ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年05月

 
  脅し?
 
 
宗教が
あるいは宗教を利用して人が
人を脅すというのは
例えば
このままでは祟りが来ますよ
といった文言で
おもにカルトにおいて
おこなわれることだろう。
 
人が人を脅すのではなく
神が人を脅すのでもなく
 
人は神を恐れるべきである
というのは
全知全能の御方と信じた神への
キリスト信仰の主軸である。
 
信仰者は人間であり
明らかに全知全能ではなく
神に比べて
はるかに劣った民であるから
神と人の関係を語る上で
神が上で、人が下
という節操を持たなければならない。
 
そのことを利用して
人が人を脅してはいけない
という指摘に対しては
 
まず批判が脅しと違うのは
根拠と理由をはっきり示すということであり
 
上に書いたような神を恐れるべき根拠と
記事に書いているような
批判対象が神を恐れない言動である
という根拠を示して指摘するにあたって
遠慮してはいけないということです。
 
また
人が批判してはいけないなら
人が神への恐れを言わなくても
神は人を叱って脅してくださるか
という問題になるが
 
言うまでもないが
神はひょいひょい顕れて
人を脅したり怒鳴ったり戒めたりはして下さらない。
現象としては
神は沈黙の神である。
 
神は基本的に
起こった現象の
どれが神の意志で
どれが神に逆らう意志であるか
人が推測はしても
神はいちいち正解を教えてはくださらない。
 
神と人の関係において
神は、人が恐れるべき存在
ということが信仰の主軸であるから
人が信仰を伝えるときには
この関係も伝えなければならない。
 
やさしい神だけでは信仰にならない。
 
これを私は
信仰の節操あるいは弁えと呼んでいる。
 
神よりも劣っていて
不完全で罪深い私たち人間は
直接神に訴えることは出来ない存在である。
 
神をどこかにいる人格者の
やさしいオジサンと思ってはいけない。
 
全知全能の神に対して
ご機嫌取りの讃美や
世辞の誉め言葉や丁寧さは通用しない。
 
正直さ以外は何も通用しないのが神である。
 
これが神への恐れであり
恐れると前に書いていたものを
畏れると書き替えてはいけない理由である。
 
その恐るべき神に祈るときには
愛のために命を惜しまない救い主
イエス・キリストの御名を通して祈っている。
 
キリストにおいて成就された救いとは
神への執り成しである。
 
したがって
神の前に不正直や
ましてや故意に嘘を吐くことは赦されないが
 
神の前に
あるとき隠したり嘘を吐いたりしても
別のときに罪を認め、悔い改める者を
神は見捨てたままにはしないし
その機会は一生を通して与えられている。
 
そこに神の
人の正直さに対する限りない寛容さが表れている。
 
このことが
キリストの負いやすいくびきであり
キリストの愛であり
キリスト信仰の芯となっている。
 
 
(2019年05月29日アップ)
 
脅し(おどし)
 
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  悪魔の土俵
 
   神の土俵と悪魔の土俵
   
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    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームは、批判されていることぐらいは知っているでしょう。批判記事を読んではいないかもしれません。あるいは、読んでも分からないから、いっぱい言い返せばいい、と思っているのでしょう。
 
人から言われることに、快か不快という原始的な反応しかなく、すぐに何にも気にしなくなり、ほぼ忘れてしまうという特徴があります。そういう人が相手だから、私の批判は、だんだん悲劇を語ることになってゆくでしょう。
 
ちなみに、私としては、信仰についても、自分発信の記事を書いてゆきたかったのです。
 
しかしながら、今となっては、信仰を語る上でも、悪い例として、シャロームや易坊や楽山を思い浮かべてしまうので、そういう反信仰や非人間性から、信仰を考えることになってしまうという成り行きのようです。そして、そのことを、私の学習経過の一つとしている傾向はあります。
 
>★今日のみ言葉★(2019.5.5)
 
>「人の弱みを突いてくる者」
 
先ず言っておきたいのは、シャロームは、今まで一度も弱みを見せたことがないということです。いつも尊大で、皮肉っぽいワンパターン、例えば、そのままお返しします、など、平気なそぶりで返してきます。弱みを突いてくるものは、弱みを見せることがない者です。
 
弱みを見せることが、体質的に、一生の恥であるかのように、強さを前提とする者に、易坊など荒らし、シャロームなど偽善者、楽山などカルトがあり、キャラが違っているところとオーバーラップしているところとありますが、ネットマニアでありキャラ設定までする者として、一人による成りすまし疑惑が続いているのです。
 

イエスはなぜ、わざわざ悪魔の誘惑に合うため人里離れた荒野に導かれたのでしょうか。
荒野は人の助けを得られないところであり、逃げられない、自分に向き合うしかないところです。
イスラエルの民は出エジプトの後、荒野で40年間を過ごしました。エジプトという外敵から解放された後、自分たちの内面的な問題に向き合うためでした。
イエスは洗礼を受けられた後、荒野で40日40夜を過ごされました。
内面の問題ではなく、目に見えない悪魔という存在に向き合うためでした。

 
悪魔は、神の子であるキリストの目にも見えないのでしょうか。悪魔という存在に向き合うことは、キリストの内面の問題ではないのでしょうか。
 

別に断食をしないで、誘惑に合うことは駄目だったのでしょうか。
悪魔は断食の3日目でもなく、10日目でもなく、
40日終わったのを待ってイエスを誘惑してきました。
ここから分かることがあります。
弱いところを悪魔は突いてきます。
人の弱みを突いてくるのはヤクザも同じです。
また、高ぶりやすいところを、悪魔は突いてきます。
高慢になったところが、また、サタンの狙いどころとなります。

 
断食の期間が長いことをもって、悪魔は、キリストの弱いところを突いてきたという文脈になります。ここにおいて、私たちは、キリストが神性と人間性の両方を併せ持っておられることを知っています。神の子だから断食にも耐え、悪魔の誘惑にも打ち勝ちます。と同時に、人間の弱さに共感できるからこそ、人間の悲しみを癒やすことが出来るということです。
 
シャロームは、いっぱい書けばよいと思って、だらだら書いては、周りを見ず聞かず応えず答えない無反省の高ぶりから高慢になり、高慢になることで、自尊を保ちたいようです。シャロームは、耐えているつもりかもしれないが、刺激を無視するのは、暴虐の限りを尽くしているのといっしょです。耐え忍ぶキリスト信仰とは全く逆の道をたどっているのです。
 

1回目も2回目も「もしあなたが神の子であるなら・・・」と悪魔は言っていますが、
ここでの誘惑の狙いは何だったと思いますか。
もしお前が神の子であるなら、神の力を現してみよ、と悪魔はプライドに訴えています。
ここで悪魔の誘惑の狙いは自分の土俵で、自分のコントロールの下で、
イエスと闘おうとしています。
イエスと父なる神との関係をダメにしようとしています。
言い換えると、イエスの神の子であることの確信を揺るがそうとしています。
お前はほ本当にそういう者なのかというアイデンティティへの挑戦です。
そしてまた、人間にとって死活問題と言われるパンの問題、
その問題解決のために神の力を使って、石をパンに変えるように仕向けています。

 
神の子であるなら・・は、神の子への、悪魔からの試みの台詞です。
 
キリスト者は、あなたが神の民であるなら・・と、聞かれることがあるかもしれません。神の民は人間です。シャロームは、神の前に、いっぱい書きました、弁明は一切しませんでした、としか答えようがないことを繰り返しています。
 
それで、人間性と人間的共感を捨て去りながら、人間離れしたまま、なお、石がパンになるよりも大きなどんでん返しの奇跡で救われると信じ込んでいるのです。人格破壊が進むはずです。
 

イエスはその悪魔に対して、
人は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる者であると言われました。
神の言葉はどういう面で人を生かすのでしょうか。
神の言葉は人に希望を与え、それによって神の思い、願い、計画を知ることが出来ます。
神の言葉は人を生かす霊的いのちのために必要です。
「・・・わたしが語った言葉は霊であり、いのちである」(ヨハネ6:63)
これがなければ人は神との関係がもてなくなります。
次回に続きます。

 
シャロームは、神からの一つ一つの言葉が、人間として神の民として相応しくなるためであることを理解せず、都合の良い奇跡だけを信じ込んでいるのです。だから、また霊という言葉に、超常の何かを期待するのでしょう。人にとって、霊も命も、人間性なしでは生きることはありえないのですが、シャロームは、どんどん人間性を捨ててゆき、人にも勧めてきたのであります。
 
>《shalomのコメント》

荒野とは人の生存を拒絶するところです。
エリコに近いところにイエスが悪魔サタンの試みを受けられた誘惑の山があります。
エリコは死海のほど近くにあり、死海は塩分の濃度が高くて、
周りには塩が固まり白い岩塩が蒸発した死海の水から鍾乳石のようにそそり立ち、
30%といわれる塩分濃度のために、人の身体は沈まず、魚はいません。
死海は世界で400mの最も低い所であり、熱帯の酷暑と夜は冷え込む、
まさに死の世界です。
イエスさまが悪魔サタンの誘惑を受けられた荒野における40日の断食は
人が食物、水なしで生きる死線を超えるところなのです。
古代エリコの廃墟から遠くその山を見ると、岩山の中腹にイエスさまが受けられた
悪魔サタンの誘惑に勝利された記念の祈祷院が建てられています。

 
現地に行ったことがあるようなことを前に書いていました。また、それを、これ見よがしに振り回しているようですが、そういう中東の死の世界について書いて、物や肉体の奇跡がないと救われないと強調したいのでしょう。自己顕示欲と慢心に酔って、得意げになっているようです。
 
記念の祈祷院が建てられたと書いて、一方、シャロームは、いったい何を積み上げてきたのでしょう。偽善と虚偽と、罪を認めず悔い改めない背きだけなのです。ふりまいてきた災いを、また記事を書いていっぱいにして、いったい、何の記念にするつもりなのでしょう。
 

神のかたちに創造された人は地のチリで身体をつくられ、
神はその身体に鼻から神の命の息を吹き込み、生きたものとされたと創世記には記されています。
地のチリでつくられた人の身体は地上の食物によって生存しています。
それは地上に生き、空を飛ぶ、水の中で生きる魚などの生き物と同じです。
しかし、人の命と人格の根源は神の口から、吹き込まれた命の息であり、
その神の息により、一人の人として人格を与えられ、
神との関係と交わりによって生きる礼拝者として生きる者とされているのです。

 
超常の話ばかりになっています。どこまでも超常しか語らないのは、正常な人間性を捨ててしまったことを隠すためなのでしょう。それで、どうして、神との関係と交わりによって生きる礼拝者として生きることが出来るでしょう。どこまでも、誰に何と言われても、反省ではなく、自己満足の讃美と安易な豪語を、そのたびに選んで、真実の的も芯も外し続けるシャロームです。
 

悪魔サタンは神から人に与えられた被造物のすべてを治める統治権を奪い取り、
人を罪のくびきにより支配し、神の栄光を表す被造物を支配しているのです。
悪魔サタンはイエスさまは悪魔の支配を打ち砕く
神から遣わされた罪なき神の御子であることを知り、
イエスさまを自分の支配下に置こうとして、
アダムとエバを誘惑し、罪の奴隷としようと試みたのです。

 
前にも書いたことですが、全か無のシャロームの筆致です。悪魔が被造物を支配していると、シャロームは言っています。そして、アダムとエバを、実存的に、今の人間そして自分のこととして考える気が一切なく、キリストを支配下に置こうとして、罪の奴隷にしようと試みたと、歴史の実話物語として書いていますが、アダムとエバは、堕落したのであって、それが今の私たちでありますから、キリストに対する悪魔の試みと並べることは出来ません。
 
シャロームは、シャローム作の神話か歴史を書いているようです。これがカルトの捏造する世界観と歴史観です。つまり、昔は悪かった、今までは悪かったと、ボロクソに言って、しかし、今、自分の言うことを聞けば救われる、という偽預言の宣伝なのです。今なら救われますよ、という話、どんどん、カルトらしくなっています。
 

その誘惑はイエスさまの全人格に対する誘惑でした。
第一にイエスさまの身体に対する石をパンにしなさいという誘惑でした。
第二にイエスさまの心に対して
宮の高い所から飛び降りなさいという神を試みる誘惑でした。
第三にイエスさまが悪魔サタンを礼拝するようにという誘惑でした。

 
シャロームは、「イエスさまの心に対して」の悪魔の言葉と書いていています。シャロームは、人の心が分からないのに、分かろうともしないのに、さらに、共感など必要ないとさえ言っていたのに、それを直す気がないことが記事に表れているのに、なお、キリストの心のことを書いているのです。神?の心を決めつけているシャロームならではの筆致です。
 

アダムとエバもまた同じような誘惑を受けたのですが、神のみ言葉を退けてしまい、
アダムとエバは誘惑に敗北し、神との交わり、関係を失い、悪魔さんのくびきに繋がれ、
悪魔サタンの礼拝者となってしまい、私たちはその子孫となっているのです。

 
アダムとエバは神との交わり、関係を失ったのでしょうか。そうならば、なぜ、その子孫がたくさん聖書に登場して、神に導かれたりするのでしょう。私たちが悪魔の礼拝者の子孫なら、キリスト者として救われることはないのです。シャロームは、何をふざけたことを言って脅しているのでしょう。
 
よほど、アダムとエバが嫌いで、今の人たちに、自己嫌悪か絶望を与えたいのでしょうか。それは実に、そのままシャローム自身を投影しているようです。自分の投げた言葉で自分が斬られていることにさえ気づかないシャロームです。
 

神は神との関係と交わりと神によって与えられた
被造物の統治権を悪魔サタンに奪い取られ、被造物を私物化し、
罪の奴隷として生きている私たちを救うために神の御子イエスさまを遣わされたのです。
イエスさまは神の御心である私たちの救いを成就するために、
悪魔サタンの試みを受けられ、勝利し、さらに、神の救いの計画を成就するために、
人にはできない罪のあがないという神による救いによって、
悪魔サタンの私たちに対する罪の支配、くびきを打ち砕かれたのです。
それはイエスさまの十字架の死によって私たち自ら支払うべき罪の代価を
神自ら罪なき神の御子の命によって支払い、
信仰によって受くべき恵みとして与えられたのです。

 
全か無の絶望を語った後で、悪魔、罪の奴隷、贖い、成就、勝利、神の、計画、代価、救い、恵み、等々、キリストによる救いの話を、これまた、超常言葉のみによって、だらだらと書いています。人間を語れないのは、語ろうとしないのは、人間が分からないからでしょうか、分かりたくないからでしょうか、人間が嫌いだからでしょうか、人間ではないからでしょうか。
 
神が救うのは人間です。キリストが憐れんだのも人間です。パリサイ人らが救われず、言ってしまえ、とまで言われたのは、人間性を失っていたからなのです。
 
シャロームが、唾を飛ばすように喋りまくるのは、それを、超常話に置き換えようとしているだけなのです。いくら、人間の話題から逃げるように、うろたえて別のものをいっぱい詰め込んでも、反省なしでは、人間性は返ってこないのです。つまり、信仰にはならないのです。
 

悪魔サタンは今も、すでに、イエスさまによって成就された神の救いのみわざが
私たちの身に成就することを妨害するために、誘惑を続けています。
聖霊さまは今もイエスさまを荒野に導かれたように、私たちをも荒野に導き、
私たちを悪魔サタンの誘惑にたいする勝利に導いておられる助け主なのです。

 
それを、一生懸命に的外れなことを書き並べて、一途に妨害しているのが、シャロームであります。
 

悪魔サタンは自分の土俵で、自分のコントロールの下でイエスと闘おうとしていたように、
私たちをも常に神のみ言葉から目と心を引き離すように誘惑してくるのです。

 
まさに、それをしているのは、今ここで、シャロームその人であります。
 
キリスト者の人間らしさを、人間離れの超常の魔界の仕組みに置き換えようとしています。だから、神、悪魔、霊、という言葉の、覚えただけで知りもしないワンパターンの理屈でしか語れないのです。それを繰り返すのが信仰と思っているようだが、シャロームは、キリスト者ではありません。ただの、日常を逃れたい乱暴者に過ぎません。
 
これは、何度でも言えることですし、これからも言い続けます。罪を認めず悔い改めないキリスト者など、どこにも存在しません。シャロームは、明確な証拠付きの、偽キリスト者なのです。だから、馬鹿げていますが、反省しないシャロームは、喋りまくるしかなくなっているのです。
 

今年の6月9日はイエスさまが繰り返し約束された聖霊が
弟子たちに注がれた記念日です。
それは今も私たちに変わらない聖霊の働き、導き、助けを保証している日でもあります。

 
聖霊が保証されているなら、罪を認めないままで、悔い改めないままで、信仰者を気取り、さらに牧師を気取り、さらに預言者を気取り、聖霊の働きと導きを語る、などということは出来ないです。シャロームは、このような白々しい嘘が、少なくとも、もう8年続いているということです。
 
神から救いを破棄することはありません。それが、神の愛の寛容さです。
 
私に命令する権限などはありません。滅びゆく者が、滅びに相応しい発言を繰り返すのを明らかにしながら、見ているだけです。
 
機会は常に与えられているのに、罪を認めず悔い改めもしないような尊大で傲慢で訂正不能の偽善者だけが自ら救いを拒否し続けているだけです。
 
 

(関係あるかどうかは結論に至っていません)
1.精神病ではなく、精神病質という病名があります。今の言葉で言えば反社会性人格障害のことです。ある病院では、精神病質の人が入院してくると、先ず叩きのめしていたそうです。抵抗が無駄であることを体で覚えさせるというわけです。サイコパスとも呼ばれますが、それくらい説得が通用しない人格障害です。しかも、知能の高い者もいるので、その能力によって、出世する者もいるらしいです。残酷な知能犯とか悪魔のような犯罪者と言われる者は、頭の良し悪しに関わらず、これに当てはまるのかもしれません。
2.理路を無視する、または、理路を理解できないという状態には、統合失調症の不全寛解状態ということもあるでしょう。思考障害が残っているために秩序だった思考が難しく、妄想も伴っている場合があるでしょうが、決定的な適応不全には至っていない状態です。しかし、統合失調症の人は、正直な人が多いという印象がありますから、考えにくいとも思います。
3.もう一つ考えられるのは、何らかの意図的な陰謀です。宗教的か民族的か何らかの集団的陰謀があり、既に余計なことを無視するように教育されている場合で、意図的に不感不応でいられるのかもしれません。これについては情報が不足していて詳しいことは分かりませんが、既に明らかになった凶悪なカルトなどは、これに入るのでしょう。
3に、1または2が絡んでくる場合は、微妙で、かつ、難しいことになるでしょう。
 
 
(2019年05月28日アップ)
 
喋る(しゃべる)
 
 
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  恐と畏
 
 
いつのまにか聖書において
「かみをおそれる」が
「神を恐れる」ではなく
「神を畏れる」になっている。
 
恐は
こわいと感じること
畏は
敬いかしこまること
 
私はこの変化を嫌悪している。
 
何らかの辻褄合わせが働いていると思うからだ。
 
神は救う御方だから
恐怖の恐ではなく
畏敬の畏でしょう。
神は恐ろしい御方ではなく
畏(かしこ)まるべき相手だから
とでも言うのであろうか。
 
通念的概念によって
神は、恐れる、ではなく、畏れる、でしょう
と安易に考えてしまってはいけない。
 
このように改めた者は
神と悪魔を見分けられるつもりなのだろうか。
 
それは著しい思い上がりである。
漢字だけ変えても
人類が悪魔の誘惑に乗ってしまった歴史は
個人の罪とともに
払拭されることはない。
 
聖書を読めば
神は雷や荒らしとともに顕れ
人は怯えることしか出来なかったのである。
一方
エバを誘惑したように
また自らを省みても
人類のしでかしたことを思い起こしても
悪魔は甘い言葉と態度で誘惑するのである。
 
「神を恐れる」を
「神を畏れる」と変更し
神の前に震え上がる人間の罪性を無視して
神には畏敬の念をもって畏まりましょう
という気安い意味に変えてしまうことは
それこそ神を恐れない態度である。
 
人は
神と悪魔を区別することは出来ない。
だからしばしば悪魔の誘惑に乗ってきたのである。
 
人は
悪魔を恐れる以上に
神を恐れなければならない。
神へのおそれは
恐ろしさを除外してはならない。
 
人が
神と悪魔を見分けられるという意見は
善と悪の絶対判断が出来るという思い上がりである。
 
神は人が
畏敬し畏まるべき相手ではない。
 
神は人が
恐怖するべき
そのために震え上がるべき御方である。
 
悪魔のほうが
人には見かけ優しそうに語りかけてくる。
詐欺師もカルトも偽善者もそうである。
 
神に対して「畏れる」と書くのは
社会通念的概念の産物であり
それこそが悪魔の誘惑である。
 
「神を恐れる」を
通念のみの気安さをもって
恐怖とは違うんだからと
安易に区別した気分で
神を畏れると書くのは
「女」を
「他人の妻」と言い換えて
これなら守れるでしょうと
湧いてくる人の肉欲の本性を無視して
安心することと同じであり
 
言葉を変えて安心するというのは
しかも安易な方向に変えるというのは
 
神を恐れぬ所業である。
 
 
(2019年05月26日、同日一部修正)
 
畏れる(おそれる)畏まる(かしこまる)
払拭(ふっしょく)
 
 
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  悪魔とは
 
   悪魔とはどういう者か
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28979104.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
私は、シャロームに対して、数え切れないほどの批判記事を書いてきました。
それらに、いっさい弁明せずに、あざ笑うかのように、何事もなかったかのように記事を書いてくるのが、シャロームの人間離れした特徴です。
 
それは、偽善者やカルトの特徴でもありますが、良心が全くないような、この特徴を有するのは、いかなる有形無形の存在の特徴でしょうか。今日の記事と批判は、その判断の糧となるかもしれません。
 
>★今日のみ言葉★(2019.5.3)
>「悪魔とはどういう者か」

前回に続き、マタイ4:1-11のところから霊的な真理を発見するための質問をしています。
聖書のマタイ4:1-11のところは次の通りです。
4:1 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
4:2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
4:3 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
4:4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
4:5 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて
4:6 言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。
4:7 イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
4:8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
4:9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
4:10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
4:11 そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。
(シャローム)
これはあくまでも、
ひとりひとりが自分で何かに気づくことや新しい発見があることを期待してのことです。
人から教えれることも大切ですが、求める人は聖霊によって気づきや発見が与えられるからです。

 
「求める人は聖霊によって気づきや発見が与えられる」
シャロームは、こういう発言の妥当性の有無を事前に考えないようです。
分からない人は、聖霊が降りていないからだ、ということになると気づかないのでしょうか。
こういうことを言うのは、神聖の意志と行為を決めつける者たちの信仰?です。
 
神聖の意志と行為は、つまり、今何か与えられるかどうかは、神聖の専権行為であります。
むしろ、このことを弁えているかどうかが、神聖との絆があるかどうかに関わってくるのです。
シャロームには、この弁えは、与えられていないようです。
 

そして、聖書から自分で発見したものは残っていきます。
わたしはひとりひとりのそのような発見を大切にしたいと思っていますので、
このような質問をしています。
前回の質問の続きです。

 
ここに、聖書から学んだつもりの自分の知識を絶対化するシャロームのカルト性が表れています。ゆえに、どこまでも教える態度で、知っている態度で、上から質問をしてくるのです。まるっきり、預言者気取り、教師気取りに終始して、共感性を欠いたシャロームです。
 

6.イエスに対する、3つ目の悪魔の誘惑は全世界の国々とその栄華とを手に入れたければ、
わたしにひれ伏し、拝みなさいという勧めでした。
この誘惑の狙いは何でしょうか。
《shalomのコメント》
イエスさまに対する悪魔サタンの誘惑の根底には
この世、全世界の統治者がだれであるかを示しています。
聖書はこの天地万物、世界が神の創造とご支配のもとに存在し、
神の目でご覧になられ、すべてはよかったと宣言された被造物であり、
神の栄光を表すにふさわしいものであると証ししています。

 
キリスト者は、今さら言われなくても、そのことを知っています。解説が必要なのは、人間として、どう考え、どうすればよいかということです。そのことが考察と議論の対象になります。しかし、シャロームは神聖に成り上がった者らしいことしか言わない、というのが今の、そして、次の発言です。
 

神は最後の被造物として、ご自分の命の息を吹き込み、人を霊的、人格的な生きた者とし、
神との交わりによって生き、神とともに被造物をすべ治める、統治者とされました。
人が神の栄光を表し、その祝福の中に生き、神を喜び、礼拝者と生きるためには、
神との交わり、導きに信仰によって従う、礼拝者として生きることによってはじめて
被造物を統治できるのです。

 
このように、聖書由来の聖書語をつないて並べて飾って、大仰に豪語することしか出来ないのがシャロームであり、そのことが、人間離れしたカルト信仰の末路を表しているのです。
 

しかし、イエスさまに対する悪魔サタンの誘惑は
神によって人に与えられた被造物の統治権が奪われ、悪魔サタンの手にあることを示しています。
悪魔サタンは人に与えられた被造物の統治権を奪い、支配し、
神の栄光を汚し、人を悪魔サタンの支配のくびきのもとに支配し、
人は神の礼拝者とではなく、罪の奴隷となり、悪魔サタンの奴隷とされていたのです。

 
いつから統治権は悪魔の手にある?でしょうか。だったら、とうに人類は滅びているはずですね。神は、その間、悪魔に任せて、人の世界を放置してきたのでしょうか。シャロームは、旧約聖書を読んでいないのでしょうか。
 
これこそ、シャロームが、生ける神を信じていない証拠です。こういう発言が、全か無でしか語れないシャロームのボロクソ節であり、この世界が大嫌いのシャロームの、敵意に溢れたカルト宗教の言葉なのです。どうか、こういう誘惑と煽動だけを狙ったようなボロクソ節に、批判目的以外で、付き合わないでください。
 

悪魔サタンはイエスさまが神から遣わされた神の御子であり、
悪魔サタンに奪い取られた人に与えられた統治権を取り戻すために遣わされたことを知り、
人を悪魔サタンの奴隷とするために、神の御言葉を退け、善悪を知る木の実を食べるように
アダムとエバを誘惑をしたように、イエスさまを誘惑し、
神が罪なき神の御子であるイエスさまに与えられている被造物に対する統治権によって
神の栄光があらわされ、罪の奴隷として支配され、生きている人の霊性がよみがえり、
悪魔サタンの欺きが暴露され、被造物に対する統治権が神の手に取り戻され、
悪魔サタンは生ける神の裁きによって自らの滅びを招くことを知り、恐れていたのです。

 
まるで、超常の神聖と悪魔を知り尽くしているかのような、いけ好かない決めつけの、説教言葉を真に受けないでください。人間の良いところも悪いところも全く分かっていない聖書語の典型です。
 

7.イエスは3回とも、「・・・と書いてある」とみ言葉を引用して答えておられます。
なぜこの時、ご自分の言葉で答えられなかったのでしょうか。
《shalomのコメント》
悪魔サタンは神の言葉を巧みにゆがめ、アダムとエバの欲望につけ込み、
悪魔サタンが神に反逆し、全被造物と人を罪のもとに支配し、盲目化し、
神のようなものとなったように、荒野に40日間の断食によって、
イエスさまは生存の危機に向き合われる中で、全人格を構成している
霊と心と身体に対する3回の悪魔サタンの誘惑、攻撃を受けられたのです。

 
シャロームは、神の言葉をゆがめ、人間の罪性をアダムとエバのせいにして、神に反逆し、人を罪のもとに支配しようとして、盲目化を目指し、神のようなものとなったかのように、イエス・キリストの与えた信仰から、人々に生存の危機を与えようと、信仰者と謙遜な人々に対する誘惑と攻撃を、いくら批判されても悪魔性で無視して、少なくとも8年間ずっと、今もここで、続けているのです。
 

その悪魔サタンに誘惑、攻撃に対してアダムとエバは誘惑によって、
欲望、好奇心につけ込まれ、神の言葉を退けてしまい、罪の奴隷となり、
神によって与えられた被造物に対する統治権を失い、
神に対する霊とまことをもって礼拝する者として生きることができなくなったのです。

 
また、アダムとエバのせいにしていますが、失楽園は、人間の姿なのです。自分を悪の圏外において人ばかり責めているシャロームの恥ずかしさがここに曝されていることにさえ、シャロームだけが気づかないのです。神のもとで生きることが出来なくなった人の一人がシャロームなら、もう何も言わないでください。ここまで、恥を知らない人は、全くもって珍しいことです。
 

イエスさまは罪なき神の御子として、荒野という人はおろか、神の助けすらない
40日の過酷な生死を脅かされる中で、悪魔サタンの誘惑、攻撃を受けられたのです。
しかし、イエスさまはご自分を遣わされた父なる神にへの全き信仰によって
ただ神の言葉を信じ、神の手にゆだねられたのです。

 
シャロームは、批判されても、悪意を返すだけで、自己保身と自己正当化のために、このような記事を性懲りもなく書いて、神の言葉を信じず、神の手に委ねず、神へ抵抗し反逆し続けています。
いったい、どんな霊とか精神に支配されると、こうなるのでしょうか。
 

悪魔サタンの誘惑、攻撃はただ神の御言葉を信じ告白し、
明け渡しゆだねることによってのみ、退け、勝利できるのです。

 
神の御言葉を信じないで、神に明け渡す代わりに、別のものに明け渡し、自己の妄想的聖書語を、機関銃のように発射しているのが、勝利したつもりの、シャロームに他なりません。約8年間、恐らく実際はもっと長期にわたって、破綻百出し続けても、弁明できなくても、平気でいるのです。
 

イエスさまの荒野における試練と悪魔サタンの誘惑に対する勝利は
来たるべきイエスさまの十字架の苦難と死による勝利によって、

 
悪魔の誘惑に乗らないことは、救い主だから、当然のことです。
 
十字架の苦難と死は、救いの成就として、私たち信仰者そして人間に、他の奇跡とは全く異なる信仰の芯となるべき意味を持っています。何をシャロームは同列に並べているのでしょう。
 
シャロームは、復活と奇跡を、同じような超常現象による恵みとしてしか受け取っておらず、何が大事なのか、また自分が何を言っているのか、全く分からないで、思い付きで言っているのです。書けば書くほど、ボロとクソしか出てこないシャロームです。
 

悪魔サタンに奪い取られた全被造物に対する統治権がイエスさまの手に取り戻され、
イエスさまに対する信仰によって、再び私たちに与えられ、
神とともに全世界を統治し、礼拝者として生きることができるのです。

 
私たち人間が神とともに全世界を統治すると言っています。そのあとで、不遜と思ったのか、ボロ布を当てるように、礼拝者として、などと書いています。このようなシャロームの信仰では、弟子たちの最初の偉くなれそうという望みと変わりがなく、さらに、弟子たちのように悔い改めもしないシャロームですから、身の程知らずの高望みのまま、傍らにいる人間のことなど何とも思っていないということが、今までの言動からも、ここでの発言からも読み取れますし、これからも表れてくるでしょう。
 

8.イエスの誘惑と創世記3:1-4のアダムの誘惑とを比べて、一番大きな違いは何でしょうか。
実際に聖書を開いて比べてみることが大切ですね。
旧約・創世記
3:1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
 3:2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
 3:3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
 3:4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
 3:5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
 3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
9.この話から、悪魔とはどういう者ですか。
《shalomのコメント》
不思議なことですが、
聖書には、神を見たものはいない、見ることもできないと繰り返し書かれています。
悪魔サタンも同じです。
神も悪魔サタンもだれも見たものはいないし、また見ることもできないのです。
しかし、この世界のあり様、私たち人類の歴史をかえりみると、
見えるものの背後に見えざる方、見えざる者の見えざる支配があるようです。
だから、古今東西、すべての人の心に悪しきものの誘惑や
生ける神を渇き求める信仰心が働いているのではないでしょうか。

 
見たものはいない、と言いながら、悪魔の支配があり、神を求める信仰心が働いていると書いています。他者のことばかり書いて、自分を見ない者の破綻した筆致です。シャロームが、既に救われた自己完成の立場に立って、いくら預言者気取りで書いても、共感性がゼロのシャロームから、何も汲み取れるものはないと思います。
 
共感性と良心がないと、温もりも潤いもない文章になり、心が通わなくなって、別のものの誘惑に乗って、強気で書き続けることしか出来なくなるようです。そのことを学ぶべきなのかもしれません。
 

10.この話から、イエスとはどういう方ですか。
イエスさまご自身「神を見たものはいない、
しかし、私を見たものは神を見たのである」と言っておられます。
(新約・ヨハネによる福音書14章6~11節)

 
イエスが物や肉体の奇跡をおこなったかどうかにかかわらず、
イエスがキリストであり、救い主であり、神の子であることを聖句は伝えていると思います。
 
どうか、これからも続くであろうシャロームの、良心も共感性もないのに、超常を分かったような文章の、尊大さと見せかけの謙遜?に騙されないようにしてください。シャロームを動かしているものは、キリスト信仰ではありません。
 
 
(2019年05月26日)
 
破綻(はたん)
 
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好き嫌いと善悪の違いでも書くのかと思ったら、中身の乏しい世間話のような記事です。
 

中野翠のエッセーはかなり好きな方だけど、
それについて、
中野翠は自分の感性、感覚で判断して書いてる云々、
という評論を読んだことがある。

 
自分の感性、感覚で判断して書いてる
と楽山は書いてますが、他者の感性と感覚ではでは書けませんから。
 

例によって、
なにで読んだかは忘れてしまったのだが、
そういう説を読んで、確かにその通りだなあ
と思ったことは覚えてる。

 
当たり前のことを、確かにその通りだなあ、と言うボンヤリ言語です。
どういうレベルの作文でしょうか。考察と解説が見当たりません。
 

これと似た話としては、
志賀直哉は、自分にとって快か、不快かで判断している
というのは結構、有名な話であるように思う。

 
自分にとって快か不快かで判断、という話を、3行で書いています。
有名人の言葉を、これほど、気安く利用する人も珍しいでしょう。
 

あとは、
佐藤優の対談本を読んでいた時に、
氏は、神学的な問いに対して、
それは趣味の問題ですと答えていたのが印象的だった。

 
神学的な問いに対して趣味の問題というのは、ひょっとして偽悪かもしれませんが、これだけでは判断できないでしょう。読者に判断させない書き方でしょうか。思考停止でも進めているのでしょうか。
 
趣味で神学を考えて、信仰を語るなら、おかしいです。やはり、偽悪の印象も受けますが、検索すると、神学は趣味だったのかもしれないということも否定できないかもしれません。次の楽山は、ふざけたことを書いています。
 

これには、
「ええ! それでいいんかい?」と驚いたけど、
でもよく考えてみれば、
最終的にはそういう答えにならざるをえないのかな
とも思える。

 
神学の修士号を持っている人と、楽山がやっていることは違うと思います。楽山は、いかなる大事な問題も、趣味なのでしょうか、自分の都合で、好きなように曲げて受け取って取捨選択して、選別してきました。不公平を生ずる楽山の趣味は趣味ではなく、悪趣味であり、偽善です。
 

恥ずかしながら、
自分は、こういう冷静な対応はできずに、
自分の感性、感覚、趣味による判断を正しいとして、
それと異なる他人の判断は間違いだ
とすることが少なくなかったように思う。

 
趣味で判断することが冷静なのでしょうか。興奮しないと言うことでしょうか。
 
楽山は、一見、反省しているような言葉を並べていますが、前の長い記事といい、この記事のボンヤリ度といい、悪趣味で選別することは変わっていないと思います。楽山だけでなく、シャロームも、世辞のお詫びを入れたりしますから、そういう人の言うことは信頼性がなくなるということです。
 

自分の個人的な感性、感覚、趣味による判断を、
正邪善悪の判断と取り違えてしまい、
自分の判断は善であり、正しいと思い込み、
それを他人に押し付けるというパターン。

 
楽山は、自分のことを言っているのでしょうか。それとも、シャロームがよくやるところの、自分が言われそうなことを、遠回しに、お前もだろうと、相手に向けて当てつける手口でしょうか。
 

こういう勘違いは、
今思い出しても、冷や汗が出るし、
穴があったら入りたいくらい恥ずかしいことであるけれども、
今でも同じ勘違いをしてしまいがちなのだから情けない。とほほ。
ここは気をつけなければ…と思う。

 
嘘だと思います。言葉で、穴があったら入りたいくらい恥ずかしい、とか言っても、相変わらず、皮肉と当てつけを婉曲的に向けてくるのは、自己絶対を押し付けていることに変わりありません。
 
こういうのを、真剣味がない、というのです。
 
行いが伴っていないからです。
 
穴があったら入りたいなら、穴でも何でも、入ればよいのです。
とほほ、と書くくらいなら、この口先だけの記事など書かなければよいのです。
 
楽山に、一番ふさわしいのは、
言葉を弄しても、言い訳にしかなりませんし、今までのことから、何か魂胆があるとしか思えないくらい信頼が失墜しているのですから、記事を書くことを止めて、沈黙のうちに反省することです。
 
いずれにせよ、今後書いてくる記事に反省が表れているかどうかを判断してゆきます。
 
今までの、気に入らないことを無視するアドラー教の自己中心の実践の経過がありますし、
直前の記事も、冗長な無駄の多い記事で、真摯さも見えて来ず、洞察も感じませんでしたから、
見通しとしては、恐らく、反省していると判断できる記事は書かないと思います。
 
 
(2019年05月24日)
 
好悪(こうお)=好き嫌い
 
 
  個人主義?
 
   「私の個人主義」夏目漱石
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41543694.html
   楽山のブログ
 
 
曖昧で、程度も分からないような反省の記事を書いた後で、この記事です。反省しない楽山です。
 

「私の個人主義」をひさしぶりに見直してみた。
といっても、大雑把にざっと見ただけだけど、やっぱりいいなあ。
(引用)
たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見るところで、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、とうてい受売をすべきはずのものではないのです。私が独立した一個の日本人であって、けっして英国人の奴婢でない以上はこれくらいの見識は国民の一員として具えていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。
私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html
(楽山)
この講演録をはじめて読んだ時は、
宗教のことでいろいろ悩んでいた時期だったけど、
暗闇の中をさまよっている時に、
ロウソクがぽっと灯った心持ちがしたのだった。

 
楽山は、独立した一個の日本人ではありません。言説の様々なところに、ごまかし、当てつけ、詭弁、裁判ではないのに証拠がないからシャロームの味方をするとか、狡いことをしてきました。卑劣な一人に過ぎないのです。
 
漱石の個人主義を自身に当てはめる資格はないと思います。あまりに書いてきたものの説得力が違い過ぎるからです。漱石は、この引用からは、欧米に対する奴隷根性を嫌って、誇り高くありたいのではないかと思われます。
 

当時、自分がハマってた宗教は、
教祖崇拝タイプのものだったので、
権威主義や個人崇拝を退ける漱石の意見は、
ほんとうに、目からウロコだった。

 
権威主義や個人崇拝を退けた人の話で目からウロコだった楽山が、どうして、えこひいき的にシャロームの味方のするのでしょう。何も良くはなっていない楽山を見てきたのが今までの経過です。シャロームは中身のない権威主義、楽山はああでもないこうでもないボンヤリ言語の偏向した中庸気取りです。
 
また、さらに、楽山、シャローム、荒らしの易坊には、ずっと、同一人物の成りすまし疑惑がついて回ります。信頼を失うとこうなる、という、実に忌まわしいネットの経過なのです。
 

「教祖の言葉を信じなければならぬというけど、
どうしたって納得できないのだから仕方がない。
納得できてないのに納得したふりをするよりも、
自分に正直になって、
納得できないものは納得できないとするしかなかろう」と。

 
納得できないから納得しないのではなく、楽山は、気に入らないから無視するのです。だから、気に入るような好きなことだけを積み重ねてゆけば、自己中心の快楽主義にしかならないのです。
 

自己本位とは、
我を押し通せということではなく、
一定の見識、人格などを備えた上で
自己に正直であろうということだろうけど、
この自己に正直であるというのは、
本当に大切だなと、今でもしみじみ思う。

 
楽山は、我を押し通して、いかなる意見も、気に入らないことは無視する、ということを信条にしてきました。見識と人格を備えてはおらず、趣味と好みで、人を選別する人です。自己に正直なのではなく、自己の好みと欲望に正直なだけです。それは、大切などではなく、これほど人格の成長を止めてしまう破壊の悪性があるのだと、楽山やシャロームの文章を読むたびに、実感しています。
 
 
(2019年05月25日)
 
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