ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年02月

 
  地獄
   ・・今回は想像に過ぎません
 
 
あの世のことは分かりません。
 
天国と言われても
どういう国なのか分からないし
永遠の命と言われても
永遠に生きるということが理解できないのです。
 
地獄はどうでしょう。
いろいろ想像してはみます。
 
炎の中に投げ込まれれば
熱いけれど、すぐ死ぬでしょう。
直ぐ意識がなくなり終わりそうです。
水責めでも、氷攻めでも、
引き裂かれるのでも、潰されるのでも、
結局意識を失えば
後は分からなくなる。
 
死が一度でなかったらと考えてみます。
二度目の死というのではありません。
二度なら
一度の死と
分からなくなる次の死までの違いに過ぎなくなります。
つまり人間に分かることではないのですが。
 
すでに書いたような気もしますが
次のような地獄を想像してみました。
 
昼と夜があります。
つまり一日があります。
気候は温暖です。
そこで永遠に生きるのだと告げられます。
天国とどう違うのでしょう。
 
死んでも復活します。
何度死んでも復活します。
 
復活の国
という皮肉な異名を想像したに過ぎませんが
名前だけだと良さそうな気がします。
そこでは
神は裁かないのか。
悪も偽善も救われるのか。
 
しかし一日のうちに一回
いずれかの時間に必ず死にます。
殺されるか
災難に遭うか
病気で死ぬか
さんざん苦しんだ挙句に死にます。
 
恐怖と苦痛に喘いだのち死にます。
 
しかし、だから、復活の国なのです。
翌朝は、すっきり目覚めます。
最初は神に感謝するでしょう。
 
しかし翌日も
経過は様々ながらやはり死ぬのです。
そして次の日の朝また復活するのです。
 
そういう日が、永遠に続くのです。
 
これが、この世の今の感覚と思考で、
あの世で最もつらいのは?と考えて、
私が想像してみるところの
最も苦痛に満ちた地獄です。
 
最初は復活したと感謝し讃美するが、
一週間から一か月のうちには
終わらせてくれと叫び出すでしょう。
終わらない、無限に復活する国。
これが地獄だったらどうでしょう。
 
一年も経つころには
頭も心もおかしくなって
感じることはどうでしょう。
考えることはどうでしょう。
もはや表情のない土塊のようなものになって、
まともな人間の神経ではいられないと思います。
意識がどう変容するか予測も出来ません。
 
永遠とか
永久に繰り返すとかは
人間の地上の感覚から言うと
苦痛が最大限まで行く世界を考えれば
想像を絶するものがあります。
 
それで地上にいても私は
不老長寿は願うけれど
不老不死は御免こうむりたいと思っています。
 
 
別に脅すわけではなく
あくまで想像~空想の遊びのようなものですが、
自分で思い描いてみて
そういう国にだけは行きたくないと思ったことでした。
 
 
※ 以下、追加で、ちょっと書くつもりが、少し長くなりました。
 
神を思わないで、白々しい信仰の嘘を吐き続ける者(シャローム)は、
そして、キリスト信仰を知りもしないで、小理屈を捏ねる者(楽山)は、
こういうことは、想像することさえしないのでしょうか。
 
誠意とか正直とか言われる捧げものを神に捧げる信仰を考えるときに、もしあったらと、地獄を一度も気にしたことのない者たちは、恐らく天国も想わないで、人間の知情意を捨てて慢心し、マッチ棒のような小理屈を縦に横に並べてクイズと謎を作っては、ああでもない、こうでもないと、遊んで、笑って、信仰を侮り、蔑み、侮辱して、悔いることなく、改めることなく、自慢げに、砕かれた魂を、さらに潰そうと画策するのです。
 
信仰の「し」の字も弁えないで、保身のために言葉のゴミ箱を漁るしかないシャロームを、赦しが先と言って正当化して弁護する者がいます。
 
赦しが先というのは、人間同士の言葉と付き合いの綾(あや)というもので、ここで先に赦してあげたら・・(何らかの、より幸いな気づきを期待できる)、というような、赦す相手が罪悪感を感じ得る人物であるゆえに、先読みが可能な個別の特殊なケースであり、神と人の関係に、個別を当てはめて、赦しが先を肯定し、悔い改めない者を正当化できるような代物ではありません。
 
神について、もし、赦しが先という表現が成り立つとすれば、それは、総てをご存知の神が、赦したのではなく、全知全能の神として、人が罪を犯すことを既にご存知であり、人の悔い改めよりも先に寛容な赦しの御心を持って、悔い改めを待っておられる、という意味でしか考えられません。決して、神が、前もって罪を許可して、好きなようにしてよい、ということはないのです。
 
一般的な説諭として考えれば、罪を認めてもいない者を、先行して赦したからといって、シャロームのように罪悪感をいだけず、罪を認めていない者は、罪の自覚がない者として振る舞うのだから、何の幸いも期待できないのです。そんなことも考えずに、シャロームの味方をする者がいます。甚だ迷惑です。
 
言葉尻を見て、赦しが先だと書いてあるからぁ・・みたいな印象の、とぼけた無思考の、どこかから引用した無責任な言い分は成り立ちません。考えれば分かることです。人間の心の中身を常識的良心において吟味できない人の浅はかさに過ぎません。都合の悪いことは気にしないのだという処世信仰?で、自分を甘やかした結果でしょう。
 
そういう心無い意地の悪さだけで、言論の質量を持たない発言は、偽善者シャロームの自己満悦の怠慢と慢心を促進するだけであり、不都合を無視する安楽の道であり、信仰の与える平安とは逆行するものであり、口だけ、小うるさい親戚のおばさんが、たいした理由もなく、しゃしゃり出てきて、聞いて考えることせず、言いたいことだけ言うのに似て、妙な仲間意識で味方して、余計なことを言っているだけで、何の助けにもならず、ただただキリスト信仰と真実追求に対する妨害行為です。実際、理解は何も生まれず、シャロームの、わざとらしい感謝芝居と憎々しい笑いを生んだだけなのです。
 
特に、シャロームの場合、罪を認めてもいない彼は、これでいいんだと思い上がって、ますます隠し事を続けるだろう。そして、これからも、悔い改めを、神が与えるものと、問われるたびに言いながら、一生涯、しないままになるだろう。そのための詭弁をシャロームは弄しているのに、一般的な理路において、それを予測できず、見抜けないなら、何も語るべきではないのです。
 
いかなる説諭にも批判にも、理解不能と共感不能であるために不感不応で、訂正不能の詭弁と嘲笑いだけのシャロームに必要なのは、賛同でも弁護でも支持でもなく、もはや一言も言えないほどの、どん底で、期待薄で、可能性は極めて低いが、どんでん返しの悔い改めをすることしかないのです。
 
反省もしない不平不満の小理屈専門軟派カルト楽山は、真実の追求に真摯でもなく謙虚な態度も持ちえず、人間の良心に基づいて是非や可否を判断することも出来ず、状況も文脈も把握できないために、ことの大小も遠近も、正当な理路と視野によって追うことが出来ないから、悪口にはちょうどよいところの、言い放って終わりという利便性によって、ツイッターで愚痴を言うことになるのでしょう。こういう者こそ、柔和を装い、当てつけのようなことしか出来ないが、内側は、不快を最も嫌い、修正する意志のない、学習不能の善魔と言うべきでしょう。
https://twitter.com/jiyuu2018?cn=ZmxleGlibGVfcmVjc18y&refsrc=email
(1月29~30日のツイッター画像の遠藤周作の文章は以下。)
自分の考えだけが何時も正しいと信じている者、自分の思想や行動が決して間違っていないと信じている者、そしてそのために周りへの影響や迷惑に気づかぬ者、そのために他人を不幸にしているのに一向に無頓着な者―――それを善魔という
遠藤周作
 
私は、ずっと以前から、人間にとって最も大切なことは、学習可能で修正可能であることだということを言ってきたからであります。私が、何らかの感動と衝撃をもって受け取れる言説に対しては、いつでも、自説を改めるつもりです。
 
しかしながら、それゆえに、気安く拾ってきた言葉遊びのような実のない屁理屈や詭弁に対しては、怒りを禁じ得ません。それを善と信じているのは誰でしょう。理路を正そうとせず悪口ばかり書いて、有名人の名を味方とばかり、水戸黄門の印籠のように引用しているのは誰でしょう。
 
楽山は、アドラー教によって、不都合な刺激をブロックして感じない心得のために、何も分からずに軽口をたたき、その延長で侮辱的引用をしているのです。上のリンクのツイッターの遠藤周作の書字の画像引用は、まさに、被害者意識だけの楽山が喜ぶものだろう、しかしながら、楽山の自由と中立の自惚れに最も当てはまるものであり、楽山の見かけの柔和や中庸に騙されてはいけないのです。楽山は、楽をしているだけなのです。だったら、黙っておれ、ということです。
 
今回のことは、私の、人を見る眼の、失敗の履歴になります。私のような無名の人間の書いたことは、いずれ、露のように消え去ってなくなります。同様に、シャロームや楽山の書いてきた害毒の内容も総て消え去って、後の影響がないことを祈り願っています。
 
名のある人の言った格言だからといって、また聖句だからといって、それを文字通りに鵜呑みにしてはいけません。個別の特殊な場合である可能性や、表現を強調するために誇張されている場合もあるでしょう。自分の理路が拙劣なのに、そこを反省しない人ほど、自分で考えない分、思い上がれば分かっているかのように、偉人や本の名前や聖句や格言をあげる傾向があります。
 
また、無名の人の発言だからといって、軽視してはいけないのは、ときに、驚くべき信仰を見せてくれることがあるからで、それは、まさに、聖書にも表されているのです。パンくずの奇跡(マタイ15:21-28)の話などが、それに当たります。
 
 
(2019年02月22日アップ、同日一部修正)
 
侮る(あなどる)
蔑む(さげすむ)
 
 
 
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  誰の顔
 
   わたしは御顔を尋ね求めます
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28900466.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
今回のシャロームは、誰の顔でしょう。本当にシャロームが書いたのでしょうか。
shalomのコメントは、本当にシャロームのコメントでしょうか。
シャロームは、主に顔向けができるのでしょうか。
不正直な者は、誰にも顔向けは出来ないのではないでしょうか。
だから、嘘の顔を向けているのではないでしょうか。嘘を吐くのと同じように。
 

+++++++++
★今日のみ言葉★(2016.2.14)
+++++++++
「わたしの顔」
< 
 
>わたしは毎朝、鏡で自分の顔を見ています。
>ここには書けませんが、いろいろ思うことがあります。
 

人の顔を気にすることがありますか。
気にすることはないと言い切る人は少ないでしょう。
人がどう思っているのかが気になる時があります。
しかし、それがよい方向に向けられると、人に対する配慮となり、おもてなしとなります。
日本人にはその傾向が強いようです。

 
シャロームは、平気で嘘を吐きます。だから、白々しい顔だと思います。
 
>普通、人に電話をする時は、相手の顔は見えませんが、
>話している時、無意識に相手の顔を思い浮かべながら話していませんか。
 
嘘吐きとやり取りをしていると、白々しさが表れることがあるからです。
 

詩篇27:8
心よ、主はお前に言われる、「わたしの顔を尋ね求めよ」と。
主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。(新共同訳)

 
御顔を尋ね求めず、御心を裏切り続けている者がいます。
 

人の顔ではなく、主の御顔を気にすることがありますか。
ここでは気にする以上に、積極的にその御顔を尋ね求めよ、と言われています。
なぜ、主の御顔を尋ね求めるのでしょうか。
それは何か特別なこと、神秘的なことなのでしょうか。

 
シャロームには、主の御顔は、いつも、へらへら笑っているのでしょうか。
シャロームの「(笑い)」のように。
 

主の御顔を尋ね求める人は、
その主が自分のことをどのように見ておられるかに気づくことがあります。
主は今のあなたのことをどのように見ておられると思いますか。

 
主の前に偽るものを、主は、どのように見ておられるのでしょう。
 

イエスをひと目見たいと思って、いちじく桑の木に登っていた、
あのザアカイをイエスはどんな顔で見ておられたのでしょうか。
それは周りにいる他の人たちが彼を見る目とどう違ったのでしょうか。
それはザアカイ本人が自分を見ている目と同じだったでしょうか。

 
シャロームは、主の御顔ではなく、彼の妄想上の、自分の都合に合わせて、自分に優しい、異種の御顔を信じているのでしょうか。今になっても、白々しい記事を書いてくるのは。
 

この時のそのイエスの顔の表情には、
他の人がザアカイを見ているような否定的な責めや裁きではなく
その人が変えられ成長することを願う愛の思い、
真実の思いが表れていたのではないかと想像します。

 
シャロームは、主の、いつも自分に優しい顔を捏造して信じているのでしょうか。
それは、シャローム自身の顔であって、主の顔ではありませんが。
 

主は今日も「わたしの顔を尋ね求めよ」と言っておられます。
主はどのような思いであなたを見ておられるのか、想像できますか。
それはどういう顔でしょうか。
怖い顔ですか。
困ったような顔でしょうか。
顔をそむけておられるでしょうか。
それはその人その人が主イエスのことを
どういう方だと思っているのかに関係しています。
どう思いますか。

 
無反省なシャロームは、どう思うのでしょうか。下のほうに表れています。
 

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
だからわたしは人をあなたの代わりにし、
国民をあなたのいのちの代わりにするのだ」(イザヤ43:4新改訳)

 
 (イザヤ書、口語訳)
43:22ところがヤコブよ、あなたはわたしを呼ばなかった。
イスラエルよ、あなたはわたしをうとんじた。
 (イザヤ43:22、旧約聖書)
 
都合の良いことばかり書いてくるシャロームには、
聖書が戒めと懲らしめを用意しています。
 
>《shalomのコメント》
 

赤ちゃんを抱いたり、あやしたりすると
赤ちゃんの体温が抱いているこちらにも伝わります。
赤ちゃんの顔を見て笑うと赤ちゃんも微笑みます。
抱いたりあやしたりするこちらも
抱かれて、あやされる赤ちゃんの心もからだも
ほっかほっかしてうれしくなります。

 
主の顔の話と思いましたが、赤ちゃんになぞらえるのでしょうか。
 

だれでもそんな風に抱かれあやされて育てられると
きっと人の心は安らぎとあたたかさで いっぱいとなり、
きっとこの社会も世界も安らぎとあたたかくなると思います。

 
このように、シャロームは、あやされていたいのでしょう。責められることが一番嫌いなのです。それを逃れるために、たくさんの嘘を吐き、たくさんの偽りごとを働いてきました。そうして、事態を、一層悪くしてきたのです。
 

でも現実の生活や世界は安らぎもあたたかさも失われているようです。
ものは豊かになり、生活は便利になりましたが
人の心は不安と恐れでイライラしているようです。

 
また、シャロームは、他者のことだけボロクソに言っています。
不安と恐れでイライラしているからでしょうか。
 

先日郵便物が届きました。
指定された受取人の写真付きの証明書がなければ
だれも郵便物を受け取ることが出来ません。
留守でしたから、電話してまた来てもらいました。
免許証をもって、免許証番号を記録して受け取ることができました。
むかしは隣の人に預けることもできましたのに。

 
「できましたのに」という筆致は、シャロームらしくありませんが。
 

聞くと空き家や集合住宅を受取人住所にして、
指定された配達時間にその住所に来て、待ち、
配送品を受け取る人もいるということでした。
忙しいのに二度手間をかけてすみませんというと、
便利な電子機器を操作しながら、だんだん人が信頼できなくなり、
仕事が増えてかないませんと言われました。

 
人を信頼しないのは、シャロームの特徴です。
だから、自分の利益と慢心のためだけに、依怙贔屓を求めるのです。
 

昔はコンピューターができれば
コンピュートピアという夢のような便利で快適な
豊かな未来世界が実現すると言われていたことを思い出します。
人の頭と手によって造られた世界の前に、
神さまがこの世界をつくられ、人をつくられた時、
すべてはよかったといわれたと聖書には書かれています。
その時、神と人とはともに歩き、
人と人とは裸であったけれども互いに
恥ずかしいとは思わなかった書いてあります。
神と人と、人とが互いに見つめ合い、
互いに信頼しあい、恐れも不安もなく
生きていた、それがエデンの園の光景でした。

 
「でした」という過去形は、今はそうではないという意味でしょう。
シャロームの世界は、すべてよろしくなく、
シャロームは、神を離れて独り偽善の道を歩き、
自分では気づかないが、しばしば恥ずかしい裸を曝す王様?となり、
気持ち悪くて、見つめ合う者もいなくなり、信頼し合うことなく、
依怙贔屓してくれる物わかりの悪いソウルメイトにしがみつきながら、
恐れと不安に、怒りと笑いだけを向ける、ギゼンの園の光景です。
 

神さまとイエスさまとはいつも一つでした。
ですから、イエスさまは父と私が一つであるように
あなたがたも一つでありなさいといわれました。

 
そう言いながら、シャロームは、その教えを無視したのです。
シャロームは、誰も信頼せず、嘲笑いと憎しみが一つになってしまいました。
わざとらしいへつらいの言葉と、「(笑い)」が一つになって、
浅ましい味方を、楽な山に求めて、褒めまくりながら、
それを、信仰よりは気楽な嘘の山に住んでいるのです。
 
誰も近づいてはいけません。
 

そして、父なる神さまと私たちの交わりを妨げている罪を
取り除くために、私たちの罪の支払う死の代価を
イエスさまはご自分の命をもって支払うために、
十字架の上に命をささげてくださいました。

 
シャロームは、それでも、悔い改めが神からまだ与えられていないからと、
詭弁を弄し、真っ赤な嘘を吐き、物わかりの悪いソウルメイトにしがみついて、
悔い改めをしないでいいのだ!と思い続けてゆくのでしょうか。
 

イエスさまは十字架の上で、祈られました。
父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らはなにをしているのわからずにいるのですからと。
イエスさまの祈りと死によって、父なる神の赦しが与えられています。

 
勘違いしてはいけないこととして、
何も分からなくていいと言っているのではないということです。
何も分からなくても自動的に神が救うということではありません。
 
何も分からないでいる罪を悔い改めることが必要です。
 

イエスさまと父なる神の愛のまなざしが私たちに注がれています。
そのまなざしに気づき、そのまなざしの中に生きる時、
赤ちゃんのように抱かれあやされている自分に気づくことができるのです。

 
今、シャロームに、愛の眼差しを向けているのは、楽山だけでしょう。
曲解と無頓着からの愛をシャロームは美味しそうに食べていることが、記事やコメントに表れています。正直言って、とても気色の悪いことです。
 
そのような身勝手な愛の欲求を、シャロームは、神にさえ向けています。
赤ちゃんのように抱かれあやされている自分しか想定できないのです。
戒め懲らしめる神を信じないで、赤ちゃん扱いしてくる神だけを信じるのは、
とても幼稚な身勝手であり、原始的背教であり、考えないのが信仰だと思うことであり、
罪を認めることなく、反省することなく、悔い改めることのない偽信仰です。
 
信仰という名で、このような有り様になったら、ただただ悍ましいだけです。
 
今回も、結局、自己中心シャロームの被愛妄想ワールドでした。
 
こうなってはいけない、こうなったらおしまい、このようにだけはならないで、という偽善のワールドを、シャロームは、ずっと書いてきたのです。 
 
優しい愛の恵みの神は、
戒める神と懲らしめる神を知り、自らの罪を知り罪を告白し、
悔い改める者に対する主の御顔です。
 
シャロームのように勘違いしてしまう自己中心のところには
詐欺師が詐欺に遭うような欺きの身勝手の報いがあるだけでしょう。
 
老人には、残り時間が少なく、終わりの時が迫りつつあるというのに、いつまで、シャロームは、だらしなく笑いながら、いったい誰の顔を仰いで、自身の醜い有り様を信仰と呼び続けるのでしょう。
 
 
(2019年02月21日アップ、同日一部修正)
 
依怙贔屓(えこひいき)
詐欺(さぎ)
 
 
 
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  自己顕示欲
 
   詭弁の視点《6》に相当します。
  
   仏陀のことは、仏陀でなければ分からない? (『大学・中庸』)
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/40810997.html
   コメント欄より。私のコメント欄は記事専用です。
   
   また、シャロームの
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28899654.html
 
 

(私)
自己顕示欲が動機だということが表れています。
 
(シャローム)
> 楽山 (自由)さん こんばんは
「林道義のホームページ
http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/
プロフィールまで読んでみました。
 私も安保運動で清水谷公園からジュラルミンの盾のなかをデモしたりした年代ですし、また大学紛争で大学が揺れた時代を知っていますから、なんとなくその当時のことを思い出しながら読みました。
 林さんのすごい経歴ですが、この世、社会をよりいものにしたいという理想を掲げて生きて、様々な変遷を経て、マックス・ウェーバーとユングにたどり着かれ、見えない人間の内面性の理解が必要だという所に到達された方だと思い
「人としてなにが原因か問う必要があると思います。何か人が人として生きていくために大切かを問うことなしには問題の解決は難しい」という私なりの考えもあり、共感を感じました。楽山(自由)さんがふと林道義さんを思い出されたことはこれだったのかなと思いましたが、どうでしょうか。
いつも興味ある資料を紹介してくださりありがとうございます。
2019/2/18(月) 午後 10:39 [ shalom ] 返信する
 
(私)
シャロームの書いていることの詭弁を見抜く必要があります。
「私も安保運動で清水谷公園からジュラルミンの盾のなかをデモしたりした年代ですし、また大学紛争で大学が揺れた時代を知っていますから、なんとなくその当時のことを思い出しながら読みました。」
これを「私も・・・デモしたり」と読むと、一見、シャロームが学生運動をしていたかのように思ってしまいます。
しかし、シャロームは、学生運動が出来るほど、理論を組み立てることなど出来ない、ということが、今までの彼の、理路というより、思いついたことを整えないまま排泄しただけの締まりのない文章から明らかです。
(私)
このコメントは、
「私も
(学生たちが)安保運動で清水谷公園からジュラルミンの盾のなかをデモしたりした
年代ですし、
また大学紛争で大学が揺れた時代を
知っていますから」
つまり、シャロームは、学生運動が激しかった時代と同じ年代の人間で、その時代を知っている、というに過ぎません。
ですから、「その当時のことを思い出しながら」というのは、自分の行為を思い出しながら、ではなく、テレビか何かで見たことを思い出しながら、ということでしょう。とても臭い。
(私)
こういう小細工的な詭弁が、シャロームの専門で、得意なのでしょうか。このことは、言葉を操って、騙そうという意図を感じます。目的は、インテリだと気取りたいのだと思います。安っぽい手口です。
(私)
シャロームには、易坊という荒らしの理屈屋の仲間がいます。こういう騙しの詭弁とか、理屈には、彼が関わっている可能性があります。前から言っていますが、なりすましの疑惑もあります。疑いと可能性の段階ですが、疑惑は、ネットでは証明できない疑惑ゆえに、いつまでも残り続けて、何か事があると、また、疑われるのです。気安く、成りすましたりすると、一生消えない疑いを掛けられるということです。
(私)
シャロームは、
「人としてなにが原因か問う必要があると思います。何か人が人として生きていくために大切かを問うことなしには問題の解決は難しい」という私なりの考え、
と書いていますが、「私なりの考え」というほどのオリジナリティは全くなく、当たり前のことです。こういうことを、自分が発見したかのように、大仰に書いてくる実質なき自己顕示が、シャロームの特徴であることを覚えてほしいと思います。
(私)
また、シャロームは、共感を感じました、と書いていますが、
人間なら、いだくはずの共感を、いだけないのがシャロームの、大きな特徴です。共感できる人なら、罪を悔い改めないでいることに罪悪感を感じているはずですが、シャロームは、罪悪感の代わりに、悔い改めは神が与えるものだから(今はしない)、神の赦しが先だ、ということを言い続けるだけなのです。
 
(シャローム)
今日注文していた三冊の本が届きました。ブックオフからの購入ですが、三冊ともとてもきれいな本で喜んでいます。
 省略なしで日本教徒を読むとまたより理解しやすいと思いますので、楽しみです。
また山本七平と小室直樹との対談「日本教の社会学」~戦後日本は民主主義国家にあらず~も楽しみです。
あとは「空気」の研究も期待しています。
ではshalom!
2019/2/18(月) 午後 10:40 [ shalom ] 返信する
 
(私)
このように、シャロームの関心は、いつも外部に、他者に向けられます。自分を内省しない人の特徴でしょう。そのことが、楽山の、嫌なことは無視する、という、安易で安っぽい処世に一致するために、楽山が、キリスト教を知りもしないのに、小理屈をもって大摂理を云々し、部分をもって全体を否定し、蓄積のない不確定をもって人類の是非に関わることを判断する、という、いい加減な詭弁で味方しているのでしょう。一見、柔らかく見えることが、全く安心できることではない、という実例になります。
(私)
シャロームは、楽山ブログでのコメント欄を大きなフォントでコピペして記事にしているようですが、どんなときでも、恣意が働き、自己顕示欲が働き、恣意と欲しか働かせることが出来ないシャロームのことなので、注意したほうがよいと思います。私のコメントも載っていて、私が既に記事にしていることなので、今さら解説する気にはなれません。
 
(楽山)
>shalomさん、こんばんは。
 林道義を思い出したのは、養育、家庭などの話が出てたからです。
 母性、父性についてなど、子育て、家庭教育などの話をたくさん書いてる人なので。
2019/2/19(火) 午後 7:53 [ 楽山 (自由) ] 返信する
山本七平は、この間、ここに貼られてたページと、『日本教の社会学』を読んでみようかと思ってます。これは手元にあるのと、対談本で読みやすそうなので。
2019/2/19(火) 午後 7:54 [ 楽山 (自由) ] 返信する
(シャローム)
> 楽山 (自由)さん
林さんの夫婦関係の在り方など、まあの時代には到底理解されたり、受け容れられることのない生き方ですね。こういう人間理解が林さんのなかにあったからこそ、社会主義は正しい、資本主義はまちがっているという考えが運動にかかわっていく中で覆され、この世界を、より良いものにしたいという理想のためにはもっと人間を理解する必要があるということで、ユングやウェーバーにたどり着いたということができると思ました。
2019/2/19(火) 午後 8:46 [ shalom ] 返信する
 
(私)
シャロームは、このような社交と世辞の相互受け入れの遣り取りが、インテリとして認められた感じがして、また、今までの愚かな振る舞いを忘れたいシャロームには都合が良いので、たまらなく好きなのでしょう。評論家気取りで、夫婦関係を批判したり、ユングやウェーバーという学者の名をあげる必要はないところで、分かってるふうに、同格のように、人名をあげています。実際には、シャロームの言は、学者どころか、普通の人の書く作文にも達していません。
(私)
シャロームの発言の、あらゆるところに自己顕示欲が表れています。これからも、恐らく、そうでしょう。つまり、シャロームにとって、これは、幼稚な、ごっこ、なのです。
(私)
ネットという匿名の世界で、いかに多くの、荒らし、カルト、偽善者、なりすまし、という者たちが蔓延っているか、ということを考えます。彼らには、自己顕示欲という膨張した自尊はあっても、人間本来の、恥や罪を自覚するための、尊厳というものが、まるで無いのです。だから、平気で嘘を吐き、詭弁の細工を楽しみ、反省をしないのです。
(私)
実りの全く期待できない彼らの遣り取りを、私が書くのは、信仰に反する軟派カルトのモデルだろうと思っていて、その刷り込みの実態を明らかにしたいから、という理由以外にはありません。私は、信仰の真実のみを追求したいので、安い受け入れの世辞を書こうなどとは考えません。
 
 
(2019年02月20日アップ、同日一部修正)
 
刷り込み(すりこみ)
 
 
 
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  聖句に裁かれる
 
   神は心の精錬工
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28898147.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
今まで、数々の背きと偽善を働いてきて、平気で嘘を吐き、楽山のサイトで、管理人とともに中身のないことばかり書いていたシャロームは、なおも、あたかも信仰者であるかのように、信仰の記事に見せかけた記事を書いています。
 
実際は、賛同者には無条件で世辞の賛辞を送り、批判されると弁明も反論も出来ずに、黙り込むしかない人です。弱みを見せることなく、罪を認めることなく、偽って、悔いることなく、反省することなく、改めることのない偽善者です。少なくとも、7年間、変わっていません。
 
>★今日のみ言葉★(2016.2.12)
>「試される」
 
試されるのは、神の民であり、
神の民を装う者は、裁かれる必然しかありません。
 

詩篇26:1、2
主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。
主に信頼して、よろめいたことはありません。
主よ、わたしを調べ、試み、はらわたと心を、火をもって試してください。(新共同訳)

 
聖書には
第26篇 ダビデの歌
と記されているようです。
 
王として、神の試練を受ける覚悟を示しています。
 
 (詩篇、口語訳)
26:3あなたのいつくしみはわたしの目の前にあり、
わたしはあなたのまことによって歩みました。
26:4わたしは偽る人々と共にすわらず、
偽善者と交わらず、
26:5悪を行う者のつどいを憎み、
悪しき者と共にすわることをしません。
 (詩篇26:3-5、旧約聖書)
 
シャロームは、まことによって歩まず、不確かな言葉尻の辻褄合わせと作為で的外れの応答をするような者の仲間となり、すなわち偽善と交わり、悪を行う者の集いを形成し、悪しき者と伴に座って、世辞と賛辞をもって教えを曲げることを止めない者です。
 

すごいことを言っていますね。
こんな祈りが出来ますか。
「わたしを調べ、試してください」と言っています。
「はらわたと心を、火をもって試してください」と言っています。

 
王として、神の試練を受ける覚悟があるのでしょう。
試練から逃げまどい人を巻き添えにするシャロームとは違うようです。
 

無視されやすいもので、何かでテストされ、試されなければ分からないところはどこでしょう。
人の目に隠れているところ、人の心です。
最近、何かのことで、その心が試されたことがありますか。
それによって隠れていたところが見えてきたでしょうか。
いやな思い、辛い思いをしますが、

 
シャロームは、どういうつもりでこの聖句を載せたのか知らないが、実際は、人の目に隠れているところ、人の心につけ込んで、自らを信仰者、さらには聖職者に見せかけ、嘘の教えを吹聴し、隠れていたところを見ようとせず、悔い改めず、それによって、人に嫌な思い、つらい思いをさせるのです。
 
>そのありのままを主の前に持っていく時、その心に変化が起こっていきます。
 
ありのままを主の前に表さないシャロームは、7年間、推測では何十年も、変わることのない偽善者であろうと思われます。
 
>不思議です。
 
平気でいられること、また、平気で記事を書いてくることが、とても不思議です。
 
>【口語訳】旧約・箴言17章3節
>17:3 銀を試みるものはるつぼ、金を試みるものは炉、人の心を試みるものは主である。
 
>【口語訳】旧約・箴言25章4節
>25:4 銀から、かなくそを除け、そうすれば、銀細工人が器を造る材料となる。
 

【口語訳】新約・ヘブル人への手紙12章5~15節
/「わたしの子よ、/主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。
12:6 主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである」。

 
シャロームは、試練から逃げて、銀でもなく、金でもなく、かなくそとなって、信仰者を邪魔しています。鞭うたれることを何よりも嫌い、逃げ回り、笑ってごまかし、悪に与して、信仰者にとって、逆に試練となっている有り様です。
 

12:7 あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。
神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。
いったい、父に訓練されない子があるだろうか。
12:8 だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、
それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。

 
罪を認めず悔い改めないシャロームは、この聖句をどういうつもりで載せているのでしょう。
シャロームは、神の子としても、神の家族としても、神の民としても、取り扱われていないならば、いったい、どういう偽者で、誰の私生児なのでしょう。
 

12:9 その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、
なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。
12:10 肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、
たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。

 
まさか、シャロームは、自分の益のため、自分をきよさに与らせるために、今は試練を与えられると言いたいのでしょうか。それは、神の民に起こることです。シャロームは、神の民であることを、その言動において拒んでいるのです。
 

12:11 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。
しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
12:12 それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。

 
偽善者は、喜ばしくないことを、憎みはしても、悲しむことが出来ないために、平安の義の実を結ぶことがなく、逆に、萎えた手と、弱くなっている膝を、頑丈に見せかけているだけになっているのです。
 

12:13 また、足のなえている者が踏みはずすことなく、
むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。
12:14 すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。
きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。

 
シャロームは、まっすぐな道を知りません。だからつくれません。
賛同者だけに相和し、自らきよくなるように努めず、純粋な信仰を持たない間、主を見ることもないのです。
 

12:15 気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、
あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。

 
なぜ、シャロームは、自身の罪と悔い改めの記事を書かず、あたかも自分が試練を受けているかのように装う記事を書いて、ますます醜い自分を表すのでしょう。
 
シャロームは、なぜ、心に苦い根が生えてくるのにまかせて、信仰者の悩みの種となり、多くの人をけがすことばかり言い、かつ、しているのでしょう。
 
今までもあったことですが、記事を書き、コメントを書くたびに、シャロームは、引用した聖句や、引用した書籍に、斬られてきたのです。今日も、もろに、そうなっています。
 
シャロームは、悔い改めよりも、赦しが先だと言い張っていました。悔いない者が罪を犯し続けるのを、どうして神が赦すというのでしょう。もし、赦しが先だという場合があったとしても、それを受けて、悔い改めないならば、これまた、どうして赦されたというのでしょう。
 
シャロームは、今までも、聖書の都合の良い部分だけを引用して、悔い改めず、罪を犯しても気にしない自分の正当化に利用してきました。今回は、それさえも、的外れになっています。
 
罪人の自覚がなく、悔い改めないために、赦しを拒んでいるシャロームのような者を、さらに、ここで、聖句でごまかそうとする者を、神は、決してお赦しにはならないでしょう。
 
前にも書いたことですが、シャロームを批判するにあたっては、聖句引用と妥当な信仰の記事引用については、シャロームが、いかにそれに反しているかを厳しく書き、シャロームの記事に偽りがあるときには、その偽りを厳しく指摘してゆく、という方針を立てています。
 
(楽山)
たしかに育成環境は大事ですね。
でもその辺りについては、なかなか突っ込んだ議論をしたり、報道をしたりは難しいということもあるようです。へたをすると、特定の家庭に対する差別につながりかねないので…。
2019/2/18(月) 午後 8:13 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
自分の安楽を第一に求める楽山と、理路を組み立てられないシャロームとの間に、率直なやり取りは保身の社交と世辞に阻まれる、ゆえに、突っ込んだ議論など成立しない。
 
 

TVドラマ「クリミナルマインド」の格言(シーズン4 第12話「ソウルメイト」)
http://toikimi.hateblo.jp/entry/2018/07/11/211656
DLifeでの2月18日(月曜)の再放送です。
秘密を守り通せる人間はいない。口を堅く閉じれば、今度は指先がしゃべり出す。全身から真実がにじみ出るのだ。(ジークムント・フロイト )
 
(私、補足)
ここでは、行為そのものよりも性格傾向に注目するべきだと思います。このドラマの中の、知性があり弁護士をしているが、共感性が欠如していて、人を人とも思わない自己中で人間以下という犯人の台詞です。
「いい感じ。自由だ。これでいい。」
しかし、犯罪者であることを知った娘に罵倒されるシーンでの、顔のゆがみ方は、家族に対しては、少しは愛情があるのだろうか、それとも、ただの困惑だろうか。
 
 
(2019年02月19日アップ、同日一部修正)
 
与る(あずかる)、与する(くみする)
 
 
 
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  異次元の闇鍋
 
   詭弁の視点《5》に相当
 
   仏陀のことは、仏陀でなければ分からない? (『大学・中庸』)
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/40810997.html
   コメント欄より。私のコメントは記事用です。
 
 
(私)
自他未文化をネタに、シャロームがスピーチをぶっています。私は動物園に来たつもりで観察しています。
(私)
詭弁の視点(4)で明らかなように、楽山は、私を、定かでない人の意見を持ってきて否定し、証拠不十分として否定しました。一方で、私が投げかけた問いの多くに、全く答えていません。なぜ答えないのでしょう。それは、問いが不快だからです。自分が不快なことは無視しましょう、つまり、反省するくらいなら無視するのだ、という心理学もどきの自己中カルト思想に染まっているからです。
 
(シャローム)
> 楽山 (自由)さん こんにちは
大和七平氏が「自他の区別がないということについて講談社学術文庫の本におもしろいたとえ」を書いておられましたか。
そうでしたか。私が山本七平の著作に初めて出会ったのは「日本人とユダヤ人」で、60年前?の出版された直後、ちょっと読んだぐらいで、よくわからなかった記憶がありますが、
その山本七平がすでに自他未分化について書いておられましたか。私の感じていることに通じてうれしいですね。
2019/2/17(日) 午後 4:16 [ shalom ] 返信する
 
(私)
どう通じているというのでしょう。自他未文化が、言葉だけ、踊っています。実際には、自他未分化のシャロームは、言葉を整頓し、分化させる機能を、全く持ちません。発すればボロクソ節となるのは必定です。
 
(シャローム)
今、幼児虐待の問題が深刻化していますが、日本教についてにも日本教国日本はきびしい差別社会だというようなことが書いてありました。複合的な原因があるとは思いますが、きっと自他未分化もおおきな原因だと思います。自他未分化は個としての「わたし」意識が未成熟で脆弱なために自分を客観視できませんから情緒的に不安定なため、他者をあるがままに認め、受け容れることがむずかしいのは避けがたいことだと思います。自立できていない不安や自信のなさから来る恐れや不信や怒りは自分に向けられ、うつ病になりやすく、自分より弱い者に向きやすいのは避けられないことだと思います。私にも思い当たることは多いです。
2019/2/17(日) 午後 4:16 [ shalom ] 返信する
 
(私)
幼児虐待、日本教、差別社会、複合的な原因、自他未文化、未成熟、自分を客観視できません、情緒的に不安定、自立できてない、不安、自信のなさ、恐れ、不信、怒り、うつ病、弱いものに向きやすい、・・思いつく言葉を書き出して並べ、ご機嫌な自己顕示欲の奔逸する思考の、飾り立てた食えないデコレーションケーキか、何が入っているか分からない闇鍋か、いずれにしても、楽山は責任をもって、これを食わなければなりません。ボロクソ節で腹を満たすことを選んだ楽山とシャロームであります。
(私)
思い当たることは多い、とは、被害でしょうか、加害でしょうか、病魔でしょうか、少なくとも、良識ある人は、この二人には近づかないことです。異次元の病原が移らないように。
(私)
無礼と侮辱と暴虐の作為がもたらす結果を、二人はじっくり味わうことになります。しかし、シャロームは、いかなる味も分かりません。楽山は、作為のない世界を知りません。正々堂々から外れてゆく者たちは、言葉を安易に振り回したゆえに、言葉に振り回されてゆくでしょう。
 
(シャローム)
「だんだんに、相手も自分と同じように感じ、考えるとは限らないという考え方が標準になっていきそうではあります。甘いかな。」
 氾濫する情報に流されずに的確に取捨選択することは容易なことではありません。よほどしっかりした自己確立ができていないと、流れの激しい川を泳いで渡るようで、流されたり、おぼれたりする危険があり、ほんとうに危ういですね。
 
(私)
シャロームは、どうすればよいかを書けないので、容易ではない、危うい、と書いて、それだけで言い得た気分に浸る人です。既に、長い間、溺れていて、危険に気づかないのです。楽山は、振り回したつもりで、今度は、振り回される番になります。シャロームとの、7年間の付き合いは、批判ということを除けば、砂漠か禿げ頭なのです。
 
(シャローム)
「だんだんに、相手も自分と同じように感じ、考えるとは限らないという考え方が標準になっていき」ますので、だれでも孤立しやすく、ストレス社会になり、一方で強権政治がはびこり、社会そのものがカルト化やすくなり、内からも外からも人の心は脅かされるようになっていくのでしょうから、確かに甘いかもしれませんよ。
2019/2/17(日) 午後 4:17 [ shalom ] 返信する
 
(私)
「相手も自分と同じように感じ、考えるとは限らない」とは、当たり前のことなんですが、楽山とシャロームは、これを金科玉条の真理のごとく、繰り返して、自分さえ安楽であればいい、という自己中心の拠り所としていますから崩壊へ向かうでしょう。
(私)
ところが、シャロームは、恍惚状態で、月並みな言葉を持ち上げたら、孤立、脅かされ、強権政治、脅かされ、という、デコレーションで、奇しくも、自らの体質が招く結果を表しているのです。奔逸と滅裂が巡り巡って、逆の理路となり、偶然、的にヒットしています。理路のない強権、孤立する自己満足、社交そのものがカルト化、ということです。
(私)
それで、自分の言ったことに、震え上がればいいのですが、反省機能だけはしっかり欠落している自己満悦組には、それは起こらないでしょう。したがって抑制されることなく、壊れた万華鏡が、ガラス片を、目に返すでしょう。
(私)
そうして、異次元の闇鍋は、得体のしれない物が煮られており、言葉を侮った者たちに、食べ物とは限らない物を、盲目的に食うことを強いてゆきます。
 
(楽山)
幼児虐待については、雄ライオンの子殺しとからめた話がありますね。
 怖ろしい話です。
・連れ子はなぜ虐待されるのか?
https://rikon-isharyou-anshin.com/topics/stepchildren-abuse/
・子殺し
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E6%AE%BA%E3%81%97
2019/2/17(日) 午後 8:34 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(シャローム)
> 楽山 (自由)さん こんばんは
2件とも読みました。人間も動物としての生き物であることは確かです。人間は生まれたら自動的に人間として育つわけではないと言われます。人間ほど一人の人間として生きていけるまで養育期間の長い生き物はいないと思われます。
 
(私)
当たり前のことを豪語するシャローム。
 
(シャローム)
インドで狼に育てられたアマラとカマラの話はよく知られています。人間の子として生まれても、オオカミに育てられると狼のように育つというのです。発見され、人に育てられるようになって、少しづつ人間性を養育され回復したようです。それは人として養育されずオオカミのような人として育った人が親になり、子供を育てると自分が育てられたように育てる可能性があるということですね。
 
(私)
狼少年の話をしていますが、狼のような人として育ったのは、シャロームでしょう。人間的な温もりと潤いがなく、理路がまとまらず、話に深みがなく、それを補うように、月並みなことを大袈裟にありがたがる処世の態度が偽善者を育てたのでしょうか。
 
(シャローム)
それを単に動物的な本能に帰してしまうこともできますが、やはり人間は社会的な共同責任として子供が人として養育されるようなセイフティネットが必要だと思われます。
 
(私)
当たり前のことを、それが出来たら苦労はないよということを、自分が初めて唱えているかのように豪語するシャローム。
 
(シャローム)
そのセイフティネットが機能しない社会は弱肉強食の動物の世界ということができると思います。動物の世界には確かに生き残るための適者生存の法則がありますが、やはり人間の世界は動物の世界と精神的、社会的機能が必要だと思いますね
2019/2/17(日) 午後 9:52 [ shalom ] 返信する
 
(私)
それが十分にできていたら苦労はないよ、という話を、まるで、神かキリストか預言者の教えのように、大仰に語るシャローム。これは、形を変えて、自分が高みから、眺めて憂えているふうのシャロームのボロクソ節です。預言者かコメンテーター気取りです。
 
(シャローム)
でも結婚も家庭も破綻しやすくなりつつあることも事実ですから、連れ子の虐待や子殺しの原因を、人としてなにが原因か問う必要があると思います。何か人が人として生きていくために大切かを問うことなしには問題の解決は難しいと思います。
 
(私)
結婚も家庭も破綻しやすくなりつつあるのでしょうか。相変わらず、一次元の一方向でしか物を言えないシャロームのボロクソ節です。いかなる苦労にも共感できないくせに、いったい、どんな、ありがたいことを教えているつもりなのでしょう。当たり前のことしか言えていないシャロームは。
 
(シャローム)
多くの生物が生存の危機に直面していますが、その原因は人にあるということができないでしょうか。生物が生存できないのであれば、動物のみならず人も生存できなくなるということではないでしょうか。
2019/2/17(日) 午後 9:53 [ shalom ] 返信する
 
(私)
何を今さらのように、人に問うて、また、他者をボロクソに言うのでしょう。そして、また、当たり前すぎて、教科書にも載らないようなことを、金科玉条のように教えているつもりです。
 

 
(私)
聖書の福音書を読めば、パリサイ人など、キリストを殺した者たちも、信じた人たちと同様に、何もしなくても自動的に救われることになるなら、神の意志が、そして、キリストがパリサイ人を批判したことが、人間にとって、訳の分からないものになる、ということが分かるのですが、シャロームは、いつまでも、どこまでも、理解しないようです。批判を始めて、もう7年になるのですが。
(私)
聖書は、何度も何度も、悔い改めよと、告げています。ここに、悔い改めなくても救われる、という、凶器のような妄想をもって、キリスト教の世界に、また、キリスト信仰の福音伝道を志す道に、自ら蔓延って、人間の心を侵食してくる、シャロームと楽山は、さらに仲間を増やすかもしれませんが、それは、カルトの規模が大きくなると、災いも大きくなるということを表すに過ぎません。もたらされる結果の責任から、二人は、その体質によって、言い分けや言い逃れをしてくるでしょう。誰かのせいにするかもしれません。
(私)
病気は、人間の世界に溢れています。必ずしも医学的な病気だけとは限りません。偏向した思想や信条が、作為のみによって幅を利かせてくるとき、私が前に挙げた条件を忘れないでほしいと思います。すなわち、ある思想または信条が、それを総ての人が信じたらと仮想して、人間と人間社会を破壊する必然がある場合、その思想は破滅への妄想であり、その信条は破滅への狂信なのです。
(私)
破滅へ向かうような信仰は、間違いなく、信仰など全く知らない者たちによって持ち込まれてくるのです。神は、人に、破滅へ向かう信仰を与えたりはしないからです。
(私)
彼ら根っからの悪は、屁理屈をこね、わざとらしい讃美言葉を並べ、優しい顔を作って見せて誘い、恣意を通そうとするでしょう。しかし、その企む心は、全て、既に、神に知られており、その悪しき心は、最後に悲鳴を上げるでしょう。根っからの悪は、善を装い、柔和を装い、正義を装い、美味しいだけの言葉を用意して、偽善の罠を掛けます。
 
 
一人の善人が苦しむとき、総ての善人が苦しむ
(TVドラマ「クリミナルマインド」2019年02月17日放送より)
 
(私が負の側面から感じるのは)
総ての善人が苦しむあいだ、根っからの悪だけが笑っている。
 
 
(2019年02月18日アップ、同日一部修正、同日一部修正)
 
闇鍋(やみなべ)
 
 
 
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