地獄
・・今回は想像に過ぎません
あの世のことは分かりません。
天国と言われても
どういう国なのか分からないし
永遠の命と言われても
永遠に生きるということが理解できないのです。
地獄はどうでしょう。
いろいろ想像してはみます。
炎の中に投げ込まれれば
熱いけれど、すぐ死ぬでしょう。
直ぐ意識がなくなり終わりそうです。
水責めでも、氷攻めでも、
引き裂かれるのでも、潰されるのでも、
結局意識を失えば
後は分からなくなる。
死が一度でなかったらと考えてみます。
二度目の死というのではありません。
二度なら
一度の死と
分からなくなる次の死までの違いに過ぎなくなります。
つまり人間に分かることではないのですが。
すでに書いたような気もしますが
次のような地獄を想像してみました。
昼と夜があります。
つまり一日があります。
気候は温暖です。
そこで永遠に生きるのだと告げられます。
天国とどう違うのでしょう。
死んでも復活します。
何度死んでも復活します。
復活の国
という皮肉な異名を想像したに過ぎませんが
名前だけだと良さそうな気がします。
そこでは
神は裁かないのか。
悪も偽善も救われるのか。
しかし一日のうちに一回
いずれかの時間に必ず死にます。
殺されるか
災難に遭うか
病気で死ぬか
さんざん苦しんだ挙句に死にます。
恐怖と苦痛に喘いだのち死にます。
しかし、だから、復活の国なのです。
翌朝は、すっきり目覚めます。
最初は神に感謝するでしょう。
しかし翌日も
経過は様々ながらやはり死ぬのです。
そして次の日の朝また復活するのです。
そういう日が、永遠に続くのです。
これが、この世の今の感覚と思考で、
あの世で最もつらいのは?と考えて、
私が想像してみるところの
最も苦痛に満ちた地獄です。
最初は復活したと感謝し讃美するが、
一週間から一か月のうちには
終わらせてくれと叫び出すでしょう。
終わらない、無限に復活する国。
これが地獄だったらどうでしょう。
一年も経つころには
頭も心もおかしくなって
感じることはどうでしょう。
考えることはどうでしょう。
もはや表情のない土塊のようなものになって、
まともな人間の神経ではいられないと思います。
意識がどう変容するか予測も出来ません。
永遠とか
永久に繰り返すとかは
人間の地上の感覚から言うと
苦痛が最大限まで行く世界を考えれば
想像を絶するものがあります。
それで地上にいても私は
不老長寿は願うけれど
不老不死は御免こうむりたいと思っています。
別に脅すわけではなく
あくまで想像~空想の遊びのようなものですが、
自分で思い描いてみて
そういう国にだけは行きたくないと思ったことでした。
※ 以下、追加で、ちょっと書くつもりが、少し長くなりました。
神を思わないで、白々しい信仰の嘘を吐き続ける者(シャローム)は、
そして、キリスト信仰を知りもしないで、小理屈を捏ねる者(楽山)は、
こういうことは、想像することさえしないのでしょうか。
誠意とか正直とか言われる捧げものを神に捧げる信仰を考えるときに、もしあったらと、地獄を一度も気にしたことのない者たちは、恐らく天国も想わないで、人間の知情意を捨てて慢心し、マッチ棒のような小理屈を縦に横に並べてクイズと謎を作っては、ああでもない、こうでもないと、遊んで、笑って、信仰を侮り、蔑み、侮辱して、悔いることなく、改めることなく、自慢げに、砕かれた魂を、さらに潰そうと画策するのです。
信仰の「し」の字も弁えないで、保身のために言葉のゴミ箱を漁るしかないシャロームを、赦しが先と言って正当化して弁護する者がいます。
赦しが先というのは、人間同士の言葉と付き合いの綾(あや)というもので、ここで先に赦してあげたら・・(何らかの、より幸いな気づきを期待できる)、というような、赦す相手が罪悪感を感じ得る人物であるゆえに、先読みが可能な個別の特殊なケースであり、神と人の関係に、個別を当てはめて、赦しが先を肯定し、悔い改めない者を正当化できるような代物ではありません。
神について、もし、赦しが先という表現が成り立つとすれば、それは、総てをご存知の神が、赦したのではなく、全知全能の神として、人が罪を犯すことを既にご存知であり、人の悔い改めよりも先に寛容な赦しの御心を持って、悔い改めを待っておられる、という意味でしか考えられません。決して、神が、前もって罪を許可して、好きなようにしてよい、ということはないのです。
一般的な説諭として考えれば、罪を認めてもいない者を、先行して赦したからといって、シャロームのように罪悪感をいだけず、罪を認めていない者は、罪の自覚がない者として振る舞うのだから、何の幸いも期待できないのです。そんなことも考えずに、シャロームの味方をする者がいます。甚だ迷惑です。
言葉尻を見て、赦しが先だと書いてあるからぁ・・みたいな印象の、とぼけた無思考の、どこかから引用した無責任な言い分は成り立ちません。考えれば分かることです。人間の心の中身を常識的良心において吟味できない人の浅はかさに過ぎません。都合の悪いことは気にしないのだという処世信仰?で、自分を甘やかした結果でしょう。
そういう心無い意地の悪さだけで、言論の質量を持たない発言は、偽善者シャロームの自己満悦の怠慢と慢心を促進するだけであり、不都合を無視する安楽の道であり、信仰の与える平安とは逆行するものであり、口だけ、小うるさい親戚のおばさんが、たいした理由もなく、しゃしゃり出てきて、聞いて考えることせず、言いたいことだけ言うのに似て、妙な仲間意識で味方して、余計なことを言っているだけで、何の助けにもならず、ただただキリスト信仰と真実追求に対する妨害行為です。実際、理解は何も生まれず、シャロームの、わざとらしい感謝芝居と憎々しい笑いを生んだだけなのです。
特に、シャロームの場合、罪を認めてもいない彼は、これでいいんだと思い上がって、ますます隠し事を続けるだろう。そして、これからも、悔い改めを、神が与えるものと、問われるたびに言いながら、一生涯、しないままになるだろう。そのための詭弁をシャロームは弄しているのに、一般的な理路において、それを予測できず、見抜けないなら、何も語るべきではないのです。
いかなる説諭にも批判にも、理解不能と共感不能であるために不感不応で、訂正不能の詭弁と嘲笑いだけのシャロームに必要なのは、賛同でも弁護でも支持でもなく、もはや一言も言えないほどの、どん底で、期待薄で、可能性は極めて低いが、どんでん返しの悔い改めをすることしかないのです。
反省もしない不平不満の小理屈専門軟派カルト楽山は、真実の追求に真摯でもなく謙虚な態度も持ちえず、人間の良心に基づいて是非や可否を判断することも出来ず、状況も文脈も把握できないために、ことの大小も遠近も、正当な理路と視野によって追うことが出来ないから、悪口にはちょうどよいところの、言い放って終わりという利便性によって、ツイッターで愚痴を言うことになるのでしょう。こういう者こそ、柔和を装い、当てつけのようなことしか出来ないが、内側は、不快を最も嫌い、修正する意志のない、学習不能の善魔と言うべきでしょう。
https://twitter.com/jiyuu2018?cn=ZmxleGlibGVfcmVjc18y&refsrc=email
(1月29~30日のツイッター画像の遠藤周作の文章は以下。)
自分の考えだけが何時も正しいと信じている者、自分の思想や行動が決して間違っていないと信じている者、そしてそのために周りへの影響や迷惑に気づかぬ者、そのために他人を不幸にしているのに一向に無頓着な者―――それを善魔という
遠藤周作
私は、ずっと以前から、人間にとって最も大切なことは、学習可能で修正可能であることだということを言ってきたからであります。私が、何らかの感動と衝撃をもって受け取れる言説に対しては、いつでも、自説を改めるつもりです。
しかしながら、それゆえに、気安く拾ってきた言葉遊びのような実のない屁理屈や詭弁に対しては、怒りを禁じ得ません。それを善と信じているのは誰でしょう。理路を正そうとせず悪口ばかり書いて、有名人の名を味方とばかり、水戸黄門の印籠のように引用しているのは誰でしょう。
楽山は、アドラー教によって、不都合な刺激をブロックして感じない心得のために、何も分からずに軽口をたたき、その延長で侮辱的引用をしているのです。上のリンクのツイッターの遠藤周作の書字の画像引用は、まさに、被害者意識だけの楽山が喜ぶものだろう、しかしながら、楽山の自由と中立の自惚れに最も当てはまるものであり、楽山の見かけの柔和や中庸に騙されてはいけないのです。楽山は、楽をしているだけなのです。だったら、黙っておれ、ということです。
今回のことは、私の、人を見る眼の、失敗の履歴になります。私のような無名の人間の書いたことは、いずれ、露のように消え去ってなくなります。同様に、シャロームや楽山の書いてきた害毒の内容も総て消え去って、後の影響がないことを祈り願っています。
名のある人の言った格言だからといって、また聖句だからといって、それを文字通りに鵜呑みにしてはいけません。個別の特殊な場合である可能性や、表現を強調するために誇張されている場合もあるでしょう。自分の理路が拙劣なのに、そこを反省しない人ほど、自分で考えない分、思い上がれば分かっているかのように、偉人や本の名前や聖句や格言をあげる傾向があります。
また、無名の人の発言だからといって、軽視してはいけないのは、ときに、驚くべき信仰を見せてくれることがあるからで、それは、まさに、聖書にも表されているのです。パンくずの奇跡(マタイ15:21-28)の話などが、それに当たります。
(2019年02月22日アップ、同日一部修正)
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