ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年03月

 
  心の理論
 
   親戚に笑われた話 (仏様の気持ちは分からない?)
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41513954.html
   楽山のブログ「楽山日記」
 
 
楽山は、まだ、何かを人に教えられると思っているのでしょうか。今回、「心の理論」という学問的な話を、楽山自らの霊感みたいな?経験を正当化する曲解によって、書いてきています。理路の読解力のなさが明らかとなり、インチキも甚だしい、というところを見てほしいと思います。
 
先ず、心の理論について引用しておきます。
 
心の理論(ウィキペディアより)
他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである。
この能力があるため、人は一般に他人にも心が宿っていると見なすことができ(他人への心の帰属)、他人にも心のはたらきを理解し(心的状態の理解)、それに基づいて他人の行動を予測することができる(行動の予測)。
哲学者ダニエル・デネットは子供が「心の理論」を持つと言えるためには、他者がその知識に基づいて真であったり、偽であったりする志向や信念をもつことを理解する能力、すなわち誤信念を理解することが必要であると示唆した。これに基づきハインツ・ヴィマーとジョゼフ・パーナーは心の理論の有無を調べるための課題を提案した。これを誤信念課題(False-belief task)という。この課題を解くためには、前述したように他人が自分とは違う誤った信念(誤信念)を持つことを理解できなければならない。
マクシ課題
1.マクシは、母親が買い物袋をあける手伝いをしている。
2.彼らはチョコレートを<緑の棚>に入れる。
3.マクシが遊びに行った後、母親はチョコレートを取り出して、今度は<青の棚>に戻す。
4.母親が卵を買うために出て行ったあと、マクシが遊び場から戻ってくる。
上記の場面を被験者に示し、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」と質問する。正解は「緑の棚」だが、心の理論の発達が遅れている場合は「青の棚」と答える。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96
 
最初、何のことか、よく分かりませんでしたが、「誤信念を理解すること」というのは、誤信念の存在を正当化することではなく、誤信念を他者が持っているということを理解することのようです。ゆえに、直観的であっても理路があるから、理論というのでしょう。
 
批判というのは、多くの場合、そのような誤った信念があることを発見し、それを根拠とする理解によって為されるものです。楽山の引用した「心の理論」は、まさに、例えば、ここでは、楽山の不当性を批判する根拠と理路を表しています。
 
マクシ課題について:
 
マクシは遊びに出ていたので、母親がチョコレートを<青の箱>に入れたことを知りません。したがって、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」という質問の正解は、「緑の箱」です。マクシは、誤った信念を持つ例として書かれています。
 
「心の理論」は、そういう、子供の発達過程での、誰でも分かるような、極めてシンプルな理路が書いてあるのです。
 
正解することは、他者(マクシ)が誤った信念(誤信念)を持つことを理解しているということであり、つまり、これを心の理論が発達していると言い、発達していない人は、誤答として、結局は「青の箱」にあるんだからと、そのまま「青の箱」と答えてしまう、ということです。学問の理路の話であって、霊感とも、宗教とも、何の関係もないのです。
 
心の理論とは、他者という存在の心の正誤を知るということであり、それが出来ないのは、前にシャロームが、やたら言っていた、一種の自他未分化だろう、という話なのです。
 
ところが、楽山は、そのことを理解せず、自分の極めて怪しい霊感みたいなもの?を、学問なんですと、正当化する話に持っていきます。やめておけばいいのに、ここが、都合の悪いことを無視して反省しない人の、何の意味もないのに、実に執拗な、煩わしい怖さなのです。
 
楽山は、アドラー教に従って、気に入らなければ無視して、改めて、といっても、実際は全く改めずに、また同じような手練手管で書いてくる見苦しさであり、人間性をなくしてゆく方向へと、どんどん進んでいるのでしょう。次に引用するところの楽山の言い分は、目を覆わんばかりです。
 

先日は、お彼岸だったので親戚の家に行ったら、ちょっとしたやりとりが切っ掛けで爆笑されてしまった。その内容は、大体こんな感じ…。
自分 (仏間から、居間に戻る)
おば「仏様、拝んだかい?」
 自分「うん、よろこんでたよ」
おば「えっ?」
 自分「拝んだら、仏様が『ありがとう』ってよろこんでた」
おば「仏様、よろこんでたんだ!? ふははははっ…」 (親戚一同爆笑)

 

自分は多少冗談っぽい言い方をしたので、笑ってもらうのはいいけど、おばさんたちは仏様の気持ちは全然感じないっぽいのには驚いてしまった。

 
カルトの萌芽を感じます。楽山は、自分のことを、仏様の気持ちが分かるっぽい?、と言っているのです。
 

もっとも仏様が何を考えているかなんて本当のところは分からないことだけど、仏様が喜んでるか、悲しんでるか、怒ってるか…そういうことは何となしに感じるものだと思うんだ。こういう感覚は、やはり個人差が大きいのだろうか。

 
楽山は、仏様が何を考えているかなんて本当のところは分からない、と言っておきながら、仏様が喜んでいるか、悲しんでるか、怒ってるかは感じるものだ、と言っています。つまり、仏様の心を自分は感じるから分かるんだ、と言っているのです。こういう、いい加減なところから、カルトの詭弁は始まります。
 
楽山は、笑われて恥をかいて、よほど悔しかったのでしょうか、神仏を恐れもしないで、神仏と自分の自他未分化のまま、神秘の世界に入り込める自分を自慢するかのように、また、婉曲表現で自己正当化して、我を張っているようです。楽山という人の、カルト体質を思わせる話です。
 

ちなみに自分としては以前は、これは霊感の一種なんだろうと思ってた。でも近頃は、「心の理論」の延長上にあるという説に説得力を感じてる。相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないかと…。

 
楽山は、「心の理論」を、勝手に延長して、神仏を、分かる、あるいは、感じることと、受け取っているようです。しかし、これは、全くの妄想的曲解であります。「心の理論」の延長線上に、霊感のような神仏理解は、全くないのです。全面的に楽山の危険な妄想です。
 
つまり、楽山は、最初に述べた「心の理論」を、全く理解しないまま妄想に結びつけています。そして、楽山自身は、誤信念を持っていることに、まるで気づいていないということです。
 
心の理論は、少しも誤信念を正当化してはいません。誤りは誤りと書いてあるのを、楽山は曲解して、誤信念の神がかりを正当化をしようとしているのです。意図的ならば、悪質な詐欺の企みと言えるでしょう。
 

ただこの感覚は、すごくリアリティーがあるので、人類が進化の過程で獲得した「心の理論」による錯覚にすぎないと割り切ってしまえないのが難しいところである。どうもこの辺りの問題は、一生解決できなそうだ。〈了〉

 
楽山は、自らの神がかった感覚にリアリティーがあると言っています。さらに、それを、人類が進化の過程で獲得した、ゆえに、錯覚だと割り切れない、と言っています。そう言ったにもかかわらず、一生解決できない、などと言い訳して、見せかけの謙譲を装っているのです。こういう騙し文句を出してくることを忘れないでください。どうか警戒して、決して好意的に近づかないでください。
 
知恵と良心の足らない自他未分化の者が、自己顕示欲から、自分は学問に基づいていると言いたくて、詭弁を弄すると、こういうことを平気で言ってくるのです。この記事の虚偽性は、恐ろしいものがあります
 

*参考
「心の理論」という言葉は、何となしにスピっぽい雰囲気があるけど、検索してみるとそっち系の言葉というわけでもないらしい。専門家ではないので確かなことは言えないけど。

 
確かなことは言えないと言いながら、上では、自分の霊感みたいなもの?を進化とまで正当化しているのです。騙されないでください。
 
最初に引用し説明したように、私が上記のウィキペディアの記事で見る限り、「心の理論」は、全くスピリチュアルとは関係のない、発達または心理学系の学問の話です。
 

心の理論(こころのりろん、英: Theory of Mind, ToM)は、ヒトや類人猿などが、他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96

 
正常ならば、そういう、他者の誤信念の推測と判断が出来るようになる、という話です。それを理解できない楽山は、全く学問的ではないところの、霊感話に貶めているのです。宗教と信仰を語る者として、恥ずかしいことです。
 

心の理論とは、他者の心を類推し、理解する能力である。特に発達心理学において、乳幼児を対象にさまざまな研究が行われるようになった。ヒトおよびヒト以外の動物が心の理論を持っているかどうかについては、誤信念課題によって調べられる。この課題で他者の信念についての質問に正答することができた場合に、心の理論を持っていると結論される。一般的に4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる。自閉症患者では障害が認められる。
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96

 
4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる、という、誤信念課題を、自己正当化に使うほどに、楽山は、正答が出来ていないのです。楽山は、最後の文をどう読んだのでしょう。「自閉症患者では障害が認められる。」・・私は、故意のペテンか、カルトに陥りやすい自他未分化だと思います。こういう心性のままであることは、怖い、と言ってよいでしょう。
 

・進化心理学と「心の理論」が神と同様にプラシーボ効果を見出すのだろうか?
https://placebo.co.jp/placeblog/theory-of-mind/

 
このサイトに書いていること:
 
意図や目的を持った知的行為者(=神)を明確に心に描く人なら、こう推論する(物語る)かもしれません。「治癒が得られたのは、神が本来持つ機能(奇跡)のおかげである」
https://placebo.co.jp/placeblog/theory-of-mind/
 
キリスト教は、全知全能の神を説いていますが、それは、治癒が神の機能だというためではありません。神を信じれば、病気が治るでしょうか、そんな理路も教理も、否です。キリスト者が信じている神は、信じれば病気を治してくれるご利益の神ではありません。したがって、信仰は、プラシーボ効果でもありません
 
楽山は、とても幼稚な神を想定して、それよりも、という、学問の味付けをしたつもりのカルトを宣伝しています。警鐘として、はっきり繰り返します。楽山に騙されないでください。行き着くところは、極めて危険です。
 
楽山は、シャロームと同様に、無反省に妄想正当化のために詭弁を弄するペテン師であり、宗教についても、学問についても、語る資格などないと思います。キリスト信仰の立場からは、明確な敵対者として意識して、私のブログ等々を介して、警戒情報を敷衍してゆくしかありません。
 
 

キリスト教とキリスト信仰は、むしろ、この地上に溢れている嘘八百のカルト的妄想に囚われることからも、楽山のような軟派カルト宣伝者からも、人間を解放し、人間の学習と成長を促し、より人間として相応しい温もりと潤いを求めるためにあるのです。キリスト信仰は、けっして神がかりの感覚や奇跡や境地などではなく、人間として学びながら歩んでゆく地道で一途な道です。その歩みを支えるのは、キリストからの愛であり、キリストへの愛であります
 
 
(2019年03月31日アップ、同日一部修正)
 
詭弁を弄する(きべんをろうする)
目を覆わんばかり(めをおおわんばかり)
敷衍する(ふえんする)≒広める
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
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  救われる条件
 
 
キリスト者になると柔和な人間になると
あるいは社会的基準においても善人になると
思われているかもしれません。
 
実際は、そうではありません。
普通の人間と同じように
頑なになることがあり
さらに信仰があるという自覚ゆえに
特に教理や善と悪と罪の意識において
人一倍、頑なになることがあります。
 
それはキリスト者ならでは、ということではありません。
信仰を勘違いすることがあり、そのために
本当に付き合いにくい人になることもあるのです。
そうして、相手にされなくなることもあるのです。
 
それは人間として
決して望ましいことではありません。
そういうあり方としての過ちと罪があります。
 
では、信仰を持たなければよいのか
という疑問に対しては、
信仰は
人間が持ちましょうという意志だけで持つものではない
と言うしかありません。
 
キリストに絆されて忘れられなくなった者は
まるで定められているかのように
キリスト者になるしかないのです。
 
そのように
キリスト者は常人と比べて
決して優秀を表すものではありません。
むしろ経緯において
多くの欠点を持っているからこそ
キリスト者になるのです。
 
では、そのようなキリスト者が
どうして救われるのでしょう。
 
それは、誰よりも神が、自らの民として、
決して優秀さや能力によって人間をを召命してはいないからです。
 
なのに、なぜ救われるのでしょう。
そこには、キリスト者になった人たちの
ただ一点を
神が見ておられるからなのです。
 
それは、その人が、
どんな意地っ張りでも
自己中心でも
思い込みが強くても、
そう思われていて、実際そうでも、
ただ神という絶対者の前においてだけは
頽れる心を知っているからなのです。
 
ゆえに、神が救われるのは
神の基準によります。
決して善行によるものではありません。
 
つまり、神の前において、すなわち祈りにおいては、
頽れ、憐れみを乞うしかない、砕けた魂を持つ人間であること、
その弁えだけが、救われるためには必要十分な条件なのです。
 
 
※※
祈りにおいて
いつも偽りの讃美言葉を並べるような者については
神は、それを余さず見抜かれるのです。
そして、神の国から永久追放されるでしょう。
そして、そのことは、
この地上において人格破壊の醜さとして表れるでしょう。
 
 
(2019年03月30日アップ、同日一部修正)
 
絆す(ほだす)
頽れる(くすおれる)
 
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  ボンヤリ言語
 
   自分勝手な奴だと思ったら…
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41512859.html
   楽山ブログ
 
 
前から言っていることですが、自己中が、やんわり自己正当化を図ろうとすると、こういう書き方になるという例になるでしょう。分からないと言うことが出来ず、自分が悪いところを反省して言うことが出来ないで、ごまかしに走る者の筆致です。
 
>先日は、こんな会話を耳にした。
>「あいつは自分勝手な奴だよな。腹が立つ」
 
楽山は、気に入らないことは無視する、という信条を持っている自己中で、かつ、荒らしの成りすましではないか、という疑いを持たれている状況で、今回も、曖昧な、いい加減な、ぼんやりした文章で乗り切れると思っているようです。他者の口を借りて
 

「そう言うなよ。彼は持病があって、みなが食べるものが食べられなかったり、みなと同じように動けなかったりとか、いろいろ制約があるらしいぞ」

 
本当に、そういう人がいたのかどうかは知りません。しかし、楽山は、他者のことを心配したり、他者のことをきっかけにして、何かを教えられるような状況にはありません自分が、どう受け取っているか、どう反省しているか、あるいは、弁明か反論をするか、という自分自身の問題があるからです。そういうときに、平気で、他人事を語れば、むしろ不感不応の、ひどい自己中と思われることに気づいていない楽山です。
 

こうしてみると、やはり誰かが他とは大きく違うとしたら、そこには相応の理由があるということなんだろうなと思う。必ずそうなるというわけでもなかろうが、そういう場合は多いと…。

 
誰について、相応の理由があるというのでしょう。前に、ろくにキリスト教について知りもしないのに、一方的にシャロームの味方をして、こちらを悪または間違いを信じている者と決めつけて、変質的な宗教人のように扱ったのは、楽山のほうです。このように、何やら暗示的な、当てつけとも取れそうな書き方で、嫌がらせをしてくるのが、楽山の、以前からの筆致です。
 

ただそれが分かっていながら、他と違う人を見ると、「なんだ、あいつ」と反感を持たないではいられないこともあるのだからややこしい。

 
そして、反感を持たないではいられない、と言いながら、ややこしい、という言い方で、お茶を濁しているのです。
 
故事ことわざ辞典:
おちゃをにごす 
【意味】  お茶を濁すとは、いいかげんなことや適当なことを言ったりしたりして、一時しのぎにその場を取り繕うこと。 
http://kotowaza-allguide.com/o/otyawonigosu.html
 
>こういうのは自分も人のことは言えないし、気をつけなければ…。
 
自分も人のことは言えない、と言いながら、その結論は、気をつけるのだそうです。何を、どのように、気をつけるのでしょう。自分の言動に気をつけたほうがよい者が書いています。それと、前に書きましたが、楽山には、易坊の成りすましではないかという疑惑が、これからもついて回るということです。
 
記事本文が別の人のことだという言い訳は成り立ちません。別の人を題材にして、話を逸らしてよい状況ではないからです。偽善者そして軟派カルトだと言われている楽山が、まっとうな人間であるなら、このような記事で和むことなど出来ないはずだからです。
 
楽山が言い訳をすれば、自分に起こったことについて、全く何も感じない人だということになります。そして、それは、そのまま、気に入らないことは無視するというアドラー教の信条を、楽山が認めたことに他ならないのです。
 
気をつけるとは、自分に当てはめて反省すると言っているのか、反感を持つような相手に関わらないように注意すると言っているのか、この二つは、反省と、特定の他者への警戒と忌避、という、全く意味が違ってくる言い方なのに、はっきりした態度や内容を書かないことは、婉曲的に事を有利なほうに誘導しようという詭弁であり、そういう心性を示しているのです。
 
こういう曖昧な書き方が柔和だと思っているのでしょうか。それとも、最初からの企みで自己弁護の補助としているのでしょうか。自分はこんなに柔らかい人だから味方してください、というアピールなのでしょうか。曖昧にしてはいけない問題で、謝罪も反省も訂正もなく、曖昧な書き方しかできない人を、信用してはいけない、という教訓になりそうな記事です。
 
シャロームは、表面的な謝罪、つまり、申し訳ありませんでしたと、コメントに書くことがありました。しかし、それは、本当の謝罪ではなく、何かを書き忘れたとかいったような些細なことについてだけです。重要な問題について、一度も謝罪も反省も訂正もしたことはありません。ここは、楽山の書き方に、よく似ています
 
シャロームは、前に、記事にも書きましたが、失礼しました、と書いて、後のコメントで、負けるが勝ち(笑)、と書いて、まるで、真剣に謝罪も反省も訂正もする気がないことを露呈したことがあります。シャロームの場合は、相手を軽く見て、嘲笑っている筆致になります。
 
楽山は、曖昧に、遠回しに、どうとも取れそうな書き方をして、あなたのことではありませんよ、という、言い訳を可能にしておくつもりの書き方をしてきます。
 
どちらも卑怯だということです。
 
どちらも、何か真実追求につながるようなテーマについて、何もストレートには書けないし、今の書き方で書いてはいけない人だということです。
 
シャロームと楽山の、一見柔和に見えるようで、実は、曖昧、ぼんやり、いい加減、そして、実感のない書き方に、惑わされることのないようにしてほしいと思います。
 
誰も傷つけたくないから、という言い訳をしてくるかもしれませんが、曖昧で、うやむやにすれば、傷つかないのでしょうか。きわめて、浅はかな、そして安易な、物の見方だと思います。
 
前にも引用したことがありますが、三島由紀夫原作の映画≪午後の曳航≫の字幕の台詞の中に次のような言葉がありました。
 
 「殴られるより悪いことがある
 
大事な問題について、ボンヤリ言語で、その場しのぎで、ごまかそうとする、さらに、それによって、自分は柔和で中立ですと言いたがっているような者に出会うと、いつも、上の言葉を思い出します。
 
ボンヤリ言語を使わず、罵詈雑言を言ってくる者は、受け取る人によっては相当応えると思いますが、ストレートに敵意を表していて、自らの悪を表していることで、特に直接には暴力に結び付かない言論においては、立場が明らかな分、むしろ、マシなほうなのです。
 
罵詈雑言という空疎な言論を恐れないでほしいし、それより、ボンヤリ言語、という曖昧な言論に対する感性を養ってほしいと思います。ボンヤリ言語は、言葉だけ、やさしくて穏やかですが、これが社交でなく、真実を語るときに用いられるときには、何も真摯な思いの込められていない、空疎なだけでなく、腐った言い逃れや話をそらすために使われるところの、卑怯な言語なのです。
 
ボンヤリ言語は、保身のための、そして、何らかの誘導のための、偽善者と詭弁家の典型的な筆致です。
 
 

話は変わりますが、一般の社会では、例えば、
仕事の話をしていて、白黒つけなきゃいけないときに、
はっきり言わず、遠回し、遠回しにしか言わない奴は大嫌いだ!

という話に似たところがあります。
一時的か、この記事のように恒常的か、という違いはあります。
 

なお、わからないと言うことは、決してボンヤリ言語ではありません明確な学びへの意志表示であり、神聖についてなど、本質的に分かるはずのないことについては、これが、人間の真実なのです。
 
 
(2019年03月29日アップ、同日一部修正)
 
曖昧(あいまい)
 
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  求道と信仰
 
 
求道者は
心が動いて信仰に目覚め
キリスト者になります。
 
キリスト者になったら
悟ったからと
心を固定してよいはずはありません。
 
心を動かしてくれるものによって
信仰は人を動かします。
 
一般には感動と呼ばれますが
心に感じ
心が動く
ということなしに信仰は進みません。
 
信仰に導くのも
信仰を支えるのも
同じ働きが心に作用するからです。
 
いつも感動していなさい
ということではありません。
 
不変でなければならない
と思わなくてよいということです。
 
そこに信仰による心の解放があり自由があるのです。
その解放と自由のうちに信仰はあるのです。
つまり信仰と
心の解放と自由は
一体として人を動かし生かします。
 
その解放と自由以外を強いるものがあるなら
それは信仰ではありません。
 
悲しみや苦しみなど
様々なことで心は揺さぶられます。
そのときに
信仰者は祈ることで
耐え忍ぶことを学びます。
 
その学びは
義務教育のように
言葉で教えられるものではありません。
 
その学習のプロセスこそ
信仰が心を動かす時と所なのです。
 
揺さぶられ
揺れ動き
心の温度と湿度の変化を伴いながら
新しい道に導かれてゆくのです。
 
だから信仰の悟りを
静的な資産と考えるのではなく
動的な賜物として受け取るべきなのです。
 
時と所によって新しく生まれる信仰のあり方を
人間の浅知恵で動かない境地にしてしまわないように
 
人が誇るべき何ものも持たないところに
キリストの負いやすいくびきは導くためにかけられ
キリストの軽い荷は救われるために用意されています。
 
キリストの生涯は激動でした。
それゆえに癒しと導きと救いになりました。
 
私たち信仰者を導く御手が
私たちの心に
動かないことを使役するはずはないのです。
 
キリスト者として
歩いていても、座っていても、立っていても、
ベッド上であっても、見かけはどうであれ、
絶えることなく、終わりの時まで、
生きているために心の活性を祈り求めてほしいと思います。
 
 

 
気に入らないことを無視することの最も大きな災いは、
自分の欠点と自分が与える害悪を自覚しないために、
それらを克服できないまま一生の終わりを迎えることだ。
 
 
(2019年03月27日アップ)
 
使役(しえき)≒ (何らかのことを)させること。
 
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  徒労の勧め?
 
   時間を大切にするには… (焦りは禁物、急がば回れ)
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41507162.html
   楽山のブログ。私のコメントは記事専用です。
 
 
先ず楽山の記事です。批判されている状況で、何も応えていませんよ、という記事を書いてくるのは、今に始まったことではありません。そして、いい気になっている自尊の権化シャロームが、コメントを書いています。
 

最近はどうも時間が惜しくてならない。人生の半分が過ぎたと感じはじめた頃から、そんな風になってきたように思う。

 
今も、シャロームや同類との時間だけを過ごしている楽山は、人生の大半を無駄に過ごしていると言えるでしょう。それだけでなく、アドラー教という軟派カルトを宣伝して、人の世界において、有害となる境地を広めているのです。一見、やさしそうな柔らかそうな言葉に騙されないようにしてください。心は、古びた革のように、ごわごわして、柔軟性は皆無です。
 

以前は、好きなこと、やりたいことができれば満足で、時間がもったいないなんて考えたことも無かった。でも今は自分の時間はできるだけ意義あることに使いたいという欲が出てきた。

 
楽山にとって意義のあることとは、批判を無視して、気に入らないことを無視して、気持ちのいいことを言ってくれるシャロームというカルトと調子を合わせることらしいです。気持ちの悪い人です。
 

でもだからといって、あまりにも時間を惜しみ過ぎると、気分が落ち着かず、かえって時間を無駄にしてしまうこともあるようだ。

 
何が言いたいのか分からないのが、楽山の筆致となっています。
 
ああでもない、こうでもない、ということで、何も言いたくないのではないかと思いますが、だったら、なぜ書くのでしょうか平気ですよと自尊を守りたいのでしょうか。平気でいること自体が、カルトによる人間に対する精神破壊の持続になるのです。
 

たとえば、本を読むにも、早く早くと気が急いてしまい、その結果、いくら多読しても、なにも身につかないことになってしまったり…。メモする時間を惜しんだ結果、後でせっかくのアイディアを思い出せなくなったり…。

 
このような能力の謙譲を本気にしないでください心の中では、アドラー教の無視と不感の境地が、人を無視して、楽だけを求める訂正不能の硬さを悦んでいるのです不都合な情報をブロックした悦楽のまま、成長拒否と学習放棄が、楽山の信条と精神だということが、今までに明らかになってきました。
 

時間を大事にするには、急げばいいというものではなくて、むしろ気持ちを落ち着けて、じっくり、ゆっくりする方がよい場合もあるようだ。

 
何かを言って、何も言わないのと同じ、という実験でもしているかのような言説です。急がば回れ、という諺以上のことを、何か言っているでしょうか悪いことを気にせず無視して楽だけを求めるアドラー教に染まると、このように、肯定をせず、否定もしないが、同時に、誰の役にも立たないような、無駄な言い方を求めるようになります
 

平凡な結論だけど、昔から言われている通り、焦りは禁物、急がば回れということなんだろうな。やっぱり昔の人は賢いな…。

 
そうして、平板な結論を出して、自分を見つめる姿勢も持たず、いったい、誰に向かって、何を説いているつもりなんでしょう。ネットの世界で、あまりにも暇だから、シャロームなどのカルト的妄想に付き合うことで、時間の無駄遣いを勧めているのでしょうか。何も言えないと言っているのでしょうか。
 
 
コメント欄です。
 
(シャローム)
楽山(自由)さん おはようございます。
むかし子供のころよく線路で遊んでいました。
 一本の細い線路を落ちずにどこまで歩けるかという遊びでした。
 足元ではなく、すこし線路の先の方を見て歩くのがコツのようでしたね。
パソコンやスマホでいろんな知識や技術や情報がいっぱい簡単に手に入り、便利にはなりましたが、生きる知恵は貧しくなっているようのおもわれますね。
 
(私)
比喩を語っているつもりのようです。便利になったが生きる知恵が貧しくなっていると、いつもの、自分を完全に圏外に置いて、他者のことばかり悪く言うシャロームのボロクソ節です。シャロームこそが、ネットの匿名をよいことに、いちばん知恵の足らない自分を考えずに、人の意見も無視して、同じことをやっている楽山とともに、他者に対して、人格をどぶに捨てるような妄想を吹き込んできたのです。
 
(シャローム)
ただ一本の細い線路をどこまで歩けるかという遊びの方が生きる知恵にはなるようですね。
 
(私)
シャロームが暗示してくる比喩の騙し文句です。シャローム自身が歩いているのは、人間が決して歩いてはいけない偽善の道です。そこで、好きなだけ嘘を吐き、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という嘘っぱちの偽キリスト教を説いてきました。
(私)
その道を、ただ一本の細い道として、自分はそこを歩いていると暗示し、正しい道であるかのように自己正当化する刷り込みの詭弁です。シャロームの場合、どんなときにも自分を正当な位置に置くので、こういう話にしかならないのです。反省しない人の宿命的な癖のようなものです。
(私)
そのシャロームを受け容れている楽山も、もはや、常識的判断を欠いてゆく非道を歩いてゆくことになります。その程度のことは、誰でも言うじゃないか、と思われそうですが、そういうところから、カルトの入り口は始まり、深みへと向かってゆくことを知ってください
(私)
大事なこととして、楽山もシャロームも、常識的判断を欠いている自分を自覚することがなく、また、学習によって訂正しようという意志もないところです。だから、今までずっと、テーマの本筋も自分に都合の悪いところをことごとく無視して、結論だけで人をなじり、いい加減なことを繰り返し書いてきたという経過になっています。
(私)
このように、よくあることだと些細なことと油断しているところに、刷り込みも煽りも並んでいます。これまで書いてきた、重要度において的外れ、気に入らないと平気で無視、一見、優しい柔和に見せかけて、経過において訂正不能が明らかになる奇妙さ、などに注意してください。カルトの萌芽を自分の心の中に許してはいけません
 
(シャローム)
昔の人は大海原を星を頼りに航海していました。星を見ないで航海していると、漂流していることに気づかず、後悔してしまうかもですね。
昔の人が知恵があり、偉かったのはそのためかもですね。
2019/3/19(火) 午前 10:27 [ shalom ] 返信する
 
(私)
昔の人は知恵があり偉かったでしょうか。昔も今も人の欲望は果てしないものです善悪も両方とも昔も今も盛んです。このような断定で、もっともらしく見せて惑わしますが、シャロームは、何も勉強してはいないと思います。言うことが、すべて的を外れて、全か無かで垂れ流す出まかせの筆致がシャロームの特徴なのです。
(私)
なのに、シャロームは、自分は星を見ながら航海しているつもりで、他者に向かって、気づかないで後悔してしまうかも・・と、他者を漂流する人々と見なしてボロクソに言っているのです何の救いのメッセージにも、何の助言にもならないことしか言わないシャロームです。このようなシャロームに従うと、漂流ではなく、自己満悦の沼に沈没してしまうでしょう。二人には、決して関わらないでください。
 
(楽山)
古くから伝わる格言、ことわざ、故事成語などには、なるほどと思えるものがたくさんありますね。
ただ、こういう人生についての言葉は、いつでもどこでも誰にでも当てはまるわけではなくて、時と場合によっては逆もまた真なりということも有り得るみたいです。ここが難しくもあり、おもしろくもある。
この辺のことについて柔軟に対応できる人が、人生の達人なのかなと思ったりしてます。
2019/3/19(火) 午後 7:46 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
柔軟に対応、ということが分かって言っているのでしょうか。はっきり言って、格言というものを、ひっくるめて柔軟に対応、などと言ってまとめたつもりでいるところに、むしろ、いい加減さを感じます
(私)
格言は、柔軟に対応するものではないと思います。特殊な場合の集積だと思います。楽山が記事に書いている、急がば回れ、ということわざを、どう柔軟に対応するのでしょう。急いで慌てると失敗しやすいから遠回りでも堅実なほうを選ぶ、ということですが、急いでいるときに近道を選ぶということも嘘ではないのです過不足などの場合の違いが大切なのに、柔軟、と言って何を表しているつもりなのでしょう
(私)
急がば回れ、というのは、慌てて失敗しないように心がけるために、冷静に判断するわけですが、それに対しては、臨機応変であることが大切であって、様々な場合があるのに、それを柔軟に対応という一言で表すのは、中身がなく、何でも、いい加減に考えて、どっちつかずの何でも通用しそうな、柔軟という言葉で表して、人生の達人と言っていることが、既に、いかなる達人にもなれないのに、達人になれるようなことを言うカルトに特徴的なのでしょう。楽山の世界では、何事を語るにしても、いい加減になってゆきます。
(私)
人生の達人という完全言葉を、うかつに使うと恥をかくということです謙虚な人は、達人などという完全言葉については、使うことを控えるでしょうし、むしろ、ここでは、達人ではないから、ということを主題とするのではないかと思います。日頃から、何も語れないのに、何でも語れる気でいる人に限って、何かのテーマで語るとき、無分別と未消化によって、誰のためにもならないような柔軟という言葉一つでごまかして、何かを語った気分になってしまうのです。
(私)
カルトの完全欲を自分に当てはめて、出来ているかのような気分を作っているのだと思います。気に入らないことを無視して楽なことだけを追求してゆく生き方の楽観主義を幸福としてゆく向きは、可能と不可能を区別できなくなって、さらに夢のようなことを言い続けるでしょう。最後には、幼稚な道徳しか言えなくなる、という途中経過のような気がします。
(私)
この辺は、キリスト者も、慎重に考えてほしいところです。一筋縄ではいかない世にあって、何でもかんでも、幸いとして喜んでいると、似たようなことになります。私たち信仰者は、信仰によって、神によって、鍛えられるのです。何でも、神にお任せで、考えるより先にそれですべてよし、という気分になるのは、自分で神を決めつけていることになるのですから
(私)
シャロームと楽山は、とても幼稚で信仰とは言えない妄想~信条~処世術を、宝物のように大事にして生き方としているわけですから、その安易な説き方に惑わされて生きることになってしまわないように、近づかないのが一番だと思います。
 
(私)
さらに注意喚起したいのは、特に、シャロームと楽山という二人の軟派カルト伝染者においては、かつて、私のブログで数十~100コメ超の無駄な遣り取りを強いてきたところの、そのとき易坊というHNの、荒らしの関与が疑われているということです。シャロームは、易坊と友達で、私を、二人で攻撃してきたことがあります。
(私)
易坊は、少なくとも私などよりはネットには詳しいようです。易坊は、やさしく語りかけて引き込み、相手が疑問を呈すると、言葉尻の理屈攻めでボロクソに言ってきます。そうやって、肝心なところで裏切り、自らの優越を示して、相手が困惑し壊れてゆく様子を、快感の食事として受け取っているようです。反省も訂正もないような、人でなし、というのが私の判断です。
(私)
易坊は、既に、複数のHNにおいて、なりすましが疑われている人です。この易坊は、明らかにシャロームの味方として、いちゃもんのような理屈倒れを書きまくってきました。そして、他のサイトをも同様に荒らして、現状では、多くのブロガーから、相手にされなくなっています
(私)
ここで注意してほしいのは、PCが二台以上あれば、本人一人だけで、異なる複数の成りすまし同士の会話が可能になるということです。さらに、なりすましを疑われやすい者は、そういうコメントの遣り取りの記録を、なりすましではない証拠だと主張するために、残している可能性もあるということです。
(私)
シャロームのコメントの筆致が、シャロームとは思えない理屈屋の筆致に変わったことがあります。楽山のブログのコメント欄だったと思いますが、私は思わず「易坊か」とコメントに書いたことを覚えています。シャロームと易坊は元々協力関係にありますが、なりすましではないかと疑った始めです。そして易坊は、心にもない妙に優しい筆致からコメントを書き始めます。易坊を知らない人は、優しい知識人と思うような筆致です。
(私)
易坊のおかげで、また、なりすましのおかげで私は、シャロームと楽山に対して、易坊のなりすましではないかという疑いを禁じ得ませんし私もまた、他者によって、なりすましを疑われていたのです。なりすましと、荒らし、という存在の害毒は、計り知れないものがあります。疑えば切りのないことですが、荒らされた可能性のあるときには、要注意ということです。
(私)
かつて、楽山は、証拠不十分を理由に、私のシャローム批判を否定しました。ずっと前のことで、証拠を示せと言われても、今となっては、私の記事についても、どこに書いたのか簡単には示せないことを承知の上で、言ったのでしょう。ましてや、コメントを全部削除しているシャロームの発言ですから、証拠は既に隠滅されています
(私)
そして、楽山は、シャロームの無法な発言がなかったという証拠について、当然、何も提示しえていないのです。しかし、問題は、裁判による有罪無罪の裁きではないのですシャロームという一人に対して、よほどのことがないと約7年も批判を続けることはない、という人間の気持ちを、楽山は、何も感じ取ることが出来ない人のようです。そのこともあって、楽山に対しては、人間として欠けているところがあるのではないか、ひょっとして、楽山が易坊だからではないかという疑惑です。ネットでのことですから、疑惑は、今後も、消えることはないのです。
(私)
私の二人に対する疑惑は、これまでの遣り取りの経緯から生まれてきたものです。しかし、今後、シャロームと楽山は、私についての根も葉もない噂話や疑惑の流言をいっぱい出してくるかもしれませんが、そのことが、彼らが、闘争的で策略的なカルトであり、荒らしの系譜であることの傍証となるでしょう。報復のために捏造した嘘を仕掛けることは、騙すことを生業とする荒らしとカルトと偽善者において、それしかないと言ってよいほど、大の得意なのです。
 
 
(2019年03月27日アップ、同日一部修正)
 
権化(ごんげ)
騙す(だます)
生業(なりわい、(せいぎょう))
遣り取り(やりとり)
煽り(あおり)
 
 私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
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