ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年03月

 
  目を覚ましていなさい
 
   明るく、素直に、あたたかく (『大霊界 死んだらどうなる』丹波哲郎[著] 近藤薫[画])
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41499115.html
 
 
硬派のカルトに嵌って、真理を得たと思ったら、違っていた、ということに気づいた者が、次には、何事も中立・中庸をと、今度は、うわべだけの付き合いによって、別の宗教や、よりによって、罪を悔い改める心を全く持たないシャロームの説教を受けている有り様のようです。
 
カルトに一度嵌った人は、二度三度と、カルトに嵌りやすいのかもしれません暗示にかかりやすいのかもしれません。硬派から軟派へ、でも、そういう軟派カルトというのもあると知りました
 

ひさしぶりに、丹波哲郎の本を読んでみた。霊界の話はひとまず横に置いとくとして、明るく、素直で、あたたかい心が大切というのは、本当にその通りだなあと思う。

 
その大切な心を、アドラー教で、また、シャロームの丁寧語に唱和することで、失いつつあるのでしょう。かくして、真実からは、どんどん遠い曖昧さに縋りつくカルトになっています。
 

そしてこの世を終えたとき、彼岸へ持っていく最大のお土産は、金でもなく、地位でもなく、明るく、素直で、あたたかい心だということを銘記することが緊急にして、かつ、絶対的な必要事項である。
(『大霊界 死んだらどうなる』丹波哲郎[著] 近藤薫[画]、学習研究社、昭和63年)
明るく、素直で、あたたかい心というのは、一言でいえば、幼児のような心ということだろうか。たしかにそういう心は大切だろうし、そういう心でいられたら、自分はもちろん周囲の人たちもきっと仕合わせだろうと思う。

 
ほんわかとした語り口に見えますが、実際は、明るくもなく、素直でもなく、温かくもなく、幼児からほど遠いところで、陰気臭く、ああでもない、こうでもない、という、ぼんやり考えるふりだけの人になって、気に入らない意見を無視しているのでは、それこそ、カルトの格好の餌食となり、自らもカルトとなって、ボンヤリ人を増やしてゆくのでしょう。
 
少なくとも、真実追求の道は、精いっぱいの正直さがなければ、精いっぱいのストレートを持っていなければ、失われてゆくだけなのです。「目を覚ましていなさい」とは、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)24:42
だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。
 (マタイ24:42、新約聖書)
 
必ずしも、主の再臨や終末のことだけではないのです。わからないことを、わからないと知って言える心が、いちばん大切です。でないと、なんとなく分かっているつもりの、ぼんやりしている人を、その心の隙に、丁寧に語りかけて、食い物にするシャロームのような者は、たくさんいるということです。
 

いつも笑顔で、もし間違えたら素直に反省して、意地を張ることもなく、他を思いやり、困ってる人がいたら救けてあげる…そんな人ばかりの世界があったら、どんなにいいだろう。
たぶん、そういう人たちが集まっている世界を天国というのだろう。

 
なんでもかんでも、ちょうどよいところを想定しているようだが、こういう夢のようなことを考えている人ほど、悪夢のような刷り込みを受けやすいでしょう。だから、シャロームのような偽善者は、優しさにつけ込んで、優しさを装って、語りかけてくるのです。ちょうどよくない自分を、むしろ情熱的に知るべきなのです
 

ただそう考えたときに、ちょっと心配なのは、もし仮に、自分がそういう世界に入っていったら、周囲から浮いてしまうのではないかということ…。なんといったらいいか、今の心のままでは、仮に天国に行けても、周囲の人たちの心の綺麗さに圧倒されて、いたたまれない心持ちになってしまいそう。

 
何を想像しているのでしょう。天国に行くと決まったわけでもないのに、天国の想定において悩んでいるのは、空想癖と好奇心に走りやすい人の特徴かもしれません。
 

あの世があるかどうか、天国や地獄があるかどうかということは、どうしたって確かめようのないことだろうけれども、こう考えてみると、どうも自分はまだまだ足りないところがたくさんあるようではある。とほほ。〈了〉

 
ですから、まだ足りないと言いながら、何が足りないかを考えているのでしょうかここでも、ちょうどよいことを書こうとしているのではないでしょうか。学びもしないで、受け入れだけしていると、シャロームのような者に、シャロームの決めつけた固定観念の天国を吹き込まれることになります。
 
 
(ここから、コメント欄です)
 
(シャローム)
楽山(自由)さん 久しぶりですがお元気ですか。
 「ただそう考えたときに、ちょっと心配なのは、もし仮に、・・・」
どんなこと、どんな時にも仮説が成り立つのですから、悩みは尽きませんね。(笑)明るく、素直に、あたたかくもそう感じ、理解し、受け取るかどうかも人により、状況により、その時おなかがすいているかによっても異なるのでしょうからかなり厳しい修業?が必要かもですね。(涙)
2019/3/8(金) 午前 8:51 [ shalom ] 返信する
 
(私)
シャロームは、厳しい修業をしてきたとでも言いたいのでしょうか。嘘吐きと偽善の修行でしょうか。それは、この地上で、最も安易な邪道なのです。それとも、修行が必要になるようなことを楽山が言っているとシャロームは言いたいのでしょうか。
(私)
修行というものでなく、弁えておくべき節操があります。唯一全能と信じた神に対する節操です。訂正不能と無視によって舞い上がった讃美言葉を並べるシャロームのような者の罠に嵌らないためです。
 
(楽山)
shalomさん、おひさしぶりです。おかげさまで元気にしてます。
いろいろな状況があり、いろいろな人がいるだろうから、絶対ということはなかなかなさそうではあります。
2019/3/9(土) 午前 6:50 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
この地上の人間の意志と行為に、絶対はありません絶対というのは神聖のことでありその神の絶対を、人間は知ることは出来ないからです。それを、知っている、分かっている、神の目で見える、と思い込んで、自分の妄想教理を吹聴してきたのが、シャロームに他なりません
 
(私)
絶対の神に対して、人間には、絶対は、絶対にない、ということを、情熱的に弁えるのが信仰です。それを支えるのは、絶対のない世界で、絶対ではない人間のために命をささげた神聖なる救い主キリスト・イエスの愛であり、そのことだけは、どうしても忘れられない人間が、キリスト者と言われます。
 
 
(2019年03月26日アップ、同日一部修正)
 
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  取り越し苦労?
 
   生きる力の源は?
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28932021.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
   類似記事:
   思い煩い⇒重~い患いからの解放
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28121267.html
 
 
この期に及んで、まだ、記事を書いてくるシャロームの、無節操と、不感不変の自己中と、高等感情の鈍麻には、想像を絶するものがありますが、どうやら、人が与える批判も反対意見も、神が与える試練も、彼は、自動的に、取り越し苦労だと思い込む、という、装置のような仕組みがあるようです。人間ならば、ありえないことなのです。
 
 
>今日の聖書のみ言葉です。

「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。
わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、
ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。
わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」
(新約・ピリピ人への手紙4章12~13節)

 
シャロームの秘訣は、無かったことのように無視することだけのようです
 

今は故人となられたある老牧師のお得意のジョークは
いろんな病気のうち一番重い病気はなんでしょうか?でした。
それは癌でしょうか。心臓病でしょうか。それとも脳の病気でしょうか。
何度もそのジョークを聞いて、答えを知っている人たちが
笑いながら、声をそろえてこう答えます。それは重い患い、そう思い煩いですと。
確かに私たちの生きる力を奪うものは思い煩い、重い患い、取り越し苦労ですね。

 
信仰の記事を書くときに、思い煩いを、重い患いと言って、そんなに面白いのでしょうか。本当の重い患いと混同しては困るのですが、癌、心臓病、脳の病気、などと、紛らわしいことを言っています。これらは、思い煩いでは済まされません。それに、シャロームの不感不応の自己中は、思い煩いではなく、重い患いでもなく、伝染性の害毒です。
 

痛ましい事件の多い中で一番心を痛めることは
いじめ、幼児虐待、子供たちの自殺です。
思い煩いを負い切れずいじめ、虐待し、死を選んでしまうのです。
思い煩いの理由にはほんとうに深刻なものもありますが、
案外取り越し苦労と言えるものも多いのではないかと思います。
でも取り越し苦労をしているその人にはやはり重い患いなのです。

 
幼児虐待を、取り越し苦労の思い煩いのついでに語っています前者は、決して後者と同次元では語ってはいけないことだと思いますが、シャロームは気づかないのです。
 

思い煩いも取り越し苦労も、後になってみれば、
なぜあんなことで、あんなに心配していたのかと思うこともしばしばあります。
心配している多くの理由が思い込みだといわれています。
り取り越し苦労の多くは、自分で作り出し、独り相撲をしているというのです。
そんなことは分かっていても、やはり取り越し苦労をしてしまうのが
弱くて、限界のある人間の悲しさですね。

 
シャロームは、自説が神によって与えられたもので、シャロームは奇跡によって、誰が何を言おうと、誰が何をしようと、神によって守られるという思い込みが訂正不能になっています。訂正不能のひとり相撲を続けて、寿命という限界に達するシャローム固有の悲劇です。
 

生活、健康、仕事、火事、人間関係や将来について思い煩ってしまいます。
つくづく人は信頼しあうことができないなと思われます。
愛し合って結婚していても、もろくも家庭が壊れてしまいます。
だれでも、互いに信じ、信頼しあうことができないと思い知らされます。
裏切られ、失望落胆し、生きる力も喜びも失ってしまいます。
人は信じあうことにも耐えられないと思い知らされます。

 
シャロームのボロクソ節は、このように、他者に向かって一方的に、お前らはダメだと言ってきます。そして、結局、自分と同じように信じて、自分のようになりなさいと言っているだけですシャロームの言うとおりにすることこそが、人間にとっては、破滅だと思います。それは、既にシャロームに表れていることです。シャロームは、他者が、いかに劣っているかを言わないではいられないようです。ここまで、病識がなく、あざけりが固定してしまうのは、珍しいことでしょう。
 

人は信じあうより、愛し合うことが大切だと思われます。
お互いの弱さ、欠点、人のありのままを受け容れあうことですから・・・。

 
人が信じあうことと、愛し合うことは、そんなに違うことでしょうか。
どちらも「お互いの弱さ、欠点、人のありのままを受け容れあうこと」ではないのでしょうか

シャロームは、何も理解できずに、何を言っているのでしょう。言葉が違うから違うんじゃ、とでも言い張りたいのでしょうか。このように、シャロームの言うことを真に受けていると、ただ疲れるだけだと気づくことが、まず最初に大事なことです。恐ろしく程度が低く、また、いい加減なのです。
 

しかし、愛し合うことも身勝手で、利己的な私たちにはできそうにありません。
もし、人が人を信じあうこと、愛し合うこともできなければ、
私たちが思い煩い、取り越し苦労から解放される道はどこにあるのでしょうか。

 
身勝手で利己的なのは、他でもない、シャロームその人です。それを、全部同類と、他者に向けてくるのですから、迷惑極まりないのです。つまるところ、シャロームは、自分の言うことを聞けと言いたいのですが、まともに聞き入れたら、人格破壊しか待ってはいないのです
 
あらゆる説教は、一定以上の理解と共感のないところには成り立たない、という例になっています。
 
>使徒パウロは次のように書いています。

ところが、主が言われた、
「わたしの恵みはあなたに対して十分である。
わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。
それだから、キリストの力がわたしに宿るように、
むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、
弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。
なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」
(新約・コリント人への第2の手紙12章9~10節)

 
この聖句は、3行目の終わりに、閉じ括弧の、」、が付いています。主の言葉だからですでないと、その前後の「わたし」が、おかしくなります。聖書を長い文脈で理解しておれば分かることなのですが、シャロームは、今回も、前回の類似記事においても、どっちでもよいのでしょうか、上の引用前半2~3行目の主イエス・キリストの言葉と、後半のパウロの言葉を、区別しないでいられるのでしょうか。
(2019年03月24日23:36現在)
 
記事自体も、文末をちょっと書き換えただけで、肝心のところには気づかずにいるわけです。福音伝道を語ったつもりで、福音も聖書も、いちばん分かっておらず、ただ人格破壊だけが進んでいるのは、シャロームなのです。
 
行き詰まりに甘んじるとは信仰の忍耐力のことですが、シャロームにとっては、行き詰まりに気づかず、行き詰まっても何事も無かったかのように、平気でいることのようです。ゆえに、行き詰まりというより、シャロームは、一歩も進んでいません
 

ほんとうに不思議な言葉ですね。
《わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。》
 《キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。》
 《キリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。》
 《わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。》
パウロには弱さもすばらしい神から与えられた恵みのようですね。
これらの言葉は重い患い、思い煩い、取り越し苦労から解放された人の言葉です。
弱さは神と人、人と人とを結ぶ絆、帯、神の恵みのようです。

 
人間の弱さは、神に対して不完全な人間の本質です。弱さそのものが恵みではなく、それによって、神を知ることこそが恵みなのです。それと、パウロの弱さや迫害による侮辱と受難は、取り越し苦労だったのでしょうか。シャロームは、殉教の道を、取り越し苦労と、気のせいと、言っているようなものです
 
シャロームが何か言えば、必ず、筋の通らないことが表れる、という繰り返しが続いています。シャロームは、聖書もキリスト教もキリスト信仰も、見栄と虚勢だけで、何も理解していないからです。
 

このようなパウロの言葉によって、
私たちが思い煩い、重い患い、取り越し苦労から解放される道は
わたしたちを造り、生かし、愛し、私たちの必要を知り、
常に私たちを最善に導き、守っておられる神を知り、
神ご自身を信頼することだと知ることができます。

 
信仰者の試練をすっかり取り越し苦労扱いした後で、神を信頼、などと、讃美言葉をベタベタ貼り付けても、並べても、何の説得力もないのです。シャロームは、自分信仰の妄想家です。
 

ですから、イエスはご自分の死を前にして、恐れ戸惑っている弟子たちに
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
(新約・ヨハネによる福音書14章1節)と言われたのです。
このイエスの言葉も不思議です。
十字架の苦難と死を目前にしておられるのはイエスご自身なのに、
弟子たちが思い煩い、取り越し苦労のとりこになっていたのです。
イエスは生ける神を見失い、思い煩い、取り越し苦労のとりこになっている
私たちを重い患いから解放し、生きる喜びと力を与えてくださるのです。

 
次には、弟子たちの思いを、取り越し苦労と見なしています。シャロームの思い上がりは、キリストの弟子さえも超えて際限がないのでしょう。キリストは、死を覚悟しているからこそ、また、キリストは、弟子たちの心が穏やかでないことを、さらに、裏切ることさえも、予想しているからこそ、心を騒がせないように、信じるように、と語っているのです
 
キリストの死という重大事が起こることに、弟子たちが取り越し苦労のとりこなどと見なして、全く愚かにも鈍感でいられるのは、シャロームだけなのです。シャロームは、神もキリストも信じていないペテン師だから、このような、信仰者とも人間とも思えないようなことを、説教として、平気で得意げに言って、満悦してしまうのです。
 
かつ、シャロームは、いつも、言い放って終わりで、批判に対して、弁明も反論も出来ないまま、被害者として迫害に耐えているつもりでいるのです。恐らく、密かに神?の復讐を願い、批判者を、神の御名によって、呪いながら。
 
シャロームには、決して好意的に関わらないでください。
いい人そうに見える人が、必ずしもそうとは限らない、という実例なのです。
 
 
(2019年03月25日アップ)
 
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  終結と無視
 
   時間を大切にするには… (気持ちの切り替え)
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41508615.html
   楽山の記事
 
 
楽山は、まだ、何かを人に教えられると思っているようです気に入らないことを無視する、という軟派カルトのアドラー教に、無視の仕方を教えられては人格破壊が広がるだけだし、それでシャロームの味方をされては自己中解釈の偽キリスト教が広がるだけです。批判を続けることになります。
 

世の中で生活している限りは、人との付き合いは必要だけれども、時間を大切にしたいという気持ちが強くなると、付き合いほど面倒なものはないと思えてくる。

 
だったら、教えるのは、やめるべきでしょう。言い訳ばかりの人です。
 

もうウン十年前のことだけど、飲み会で二人の先輩がひそひそ話をしていたのを、いまだに覚えてる。
「今日明日はもう諦めろ」
「でもなあ…」

 
今日明日ではなく、例えば私にとっては残り少ない一生の問題に、楽山は触れて障ってしまったのです。しかも、反省は皆無で、成り立たない言い訳ばかりの人です。
 

二人とも読書家だったし、付き合いで時間がつぶれるのが惜しかったらしい。一人は気持ちを切り替えていたけど、もう一人はそう簡単には割り切れぬらしかった。

 
割り切れぬとかではなく、楽山のひどいところは、反省を全くしないところです。シャロームとともに、そういう人は、不都合を忘れて、同じことを言い、同じことを繰り返します。そして、また、愚痴のような同じ言い訳をするのでしょう。
 

そういえばこれと似た話は、何かの本で読んだ記憶はある。その本の著者が学生だった頃に、田舎から出てきた両親の東京見物に付き合わなければならず、その間、勉強できないことに苛々したというエピソード。

 
親孝行と議論と、どこが似ているのでしょう。親孝行で時間がつぶれるのは惜しいのでしょうか。
 
時間を大切にするという価値観の持って行き方を履き違えているようです。このような非常識なところが、カルトに嵌ると、たくさん出てくるでしょう。価値観と分別の理路がおかしくなるのです。
 

著者はこの時、「どうせやらなければならないことならば、嫌々ではなく、それを楽しもう。勉強する時は勉強し、付き合う時は付き合おう。目の前の課題に集中しよう」などと気持ちを切り替え、その結果、両親にも喜んでもらったということだった。

 
このように切り替えるには価値観と分別を弁える理路が必要ですが、切り替え方を間違えた障り方をした人が、気持ちを切り替えようと言っています。まさしく、楽山のカルト思想に基づく自己中心が表れています。その結果、楽山だけが悦んでも、障られたほうは批判の決意が固まるということです。物わかりが良いように小手先で書き方を装っている分、言い訳は、いっそう醜いものになっています。
 

自分はどうも根がどこまでも優柔不断にできているせいか、この気持ちの切り替えがあまりうまくできないのが情けない。でもこういう切り替えはぜひとも必要なことだろうし、がんばらねば…。とりあえずは、お彼岸の親戚付き合いをがんばろう。〈了〉

 
切り替えてはいけないところで、何の解決も合意も成立していないところで、切り替えることを美徳のように刷り込もうとしている楽山です。こういう嫌らしい詭弁が楽山の技のようです。
 

*追記 20190321
気持ちの切り替えといえば、先日ネット上での論争を見ていたら、一方の当事者が論争を止めると宣言して、本当にピタリと止めてた。これには驚いた。

 
あるときの論争は、そのときにはどこかで一時的には止まるでしょう。しかし、無条件に無作法に、ピタリと止めることを、まるで美徳のように、いやらしく、吹聴してくる向きがあるのなら、根底において、いい加減な処し方では、決して止まらないものがあることを、広く敷衍する必要があります。
 
証拠不十分だからといって否定にはならず、証拠不十分ならば否定も肯定も出来ないのだから、知りもしないキリスト教というテーマについての話からは、楽山は引っ込むべきでした
 
しかし、反省しない自己中の図々しい根性をアドラー教から学んだ楽山は、快楽欲求だけに従って、平気で偽善者の味方をしたのですから、切り替えの美徳という詭弁は今さら利かないのです。詭弁+卑怯という嫌らしさになってしまいます。
 

ネット上の論争は終結宣言があっても、大概はその後もくすぶり続けるものである。当事者が「止める」と言っても、その言葉が守られるなんて期待できないのが普通だ。

 
一方、終結宣言がないことは、くすぶるのではなく、はっきり継続するということです。
 

だから、論争は止めると宣言して、それをそのまま実行した人がいたのには驚いた。これはすごい。こういうことができる人は、はじめて見たかも。

 
また、・・かも・・、で暗示したいようですが、終結されていなければ、少しも良くはないのです。ましてや、勝手に気持ちを切り替えるような人に対しては、切り替わっていないことを、明記してゆくしかないでしょう。また、とても、ねちねちした、いやさしさ、回りくどさ、婉曲、暗示などが、気色の悪い楽山です。カルトに嵌ると、自己中目的優先のあまり、体質も変わってしまうということでしょう。
 

自分は、ネットに時間を使いすぎてる、ネットから距離をとろうと思いつつも、ついついネットを覗いてしまうし、もうちょい自分を律し、自分で自分をコントロールできるようにならねば…と反省した次第である。

 
不都合を無視することを、自己コントロールと呼んで正当化する楽山を、もはや、私の議論や話し合いの相手にはしていません。楽山ブログにコメントを書くことは一応しない方針で、シャロームと同様、方向性としては、ただ一途に、広く警戒を促す批判を続けることになります。
 
悔いる心や反省力を持って、少なくとも持とうと心がけながら、ネットで何かを求めるために書き続けている人々と、シャロームと楽山は異なる種類の人間だと思っています。
 
シャロームと楽山は、気に入らないことを自分の都合だけで無視し続けられる異常な精神または信条を持ち、訂正不能で確信に満ちて他者を上から見下ろして、教えてあげるという迷惑な姿勢だけなのに、余裕ありげの丁寧な言い方で引き寄せようとして来ます
 
この丁寧さは、カルトや偽善者や荒らしなどに見られるところの、結果としては、自分たちにとっては自己満悦の、対象に対しては奴隷的な洗脳に向けた刷り込みに誘うための、体のいい導入部分として、共通しているのです。
 
第一印象だけで、シャロームと楽山をいい人だと思ってしまうと、正面を向いた真っ直ぐで正直で誠実な交流ではなく、同じような自己中の偽善の満悦境地に堕ちてゆくだけの、無条件賛同の御贔屓筋のお仲間になってしまうでしょう。
 
誰もが欲しがるような何かの悟りや安定の境地というものは、そこに立てたらいいな、と思っているあいだだけ、人間を活発にします。しかしながら、続けているうちに、そこに立っているような気持ちになるなら、むしろ、活発な心の動きを、思い込みによって封じ込める作用と持つようになるのです。
 
もともと、人間は、安定と不変の状態に自分を保つことなど、本来できるような生き物として造られてはいないのだろうと思います。
 
この揺れ動いて止まない地上世界において、人間は、心の安定に生きるのではなく、心の活性に生きるように造られているのだろうと思います。
 
したがって、終結することを、経過を無視することと勘違いしてはいけないのです。
 
 
(2019年03月24日アップ、同日一部修正)
 
敷衍(ふえん)
贔屓(ひいき)
 
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  信仰の保障?
 
 バルトと歎異抄
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28930400.html
  by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
何も言えない、何を言っても成り立たないシャロームは、人に言わせて、また、自分が書いたかのように見せかけたいのか、リンクを付けていませんが、引用の許可は得たのでしょうか。
 
シャロームは、自己正当化のためなら、また、自分を飾ることなら、手段を選ばず何でもするし、聖句も悪用するし、知らないことにまで頷いて世辞を言うほどに、貪欲で自己中です。以前からです。
 
次のサイトからの引用です。
 
shirasagikaraの日記
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20151025
 
そして文末の僅かの文章で、自分の言い分が正しいことを主張しますが、いつもいつも、シャロームは、的外れなのです。
 
 
(引用はじめ)
262文字の「般若心経」は、日本人にもなじみ深いお経です。
この経典は、204文字のキリスト教の「使徒信条」と共に、
それぞれの信仰のエッセンスをしるします。
 
(私)
信仰のエッセンスは、信条にあるのではなく、罪の悔い改め、という、神への正直な告白にあります。そこにおいて、シャロームは、真っ向から背いているのです。
 
(引用)
わたしも「ぎゃてー、ぎゃてー、はらぎゃてー、
はらそうーぎゃてー、ぼじそわか」と、
「空即是色」の意味はつかめぬまま、
丸ごと暗誦できたときは「やったぞ」と喜びました。
 
(私)
キリスト教の話の肴のように、般若心経を、冗談ぽく書いています。私は、よく知らないので、これ以上は、書かないでおきます。一面的なキリスト者にありがちな、異教の扱いのようです。
 
(引用)
しかし仏教経典なら、やはり日本人の書いた
「歎異抄」(たんにしょう)が好きです。親鸞・唯円の
「善人だにこそ往生すれ、まして悪人は」の信仰は、
キリストの福音に近いからです。
 
(私)
今度は、歎異抄を出してきて、・・それだけのようです。私が洗礼を受けた教会の牧師も、キリスト教に似ていると言っていたのを思い出します。私も、文庫本の薄い「歎異抄」を読んだことがありますが、問答になると、私には、なかなか分かりにくかったです。
 
(引用)
「浦和キリスト集会」を主宰される
無教会の伝道者で精神科医でもある関根義夫先生は、
「パラクレートス」(慰め主、聖霊)という
月刊誌を出していられます。
その2015年10月号に「主われを愛す」を掲載され、
神学者バルトのことを紹介されました。
あるときアメリカの新聞記者が、20世紀を代表する神学者で、
ご自分の背丈より高いほどの著作がある
カール・バルト先生に、こう質問したそうです。
「端的に言って、要するに、先生は何をおっしゃりたいのですか」。
するとバルトは、しばらく考えた後、やおら答えました。
「それは『主、われを愛す』ということです」。
すごい答えです。「われ、主を愛す」ではありません。
 
(私)
キリスト信仰は、主が我を愛することに、我が答えて、主を忘れられず、主を愛することによって、成立します。ところが、シャロームは、主を愛していないのでしょうか、一方的に神に愛されていることばかりを言い張っています。神と人は双方向です。神が、そのように、人を造られたからです。そのことは、創世記をはじめとして、福音書に至るまで、聖書の至るところに書いてあるのです。
(私)
シャロームの信仰は、自分は神に一方的に愛され、奇跡で守られる、という、被愛妄想で出来ていて、自分が何をしても赦され、罪を悔い改めなくても赦される、という信条ですが、そのようなキリスト教は存在しません
(私)
前にも引用元サイトにはシャロームの勝手な引用について書いたような気がしますが、なぜ、引用元は、シャロームに抗議しないのでしょう。引用元は、シャロームのお味方なのでしょうか。コメント欄もゲストブックも、シャロームが閉鎖しているからでしょうか。ならば、ヤフーに抗議するべきなのです。
 
(引用)
すべてを知り尽くした人でないと言い放てない深い一句です。
 
(私)
「主、われを愛す」だけで深い、というのは納得できません。誰もが認めることだからです。そうして、現に、考えることが嫌で嫌でたまらない偽善者シャロームに、今までも引用され、神からの一方的な愛され妄想となって、いいように利用されてきたのです。
 
(引用)
わたしの信仰の師・酒枝義旗先生が1936(昭和11)年、
ドイツ留学の帰途、そのカール・バルト先生を、
スイスのバーゼルにたずねたときのこと。
酒枝先生が「歎異抄」の「善人なをもて往生をとぐ、
いはんや悪人をや」の説明をしたところ、
バルトはテーブルを叩いて「それこそ福音だ」と
言ったそうです。
さすがバルト先生。
キリスト信仰の中核は「主、われを愛す」だと喝破し、
「いはんや悪人をや」を「これぞ福音」と評価する柔らかさ。
ただ「歎異抄」には、キリストの十字架という
贖罪の保証がありません。
そこがキリスト信仰から見て物足りないところです。 
 
(私)
異教批判をするつもりでしょうか。全く起源の異なる異教である仏教、しかも浄土真宗という宗派に対し、キリスト教の要素を持ってきて、これがないから物足りない、という批判は、まさに我田引水と言うべきでしょう。いわゆる、分かっているわけでもないくせに・・、ということです。
 
(引用)
しかし、罪人が真っ先に救われるという深い信仰の消息を、
福音を知らずに今から700年も前に教えた名僧が
日本にいたとは!。驚きであり、誇りであり、
日本人の宗教性の高さを示しています。
 
(私)
ここで、日本人の宗教性の高さと言って、日本人が優秀である、ということに持ってゆくのは不当です。親鸞という特別な宗教家の洞察を褒めるにとどめるべきでしょう。何故なら、キリスト教から見ると・・という立場からしか、キリスト者は語れないからです。
 
(引用)
「イエスはわたしたちのために、命を捨ててくださいました。
そのことによって、わたしたちは愛を知りました」
(第1ヨハネ3・16)
 
(私)
私たちキリスト者は、キリストの愛を知っています。命を捨てるほどの、キリストの愛は、命を捨てるという行為だけでなく、砕かれた魂で救いを求める人々への赦しと癒しと救いによって、受け取っているのが、私たちキリスト者の宗教と信仰の体験であります。
(私)
念のために言っておきますが、死んだくださってありがとう、とキリストに言って、感謝だけで表せるような信仰ではありません。
 
 
(私)
次の聖句は、引用元には、書いてないようです。シャロームの引用でしょうか。
 
(シャロームの引用聖句)
5:36わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。
5:37また、わたしをつかわされた父も、ご自分でわたしについてあかしをされた。あなたがたは、まだそのみ声を聞いたこともなく、そのみ姿を見たこともない。
(ヨハネによる福音書5章36~36節)
 
(私)
人が見たことのない神が、キリストのわざによって、キリストを証したと、キリストが語っているのです。キリストが、神の子であり、神聖であり、救い主であることと、同値だと思います。
(私)
なぜ、この聖句を、「神、われを愛す」の文脈で出してきたのか、危険な感じがします。「わたし」は、もちろん、キリストのことですが、まさか、シャロームは、自分に、なぞられたりしていないでしょうね。何だか、いつもシャロームの引用と言説は、胡散臭いのですが。
 
 
>《shalomのコメント》

信仰は人による考え方を信じるのではなく、
信仰の保障を与えられた方を信じることです。
信仰の保障は生ける神のみが与えることができるからです。

 
(私)
シャロームは、保証ではなく、信仰の保障、と書いています。二度、書いています。
ネットで検索してみると
 

保証は、大丈夫だとうけあうこと。
 
ほしょう【保障】
《名・ス他》障害のないように保つこと。特に、現在・将来の状態や地位を(侵略から防ぎ)保全すること。 「安全―」
ある状態がそこなわれることのないように、保護し守ること。「国家の安全を保障する」「社会保障」
 」
 
(私)
私たちは、神様から、私たちの持っている総てのものが、自尊も含めて、すべてOKのまま変えないで保持されるという「保障」は受け取っていないはずです。古いものは新しいものに改められるのが信仰です。
(私)
したがって、保証のほうが、どちらかと言えば、妥当なのです。シャロームの、いつも安全が保たれ不変の自尊が保たれる保障を求めて、得られているという信仰?は、明らかな誤用です。
(私)
シャロームは、保障などという言葉を使うことで、またしても、馬脚をあらわしています
 
>私たちはただ与えられる信仰を受け容れるのみなのです。
 
(私)
これを口実に、シャロームは、自分の言動を、正邪を問わず、すべて、神が与えた恵みと思い込んでいるようです。それゆえに、不変不応となり、聞かないが、言うだけは言う、という信仰?になっています。著しい誤謬であり、詭弁です。
(私)
何故なら、私たちは、信仰者でも、過ちを犯し、罪を犯すからです。その事実を認めないキリスト教もキリスト信仰も存在しません。
(私)
シャロームは、罪さえも、神の与えた恵みそして信仰と見なし、そのために、正直に告白することもせず、平気で嘘を吐きながら、罪であることを認めず、悔いることも改めることもしないでいるのです。神聖の名を利用した、このような自己正当化が、カルトでなくて何なのでしょう。
(私)
シャロームは、書けば、いつも、このような、極めて幼稚な詭弁の言い逃れを繰り返してきます。それは、キリスト教ともキリスト信仰とも真逆の、反信仰であり、正直言って、見るたびに、言い知れぬ不快と吐き気を催します。
(私)
シャロームは、いつまで性懲りもなく、嘘吐きの記録を積み重ねる気なのでしょう。恥ずかしいことです。批判記事を書くのは、シャロームの影響を、誰も受けてほしくないからです。
 
 
(2019年03月23日アップ、同日一部修正)
 
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  コンニャク説教(3)
 
   人のことを決めつけてはいけない?
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41503450.html
   記事とコメント。
   私のコメントは私の記事専用です。書き込みません。
   彼らに巻き込まれて、気持ちの悪い人間にならないためです。
 
 
(私)
補足的に書いておきます。
 
(楽山)

アメリカ映画ではいろいろな人種の役者が出てるけど、アジア系が出ると何となしに浮いて見えることがあるということです。物語の流れとしての必然性があるなら違和感なく見れるけど、そうでなくてさほどの必然性もなく、唐突に出てくると、なんか浮いてると…。
でもまあ、これは慣れの問題であって、そのうち何ともなくなるかもしれません。

(シャローム)

それは自然、風土、宗教の異質性に関係しているのかもしれませんね。

(楽山)

上にも少し書いたとおり、時間が解決するのかもしれません。

 
(私)
映画の問題なら、そして時間の問題なら、とっくに解決していて不思議はないでしょう。何の解決を待っているのでしょう。
(私)
それに、シャローム、という、異文化、というより、邪悪な妄想宗教には、楽山は、あっという間に、馴染んで、味方をするようになったのです。
(私)
時間が解決する、とは聞いて呆れる。いかに、いい加減で当てにならない節操で生きているか、ということです。時は解決せず、今できることをする、という方針しか成り立たない場合があります
 
 
(私)
楽山は、性懲りもなく、さらに書いているようです。
 
(楽山)
>信仰という発信内容についてブログによる発信に疑問を感じておられる人もある
この問題は、幸福の科学でもありますね。
ネット上で声が大きい信者さんって、自分教の人が多いんですよね。
 
(私)
シャロームのボロクソ節と誇大妄想的豪語楽山の知識不足と無理解でも執拗ねちねち断定は、形を変えた自分信仰、自分教です。見かけだけ柔和を気取っているので、その都度、二人の訂正不能性を指摘してゆく必要があります
(私)
自分信仰、自分教の特徴は、この自己中の訂正不能性にあるのです。言い方や表現の強いのがそうだ、という印象操作をしているようだが、どこまでも狡猾な楽山に騙されてはいけません。
(私)
楽山と同様にシャロームの味方をした自己中心のナルシシストで荒らしの易坊に、理路のごまかし方が似ている。
 
(楽山)
教義解釈が我流すぎたり、ネット上では偉そうなことを言うけれども現実には支部にも行かず、全然活動してなかったり、そのせいで教団の実態には無知で、自分のイメージだけで語ったり…。
こういうのは、真面目にリアルで活動している信者さんからしたら、あまり愉快ではないだろうなあとは思います。
2019/3/21(木) 午前 8:51 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
・・だろうなあ、という楽山の、ああでもないこうでもない婉曲表現ですが、楽山は、訂正不能の自尊による傲慢を隠すために、このような、柔和に見せかける言い方をしてきます。
(私)
楽山は、HSのことを言っているのでしょうか。支部にもいかず、活動していなかったり、ということを悪いと言っているのでしょうか。
(私)
自分のイメージだけで語ったのは、まさに、自分のイメージだけで、キリスト教の悔い改めの重要性も知らずに、シャロームの味方をした楽山に他なりません。
 
 
(私)
以前の問題の補足ですが、
証拠不十分だからといって否定したことにはならず、つまり、証拠不十分ならば否定も肯定も出来ないのだから、知りもしないキリスト教というテーマについての話から、楽山は、引っ込むべきでした
(私)
しかし、反省しない自己中の図々しい根性をアドラー教から学んだ楽山は、快楽欲求だけに従って、平気で偽善者の味方をしたのです。引っ込めない理由でもあるのでしょうか。荒らしの易坊のように。
 
 
(2019年03月22日アップ、同日一部修正)
 
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