ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2019年07月

 
  空体語の交流(2)
 
   気持ち
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41563997.html#41564746
   楽山のブログ、コメント欄。
   私のコメントは、削除されるでしょうから、おもに記事用です。
 
 
(楽山)
> shalomさん
十字架のアクセサリーについてのお話、ありがとうございます。
shalomさんは、おおらかな考えをお持ちのようですね。
ちょっと思ったけど、
 『上馬キリスト教会の世界一ゆるい聖書入門』にあっても不思議でない考え方かも。
2019/7/27(土) 午後 7:45[ 楽山 (自由) ]返信する
(楽山)
> stさん
申し訳ないですけど、
 今後は、もう少しだけでも連投は気をつけてもらえればと思います。
よろしくお願いします。
2019/7/27(土) 午後 7:46[ 楽山 (自由) ]返信する
 
(私)
楽山は、続けて書くなと言っているようです。批判をするなと、批判されている側が、
「もう少しだけでも連投は気をつけてもらえればと思います」
と言えると思って、書いてくる丁寧語が、あざとい。柔和面をする楽山は、卑怯者、そしてカルトという判断ですから、批判を続けます。
 
(シャローム)
> 楽山 (自由)さん おはようございます
『上馬キリスト教会の世界一ゆるい聖書入門』
初めて知りました。
上馬と言えば東京、世田谷ですが、
高卒後、東京に出て、近くの池尻にほんの短い間住んでいました。そして大卒後は、また池尻に本社のある会社に入社し、大阪、京都で仕事しましたが、ちょっと懐かしいですね。
 『上馬キリスト教会の世界一ゆるい聖書入門』
 聖書通信講座でもしているのでしょうか。
 検索してみましょう。
2019/7/28(日) 午前 8:44[ shalom ]返信する
(シャローム)
だれでもイエスさまについて、人ぞれぞれの立場や、心のフィルターをとおして自分のイエスさまについての考え方をもっているのです。エス様に選ばれ、イエス様と一緒に歩んだ弟子たちでさえそうでした。みんな自分の心のフィルターを通して見えるようにイエスさまに期待しているように信じましたが、イエスさまの死によって、みんな吹っ飛んでしまいました。それが悔い改めの意味のようです。
イエス様へのひとつの信仰の一致はそこから、イエスさまによって与えられたのですね。
ペテロが初めてイエスさまに対する信仰告白をした時、イエスさまが約束された「私は私の教会を私が建てる」と言われた
言葉が成就したのです。その時、イエスさまによって弟子たちの目と心が星の王子様の言葉の世界が啓かれたのですね。
shalom!
2019/7/28(日) 午前 8:47[ shalom ]返信する
 
(私)
キリストを理解していないばかりか、反キリストであり、フィルターどころか、自己中心の欲望の色眼鏡で見ているのは、シャロームであります。
キリストが死んで、期待が吹っ飛んだことが、悔い改めの意味だと言っています。それだけなら、絶望しか残らないでしょう。それ以外の大事なものをキリストは残していたということです。だから、弟子たちは、キリストを忘れられなかったのです。シャロームは、キリスト者ではないから、それが、全く、わからないのです。
(私)
シャロームは、今も、罪を認めず悔い改めなくても、いい気持でいられる欲望の成就を、信仰だと決めつけています。そして、文脈もなく、星の王子様まで持ち出します。プラスになると思えば、実に、気楽に、何でも出してくるのは、カルトの特徴です。早く、凶悪なカルト、シャロームも吹っ飛んでほしいと思います。
 
(楽山)
ツイーターで呟いたものを本にまとめたと記憶してますけど、本の文体は、こんな感じですね。
 前に読んだ時は、本書は分かりやすさ、親しみやすさ、きっかけづくりを目的としてる事を繰り返し強調してたのが印象的でした。
・【 上馬キリスト教会の世界一ゆるい聖書入門】お腹の空いたイエス様は怖い
https://cakes.mu/posts/23238
2019/7/28(日) 午前 9:12[ 楽山 (自由) ]返信する
(楽山)
ツイッターでは、聖書関連の最近の呟きは、こんな風ですね。
>【聖書ウラ話】
使徒といえば清廉潔白な人だったようなイメージがありますが、使徒のうち大ヤコブは弟ヨハネと共に「雷の子」と呼ばれるほど怒りん坊で、ある街がイエス様を歓迎しなかった時「この街、焼き払っちまいましょう!」と暴言を吐き、イエス様に怒られました。
https://twitter.com/kamiumach/status/1154962818803699713
2019/7/28(日) 午前 9:13[ 楽山 (自由) ]返信する
 
(私)
キリストが弟子に選んだ人々は、理屈屋でも、頭が良かったわけでもなく、それぞれの役割に相応しい者たちだったのだろうと思います。特に、感情が豊かだったように思います。
(私)
ペテロは、一面的で、思い込みが強かったかもしれませんが、悔い改めも激しく、キリストへの愛も強力だったのでしょう。そして殉教することになります。
(私)
のちに選ばれるパウロは、理路に優れ、頭の良い人のように感じます。それが、伝道に役に立つという経過と結果だったのだろうと思います。
(私)
楽山のように、清廉潔白などという世辞言葉で括ってしまうのは、無礼というものです。
ボンヤリ言語の楽山や、嘘吐きのシャロームとは、全然、違うのです。
(私)
楽山は、チクチクと、キリストと聖書をおとしめてきます。楽山が、キリスト教について話をすることは、全く信頼できず、魂胆がある証拠です。
(私)
では、何と答えたらいいのでしょう。分からない、と正直に言えばよいのです。
何でも分かるはずだと要求する者どもを気にすることは、信仰を妨げます。
その結果が、例えば、シャロームです。
 
(シャローム)
> 楽山 (自由)さん こんにちは
「お腹の空いたイエス様は怖い」
自分がお腹がすいていたからって、イチジクが
季節外れなのに食べられる実を結んでいなったと言って腹を立てて、呪ってからしてしまうなんて理不尽、いくら神は何でもできるからってそれは理不尽でしょうということのようですね。
ほんとうにまるで近年多い幼児、子供虐待する親のようでこわいですね。
よく似た話ですが、まるで全く反対の園丁の話もあるんです。(ルカ13:7~)
こういうところが聖書の隠し味のようです。
2019/7/28(日) 午前 11:42[ shalom ]返信する
 
(私)
シャロームは、キリストを理不尽、虐待する親のようで怖い、などと言っています。解釈が間違っていることを考えずに、こんなことを言うのは、信じていない証拠です。
(私)
このように、シャロームは、受け入れて、逆の話をもってきて、目を逸らそうというカルトらしい反応を示しています。シャロームは、分からないとは言えない人、何でも分かっているつもりだけの、現代のパリサイ人です。
隠し味?・・シャロームの、隠し強がりに過ぎません。都合の悪いコメントの不承認、おびただしい罪と偽善、隠し事で出来ているシャロームです。
 
(シャローム)
「使徒のうち大ヤコブは弟ヨハネと共に「雷の子」と呼ばれるほど怒りん坊で、ある街がイエス様を歓迎しなかった時「この街、焼き払っちまいましょう!」と暴言を吐いた弟子たちの怒りを正当化すると、だれ一人として、神の呪い、裁きを逃れることのできる人はありません、でも神さまは園丁のように、いやそれ以上に私たちの命を救うために自分の命を呪いの代価として支払おうとしてイエスさまをお遣わしになられていると私たちに話しておられるような気がします。
 
(私)
そして、キリストの十字架を、己の無罪妄想にしてしまったのが、シャロームです。いつまで、この男の、嘘八百を聞かされることになるのでしょう。
 
(シャローム)
弟子たちが「この街、焼き払っちまいましょう!」と暴言を吐いた街とは本来神の民の一族であったのですが、アッシリヤに滅ぼされ、支配され、神の民として穢れたとレッテルを張られたサマリヤ人の街だったのです。神の民の純潔を誇っていたユダヤ人である人達はサマリヤ人は神に呪われ、裁かれるべきだと考えていたのです。ですから、イエス差は当然サマリヤ人に対して裁かれるに違いないと信じて、交わりをせず、サマリアの街を避けていたのです。当然の怒りだと信じて疑わなかったのです。
2019/7/28(日) 午前 11:44[ shalom ]返信する
(シャローム)
しかし、イエスさまはそのサマリヤの街を通っておられたのです。
イエスさまは弟子たちを厳しく叱られたというのです。
きっとイエスさまが呪われ、枯れたいちじくの木とはイスラエルの神殿の姿、神の民であることを誇りながらも、実を結ぶことのできないユダヤ人、神殿当局、指導者に対して厳しい態度を表されたのではないでしょうか。
 
(私)
では、シャロームは、どうなるかというと、滅びが進行していると思います。ますます、偽善者らしくなっています。つまり、恐ろしいことを、自分を除外して、平気で言うシャロームなのです。
 
(シャローム)
後で神殿の清めのわざをされるイエスさまの心の思い、言葉だったのではないかと思います。
ヨハネによる福音書3章14、15、16節のイエスさまが言われた言葉を読んでみてください。
shalom!
2019/7/28(日) 午前 11:44[ shalom ]返信する
 
(私)
きよめようのないものは、どうなったでしょう。行ってしまえ、と言われます。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
7:22
その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23
そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
 (マタイ7:22-23、新約聖書)
 
(楽山)
>よく似た話ですが、まるで全く反対の園丁の話もあるんです。(ルカ13:7~)
このお話はすきかも。
創世記18章のソドムのためのとりなしの話も、わりとすきではあります。
>ヨハネによる福音書3章14、15、16節のイエスさまが言われた言葉を読んでみてください。
こちらは正直よく分からなかったです。
自分にはちょっとキリスト教色が強すぎるのかも。
2019/7/28(日) 午後 0:25[ 楽山 (自由) ]返信する
(楽山)
イエスとニコデモの話も難しい。
風と霊とを関連させて話てるのは何となく分かる気はするけど、他は難しいですね。
2019/7/28(日) 午後 0:32[ 楽山 (自由) ]返信する
 
 
(シャローム)
「よく似た話ですが、まるで全く反対の園丁の話もあるんです。(ルカ13:7~)」
 
(私)
全く・・を付けるほどの、反対の話ではありません。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
13:7
そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。
13:8-9
すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。
 (ルカ13:7-9、新約聖書)
 
(私)
三年でもなく、もう少しでもなく、シャロームは、少なくとも、8年、実際は、もっと何十年も、我欲のために、罪を認めず悔い改めず、それで、元牧師と嘘を吐き、キリスト者だと嘘を吐き、人々を惑わせ続けています。
 
「行ってしまえ」という聖句は、もう一つ
 
 (ルカによる福音書、口語訳)13:27
彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう。
 (ルカ13:27、新約聖書)
 
 
(私)
間違いも、過ちも、罪も、正直に告白すれば、そこで信仰は改まり、神の寛容と、キリストの愛によって、赦されるでしょう。
(私)
シャロームは、その機会を、ことごとく、無にして、しかも、正しさを偽装して、教える立場にしがみつき、反信仰を続けているのです。信じられないような背きです。
 
 
(2019年07月29日)
 
 
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  空体語の交流
 
   気持ち
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41563997.html#41564746
   楽山のブログ、コメント欄。
   私のコメントは、削除されるでしょうから、おもに記事用です。
 
 
(私)
記事のほうは、前に私の批判記事にしたと思います。
「くさい」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12497310827.html
(私)
コメント欄の冒頭は記事にしたかもしれません。
不都合を無視し、実際に忘れてしまう者たちです。
このようになったら、おしまい、と私は本気で思っています。
シャロームは8年前から、そして、楽山も、
私のコメントを、数えきれないほど、削除しています。
 
(シャローム)
自由さん おはようございます
「揺れを戻し、整えることも大事。」
そうですよね。
私はやじろうべぇが好きですが、ごぞんじですか。
どんなに揺れても、振り回されることがあっても、
たしかな支点に支えられていれば、相対化の揺れがあっても、
支点によって揺れを取り戻し、整えられる…あの人形ですが。
2019/7/24(水) 午前 9:03 [ shalom ] 返信する
 
(私)
そちらは、削除するわけですから、こちらは、記事にするわけです。
2019/7/24(水) 午前 11:15 st5402jp 返信する
 
(シャローム)
> st5402jpさん
「そちらは、削除するわけですから、こちらは、記事にするわけです」
そうです。私も自由。あなたも自由ですよ。
あらら、いま気がついたのですか。
2019/7/24(水) 午前 11:54 [ shalom ] 返信する
 
(私)
いよいよ、狡いケダモノの本性発揮ですね。あらら・・とは
2019/7/24(水) 午前 11:58 st5402jp 返信する
(私)
社交の世辞で、宗教を語る無理が、シャローム経由で、あなたを凶暴さをあらわにする転換点でしょう。
2019/7/24(水) 午後 0:00 st5402jp 返信する
 
(楽山)
>shalomさん、こんばんは。
やじろべえとか、天秤とか聞くと、
山本七平の日本教徒の話を思い出してしまいますよ(笑)。
ところで、shalomさんは、コメント削除あり派なんですね。
自分の方は、基本的には、コメント自由派ではあります。
どんなコメントであれ、本人はこれだけは言いたいという
切実な気持ちはあるのだろうし、
削除、承認せず、というのは可哀相な感じがするので。
でもさすがに、実名を挙げてのボロクソコメントは拒否したことはありますが。
2019/7/24(水) 午後 7:12 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
コメントは他者の書いたものだから、コメント削除あり派などは正当には存在しません。答えられない者の卑怯な自己正当化です。都合の悪いことは、みな隠蔽するのです。その上で、美辞麗句を並べて、ちゃんとしているふうを装う、という、見苦しい限り。
2019/7/25(木) 午前 3:43 st5402jp 返信する
 
(シャローム)
> 楽山 (自由)さん
「やじろべえとか、天秤とか聞くと、
山本七平の日本教徒の話を思い出してしまいますよ」
そうですか。あの「日本教徒」は積読状態で、まだ読んでいないんです。
七平さんがやじろうべぇや天秤の話をどんな風に、どんな意味で書いていたのか気になりますね。
私はブログは自分の家だと考えていますが、いろんな人がいますので、出入りは承認制にしたり、人によっては出入り禁止にします。お断りしているのに、出入りしようとすれば締め出したり、送り付けられるものは送り返したり、時には処分しますね。
自分の家、部屋と他者の家、部屋の違い、区別がつかない人にはそうした方がいいのではないでしょうか。
自分の家や部屋に他の人がヅカヅカと入ってくることに平気な人はいないでしょう。
夏ですが、しっかり戸締りはしたいものですね。
2019/7/26(金) 午後 8:59 [ shalom ] 返信する
 
(私)
私は、前に言ったのに、シャロームは、また、同じことを返しています。
ブログは、管理を管理人がまかされただけで、管理人の所有物ではありません。
ブログは、公共のものなのです。公共に公開されています。
だから、そこに預けたものを勝手に削除するのは、マナー違反であり、
卑怯でしかありません。
そのブログを私物化して、自分の家だとシャロームは言っています。戸締りに喩えるほど、私物化に徹底している様子からは、シャロームは、公共の意識が皆無と思われます。
(私)
やじろべえは、倒れそうで倒れないが、天秤は平衡を計らないとどちらかに傾いてしまいます。シャロームは、倒れても、倒れていない風に、装って、蔓延ります。アンバランスの自覚と病識がないということです。倒れても亡霊のように、口だけ、とんがってくるシャロームですが、何事につけても、シャロームは、破壊の途上にあるのです。
 
(私)
コメントを削除すれば、凶行に及ぶ根性が明らかとなり、
批判もそれなりに厳しくなってきたわけです。
 
(楽山)
たしか山本七平は、日本教徒の特徴を、天秤を比喩にして説明してました。
支点は人間で、天秤には空体語、実体語という錘をのせているが、空体語という錘が極限まで大きくなった時、天秤は回転してすべての重りを振り落とし、再び平衡となると…。
先の戦争を例にすると、本土決戦、一億玉砕などの出来もしない空体語が大きくなり、支点(人間)に近くなるほどに、本土決戦も一億玉砕も無理だという現実的な声は、支点(人間)から遠く、小さくなり、やがては天秤はバランスをくずし、すべての重りを落とし、何事も無かったように平衡に戻ると…。
自分の理解だと大体こんな感じの話だったと思います。
2019/7/27(土) 午前 7:23 [ 楽山 (自由) ] 返信する
(楽山)
コメント欄については、当方も、いろいろと考えてはいました。
優柔不断なので対応は遅れてますけど、今よりは、shalomさんの考え方に寄っていくことになりそうです。
2019/7/27(土) 午前 7:29 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
他者の文章を、自己正当化のみに利用している楽山です。空体語という言葉を使っているが、比喩的表現としては、空体語は、実体語と対立しているようで、悪しきもの、空しきものの台頭を言っているのでしょうか。そこだけの理解なら、何を受け取ったのかについて不十分でしょう。
 
(ネット検索)
2010年6月4日 投稿者: takahiko
実体語と空体語について
実体語と空体語は、故山本七平氏が提唱した日本分析のキーワードである。日本国民は常に、この二つの極を行ったり来たりしてコントロールされてきたと述べている。
実体語と空体語を具体的に紹介することにしよう。(「日本教の社会学」山本七平&小室直樹対談より)
「モデルとして太平洋戦争末期をとりあげてみましょう。あの頃、無条件降伏という実体語があれば、一億玉砕という空体語でバランスをとっているわけで、その空体語がないともう何も機能しない。
ところが、一億玉砕というのは極限ですね。どうもできませんね、これ以上は。これ以上もう空体語を積めなくなる。
http://www.kawaitakahiko.jp/archives/533
 
(私)
天秤ばかりの比喩のようです。戦時中の日本の行き詰まりを思わせます。実体に釣り合いをとるための空想ということでしょうか。
 
(シャローム)
> 楽山 (自由)さん おはようございます
「支点は人間で、天秤には空体語、実体語という錘をのせているが、空体語という錘が極限まで大きくなった時、天秤は回転してすべての重りを振り落とし、再び平衡となると…。「」
ありがとうございました。よくわかりました。
日本教とは支点が人間であり、天秤には空体語、実体語という錘をのせ、ひっくり返れば、元の黙阿弥、元に戻る、まさにそうですね。日本は今戻っていますね。
ところで私のやじろうべぇの支点は人間ではなく、イエスさまなんです。十字架につけられたイエスさまの姿をよく見てください。まさにやじろうべぇの姿です。
で、十字架は日本人のみならず、世界中の男女にかかわらず、一番愛されるアクセサリーですね。
でもその十字架を見るとキリスト教がほとんど日本教化していること、アクセサリー化していることを表しているように私には思われます。
2019/7/27(土) 午前 10:06 [ shalom ] 返信する
 
(私)
不十分な比喩を聞いただけで、シャロームは、よくわかったそうです。シャロームについて言えば、わかるということは、ありえないように思っています。浅く薄く呑みこんで、盛んに無秩序に言いまくってきただけなのです。そして、自分が斬られていることに気づかないシャロームしか表れていません。シャロームの言が、空タイ語であることにすら気づかないのでしょう。
(私)
十字架は、世界で、一番愛されているアクセサリーでしょうか。シャロームは、また、誇大的になっています。そこで、すぐ、日本教化にアクセサリー化という言葉を造語して、悦に入るシャロームです。ベースにある思慮が、いかに、安易で、安っぽいかがうかがえます。アクセサリーのような気安いトークをして、都合よく忘れてゆくシャローム。
 
(シャローム)
> 楽山(自由)さん
ところで楽山さん
あの厚くて、決して読みやすい本ではない山本七平さんの「日本教徒」の要点をズバリすぐに的確にコメントできるなんて素晴らしい理解力と文章表現力ですね。
メモ魔のようですが、メモしておられたのですか。
私は面倒くさがりですから、心に残っていても読みっぱなしですね。次第に忘れてしまいますし、もったいないなぁと思わされました。感謝!感謝!
2019/7/27(土) 午前 11:08 [ shalom ] 返信する
 
(私)
早速、同じ穴のムジナ同士の仲間ぼめです。前に、シャロームは、仲間ぼめを嘆く本を読んで記事にしていましたが、いかに、自分の都合だけで、本を利用し、かつ、忘れているかがわかります。本当に、シャロームにとって、本は、アクセサリーに過ぎないようです。熱しやすく冷めやすいのではなく、最初から、利用しているにすぎないシャロームの読書なのです。読んだと誇りたいだけなのでしょう。
(私)
シャロームが、読みっぱなしで忘れてゆくのは、自分に都合の良い処世と言っていいでしょう。本当に忘れてゆくのでしょう。今の様子なら、すべて忘れて、物を言うことも忘れてほしいものです。
 
(楽山)
多分、幸福の科学での経験があったので、記憶に残りやすかったんだと思います。
幸福の科学では、でっかい空体語で会員にはっぱをかけて動かし、現実的な判断は、マイナス思考とか何とか言って排除するということが繰り返されてたので。
でも先の説明は、あくまで私の大雑把な理解で、山本七平の著作だと、空体語とは何かとか、ややこしい説明があったし、自分の理解は必ずしも正確とは言えないかもしれません。そこ、ご勘弁願います。
2019/7/27(土) 午前 11:31 [ 楽山 (自由) ] 返信する
(楽山)
ところで、shalomさんは、アクセサリーとしての十字架は容認なんでしょうか。
自分はかつて、十字架のペンダントは格好良いと思って買おうとしたら、当時、親しくしていた人から、そういうものは信じてない人が身に着けるべきでないと言われて、買うのは止めたのでした。
この人は、ノンクリだけど、キリスト教系の学校に通ってたので、そこら辺の線引きはビシッとしてたのかもしれません。
2019/7/27(土) 午前 11:45 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(シャローム)
> 楽山 (自由)さん
本当に十字架には人の心をひきつける魅力がありますね。
イエスさまは負われた十字架は生ける神を見失った私たちすべて人が負っている罪とその重荷、呪い、裁きの象徴であるとともに、同時にすべての人の罪とその重荷を、神ご自身が負われ、私たちすべての人が背負っている罪の重荷と呪い、裁きをご自分で負ってくださり、救いを与えておられる象徴なのです。
それを福音、喜びの訪れというのです。
2019/7/27(土) 午後 4:55 [ shalom ] 返信する
 
(私)
キリストに罪を負わせて、シャロームは、罪を認めず、悔い改めず、信仰の何ものをも持っていません。そして、それでも、シャロームは、神が罪を背負って、自分を救うと言っています。そのようなキリスト教もキリスト信仰も、どこにも存在しません。どうかシャロームを真に受けないでください。シャロームは、恐ろしい背教の言を、今日も止めません。滅びつつあるものの宿命なのでしょう。
 
(シャローム)
十字架のアクセサリー、イエスさまが十字架につけられている姿は、信じている人には神の愛と恵みによって与えられる救いの象徴ですから、その喜びをあらわし、多くの人に知ってもらいたいという信仰の証しといえると思います。
そのことを知らない人にとっても、神の愛と恵みによって与えられていることは同じなのですが、そのことをまだ知らないとしても、十字架をアクセサリーとして大事にされることは何の差支えもないと思います。
私も自身も長い間、全く分からい時があったのですから。
今はわからずにしていることでも、後になり、ああ、そういうことだったのかと知らされることって多いと思います。
子どもの時はわからなかった親の気持ちが、自分が親になって少しは分かるようになるということだってありますし、過去のつらい体験で、思い出すのも嫌だったこと、苦しかったことなのに、ある時、ふと、ああ、そういうことだったのかなと、ふと気づかされることもありますよね。
2019/7/27(土) 午後 4:56 [ shalom ] 返信する
 
(私)
十字架のアクセサリーは、アクセサリーであって、信仰の証しにはなりません。滅びゆくシャロームは、前にも増して、暴言を吐くようになっています。
(私)
シャロームは、ああそうだったのか、ということを表したことは一度もありません。私が前から言っているように、訂正不能だからです。シャロームは、何も見えず聞こえず、気づくことのない闇の洞窟を歩いています。
 
(シャローム)
2000年以上の、遠いイスラエルで起こったイエスさまの十字架の死が、時間と空間を超えて、今生きている私たちの心に届いている神の福音、それが十字架というアクセサリーによって示されているのは本当に人知を超えた神の御業と愛ですね。
気にせずに十字架のアクセサリーを身につけてください。
shalom!
2019/7/27(土) 午後 4:56 [ shalom ] 返信する
 
(私)
シャロームの偽善的代償的ベタ褒めの讃美?の便尿失禁です。垂れて流れるだけです。大嘘吐きです。十字架のアクセサリーは禁止ではありませんが、シャロームの言動は、ことごとく反信仰としてしか表れません。したがって、シャロームに十字架のアクセサリーを許可する権限はありません。
(私)
シャロームは、キリスト者が負うべき十字架を負わなかったのです。神の救いの御業も愛も、シャロームが拒否しているのです。最近、シャロームの恐れを知らぬ暴言が増えているのは、人知を超えた神の裁きが進行中なのかもしれません。
(私)
神は、いつまでも、黙って見ておられるわけではないのです。
2019/7/27(土) 午後 6:29 st5402jp 返信する
 
 
(2019年07月29日、同日一部修正)
 
 
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  敏感?鈍感?
 
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   楽山のブログ記事。
 
 
相変わらず、気持ちの悪い筆致の、ボンヤリ言語です。
 

世の中には、
いろいろな人がいるけど、
その中には、
ほんのちょっとしたことでも、
喜んでくれる人がいる。

 
楽山は、喜ばせたことがあるのでしょうか。
意地の悪い、高揚気分への誘い文句です。
 
これこそ、だまされやすい人のことでしょう。
そういう恥ずかしいことを書いている自覚が楽山にはないのです。
 

小さなお土産をあげたり、
ありがとうとお礼を言ったり、
ひさしぶりに顔を合わせたり、
そんなことだけでも、
素敵な笑顔を見せてくれる人。

 
お土産、お礼、素直な笑顔、
ここに、うっかり、うなずいて、やさしさをを感じてしまうと、
楽山の腹の黒さを見逃してしまいます。
 
感情と気分の異常、いつもしあわせの、多幸症の勧めなのです。
人間というものが分かっていない人の言です。
 

こちらは全然、
大したことはしてないのに、
飛び切りの笑顔で喜んでくれる人。

 
ほんわかとした雰囲気を出しているつもりなのでしょうか。
 
人に言われて、楽山に言われて、
大したことしなくても、飛び切りの笑顔で喜ぶ人になりたいでしょうか。
 
むしろ、こんなことを、人に対して平気で言う人、引っぱたいてみたくならないでしょうか。
 

こういう人は、
しあわせの感度が高いのかなあと思う。
だから、ちょっとしたことでも、
すごくしあわせになれる。

 
楽山のような、罪の感度の低い~ない人は、こういう、しあわせ話をして、このような人がよい、という説教で、小さいことに喜びなさい、何があっても笑顔だよ、などと言いたいのでしょう。
 
楽山の、狂ったセンスに、恥性の防波堤が決壊し、洪水を起こしているようです。
 

できれば、
自分もそんな風になりたいと思う。

 
ここで、真っ赤な嘘です。今までの、楽山の刷り込み方から言っているのですが、楽山は、人間に興味はないと思います。むしろ、人間嫌いだから、何を言われても気にせず、このような白々しいことが書けるということです。楽山は、人を、あやつりたいだけだと思います。
 
この話の、ちっぽけな喜びが大切、という話は、それを信じる者に、大きな不幸や不義から目を逸らさせるために語られます。それがカルトです。
 
小さな幸せに敏感になり、ありがたや、ありがたやと、大きな不幸と不義からは目を逸らすために語られていることを覚えておいてほしいです。
 
考えてみれば、小さいことを大事にする、という、言わなくてもいいような、当たり前のことを書いているのです。新しいことも、深みも、広がりも、何一つないベタな話です。
 
こういう話を、予定調和と言います。
 
適当に見繕って、やさしく語れば、感動して、同意してくれるだろう、という、最初からの作為の意図を感じます。そういう見方をすると、何やら、気色の悪いものを感じるのです。
 
いい大人が、子供向けでもないのに、よくこんなことが書ける、という感想になるでしょう。対象である大人を、いかに軽く見ているか、ということにもなるでしょう。
 
大人に対しては、ある意味、無礼であり、つまり、まだまだ騙されやすいバカがいっぱいいるさ、くらいに思っているのではないかと疑います。
 
つまり、不義や不正に対する抵抗の精神を、なんとか、萎えさせるための、刷り込みだと思います。
楽山は、最初から、ねじ曲がった精神で、ねじ曲がった狙いをもって、書いているのです。
 
もっともらしい、やさしそうな、のぞましいような、あたたかいような、そういう言葉を集めて、しかし、楽山の、人を人とも思わない体質から言って、白々しくて、わざとらしくて、作為的で、否定できないでしょ、というような、いわゆる「ですよね」「じゃないですか」と同じような暗示の意図が、臭ってくる文章です。
 
思慮深い人は、今さら、きれいごとを書いてどうするんだ、ということが言えます。しかし、初めて見る人は、雰囲気的に、すてき、と感じてしまいそうな書き方の誘導なのです。つまり、未熟な良心につけいる誘惑です。
 
真に受けてしまうと、抵抗力のない、反発力のない、従順で、控えめで、目の前の礼儀を大事にして、先を見通すことの出来ない、だまされやすい、そして、同じようなことを、別の人に言ってくれる人、つまり、楽山にとって、とても扱いやすい人になってゆくのです。
 
よほど自信があるのか、前に書いた記事で批判されても、このような文章を書いてくるのは、楽山が、自分の誘い文句のほうが、真実を求める言論より、優位であることを確信しているのでしょう。それを実現させてはいけないと思います。
 
>しあわせの感度が高いのかなあと思う。
 
>ちょっとしたことでも、
>すごくしあわせになれる。
 
この、バカ丁寧な、やさしさの、気色わるい多幸的な言い方を見逃さないでください。
とても、安易で、人間をなめた言い方です。
楽山のセンスは、人に、このようになることを求めているのです。
 
カルトが求めているのは、裏を返せば、不幸の感度が鈍くなって、文句を言わないこと、
 
それこそ、箸が転んでも、幸せを感じるような人でしょうか、
 
「しあわせの感度が高い」、「ちょっとしたことでも、すごくしあわせになれる」、
 
これこそ、だまされやすい人の特徴の、角度を変えた別の言い方ではないでしょうか。
 
こんなことを、平気で言うのが、学習も成長もない楽山のセンスなのです。
恥ずかしいと思う感受性を、良識とともになくしてしまうと、
背筋の寒くなるようなことを平気で言うのです。
 
そのとき、恐らく、楽山は、この記事のような、
もっとも、やさしそうに見せかけた、大根役者の笑顔を見せるのでしょう。
 
ネットでの成りすましが疑われ、アドラー教カルト宣伝者の楽山ですが、
重ねて、安っぽい文章の作為と悪意に、憤りを禁じ得ません。
 
楽山が、誰にとっても、バレバレになることを願って止みません。
 
 
キリスト信仰は、このような、あさましい、しあわせ話では語れません。
 
キリスト信仰は、救い主の、命の結晶として与えられるからです。
 
 
(2019年07月28日)
 
 
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  信仰という偶像崇拝?
 
   信仰という偶像崇拝? (『キリスト教思想への招待』田川健三著)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41562912.html
   楽山のブログ記事です。2019/7/20(土) 午前 8:04
 
 
前はコメント蘭を記事にしました。
「偶像コメ」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12496931484.html
 
今回は、楽山の本文のほうです。
 
キリスト信仰が偶像崇拝と言いたい楽山の騙しと誘導のテクニックです。
ボンヤリ言語でも、刷り込みから、邪悪な結論を刷り込んでくるのです。
 

信仰という偶像崇拝? (『キリスト教思想への招待』田川健三著)
先日、『キリスト教思想への招待』(田川健三著)を読んだ。独特の語り口の文章なので、人によって好悪は分かれそうだが、自分としては、はじめて知る話が多かったので面白かった。
というわけで、著者のことを調べてみたら、次の文章をみつけた。
神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝であり、「神とは人間がでっちあげた」ものなので、「神を信じないクリスチャン」こそが真のクリスチャンであり、自分は「神を信じないクリスチャン」であるとする。
・田川建三

 
神を想像することで、決めつけでなければ、偶像崇拝とは限りません。
シャロームのように、空想で、神を決めつけるのが、偶像崇拝です。
 

これはちょっと分かる気はする。
氏の考えとは違うかもしれないが、思うに、信仰者はそれぞれ自分の心に「神はこういう存在だ」というイメージを持っているものだ。だから神を信じるときは、神そのものを信じるというよりは、自分の心に描いた神のイメージを信じることになる。そうして、自分の心に描いた神のイメージに反するものは、神として信じることは拒否する。

 
これで分かると思うのは信仰ではありません。極めて幼稚な話です。信じるということを、思い込みを信じ込むことだと理解していると、楽山のような安易な信仰話になります。
 
気に入らないことは無視する、という楽山のカルトであるアドラー教においては、
学習も成長もしないので、この考え方が、ずっと続いているのでしょう。
 

これは、偶像崇拝とされても仕方ないことだよなあと思う。偶像という物体を拝んでいるわけではないけれども、心に描いた偶像を拝み、神以外のものを神としている点では、偶像崇拝にはちがいないだろうから。

 
このように、ボンヤリ言語で言いながら、
先入観のまま、決めつけをして、信仰をおとしめているのが楽山です。
 

また、神は人知のおよばぬ超越した存在だとすれば、人が心に神のイメージを描いた時点で、それは人知がおよんだものであり、神ではない証明になってしまいそうでもある。

 
描いた時点ではなく、シャロームのように、自分の解釈と信仰観を訂正不能にした時点で、
その信仰対象は、神ではないということになり、カルト宗教だということです。
 
真の信仰者は、神が人知を超えた絶対者であるがゆえに、人のイメージで決めつけることなど出来ないことを知っています。それが神に対する恐れなのです。
 

なんか変な結論のようだけども、こう考えてみると、神を信じるのは、心の中に偶像をこしらえる偶像崇拝にすぎないとか、神を信じるには神を信じてはいけないというのは、まったくのデタラメとは言い切れないとは思う。

 
楽山の、デタラメな、反キリスト信仰話です。
このように、楽山のボンヤリ言語は、曖昧な表現をつないで、決定的な否定を導くものです。
決して、楽山や、シャロームに、心をゆるさないでください。
 

ちなみに、本来、神は人知のおよばぬ存在ではあるが、人が己の力によってではなく、神の働きかけによって神を知り、交わり、信じることは可能であるという理屈も有り得るかもしれないが、どんなに神について語ったところで、自己の神イメージによって神を語るという偶像崇拝に陥ってしまっている可能性をゼロにできない限りは、何を言っても詮無いことではある。

 
このように、曖昧な書き方の通念的先入観のみのボンヤリ言語から、神信仰は偶像だと、ゼロに出来ない限りは、というように、決めつけてくるのです。悪意と作為が全開です。性根の腐った誘導に引っかからないようにしてください。
 
楽山の道は、信仰の道ではなく、安っぽいペテンの操り人形の道、操られれば、滅びに至ります。
シャロームの道は、信仰の道ではなく、妄想確信の道、既に、滅びつつあります。
 
信仰者は、神を思い浮かべます。
しかし、それは、人の想像であり、それを思い込んで絶対とはしない心構えが必要です。
それを、信仰の節操と呼んでいます。それが分からない二人は、
キリスト者ではなく、キリスト信仰を全く分かっていない者たちなのです。
 
「偶像崇拝に陥ってしまっている可能性をゼロにしない限りは」
と言っている魂胆は、アドラー教なら、アドラー心理学という学問だから安心だよ
という方向に持ってゆく汚い意図があるのかもしれません。
楽山は、実に、陰険な人です。
 
 
大切なことは、超常のお告げを知ることではない。
 
全知全能の神を知ることは、全知でも全能でもない自分を知ることです。
 
命を惜しまない救い主の愛を知ることは、
その愛に絆されて絶対孤独から解放された自分を知ることです。
 
信仰は、決して、人間から離れて存在することはないのです。
 
 
(2019年07月27日)
 
 
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  仲間で自己満足(2)
 
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/GUEST/41469556.html
  楽山ブログのゲストブック。
 
 
途中から、シャロームが、いい気になって、しゃべりだして、いっぱい、デコレーションケーキに見せかけた段ボールのような大嘘をまき散らしています。嘘から始まり、嘘で終わる、という凶悪さです。楽山は、心がないのです。シャロームは、嘘しかないのです。
 
平気で嘘を吐く人というのは、言ってることが、ことごとく嘘、絵空事、ということがありうるという例です。
 
 
(楽山)
というか、私にとって、stさんはあんまり批判対象にはなりません。
数万、数十万の信者がいるとされるカルト教団ならともかく、信者も、取り巻きもいないstさんを、批判しても仕方ないです。
stさんはいろいろ書いてるけど、読者は賢明なので賢明な判断をするでしょう。
それに私にとって、stさんはもとから議論の対象から外れます。私はこの記事にある基準から外れる相手とは、議論する気にはなれないので。
・議論の作法 (なぜ議論は難しいのだろう?)
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41325846.html
2019/2/26(火) 午前 6:17 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
教団の規模で貶めている。こちらは、そんなこと関係ありません。赦しがたい背教のシャロームをかばえば、批判対象になる。自覚のない破壊という害が起こると予想されるからだ。二人のような者が、また登場しないように、できるだけの努力が必要である。
 
(楽山)
ちなみに、上と同じことを、shalomさんで試すとこうなります。
 「カルトや毒親の過干渉はスルーしてよい」
 「shalomさんの過干渉はスルーしてよい」
 「HSは、自分の正義を押し付けてくる善魔だ」
 「shalomさんは、自分の正義を押し付けてくる善魔だ」
なんか、いまいち重ならないですね。
この点については、HSとshalomさんは別ものですね。
2019/2/26(火) 午前 6:19 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
シャロームは、押し付けてはいない。丁寧語と聖書語で騙している。それは、もっと、偽善の悪性度が高い。楽山は、おかしなことばかり言っています。
 
(楽山)
>シャロームshalomと楽山を、上から命令を下す硬派カルトに対して、刷り込みや印象操作を手段とする軟派カルトと呼んだのは正解だったようです。<
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20101472.html
印象操作といえば、stさんがいつもやっていることかと思います。
相手の意見を、変に捻じ曲げて、さも変なことを言っているかのように吹聴するというやり方。
2019/2/26(火) 午前 6:20 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
まだ分からないのか。楽山は、ずっと、変なことを言っている。キリスト者が、罪を認めず悔い改めないなど、ありえないということ。そのまま、背教としか言えない。
私は訂正不能ではないし、印象操作などしない直球。シャロームも楽山も、納得のいく説明など、一度もせずに、同じような作為の意図で言い続けているから、同じように批判対象であり続ける。
 
(楽山)
>二人は、無視することによって邪魔なものを排して楽をしているために、洞察力や、文献の理路を検討する努力や、多面的に検討する思慮と、さらに、真実への深い共感性も欠けていることが、言説に表れています。<
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20101472.html
私としてはstさんとの対話は難しいと判断しています。誤読、曲解、思い込みが激しくて、事実に基づいた対話は無理と…。
口出しするな(黙れ)と言ったり、無視するな(しゃべろ)と言ったり、発言がコロコロ変わるところも、対話不可能と判断する理由でもあります。
さらには、こういうことは他の人も気づいていることだろうと想像してます。
なので、私からいちいちstさんを批判することもなかろうし、スルーするということになります。
思うに、stさんは自分から狭い方に進んでます。孤立する方に進んでます。ほぼ無抵抗のshalomさんの内面を悪く想像して、悪く言うのは止めて、仲直りした方がいいです。こういうことは恐らくは他の人も勧めてきたのだろうけど、私もお勧めします。
2019/2/26(火) 午前 6:40 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
受け取らない者は、結局対話しないことを言い出すという典型。話し合いは、こちらも諦めている。誰も、二人に近づかないように、二人に対してではなく、心ある読者に、記事で訴えていきます。
 
(楽山)
ところで今、HS界隈は大騒ぎの最中です。私もHS批判する機会は増えるかと思いますが、stさんにはそれを自分に対する当てつけだと勘違いして怒らないでほしいと思います。再度お願いしておきます。
 
(私)
楽山もシャロームも、何も書かないのが相応しいと思います。自己中心の楽山に宗教を語る資格はないと判断しています。シャロームは、既に、百害あって一利なしです。
 
(シャローム)
長いメールありがとうございました。
悔い改めの後先については書いておられることでいいと思います。最初にアダムとエバが罪を犯したとき、私たちが今もよくしているように、二人はすぐ枯れてしまう木の葉で身を隠しますが、神は毛皮の衣(罪のあがないと赦しのために流される血)によって覆ってくださり、さらにカインが荒野へ放浪の旅立ちをするとき、だれでも私を見つける者がわたしを殺すと恐れ、私の罰は重くて負いきれませんと呻き苦しんでいる時、神はカインの額にある印をつけてカインを守ることを約束しておられます。その印もまた毛皮と同じく、イエスさまの十字架を指示していますし、新約聖書においては神によって与えられた義の衣と記されています。
2019/2/26(火) 午前 10:09 [ shalom ]
 
(私)
義の皮をまとったつもりの化けの皮がシャロームです。自分の罪と偽善を認めず、アダムとエバのせいにしたのは誰でしょう。アダムとエバを、はるかに浅ましい偽善者シャロームは、悪者にしたのです。
アダムとエバは、今の私たちの姿です。
 
(シャローム)
古今東西すべての人が神の赦しと愛のなかに生かされているのです。しかし、そのことは信仰によって受け容れることによってはじめて、人の現実となるのです。受け容れないとしても神の赦しと愛のなかに生かされていることに変わりはありませんが。
 「今、HS界隈は大騒ぎの最中です」
そうのようですね。
「・大川隆法長男が語る「『幸福の科学』決別の理由は清水富美加との“結婚強制”」」という記事が
私は読んでいませんが、有料記事が掲載されていましたね。
「私としてはstさんとの対話は難しいと判断しています。誤読、曲解、思い込みが激しくて、事実に基づいた対話は無理と…。
口出しするな(黙れ)と言ったり、無視するな(しゃべろ)と言ったり、発言がコロコロ変わるところも、対話不可能と判断する理由でもあります。
2019/2/26(火) 午前 10:09 [ shalom ]
 
(私)
キリストを信じてもいない部外者が、シャロームをかばうことのほうが無法である。楽山の話は、ボンヤリ言語の曖昧さで、要領を得ず、人をイラつかせ疲労させるからです。
そしてシャロームは、前に批判して返したことを、また言って理路を乱すばかり。理路とか順序とか節操とか、良心とか、全く理解できない人です。
 
(私)
口出しするな、というのは、部外者だから、それでも、このように、口出しをしてくる楽山に対しては、口出しするなら批判を無視するな、と言ったことを、都合よく文脈を作って、矛盾のように見せかける詭弁。楽山もシャロームも、こういう悪意に基づくことを、平気でやってくる人です。忘れないで。
(私)
疑問を少し突っ込んで問いただしてみると、正当な議論も交流も出来ない彼らの、実に気色悪い本性が表れます。訂正不能、自己中心、人間離れ。覚えておいてください。
 
(シャローム)
「さらには、こういうことは他の人も気づいていることだろうと想像してます。
なので、私からいちいちstさんを批判することもなかろうし、スルーするということになります。
思うに、stさんは自分から狭い方に進んでます。孤立する方に進んでます。ほぼ無抵抗のshalomさんの内面を悪く想像して、悪く言うのは止めて、仲直りした方がいいです。こういうことは恐らくは他の人も勧めてきたのだろうけど、私もお勧めします。」
きのうメールした後にstさんの記事を読み、stさんの私と自由さんに対する批判コメント読みました。
stさんとの対話が無理なように、きっと仲直りも難しいと思います。仲直りを望まれて断る理由はありませんが、stさんの病的体質が変わることは難しいでしょうから、関わることはないと思います。
shalom!
2019/2/26(火) 午前 10:10 [ shalom ]
 
(私)
"病的体質"をこちらに向けてきました。言われそうなことを言ってくる、というのは、シャロームが、よく使う手です。唐突に、自他未文化ですね、などと言ってきたこともあります。根拠を示したことは一度もありません。芯から腐っています。恐らく、治らないのだろうと思っています。
 
(楽山)
ゆるしにもいろいろありそう。
・悔い改めによってゆるされる。
・神は全能であり、罪びとを消滅させることもできる。でも慈悲によって、その存在をゆるし、悔い改めを待っておられる。
2019/2/26(火) 午後 9:15 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
存在をゆるし、などと言葉をいじっても無駄なのです。きたないですねぇ。赦しているなら、悔い改めを待つ必要もないのです。悔い改めを待っていると楽山が書いたとき、既に、赦されるためには、悔い改めが必須ということなのです。
 
(シャローム)
「関わることはないと…そうですか。それも仕方ないですね。余計なこと言ってしまったようで失礼しました。」
 少しも余計なことではありません。
とても大事なことです。でも私たちは神に赦され、愛されていることを頭で知っても、心に届かない現実があります。そのために人を赦し愛することができないことも事実なのです。その力が自分自身のうちにないのです。それでは神様からどんなに赦され愛されていると信じても無意味な虚しいことでしかないではありませんかと思うのも当然です。ですから信仰をもつと互いに赦し合い、愛し合おうと努力をするのです。
2019/2/26(火) 午後 11:29 [ shalom ]
 
(私)
頭でも心でも、シャロームは、神の愛を知りません。知っていたら、罪を認め悔い改めるはずだからです。今になっても、しらばくれるのが、シャロームの底知れぬ暗闇なのです。シャロームのきれいごとは、いつ見ても、闇の焦げる臭気に満ちている。
(私)
シャロームは、賛同する者に世辞を言うだけです。
許し合い、愛し合うならば、どうして、コメント未承認、コメント削除、コメント欄閉鎖、侮辱、などということが出来るでしょう。シャロームの大嘘です。シャロームは、罪悪感がなく、羞恥心もなく、反省もしないので、誰も近づかないように、何度でも言い続けなければなりません。
 
(シャローム)
しかし、疲れてしまうのです。そして疲れると、自分は神に赦され愛されていると信じていると言いながら、人を赦し愛し、ありのままで受け容れ仲直りをすることもできない、私の信仰は偽りだ。あの人の信仰は偽りだと自分を裁き、互いに裁きあうようになってしまい、その結果、信仰を失ってしまことが多いのです。
 
(私)
こちらに当てつけています。裁いてはいません。裁くのは神の仕事です。そのときになっても遅いのです。だから、もはやシャロームは無理でも、巻き添えを減らすように、批判を書いています。このことを、何度、書いてもシャロームは、理解できないようです。同じようなことを言って、おとしめようとすることしかできないシャローム。
 
(シャローム)
何が問題かというと、神との和解、仲直りは信じて、神さまはこんな私をありのままで赦し愛しておられると信じながらも、自分自身との和解、仲直りができないと、神さまの赦しと愛が他の人へと流れることができないのです。なぜ神さまの赦しと愛を信じているのに、他の人を赦し愛することができないかの理由は自分を赦し愛し、自分をありのままで受け容れることができないからのようです。
 
(私)
シャロームの偽善が全開です。自分は受け入れていると結局言いたいのです。何をか、と言うと、実際は、シャロームの、ありのままは、不正直と罪を偽善を積み重ねても、神は自分を愛するから悔い改めなくていい、という自分の妄想の中の神?をです。
(私)
そのシャロームのありのままを、受け入れているのは、自分信仰者シャロームだけ、ということにしかなりません。そしてカルト宣伝の楽山もファンなのでしょう。二人とも、自分だけを愛しているナルシシストです。丁寧語に騙されないようにしてください。シャロームの言うようなキリスト信仰は、どこにもないのです。
 
(シャローム)
自分で自分を赦し愛し、受け容れるなんておかしいと思われるかもしれませんが、自他未分化状態ではこの気づきがとても難しいのです。それが例えば、投影というような様々な自己防衛機制となって表れるのです。このことに気づくのはそう簡単なことではないようです。
2019/2/26(火) 午後 11:30 [ shalom ]
 
(私)
分かりもせずに、あちこちで滑っていながら、まだ、難しい言葉を使って、別のところで最近も書いていた、自他未分化と投影という言葉を、わかりもせずに使って、ごまかしを自慢しているのがシャロームです。この浅ましいインテリ気取りのようにならないために、楽山のようにならないために、決して挨拶などしないでください。
 
(シャローム)
ですから人と人との和解、仲直りは人が作り出すことではなく、神の御業なのです。神のみわざが私たち間で和解、仲直りを生み出すのは、初めに神との和解に始まり、その次に神を信じた人とその人自身との関係が和解し、仲直りする必要があるのです。
そうして初めて神の赦しと愛が信じる人をとおして他の人に流れていくのです。とても回りくどい言葉を羅列していますが、
 
(私)
自分が悔い改めないのを、神の御業だからと言い逃れしています。前にもあったことで、もう使い物にならない詭弁ですが、弁明できないものだから、繰り返す駄地獄のあがきなのです。シャロームは、神を無視して、罪を認めず悔い改めないのです。決定的に、神と和解せず、神に逆らっています。
 
(シャローム)
このことが分からないために、多くのクリスチャンの人が信仰生活に疲れて信仰を失ったり、教会に混乱、分裂が起こったり、異端に走ったり、挫折し、教会から離れてしまわれるのです。
私もその一人で、そのことが分からず随分回り道をし、自分だけではなく、多くの人を傷つけました。そのことを気付いた今でも他人事ではないのです。なぜ自分のことで悩んだり、他の人との関係で悩んだりするのか、その原因は他の人にあるのではなく、自分自身と和解できないことに原因があることが多いようです。それを私たちは自分に向けたり、他の人に向けてしまうことで苦しんでいるのです。
2019/2/26(火) 午後 11:31 [ shalom ]
 
(私)
自分自身と和解だそうです。シャロームが、こう言うとき、自己中心を刷り込んでいます。つまり、よく言われるところの、自己肯定が大事、ということに引っ掛ける、悪意の詭弁です。
(私)
シャロームは、キリスト信仰が、まるで分かっていないのに、妄想で分かったことにしているために、他人の言うことを、いっさい、気にせず、無視するようになったのでしょう。それで、もはや、考えることも、感じることもないのでしょう。シャロームに従うと、このような、廃虚の瓦礫のような空虚な鈍麻状態になるのです。くりごとの人になり、くちだけの人になるのです。こうなったら、おしまいです。神に裁きを任せるしかありません。
(私)
ただ他の人々が巻き添えにならないように、私は、書いています。だから、シャロームを変えようとか、今になって、全く思っていません。
 
(シャローム)
私たちの心のからくりを解きほぐし、自由にしてくださるのは神の赦しと愛による他できないことだと痛感させられます。
 私が
「stさんとの対話が無理なように、きっと仲直りも難しいと思います。仲直りを望まれて断る理由はありませんが、stさんの病的体質が変わることは難しいでしょうから、関わることはないと思います。」と書いたのはstさんと自由さんに謝罪し、撤回し、削除すべきだと思います。
stさんの病的体質が変わることは難しいと書きましたが、それはstさんだけではなく、私自身のうちにもあることです。それは私と他の人との和解、仲直りを妨げている障害は私という自分と自分自身との和解、仲直りができていないことにあり、自分との和解を妨げている病的体質の気づきの難しさだということです。
このことを抜きにして私たちがどんなに仲直りをしようとしてもそれは出来ないと思うのです。
 私の思いをつたない言葉と文字で書きあらわすのは難しいのですが、少しでも伝えることができればうれしいです。
2019/2/27(水) 午前 7:51 [ shalom ]
 
(私)
楽山は、きれいごとを並べていますが、本心ではなく、それに、根拠もなく、私を病的体質の中に入れています。つまり、悪意が明確に表れており、ゆえに決めつけなのです。何故なら、約8年の批判の経過の中で、シャロームの、和解する心など、一度も見たことがないからです。読者を騙すために、付け焼刃で並べたことは、シャローム自身の今までの経過が否定します。
(私)
もし、和解を、今から始めるのだと言うなら、これからの言に表れるはずですが、このコメントが2月、今が7月、その間に他のところで批判を罵るだけで、一度も表れていません。こういう程度の低い言葉の細工を、シャロームも楽山もしてきますが、中身も深みもないために、話にならないほど幼稚な嘘になってゆきます。
(私)
これだから、言葉だけ、自戒したようなことを書いても、罪と悔い改めに反する発言を修正しないのですから、それだけで信頼はなくなるのです。だから、何を書いても、だまされる人はいても、伝わる人はいないのです。
シャロームの言うようなキリスト信仰は、無いからです。きれいごとを、わざとらしく並べても、真実味は皆無であり、シャロームの独り芝居なのです。
 
(シャローム)
おはようございます。
「日本教の社会学」の一章をまだ読み終わってはいませんが、
日本教の問題点について触れられ、嫌な言葉ですが、「日本人にはわからない」と繰り返されていることを不快に感じながらお気づきだと思います。私が書いていることが日本教、日本教キリスト派の核心だと思いますがどうでしょうか。私もまた日本教キリスト派のひとりにほかなりません。そこから解放し、自由を与え、名実ともにイエスキリストにある神の子としてくださり、その完成に向かって助け、導いておられる方がイエス様であることを信じていますが、私たちのこの世における人生はその旅路の道程だと思います。
2019/2/27(水) 午前 8:44 [ shalom ]
 
(私)
日本教キリスト派と言っています。そんな教派はないと思います。シャロームの信仰?は、自分信仰ですから、好きなように造語を捏造し、自己において完結?して訂正不能です。だから、誰にも伝えてはいけない自己中心絶対教なのです。
 
(シャローム)
5:13 兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。
5:14 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。
5:15 気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
 (新約・ガラテヤ人への手紙5章13~17節)
2019/2/27(水) 午前 8:44 [ shalom ]
5:23 どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。
5:24 あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。
 (新約・第一テサロニケ人への手紙5章23,24節)
2019/2/27(水) 午前 8:45 [ shalom ]
 
(私)
シャロームには、保身と自己顕示欲という肉しかありません。それ以外を見たことがありません。まさに、欲望のために、神もキリストも聖霊も利用する悪意しかないペテン師です。
(私)
この聖句に書かれているのは、信仰者への戒めです。背教者に対しては、キリストは、はっきり批判していますし、いってしまえ、とまで言っています。私たち信仰者も、できる範囲のことはしないと、怠慢の言い訳に神を利用することになります。つまり、批判禁忌が、大変な間違いであることが分かります。
 
(楽山)
こんばんは。
難しい文章ですけど、ありのままの自分を受け入れることが、他と良好な関係を築くことにつながるというのは分かる気はします。
思い返してみれば、自分の場合も、ありのままの自分を受け入れるに従って、喧々諤々の議論をすることもなくなってきたと思うので。
2019/2/27(水) 午後 7:52 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
議論をすることがなくなったのは、不都合を総て無視するようになったからでしょう。そりゃ、なくなるでしょう。その態度では、もはや、議論も、真実の追求も、成り立たなくなりますから。いつも、社交の薄笑いを浮かべて、気味悪く・・ああでもないこうでもない・・かなぁ・・とか言ってるつもりなのでしょうか。鈍く根深く腐れてゆくのに。
 
(シャローム)
楽山(自由)さん こんばんは
「2019/2/26(火) 午前 10:10」の最後の私のstさんとの関わりについてのコメントは間違いであることを謝罪と撤回をしたうえで、そのあと私の考えを書きましたので削除せずにそのまま残してもいいのかなと思っています。
 私はだれとの関わりについても言えますが、連れ合いや家族関係も含めて自他未分化を前提としたような関わりに対しては程良い間を取り、互いに自立したありのままのひとりの人として尊重し合い、基本的には不即不離でありたいと考えています。
shalom!
2019/2/27(水) 午後 9:48 [ shalom ]
 
(私)
シャロームは、決して自立ではなく自他も分化しておらず、こともあろうに、神と一体化しているような書きぶりで、つまり、自分と欲望の一体化を神と思い込んでいる様子です。尊重しているのは、自我と我欲であり、書いたものから表れている本質は、離人と妄想の世界なのです。
(私)
キリストに反しているということを、シャロームは、今まで述べたように、罪と悔い改めについて言われても、まだ、わからないのです。どこまでも、わからない人のようです。それで、不正だと分からないものだから、シャロームは、言い訳の壊れた言葉を、これからも、ジョボジョボと大量に垂れ流してゆくのでしょう。
 
(楽山)
自他未分化では、ずいぶん前に聞いたジョークを思い出してしまった。
 A「自分がされて嫌なことは他人にもしてはいけない。自分がされて嬉しいことは他人にもしてあげなさい」
 B「そんなこと言ったって、相手も自分と同じ趣味とは限らないじゃん」
2019/2/28(木) 午前 6:55 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
また、宗教・信仰という真実を追求する普遍的なテーマを、趣味で片づけています。どこかに、前にも書いて私が批判したことがあるのですが、カルト思想に固着した楽山とシャロームは、趣味で信じ込んでいるので、人の話など聞いていないか、気にいらないからと無視して、忘れるのでしょうか、また、初めて言うかのように繰り返します。
(私)
実に軽々しい宗教趣味の同好会のお仲間だと思います。その軽さで生きて、軽さで終わってゆく命なのでしょうか。巻き込まれないようにしてください。
 
(私)
これまで、思い切り、汚い嘘を吐いて、妄想を吐き出して、ありのままを見られる神の前に、どんなに顔と言葉を繕っても無駄である神の前に、己の顔を向けられることが、驚き呆れることである。
 
 
(2019年07月26日、同日一部修正)
 
 
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