、否定せず、相手をすれば、偽善の保護者になります。
 
(楽山)
若い頃、イェーリングの『権利のための闘争』を読んで感銘を受けたときは、周囲の空気を無視して、権利主張したりもしたけど、最近はまた元に戻っちゃったという感じです。
この辺りは私も反省しないといけないところかもしれません。
2019/2/24(日) 午後 9:25 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
権利主張したり、戻っちゃった、反省、などと書いて、
楽山は、手をデスクか何かについて、寄りかかり傾いて、
反省したのでしょうか。いつぞやのテレビの、猿のように。
 
シャロームは、相手が低く出てくれば、さらに、さらに、舞い上がります。
それは、シャロームの、今までの、そして、今回、上のコメントにも表れています。
 
楽山は、自身を低くする様子を言葉にすることによって、
シャロームを高め、シャロームの誇大妄想を増長させ、
シャロームの偽善的自己中心の浮かれ気分を煽る結果になっています。
 
楽山は、自身が謙譲したのだから、気分よく納得するのでしょう。
これは、ひどい、偽善なのです。ぶん殴るより悪いことがある、という見本です。
 
妄想気分加速者の楽山です。
こういう人は、あとで言うのです。
「私は、精いっぱい、受け入れようとしただけです」と。
 
これは、自身が納得すればよい、という、自己中心の、
ひどい偽善なのです。
人間とキリスト信仰の立場から言えば、
シャロームによる人格への破壊行為を促進することであり、
シャロームの人格荒廃をも促進する行為です。
 
 
(2019年02月25日アップ)
 
 
 
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  赦しが先?
 
   
https://twitter.com/jiyuu2018?cn=ZmxleGlibGVfcmVjc18y&refsrc=email
   楽山のツイッター
 
 
私は、シャローム、という、罪を認めたことがなく、反省することがなく、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくてよい、と言って、訂正しない偽善者をを批判しているのですが、
 
それに対して、キリスト者でもないのに、嫌なことは気にしないということを信条としているアドラー教(アドラー心理学がカルト宗教化していると判断しています)の楽山は、シャロームの味方をしています。
 
楽山は、コメントでシャロームを援護したのち、直接、反論することをせず、ゆえに、黙っているかと思えば、ツイッターで、遠藤周作の文章から、善魔、という言葉を載せて当てつけ、さらに、他者の本から、赦しが先で改心があと、と書いてある文章を、よく吟味もせずに載せて当てつける、という卑怯な方法で対抗してきました。
 
この歳でも未熟な私は、何度も、キレそうになりました。反省して、今は、少しは冷静に書いているつもりです。
 
画像を一部書き写したものです。
>「ゆるしが先で改心があとなのです」(『キリスト教がよくわかる本』井上洋治、p.57)

ある人に二人の息子があったのですが、長男はちゃんと父親を手伝って真面目に働くのに、働くのが嫌になった次男は、財産の分け前をもらって旅に出てしまいます。しかし酒と女で金を使いつくしてしまい、どうしようもなくなって、父のもとに帰ってきます。息子が帰ってきたのを遠くから見つけた父親は、家から飛び出していき、その放蕩息子を家に迎え入れたというのです。神はこの放蕩息子を迎える父親のような方なのだ、だから私は売春婦などを迎え入れて食事をしているのだ、というのがイエスの答弁だったわけです。
売春婦にしろ、このたとえ話の中の放蕩息子にしろ、彼らが改心するより前に、先ず神もイエスも、これらの人を受け容れているということに注意する必要があります。

 
楽山は、聖書の当該箇所を読んだのでしょうか。読まずに、赦しが先、だから、シャロームが正しいと判断して主張したのなら、これほど無礼な男はいません。
 
シャロームは、そういう楽山に対して
 
「 > 楽山 (自由)さん おはようございます
「人間らしい」「人間ならば」の双方向の対話の良き手本はどのような対話であるかを教えてくださりありがとうございました。
また「人間らしい」「人間ならば」の双方向の対話ができないと心の健康を害することをも身をもって教えてくださりありがとうございました。
2019/2/17(日) 午後 0:09[ shalom ]返信する」」
 
このように、シャロームは、過去においても、今回も、自分が何の反論も弁明も出来ないために、楽山に対して、無条件の賛同をしています。シャロームは、賛同者には、いつも、白々しい褒め方をする、というようなことは、すでに何度も書いてきました。「人間らしい」「人間ならば」どちらも、シャロームには当てはまりません。
 
放蕩息子の話は、キリストによるたとえ話です。親は神、息子は私たち人間を喩えています。長いので、一部抜粋して引用します。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
15:14
何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。
・・
15:17
そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。
15:18-21
立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
15:22
しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
・・以下省略・・
 (ルカ15:14,17-22、新約聖書)
 
放蕩息子は明らかに悔い改めています。
 
また、この話は、その直前の2つのたとえ話と関連しています。同書同章の
失われた羊の話より
15:7よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
銀貨を亡くした話より
15:10よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。
という話との関連でキリストは語っています。ひとりでも「悔い改めるなら」と書いてあります。悔い改めることが、それほど重要で、かつ、いかに天の喜びとなるかを書いているのです。
 
井上氏の引用中の「先ず神もイエスも、これらの人を受け容れている」というのは、神とキリストが、既に、これらの人がどのようであるかを知っていること意味します。つまり、これらの人は、罪を自覚し悔い改める人だと分かっているという話なのです。
 
決して、何もわからないまま、赦しを先に与えて何でも好きにさせる、などということではありません。これらの人は、シャロームや楽山の自分勝手とは全然違うのです。
 
したがって、シャロームも、聖書の放蕩息子の話を読み取っていない、ということが明らかになっています。信仰に直結する有名な話なので、シャロームは、信仰に直結する聖句を理解しておらず、キリスト者ではないと判断しています。
 
前に書いたことを、もう一度書きます。
 
実際問題として、
赦しが先というのは、人間同士の言葉と付き合いの綾(あや)というもので、ここで先に赦してあげたら・・(何らかの、より幸いな気づきを期待できる)、というような、赦す相手が罪悪感を感じ得る人物であるゆえに、先読みが可能な個別の特殊なケースであり、神と人の関係に、個別を当てはめて、赦しが先を肯定し、悔い改めない者を正当化できるような代物ではありません。
 
神について、もし、赦しが先という表現が成り立つとすれば、それは、総てをご存知の神が、赦したのではなく、全知全能の神として、人が罪を犯すことを既にご存知であり、人の悔い改めよりも先に寛容な赦しの御心を持って、悔い改めを待っておられる、という意味でしか考えられません。決して、神が、前もって罪を許可して、好きなようにしてよい、ということはないのです。
 
一般的な説諭として考えれば、罪を認めてもいない者を、先行して赦したからといって、シャロームのように罪悪感をいだけず、罪を認めていない者は、罪の自覚がない者として振る舞うのだから、何の幸いも期待できないのです。そんなことも考えずに、シャロームの味方をする者がいます。甚だ迷惑です。
 
神は、慈愛と忍耐と寛容とをもって、信仰者を悔い改めに導きます。それでも、悔い改めないということは、その者が、いかに神を讃美しようとも、その者には神の導きがない、ということを自分で証明することにしかならないのです。
 
 
シャロームshalomと楽山を、上から命令を下す硬派カルトに対して、刷り込みや印象操作を手段とする軟派カルトと呼んだのは正解だったようです。二人は、無視することによって邪魔なものを排して楽をしているために、洞察力や、文献の理路を検討する努力や、多面的に検討する思慮と、さらに、真実への深い共感性も欠けていることが、言説に表れています。そして、自己中心と無反省から、問題が起こると、いつも、自分を被害者の立場にしか置かない、という特徴があるように思われます。
 
この二人と親しく交わると、否応なしに、影響を受けて、最悪の場合、染まってしまう可能性があります。硬派だろうが軟派だろうが、訂正不能のカルトという異常な思想や宗教に染まることは、進行性に人間性を破壊されてゆくことを忘れないでほしいと思います。
 
 
この地上で、安楽を求める者には、人によっては、いやなことから目を逸らして無視する傾向が見られることがあります。そして、楽なことや、美しいものや、善いものばかりを見ようとするような、楽をしたいだけで、反省をしない者がいることを覚えて、警戒してください。
 
美しいものや善いものをいくら求めてみても、人の思慮も想像力も限界があり、直ぐに、そこから真実を見出すことは、しばしば困難であり、美しいものや善いものばかり見て真実を得ようとするなら、ひとつ間違えば、美しく装うことだけを身につけることになりかねない。
 
醜いものや悪いものから目を逸らさないことが重要である。何故なら、それらを見るとき、怒ったり嘆いたりしている人は、そのとき、必ず、心の中で、その対極に、美しいものや善いものを見ているからだ。

 
 
(2019年02月24日アップ、同日一部修正)
 
 
 
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  しるしを求める邪悪で不義
 
   しるしを求める邪悪で不義な時代
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28902644.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
今回の記事、シャロームが書いたのかどうかは知りませんが、シャロームが載せたのだから、シャロームの説教として見てゆきます。
 

イエスは次のように言っておられます。
パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、
 天からのしるしを見せてもらいたいと言った。
イエスは彼らに言われた、
「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、
また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。
あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、
時のしるしを見分けることができないのか。
 邪悪で不義な時代は、しるしを求める。
しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。
そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。
(新約・マタイによる福音書16章1~4節)

 
物や肉体の奇跡ばかりを求める信仰はこういうことなのでしょう。
 
ここで、シャロームは、引用だけのようです。言い放って終わり、というのが、シャロームの特徴です。聖書に書いてある、と引用して終わりのようです。耳あるものは聞け、とでも言うのでしょうか。私は、シャロームに、口あるならば説け、と言いたい。
 

パリサイ人とは神の律法を人々に教え導く人です。
サドカイ人とは神への礼拝を司る人です。

 
こういう言い方は、誤解を招きやすいと気づかないのでしょうか。
上の2つの文には、「べき」が付くのです。
実際には、
パリサイ人とは神の律法を人々に正しく教え導きませんでした。
サドカイ人とは神への礼拝を正しく司りませんでした。
律法の言葉を語り儀式を守ることで正しいと思い上がり、
慈愛の心がなかったからです。
 

神はイスラエル民族をエジプトの奴隷生活から救い、神の民とされ、
神の民を神の約束の地へとシナイの荒野の道を導かれました。
荒野の道で神の民はエジプトで得た物を使い果たしてしまい、
食べ物、飲み物もなく、神と指導者モーセにつぶやき始めました。
その時、神は水を与え、食べ物を与えられましたが、
神の民は水や食料を与えられた時は神へのつぶやき、不信を悔いましたが、
すぐに飢えと渇きの中で繰り返し神に対するつぶやきを繰り返したのです。
神はそのような状況の中で神の民に律法を与えられたのです。
律法は神の民が守るべき、生活律法と礼拝律法でした。
生活律法には神の民との生き方と罪を犯した時、裁きとささげるべき
贖罪の生贄について記され、礼拝律法には贖罪の生贄のささげ方と
神にささげる祭司の務めが書き記されていました。
神の民は常に神に対するつぶやきと不信という罪を繰り返す中で、
罪の告白と罪の代価として支払う贖罪の犠牲をささげなければならなかったのです。
祭司は神と民の間に立ち、贖罪の務めをしなければならなかったのです。

 
今度は、出エジプトからの旧約聖書の話を、ひとまとめにしています。
いかに、イスラエルの民が駄目だったか、というボロクソ話になっていますが、
これは、私たちの話でもあるのです。シャロームに欠けている視点です。
シャロームは、いつも悪を、他人事として書いてきました。
シャロームの、不信という罪と隠蔽と嘘という偽善は、今に至っても、
このような、他者への、つぶやきとして表れ、ボロクソ節にしかならないのです。
 

そういうわけでパリサイ人とサドカイ人は
神と人々の間に立ち、神の民の歩みが常に神との正しい関係の中を
歩むために大切な勤めをしていたのです。

 
大切な務めを、していたのではなく、するべきであったが、出来ていなかったのです。
 
シャロームは、現代のパリサイ人のような人ですから、
昔のパリサイ人の味方をしているのでしょうか。
 

しかし、神の民が繰り返し罪を犯し、繰り返し罪のあがないの犠牲をささげても
神の民の罪は繰り返され、決して人の罪の問題の解決にはならず、
また神と人との関係も正すことはできなかったのです。
ついに神の律法はユダヤ教という宗教になり、形骸化してしまったのです。
神はそのことによっていかなる宗教も人の罪の解決をもたらすことができないこと、
罪によって断絶した神と人との関係が正されることがないことを示されたのです。
それでは神が神の民に与えられた律法は
無意味なものでしかなかったのかというとそうではありません。
神の律法は神のみ前における人の罪をあらわにし、その罪が人を罪の奴隷とし、
罪の結果が人のすべての苦しみと死の原因であることを告げているのです。

 
罪そのものよりも、シャロームに、まさにぴったり当てはまることとして、
罪の自覚がなかったことでしょう。正直さが、まるで無いのです。
ボロクソ節で、話は、人の死に関わるところまで言っています。
自分を自分ですっかり悪の圏外に置いて。
 

さらに神は律法によって人の罪は血(命)によって贖われなければならないと
告げておられるのです。
罪を贖うための犠牲の生贄は傷のない動物でなければなりません。
それは罪を贖う命は罪のない完全な命でなければならないことを示しています。
人は自らの罪を贖うために、罪深い自分の命によって贖うことはできず、
いかなる犠牲や供え物をささげる宗教的儀式によって贖うことはできないのです。
罪の支払う報酬はただ“死”あるのみなのです。
(新約・ローマ人への手紙6章23節)

 
 (ローマ人への手紙、口語訳)6:23
罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。
 (ローマ6:23、新約聖書)
 
自分の罪を贖うのに、自分の死をもってすることは、死んでしまうのだから出来ないわけです。
また、罪人の命は完全な命ではありません。傷のない動物と言っていますが、これは、儀式的な考えです。教理として、キリストの命による贖いとなりますが、このような聖書語的な表し方を、私は好みません。心がどこかへ行ってしまいそうです。そういう心無い人が書いているからでしょうか。
 

神の民に与えられた神の律法は人自らのわざによっては決して為し得ない
神による完全な罪のあがないによる罪の赦しを指し示しているのです。
それがイエスという罪なき神の御子による十字架の死による贖いなのです。

 
心のないシャロームは、このような書き方が好きなようです。そういう書き方しか出来ないのでしょう。それゆえ、シャロームの語ることにも、心がありません。
 
そして、シャロームは、贖いが既に完成したかのように、罪を認めず、悔い改めをしないのです。これは、キリスト信仰ではありません。おのれ自身を見てみれば、救いが完了しているとは決して思えないからです。内省と反省をしないと、シャロームのようになってしまいます。
 

イエスは神の律法による罪の贖いの約束を成就するために来られたのです。
ところが神の律法のプロであるパリサイ人とサドカイ人は、
イエスを受け容れようとせず、イエスに神から遣わされた
天からの、超自然的なしるし、証拠を要求したのです。
パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、
天からのしるしを見せてもらいたいと言ったという意味なのです。
その要求にイエスは答えられした。
邪悪で不義な時代は、しるしを求めると。
それは自分の善悪の基準に合致する正当性、納得を求めることを示しています。
それがアダムとエバが善悪を知る木の実を食べたことから始まった
人間の罪の本質なのです。

 
奇跡を求めるのが、罪の本質だと言っていますが、シャロームは、自分の善悪の基準に合致する正当性、納得だけを求めて、病気が治ったような奇跡の話をして、いつも、どんでん返しの奇跡で救われると言っていたのです。つまり、それが、シャロームの罪の本質ということになります。
 

この世のことについては“時のしるし”を理解できても、
イエスを“神の時が満ちて”神が律法の成就をするために、
神が遣われた“時のしるし”として遣わされたことを罪のよる無知のために
イエスが誰であるかを知ることも、受け容れることも出来ないと言われたのです。
イエスはパリサイ人もサドカイ人も精通している聖書の言葉を示しされたのです。
神は来たるべきイエスを指し示すためにヨナ書において
“ヨナのしるし”について語っておられたのです。
パリサイ人もサドカイ人も聖書に精通していながら、
聖書読みの聖書知らずに陥っていたため、
イエスに天からのしるしを要求したのです。

 
パリサイ人もサドカイ人も聖書に精通しているつもりでいたが、分かっていなかったということです。また、癖のように、シャロームは、いい加減な書き方をしています。
 
>そのことがイエスを十字架につけて死に至らしめたのですが、
 
おかしいですね。
人々が奇跡を求めたから、キリストが十字架に死んだわけではないです。
 
イエス様は、イエスがキリストであることを
都合が悪いことと思っている旧勢力に殺されたのでしょう。
 

ところが罪なき神の御子イエスの命が全ての人の罪を贖い、
赦しを与える神による贖罪、救いの道だったのです。
神が神の民に与えられた律法を人は虚しい戒め、宗教儀式としてしまい、
かえってイエスを拒絶し、神を汚すものとして十字架につけるのですが、
神はそのイエスの死によって約束された救いを成就されたのです。

 
キリストの犠牲によって神が成就した救いの道を、
シャロームは、真っ向から裏切り続けています。
 

イエスは言われました。
「 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。
廃するためではなく、成就するためにきたのである。
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、
律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
 ・・・・・(省略)・・・・
わたしは言っておく。
あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、
決して天国に、はいることはできない。
(新約・マタイによる福音書5しょう17,18節、20節)

 
シャロームは、18節、20節を引用していません。
 
 (ガラテヤ人への手紙、口語訳)
3:17
わたしの言う意味は、こうである。神によってあらかじめ立てられた契約が、四百三十年の後にできた律法によって破棄されて、その約束がむなしくなるようなことはない。
3:18
もし相続が、律法に基いてなされるとすれば、もはや約束に基いたものではない。ところが事実、神は約束によって、相続の恵みをアブラハムに賜わったのである。
3:19
それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。
3:20
仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない。しかし、神はひとりである。
3:21
では、律法は神の約束と相いれないものか。断じてそうではない。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現されたであろう。
3:22
しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。
 (ガラテヤ3:17-22、新約聖書)
 
律法を克服するための、より大きな救いが、キリストによってもたらされたことを、パウロは言っているようです。私は、神の計画については、救いということ以外、よく知りません。
 
しかしながら、救いの歴史と必然において、聖書が、新約だけでなく、旧約も含めて、聖書であることを示しているようです。
 

律法によっては、  神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、
明らかである。  なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。
(新約・ガラテヤ書3章11節)

 
シャロームは、自分が、信仰による義人だとでも言いたいのでしょうか。今に至るまで、ずっと、罪を認めず、悔い改めをせず、悔い改めは神が与える(だから今はしない)、と言い続けるシャロームの、どこが信仰で、どこが義人なのでしょう。聖書のどこにも、そのような者が、義とも、信仰とも、書いてないと思います。
 
シャロームの話は、
彼の信仰と矛盾しており、
教理の話としては、筋が通っておらず、
信仰の話としては、血も涙もありません。
 
シャロームは、やたら讃美して、ひとりで納得し、ひとりで喜んでいるようです。悪い政治家のお祭り騒ぎと同質のものを感じます。
 
シャロームの話に付き合ってはいけません。世辞の丁寧語と、言葉だけの聖書語によって、シャロームは、処世をしてきたのであって、信仰を伝えてきたのではありません。
 
 
(2019年02月24日アップ、同日一部修正)
(2019年04月05日、一部修正)
 
65歳になりました。
 
 
 
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  目を背けるところ
 
   安息日は心の財布の点検デー
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28895223.html
    2019/2/15(金)午後 5:47  by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームは、手口として、誰かの記事を引用した記事と、別のサイトに書いたコメントを記事にしたものを、書きます。そうすることで、自分がキリスト者としての節操を失っていることを、嘘の讃美に置き換えて、ごまかそうとするのです。
 

+++++++++
★今日のみ言葉★(2016,2,10)
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「目を向けるところ」

 
シャロームは、目を背ける人です。
 

自分の心の目が、いつもどこを見ているか、そのことを意識したことがありますか。
自分は何に目を奪われているのか。
何に心を奪われやすいのか。
そういうことを思ったことがありますか。

 
シャロームは、罪を認めず、悔い改めもせず、平気で嘘を吐き、相変わらず不都合なコメントを記事に載せず、自らの瑕疵を総て隠蔽して、一方で、神を讃美しまくる、という、自分から、そして、誰よりも、神から、目を背ける行為を続けています。
 

詩篇25:15~17
わたしはいつも主に目を注いでいます。
わたしの足を網から引き出してくださる方に。
御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。
悩む心を解き放ち、痛みからわたしを引き出してください。(新共同訳)

 
シャロームは、悲哀の共感が出来ません。罪悪感に悩むことが嫌いです。罪を責められることが嫌いです。それをしなくて済むように、罪を悔い改めるのではなく、悩むのでもなく、痛みを感じるのでもなく、シャロームが何もしなくても、総てを、神が善しとしてくれるという責任放棄の妄想信条を持っていて、私が批判してきた7年の間に、その背きの発言が蓄積されています。そのシャロームが書いた元記事さえも、批判されて都合が悪くなると反省する代わりに削除して、証拠隠滅を図ってきたのです。
 
シャロームは、主から目を背けています。いや、一度も、主に目を注いだことはないのではないかと思います。罪を認めないことから明らかです。にもかかわらず、悔い改めるのではなく、全てを無視する不感不応の精神によって、何事も無かったかのように、平気で、神に救いを求める、という聖句を引用してきます。
 

いつも主に目を注いでいる人が、足を網に捕らえられています。
行きたいところに行けないのです。
行動の自由が奪われています。
貧しく、さびしく孤独な思いをしています。
心に悩みがあり、痛みもあります。
主から目を離して、主を無視しているから、こんな経験をするのだと思ってはいません。
主を信じる者も、この世にあって悩みがあります。
しかし、そこから引き出し、そこから解き放ってくださる主がおられます。
だから、いつも、その都度、どうするのでしょうか。

 
シャロームは、悩むべき時に悩まず、あらゆる痛みを回避するために手段を選びません。不可避の悩みも、忘れてしまう体質なのか、無かったことにしてしまう習性なのか、いっさい罪を感じないようです。だから、罪を犯したと悩むことも悔い改めることもないのでしょう。信仰によって解き放たれるのではなく、自分に閉じこもって不都合なことを聞かないで無視することを選び、神から信仰から目を背けることによって気にしないのす。
 

 
誰でも悔い改めるべき罪を犯しています。罪はないとか、悔い改めなくていい、という人は、一人もいません。言い換えるなら、人は、みな罪人です。
 
悔い改めの祈りによって、それを正直に告白する機会を与えてくださるのは、神であり、それをさせるのは、キリストの愛であり、キリストへの愛であります。精いっぱいの正直な告白でよいのです。自己正当化のために故意に隠したりしなければよいのです。
 
根掘り葉掘り、これも罪、あれも罪と、詳しく言う必要はないのです。何故なら、全知全能の神を信じているのだから、神は、告白する前に、全てをご存知だと考えるべきだからです。神は、人間が、自分の意志で、正直に告白してくるのを待っておられるのです。
 
このように秘密をもって飾らなくていい大いなる寛容な神という相手を知ることが、奇跡で守られるという人間離れした心ない思い込みや信じ込みの宗教とは違って、他者からの自由と、絶対孤独からの解放、という、生きる上での易しくない課題を両立させるところの、キリスト信仰の大きな恵みであります。

 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
2:2
わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。
2:3
ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。
2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
 (ローマ2:2-4、新約聖書)
 
神は、慈愛と忍耐と寛容とをもって、信仰者を悔い改めに導きます。それでも、悔い改めないということは、その者が、いかに神を讃美しようとも、その者は神の導きを受け取っていない、ということを自分で証明することにしかならないのです。
 

 

十字架の道を歩まれたこの方に心の目を注ぐのです。
自己主張、人を赦せない、そういう自分に死ぬ十字架の道に身をおく者は
復活のいのちを生きる者となります。

 
シャロームは、目を背けているのです。いや、最初から、利用するだけで、信じてなどいないのでしょう。十字架の道に身を置くなど、とんでもなく、復活の命をあざける者となっています。
 
>《shalomのコメント》
 

“あなたの宝のある所には、心もあるからである。”(新約・マタイ6:21)
イエスさまの言葉です。

 
シャロームに騙されないようにしましょう。聖句の一部を持ってきて、自分の心にあるものは正しい宝だと、ほのめかしたいようです。同書同章聖句は、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
6:19
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
6:20
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
6:21-22
あなたの宝のある所には、心もあるからである。目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。
 (マタイ6:19-22、新約聖書)
 
地上の宝を戒めている文脈です。目が澄んでいることが大事だという教えです。
シャロームは、目が濁っていて、虫が食い、錆びて、盗みを働くような眼差しで、恣意的に、自分に都合の良い聖句だけを引用しているのです。、
 

宝なんてないと思っていても、私たちの心は知っているようです。
私たちがいつも心をとめているところに宝があるというのです。
それが私たちの心を豊かにするものだといいですね。
でも、ひょっとしたら、思い出したくもないことかもしれません。

 
実際、シャロームは、批判されてきた7年間に露呈してきた、嘘と、罪と、偽善を、いっさい、気にしていないから、何とも思っていないから、この記事のような、白々しいことが書けるのです。忘れる習慣なのか、無かったことだと見なす信念なのか、いずれにしても、キリスト者とは、正反対の習性を養ってきているようです。
 
4行目は、「(笑い)」が入っているのと同じ、ふざけた言い方で、こういう癖がシャロームにはあります。シャロームは、ふざけてよい状況ではないことを、全く自覚していません。
 
ただ御一方、神の前で、故意に嘘を吐かないことが、救いのための唯一の必要十分条件です。
 
神の前で、恥ずかしい祈りは出来ませんよ、とか思って、神の前で飾ったりしても、いくら讃美言葉を並べても、神の前での、精いっぱいの正直な告白の出来ない者は、キリスト者ではないのです。神の前に体裁を繕うことで、神を騙せると思っているからです。
 
シャロームは、悔い改めをしていないことを指摘されると、悔い改める、または、悔い改めていると言う代わりに、悔い改めは神が与えるから人から強いられることはないと言い逃れをします。強いてはいません。救われる救われないはシャロームの自由だが、悔い改めなければ救われることはないと言っているのです。
 
他の信仰者や求道者に、そのような信仰を吹聴するのは悪質な迷惑行為です。つまり、自己正当化を企み、嘲笑いながら、福音伝道などと言っているシャロームは、キリスト信仰を侮っているとしか思えません。
 
>私たちの心をしっかりとらえているものが私たちの神様と言えるかもしれません。
 
神に心を捕らえられられているなら、罪の告白と悔い改めの祈りをするはずです。シャロームは、する必要がないと言って、その発言を訂正していない。また最近では、悔い改めは、神が与えると言って、信仰者なら自分で悔い改めをするべきところを、必要ないかのように、詭弁で言い逃れようとしたのです。
 
シャロームの心を捕らえているのは、訂正不能の自己中心の自己顕示欲です。神に捉えられた人からは敬虔が表れますが、シャロームの丁寧語と聖書語は、上滑りで心無く、その奥の殺伐とした精神を隠すためなのです。
 

今日は15日、イオンのATSの前にたくさんの人が並んでいました。
私たちは財布のなかのお金にはいつも心を配りますが、
私たちの心という財布に入っているものにはあまり心を配らないようです。
財布にはたくさんクレジット・カードとポイントカードでいっぱい・・・
でも心のなかはすきま風が吹き、底は破れているみたい・・・
消費税も上がるとか、何とかショックを和らげるためにあの手この手が…
時には、立ち止まって、自分の心の財布を点検してみてもいいのかもですね。
神さまは私たちに安息日を備え、手のわざを止めて、仕事を休んで、
心の安息はどこにあるかを忘れないように招いておられるようです。
安息日として、日曜日に教会に行くのはそのためではないでしょうか。

 
シャロームは、こんな日常の談話を挟んで言えるような信仰生活ではありません。作った芝居の世間話に話を逸らして、自分の罪と偽善から目を背け、また、ごまかそうとしています。今のシャロームのまま、何万回、教会に行ったとしても、シャロームが丁寧語と聖書語とで話をしたがる分、福音伝道において、有害であります。
 
どうか「ですね」や「ではないでしょうか」に騙されて頷くことのないようにしてください。批判的な目を持たずに、シャロームと関わるのだけは止めてください。シャロームは、荒らしやカルトよりも、分かりにくく、ごまかされやすい分、より悪質な軟派カルトの偽善者です。
 
 
(2019年02月23日アップ、同日一部修正)
 
瑕疵(かし)
騙す(だます)
頷く(うなずく)
逸らす(そらす)
 
 
 
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