ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年05月

 
  信仰の理屈?(2)
 
   『カラマーゾフの兄弟 2~5』ドストエフスキー著、亀山郁夫訳〈光文社古典新約文庫〉
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41543518.html
   楽山のブログ
 
 
終わりに近づくほど、超常から、曖昧で、単純で、宗教に無理解な楽山の、誰もが、きれいな風景や荘厳な雰囲気を感じるときの、はっきり言えないけど・・、というような話になってゆきます。
 
>「 引用不明瞭はじめ
        ジーベル
                  ご挨拶、おそれ入ります。
   (メフィスト―フェレスを横から見ながら、小声で)
あいつ、●を引いてやがるな?
(『集英社版 世界文学全集14 ゲーテ ファウストⅠ・Ⅱ』井上正蔵訳、1980年、p.74)
偶然かどうかわからないが、先日に読了した『心霊電流』にもそれっぽい表現があった。
 
廊下を近づいてくるジェイコブスは、わずかに足を引きずっており、体は心持ち右側に傾いていた。
(『心霊電流 下』スティーヴン・キング著、峯村利哉訳、文藝春秋、2019年、p.74)
 
ジェイコブスは元は牧師だったが、妻子を悲惨な事故で失ったことで、信仰を棄てて、自分の研究のためには犠牲者が出ても構わんというマッドサイエンティストみたいになってしまうキャラだけど、この場面はイワンやメフィストフェレスと関連付けられているんだろうな、たぶん。
 
自分は、表現の自由は尊びたい方なので、言葉狩りには懐疑的な立場ではあるけれども、こういう身体的な特徴と悪魔を関連付けるのはどうなんだろう。これは何か嫌な感じはするし、よくないことのように思う。
 
< 引用不明瞭おわり 」
 
引用も自分の事情中心で不明瞭ですが、要は、小説に出てくる超常の悪魔の姿ということなのでしょう。身体的特徴を悪魔に関連付けることは良くないと言って終わりです。ならば、(1)において、なぜ、引用したのか。どこが衝撃的と言ったのか。
 

*恥ずかしがらないでよい
人は悪いことをしたときはもちろん、善いことをしたときも恥ずかしくなったりするけど、これは一体どうしてなんだろうと思う。
(引用)
未熟な俗世の人間というのは、ごくごく正当な自分のふるまいさえ、そんなふうに恥ずかしく思いがちである。
(『カラマーゾフの兄弟2』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.403)
(楽山)
これは、ゾシマ長老の言葉だそうだけども、本当にその通りだと思う。善いことをしたことを、他人に知られるのは恥ずかしいし、おおっぴらに褒められでもしたら、それこそ穴があったら入りたいくらいに恥ずかしくなり、どうか知らんふりして放っておいてくださいという気持ちになったりする。
本来なら、「褒めてくれてありがとう。よし今度はもっと善いことをしよう」という風に、さらりとした気分でいるのが理想なんだろうけど、これはなかなか…。

 
善いことをしたことがあるのか。穴があったら入りたいのに、なぜ、書くのか。
本当に、それは、善いことなのだろうか、ということを考えないのだろうか。
善いこととは何かは、テーマになるが、善いことをした自分は、テーマになるだろうか。
無駄口で、やたら長い文章になっていることに気づかないのだろうか。
 

次の言葉は、アリョーシャが少年に向けて言ったものだけど、これも全くその通りのように思える。
(引用)
滑稽がなんです? 滑稽な目にあうことなんてざらですし、滑稽に見える人だって、それこそ山ほどいるでしょう? おまけに、いま能力のあるほとんどすべての人が、滑稽になるのをひどく恐れて、そのためにかえって不幸になっているんですよ。
(『カラマーゾフの兄弟4』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.130)
(引用)
人間はしばしば、善良で立派なものをあざ笑いますから。でもそれは、浅はかさから生まれるものなんです。けれども、みなさん、ぼくはきみたちに保証します。思わずにやりとしたにしても、心はすぐにこう語りかけてくるでしょう。『いいや、笑ったりして悪いことをした、だって笑ってはいけないことなんだもの!』ってね
(『カラマーゾフの兄弟5 エピローグ別巻』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.59)
(楽山)
世の中には、「善良で立派なもの」を嘲笑する風潮は確かにある。一生懸命に頑張ってる人をわらいものにするとか…。
また、せっかく善いことを思いついても、人目を気にして、それを実行できない人も少なくなさそう。この辺りのことは、自分も気をつけるようにせねば…。

 
楽山が、人のコメントを、公平に見ないのも、他者、特に、批判者を敵と見なして、シャロームの味方をして、片落ちに、あるいは、元々策略として、高みから嘲笑う姿勢であります。
 
シャロームが、「失礼しました」の後〔負けるが勝ち(笑)〕と書くなど、平気で嘘を吐くのも、妄想を書いてくるのも、人を嘲笑っていることになります。そして、楽山は、根拠もなく、そういうシャロームの味方をしたのです。
 
批判者を、滑稽と見なす尊大さ、シャロームは露骨であり、楽山は曖昧に当てつけてくるようです。
 
>*悪魔の目的

(楽山)
今回、『カラマーゾフの兄弟』を読んでみて、一番ドキッとした箇所はどこだったろうと考えてみると、悪魔がイワンに放った台詞だった。
(引用)
ぼくはきっと、信仰と不信のあいだを連れまわしてあげますよ。ぼくの目的はそこにあるわけですからね。新しい手法を用いるんです。だって、きみはぼくの存在をまったく信じなくなったかと思うと、すぐにまた、ぼくが夢じゃなくてれっきとした実在だと、面と向かってぼくに信じ込ませようとする。ぼくはきみのことがちゃんとわかってるんです。そこで、ぼくの目的は達せられるというわけです。
(『カラマーゾフの兄弟4』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、pp.382-383)
(楽山)
最近の自分は、たぶん、不可知論という立場なんだろうけれども、そのなかでも、有神論に傾いたり、無神論に傾いたりしている。

 
大昔の不可知論なら知りませんが、恐らく、嘘です。楽山の文章は、そもそも、論になっていません。単純に、人は神と神の意志を確定的に知りえない、ということを私は書いています。
 
楽山は、不可知論ではなく、無神論であり、伝統宗教については、反信仰だと思います。
楽山は、キリスト教を知らないから、自身の曖昧な理屈で、信仰を語ろうとしますが、それでは、信仰者として生きることにはならないのです。
 

以前、ネット上で知り合ったある人は、自分の立場を説明するのに、不可知論者ではあるが、神はおそらくは存在しないだろうという無神論寄りの不可知論者だと言ってたけど、どうも自分の場合は無神論寄りと有神論寄りの不可知論を行ったり来たりしているらしい。この点において、上の悪魔の台詞にのっかっていうならば、自分は悪魔によって信仰と不信のあいだを連れまわされているということになる。怖ろしい。

 
記事によって、アドラー教で誘惑し、弱い人間を連れまわそうとしているのは、楽山に他なりません。
 

ただどういうわけか、自分の場合はかなり無神論寄りになっているときでも、心の底では神様を信じている感じがあるから不思議ではある。仮に、「神はいない!」と言ったとしても、心の底ではそんなことを言っている自分のことを神様が見ているという感覚があったりする。

 
楽山は、ボンヤリ言語で、神様が見ているという感覚がある、と言っていますが、楽山のこういう感覚は、「心の理論」における楽山の著しい勘違いもあり、その危険性を私は書いてきたわけです。シャロームと同じように、人の意見を、見ない、聞かない、自説を言うだけは好きなように言う楽山です。
 

また無神論に共感しているときに、何となしに神様から「お前は無神論を勉強し、無神論者の気持ちを理解できるようになりなさい。それができるようになったら、また呼び戻すから、その時まで無神論寄りでいなさい」と背中を押されている心持ちがしたりもするのだからおかしい。

 
楽山が、オカルト寄りのカルトであることを示しています。自問自答を、自己暗示で、神の行為と結び付けているのは冒涜です。
 

こういうことは、一般目線から見れば「ただの妄想」ということになるのだろうし、宗教的に見れば「悪魔が神のふりをしている。悪魔に騙されている」ということになるのかもしれない。はたまた「自己正当化のためのエゴイストらしい屁理屈だ」という分析も有り得るかもしれない。

 
いかなる理屈としても成り立たず、ただ、身勝手な感覚の思い込みに過ぎません。その感覚に見合うだけの実のある文章を、楽山の書いたものに見たことがないからです。
 

まあどれが正解かは分からないが、こういう感覚というものは自分の意思ではどうにも変えようがないし、無視することもできないのだから、ここはそういう感覚に正直でいるしかなかろうとは思う。
ただそれはそれとして、これまでの経験から考えると、信仰と不信のあいだに揺れ動くというのは、すごく時間の無駄であるように思えてならない。神はあるかないかという、この世では解決できるわけもない問題の答えを求めてさまよっても仕方ない。
最近はようやくこの問題をいくら追っても徒労に終わるしかないことを受け入れることができるようになってきたようなので、ここはよかったと思う。自分はどうも「これこそが正しい」というような考え方は苦手のようであるし、仮に特定の思想宗教に凝ることがあっても、じきにその思想宗教が窮屈になって、狭い棺桶に閉じ込められて地中深く埋められている気分に陥り、何が何でも外に出たくなってしまう。

 
感覚だからどうしようもない、と言うのは詭弁です。弁えとして、感覚には解釈を付けることが出来るはずです。このような詭弁によって、楽山は、自分の鈍麻を、自分のアドラー教の考え方で正当化して、これこそは正しいということが出来ないことをもって、曖昧で、ああでもない、こうでもない、何も決めない、判断さえもしない、というアドラー教を通して、中庸とか柔和の人格を気取りたいだけだと思います。
 
人を根拠なく決めつけてきたのは楽山なのです。そして、批判に弁明も反論も出来ないのも、シャロームと並んで、楽山なのです。しかも、成り立たないことを認めずに、訂正不能に、長い文章をだらだらと書いてくるのです。
 

人付き合いは距離感が大事だというけれども、自分にとっては思想宗教もこれと同じであって、そういうものとは適切な距離をとって、何事も決めつけることなく、ある程度の余裕を持った生き方が性に合ってるらしい。

 
その距離の適切を自分で判断するのだから、詭弁です。都合の悪いことを無視して、不寛容であり、婉曲的悪口は言っても、適切な距離など知らないのが人間ですが、楽山は自分で決めてゆくのです。楽山の言う余裕は、シャロームの不感不応の沼と同じように、無関心、無頓着、感情の鈍化、無視の無意識化、言語の曖昧、といった責任逃れの手段に過ぎないのです。
 
>*因果応報と短気
>もう一つドキッとした言葉を挙げておくと、これもそうだった。

『あなたがたの量るそのはかりで、自分も量られるだろう』これはわたしの言葉ではなく、マタイ福音書に書かれた教えです。あなたが量ったそのはかりは、あなた自身をも量るのです。
(『カラマーゾフの兄弟4』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.648)

 
私は、その聖句を知った上で書いています。
楽山は、聖句があるのだからキリスト者なら書くなと言いたいのでしょうか。
冗談じゃない、カルトについて、批判できる間、できることをするのです。
その聖句を知ったうえで、キリスト者の務めがあるということです。
 

ずいぶん前に、ロニー・ジェイムズ・ディオのインタビューで、「自分がしたことは、まわりまわって自分に返ってくる」という話が出ていたのを今でも覚えてるけど、こういう因果応報的な考え方は怖ろしいけれども、何となしにリアルに感じてしまう。

 
恐らく返ってくるでしょう。楽山が、シャロームが、人を嘘で騙そうとしたことは、自分に返ってくるでしょうし、みだりに神の名を唱えたことも、自分に返ってくるでしょう。
 

自分が何かしようとしたら、それがやがて自分に返ってくるのを想像してゾッとしてしまうとか。自分の身に面白くないことがあったときに、自分の過去をよくよく振り返ってみると、そういうことが自分の身に起きても仕方がないと思えるようなことを自分はしていたなあとか。
こういう感覚は、「そんなものは迷信だ。妄想だ」と思い込もうとしても、それは一時的には成功しても、長くは維持できないのだから、どうにもやっかいではある。

 
聖句は迷信でも妄想でもありません。人間として心で受け取れることです。心のないパリサイ人は受け取りませんでした。受け取った人々の信仰が今につながっています。
 
楽山には、因縁付けとしか思えず、ゆえに厄介としか受け取らないのでしょう。
むしろ、したことや、しなかったことによって、得たとか、避けたとか思っても、実際には、そのために大事なことが失われて、いずれ影響してくるとも言えるでしょう。
 

結局のところ、この手の強迫観念から解放されるには、人のことをむやみに責めたりしないようにするということしかないのだろうと思う。巷には正当な批判というものもあるだろうし、そういうことに抵抗感を持たない人もいるだろうけれども、自分はどうもその方面には向いてないらしい。
次の言葉は、思わず「その通り」と膝を打ちたくなるような言葉である。

 
むやみに責めたりしないようにと言って、楽山は、自分を責めるな、批判するな、という当てつけがましいボンヤリ言語の婉曲的な言い方は、もう常套手段になっているようです。
 

(引用)
「ジュピターよ、君は怒った、とすると君は正しくないのだ」という一句を引用した。これは傍聴席に無数の好意的な笑いをひきおこした。(同上、p.664)
(楽山)
一口に「怒った」と言っても、そのなかには急所を突かれたゆえの逆ギレ、逆上もあれば、不正に対する義憤、正当な怒りというものもあるだろうけれども、これらの怒りの是非はともかくとして、怒ってしまうと理性的な判断ができにくくなるというのは本当のように思われる。
特に、傍から見ていて、取るに足りないほど些細なことに対して、大激怒してしまうほどの短気を起こしてしまった場合は、その傾向は強まりそう。
 自分もけっこう短気なところはあるので、ここは気をつけなければ…。短気を起こせば、いずれは短気を起こされる側にまわされることにもなりかねないので。

 
怒りには、義憤というものがあります。それは、怒りを動機として、恨みや悪口や暴力を返すのではなく、どこが、おかしいのかを、できるだけ冷静に書いて、まとめて、指摘してゆくことです。それを批判と言います。
 
いつも冷静ではいられずに、怒りの言葉も言いますが、そうなるのは、対象が、全く反省もせず、反応もせず、相変わらず尊大な教える立場から、同じような空疎な言葉を並べるときです。
 
相手には効かないでしょうが、実に、楽山、シャローム、荒らしの易坊には、無効のようですが、私の発散と冷却にはなることがあります。だから、私は、いつも冷静ではありません。しかし、いつも、はぐらかしながら、まわりくどく、なじってくる無礼よりはマシなのです。
 
>*イワンとは正反対の世界観
>次の言葉は、病気で亡くなった17歳少年(ゾシマ長老の兄)が言ったことだという。

(引用)
「泣かないでよ、人生って天国だんだから、ぼくたちみんな天国にいるのにそれを知ろうとしないだけなんだよ。その気になれば、明日にでも世界中に天国が現れるんだから」だれもがそういう兄の言葉に目をみはった。  
(『カラマーゾフの兄弟2』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.365)
ぼくのまわりにはこんなにすばらしい神の栄光が満ちていた。鳥たち、木々、美しさや栄光にまったく気づかずにいたんだ (同上、p.368)
「天国は」と彼はつづけた。「わたしたちひとりのうちに隠されていて、現にわたしのなかにもそれがあり、わたしもその気になれば、明日にもじっさいに天国がわたしに訪れ、それがずうっと一生つづいていくんです」 (同上、p.407)
(楽山)
ざっと読んだ印象としては、これはイワンとは正反対の世界観のように思う。自分の理解では、イワンは、この世界に起きた凄惨な事件を並べ立てた上で、神がいるなら、なぜこのような悲劇が放置されているのかという風に、神とこの世界を否定していた。
でも、ゾシマ長老の兄は、この世界はすでに天国であって、それに気付けるかどうかだと考えていたらしい。

 
解説もなく、あっさり、この世界はすでに天国、気づけるかどうか、と書くだけというのは、いかにも乱暴であり、天国について、超常の言葉以外知らないという証拠であります。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
人間が垣間見る天国は、心ある人間の感性に響く癒しと安らぎであり、それは多く悲しみを経てもたらされます。楽山やシャロームが天国?と呼ぶものとは全く異なっていると思います。
 

たとえて言えば、この世界は、イワンにとっては地獄のようなもので、ゾシマ長老の兄にとっては天国だったということかな。こういう正反対の認識があるというのはおもしろい。
また、ゾシマ長老の兄は、神のみを素晴らしいとするのではなくて、草木、鳥たち、すべてが素晴らしく、美しいとしている。誤読かもしれないが、神の被造物を讃美することで神をたたえるというよりも、神とは別にこの世界を独立したものと認めた上で讃美しているニュアンスも若干あるようでもあるし、もしそうだとしたら、ここも興味深い。

 
このように、楽山の語る宗教の世界は、被造物讃美を経て、シャロームの誇大的讃美の打ちまくりと同様の、アニミズム的なものを含み、美しいと言うのと変わりなく、一人の人間さえ救うことの出来ないものだと思います。
 
ただし、心の背景に、それを求めるものがあったとき、心を動かすことはあるでしょう。
例えば「草木、鳥たち、すべてが素晴らしく、美しい」という言葉は、信仰による救いとして成り立つことはなく、個別の特殊な、そう感じる心があって、成り立つ言葉です。そう感じる人間の心の追求を抜きにして語ることは出来ないと思います。
 

それから上の考え方は、ある意味、谷口雅春の「生命の實相」と似てるところはあるかも…。「生命の實相」は難しい本だけども、自分の理解では、生命の實相は本来は完全円満であるから、それを覚れば周囲の現実も生命の實相と同じく完全円満となるという考え方だったかと。
こういう谷口雅春の考え方と、この世界はすべてが素晴らしく、そのことに気付きさえすれば、その通りの世界になるというのは、ほんと、そっくりな世界観のように思える。
イワンの世界観が正しいのか、ゾシマ長老の兄の世界観が正しいのか、実際のところは分からないけれども、どっちが幸福になることができるかといえば、たぶん、後者の方だろうな。宗教の必要性も、この辺りにあるのかもしれない。

 
このように、楽山の宗教の世界は、言葉だけの世界観があって、人間がいない世界なのです。言葉があって理屈があって、心がない世界観になります。言葉を組み合わせて、良さそうなことを書いているだけのようです。だから、人が、超常に向けて、これもいい、あれもいい、と言う言葉しかない宗教になります。
 
 
(2019年05月24日)
(2019年05月25日、一部修正)
 
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  信仰の理屈?(1)
 
   『カラマーゾフの兄弟 2~5』ドストエフスキー著、亀山郁夫訳〈光文社古典新約文庫〉
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41543518.html
   楽山のブログ
 
 
楽山の宗教に対する見方が表れています。人間を見ているふうに小説を引用しながら、実際は、誰も知らない超常の理屈を言葉で表そうとして、平板で、長いだけの文章になっています。カルトが知らない世界を書くときの曖昧でボンヤリした言語の有り様として挙げておきます。
 

*つづき
前の記事のつづき。
もうちょっとだけ、『カラマーゾフの兄弟』の気になった箇所について、感想を書いてみた。

 
これで、ちょっとだけだそうです。しかも、くどくて、ととのっていない。
楽山の、ちょっとだけが、これくらいだと言うなら、読者をバカにしていますね。
 

(引用)
*児童虐待についての宗教的解釈は?
児童虐待のニュースを聞くたびに、何でこんなことが起きるんだと腹立たしくなったり、憂鬱になったりするけれども、『カラマーゾフの兄弟』でもそれに関連した議論があった。
イワンは酷い児童虐待の例をいくつも示した後で、その宗教的な意味についてアリョーシャに問いかけている。
(引用)
もっとも、こういうばかげた話がないと、地上の人間はどうにも生きていかれない。なぜって善悪の認識ができなくなるから、などとほざいている連中もいるにはいるがね。じゃあ、これほどまで犠牲を強いるものなら、いったいなんのために、このくそいまいましい善悪など認識しなきゃならないんだ?  
(『カラマーゾフの兄弟2』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.238)

>これは確かにその通りのように思う。
 
善悪の認識を忌々しい、という引用文に、楽山は、同意しています。驚きです。
楽山は、善悪の認識をしたくない、するべきでない、という本音なのかもしれません。
善悪の判断しないなら、世の中の悪、どうにもならないですね。
 
>さらにイワンは、児童虐待についての次の宗教的な見解も強く非難してる。

(引用)
人はみな、永遠の調和を苦しみであがなうために苦しまなければならないとしたら、子どもはそれにどう関係する、どうだ、ひとつ答えてくれ? なぜ子どもたちは苦しまなくちゃならなかったのか、なんのために子どもたちが苦しみ、調和をあがなう必要などあるのか、まるきりわかんないじゃないか。いったいなんのために子どもたちは、だれかの未来の調和のために人柱となり、自分をその肥やしにしてきたのか?
人間同士が、なんらかの罪の連帯責任を負うというのは、おれにもわかる、復讐の連帯責任ということだって、おれにはわかる。だが子どもたちが罪の連帯責任を負うというところは、おれはわからない。
(同上、p.244)

 
そんなことが言われていようとは、引用文に、驚きです。
 

この世の不幸や悲劇について、自分はキリスト教ではどのように解釈しているのかはよく知らないが、自分が知っている某宗教について言えば、霊性を磨くためだとしていたのだった。この世は魂修行の場であって、この世における様々な経験はすべて魂の糧となり、霊性を磨くための砥石となるという考え方である。
また因果応報、前世のカルマという解釈もあった。禍はその者の罪の報いだという考え方であって、昔からよくあるやつだ。さらには人知のおよばぬ神の壮大な計画のためという考え方もあったように思う。
この世の不幸や悲劇の原因や、受け止め方については、この他にもいろいろな見解があったように思うが、いずれにしても大人が犠牲になる悲劇ならともかく、子供が犠牲になる悲劇に対しては、どれも全然説明にならないことばかりのように思える。

 
この世の不幸や悲劇については、考えるのはいいとしても、人が勝手に意味を決めつけてはいけないと思います。何故なら、決めつけなくても善悪の判断はするわけだし、決めつけは、大方、成り立たないことが明らかになるからです。
 
子供が犠牲になる悲劇の宗教的な説明など、確定的には、人は、できないと思います。
 

児童虐待など、子供が犠牲になる悲劇について、霊性の向上のためだとか、自身の罪の報いだとか、神の計画の一部だとか、そんな説明によって納得できる人はいないだろう。というか、人としてそういった説明で納得してしまってはいけないような気もする。

 
楽山は「ような気がする」という程度なのでしょうか。説明によって納得してはいけないのですし、それ以上に、納得できるはずがないのです。悲劇は悲劇なのです。
 
心のない者たちが、辻褄合わせの理屈をあれこれ考えているだけです。
超常信仰の宗教の悪い癖でしょう。
 
>さらにイワンは次のようにアリョーシャを問い詰めている。

(引用)
いいか、かりにおまえが、自分の手で人類の運命という建物を建てるとする。最終的に人々を幸せにし、ついには平和と平安を与えるのが目的だ。ところがそのためには、まだほんのちっぽけな子をなんでも、そう、あの、小さなこぶしで自分の胸を叩いていた女の子でもいい、その子を苦しめなくてはならない。そして、その子の無償の涙のうえにこの建物の礎を築くことになるとする。で、おまえはそうした条件のもので、その建物の建築家になることに同意するのか、言ってみろ、嘘はつくな!」
「いいえ、しないでしょうね」アリョーシャは静かな声で答えた。  
(同上、p.248)

 
まだ、楽山は、理屈を続けたいようです。
 

どんなに善いことのためであっても、それを実現させるための犠牲として子供を選ぶことはできないというのは人としては当たり前の感情だろうし、そうであればアリョーシャの答えは当然だと思う。

 
まだ、楽山も、直観で子供の犠牲を否定するべきところを、理屈に持っていきたいのでしょうか。
心を理屈で表すことはできません。理屈を言ってもしょうがないのです。言う前に、気づくべきです。理屈っぽい説明からは、距離を置く姿勢が必要です。
 

でもそうすると、このあとはイワンと同じ結論に達せざるを得なくなり、これは神様を信じたい者からするとつらいことになりそうではある。この場合、神様を信じたい人はどうしたらいいのだろう。
うーん。信仰者としては、イワンの疑問については、論理としても、情緒としても納得できる宗教的な見解を成立させるのは困難だろうし、そうであればこの問いは棚上げして沈黙し、祈るほかはないかもしれないなとは思う。

 
虐待も、信仰も、楽山は、理屈をこねてゆくようです。人間の弁えるべきことの本体は、理屈ではないところにあるということを知らないのでしょうか。
 
>神様を信じたい人はどうしたらいいのだろう
 
そのまま、こういう疑問になってゆくのは、理屈で辻褄を合わせて理解するものだという体質が、楽山にあるからでしょう。
 
疑問に対して、どうしようもなくなったときに、神に任せるのが信仰です。そういう神様がいるという信仰です。
 
気持ち悪いのは、楽山は、神を信仰していないということです。楽山の信仰?は、アドラー教の自己中心の、気に入らないことは無視する、ということを中心としていますし、この点で、既に、広く人に教えるようとするのは、著しく間違って、楽山は、知りもしないキリスト教の話に加わって、聖句の理解の片落ちで、悔い改めより、赦しが先だとかいうのです。神の寛容の気持ちと、人がどうすれば赦されるか、という問題を混同して、シャロームの味方をしました。
 
祈るほかない、とは笑止であります。楽山は、神に祈ったことはないと思います。ペテン師ですね・・
 

*事実と解釈
『カラマーゾフの兄弟』のなかで、イワンとアリョーシャの会話はすごく興味深いのだけれども、ここはちょっと難しかった。
(引用)
おれはいま、何もわかりたくないんだ。おれはただ事実ってものに寄り添っていたいんだ。だいぶまえに、おれは、理解しないって決めたんだよ。もしなにかを理解しようと思ったら、とたんに事実を裏切ることになるからな、事実に寄り添っていることに決めたのさ……
(『カラマーゾフの兄弟2』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、pp.241-242)

 
事実は受け入れる以外にない、ということなら分かりますが、寄り添うという言葉は不適切に感じます。
 

これは悲惨な事件の例をいくつも述べた後のイワンの言葉ではあるが、そういった事について、それに何らかの意味づけをすることなく、その事だけを見ていたいということなのだろうか。

 
楽山の推論は、事実を見ていたい、ということのようですが、何を言いたいのでしょうか。人は、事実あるいはその記憶を見ている、なんてことに、耐えられるわけでもないでしょう。立ち直る話は?
 

ちなみに、『心霊電流』(スティーヴン・キング著)の登場人物である牧師は、妻子を悲惨な事故によって失ったあとで、信仰をも失い、それを公然と語るのだが、それを聞いた別の登場人物は次のように批評していた。
(引用)
師はひとつだけ正しいことを言った。人生でひどいことが起こったとき、人々は必ず理由を求める。理由がない場合でも
(『心霊電流 上』スティーヴン・キング著、峯村利哉訳、文藝春秋、2019年、p.104)

 
結局、受け入れないといけない時が来るのでしょうけれど、加害者がいるような犯罪がもたらした不幸であれば、言うまでもなく、加害者が責めを負わされるのは当然です。
 

これはその通りのように思える。少なくとも自分のことをかえりみれば、一つの出来事について、それが自分にとって大きな出来事であればあるほどに、「これは××のためだったにちがいない」というような理由付けをしないではいられなくなる傾向はある。また他の人がそういうことを言っているのを聞いたことも一度や二度ではない。

 
「理由付けをしないではいられなくなる」に「傾向」と付けるのが、楽山のボンヤリ言語です。
思い切って言って、後付けの語尾で、ぼかしています。
 

イワンが言いたいのは、こういう理由付け、意味づけをすることなく、事実だけを見ていたいということなのだろうか。もしそうであれば、これには自分も共感できそうだ。ただそうはいっても、事実だけを見て、解釈、意味づけ、理由付けなどを施さないというのは、言うは易し行うは難しであって、かなり難しそうではあるけど…。

 
事実を、いつまでも見ていることは、できないです。楽山が言っているのは、言葉となった事実の内容のことでしょうか。そうだとしても、事実を見ることを意識した時点で、解釈を意図していることになります。分からない、という悲しみが、まともな人間にとっては、いかに必然かということを、知るべきなのです。
 
>*私が神さまならみんな許してあげる

各人が持っている神のイメージは、自分自身をうつす鏡なのだろうと思うけれども、『カラマーゾフの兄弟』のグルーシェニカも、それっぽいことになってる。

 
シャロームのように、神のイメージが自分自身を映す鏡になることを、偶像崇拝というのです。
キリスト信仰では、神は、偽善者以外には寛容だが、人知を超えた、恐れるべき信仰対象です。
 

(引用)
わたしがもし神さまだったら、みんなを許してあげるわ。『わたしの愛する罪びとたち、今日からみなさんを許します』って言ってね。で、わたしはちゃんと許しを乞いに行きます。『みなさん、どうか、この愚かな女を許してください』って。
(『カラマーゾフの兄弟3』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.321)
(楽山)
人が「神とはこういうものだ」と言うときは、グルーシェニカと同様に「わたしが神だったら、こうする」と言ってるのに過ぎないのだろうな、たぶん。

 
たぶんじゃなく、女性は、まさに、そのまま、そう言っていると思いますが。
 

人が、相手の心を想像して、「彼はこう思ってるに違いない」と言うときは、自分の心を相手にうつしているにすぎないという見方があるけど、「神はこう考えるに違いない」という場合も、それと同じ構図になっているんだろう。

 
なお、私が神だったら、という仮定は、キリスト者においては、成り立ちません。その仮定は、行為以前に、神の全能と、人の意志と、一致もしないし、一致したかどうかの比較も出来ないからです。人が人を赦すのは、人として赦す以外にないのです。
 

で、自分がもし神さまだった場合はどうかといえば、とてもじゃないけど、グルーシェニカのようにはできなそうではある。グルーシェニカの言うことはひとつの理想だけど、自分にはなかなか難しそう。
ただ、アリョーシャはそういうことをすでに実践してはいるらしい。前の記事にも貼ったことだけど、作中にはアリョーシャについてこんな記述がある。
(引用)
アリョーシャという人間は、何があっても人を非難したりせず、すべてのことを赦していたのではないか――もっともそのおかげでひどく悲嘆に暮れることはよくあったが――とさえ思える。それどころか、だれかに驚かされたり動揺させられることもなかったほどで、こうした性格はごく若い頃から変わらなかった。
(『カラマーゾフの兄弟1』ドストエフスキー著、亀山郁夫訳、光文社〈光文社古典新約文庫〉2007年、p.46)

 
だから、信仰の強さには、悲しみが付き物で、悲しみに共感することも必要です。それは、人間に備わっているはずですが、それを無視して、シャロームのように妄想や誇大的讃美を並べたり、楽山のように曖昧なボンヤリ言語の理屈をいくらこねても、信仰は分からないわけです。
 
「何があっても人を非難したりせず、すべてのことを赦していた」は、一見、立派そうに見えますが、偽善者を放置することにもなりかねませんから、神のように赦すことは、人には成り立たないのです。
 

ここを再読してみると、ひとを赦したことで、「もっともそのおかげでひどく悲嘆に暮れることはよくあった」という箇所は興味深いものがある。
自分は、「恨み心で恨みは解けない」という考え方を、ちょいちょい聞かされてきたので、人を恨んだり、裁いたりすることを止めてゆるしてこそ幸福になることができるというイメージを持ってる。だから、人を赦したことで、「ひどく悲嘆に暮れる」結果となるというのは分かり難い。

 
白々しい嘘だと思います。楽山が悲嘆にくれることの出来る人間なら、気に入らないことを無視できないはずです。また、人の話の中で自分に都合の良いところだけ挙げて、片落ちな判断やひいきなど、できないはずです。
 

人をゆるしても、悲嘆に暮れるものなのかな。それとも、アリョーシャは本当には人をゆるせてないから悲嘆に暮れたのかな。
でも訳文を読んでいると、ゆるすことについては、神が赦す、人が許すと使い分けているっぽい雰囲気はあった。

 
「かな」「分けてるっぽい」、とても不釣り合いな女言葉のように感じるボンヤリ言語。
 

とすると、グルーシェニカは「許す」で、アリョーシャは「赦す」となってるから、アリョーシャのそれは神寄りのようであるし、きちんとゆるせてないというわけではなさそうでもある。

 
神寄り、などと、どうやって判断するというのでしょう。人が赦すという行為には限界があります。許すべきではないときもあります。神は、偽善者以外、つまり、神の前で偽るもの以外は赦すでしょう。
 

やっぱり著者の考えは、人を心からゆるせても、それによって心は平安になるわけではなくて、「ひどく悲嘆に暮れる」ことにもなりえるということなのだろうか。
うーん、やっぱりよく分からない。この疑問はとりあえず棚上げかな。この手の疑問は、忘れないでいれば、そのうちに答えは見つかるだろうと思うので。

 
楽山は、悲しみが、信仰によって癒されて、神の平安に包まれうることを知らないようです。
 
また、シャロームは、コメント欄を閉鎖したを、神?の平安と呼んでいました。批判を書き込まれなくなったというだけの、無責任な自己中心の単方向に満悦しているに過ぎません。
 
>*イワンとメフィストフェレス

『カラマーゾフの兄弟』の第五編では、アリョーシャは、去って行くイワンを見送りつつ、次のことに気づいたらしい。
(引用)
そこで彼はなぜかふと、兄のイワンが妙に体を揺らして歩き、後ろから見ると右肩が左肩よりもいくぶん下がっているのに気づいた。
(『カラマーゾフの兄弟2』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.301)
巻末の「読書ガイド」によれば、これは何らかの暗示であるらしい。
これは、何を暗示しているのか。アリョーシャの目の狂いにすぎなかったのか。それとも、実際にイワンの右肩は左肩よりも下がり、足をひきずるようにして帰っていったのか。ここも読者のみなさんには、実際に『ファウスト』をひもとき、ご確認いただくしかない。右肩の下がり、体の揺れ……。おそらく、衝撃的な発見に遭遇できるはずである。
(同上、p.499)

 
楽山は、長ったらしい文章を書くくせに、教える立場に立つ何様かのつもりが抜けないようで、親切な引用・解説もせず、リンクもつけないようです。(一応(2)に関連記事あり)
 
(ネット検索)
「右肩がおち、つまりは足をひきずっていると描かれるイワンは、やはり『ファウスト』の足の悪い悪魔、メフィストフェレスに重ねあわされている!
メフィストフェレスが足が悪いというのは私には読み取れなかった。この悪魔が足を引きずっているような記述ってあったのかな?アウエルバッハの酒場の場面でメフィストの片足が蹄になってるということはわかるし、その後も足が蹄であることは何度も描写されてはいるけれど。
とのことなので、『ファウスト』を確認してみると、「ライプツィヒのアウエルバッハの酒場」にこんな箇所があった。でも現在では差別語とされる言葉が使われているので、そこは伏字にさせていただきたい。
https://red.ap.teacup.com/coquelicot/66.html
キリスト教では「右」が尊重されています。例としては、キリストの十字架のときに、同時に処刑された二人の罪人がいますが、右側の罪人はその場で悔い改めて、キリストから天国に入るのを許されており、対照的に左側の罪人はキリストを侮辱しています。さらに、キリストの昇天後は、父なる神の右に座していると言われています。こういうことからみると、イワンの右肩が下がっているということは、キリスト教的な理想からは縁遠い姿を象徴しているんでしょうか。
https://qa.itmedia.co.jp/qa3691812.html
 
悪魔や宗教的由来などは、少しばかりの興味をいだくことあるかもしれませんが、人間の心に響くような共感できる話でなければ、楽山と違って、言葉だけで、衝撃的とはならないのです。
 
(2)につづく
 
 
(2019年05月24日)
 
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  現代の偽善者
 
 
二千年前の
キリストの時代には
偽善者は分かりやすかった。
 
聖書のパリサイ人と取税人の祈りにおいて
多くの人は、かなり、はっきりと分かるだろう。
尊大で傲慢なパリサイ人と
赦しを乞う以外になかった取税人は
明らかに違っていました。
 
現代のパリサイ人つまり偽善者そしてサイコパスは
そのような分かりやすさを持たない。
 
現代の偽善者は
柔和な言葉遣いの丁重な挨拶から始まる。
 
現代の偽善者は
誰でも賛同するような話題を用意している。
そして讃美言葉で熱心な信仰者だと思わせる。
 
現代の偽善者が
尊大で傲慢になるのは
何らかの知的な話においてです。
 
宗教、政治、思想、
彼らは、自分が知的に上だということを示します。
その上で、じわじわと相手を貶めながら
従うことがベストだということを刷り込み
気づかないうちに強いてくるのです。
 
彼らの言うことが、
総ての人に広まったら
とんでもないことになると気づくこと。
 
彼らの言うことが
何よりも自己中心を土台としていること。
けっして罪や過ちを認めず
悔いることがないということ。
 
彼らの言うことが
聞き手に対して常に
上から教える態度に終始していることに気づくこと。
 
彼らの言うこととが
世辞の感謝やお詫び以上には
けっして微塵の反省も含まないこと。
 
これらに気づいたら一目散に逃げてください。
コメントにレスしないで無視して下さい。
けっして彼らの話に乗らないでください。
質問も確認もしないでください。
 
現代の偽善者は
覚悟の批判者だけが疑い
消耗しながら批判する対象です。
 
彼らは
ナルシシスト
サイコパス
偽善者
聖書のパリサイ人の
現代文明による進化型なのです。
 
 
現代の典型的なクリスチャンは
相手の本性を確かめることなく
穏やかな話には乗りやすい傾向があります。
 
教会で穏やかで美しい話ばかり聞かされてきたからです。
批判禁忌を教会が刷り込んできたからです。
 
現代の偽善者は
そこを狙ってくることを忘れないでください。
 
現代の典型的なクリスチャンは
そのままでは
騙し言葉と言い方だけを仕込んできたような
現代の偽善者には敵いません。
 
昔のパリサイ人は尊大で無知でしたが、
超常信仰から自らが行う儀式的な行為の神秘性を
本気で信じ込んでいた者もいたかもしれません。
 
今の偽善者は、意図して騙すことを企みます。
 
批判禁忌を教えられた信仰者は格好の餌食なのです。
 
 
(2019年05月24日、同日一部修正)
 
微塵(みじん)
騙す(だます)
敵う(かなう)
餌食(えじき)
 
 
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  人それぞれ勝手カルト
 
   霊的な真理を自分で気づき、 発見する
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28977314.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームは、上の記事に後付けで書き足しています。
 
>質問に一人一人ご自分で考えてみてください。
>他の人と異なっていてもいいのです。
 
私は、
「シャロームについて一人一人自分で考えてみてください。
 他の人と異なっていてもいいのですと、シャロームが言うのは、
 信仰?は人それぞれ、違っていてもいい、と言いたいのでしょう。
 聖書が表す信仰が、シャロームのように真逆でいいなんて、ありえないのです。
 滅びゆく人間離れの仲間にならないように、祈っています。拝。」
と書き足しました。
 
シャロームは、前から、信仰は人それぞれ、と言っていました。
人それぞれ、というと、何か柔和な感じがして、そういう宗教なんだと好ましく思ってしまいそうですが、これは、シャロームの騙し文句なのです。
 
シャロームの、人それぞれは、要するに、自分勝手、という意味です。
 
その通りに、シャロームは、好きなように聖書を解釈しています。
なんでもかんでも、神が与えてくれるので、自分は何もしなくていい、
罪も認めないし、悔い改めも与えられるからしなくていい、などと言いました。
自分の言動を、総て、正当化してしまう解釈です。
 
それだけでなく、シャロームは、反対意見を、ことごとく削除しています。
 
一見まともに見えるような、こういう解釈について、どう考えるのか。
 
標準的解釈というものがありますが、一致はしていませんから、それを盾にすることは、難しいでしょうし、シャロームのような無法者は、標準的解釈だろうが何だろうが、神の啓示と聖霊を盾にして、あるいは聖書の都合の良い文言をあげて、自己正当化を主張するでしょう。それを否定していっても、シャロームは、人の話など、まるで聞いていませんから、笑って、しかし・・云々と、また、同じことを言ってくるでしょう。
 
シャロームは、まさに、その人それぞれによって、自分勝手に信じ込んで、気に入らないことは無視し、気に入らないコメントは削除してきたのです。飽くなき無頓着の暴力です。
 
社交の世辞を言うのとは裏腹に、自分以外の、あらゆる伝統や正当性に対して、シャロームは、嘲笑い、憎しみさえ持っているのだと思います。キリスト教ではなくキリスト信仰だということを、シャロームは、そういう意味で使います。
 
だから、神聖からの啓示を盾にすれば、誰も結局は疲れて何も言わなくなるだろう、ということを知っているのです。それが、偽善者というものです。それが、キリストを殺した者たちの精神+さらなる現代の悪魔性なのです。
 
シャロームの妄想教理を否定するためには、総ての人が、シャロームと同じように、人それぞれ、そして、自分勝手に、信じ、振る舞っていたら、どうなるか、ということを考えるべきです。
 
人が、一人一人、自分勝手に、好きなように正しさを決めつけて、人の言うことを聞かずに、その判断で言動をするようになったらどうなるでしょう。人の世界に、争いが絶えないし、戦争も起こることになります。人は自分勝手ですから、シャロームの妄想教理に従えば、破壊しか待っていないということです。
 
シャロームは、そういう先々のことを考えていないのです。彼は、自分勝手に生きられれば良いだけの、虫ほどに小さいスケールしか持たない男ですから、考えもなしに、目先の自分勝手のために、妄想教理を言い続けて気持ちよくなるだけなのです。
 
しかし、シャロームの妄想教理は、破壊的信条の種になってしまいます。
 
ゆえに、シャロームの妄想教理は、公共の福祉に反する煽動の種であります。
 
総ての人が、そう信じたら、えらいことになる、という一点において、否定されるべき、無節操な、信仰の、人それぞれなのです。このように、カルトの妄想教理は、人のレベルで否定できるものがあります。超常の複雑な宗教話などで論争する必要はありません。
 
多くカルトというものは、理屈や教理でどうこうというのではなく、そういう反人間的な欠点を持つものだと思います。
 
シャロームの場合、さらに次元が低すぎます。あまりに幼稚な思い込みだから、最初、本気ではないだろうとさえ思っていたことさえあります。時間的にも理路的にも心情的にも、先のことなど全く考えないから、大仰に幼稚なことを豪語し、その度に恥をかいても、その恥を全部無視する信条を持っていて、気にしないでいられる単純な悪かつ偽善なのです。
 
だから、シャロームは、宗教の世界において、陰謀を企む将来の暴徒作りの種となるカルトのようなものです。人の話など、何も聞かないで、好きなことを仕出かしてきました。
 
人間のあらゆる道理に反していて、認めれば破壊だけが待っているような、いいものは何も生むことのない、反社会的な要素を持ち、シャロームの絶対自己正当化の超常妄想教理の敷衍など、決して福音伝道などではなく、肯定してはならず、近づいてはいけません。
 
 
(2019年05月22日)
 
敷衍(ふえん)≒広めること
 
 
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  いちばん遠い者
 
   霊的な真理を自分で気づき、 発見する
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28977314.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
シャロームが、いったい、何を気づくというのでしょう。いちばん、気づきから遠い者が書いています。
シャロームの、いったい、どこが霊的だと言うつもりなのでしょう。
いちばん、動物的な者が説教まがいのことを書いています。
 
>★今日のみ言葉★(2019.5.1)
>「まず、自分で気づきが与えられるために」
 

人から教えられることも必要ですが、霊的な真理を自分で気づき、
発見することも素晴らしいことです。

 
シャロームは、自分の悪霊性にだけは気づかない男です。
今日も丁寧語で、騙しにかかります。
 

聖書のマタイ4:1-11のところは次の通りです。
4:1 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
4:2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
4:3 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
4:4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
4:5 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて
4:6 言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。
4:7 イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
4:8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
4:9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
4:10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
4:11 そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。

 

前回はマタイ4:1-11のところの内容確認の質問をさせてもらい、
その後、内容の確認をさせていただきましたが、もうすでに、ここから教えられること、
気づかされたことなどがあったかもしれません。
次はこのお話の中から教えられることを一緒に見つけていきたいと思います。
以下の質問の目的は、あくまでもまず自分で気づきや発見が与えられることです。

 
気づきも発見もなく、石がパンになることを信じて、飛び降りることは怖くてできないが人には勧めているカルトの誘惑者であり、どんでん返しの栄華を信じ込んで、あらゆる善と忠告と戒めを裏切っているのが、シャロームであります。そして、いつも、嘲笑いと、作り笑いで生きているのです。
 

1.イエスは御霊によって荒野に導かれたのですが、なぜ、わざわざ悪魔の誘惑に合うために
人里離れた荒野に出かけていく必要があったのでしょうか。
ナザレの小高い丘のようなところでは駄目だったのでしょうか。

 
悪魔の誘惑には、誰でも遭うからです。
地上は荒野のようなものです。
人々のために、キリストが試みに遭うという聖句があるのです。
 
>(shalomのコメント)

御霊の導きはイエスさまが“風は思いのままに吹く”と言われたように
その人、状況によって異なり、その人を霊的な真理、気づきに導くために常に最善です。
イエスさまに出会った多くの人が、なぜ?、どうして?と思うような荒野に導かれていますが、
私もその一人です。きっとあなたにとってもそうだと思います。

 
シャロームは、もっともらしい飾りで、嘘っぱちを書いています。荒野を、どうして?・・という捉え方しかできないのは、誘惑のために、荒野だと思わせたくないからです。このような、安易で、間違った理解を広めることが、シャロームの定めのようです。霊的な真理と書けば、人々が頷くと思っているようです。シャロームは、悪魔の誘惑に従って生きている人だと思います。恐ろしい。
 
>2.別に断食をしないで、誘惑に合うことは駄目だったのでしょうか。
>(shalomのコメント)

イエスさまの場合は神がすべての人をサタン、悪魔のくびきである罪の支配から救いに導くには、
来たるべきサタンの究極の試みである十字架の苦難と死に打ち勝ち、
全人類の罪のあがないを成就し、神の御心が成就される道は
人の道ではなく、神の道、神のみことばによる以外に道がないことを受け容れ、
神のみことばに自分の存在、生き方を完全に委ね、明け渡す、
十字架の道が唯一の道だからです。

 
キリストが試みに遭う、ということに、私たち人間のためだ、という視点を、全く持たないシャロームです。シャロームにとっては、キリストもサタンも、他人事なのです。その恐れるべき超常と神聖を、身の程を弁えずに、高みから眺めて、よしよし、とばかり、分かっていますと、満悦している偽善の悪霊的存在が、シャロームなのです。こういう人が、地上にいるということです。
 

3.1回目も2回目も「もしあなたが神の子であるなら・・・」と悪魔は言っていますが、
ここでの誘惑の狙いは何だったと思いますか。

>(shalomのコメント)

イエスさまが神の御子であられることは神ご自身によってのみ証しできることだからです。
悪魔がアダムとエバを神のようなものになることができると誘惑し、神の御言葉を退けたように、
イエスさまがご自分で神のようなものと証しするために、
イエスさまがご自分の言葉や業によって証しするように誘惑し、
神の御言葉を退け、神に対する全き信仰、明け渡しを拒否するように誘惑した。
神に対する不信仰、罪とは神の言葉を退け、人の言葉、わざによって生きることです。

 
神のようなものとして、説教をぶっている偽善者が、シャロームです。その罪を、創世記においては、アダムとエバに着せました。今度は、まるで、自分がキリストを試しているかのような、神の立場に立って、書いています。実際は悪魔の誘惑の続きのように、キリスト者と求道者を陥れるために、誰も出来もしない全き信仰などと言っているのです。
 
シャロームの信仰は、始まってもいません。キリスト教に巣食うペテン師シャロームは、ずっと
神に対する不信仰、罪とは神の言葉を退け、人の言葉、わざによって生きることを続けるのです。
 

4.イエスはその悪魔に対して、人は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる者であると言われました。神の言葉はどういう面で人を生かすのでしょうか。
これがなければ人はどうなりますか。

>(shalomのコメント)

人はパンのみにて生きる存在ではなく、神のいのちの息吹きである霊によって生きる存在、
神のかたちにかたどって造られ、神との交わりによって生かされているからです。
イエスさまは、人を生かすのは霊であって、肉はなんの役に立たないと言われ、
私があなたがたに話した言葉は霊であり、いのちであると言われました。
イエスさまは私はブドウの木、あなたがたはその枝である。
だれでも私に繋がっていなければ、実を結ぶことができず、枯れてしまうと言われました。

 
「神のいのちの息吹きである霊によって生きる存在」「神のかたちにかたどって造られ」「神との交わりによって生かされて」「人を生かすのは霊」「言葉は霊であり、いのち」・・この聖書語を並べただけの超常言葉を見てください。一つとして、人間の実感に結び付きません。こういうことばかり吹聴して、シャロームは、キリスト信仰を、まるでピンと来ない呪文に変えてきたのです。
 
イエス・キリストというブドウの木から、いちばん、遠いところで、実感から遠い言葉を並べて、笑って、そそのかしているのがシャロームです。こういうことしか、シャロームは、言えないのです。それでも、批判されても、答えられなくても、執拗に教えようと書いてくるのは、シャロームの根っこからの悪性と悪霊を示すものです。聖書など、どうとでも言えると思い、どうでもよいと思うから、書いてくるのです。
 

5.「神である主を試みてはならない」とイエスはみ言葉を引用しておられます。
神を試みるとはどういうことですか。
神を試みることと神に信頼することはどう違いますか。

 
お分かりでしょうか。総てを見抜かれる神に対して、
神を試みることなど決して出来ないからです。
 
にもかかわらず、わざわざ、試みることと信頼することの違いなどという、実際は、真逆のことを比べて、知識を誇りたいのがシャロームなのです。神を恐れない者は、こうなります。総てを見抜かれていることを全く分かっていないのが、シャロームであります。
 
神に信頼する、ということで信仰を表すこともあり、それは、神を試みることが論外だと知っていることなのです。神を恐れることです。シャロームが、まるで、する気のないことです。だから、今回も、自分の罪と偽善を気にもかけないから、偉そうな言葉を集めて見せびらかしているのです。
 
罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていいとか、悔い改めは神が与える、などと、シャロームは、言って、訂正していません。そう言っても救われると思い込んで、いつも、どこでも、神を試みるシャロームのような者は、神によって、隅から隅まで、その罪と偽善の凶悪さを見抜かれて、来たるべき裁きを用意されるのです。つまり、神を試みるな、というのは、ここでは、シャロームのようになるな、ということと同義なのです。
 
>(shalomのコメント)

神を試みるとは人が自分を神のようなものとして、
自分の言葉や、わざによって生きようとすることであり、
神に信頼するとは神の御言葉を告白し、自分の言葉、わざによらず、
イエスさまが歩まれた十字架の道を、みことばと御霊に導かれて歩むことです。
次回に質問がもう少し続きます。

 
「自分の言葉や、わざによって生きようと」しているのが、シャロームであります。それで、生きられると思っているのです。罪人の自覚がなく、悔い改める必要など全く感じていないシャロームだから、自らを省みないで、こういうことを平気で言えるのです。
 
「イエスさまが歩まれた十字架の道を、みことばと御霊に導かれて歩む」・・十字架の贖罪の道など、人間には決して歩むことなどできない、ということが、シャロームは分かっていないのです。明らかでしょう。この無理解。
 
テキトーに言葉を繕って、キリストと同じ道を歩む・・とか言えば、キリスト者が、うんうん、と、頷いてくれると思っているのです。この人とだけは、同じ道を歩んではいけません。
 
総ての質問において、シャロームの背教と、不信仰ではなく反信仰が、明らかになってきたし、これからも明らかになってゆくでしょう。決して偽善者でペテン師のシャロームに近づかないでください。
 
>質問に一人一人ご自分で考えてみてください。
>他の人と異なっていてもいいのです。
 
シャロームについて一人一人自分で考えてみてください。
他の人と異なっていてもいいのですと、シャロームが言うのは、
信仰?は人それぞれ、違っていてもいい、と言いたいのでしょう。
聖書が表す信仰が、シャロームのように真逆でいいなんて、ありえないのです。
滅びゆく人間離れの仲間にならないように、祈っています。拝。
 
 
(2019年05月22日、同日一部修正)
(2019年05月23日、一部修正)
 
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