ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年04月

 
  排泄の口
 
神も聖書も謎だらけだが
救いと恵みの後に先に戒めがあっても
祈る姿勢くらいは持っていられる
 
しかし信仰と聖句について
言行不一致の不正直な人が
同じようなことを言ったりすると
なぜか違和感から不快になることさえある
 
自分も言うかもしれないのに
だから
悔い改める正直さだけは持っていたい
 
人間はおかしいところがいっぱい
不完全、欠点だらけ、罪深い、ちょっと変、一面的
いっぱいあって
つくづく聖なることを語るには向いていない
 
人間としては
聖なる言葉・恵み・教えを説くより
聖ならざる自らの不能を語るほうが相応しい
それによっても
聖なる御方に寄せる希望は生まれるだろう
 
まことに意地が強くて悪い頑固な人間が
聖なる神の救いを得々として語る口は
汗腺か皮脂腺か
あるいはもっと臭くて不潔な
しぶきを飛ばす排泄の管になりうる
 
(2011年10月10日、同日一部修正)
(2019年04月27日、修正)
 
 
  誰の前で幼子?
 
聖句「幼子のように」が
「素直に」の意味であるとしても
それはキリストの前でのみ成立する姿勢である
 
キリストの言葉を今の時代
直接聞くことは出来ないのだから
実際には説教者の語る聖書解釈や信仰の話を
信仰者は自分の思いや経験と照らし合わせながら
信仰の成長を期待することになる
 
したがって「幼子のように」は
人である説教者の言うことを素直に
さらに無条件に受け入れよという意味ではない
 
ましてや
疑問や反対意見があるときに
その発言を封じる説教者は最低である
 
そういう説教者は信仰者を
幼子に対するように子供扱いして
キリストの代弁者として
神の権威の立場から物を言う
 
キリストが語るなら
幼子のように素直に聞くのが信仰者だが
 
説教者はキリストではなく人に過ぎないのだから
説教者が語ることを
決して「幼子のように」素直に鵜呑みにしてはいけない
 
巷にも
特にネットには
おかしな説教者がいっぱいいると思っていたほうがよい
 
従順な人を悦び迎え
従順でない人に不機嫌になったり冷たくなる説教者は
ひたすら正体を隠しながら
往々にして偽りを聖句の権威で飾り
「幼子のように」隷属することを求めてくるのである
 
そのような説教者を裸にしなければならない
 
ただ御一人の飼い主たるキリストに
飼われて生きる羊たる信仰者は
少なくとも
そのような説教者に近づいてはいけない
 
飾らず偽らず隠さない説教者は
信仰者に教える人ではなく
信仰者とともに考え
ともに思い悩む共感者でいなければいけない
 
「幼子のように」は人に対する従順を意味してはいない
また、神に対する従順は人には確定できないのだから
「幼子のように」という聖句は
先入観や固定観念にとらわれないで
修正と学習を可能とする虚心をもって考える心を意味するとしか言えない
 
このことは説教者だけでなく
信仰者が信仰者に語るときも同様である
 
(2011年10月10日)
(2019年04月27日、修正)
 
幼子(おさなご)
巷(ちまた)
 
 
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  死を利用する者
 
   「死を超えた生命復活の眼差し」・・山本七平氏夫人れい子さん
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28958858.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームは、他者の信仰を讃えるのだからいいだろうと思っているかもしれませんが、今までの言動を考えるならば、シャロームは、決して、神を誉めている場合でも、他者の信仰を誉めている場合でもないのです。
 
シャロームは、神をべた褒めして、自らを正当化するために、他者の死を利用しているのです。
 
罪を悔い改めることのないシャロームは、自己正当化のために、悔い改めは神が与えると言って責任を神に転嫁しました。
 
罪に罪を重ね、背きに背きを重ねてきたシャロームは、それを打ち消したいのでしょうか。しかし、他者の死の有り様を引用して、神を讃美することで、自らの背きをごまかすことなど出来ません。
 
今に始まったことではありません。他者を利用してでも、神を讃美しまくることで、自分はこんなに熱心な信徒だと思わせたいのです。シャロームは、そういう人です。
 
シャロームが、シャローム自身の背教の問題を、スコーンと脇へ置いて、無視していることを忘れてはいけません。シャロームのように、自分の問題に向き合うことなく、他者の死を利用してまで神を讃美して、背教をごまかすことは、キリスト者なら、決して出来ないことです。
 
シャロームは、キリスト者ではありません。
 
>最後に山本七平氏夫人れい子さんの「死を超えた生命復活の眼差し」を紹介します。
>死を越えた生命復活の眼差し・・・・おわりに
>十二月10日の早朝。
>主人は、あれほどもう一度行きたかったエルサレムに、
>永遠なる痛みも苦しみもないまことのエルサレムへと旅立っていったのです。
 
前の記事に
 
>平成三年十二月十日午前八時半、山本七平氏は天に召されました。
 
とあり、
 
>主人の願望で、がんセンターへ解剖をお願いしてあったので、すぐに連絡しました。
>天国へのいでたちは、
 
とも書いてあるように、
エルサレムへ旅行したのではなく、天国へ旅立ったということです。
 

天国へのいでたちは、やはり、彼の大好きなユニホーム、聖地旅行に行くときに毎回着た、
オリーブ色のジャンパーに徳利セーター、グレーのズボン。
これを着るとたちまち、遠足前の小学生の顔になりました。
今度は皆をどこに案内しようかなあ、あそこにも、ここにもと考えて、
すり切れた聖地の地図を眺めるのが最高の楽しみのひとときでした。

 
故人は、聖地エルサレムへ旅行したことがある、ということです。
 

彼はなんの肩書もなく、「僕は出版社の親爺だよ」
作家、評論家といわれるのを嫌い、「山本書店主」が、彼の唯一の呼ばれ方でした。
「肩書なんて、どうだっていいんだ。男は内容で勝負だよね」
それが主人の口癖でした。
主人の本が東大で教科書に使われたことを知ったとき、
「へぇ!僕のような、なんの肩書もないやつの本で勉強していいのかな」
主人はそういって、うれしそうな、恥ずかしそうな顔をしたのを覚えています。

 
シャロームは、故人が、いかに信仰の熱い人であるかを讃えています。
シャロームは、こういうやり方で、自らの背教を薄めようとするのですが、自らの罪を悔い改めることなく、罪を赦されることはないのです。
 

「七十を過ぎたら、ゆっくりしよう。
世界中の美術館を回ったり、音楽会に行ったり、好きなことをしよう」
自分でそういっていた矢先、夫はこの不治の病に倒れたのでした。
この闘病の一年、主人は今までの多忙な日々と変わり、本当に良き父親であり、
わたしにとっては、よき夫でありました。
また、一日一日が貴重でありましたし、彼がモットーとしたまさに「一日一生」の日々でした。

 
シャロームは、死が迫ったとき、いったい、どうやって信仰のあかしを立てるつもりなのでしょう。
今まで、シャロームは、ずっと平気で、ごまかしだけに生きてきたのです。
 

神は主人を天にお召しになる前に、この準備の日々をお与えになったと思われます。
神をよりいっそう深く信じ、神にすべてをゆだね、神と語る時が与えられたのです。

 
シャロームは、神と語れるのでしょうか。神に対して、同じようなごまかしが通用するとでも思っているのでしょうか。他者の信仰を誉めている場合ではないのですが。
 

それは、主人の自叙伝にも書かれてありますように、
「静かなる細き声」に、深く導かれての日々でした。
主人との別れの祈りは、息子に頼みました。
わたしは彼がどのようなことを祈ったか、覚えていませんが、
そばにいらした看護婦さんがこのことを覚えていて、大変感動しましたと言われました。

 
シャロームは、「静かなる細き声」を全く無視して、導きを無視して、神に背く日々でした。いったい、どんな祈りが可能になるでしょうか。大変な偽善を覚えられることになるでしょう。
 

そのあと、彼の遺体はがんセンターへ。
それにしても、神さまは、六十九年間、主人を生かされましたけれども、苦難の多い人生でした。
フィリピン野戦での極限状態、その後遺症としての数々の病、失職。
彼の血と汗の結晶としてつくられた本や、家、家財、アルバムなどの思い出の品の数々が
火災によって、一瞬にして灰となった不慮の災難、
そして幼い娘二人を含む、愛する人々との死別がありました。
主人は、それに真正面から立ち向かいました。
あの火事のさなか、燃え落ちる家を見つめて、「転んだら起きればいいんだ」と叫んだ勇姿。

 
故人の苦労話をして、また前には、自分の苦労話をして、背教の偽善をごまかしてきたのが、シャロームです。私が記事に書いてきたように、キリスト者なら出来ないような嘘を平気で吐いてきたのです。シャロームは、キリスト者ではありません。
 

そして、がん告知を察したとき、
「感謝だよなあ、この四十年は、神に感謝する年月だった」と独白した人!
彼の最後の闘病生活は、今までの人生の総決算であり、
まさしく、「よく生きた人が、よく死ねる人」を地で行っていたのです。
主人の最期を察し、死を越えて、「僕の魂はガンには決して負けない」といいはなった
闘魂と勝利の人生のあかしを、カメラに収めました。
昨年、ある新聞社の記者が、主人の闘病を取材に来られたとき、
数多くの写真のなかから、わたしの写した、その亡くなる三日前の最後の姿をピックアップされ、
「よくぞ写されましたね」といわれたのでした。
わたしはなんとかして、主人の内面から出る、痛々しくも勇ましい叫びを撮りたかったのです。

 
このように、シャロームは、自分の話をすれば醜い背きの履歴しかないために、盛んに他者の信仰をべた褒めして、自分以外の信仰を讃えることで自己弁護に代えています。引用された個人が、いい迷惑だと思います。
 
>ブラウニングのアソランドの詩の一節は、主人のためにあるのかと思われます。
>「倒れるは立ちあがるため、敗れるより善戦するため、眠るは目覚めるため、(復活するため)」
 
立ち上がることはせず、人を倒そうとし、善戦ではなく、偽善をほしいままにして、
シャロームは、いったい、どういう世界に目覚め、復活できるつもりでいるのでしょう。
 
なぜ、他者の死を利用してまで、これほど白々しい記事が書けるのでしょう。恐ろしい人です。
読んでいて、こちらが震えそうです。偽善者は、ここまでするのかと、身の毛が弥立ちます。
 
罪を認めたことがない、悔い改めたことがない、平気で嘘を吐いて「(笑)」と書いてくる、荒らしや偽善者やカルトと一緒になって嫌がらせをしたり貶めたりしてくる、やたら説教や讃美話を大仰に語ればよいと思っている、自らの罪と向き合うことなく、偽善をごまかすのに、神を讃美しておけばよいと思っている、他者の信仰を讃えればよいと思っている、このような人は、決して、キリスト者ではなく、偽善者であり、キリスト信仰の敵でしかないのです。
 
>(続きます)
 
シャロームは、いったい、どのように続けられるというのでしょう。
自らの偽善をごまかすために、これほどまで、他の信仰者の死を利用したうえで。
 
 
(2019年04月26日、同日一部修正)
 
弥立つ(よだつ)
貶める(おとしめる)貶す(けなす)
 
 
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  陰の人々
 
 
部屋の灯りを消すと
さっきまで腰掛けていた椅子も消えて
うすぼんやりと浮かんでくる部屋の形は
部屋ではない
 
黒の漂う夜は
過去も未来も臭ってくるが
暗夜を行き交うのは
生きている人ではなく
陰の中の影になった人たち
 
連れて行ってくれないか
恨みでもあるのなら
むしろ連れて行ってくれないか
 
死にたい欲望はないが
この世さえ
いくら叫んでも届かないなら
好きな色は青
でもいつも
身近にあるのは黒
ずっと覗いてきたのだから
 
青から黒へ渡って
誰も見たことのない
宇宙の果てと深海が同質になるような
隠された光の深い深い淵に過ごす
 
ともに陰の人々の
やさしさのやましさ
 
(2011年10月09日、同日夜あっと思って修正)
(2019年04月26日、修正)
 
淵(ふち)
 
 
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  「讃美の家」批判15 (加筆修正)
   聖書の聴き語り→「7×7×10=無限」未承認コメント
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
   聖書のみ言葉の黙想→「聖書と虚無主義」
 
 
(私)
まず、自殺者を責めて、自殺者は聖書を読み間違えたと、
説教のネタにする牧者は最低だと思います。
(私)
私たちが、自殺に接して考えるべきことは、自殺をとどめ得なかった悔いと罪であり、
自殺者を責めることではなく、自殺者のとりなしを、神に祈ることです。
 
他の牧師の記事の引用・転載
 
>ある娘さんはこの『伝道者の書』が気に入って、聖書の中の他の諸書を読まず、
>この書ばかり愛読して最後に自殺した、という。
 
>この本が伝えんとするところは、〈永遠〉を思わぬ人生は空だ、ということ。
>《神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
>神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。
>しかし、人は、神が行なわれるみわざを、
>初めから終わりまで見きわめることができない。》
>(伝道の書3章11節)
 
>創造者であり、永遠者である神と無関係に生きようとするところに、
>人生の虚無の深淵が口を開く、と説くところに伝道者の本音が口を開く。
 
自分が一言で済ませたことについて、後出しで言い訳を、
他の人の言葉でそのまま、しているかのようです・・・
2011/10/9(日) 午前 2:39[ st5402jp ]
 
自殺に至る本人の体験も心も人は知り得ないのに、
本文記事を認めて賛同すれば、
その文脈では「伝道の書」の誤読が自殺の原因
ということになってしまうことに気づかないのでしょうか。
 
しかも、あれは記事のように人から聞いた話だから
と転載することで事足りたかのように済ませるつもりなのでしょうか。
 
>薬も飲み方を誤れば毒になる。
 
聖書も読み方を誤れば毒になるという意味でしょうが、
それが当てはまるのは誰でしょう。
自分は聖書を誤読せず正しい理解をしていると言いたいのでしょうか。
 
(私)
シャロームは聖書を全く違う方向に読み違えていると思っています。
今までも書いてきたようにシャロームは
悔い改めない自己の正当化のために聖句を悪用します。
聖書は読み方を誤れば毒になると言っていますが、
まさに、シャロームは、聖書の読み方を誤って、
他者を自分の妄想に巻き込みたがる毒そのものになっています。
 
記事を受けて、あなたが
 
>神なき虚無から永遠の命の世界へ導きいれてくださる
>イエスと出会ってほしいですね。
 
と書いてしまえば、自殺者本人に
 
「誤読によって虚無へ呑まれた人」というレッテルを
あなた自身が貼ってしまう文脈になってしまう・・・
あなたの人間性と人間的感情が、聖書を学ぶことに専念してきた
という自負によって、あなただからこそ、いかに偏って
硬直してしまっているか。・・・つまり死者への冒涜、
これは神への冒涜にならないのでしょうか。
これが聖書を学んできた人の正しさでしょうか。
 
2011/10/9(日) 午前 2:41[ st5402jp ]
 
(私)
まさに、シャロームの説教は、聖書を曲解してきた者の妄想なのです。
そうして、自殺者を、死人に口なしと、神の許しもなく冒涜し、
自らの理解や説得力のなさを言い逃れようとする暴挙なのです。
そこには、死という恐怖に対する共感性の欠落があるのです。
自分の信仰の正しさを絶対化し訂正不能にして思い上がった上から目線の、
あれら自殺者は劣っている、という軽蔑がベースにあることを表しています。
 
 
心を元気にするマナ→「自由は制限つき」
 
これも転載記事。
 
>それでは、人は、どんな場に生かされるとき、
>本当の自由を味わうことができるのでしょう。
>聖書はこう教えています。
>「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、
>今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」
>(ペテロの手紙第一 2章25節)。
 
>本来あるべき場所から離れてしまったら、それは不自由なんですね。
>羊が羊飼いから離れたら、自由ではなく、それはただ危険なだけです。
>聖書は、イエス・キリストこそが私たちの羊飼いであり、
>この方の導きの中で歩むことこそ、
>本当に自由の中を歩む生き方が始まると教えているのです。
 
>コメント:
>人は自分に与えられた制限を認め受け容れないと
>自分が自分であることもできない存在なのですね。
>それが人は善悪を知る木の実を食べることによって
>与えられた制限を受け容れないと死ぬという言葉の意味のようです。
>2011/10/8(土) 午前 8:47[ shalom ]
 
2011/10/9(日) 午前 2:44[ st5402jp ]
 
(私)
本来あるべき場所は、一生求めてゆく道であります。
キリストの導きの中で歩んでいるという慢心が、シャロームを、
決して自由ではなく、身勝手な恣意の傲慢へと向かわせています。
 
人が自由であるための「制限」とは、人からではなく、
「神から与えられた制限」であるはずです。
あなたは、人の言論を制限して、というより封殺して、
反対意見を無視したまま、その行いの言い訳と正当化に、
神と、神の与える制限と自由を利用しています。
あなたは神なのでしょうか。
 
そういう行いを平気でやってしまうあなたという牧者は
はたして「神からの制限」を受けようとしているのかという疑問と
人である牧者が、牧者としての自負によって人間性を壊し失いながら、
真の牧者であり飼い主である主イエスの真似をするとどういうことになるか
ということを問題として私はずっと批判してきているということです。
 
あなたが隠す人になったので、
私は暴き曝す人になっています。
 
「本来あるべき場所」即ち
「主イエスの下にある人間の立場」から
離れてきているのはいったい誰なのでしょう。
主イエスは人間の心を捨てて人間離れして超人になれ
とは教えていないはずです。
 
2011/10/9(日) 午前 2:46[ st5402jp ]
 
 
聖書のみ言葉の黙想→「神の恵みのうちに生きる」
 
>自分の弱さを受け容れ、
>弱さを通して神の恵みのうちに生きるものとされるのです。
 
>弱さを通して神の恵みに生きる人、
>弱さを誇る人と変えられたのです。
 
(私)
気に入らないとコメントを平気で削除することは弱さを通していることとは正反対です。
あなたシャロームは、弱さを誇る人ではなく、気に入らない者は強制的に排除する、
という、暴力の強さを誇っているのです。
 
あなたは自分のことを、
聖人に譬えて「(しなやかな)岩(ペテロ)」と言ったり
今回は「弱い」と言ったり忙しいようですが、
あなたは少なくとも弱いものとして生きてはいません。
 
人を踏みつけて省みず改めない人がどうして
弱さを通して・・・などと白々しいことが言えるのでしょう。
あなたは恐ろしいほど強く、それは神を真似た確信であり、
そのために少なくとも一人の信仰者である私を踏みにじっています。
 
最低限の改められることを頑強に改めないでいて、
それでも「弱さを誇る」などと言う体質が信仰ならば、
それは実際には神を恐れず慢心している姿でしかなく、
確信に満ちた恐怖でしかありません。
 
2011/10/9(日) 午後 3:28[ st5402jp ]
 
あなたの信仰は、聖句を唱えながら、例えば、神への「おそれ」を「畏れ」と、
神の「ゆるし」を「赦し」といったように言葉や信仰の形式を整えて、
また、キリスト信仰は宗教ではないとも言っているようだが、
実質的には、言動において固着した自分の宗教観の伝道者でしかないようです。
2011/10/9(日) 午後 3:30[ st5402jp ]
 
(2011年10月09日、同日追加修正))
 
(私)
シャロームが、平気で嘘を吐き、詭弁を弄し、
誇大的に奔逸する妄想家であることが、
今までの成り行きから明らかになっています。
 
(2019年04月26日、修正加筆)
 
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  「讃美の家」批判14
  聖書の聴き語り→「7×7×10=無限」未承認コメント
   by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
  
  聖書のみ言葉の黙想→「罪の奴隷解放者イエス」
 
 
>人が自らの善悪の基準を捨て、
>ただイエスに対する信仰によって、
>人に罪の赦しと永遠の命を与える保証とされたのです。
 
あなたは自分の判断が
自らの善悪の基準によらないと言えますか。
あなたは反対意見封殺のことを、改めもしないまま、
イエスに対する信仰による行いだとでも言うのでしょうか。
 
私(のコメント)は、あなたの書庫の奥の奥に生き埋めにされたまま、
もはや知らない人は、どこであるかさえも分からなくなっています。
 
2011/10/5(水) 午前 4:37[ st5402jp ]
 
 
土の器→「一人も滅びないように」
 
ヨナ「わたしにとっては、
 生きるよりも死ぬ方がましだからです」
神「あなたの怒るのは、よいことであろうか」
ヨナ「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」
神「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」
ヨナ「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」
神「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びた
 このとうごまをさえ、惜しんでいる。
 ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、
 あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」
  (旧約・ヨナ書4:1~11)
 
「とうごま(唐胡麻?)」は、
ここでは日陰を作って暑さを凌ぐ植物で、
神がヨナに与え、戒めのために奪ったもの。
神は「滅ぼす」という預言をヨナに託されたが、
神がそれを思いとどまったことで、
ヨナが預言者としての面子がつぶされた怒りを叫ぶ。
ヨナが三日のあいだ魚の腹の中にいたのち外へ出たことは
キリストの復活にも譬えられる。
神と預言者が対話するという旧約聖書の興味深い物語である。
2011/10/5(水) 午前 4:39[ st5402jp ]
 
あなたも私も、神でも預言者でもない。
あなたは牧者かつ信仰者、私は信仰者であるのに、
あなたは私(のコメント)を長いあいだ~恐らく永遠に?
あなたの腹の中に閉じ込めるのでしょうか。
 
あなたは小さな「一人」の狂いそうな思いを察することをしない。
あなたは悔い改めた町ニネベに対するように思い直すこともしない。
あなたは、私を閉じ込めたまま、無視と無反応を貫く。
悔い改めなかったから、という理由はどちらに当てはまるのか
・・・もはや今の私には分からないが、
あなたは、悔い改めないのは私のほうだと言いたいのか。
あなたは神なのか。私は神でも預言者でもない。
なのに
「(とうごまのために)あなたの怒るのはよくない」
という聖句の記載された記事を持ち出してくる。
 
なおも、あなたは牧者の「面子を保つ」ために
「とうごまと神とヨナ」の話を信仰者に説こうとするのか。
 
神でも預言者でもないあなたが
神でも預言者でもない私に与えた「とうごま」は違う種類のようです。
 
「・・・猛毒リシンを含む。ひまし油を製し・・・」(広辞苑)
 
2011/10/5(水) 午前 4:51[ st5402jp ]
 
 
無題→「出発の仕方」
 
いい話ですが、行いが矛盾している今のあなたが語ると
言葉にも受け入れがたい矛盾が自ずから表れてきます。
 
>「イエスの焼き印」を身に受けている人は、できないことがあるのです。
 
できることがあるのにしない牧者もいます。
「自我の焼印」を身につけているからでしょう。
 
>教会という、祈りの場所から出発してみていただきたいのです。
>もう一つのドラマがきっと生まれます。
 
あなたという牧者と私の関係においては
一つの悲劇が生まれ、未だ終わっていません。
 
2011/10/6(木) 午前 9:48[ st5402jp ]
 
 
聖書のみ言葉の黙想→「羊と羊飼い」
 
>人を隷属化してしまい、蟻地獄のように人を呑みこんで行くのです。
>生ける神を見失い、神を畏れることのない人のわざは死に至るのです。
 
反対意見を封じる牧者のイエスマン専用ブログこそ、
このようなものだと思います。
 
>禁止癌(近視眼?)で、
>目の前にある草を食べることに一生懸命になり、
>自分がどこからどこへ向かっているのか、
>今どこにいるのか、まわりを見て危険を察知したり、
>危害を加える獣と戦う力もないのです。
 
遠視眼で、神について自分の考えに従順な人に語りながら、
自分が踏みつけたままになっている人を見ようとしない牧者もいます。
 
2011/10/6(木) 午前 9:49[ st5402jp ]
 
(2011年10月05日)
(2011年10月06日、追加修正)
 
 
(私)
自らの善悪の判断を捨てよ、と私に当てつけ、
とうごまの聖句を持ち出して、私の怒るのは良くないと当てつけ、
「イエスの焼き印」を身に受けていると自己正当化していますが、
(私)
自らの善悪の判断でコメントを隠蔽・削除し、
気に入らないコメントを削除するときに怒っているか冷血となり、
「イエスの焼き印」を受けたと言いながら、
神を恐れず、どこへ向かっているのか察知することもなく、
自己正当化に聖句を悪用して、悔い改めもしないシャロームなのです。
(私)
シャロームが引用する聖句も、読む本も、
総て、シャローム自身を斬ることになる、という成り行きが今も続いています。
 
(2019年04月26日、加筆修正)
 
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